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碧海 ユリカのコラム掲載。
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第50回「間違いのもと W」

(承前)あなたの意識に刻印され、あるいは染み付いたネガティブな信念―基本的には「罪悪感を伴う自己否定」ですがーを解体・消去するためには、その原因やきっかけ云々よりも自分で日常的に行なう「過去の手放し」がもっとも効果的である、と前回述べました。今回はそのやり方についてなるべく具体的に説明するつもりですが、あまり難しい理論を述べても実際に使えないと意味がないのでできるだけシンプルにまとめます。その分不完全なところも出てしまうかもしれませんがご了承下さい。

まず、「手放す、赦す」ということをするタイミングですがこれは簡単です。第一にどんなことであれネガティブな感情・不快な感情が生じた時。第二に、自分に対してであれ他人に対してであれ「批判的な判断」をしてしまった時。大体の場合、第一の状態が第二の状態を引き起こします。

これらは以前「鏡現象」のところに書いたこととほぼ重複しますのでいちいち繰り返しませんが、例えば貴方が他者に対して怒り・恨み・嫉妬・恐怖・などなどの感情を覚えてしまった場合、それらは他者の言動によってつまり他者のせいで引き起こされたように見えても実はそうではないのだということを肝に銘じるのです。いくら相手が本当に悪意を持ってしたことだと思っても、多くの人がそれに賛同してくれたとしても貴方のネガティブな感情を基本的には正当化できないのだということです。これは難しくかつ厳しく感じるかもしれませんが、貴方が人生をなるべく幸せに平和に過ごしたいのであれば上記の考え方を受け容れる以外の方法はありません。

何故なら、しつこいようですがそれらのネガティブな感情を「正当かつ真実だ」として心に受け容れてしまったのは他ならぬ貴方自身であり、それらによってダメージを受けるのも他ならぬ貴方自身だからです。これらの感情を受け容れてしまうと、それに引き続いて「あの人は意地悪で馬鹿だ」とか「私は本当にダメかもしれない、自信がない、やる気も出ない」などという批判的判断や自己嫌悪・喪失感・疎外感・抑うつなどが生じてくるのです。普通に考えればそうなる前に何とかするのが賢明でしょう。

「もっと自分に自信を持ちなさい、私は素晴らしいのだと思いなさい」などというやり方もよく見かけますが、これはどうしても無理があるのです。いきなりこれをやれと言われて心底その気になれる人は殆どいないと思います。

それよりも簡単なのは「他人を責める気持をなくすこと」です。いやな思いをさせられたと感じたとき、まずやっていただきたいのは「鏡現象」のところで述べたあれこれのことです。誰がどうみても一方的に相手がおかしいという場合もありますが、実はそういうことは非常に非常に少ないのです。殆どは、貴方が気づいていないだけでそういう出来事を招いた或いはネガティブな感情が生じたことには自分にも何らかの責任があるのです。あることをしてしまった自己嫌悪や罪悪感を他人に投影して「あいつが悪い、あの人のせいだ」と感じたりするのです。

こういうときはその都度、「私は私の問題によってこういうふうに感じているだけだ。相手には相手の都合があってそうふるまったのだから私に生じた感情に対する責任はない、なかったのだ」と認識してください。それによってネガティブな感情を手放すことができます。すぐには手放せなくても今までに比べればそれらの感情に囚われている時間を短縮できます。そんな認識をすることはできない、などということはないのです。できない、という人は要するに「やりたくない」だけなのです。つまり、そんなことは認めたくないわけです。そんなことを認めてしまったら自分が負けたような気がする、自分が惨めになるような気がするのでしょうがそれこそがエゴなのです。そこだけは頑張って前に踏み出してください。

貴方がここで守ろうとしているその自分=エゴのせいで貴方はこれまで散々苦しんできたのですよ。そんなものをどうしてそれほどまでして守ろうとしなくてはならないのでしょうか。

以前にも述べたとおり「自分の(実は『エゴ』の)正しさ」にこだわるのと平和で幸せな日々を送るのとどちらを選ぶか、という問題です。

また、相手を責めているつもりはなくても、例えば「私がこんなにダメな人間だからあんなことをされただけだわ」と思っている場合でも「された」とか「ひどい目にあった」という認識がある以上相手のした行為自体は批判しているわけです。

例えば一方的にひどい振られ方をしたとか解雇されたとか裏切られた、などなどの場合に相手を責めず自分を責め落ち込む人々がいるわけですが、それらのケースがこれに当たります。こういう場合でさえ、やはり同じことです。あなたはあなたの問題によってそういうふうに感じているだけであり、別にそんなふうに受け止め感じる必要などないと認識することが重要なのです。

それに、そういう「自分を責め落ち込む」タイプの人々というのも別の場面では、これはもう絶対といっていいほど「他人にひどいことをされた、ひどい人だ」と感じる経験をしているはずなのです。これらのチャンスを使って上記のように認識の仕方を変える訓練をしていれば段々「自分を責め落ち込む」ことも少なくなるはずです。

何故か。これも繰り返し述べてきたことですが、潜在意識に自他の区別はないことによります。他人を赦していればそれはイコール自分を赦すことにつながるのです。

また、ネガティブな感情の中でも手放しにくいものに「将来に対する恐怖」というのがあります。これも「そのような怖ろしい目に自分があうのではないか」と思ってしまうこと自体が「罪悪感=罰を受ける」という信念から来ているものなのですから何よりも「赦し」が必要になります。これも他人を赦すことにより自分を赦していけば解消されるという道理になります。

ただ、赦すといっても「相手は悪いことをしたが堪忍してやる」というのでは全く効果がありません。「ひどい目にあった」という認識は変わっていないからです。ここは重要なポイントなのでよくよく押さえておいてください。

さて、そんなふうに他人を赦していたら他人に対して何も言えなくなってしまうのではないか?と思う人もいるかもしれませんね。いやな目にあってもその都度赦す、ということは結局自分の感情や考えを何も言えなくなることではないか、と思うかもしれません。本当に犯罪のようなことをされても泣き寝入りしなくてはいけないのか、と。

それがそういうことではないのです。むしろ「余計なことを言わなくて済むようになる」だけです。もしもこのような「赦し」をしたことで「何も言うことがなくなってしまった」と感じるならば貴方はこれまでどうでもいいことしか言ってこなかったのです。あるいは、こういう認識ができるようになった姿勢で口にするならば、同じ言葉でも全く違う状況がもたらされるかもしれません。

また、感情を表現できなくなるのではという心配は皆無です。「赦し」につながる認識ができていない人は何をいうのでも全て「感情的」になってしまいます。一見冷静な態度で話をしているように見えてもその姿勢が「感情的」なのです。

言うまでもないことですが、感情的であることと「感情を豊かに表す」こととは全く違うことです。むしろ認識と姿勢の変化によって、感情表現がより容易になることなら十分にあり得ます。

これも前に書きましたが、犯罪に巻き込まれてしまった場合でもこの認識に基づく姿勢で処理していけば、苦しみをひきずらずに済むのです。

次回は引き続き少々違ったヴァージョンについてお話します。(この項続く)

 
第49回「間違いのもと V」

(承前)前回の最後で触れたように、「悪いこと」にもいろいろあるが相手に罪悪感を抱かせることは、それから先の将来にわたって相手に及ぼす悪影響を考えるともっとも悪いことであると言えるかもしれません。

これは、「こうすれば絶対にこうなる」というものではありません。たとえ本人が悪意なく、全く何気なく発してそのまま忘れてしまっているような言葉が相手にとっては「私は悪い人間なのだ、価値がないのだ」と感じさせるものとなり、それを相手が「受け容れて」しまえばそのまま意識に刻印されてしまいます。それくらいの影響力を持っているのです。

一方で、誰かが明らかに悪意を持って或いは「罪悪感を抱かせてやろう」という目的を持って行なった言動であっても、受け手が全くそれを気にしなかったり「真実だ」と受け容れなかったりすれば何の影響力も持つことはありません。

前者の場合、よくあるのは幼少の頃に親が何かで腹を立てて「貴方って本当にダメな子ね」と言ったことがまさに意識を直撃してしまい、そのまま「そうなのだ」と無意識に受け容れて刻印された、などという例です。

よく考えれば、その内容は本当にどうしようもないような些細なことだったり或いはたまたまそのとき親が何か別のことでイライラしていてついそういう言葉を発してしまっただけだったり、などということが殆どなのですが、幼い子にはそういう事情がわからない上に「親は絶対だ」と思っている年頃だったりすると見事に嵌まってしまいます。

自分の肉親だけでなく、よく知らない人も含めて周囲の大人が何気なくやったことが子供である当人に意外なほど大きな影響を及ぼしていることがよくあるのです。

そしてたいていの場合、両者ともその経験を忘れてしまっています。

前回も述べたようにこういう「意識の刻印」を消去するためには必ずしも特定の「原因」となる出来事を突き止める必要はないのですが、もしも貴方が何らかの方法でそれら「原因」というより「きっかけ」となった出来事の一つを突き止めたとしましょう。そのとき、「よくもやってくれたわね」とばかりに相手の人間を恨んだり責めたりしたら「意識の刻印の消去」どころかますますネガティブな思い込みが強化されるだけです。相手を直接責めることはしなかったとしても、その気持自体が本質的には「相手に罪悪感を生じさせる」こととイコールになっているので、そのような「悪いこと」をした貴方は結果としてますます無意識に罪悪感を増大させていくことになるのです。

きっかけとなる出来事を知ることがネガティブな意識の刻印を消去するのに役立つとすれば、次のようになる場合だけです。

「なあんだ、そんな下らないことだったのか。だったら別に私はダメな人間でも罪深い存在でもなかったってことじゃない」と認識して解放される場合。

「相手にも相手なりの仕方ない事情があったのだ。感情的になってしまったのだろうけどそんなこと誰にだってあることだ。別に私がダメだからそんなことをしたわけじゃなかったのだ」とこれも認識を改めるとともに相手を赦してしまえる場合。

大雑把に言うとこの二つだけです。つまり、自分がダメな人間でありそれが罪であるというのが単なる思い込みであった、つまり「間違い」であったと認識できることが最も重要なポイントなのです。

先ほど「ネガティブな意識の刻印を消去するのに役立つ」と書きましたが、「消去できる」ではなくあくまでも「役立つ」という表現を使ったのには理由があります。

あなたの「自己否定」が単なる思い込み・勘違いだったという気づき・認識が非常に大きなターニングポイントになるのは確かです。しかし根深く刻印された「信念」は、たった一度の気づきだけでは、いくらそれが偉大なものだったとしても完全には抹消されないことのほうが多いのです。ここで得た気づき・新たな認識をもとにして日々を新しく生き直さなくてはなりません。

すなわち、せっかくこのような貴重な気付きを得た人でも今までの長い期間に身についた「癖」というのが全て「一瞬にして消える」というのはなかなか起こらないものなのです。ついつい相変わらず他人に対して批判的になったり責めたり・・・ということをしてしまうかもしれません。自分にダメージを与えるような感情的判断をしてしまうかもしれません。

さて、ここからが「いかにして意識の刻印を消去するか、染み付いたネガティブな信念を変えるか」という方法になります。これは、「きっかけになった出来事」がわかっても全然わからなくてもそれに拘らず効果のある方法です。

簡単に言うと、それが3分前のことであれ20年前のことであれ「過去を手放す」のです。

この「手放す」というのは「赦す」ことでもありますが、つまりは「執着しない、こだわらない」という意味です。

この方法の素晴らしいところは、これによって現在の自分を癒せば過去の全ての自分つまり過去世も同時に癒せてしまうことです。今は詳しく述べませんが、過去世というのはいわゆる左から右に伸びる数直線上にあるものではなく「現在」のこの瞬間から垂直に伸びるように、言い換えれば一種「同時に」存在しているものだからです。

まあ、それはいつか詳しくお話しするとして、例えば貴方が3分前の過去を手放し赦すことを続けていればいつのまにか20年前の出来事も手放してしまえることになり、その結果20年前の自分を癒すことになる、というわけです。

子供の頃の自分に戻ってその子を癒すことにより現在の自分も癒す、などというワークもありますが、そんなことをしなくても構わないのです。むしろ常に「3分前」を手放し赦すことで子供の頃の自分を癒すほうがずっと楽だし確実でしょう。しかも、この方法なら日常的に行なえる即ち習慣化しやすいというメリットもあります。これにより、長期にわたって染み付いたネガティブな信念を徐々に解体できるのです。

次回のコラムでより詳細に説明いたします(この項続く)。

 
第48回「間違いのもと U」

(承前)前回述べたように、ほぼ全てのネガティブな「意識の刻印」はほぼ誰にも生じる「自己否定」から起因しています。

この自己否定という作用自体はある程度当たり前の現象であり、それ自体別によいものでも悪いものでもないのです。というのも、人間は成長するに従って自己あるいは自我を形成していくのですが、その過程でそれまでの自分を一回否定して新たなものを創っていくということはどうしても不可避だからです。今までの自分が間違った考え方や見方をしていたならば、それを一回否定しなければ正しい方向には行かれません。この場合の「自己否定」は本人にとってプラスに作用していますね。

これに対して、本人にダメージを与える作用の「自己否定」というのは、別に間違ってもいない自分を「ダメな私」だと思い込んでしまうものです。誰かが貴方を否定するような言動をしたことで、あるいはたった一度の大したことのない過ちをあたかも「大罪」のように思い込むことによって、また或いは貴方をめぐって起こる争いやトラブルを見てそれらが「自分のせいだ、自分が悪いからだ」と思い込むことによって・・・などなどです。

そして、頭で自分をダメだと思いたくない、それを認めたくないという場合でも根本的な部分で「私に罪はないのだ」と理解することをせず、「そんなことはみなかったことにしよう」と「ダメな私」というものを否認してしまうのです。すると、それは無意識の部分に入ってしまうので通常は自覚されなくなります。そして自分を「ダメな人だ」と攻撃する代わりに、常に自分が攻撃されていると思い込むようになり逆襲として他者を攻撃するようになってしまいます。このあたりの事情については以前書いたとおりです。

さて、ここでもう一つ非常に重要なことが出てきます。これら「自己否定」とセットになって生じる感情にはいろいろありますがその中で最も私が注目しているのが「罪悪感」です。これがたいていの人の意識に刻印されてしまっているのです。

罪悪感、というと何かとんでもない悪いことをしなくては生じないもののように感じるかもしれません。それこそ前世で人を殺したとか・・・しかし必ずしもそういうことではないのです。「ダメな私」というのは何というか「ダメ」「価値がない」「魅力がない」ということで一つの罪と同じくらいの重みをもつ信念なのです。そして、誰かに嫌われてしまったのではないかしら、とか病気になったらどうしよう、などというようなことも全てこの「罪悪感」と密接なかかわりがあるのです。

何故なら!!罪悪感を持っている、ということは当然「罰を受ける」ことを意味します。すると更に当然のごとくそこに「恐怖」が生じます。「不安」も生じます。

この「罰を受ける」「罰に値する」というのも大げさなものに聞こえるかもしれませんが、上記のように「好きな人に好かれない」とかつまりどんなことであれ「自分にとって大切なものが自分には得られない」あるいは「奪われる」というような全てのことを表すのです。これはどう考えても恐怖です。常に安心していられなくなってしまいます。そして、これらの事情を考えれば恐怖や不安の強い人は罪悪感も強いのだということがわかります。更に以前のコラムの内容と考え合わせれば攻撃性の強い人も実は他者による攻撃の恐怖にさらされているのですから、これも罪悪感が強い人なのだということになります

このときに人はどうするか?当然「何とかしよう」とするわけですが、ここにまた例の「エゴ」が登場します。そして「貴方は悪くない、あの人のせいなんだから攻撃しなさい」とか「あの人から愛されれば貴方は救われるよ、あの人の愛を失ったら貴方はお終いだよ」とか「お金持ちにならないと・・」とか、全く本質的でない解決策(とは実はいえない代物)を提案して貴方を動かします。こんなことをして何かを得たところで、それらは実は全く的外れなものばかりであり何ら根本解決にはつながらないので、貴方の恐怖も不安も消えません。そして次々と求め続け虚しい努力を続けることになるのです。

このような「エゴ」の声に対して「うるさい!もうあんたの言うことなんか聞かないわ」と言える人、というかそう言ったって良いのだと気づく人はあまりいないのです。

さて!ここである疑問が出てきます。罪悪感が自分にダメージを与えるなら、本当に悪いことをしてしまったり犯罪をはたらいてしまった人、つまり「罪悪感を抱いても当然」だという人々は一生救われないのでしょうか?それともそんなことをしてしまっても罪悪感を抱く必要はないのか?じゃあ反省もしなくていいのか、のうのうとヘラヘラと生きながらえてしまっていいのか?そんなこと赦されるのか!そう思う人も多いと思います。

よく考えてみましょう。人は、本当に悪いことだとわかっていて悪いことをすることはできないものなのです。それがたとえ世間の基準であるいは法的に「悪いこと」とされているものであっても、それをするからには少なくとも「自分にとってはよいこと」だと考えていなくてはなりません。だから仕方なくやったのだ、と。

ところが実は本当に悪いことだった、とわかった。ここでたいていは「罪の意識に苛まれ・・」となるのですが、それでは全然解決にもならず更正にもならないのです。罪悪感を抱き続けることは本人のためにならないだけではなく、場合によってはそこから逃れようとして更なる「悪いこと」をしてしまったりするからです。こういうとき本当に必要なことは「自分が間違っていた」とハッキリ認めることです。そして間違いなら正せばよい。自分が変わればよいのです。しかし、これは簡単そうで実は非常に勇気が要ることなのです。以前も書きましたが、多くの人は自分の「正しさ」にこだわってしまい、間違いを認めようとしないのです。すると、こうなります。「私は本当に悪いことをしたと思うけれど、仕方がなかったんだ。間違っていたわけじゃない」「私は自分に正直に生きてきたのよ」とか。

何それ?間違った自分に対して正直に生きる、ってことは間違いを臆面もなく押し出して反省もないということですね。

要するに、たとえ悪いことをしたとしてもそれは自分が間違っていたからだ、何故ならそれを「自分にとってはよいことだ」と思ってしまったからだ、と認識することが何より大切なのです。それがいかに勇気を要するかということがわかれば「悪いことをしたくせに罪悪感も持たずに・・・」などとはとてもいえなくなります。他人に対してそういう批判や怒りが絶えない人は「鏡現象」だと思って間違いありません。貴方は自分に対して罪悪感を抱いているのでそれから解放されている人を見るのが悔しいのです。

ところで、「悪いこと」にもいろいろありますが、今回のコラムの内容を顧れば何よりも悪いことは「他人に罪悪感を抱かせようとすること」かもしれませんね。これは普通の人々の日常生活の中で非常によく起きることです。自分が不愉快なことをされたと感じたとき、相手に対して本当の誠意や愛情から反省を促すのではなく「貴方は悪い人間なのだ」という認識を刷り込もうとする・・・・誰だって一度や二度はやった覚えがあるはずです。(この項続く)

 
第47回「間違いのもとT」

前回までのコラムでしつこく述べてきた「ネガティブな意識の刻印」=「姿勢・あり方」がいったいどういうところから生じたのか、についての考察です。

これらは自然発生的に生じるはずがないものなので当然そこには何らかの原因があるわけなのですが、私は敢えて「原因」ではなく「きっかけ」という言葉を用いてみたいのです。何故なら、「原因」というのはどちらかというと一つの固定されたもの、という感じがするからです。むしろそれら「刻印」「姿勢・あり方」「信念」などといったものが「原因」に当たるのであり、それらが貴方の様々な現実の経験を引き起こしているのです。

それらが生じたのはただ一つの経験・できごとに起因しているのでありません。もちろん、今生の幼児体験や過去世のいろいろな経験が「原因」になっている、という言い方もできなくはないのですが、とにかくただ一つの特定な事柄だけを指しているとはとても言い難いのです。

考えてみましょう。たとえば、貴方が小さいときに何か「自分はダメだ」と感じてしまうような経験をして、それが「原因」になったとしましょう。しかし、何故貴方はそのときその出来事によってそのように感じてしまったのでしょうか?別の捉え方もできたはずなのに、何故自分にとってネガティブな捉え方を選んでしまったのでしょうか?

過去世の経験が影響しているからだ。確かにそう言うこともできます。それでは、その過去世の経験はどうして、何が原因で生じたのでしょうか?そこでもまた「別の捉え方」をすることもできたはずなのに、どうして?その前の過去世の経験が影響している・・・・となるともうエンドレスです。宇宙の始まりまでさかのぼらないとならないかもしれません。

つまり、全ての経験は過去の出来事に影響されている、というような時間を直線的にさかのぼって原因を探ろうとする考え方は「意味がない」とは言わないが万能薬のような効能もない、ということになります。

子供のときに暴力をふるわれたのが原因で今の貴方の「信念・姿勢」ができあがったのだとしてもそのような幼児体験をする「原因」がまたその過去に存在しなくてはならないことになってしまうのです。

これらのどれか一つだけでも「これが原因だった!」と本当にわかり、気づくことによって全てが変わってしまうという例もあるのでリーディングによってそのような過去の経験を読み取るのは決して無駄ではありません。しかし、それらがわかったからといって今の自分に何ら変容がもたらされない、という例もたくさんあるのです。自分が現実に経験することの「癖」みたいなものが過去のこれこれの経験に起因していることはなるほど納得できたけど、それじゃあこれからどうすればいいのですか、どうしたらここから脱却できるのですか?どうしたら解放されるのですか?というふうになる方が非常に多いのです。

結論を言ってしまえば、過去の全ての「原因と思える経験」を一つ一つ洗い出していく必要など全くないのです。

逆に言うと、今生であれ過去世であれ、たとえ3日前の、いや1時間前のちょっとした「感情の揺れ」であれ、どれかただ一つの任意の出来事の「意味」がわかってしまえばそれがどの時点のどんな出来事であれ、貴方はその瞬間に変容することになるのです。

「私は知らぬ間にこういう信念をもっていたからこんな経験ばかりするのか」ということがわかったときに「どうしてこんな信念を持ったのだろう」となるとエンドレスになる可能性があり、「なあんだ、こんな信念があったのか。ばかばかしい、こんなのナンセンスだわ」と心底感じられればそんなものは手放すに決まっているのでそこで上がり!と言うこともできます。

貴方がずっと住んでいた家がとんでもない邪悪な気を持っていたり毒性の強い化学物質に汚染されていたりしたせいで常に病気がちだった、とわかればとりあえず「引っ越そう」と思うでしょう?「どうしてこんな家に住む羽目になったのだろう」という「原因」がわかるまではそこを動かない、というのはナンセンスだとは思いませんか?

最近つくづく感じるのですが、人間というものは何故か必ず、程度の差こそあれどんな形であれ「自己否定」ということをしてしまう傾向があるようなのです。上記の「ネガティブな信念・姿勢・あり方」の原因があるとすればそれはまさにここにあり、ここにしかないのではないか?という気がしています。そして過去世を含むいろいろな出来事・経験はその自己否定傾向を現実のものとするスイッチをオンにするきっかけに過ぎないのではないか、とも感じています。またこれは私が現在考察中のことなのでまだ詳しくは言えないのですが、この自己否定傾向は人間が「肉体を持って」存在してしまったことと何らか関係があるような気もしています。

それはさておき。ここに大きく絡むのはいわゆる「エゴ」の存在です。(これも肉体と密接な係わりがあると確信していますが、詳細については考察中)

よい意味で「自分がない」というのは「エゴがない」ということです。その意味で自分がなければやたらに主張すべき自分も、それがうまくいかなくて傷つくべき自分も否定されるべき自分もいないのですから、何ら困ろうはずがありません。

エゴというのは、非常に擬人的な表現になってしまうのですが、貴方に向かって「貴方はダメな人間だよ」と囁き、その一方で「こうすればうまくいくかもしれないよ」と絶対にうまくいかない方法を囁き、はかない希望を抱かせ続ける困ったものです。「あの人は貴方の敵だよ、攻撃しなさい」とけしかけることもあります。更にこれが擬人化されると「悪魔」という存在として表現されます。

しかし、この「エゴ」を実体を持った存在として認識してしまうとそれはますます強大な「敵」となって貴方の前に立ちはだかるでしょう。困りましたね。

この「エゴ」というのは、人がどこかで自己否定傾向を抱いてしまったときに生じる(と言ってしまっていいのか?)影のようなもののようです。

となると、この「エゴ」を何とかしようと悪戦苦闘するよりは原初的な「自己否定傾向」自体を何とかするほうがよほど早くて確実だということになりますね。

そもそも「エゴの否定」なら「本来の自分を生かす」ことになるが、単なる自己否定ならそれは極端に言えば「自分を殺すこと、自己の死」を意味します。

そんなのおかしくないですか?どう考えたって必要ないものなんじゃないの?(この項続く)

 
第46回「ゆるせない?! Part U―5」

(承前)自分がダメな人間、ゆるせない人間だという信念が根底にある人々がどのような現実にあいどのような経験をするか、というまた別の例です。

このような信念を持ってしまったとき、当然「だったら何とかダメじゃない人間、ゆるされる人間になろう」或いはそのヴァリエーションとして「良い人になろう」という次なる信念を抱く人々もいます。そしてそれが何ともおかしな方向に行ってしまうケースが多々あります。

すなわち、常に他人の要求に応えようとし、どんなに理不尽であろうが自分に不利益になろうが自分が望まないことであろうがそれらに従ってしまったり、頼まれてもいないのに面倒なことを引き受けてばかりいたり、いつも自分が一番損な役回りになったり、などということになるのです。

これが「犠牲者としてのあり方」につながります。自分を何らか犠牲にすることによって「ゆるされよう」としているかのごとくです。

しかし、基本的な信念が変わらない限りどんなに犠牲的な経験を積み重ねても貴方は依然として「ゆるされない」ままになってしまいます。どんなに相手の我が儘に屈して尽くしても大して感謝もされず、ひどい場合になると相手の失敗や不機嫌まであなたのせいにされてしまいます。そして、「どうしてこんなにしても報われずゆるされないんだろう?私は余程ダメな人間に違いない」などと自己否定・自己卑下という信念はますます深まり確固たるものになるばかり、という成行きになります。

なぜこんなことになるかというと、一番最初に「私はダメな人間、ゆるせない存在だ」というふうに自分のことを規定したのは他の誰でもない貴方自身だからであり、貴方自身がその規定・在り方を変えない限りどんな他者からも「ゆるされる」「認められる」という形での「解放」はもたらされるはずがないからです。

これが宗教的な信仰と合体してしまうとかなり厄介です。これらのなかには「犠牲的な行為をすればするほど救われる」と説くものもあるからです。

いずれにしろ、これらのケースの落とし穴はまず第一に上記の「勘違い」すなわち自分が勝手に思い込んだことなのに他者によって何とかしてもらえると考えている点です。これは文字通り「不可能」なこと、できない相談です。

くだらない例ですが、Aさんという人に散々な目に遭わされたのをBさんに尽くしたらすごく感謝してもらえて救われた、とその時は思えても今度はCさんからぞんざいな扱いを受ければまた「ゆるされず救われない」自分が戻ってしまうなどというケースを考えてみて下さい。結局本質的なあり方が変わらなければこういう経験はエンドレスに続くということがわかるでしょう。

第二には、「こうすればゆるされる、ダメな人間ではなくなる」と思える行動の基準が常に「その人の勝手な思い込み」から来ているということです。何故なら、そもそも初めの「自己否定・自己卑下」という信念=意識の刻印自体が原因・きっかけはどうあれその人の「勝手な思い込み」なので、それを何とかしようとする手段も当然同じようになってしまいます。

大体、他人に対して良くするということと自分を犠牲にするということとは全くイコールではないのですが、これらの人々はたいてい完全にその二つを混同しています。それ以外でもとにかく自分を痛めつけるようなことをして「自己否定・卑下」を帳消しにしようとする試みそのものが見当違いであり、それどころか逆効果だというほかありません。

潜在意識に自他の区別がないのだとすれば、「他人に良くする」=「自分に良くする」であり、「自分を犠牲にするつまりダメージを与える」=「他人にダメージを与える」ことになってしまいます。これでは自分を犠牲にしたところで実は全く「良いこと」をしていないのだから、「ダメじゃない良い人」になれる道理がありません。

ひどい人になると、認めてくれない相手に復讐するかのごとく?これでもかこれでもか、と自分を痛めつけ犠牲的な行為をするケースもあります。これは実は自分が自分に「復讐」しているのですが・・・

更に、こういうパターンは見ようによっては「徳を積んでいる」というふうに見えなくもないので敢えて改めるべきだと考えないで済んでしまっていることもあります。それどころか、犠牲者としての在り方を「変えよう・改めよう」とすること自体が「我が儘な望みなのではないか」「そんなことをしたらますますゆるされないダメ人間になるかも」と考えてしまう人もいるのです。

犠牲的な行為をすることそのものが常に「良くないこと」であるわけではありません。ここでもまた問題になるのはその根底となる「在り方」です。すなわち、根底にある信念が「否定・卑下」なのであればそこからくる行為が犠牲であれ攻撃であれ何であれ全てネガティブな本質によるものだということが重要なのです。

本質がネガティブであれば、どんなことをしようが心をどう誤魔化そうが貴方の中にはネガティブな感情が隠されているのです。やはり自分の周囲やら運命やらを自分に敵対するものとして認識してしまうでしょう。そして「私には幸せになる資格がないんだ」などと思い込むようになり、その信念がそのような世界や現実を「鏡」としてもたらすのです。

ところで、ここまでの文章を読んで「でもあの人はいつも文句ばっかり言ってるけどいろいろ恵まれていて幸せだわ。不公平じゃないの?」などと思う人もいるかもしれませんが、その人は私が述べてきたことを全くわかっていません。

いいですか。

ある人の「現実」はあくまでその人にとっての「現実」なのです。他人からみてどのように映るかということは全然関係がないのです。貴方が誰かを見て「いやな性格なのに恵まれているのよね」と感じるなら、それはその「誰か」「の現実ではなくそう感じる「貴方」の現実ということになります。ある人の信念や姿勢がその人の「現実を作る」というのはそういうことです。他人からみても明らかにわかること、つまり人間関係でトラブルばかり起こしているとかしょっちゅう具合が悪くて寝込んでいるとかそういうことばかりとは限らないのです。他人からみれば地位にも収入にも家庭にも何の問題がないように見えても、本人がどういう経験をしている(と思い込んでいる)かはまた別のことなのです。会社には敵ばかりで一時も気を抜けず、1億円の資産があっても常にお金の不安が絶えず、家族のことも信用できないなどという有様かもしれません。それでしょっちゅう批判や愚痴が絶えないのかもしれません。

つまり、同じような現象に見舞われてもそれがどういう「経験」になるか、どういう「現実」として捉えられるか、は人によって異なるのです。

ですから、これらのことを考察するときには絶対に安易に他人と比較してはいけません!特に表面的なことだけを比較するのは最悪です。もしも他人のことを参考にしたいならその人の言動からその人の「あり方」を見て下さい。そして、それに対して批判的な気持が湧いたならひょっとして自分にも同じようなところがないかどうか目を皿のようにして見て下さい。これは「鏡現象」のところでも述べたことです。

それともう一つ補足します。「私はとても敏感なので他人の悪意などをすぐ察知してしまって辛い」などと言う人が時々いますが、もしそういうことでその人がしばしば悩み苦しんでいるのだとすればそれも「私は悪意という攻撃にさらされている」という一つの姿勢・あり方に過ぎません。敏感であることには何の問題もないのであって、そこで察知した悪意なり何なりに自分なりの意味づけをして「こだわる」ということが問題なのです。

渡辺淳一氏の「鈍感力」という本を私は読んでいませんが、これはおそらくそのあたりのことを論じたものなのではないかと思います。「鈍感力」というタイトルは多分に諧謔的なのですが、「鈍感」であることと「鈍感力がある」こととは全く違うのです。つまり、周囲の気を察知しようと思えばできるのだが、それを自分に対するダメージという「現実」として受け取るかどうか、それが「姿勢」なのです。

相手がたとえ本当に悪意を発していたとしてもそれはその人にとっての「現実」であり貴方まで一緒にその現実を共有する必要はない、ということです。「私は敏感なんだから」というのは自分が好ましくない現実を経験していることの免罪符にはならないのです。

その他、自己否定や自己卑下に続く信念が「特別でありたい、特別でなくてはならない」になっている人も見かけます。これもかなり苦しい。何故ならそれらの価値や評価を与えるのは常に「他人」であり、それもあくまでその人から見た「他人」なのです。自分が少しでも「何ら特別な存在ではない」と感じる経験をすればその都度「そんな自分をゆるせない」という自己否定が強化され、ますます過剰に「特別であること」にこだわるようになります。恋愛などで相手に期待しすぎるのはたいていこのタイプです。相手から「特別だ」と認めてもらうことによって「私はダメじゃない、ゆるされる存在」になれると思い込んでいる、というかそういう信念があるわけです。また、この信念=在り方が一人の人の中で「被害者」「犠牲者」というあり方と同時に生じていることもしばしばあります。

いずれにしろ、貴方を生きづらくしているのは自分に対するネガティブな信念が刻印されているからである、ということは明らかです。さて、それらはどうして生じたのでしょうか?

 
第45回「ゆるせない?! Part2 W」

(承前)自分のことを心の奥底で「ダメな人間、ゆるせない存在だ」と認識してしまうとそれによるダメージは測り知れません。しかし大抵の人が程度の差こそあれこういう「意識の刻印」を持っているのです。それがどのように現実の経験として立ち現れるかは個人差があり、そのパターンー被害者とか犠牲者とかーもまた意識に刻印されているのですが一番重要なのはもっとも根底にある自己否定・自己卑下です。

繰り返し述べていることですが、こういう認識が刻印されているとそれを再確認するような経験ばかりするので、当然その人にとっての現実世界は「そのようなもの」になってしまうのです。このような場合、貴方にとっての「現実世界」は貴方自身が作っているわけですが、なかなかそんな風に認識することができません。全て貴方以外の何かによってもたらされたもの、自分の外側にそういう世界が確固として存在するように感じてしまうものなのです。

さて、今回は上記の「自己否定・自己卑下」が実際にどのように作用するかという例の中でも「見落としがちでかつ重要」なものをご紹介いたします。

これらは以前コラムで取り上げた「鏡現象」と大きく関連するものであり重複するところがあるかもしれませんが、前とは少し違った観点から述べているのでそのつもりでお読みください。

これら「自己否定・自己卑下」はそのままの形でわかりやすく、つまり「ああ、私って本当にダメな人間だからいつもこんな目にあうんだわ」などという風に現れるとは限りません。自分のことを「ダメだ」とは思いたくないし認めたくない人だって沢山いることでしょう。そうなると自分のことを否定・卑下していてなおかつそのことを「認めたくない」と否定している、つまり「自己否定・自己卑下」を抑圧しているという状態になります。

こういう人々はどうなるか?というと、否定し貶める対象を自分以外のものに移転するのです。自分についてのネガティブな信念を「他者に投影する」わけです。簡単に言えば自分を責める代わりに他者を責める、ということですね。

本当は自分のことを「だめだ」と思っているのにそれを認めたくないからその代わりに「あの人はダメだ、悪い人だ、ひどい人だ」「社会が悪い、時代が悪い」などなど対象は個人とは限りませんがとにかく「自分以外の何か」であることは確実です。そうすれば「悪くてダメ」なのは自分じゃない、ととりあえず思い込めるようになるわけです。

こうなると人は批判がましくなったり愚痴っぽくなったりします。逆に言うと、いつもいつも批判や愚痴を言っている人は、実は自己否定や自己卑下が激しいということがわかりますね。

こういう人は攻撃的なのです。実際に「攻撃」という行動をとらなくても、それどころか見た目には常に「被害者」や「犠牲者」という在り方をしていても、「他者に転嫁する」という時点で既にそれらを攻撃していることになるのです!

更に、攻撃的な人にとっては「攻撃」というのが常に「現実」として存在するわけですから当然の結果としてこれまた常に「他者から攻撃されている」と思い込めるような経験を重ねるのです。実際に「攻撃」という行動に出なくてもそれにさらされる危険があると思い込んでいる人は、常に「他者に対する防御」という姿勢・在り方をしています。つまり警戒しているということです。この「防御のための警戒心」を相手が察知した場合(無意識であっても、です)それは攻撃の一種でもありますから、相手は「自分が攻撃される」と感じてそれにふさわしい態度・行動をとってしまうこともあるのです。

こうなると、もうエンドレスです。貴方は相手が先にひどいことをしてきた、と感じるかもしれませんが、表面に現れない意識レベルではどちらが先かわかりません。貴方の意識の姿勢が「攻撃を想定した防御・警戒」だったとすれば実は貴方のほうが初めに戦闘態勢をとっていたということになってしまうからです。どちらにしてもこの場合、双方が「攻撃的」なわけですから、しかも根底では「自分はダメ」を相手に投影しあっているわけですからまさにお互いがお互いの鏡になってしまっているのです。

自分の身近な人間関係でこのパターンを繰り返している人が結構いるものです。いつも相手に対して「頭に来る!」「ゆるせない!」と感じている方はちょっと考えてみて下さい。

さて、こういうパターンでは自分に対するネガティブな感情を相手に投影し、自分を責める代わりに相手を責めていると書きましたが、意識の根底の部分つまり潜在意識の部分では自分と他者の区別というものが存在しません。つまり、他人に対する批判的な思いや言葉はこのレベルでは全て自分に向けられたものとして処理されるのです。

よく、悪いことを思ったり口にしたりすると自分にそれが跳ね返ってくると言われるのは倫理的な理由でもなく、また言霊云々という理由だけでもなくむしろこの原理によるものです。これが怖ろしいのは、言動や態度に表さなくても心で思っただけでそれが自分にダメージを与える作用をもたらす、ということです。

被害者である人々があらゆることで他人を責め批判する気持ちを抱いているならば、それは即ち自分を責め否定しているということに他なりません。つまり自分で自分の価値をどんどん下げているというわけです。そして自分自身にはその認識がないだけなのです。これは本当によく覚えておくべき事柄です。

「あの人はゆるせない」と感情的に思うときそれは「自分をゆるせない」と思っているのと同じです。

前回の内容とあわせて考えてみるとこうなります。自分に対してであろうが他者に対してであろうが強いネガティブな「感情」が芽生えたならば、それらが生じた原因は全て自分の中にあり更に「自分に向けられたもの」として作用する、のです。

ちなみに、これから先も自分の人生に大して良いことなんか起こらないと思って暗くなるとか、悪いことに見舞われたらどうしようとビクビクしたり身構えたりしながら生きるというのは人生や運命や世界などというものが自分を「攻撃するものだ」「敵対するものだ」という信念によります。従ってそれら「仮想敵」に対して無力に敗北したり警戒したりするのですが、この場合は人生・運命・世界などが(そんなものが本当に存在するとして、ですが)つまり貴方が経験する全てのこと、目に映る全てのことが全てそのまま貴方の「鏡」なのです。そして、基本的には自分についてのネガティブな感情をそれら人生・運命・世界などに転嫁或いは投影しているわけなのです。

意識の刻印=在り方=信念が現実を作る、というのはそういうことです。(この項続く)

 
第44回「ゆるせない?! PartU―3」

(承前)貴方が普段どんなことを望んだり望まなかったりしていようとも、実現してしまうのは常に貴方の意識の奥深くに刻印された「望み」です。それがたとえ貴方にとってマイナスになったり不幸をもたらしたりするものであっても、貴方が深い部分で自分にとっての現実であると信じていることを常に経験することになるのです。

意識の刻印=自分にとっての信念=あり方、というふうに表現できますが、要するにこの部分がいわゆる「ネガティブ」になってしまっていることがあらゆる不幸の始まりであり諸悪の根源だと言えましょう。

「ネガティブな思い込み」にはいろいろなヴァリエーションが可能ですが、根本はただ一つです。即ち「私はダメな人間だ」「価値のない人間だ」という自己否定です。殆ど全てはここに集約されます。

私は素晴らしい人間だが何故かいつも邪魔が入ってうまく行かない、と思うことも可能ですが、これも言い換えれば「私にはうまく行く資格がない」と思っているのと同じことなのです。

我が強くて攻撃的なタイプの人は自分の非を認めたくありませんから「被害者という姿勢」をとって自分に起きるあれこれの挫折を自分以外のもののせいにしますが、これだって「本当は自分に非があるのではないか、自分がダメなのではないか」という深い疑念が覆い隠されているだけなのであって基本的には上記のパターンと同じです。

「私は素晴らしいのだが、前世が悪かったから」と、この自分のせいではない前世のせいにすることもやはり自己否定になります。貴方の前世であった人物と今の貴方はもちろん別の肉体を持った別人格なのですが、前世の影響が今生に作用しているとするならばそれらは意識体としては連続していることになります。また、そのように考えないとそもそも「前世の情報を知る」ことの意味が成立しません。

「私が前世でどんなことをしたか知らないけど、そんなの今の私には一切関係ありません」と思える人ならば初めから前世を知ろうなどとは考えないし、よもや今生の不運を前世のせいにはしないでしょう。それに本当に一切関係ないのなら影響力を持つわけもないのですから「前世のせい」にできるということ自体がそれら過去の自分と現在の自分を「つながっているもの、同じもの」と捉えている証左になります。となると、それがいくら「過去の自分」であっても「現在に繋がるダメな自分」だということになってしまうのです。

つまり、原因はどうあれ、どんな形で表面化するのであれ「私はいやな目にあうのがふさわしい人間だ」即ち「ダメな人間だ」というのが貴方の行く手を阻む基本的な信念であると言うことができます。

どんなことでもより深く突っ込んでみなくてはなりません。たとえば「傷つくのが怖い」と思うなら、それはその更なる奥部に「私は傷つけられる」という信念があるのです。そんなものが一切ない人にはそれに対する恐怖感も存在しないからです。

さて、これら「価値のないダメな私」というのは端的に言えば「私が悪い」ということになりますね。前回でも述べましたがこれはいわゆる犯罪人のような「悪人」という意味ではありません。

貴方が自分のことを「魅力がない」と思っているとします。その上でもしも「魅力がない」ことに何ら悪い意味づけをしていなければ、つまり「私の血液型はAです」とか「4月生まれです」などと同じ程度の属性としか捉えていなければ「魅力がない」という信念を持っているからといって別にそれによる悪いことは起きないのです。

しかし、大半の人は「魅力がない」=「悪いこと」だと捉え認識しているはずです。するとこうなります。

「私には魅力がない」(「頭が悪い」「声が大きい」でも何でも良い)

「魅力がない」etc=「悪いこと」→「私は悪い」

こんな乱暴な三段論法が実は平気でまかり通っているのです!

ちなみにこういうのもあります。

「お金持ちは悪いことをしている」「私は良い人だ(と思いたい)」→「私はお金持ちになれない」

この場合、実は「私は本当は良い人じゃないのではないか」というのが奥に隠されています。だからこそ、そこにこだわりが生じるのです。

話を少し戻します。「私はダメな、価値のない悪い人間です」という信念が根底にある、刻印されている人であれば大抵その後はそれにふさわしく「だから愛されない、大切に扱われない」などという信念が続いて生じます。

しかし、これも良く考えれば次のようなことも可能ではないのか?―即ち「私はダメな、悪い人間だけど愛され大切に扱われています」。

そういうことも不可能ではありません。但しこれが成立するためにはその人が自らを「ダメで価値がなくて悪くて」としたうえで更にそれらに悪い意味を一切付与しない、というまあ普通ではなかなかあり得ないことができているか、或いは「そうかもしれないが、たとえそうであってもそういう自分を認めて受け入れている」つまり「ゆるせている」かどちらかです。

前者は「言語と意味」の関係を考えると通常不可能ですから無視してよいでしょう。ここで問題になるのは後者のみです。(この項続く)

 
第43回「ゆるせない?! Part2 U」

(承前)今回の考察を進めていく前にいくつか確認しておくべきことがあります。「被害者という在り方」同様、しつこいようですが「犠牲者という在り方」もまたあくまでその人の「姿勢」です。

よく、頼まれたわけでもないのに何かをやっては「どうしていつも私ばかりが・・・」とか「貴方(たち)が何もしないから私がみんなやってあげてるの!」などの不満を抱く人がいますが、わざわざそんなことを引き受けない人もいるし、たとえ同じ事をしていてもそういう不満を持たない人もいるわけですから、結局これらは全て本人が「私はそういう立場におかれてしまっているのだ、やむを得ないのだ」と信じていることによるものです。また、「犠牲者」は「被害者というあり方」とは似て非なるものとはいえ全く別々に現れるとは限りません。自分以外の何者かによって自分の人生が左右されていると思い込んでいるという点では全く同じです。しかし、「犠牲者」という人々は自分以外のものに対する攻撃性が、つまりそれらを露骨に責めたり怒りを表したりという部分が普段はあまり表面に出てこないのです。(ある日突然、臨界点を越えて爆発することはあります)

その代わり、前回の最後で述べたように「こんな自分なんか・・・」「どうせ逆らえないんだから・・・」などという無力感や自己卑下が目立って現れるのです。但し、この「無力感」というのは自己卑下の中に含まれるものです。

「被害者」である人々も「自分以外の何かによって常にダメージを受けている」と思い込んでしまうという点そのものがまさに「自己卑下」以外の何ものでもないのですが、これは彼らの攻撃性の下に隠されてしまっています。こういう人々を世間ではいわゆる「プライドの高い人」と呼びますが、上記の理由により実は彼らは非常に自尊心の低い人々であるということがわかりますね。言うまでもありませんが、「自己卑下」と「自尊」は全く正反対のものだからです。

それに比べて「犠牲者」の人々は一見謙虚な印象さえ与えるし、周囲からは「いい人だ」と見られていることも少なくありません。「どうしてあんないい人がいつもあんな目にあっているのかしら」。そして本人も「私は何も悪いことをしていないのに・・・生まれつき運が悪いのかしら?前世が悪かったのかしら?」などと思ったりするのです。

さて、この「何も悪いことをしていないのに」という点が曲者なのです。

「因果応報」というか、良いことをすれば良いことが返ってくるし逆もまた真なりという法則が正しければ、自分が特別「悪いこと」をした覚えもなくそれどころかいつも他人のために自分を犠牲にしてあれこれしてあげて・・・という「良いこと」すらしているのに全く報われないのは何故なのでしょう。運命だから、或いは前世の報いだから仕方がないのか?

前世の捉え方についてはいずれ詳しく述べるつもりですが、とにかく「犠牲者」の人々が「良いことをしているのに報われていない」のは前世のせいでも運命のせいでもありません。それらに見放されているからではありません。

この「良いこと」「悪いこと」というのが更に曲者なのです!簡単に言いますと、これらが単なる「行為」を示しているだけであれば実は「因果の法則」にとっては何の関係もないことになってしまうのです。

以前のコラムで「行為ではなく姿勢・在り方が重要だ」と述べたことを思い出してください。

そうです、まさにこれなのです。いわゆる「因果の法則」の支配を受けるのは「行為」ではなくて「あり方」、外側に出ているものではなくて貴方の内側にあるものです。

いくら他人に“自ら進んで、しかもニコヤカな態度で”親切な「行為」をしていても、内心「あ〜あ面倒くさいなあ、どうして私がやらなきゃいけないの」とか「本当はイヤだけどこうしていれば見返りがあるかも」などと思っているならば、それらはいくら「親切な行為」に見えたとしても意識レベルでは「良いこと」とはいえないのです。

或いは、誰か大事な人のことを心配してそれがストレスになった・・・という場合などであっても結局自分ダメージを与えているという点では同じ作用を及ぼしてしまいます。そしてこれを「あの人が心配させるからそのせいでこうなった」というのならそれは立派な「被害者」「犠牲者」としてのあり方になってしまいます。

いわゆる善悪という問題とは別に、貴方が「内心はイヤなこと」を自分に課しているのであればそれは貴方が「自分に対して嫌なことをしている」のと同じになってしまいます。すると因果の法則が働いて「嫌なこと」が返ってきてしまうのです。

また、ここに「私は人の悪口を言ったこともないし迷惑をかけるようなこともしていない、そればかりか心の中でさえ他人のことを悪く思ったり非難したりしていない」のにどうにもパッとしないという人がいるとしましょう。この場合はどんな原因が考えられるでしょうか?

おそらく、というか絶対確実にこの人は自分に対する評価が低かったり自信がなかったりするはずなのです。言い換えれば「自己卑下」ですね。これは即ち「自分で自分にダメージを与えている」ことに他なりません。自分で自分を殴っているようなものですね。つまり自分に対して「良くないこと」をしてしまっているわけです。

他人を悪くいうのならともかく自分が自分のことを貶めたとしても何ら他人には迷惑をかけないのですから、一般的にはこれは「悪いこと」だと認定されません。しかし潜在意識に自他の区別はありませんから、他人を非難したり攻撃したりした場合であれ、それが自分に向かった場合であれ結局「良くないことをした報い」を受ける、というかその自己評価にふさわしい現実を経験するのは全て自分ということになります。

これが更なる「落とし穴」です。一見謙虚な良い人が内心では自分のことを貶めたり無力感に囚われたりしていれば当然の結果として「貶められ無力感に囚われる」ような現実を経験する羽目になります。

さて、これが「犠牲者」と言えるでしょうか?こうして見てみれば「犠牲」でも何でもない、そもそも全て自分が自分にもたらしたことなのではないでしょうか?

このような事情を正しく認識していない限り、彼らは常に「身に覚えのない不幸に見舞われる」と感じてしまうでしょう。

更に、これら「犠牲者」の人々は露骨に他人を批判していないだけでやはり深い部分には抑圧された怒りや恨みなどがある、どこかに「ゆるせない!」という思いがあるわけです。それも当然彼らの経験する現実に反映されてしまいます。

この「ゆるせない」という感情が自分に向かうときそれは「自己卑下」のような形をとるのです。「こんなダメな自分はとても認められない」

実は、これこそが諸悪の根源なのです。次回はこのことについて詳しく考察いたします。(この項続く)

 
第42回「ゆるせない?! part2 T」

前回までの「被害者という在り方」に続き今回からは「犠牲者という在り方」が意識に刻印されてしまっているケースについて考察してみます。

「犠牲者」これも「被害者」同様、本当に何かの事件や事故の犠牲者であるということではなくひたすら「在り方」を示します。具体的に言えば、いつも自分ばかりが損をしている、とかこんなに頑張っているのに認められない・報われない、とか自分は運命や過去世の「犠牲」になっているので何をしても幸せにはなれないなどと思っている人々です。ちょっと見には「被害者というあり方」と似ていますが、「被害者」の人々は被害者と言うだけあって「攻撃されている、奪われている」という認識が強いのに対して「犠牲者」の人々は攻撃されているというよりひたすら失望を味わったり無力感に囚われたりすることが両者の相違点として挙げられるでしょう。

「犠牲者」である人々は、自分の面白くない役回りや生き方に不満を持っているに決まっているのでありそれならさっさとそんなものに見切りをつけて方向転換すれば良いのに何故か自分の姿勢を変えません。「自分を変えない」という点は「被害者」のケースと同じです。

また、「どうせ私は一生こうなんだ」と諦めている場合と「私は良いこと正しいことをしているのだからきっといつか報われるはず」というはかない期待を捨てずにいる場合がありますが、たいていはこの二つが人により異なった比率で混在しています。前者の場合はこのコラムで以前述べた「明るい絶望」のような達観はあまり見られず、むしろ自己憐憫に陥っているケースが殆どです。つまり、本当にこれで私はいいんだ、と清々しく受け容れているのではなく「本当はイヤなんだけどどうせ変わらないんだからしょうがない」と投げやりになりつつそんな自分を憐れんでいる感じでしょうか。完全に希望を捨てているわけではないのです。というのもこのような人々は、例えば損な役回りを引き受けるなど周囲から見ればこれまでと同じ結果を生むとわかりきっていることを何度も繰り返しやってしまうのです。つまり、このようなことをすれば以前に何度も味わったのと同じ失望をまた味わう、とかなりハッキリ予想できることを懲りもせずにやり、同じように嘆く結果になるわけです。

後者の場合は、「自分は正しい」という観念を絶対に捨てないという点において「被害者」の人々と同じ、ということになりますね。これが極端になると「犠牲者」というよりも「殉教者」タイプになってしまいます。

「被害者」の人々が自分にダメージを与えている(と思い込んでいる)ものに対してかなりストレートに非難・批判するのに対して、「犠牲者」の人々はそれほどあからさまな敵意を抱いていないというのも相違点です。それよりもむしろ無力感に囚われる傾向が目立ちます。

何故そうなるのか?その理由の一つは完全に相手を自分の支配者にしてしまっているということです。環境だの運命だの過去世だの、そういうものの「犠牲者」であると思っているケースもこれにあてはまります。つまり、自分が何かの犠牲になっている、その何かが自分の力ではどうすることもできない強大なものや到底太刀打ちできないものだという認識です。従って敵意を抱いたところでどうにもならないし攻撃もできない。もちろんこのような認識は本人の思い込みに過ぎないのですが、繰り返し言及しているようにその人にとっての「現実」は思い込みも含めたその人の信念が作っているのですから仕方がありません。

こうなると、これらの人々は「自分は幸福や世界から見放された人間、見捨てられた人間だ」という思い込みすら持つようになってしまいます。すると今度はそのような「信念」が形成され意識に刻印されてしまうので、次から次へと「見放され見捨てられた」と感じるような現実を経験するようになるというわけです。

「犠牲者」の人々は「被害者」に比べて騒がしくなく、むしろ場合によっては謙虚に見えてしまうことすらあるのですが、ネガティブであるという点においては全く同じです。

これらの人々がよく口にしたり思ったりするのは以下のような言葉です。すなわち「どうして私はいつもこんな目に遭うんだろう、何も悪いことをしていないのに。」或いはそれが更に進んで、「正しいことをしているつもりなのにいつもこんな目に遭うなんて、私は余程ダメな人間に違いない。」

ところがここにとんでもない落とし穴があるのです。(この項続く)

 
第41回「ゆるせない?! V」

(承前)前回の続きですが、被害者という在り方の人は往々にして今度は自分が「加害者」になってしまうこともあるのです。これもまた「被害者」であることを止められない理由になります。すなわち「私はこんなに可哀想な目に、ひどい目にあっているんだからこれくらいのことをしても許されるわよね」とばかりに他人に対して我が儘を振りまいたり傷つけるようなことをしたりしてしまうのです。更に重症になると「ひどい目に遭わないように身を守らなければ」とか「復讐しなければ」などという姿勢がすっかり身についてしまっていて、無意識・無自覚のうちに他人に対して攻撃的になったり人生に対して投げやりになったりしてその結果ますます嫌われ不幸になる・・という悲惨な人も出現するのです。

これも一種の「自己正当化」です。他人に対して傍若無人に振舞っても良いのだ、という立場を正当化したいためにその根拠として「被害者であること」を捨てられなくなるのです。しかし、そんなことをしていたら当然ながらますます不幸のスパイラルに陥るだけなのは目に見えています。

いわゆる「いじめ」をする側の加害者も、その現場以外のところでは自分が「被害者」であると思い込んでいてその鬱憤を他にぶつけている場合がかなりあると思います。また、昔からよく言われる「嫁いびり」なるものも、それまで自分が散々な目にあってきたのだから今度は自分がこれくらいしても当然だわ、という発想によるものでしょう。

つまり、「在り方としての被害者」は加害者を作る原因でもあると同時に両者は一枚のコインの両面みたいなものなのです。

さて、今までサンザン見てきたように、被害者という在り方を「選択」してしまうと人生において常に「他人からダメージを与えられる」現実を経験し続けることになってしまいます。では、そうならないためには或いはここから脱却するにはどうしたらよいのでしょうか?

「被害者という在り方」を生じさせるのはあくまでも当人が「そう感じてネガティブな感情を抱いている」状態です。相手(人でも組織でも状況でも運命でも神でも)に悪意があったかどうか、どういう性質のものか、などということには一切関係がないのです。明らかに悪意ある行為を受けても「へ〜」と思って流せる人々だっているのです。つまり、貴方は「ひどい!ゆるせない」などというネガティブな感情を抱かないこともできたわけです。まずこのことを本当に認識して下さい。

事態を冷静かつ客観的に捉えるためには以前のコラムの「鏡現象」を参考にすると良いと思います。相手のことを「ひどい」と思ったけれど実はそれが自分の内面の投影だったとわかれば貴方は被害者などにはなりません。なることができないのです。

相手のことを「どうしようもないな」と思うのは単なる感想なのですから別に構わないのです。また、瞬間的にカーッとくるとかイラつくなどというのもまあ仕方ありません。

しかし!!

それを引きずってはいけないのです。それらの感情に執着せず手放して下さい。これがいわゆる「ゆるし」の第一歩です。

スピリチュアル系の本などに良く「ゆるし」が大切だと書いてありますがこれは全く本当にその通り!の真実です。

ただ、ここで間違えてはいけないのがその「ゆるし」とは「自分にひどいことをした相手を許してやる」=「勘弁してやる。免責してやる」という意味ではないこと、そういう方法だと「被害者という在り方」を脱却することはできないのです。なぜならこれでは「ひどいことをされた」という認識はそのまま手付かずに残されるので貴方が「被害者」であることもまたそのまま維持されるからです。

正しい意味での「ゆるし」(赦しという漢字表記のほうが適切でしょうね)とは、相手に或いは自分に対するネガティブな感情そのものを完全に手放すことなのです。

更に可能であれば(最終的にはここまでしないとダメなのですが)「ひどい目に遭わされた」ということ自体を無化する。つまり、「誰も私にひどいことなどしていない、私がそう感じてしまっただけである」と認識することが望ましい。これは原則なので例外なくどの場合にもあてはまるのですが、そうはいっても実際に家族を惨殺されたとか医療ミスで重大な病にかかってしまった、などという人々がそんな認識を持つのは困難でしょう。しかし如何に困難であっても最終的にはこの境地に至らないと心の平安も癒しも得られない、これが事実なのです。

話を少し戻して、上記のような認識に至りネガティブな感情を廃棄できれば相手のことだけでなく同時にそんな感情を抱いてしまった自分のことも「赦せる」道理になるのです。相手が悪くないのなら今度は自分が悪いのか、などと決め付けて自分を責める必要はありません。ただネガティブな感情を抱いたのは「自己責任」である、これも厳粛な事実です。

補足的に付け加えておきますと、「被害者であるというネガティブな感情」を抱いてしまったときの解決方法として「相手を気の毒な人だと思え」というのも時々聞きますね。これは貴方が心底から相手を気の毒だと感じられるのなら良いのですがーというかそういう慈悲心を持てる人ならそもそも被害者の姿勢をとることはあり得ませんーもしも無理やりそう思い込むのならば貴方は全くの間違いを犯すことになります。あの人こそ気の毒なのよ、と高みから相手を憐れもうとするのは自分にひどいことをした相手と自分との関係を逆転させ密かに優越性を保とうとするものであって、エゴの強化に他なりません。その上「ひどいことをされた」「自分が被害を受けた」という認識も残ってしまうのですから全く良いことはなく単なる「現状否認」に終わってしまうでしょう。ニーチェが痛罵した「奴隷の道徳」のようなものになってしまいます。

ゆるし、というのは別に相手と和解することではありません。とにかく「手放すこと」「こだわらないこと」これに尽きます。次回からもこの「ゆるし」を必要とするケースについて述べる予定です。

 
第40回「ゆるせない?!U」

(承前)今回は、被害者というあり方が如何に当人にダメージをもたらすものであっても依然としてそれを捨てない人が多いのは何故か、ということについて述べましょう。初めに再確認しておきますが、ここでいう「被害者というあり方」は、事件や事故などで被害者という立場になってしまった人のことではなく、自分に生じたネガティブな感情を全て自分以外の何かのせいにする人、のことです。実際に何をされたか、ではなくあくまで感情的な部分に関わることなのです。

こういう姿勢を捨てない理由としては、まず「自分のことを正しい人だと思っていたいから」というものが挙げられます。先にも述べたように「被害者の姿勢」をとっている人々は不可避的に自己正当化の傾向が非常に強いのです。「私はこんなにひどい目に、不当な目にあっている」という考え方を捨てることはイコール相手が間違っているわけではない、悪いわけではないと認めることになりそれが許せない、悔しい!と思ってしまうのです。

しかし、「ひどい目にあった」と感情的にーここが、つまり「鏡現象」で説明したのと同様に相手に対して感情的批判が生じるかどうかがポイントですー怒りや不満を覚えるのは、実は相手に本当に非があるかどうかとは無関係なのです。そのように感じるのはもっぱら「受け手」のほうであるということをよくよく認識してください。自分に生じた感情は全て自己責任であるとわかっていればたとえ相手が本当によくないことをしたとしてもそのことに関して別の捉え方ができるようになります。つまり、本当に実害を被ったとしてもあまり感情的にならずに済むのです。

また、相手を責めたり批判したりする気持を無くすことがイコール相手を利することになるとも限りません。別に相手に向かって機嫌をとれとか頭を下げろとか言っているわけではないのです。ただ、自分の心の中から「相手のせいにして非難する」気持を無くせばそれで済むことです。それで相手が「得をする」わけでもないし相手の正しさが証明されるわけでもありません。このあたりは冷静に考えればすぐわかることなのですが、感情的になるとどうしても混乱してしまうのです。例えば、本当に実害を被った場合なら泣き寝入りをする必要はなく、それなりの措置をしなくてはなりませんがそういう時でも感情的にならずに行なうことは十分可能なのです。しかし、ひどい場合になると例えば単に足を踏まれたとか何かのことで叱責されたというだけで相手の人間性まで否定するような批判のしかたをする人もいます。

単純に「ひどいことをされた」と決め付ける前によく見てみましょう。たまたま相手がしたことがたまたま貴方にとって面白くないことだった、というだけの話も結構ありますし、或いは相手が自分の利害で動いた結果が貴方の利益を損なう結果になったのであったとしても貴方は貴方の利害で動いているわけですから、時と場合によっては関係が逆転したかもしれないのです。

いずれにしろ「自分を正しい人だと思っていたい」のは自由ですが、その場合貴方は必ず自分の幸せを犠牲にすることになるでしょう。

被害者という姿勢を捨てられないもう一つの理由として挙げられるのは「自分の真実を見るのが怖いから」というものです。といってもこれは一番目の理由と内容的にはほぼ同じことです。私はひょっとして正しくなかったのではないか、自分の捉え方が間違っていたのではないか、と考えてまさにその通りだったらそれは「自分を否定する」ことになってしまう、それが怖いのです。

しかしこれは完全に転倒している。何故ならここで否定されるのは「正しくなかった・捉え方を間違っていた」今までの自分であって、それは否定されて然るべきものである。そしてその過ちが否定されることによってのみ新たな見方ができる自分が現れるのですから、むしろ喜ぶべきことに相違ないはずなのです。

ここで敢えて挙げれば第三の理由として「自分を変えたくない」というのがありますが、これは第一第二と全く地続きです。だって自分のことを正しいと思っていたい人ならばその「正しい自分」を変えたいわけがないでしょう。自分の真実を見てしまったら自分を変えざるを得なくなるかもしれないのだから、つまり慣れ親しんだ生き方を捨てるわけだから、それは怖いに決まっているでしょう。

ところで、「在り方が被害者」の人は当然のことながら常に不平不満があり人生を嘆いていて「どうして私の人生はこんななの?もっと幸せになりたい、人生を変えたい」ともうこれは必ずそう思っています。なのに、こうして見てみると本当は「変わりたくない」のです!貴方はこう反論するかもしれません。

「どうして私が変わらなければならないの?私は正しいんだから、変わるべきは間違っているあの人(たち)、間違っている世界の方よ!」

でもでも前回の「信じるか」で述べたように貴方の現実は貴方の信念によって作られている以上、他人も世界も「貴方にとってそうである」と信じられているものに他なりません。確かに「あの人たち」にも「世界」にも間違ったところはあり変わるべきなのかもしれませんが、それは先方の問題であって貴方が関与すべき問題ではないのです。大体、他人や世界が貴方の思い通りの姿になるまで貴方が不幸であり続ける、なんてバカバカしいことではないですか?きっと、いや絶対に一生かかってもそれは実現されないでしょう。(この項続く)

 
第39回「ゆるせない!? T」

貴方の経験する現実すなわち人生や貴方にとっての世界というものが実は貴方が何を信じているか、どういうものの見方や在り方をしているかによって決定されるという事実―これこそ私がこの連載コラムでしつこく論じ来たったことであり、いくら繰り返しても足りないくらい重要なポイントなのです。

今回は、貴方が貴方自身の人生にダメージを与える信念=意識の刻印=在り方の中でもかなり重要で尚且つ良くあるいくつかのパターンについて徹底的に検証してみることにします。

このうちの一つが「自分を被害者にしてしまう」というものです。ここでいう「被害者」とはあくまでも「在り方」のことを指しているのであって、例えば実際に事件や事故などで「被害者」という立場に立っているという意味ではありません。事件や事故などの被害者になってしまった人でも「在り方」は被害者になっていない場合がいくらでもあるのです。ここを混同しないように注意していて下さい。

また、この「被害者」は「犠牲者」と似て非なるものです。両者の違いは後述いたしますが、とりあえずここではこの両者が別個のものだとだけ認識しておいてください。

「被害者という在り方」というのはものすごく簡単に言ってしまえば「自分の身に起こるあれこれ、自分が経験するあれこれを全て自分以外の何かのせいにしてしまう人」ということです。誰か他人であれ、家族や社会や時代であれ同じことです。人によっては自分の運命や前世のせいにしたりする場合すらあります。ここで「まっ仕方ないか」と思えてしまえる人は「被害者」にはなりません。何故ならそこに感情的批判や執着がないからです。

「在り方としての被害者」という場合、そこに常に自分が何かによって力を奪われている・邪魔されている」「いくら頑張ってもうまく行かない・報われない」という感覚や無力感・不平不満・感情的批判・怒り・復讐心・不安感などなどのネガティブな感情が付きまといます。「あの人があんなことをしなければ、家族がもっと自分のことを大事にしてくれれば、上司がもっと評価してくれれば、部下がもっと有能だったら、こんな世の中じゃなければ、私はこんな目に遭わずに済むのに」とか「私はこんなに頑張っているのに周囲が自分の邪魔をするからうまく行かないんだ」「私はこんなに不当な目にあっている」と常に感じているケースも極めて頻繁に見られます。

そして、自分自身の落ち度や非というものに関しては非常に鈍感というか寛容なのも特徴です。私は間違ってない!私が何をしたというの?正しいことをしているのに、こんなに頑張っているのに!!そこはゆるがないのです。というか譲らない頑固さがあると言えます。

実は上記のような見方・考え方こそがその人の落ち度であり非でもあるのですが、彼らはあくまでも自分が「正しい人」でありたいのでそれを認めることができません。そしていつのまにか自分は被害者である、という信念をーそのように意識してはいなくてもー持つに至るのです。(これが激化して病的になると「被害妄想」になりますが、本当の病気でなくても「きっとこう思われているんだ」とか「邪魔されているんだ」などの妄想を抱くに至るケースも多くみられます)

こうなると自分の不幸(だと思い込んでいること)の原因が全て自分の外側にあることになってしまうので自分ではどうすることもできなくなります。つまり自分自身を非常に無力な存在に貶めてしまうことになるのです。一旦こういう在り方が身についてしまうと、人生に起きる全てのことにそういう姿勢で立ち向かうことになり、結果として常に世界は貴方の思い通りにならない、それどころか常に貴方を落胆させるものや貴方に敵対するものになるという経験ばかりすることになるのです。どんな人を相手にしても環境を変えても同じ経験ばかりするという方はこのパターンに陥っている可能性が高いはずです。

このような人は常に自分以外の何者かによって自分の運命を支配されていると思い込んでいるとも言えるし、もっと言えば常に自分以外のものに「依存している」と見ることもできます。

また、被害者の姿勢で生きている人は往々にして攻撃的になりがちです。相手が自分にひどいことをしている!と思い込んでしまうので当人はそれに対して当然の反応をしているつもりで攻撃的な態度をとるわけです。もちろんここからトラブルが生じることも少なくありません。傍から見れば当人が仕掛けているのですが、当人は夢にもそうは思っていないのです。

こんな姿勢・在り方のままでいくら願望の現実化などを試みても絶対にうまく行くわけがない。神社などに願掛けをしてそれが叶わなかったときに「あの神様はダメだ」と文句を言うのが関の山でしょう。

こうして見てみると「被害者という在り方」には全く良いところなどないし当然の帰結として本人自身常に不幸でいる羽目になるのですが、それでも多くの人々がこのような信念・在り方を選択し更にそれを手放せないでいるのです。それは何故か?何故自分に不幸をもたらしているその姿勢を手放せないのか?(この項続く)

 
第38回「信じるか?それとも・・・番外編」

前回までの文章で、自分の経験する現実は自分の姿勢=何を信じるかということによって決まるのだから経験する現実を変えたければ自分の信念を見直して変える必要がある、と述べました。この場合の「信念」とは世界観や宇宙観なども当然含まれるのですが(というかそちらのほうが断然重要ですが)、まず個人的な事象に関心のある方が多いでしょうからこちらの観点から少々の補足をしておきましょう。

巷間出回っている「ポジティブシンキング」や「成功哲学」の本には大抵「自信を持て」とか「既になりたい姿になっているつもりで振舞え」などと書いてありますね。

これらは決して間違いではありません。自信がないよりはあったほうが良いに決まっているし「こうありたい自分」を意識の中で先取りして現実化する、という方法は確かに有効なこともあります。

しかし、現実問題として自信が全くない人がいきなり「自信を持て」といわれて持てるものでしょうか?そういえば私にはこういうところもああいうところもあったじゃないか!と自分が既に持っている良いところを見出してそれを評価して自信が持てればーこれは一種の気づきであり、信念の変化でもありますーとりあえずはOKなのですが、本当に自信のない人というのはいくら自他共に認める素晴らしい要素を持っていてもそれはそれ、根本的な部分で自信を持てないものなのです。

こういう人が無理やり「自信を持たなくては」と思ってしまうとそれがプレッシャーになり緊張を生みますので全然うまくいかないのです。だったらいっそ自信がない自分、というのを認め肯定してしまえば却ってリラックスできます。

というのも例えば自信がなくてうまく行かない人、というのはその「自信のなさ」をきちんと見つめているわけではなくただただいつも「ああ〜あ、やっぱりダメかも」などとグチャグチャ思っているだけなので、その「思い」と自分が一体になっておりそれに自分がひきずられてしまうのです。しっかり認めることによりその「一体化」からは逃れられるでしょう。

大体においてAという自分に都合の悪い信念を持っている人がAの対極にあるBという信念に変更しようとする、というやり方自体があまり良いものではないのです。こんなふうにただ右から左に平行移動するようなやり方は本当の変化ではなく、ましてや変容などにはなりえません。立っている地面が全く変わっていないからです。すると、ものごとがそこそこうまくいっているうちは良いほうの信念をキープできても嫌なことが立て続けに起きたりした場合たちまち元に戻ってしまう・・・この繰り返しになる可能性が高いのです。

「自信がない=ダメ、自信がある=良い」というのも一つの信念です。ここで自信がない事実を肯定するということはその信念自体にメスを入れるということでもありますので、その結果「そんなことどっちだっていいじゃない」という気持ちになれる、つまりそのことにこだわらなくなるわけですね。すると逆説的ですがここに一種の自信のようなものが生まれるのです。

ですから、自分にとってダメージになる信念が見つかったのにそれをどうしようもできないという場合には以上の方法を試してみるのも、少なくとも変化の端緒としては良いと思います。

また「なりたい自分になりきって」云々というのは、うまく行けばそれによって自分の視点が変わり今までとは違ったものの見方・考え方ができるようになり結果的に信念も変わることにつながるので有効なのです。つまり「型から入る」という方法です。

さて、自分にダメージを与える信念とそれがもたらす姿勢の中でも非常に重要でかつ多くの人に見られるのが「自分が被害者である」というものです。別に犯罪や事件事故の被害者ということではありません。日常の人間関係でごく普通に起きる事態であり、少し考えれば思い当たる人は沢山いらっしゃるはずです。

卑近な例ですが、恋愛などで相手から期待通りの反応が得られないなどということだけでもいつのまにか自分を被害者の立場においてしまっていたりするのです!どうして私がこんな目に?一生懸命やっているのにひどいじゃない。許せない!

ここに見られるのはまず相手に対する怒りや不満ですが、もっと重要なポイントは「自己正当化」なのです。

要するに、自分を被害者に仕立て上げることと自己正当化とは全く表裏一体の関係にある。これがある限り貴方はどういう風にも自分を「変える」ことができなくなってしまいます。そうなのです。「私は間違ってない」という立場に固執する人は絶対に自分を変えることができません。何故なら自分を変えるということは、今までの自分は間違っていたのだと認めることに他ならないからです。

このあたりは以前のコラム「誰の問題?」をお読みいただければ「あれ、本当は違ったのかも。私にこそ問題があったのかも」と気づくきっかけを掴めるかもしれませんが、次回からのシリーズでより突っ込んだアプローチをいたします。

つまり、たとえ貴方が全く正しい場合であっても自分を被害者にしてはいけない、というお話です。では、お楽しみに!

 
第37回「信じるか、それとも・・・U」

(承前)直接知ることも理解することもできないが真実である、と受け容れること=信じる、だと前回述べました。つまり、「信じている」というのは極端にいえば「自分にとっては真実だが本当のところはどうかわからない」という常に担保付きの状態でもあるのです。主観か客観か、といえば明らかに主観のほうに属します。ある人が普遍的理解に近ければ近いほどその人の「主観的現実」も普遍に近づくわけですが、そうでなければ「信じる」が「ただの思い込み」であることだって大いにあり得ます。

世界は神が6日間で作り7日目に休み人類の祖先はアダムとイブである、と「信じて」いる人だって存在するらしいのですが、それがいかに思い込みに見えようと彼らにとってはそういう「在り方」なのです。そもそも「信じる」その対象が真実味のないものの場合には「信じる」の代わりに「思い込む」という言葉が使われているのでしょう。

そして、この「信じる」ことが一つの在り方・姿勢になるほど強固であればそれは一つの「現実」を作り出します。これが前回にもまたずっと以前にも述べた「信じたことが現実になる」からくりでもあるのですが、同時に怖しい事態が生ずる可能性もあります。

わかりやすい例を挙げれば、どこかの国が自国民に虚偽の情報を与えて「信じ」こませてしまえば彼らにとってそれは「現実」になる。信じている、という自覚すらなくそういう現実を当たり前のものとして生きているわけです。

思い込みが高じて盲信になったような場合においては、それがもともと「主観」だということがすっかり忘れられ、「確固たる客観的事実」だ、とこれもまた思い込まれているようなのです。国レベルでもそういうことはあったし日常の個人レベルでもよく見かけます。本来、不合理だからこそ「信じる」が可能になるのですがこういう場合になると人は自分がそれを「信じている」とすら思わない。ただ「事実だ、真実だ、間違いない」と思い込むのです。そうなればこれはまさにその人にとっての「現実」です。

このからくりはどういう方向にも使えるものなのです。ついでに言えば何かを盲信している人ほど自分が「盲信している」などとは夢にも思わないわけですよね。これこそが間違いのない現実・真実だ!と疑いなく確信しているのです。

他人事だと思ってはいけません。先ほど述べたようにこういう現象は集団レベルだけでなく個人レベルでも非常に多く起きているのです。もっとハッキリ言ってしまえば、貴方にとっての様々な現実―つまりあなたが「現実だ」と思って或いは認識していることーは貴方が「そうだと信じていること」に全く他ならないのです!更に言えば、いくら「客観的事実」といっても客観とはそれを「客観である」と思うところの主観に過ぎないのです。自分が「そうである」と認めていることがその人にとっての現実である。それがいくら不合理なものであっても「信じてしまえば」現実になるのですね。

これが、巷間よく言われる「信念が現実を作る」というものなのです。この場合の「信念」というのは乱暴に言えば「思い込み」と同じです。信ずれば叶う、というのはこれを応用したものであり、この法則=現象の一つのヴァージョンに過ぎません。

以前から「意識における刻印」ということを述べてきていますが、それと殆ど同義です。「これはこうである」という信念が意識に刻印されれば、その人の現実はそれを反映するものになる。自分の「信念」を再確認するような経験ばかりをする、というわけです。

上述したように、盲信しているときは「私は盲信しています」などと絶対に考えもしない、つまり無意識です。これが「潜在意識に刻印された信念」ということにもなるのです。もちろん、情報操作などにより集団レベルで「思い込まされている」という場合なら「実は全然違いました」という事実が発覚すれば盲信=一種のマインドコントロールも解けるのでしょう(一部の人は断固としてそれを認めなかったり、受け容れられずに発狂したりします)が、これが個人の内面というレベルになるとこれはもうその人が自分自身で気づくしかないわけです。

ではどうしたらいいのか?こういうものに決定的な「マニュアル」は存在しませんが、是非試していただきたいのは次のような「実験」というかワークです。

貴方が「現実だ、真実だ」としている・してきたものは絶対確実に普遍的真理・事実なのか?よく考えれば「本当はどうかわからないけど自分はこう思っていた、というだけだった」というものもかなり含まれているはずなのです。日常生活の中で片っ端からこれをやってみて下さい。今まで当たり前のこととして疑いもしなかったさまざまな価値観やものの見方を片っ端から疑ってみるわけですね。その際、「誰が問題?」の鏡現象を初めとする過去のコラムの内容が参考になるかもしれません。これは短期間で終わるようなものではないので習慣にすることをお勧めします。昨年見えなかったことに今年気づく、などということも当然ですが多いのです。

このワークをする際の注意点は「安易にジャッジしないこと」。例えば「「私は正しいのか、間違っているのか」という視点を中心に据えないことです。下手にこれをやってしまうとエゴの邪魔が入りやすいからです。誰だって自分が「正しくない」とは思いたくありません。それと「他人を介在させないこと」。これは例えば「この考え方はおかしくないわよね、だって他の人もみんなそうだもの。」「あの人だってこうしているじゃない」などなどのエゴの囁きです。エゴであるところの自分を守るためにいろいろな屁理屈を設けて自分を正当化してはなりません。

この作業を続けていくと徐々に或いは突如として「私はこういう信念を持っていたのか!」ということがクリアになってきます。貴方が繰り返し経験してきたことの裏には「こんな信念があった!」だからこういう現実を経験したのか、ということも見えてくるものなのです。

その後どうするか?まずはそれを認めて受け容れることだけで十分です。

思い出して下さい。そもそも「理解できないことでも信じることはできる」のでしたね。裏を返せば、もしも本当に「理解して」或いは「本当はこうだったのだ」と「知って」しまえば信じることはできなくなる、という道理なのです。もっとも運がよければ「わかった」時点で「なあああんだ、バカバカしい。」と瞬時に悟り同時にそれらを捨てられる場合もありますが、全員がそうではありません。しかし「この信念を何とかしよう、変えよう」と焦ってはいけません。これらは変えたり克服したりすべきものではなく、「自分にとっては無意味であり間違った思い込みだった」と本当に分かれば自然に消えていくもの、消えていかざるを得ないものです。それらを認めて受け容れていれば何か嫌なことが起きてもそれを他人・周囲のせいにはしないで済むようになります。すると、「こんなことを自ら招いているなんて本当にバカバカしい」と実存的にわかるときがくるはず。その時、貴方にダメージを与えるような信念は消失するでしょう。

 
第36回「信じるか、それとも・・・T」

「自分を信じて頑張ります」

「あの人を信じてたのに!」「あの人を信じていいのかしら」

「きっと〜できると信じて努力するわ」

「神を・前世を・運命を・〜教を信じています」

などなど、「信じる」という言葉は日常生活でもわりと普通に多用されています。しかし、これは案外とんでもない言葉なのではないか、そんなに簡単に使えてしまう言葉ではないのではないか?と私はここ10年くらい「疑って」或いは「信じて」いるのです。

単に「信用する」というのであればそんなに問題にはなりません。これは、何かが「本物或いは本当であると保証する」くらいの意味であって、例えば「あの店は信用できる」ならば「そこで買い物や食事をしてもおかしなものは出されない」とか、「あの人は信用できる」ならば「約束したことは必ず守る人物だ」「嘘をつかない誠実な人だ」とか言い換えることも可能です。或いは契約書や誓約書や保証書などによって十分裏書できるものでもあります。

ところが、冒頭に挙げたいくつかの文章における「信じる」という言葉を「信用する」に置き換えることができるでしょうか?「自分を信用して頑張る」とか「神を信用する」とか、何だかおかしくありませんか?それに「あの人を信じてるの!」などの「信じる」は、「信用する」とはどこか意味合いや重さが違うものだと感じるのではありませんか?

まず、「信用する」なら「裏切られる」ことも可能だが、「信じる」場合にはそれが破綻しても「裏切られる」という言葉は不適当であると明言してもよいと思います。何故なら、「信じる」際には普通、何の保証も確約も与えられないものだからです。

ということはつまり、恋愛の現場などでよく使われる「信じてたのに裏切られた、ひどい!」などというのは、一応言葉などで「保証・約束」を与えられていたのにそれを守られなかったのですから実際には「信用してたのに」といったほうが正しいような感じですが、まあこれはどうでもよろしい。

「信じる」というのはどういうことか?「何かが確かに間違いないと強く思うこと」とも言えるかもしれませんが、もっと端的に言うと「証明したり理解したりできなくてもそれが真実であると受け容れること」になるのではないでしょうか。

埴谷雄高という作家の著書のタイトルにもなった「不合理ゆえに我信ず」というのはもともとティルトリアヌスの言葉だそうですが、昔はこれが今ひとつよく分かりませんでした。何で不合理なものを信じられるの?などと思っていたのです。

しかし!!よくよく考えて見ればこれは極めて当たり前のことであって、合理的なものであれば通常の理性による理解が可能である。つまりわざわざ「信じる」必要はないのです。だってそうでしょう。1+2=3、だとか2x3=6だとかいうのは実際にやってみればそうなるわけだから別に1+2=3だ、と「信じる」必要はありませんね。その他、やってみればそうなること、アタマで考えればわかることなどについては「知る」「理解する」だけで済むのです。神や前世などに対しても、それを実際に体感して知っている人ならばわざわざ「前世を信じます」とは言いません。疑う余地のないものに対しては敢えて「信じる」などと言う必要がないのです。

ところが、そうでないものーつまり「直接知ることもできず立証もできないことだが、自分の理性では理解できないことだが私にとっては重要なことなので肯定したい」ならばこれは「信じる」という姿勢をとるしかなくなります。不合理だからこそ「信じる」ということが可能になるのです。

科学的に正しいとされていることだって実際にはまだ「仮説である」ものが多いわけですから、「科学で証明されているから真実なのだ!」」というのもまた「そう信じている」だけだということになります。だって貴方が自分で証明したの?実際に見たことあるの?

とんでもないことを言っているように聞こえるかもしれませんが、明日もまた世界が存在するであろう、というのもそれが絶対確実だ!という保証はないことなのですから皆それを「信じている」に過ぎないわけですね。そんなこといちいち疑っていたらやっていかれないでしょう。

実を言うと私は「明日もまた世界が存在する」こともよく考えれば信じられないし、ひょっとして世界は今朝から始まったのではないか、それを私たちは「太古の昔から」と錯覚しているだけではないか、などと考えてしまう癖がありまた考えると面白くて止まらなくなるので仕方なく「世界は太古の昔からあったし明日も在るであろう」と、とりあえずそういうことにして済ませています。しかし、「これは自分の手である」とか「この身体の心臓が動いている」などについては信じるまでもない事実ですよね。

ともかく私の感覚では、「信じる」という言葉とそれによって表される事態はその人の存在全体に関わるような、或いはその人が何を基盤として生きているかを示すような深さと大きさがあります。そう簡単に使えないような言葉なのではないか、と感じられます。

(従って、「僕を信じて」などと簡単に言ってしまえる男は信用できないのではないか?まあ、これもどうでもよろしいが)

先ほど「信じる」という姿勢をとるしかない、と書きましたがまさにそれは一つの姿勢であり前回に述べたところの「在り方」でもあるのです。「信じる」ということはただの動作ではなくもっと全的な「在り方」を表しています。

だからこそ、「信じれば実現する」などということも可能になるわけです。信じて頑張ったのにダメだった、というとき貴方のその「信じる」は一つの姿勢にまでなっていたでしょうか?また、逆説的ではありますが何かを「信じて」それが在り方全体にまでなっている場合には人はいちいち「信じ(てい)る」などとは言わなくなります。その人にとってそれが「よく考えれば不合理だが自分にとっては真実だ」という状態になるからです。(この項続く)


 
第35回「何をしていても・・・V」

(承前)この原稿を書いている間に今回のテーマにピッタリの文章を見つけました。要約すると以下の通りです。

親切(kindness)というのは表面的な行為なので本心がどうであっても誰にでもできることであり、つまり相手の歓心を買うためとか利用するためにすることだってある。しかもわかりやすい。それに対して「慈悲(compassion)」というのは存在の質であり、為されるものではなくそういう在り方をしている人に生じるものである。しかも表面的には極めて不親切な様相を示すことも多い。

この「慈悲」にあたるもの、すなわち一見あなたにダメージを与えるような事柄が実はあなたのためだった、という現象について前回述べましたが、現象の裏にある本質というのは普通の目にはなかなか見えないものです。すると、その「見えない」のを良いことに相手を操作するのも可能になってしまいます。

乱暴に言ってしまえば、本質がエゴであるような人物が「真のマスター」のふりをするようなものです。

また、そういうのにコロッと騙される人というのはまず例外なく自分に欲があります。別に金銭欲や名声欲とは限らない。病気を治したいとか、或いは悟りを開きたいとか覚醒したいという「スピリチュアル」な欲もありますね。そこで「これをすればそうなれるよ」と言われるとかなり無茶なことでもしてしまうか、「そんなことできません」と言えば「それは貴方の中の抵抗です。自分の殻を破らなくてはいけません」と来るのでやはり逆らえないのです。

これだってもちろん「本当にその通り」という場合もあるわけで、それこそ「表面的な言動」では判断できないから難しい、そして判断できないからこそ巧みに悪用されうるのですね。

そのような言動をする本人が、自分の損得とかエゴの満足のためにやっているのかどうかということが判断の分かれ目になります。単に「利益を得る」というケースだけでなく、自分を偉くみせたい、感謝されたい、好かれたいなどというのは全てエゴの満足です。それを見分けるには、まず自分のエゴが消失していなくてはならないのです。そうなるとかなりの精度で「分かる」ようになります。たとえ同じ人であっても、平静な時には正しく見分けられるのに自分が何かで焦っていたりすれば「早く何とかしたい、わらにもすがりたい」という気持ちが出るので直感的判断力も鈍ってしまいます。

「表面的な言動では本質がわからない」というのは裏を返せば「根本的に本質をつかんでいる人ならば相手の表面的な言動がどんなであってもその人の本質が分かってしまう」ということにもなります。代表的な例が禅の公案です。

禅師は、弟子がどんな答えをしようともその本質的姿勢つまり「在り方」を見抜く力があるので彼らが本当に「わかって」いるかどうかが分かるわけです。夏目漱石が禅の修行みたいなことをしていた時、与えられた公案に対して「何一つ間違ってはいないような」もっともらしい内容の答えを述べたら師に一蹴されたというのは有名な話です。反対に、「分かったっ!!」と一言叫び、或いは何も言わずにバーッと立ち上がってしまっただけで「よろしい」と認められたという話もよくあります。「分かって」ない人がこの行為を真似ただけでは全然ダメだということは言うまでもありません。

更に怖ろしいのは、実はちっともわかっちゃいないのにこういう禅師の真似をするような輩がいる、ということ。また、一見「悟り」とは相反するようなーあくまで自分自身のものさしで見てー行為をしている禅師に対して「この人は悟ってなんかいない」と決め付けてしまう弟子もいるということです。このあたりは本当に微妙でマニュアルなど存在しようもありません。

「在り方」というのはくれぐれも「行為」「言動」ではなく、ましてや「表面的な結果」とは関係がないのです。

読んだ話ですが、面白い例があります。ある教えを受けた人が師のもとにやってきて感謝を述べた。「おかげさまで仕事も成功し健康になりました」。師は怒り「今まで一体何を聞いてきたんだ!」と一喝します。一方、また別のお弟子が感謝を述べにやってきました。この人は「相変わらず大変なこともあるし時には病気もしますが、おかげさまでそんなことがあっても落ち込んだり心配したりすることなく落ち着いて明るく過ごせるようになりました」。こちらに対しては、師は「貴方は本当にわかってくれたね」と言ったそうです。

前者の場合、つまり今はいいけれどもしもまた仕事や健康で問題が起これば落ち込んだり焦ったり、と元の木阿弥かもしれないからです。ひょっとすると「あの先生はダメだ、結局またこんなになっちゃったんだからあの教えは間違っていた」などと言い出すかもしれないのです。

もちろん、長期間にわたって何の変化も見られないならば「教え」か「やり方」のどちらかが間違っているのでしょう。しかし、「在り方=本質における変容」というのはインスタントな効果にとどまるようなチャチなものではありません。以前と同じ状況に見舞われても感じ方が全く違ってしまうのです。ということは対処の仕方もそれに続く結果も当然別のものになるわけです。或いは、以前と同じことをしていてもそこに流れているエネルギーのようなものが全然違ってくるのです。

いろいろなものを読んだり聞いたりして「なるほど、そうか」と分かった気になることはよくありますが、もしも「本当に」=「身体全体で実存的に」わかったならその時にこういう「在り方の変容」が起こります。これは教えられるものではありません。

このあたりのプロセスは、以前ブログでご紹介したオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」(「禅と弓道」)に詳しく書かれていますのでご興味のある方は是非読んでみて下さい。

 
第34回「何をしていても・・・U」

(承前)前回述べた「在り方」というのは言い換えればその人の本質の部分なのです。そして、その人の言動を表面的に捉えたのではなかなか本質を見ることができません。身近なことで言えば、相手に優しくしているのは「嫌われたくないから」という損得からなのか、それとも「愛」という在り方から自然に流出した行為なのか、表面的言動は同じでも内容は全く違います。極端な例をいくつか挙げてみましょう。

いくつかの宗教では「禁欲」を説いていますが、よくよく見ればこれは本来セックスにまつわること=悪、というのではなく、そういうものに関わっているとエゴまみれの執着になりやすくこれが覚醒・悟りを得ることの妨げになるから警戒しろというのであって、逆に言えば性的なことに関わっていてもそれが全く執着にならないのなら、まあ変な話いくらやったって構わないわけです。しかし普通の人はこの手のことがやはり執着になってしまう。だったら元を断つのが一番早くて確実だ、ということになったのでしょう。一切異性と関わるな、触るな、見るな。

これらの決まりごとを守っていたとしてもその人の頭の中が常に性的妄想でいっぱいだったりしたらどうでしょうか?表面的現象としては「異性に触れてもいない、できるだけ見ないようにしている」ことで禁欲がなされていても中身は煩悩と執着でいっぱいなのです。しかしながら、覚醒だの悟りだのというのは専ら内的・霊的な問題ですからいくら外面的に「禁欲」的生活を送ってみたところで内的に「煩悩まみれ」であればどうなるか?果たしてその人は清浄と言えるのか?

性だけではなく富も同様です。お金や裕福さそのものが悪なのでは決してないのですが、そのような現世的なものに「囚われ執着する」のが良くない。しかし、もっていればついつい余計な欲も出る。だったら全部手放してしまえ、という風になった部分もあるでしょう。財産を手放しさえすれば覚醒できる、などという考えから無一文になったところでそれは「覚醒したい」という欲から出た行為に過ぎず、本当にどうでもよくなって手放したわけではありませんね。ひどいケースになるとそうやって自分が無一文になったことを「どーだ、すごいだろう」と自慢したりする人もいますが、これではますますエゴを強化しているようなものです。

お金に執着がある、というのは「欲しい欲しい!」という方向だけではありません。「お金に執着してはいけない、欲しがってはいけない!」というのも逆方向の執着です。こういう人たちは何というか無理があり頑なな姿勢をとります。

それに対して、例えば金銭をどうこうするのが自分にはどうも向かない、とか自分にとって金銭は危険であるなどというように「おのれを知っている」からこそ距離をおくというのであればそれはただ自らを律しているだけであって、無理もなく頑なにもなりません。

(余談ですが・・「宝くじなんか絶対買いません」と言う人は欲がないと思いますか?どうせ当たらないのに千円以上も投資するのが勿体ないから買わないだけかもしれません。)

一般的には何らかの主義や美学を貫いた人のほうが「信念を通して立派だ」と言われますが、よく見るとそうとも限らないのです。主義や美学を貫いているところの自分が大事、というのが単なるエゴの執着に堕してしまっている場合もあるし、他人から軟弱者・裏切り者と後ろ指さされることをものともせず状況に応じて変幻自在に動ける人のほうが肝が据わっているのも事実です。「良い人でありたい」というのと「良い人に見られたい」というのは完全に違うことでしょう?

いわゆる「真のマスター」とされている人々は、相手のためになることであれば嘘もついたし一見教えと矛盾するような行為もしているのです。こういう人々は、それで自分が誤解され中傷されることを意に介さない、なぜならエゴが消失しているからです。現象としては「ひどいこと」をされたと感じていても、それが実は相手の深い愛情と思いやりから出ていた、というのは現実にもあるだろうし小説などにもいろいろ出てきますね。「いつかわかってもらえる」などと考えているのならまだまだ甘い!一生誤解されたままでも一向に構わない、くらいの覚悟がないとできないことでしょう。

かくいう私もそこまではとてもできません。クライアントの中には非常に執着やマイナスの思い込みが強い方もいます。こういう人のリーディングで、例えば恋愛問題なら、「これは頑張ればまだ可能性が十分ある」と出たとしてもそれをそのまま伝えるとますます執着が強まり、「可能性がある」と言われたにも拘らず余計に不安の塊になってしまう、可能性があると言われたからこそますます相手の言動に一喜一憂して不安定になるーその結果「頑張れば」うまくいったはずが却ってダメになる、という現象が起きることがあります。本人は「頑張って」いるつもりなのかもしれないが、実際にはただ悩み苦しんでエネルギーを消耗しているだけであり、全然「頑張り」にはなっていないのです。だったらいっそリーディングの結果とは逆のこと、つまり「これはもう絶対ダメでしょう、諦めなさい」と言ったほうが本人のためになるのではないか?そう思うこともあります。

しかし、さすがにそこまではできません。そのあたりはジレンマですね。

ところで、「真のマスターは相手のためを思えば嘘もつくし一見相手にダメージを与えるようなこともする」のは真実ですが、これが見事に悪用されるケースもあります。次回で説明いたします。(この項続く)

 
第33回「何をしていても・・・T」

前回までのコラムで度々「在り方」という言葉を使いました。よくわからなかった方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はこれに絡んだ話をいたします。

私たちは普段、他人の言動を見てその人を判断しがちです。もちろん、その人の言動にはその人自身が全て現れているとも言えるのですが、それら「言動」のどこをどう見ているか、理解の仕方も全く変わったものになります。

単純な例をあげましょう。毎週教会のミサに通い、毎日朝夕の祈りを欠かさず、慈善活動にも精を出し、まじめな生活を送っている人がいるとします。しかし、もしもこの人の心が恨みや怒りや他人への批判やその他ネガティブなものでいっぱいだったらどうでしょうか。この人は信心深いのか?本当に信仰生活を送っていたならそんなネガティブな要素が入り込むはずがないのであって、つまりこの人はやることなすことに拘らずネガティブな在り方をしている、と言えるのです。

旧約聖書に出てくる「放蕩息子」の話も象徴的ですね。親に逆らわずひたすら良い子で真面目に働いていた兄と放蕩三昧の挙句に何らかの覚醒を得て改心して戻ってきた弟。父親は手放しで弟の帰還を喜び祝福し宴の用意をさせますが、面白くないのはこの兄です。自分は弟と違って今までずーっと真面目にやってきたのにそんなに祝福されたことなど一度もない!不公平じゃないか。と、こういう感じ方をしてしまう「真面目で良い子の兄」とサンザンな生活の果てにいろいろなものを洗い流して漂白されたごとくにスッキリした弟。さて、霊性や精神性が高いのはどちらか?要するに「何をしているか」という行動の表面だけ見ていてはわからないことが多いのです。

これまで何度となく触れてきた「意識を変える」というのはそのままイコール「在り方を変える」ということです。これが「変容」と呼ばれるものです。言ってみれば体質が変わるようなものなので、まず「感じ方」「受け取り方」が変わります。すると必然的にそれに続いて起こる行動やそれによる人間関係も変わってくる。経験全体が変わる、ということですね。

つまり、「在り方」というのがその人の経験することを決定するのであり、「在り方」とは「生き方」に先んじてあるものです。「存在すること」が「生きること」に先んじているのと同じです。

ところで、表面的な言動だけではわからないことが多いと書きましたが、例えば他人に対して何らかの「ふりをする」というのは自覚的に行うのであれば浮世の面倒を逃れられるという利点があります。大っ嫌いな人に対してもとりあえずにこやかに挨拶だけはする、とかいうのもその一つでしょうね。ただ、自分に対して「ふりをする」のがまずいのです。たとえ「ふりをしている」という自覚がなくても、本人の深い部分では「本当は違うんだ」とわかっているので更にそこに蓋をして「見ないことにする」。即ちこれが「抑圧」ですね。と、その人の在り方そのものが「自分に対して=人生に対して不誠実・大切にしていない」ものになってしまいます。こういう在り方が根底にあると理性も感性も鈍磨してしまい、その結果余計な苦労や悩みを抱える羽目にもなります。

他人は誤魔化せても自分は誤魔化せない、と言われますが何らかの信仰を持っている人やいわゆる昔ながらの素朴な常識を持っている人ならば「神さま」なり「お天道様」なりが見ている、という発想になるでしょう。「神様が見ているから良いことをしよう」と思ったとすると、そういう点数稼ぎのような発想も神の目には見抜かれていることになる。全て隠しようが無いのだ、逃げ場もないのだとわかれば却って清々しい気持ちになりませんか?

ああ、だがしかし、いろんな人がいるものです。何か嫌な目にあったときに本当は自分にも非があるにも拘らず「悪いのはあの人だ、私は悪くない。きっと神様は見ているわ」で自己正当化してしまったり・・これも抑圧の一つなのですけれど。

一体どうしてこうなるんだろう?多分、こういう人にとっての「悪いことをしていない」というのは、明らかに悪意を持って何かしたわけじゃないとか一般的に「悪い」と言われている行為―嘘をついたり盗んだり、とかーをしてはいない、という意味なのでしょう。「悪辣な行動」ではなくてもその状況において「不適当なこと」をしてしまったならそれは明らかに自分のミス、であり「是非」で言ったら「非」に分類されるわけです。「非」というのは「良いこと」よりも「悪いこと」に近いでしょう?このあたりは前回の「鏡現象」を参考にしてください。

ここで、例えば一見同じように「神」という視点をおいている人がいるとして、「神様が分かっているからいいのだ」と言ってそのことに執着せず自分の信念を通している人はそういう「在り方」なのだし、「神様が見ているから」と言いつつ内心「「あの人にはいつか天罰が下る」などとグダグダ執着している人はまたそういう「在り方」なのです。前者は他人の目など意に介していないが、後者は「神の目」と言っているわりに実は「他人の目」に左右されています。

いずれ項を改めて述べますが、「愛」というのも実はこの「在り方」の一つであって、「愛」という在り方をしている人ならば何をしようがしまいがそれらは全て「愛の行為」になります。単純だが深い問題です。(この項続く)

 
第32回「誰が問題?誰の問題? 番外編」

(承前)自分の心に映る他人の姿を自らの鏡として多くを学べるということについて述べてきました。この仕組みはその気になればもっといろいろ応用が利きます。

今回の一番目は、同じ鏡現象ではあるものの少し「変な鏡」です。現在の誰かの言動を過去の誰かと重ね合わせて見てしまうケース、とでも言えばいいのか・・たとえば貴方は昔、上司から苛められていた。今は環境もすっかり変わり別の上司についている。その人は別に貴方に意地悪などしていない。なのに貴方には彼(女)の言動がいちいち「私を非難しているのでは?嫌がらせなのでは?」と見えたり感じたりしてしまう。貴方の持っている鏡には「過去の映像」が貼り付いている。投影も反映も固定されてしまっているのです。これがきょうび俗に「トラウマ」といわれるものなのでしょう。恋愛でも、相手が普通のことをしているのに「はっ、私と別れたがっているんじゃないか」と見えてしまう。簡単に言ってしまえば「目の前の生身の相手が全然見えていない」わけです。貴方は幻影と格闘しているに過ぎない。一人芝居のように過去の経験を繰り返しているに過ぎない。こういう鏡に限り叩き割って然るべきものです。そもそも鏡としての正しい機能すら果たしていない欠陥品なのですから当然でしょう。「意識に刻印された設定」とほぼ同じ意味になりますね。

ところが更に怖ろしいのは、前回の「基本的鏡現象」にこれがミックスされて現れる場合があることです。貴方の前後か左右に複数の鏡があるような感じですね。人間というのは何て複雑なことが平気でできるのでしょう!初めの「感情的反応」は基本的鏡現象であり、ついで起こる発想がこの「映像が貼り付いた鏡」の現象。たとえば・・・本当は貴方の我が儘なのに鏡現象により相手が我が儘だと感じ「ひどい!!何て我が儘なの」と怒りに満ちた批判が生じる。一方、貴方には過去に「自分にひどいことをした相手に謝罪させ自分の主張を通させた」経験がある。誰かに「ひどい」と感じられることをされるときその過去の相手の映像が貼り付いた鏡が登場し、自動的に「謝罪させ言うことを聞かせる」ところまで映ってしまう。すると貴方は、目の前の相手に対しても「そうさせて当然だ」と思い込んでしまう・・などなど。

この「映像つき鏡」は、自分にそれがあると気づいてもすぐには叩き割れないかもしれません。しかし、これまで見てきた通常の鏡現象がわかってしまえば「映像つき鏡」に関してもかなりクリアに認識できるようになりますので、いきなり叩き割るのは無理でも「ちょっとどけて」おくことくらいはできるはずです。

さて、今まで「投影と反映によるさまざまな鏡現象」についてサンザン述べてきましたが、もう一つ書いておかなくてはならないことが残っています。

他人が自分を映す鏡になるのであれば当然その逆、つまり自分が誰かにとっての鏡になることもあるのです。すなわち、貴方を感情的にあれこれ非難する人は実はその人自身についてギャアギャアあるいはつべこべ言っているだけである、という現象です。とっくにこの「逆パターン」に気がついていた方もいらっしゃると思いますが、これを最後まで言わなかったのには理由があります。それは、一般的に人はまず自分のことがわからないと自分以外のことも本当には理解できないからであり、誰かに変なことをされるのは貴方のせいではなく単に貴方がその人の鏡になっているのですよ、と言ってしまうと自分のことを棚にあげて、「いかなる場合も私は悪くない、勝手に相手が私を鏡にしているだけだわ」という固定観念を作り上げ、その結果全く自らを省みず自分のことを知らないままに終わるという危険があるからです。従って、まずは「己を知る」ことを優先して考えてください。

また、相手から身に覚えのないことで意地悪をされたり非難をされたりしたときにそれが本当に「自分が相手にとって鏡の作用をしているだけなのか」あるいは「身に覚えがないと思っていたがやはり自分に何か原因があるのか」見分けるには、まず自分で自分のことをある程度以上理解していないとならないのです。

更に面白い(と言ってはなんですが)ことに、お互いがお互いを鏡にしてしまって感情的に批判しあうという現象も珍しくはないのです。一歩引いて冷静に見ればこれほど滑稽な有様もないのですが、これはお互いに「本当の生身の相手に向き合っていない」のに他なりません。自分のマインドというプロジェクターを通してスクリーンに映った相手の姿=実は自分の投影、に向かっているに過ぎません。

猛暑の折ですが、是非頭を涼しくしてじっくり見てみてください。そしてどんなことが見えても勇気を持ってそれを受け容れてください。人生がずっとシンプルになることでしょう。Keep a cool head!

 
第31回「誰の問題? 誰が問題?Y」

(承前)前回は、鏡現象の具体例として特に恋愛場面において「自分が相手に対して抱く批判がそのまま自分にあてはまってしまう」ものをご紹介しました。これが基本形なのですが、他のヴァリエーションを挙げてみましょう。もちろん前回のものも含めて全て「恋愛以外」においても現れる現象です。

貴方が誰かから不愉快なことをされているとします。この相手との関係だけを見ると貴方は別に相手に対して同じことをしているわけではない。ところが、貴方がされているのと全く同じことをこの相手以外の誰かに対してやっているという場合があります。わかりやすいのは、貴方が自分の親に対して「私のことを全然認めようとしない」と感じているとします。ところがその一方で貴方は自分の子供に対して「どうしてそんなことするの?将来の役にも立たないし無駄だから止めなさい」などと思ったり言ったりしている、などのケースです。あるいは、誰かから手ひどいと思える冷たい仕打ちをされて傷ついたとする。ところが貴方も他の人に対して同じようなことをしている(或いはしていた)、などということもあります。どの場合も、貴方がそこまで不愉快な思いをしている、ということがポイントです。鏡現象でなければそれほど気にはならない、受け流せるものなのです。しかし、自分にもそういう嫌な部分があり、それを抑圧している=認識していない状態だと「たまらなく許せない」気持ちになるのです。ここに気づくと、貴方に不愉快なことをする、或いは過去に不愉快なことをした相手を理解できるように、ひいては「ありのままを受け容れる」こともできるようになりますし、そうすれば感情的な反応も出なくなるのです。これはいわゆる「赦し」と呼ばれるものの一つでしょう。この「赦し」に至ると、感情的反応が出ないばかりか、自分が知らず知らずのうちに同じことを他人にすることからも解放される場合があります。

極端なケースですが、自分の子供に対してついひどいことをしてしまう、頭ではわかっているのだがどうしても感情的になりすぎてしまう人が実は自分も親から同じことをされていたという話をよく聞きますね。こういうとき、自分も同じことをしているんだ!という鏡現象の気づきを得てもまだ自分の子供に対する感情的反応と行動がとまらないならば、それはその人が自分の親を受け容れていない、赦していないからなのです。ここをクリアできれば大抵は解消されていきます。

ここでは、誰かにされたことを全然関係ないほかの誰かにしてしまう、という部分がポイントです。

鏡を反射させる。鏡でもう一方の相手を照らして見る。するとそこにはやっぱり貴方自身が映っているのです。

こういう現象をカルマだとか因果応報だとかいうこともできますが、そのように見てしまうと解消するのがとてつもなく困難に感じられ、それがまた新たな悩みになる可能性があるのです。鏡現象だと捉えれば「わかってしまえばその場で瞬時に解消」ということも多いので私はこちらの見方をお勧めします。

次は、同じ鏡でも「今現在の貴方」が映っているのではなく過去の、それも「思い出したくないくらいダメだった頃の自分」が映るという現象です。いわゆる「昔の自分を見るようでいたたまれない」というものです。どうしてこの人に対してこれほどイライラするのだろう?貴方ってダメな人だ!といってやりたい衝動にかられるのだろう?要するに過去の自分を強く否定していて、その事実を抑圧しているのですね。「恥ずべき自分をなかったことにしたい」あまりに見たくない=否定・抑圧が起こるのです。ああ、私もこうだったのだとハッキリ認識してしまえばこれまた相手を理解できるし余裕を持って見られるようにもなります。もちろんその前に自分自身についてより深く理解できるようになっているのです。ここにおいてその「恥ずべき過去」が本当に「過ぎ去ったもの」という形で確立される、現在と連続しつつも非連続になるー言い換えれば現在に影響を及ぼさないものになります。

これもやはり親子関係において生じることがあります。自分の子供が、子供時代の自分とそっくりである。その頃の自分は辛かったり傷ついたりすることが多かった、などというときそれは「思い出したくない自分」の姿です。それを今頃になって目の当たりにしたら、目の前に「思い出したくない自分」が居てしまったらどうなるか?こういうとき、冷静でオープンな人なら自分の子供を通して子供時代の自分のことも同時に可愛がりそれによって過去の自分を癒していかれるのですが、前に述べたように「ガードが固い、要塞を築いている」タイプの人だと我を忘れてカーッときてしまい、過去の自分も目の前の子供も同時に傷つけるような行動をとることになるわけです。

ともあれ、今回の主題で私が言いたいのは「普通の日常生活からいかに多くのことが学べるか」知ってほしいということです。私は大変シツコイので次回に「番外編」を用意してあります。(この項続く)

 
第30回「誰の問題?誰が問題? X」

(承前)前回の続きで「恋愛における鏡現象の具体的なあらわれかた」の例です。これらは全て「感情的批判を伴う」鏡現象=投影と反映の現象の例であって、同じような「批判」であってもそれが単なる感想や人物批評である場合は除外されます。また、あくまで「貴方にとってどう映るか」であって「相手が実際にどうであるか」は一切関係ありません。従って鏡現象の場合は「だって本当にあの人はこうなんだもん」という言訳は一切通用しません。全ては「貴方のこと」それに尽きます。

もっとも単純なのは例えば「相手が連絡をしてくれない」から頭に来て(←ここがポイント。冷静に考えた戦略なら別です)「私からも絶対しない」「拒否設定してやる」というケース。相手が浮気したから私も、とか。これらはもう論外に近い。

次に、前回挙げたようなさまざまな不満=批判がいちいち「貴方自身のこと」である場合。すなわち「真剣に向き合わない」「わかってくれない」云々がそのまま貴方にあてはまってしまう場合です。

さて、貴方は本当に相手に真剣に向き合っているのですか?思い通りにならない辛さからくる深刻さを「真剣さ」だと勘違いしていませんか?「真剣」という言葉で貴方は何を言おうとしているのですか?

「私のことをわかってくれない」という貴方は、相手のことを本当に「わかって」いますか?わかっているなら今現在相手が貴方に対して何故そういう態度をとっているのかも「わかる」はずではないでしょうか?あるいは、貴方が望むことを本当に相手に「わかる」ように伝えていますか?どのように伝えれば相手が理解するのか、それがわからないのであれば貴方も相手のことを「わかっている」と言えないのでは?

「努力してくれない」というのは貴方の望みに対する相手の努力が足りない、ということですが、そもそも「一緒に良い関係を作っていこう」などという合意が暗黙のうちにでもなされているのでなければ「努力」などする理由も責任も相手にはありません。なされていると仮定して、では貴方のほうは相手の望みに対して努力をしていますか?貴方の望みと相手のそれとは当然違うはずです。 その事実をちゃんと理解していますか?そのうえで相手の望みが何か分かっていますか?

「自分を閉じている、オープンじゃない」これも、そもそも「お互いオープンでいよう」と合意したのでなければ初めから破綻している不満ですが、それはさて措いてもこういう場合殆ど「貴方自身が閉じている」のです。それも「相手に対して」とは限らず、「自分において」閉じているというケースが多い。まさにこのシリーズの主題と大きく関わることでもありますが、前回見たように「自分のことを守りすぎていて本性を見ることができていない」のとほぼ同じことです。「閉じている」=自分の本性を見たくない聞きたくない、と言えばわかりやすいですね。それに、オープンである、というのは別に自分のことをベラベラしゃべることではありません。相手がいようがいまいが、ただその人の「在り方」の問題なのです。いくら自分自身について能弁であっても自らその本性を取り逃がしているのであればただのおしゃべりに過ぎません。それどころか自分の本性を隠すために多弁になるケースも少なくありません。

「自分勝手、自分の都合ばかり」これまたもしも貴方が相手を一方的に追いかけているのであればその限りにおいて正当な不満とは言えません。この条件をクリアしていたとしても、たとえば「今は貴方のことを優先したくない」という相手の都合を無視して貴方の都合を押し付けているのかもしれません。当然のことながら相手にも相手の都合があるのです。貴方の都合と一致するとは限りません。よ〜くよく見て下さい。何も常に相手に合わせなさいと言っているわけではありません。相手を「自分勝手」と言うその根拠がどこまで正当なものなのかを見て下さい。相手が貴方のことを「彼女は自分の都合ばかりだ」と感じている可能性だって大いにあるのです。

「相手に変わって欲しい」。まず変わるべきは貴方のほうです。

「あの人は間違ってる!!」貴方の希望と異なることをされているだけです。それを間違っている!としか感じられずに怒る貴方の方が間違っています。

笑っちゃ悪いけど笑ってしまうものにどういうわけだか「彼にはひとを見る目がない!」という批判があります。だから私を選んでくれない、と言いたいのだろうけれど何とも語るに落ちたというか・・・そんな見る目のない人を好きになった貴方も見る目がないんですねえ、と言うことに当然なってしまうでしょう。それにもしもその人が貴方を選んでくれたら貴方は「見る目のないひとに選ばれた」低レベルの人間、ということになるのに・・・ここまでわかれば「私ってバカみたい」と自分で自分を笑える余裕ができますし、当然相手に対する「感情的批判」も消えてしまいます。

更に言えば、これら全ての「感情的批判」をもたらす不満の数々がとどのつまり「思い通りになってくれない」不満に過ぎないのだ、と分かってしまえばこれまた「なあんだ」でおしまいになったりもするのです。

それじゃあ相手に何も言えないではないか、と思うかもしれませんがそんなことはありません。「感情を表すこと」と「感情的になること」とは決定的に違います。上記のようなことを自覚していれば相手に対して気持ちを表す際に却って素直になれるものなのです。自分のエゴを守ろうという障壁が消えているからです。

今回は「相手に対する批判がそのまま自分にあてはまるケース」でした。こういう場合それを自分の姿だと知らずに鏡を叩き割ってしまうと、つまり相手を批判し倒してしまうと、貴方は相手も相手との関係も自分が変わるチャンスも全て失います。

おそろしいことにまだまだしつこく続きます!(この項続く)

 
第29回「誰の問題?誰が問題?W」

(承前)リーディングでは当然恋愛問題が多く持ち込まれます。相手との関係が今ひとつうまく行っていない時、悲しみ傷ついている彼女(殆ど女性なので)は相手のことをあれこれ批判します。しかも怒りに近い感情をこめて・・曰く、「あの人は全然わかってくれない、わかろうともしない」「恋愛に対して臆病だ、不誠実だ」「自分の本心をさらけ出さない、オープンになっていない」「思いやりがない、努力してくれない」「自分勝手だ」云々・・しかし、そのたびに私の喉元まで出かかるのは「それってみんな貴方のことじゃないですか?」

そうなのです、みんな貴方のことなのです。第三者とりわけ私のような職業の人間にとっては「見抜く」までもない、丸見えなのです。貴方が自分の状態を相手に投影しそれを「鏡」として見ているだけなのです。しつこく繰り返しているように、これが「感情的反応」でないのなら、それらは単に相手の人物評であって鏡現象ではないかもしれません。ただ、恋愛場面においては特に「鏡現象」が多く現れるものです。相手が、のみならず相手との関係が鏡になっている。今の恋愛は今の貴方を映す鏡である、というのは絶対間違いない事実だと断言できます!相手との関係で貴方が何を感じるか、はそのまま貴方が自分のことをどう見ているかを示している場合もあるのです。

ところで、どの場合にも言えることなのですが相手の言動の中の「どういう部分」が貴方にとって鏡になっているのかを見極めるのが一番重要でありなおかつ案外難しいようなのです。貴方をすごくイライラさせる相手が「美しく優秀で性格も良く人望もある」からといって「鏡なんだから私も美しく優秀で性格が良く・・なのかしら」なんてことはもちろん絶対ありえない!相手が実際どんな人なのかは一切関係なく、あくまで「貴方の感情を刺激する部分」が鏡となって貴方を反映しているのです。これを見極めるコツはただ「自分を擁護したり防衛したりする姿勢を一切放棄する」ことだけです。このことができない・する気がないうちはどうしても鏡を見ることができないし、自分を知ることもできません。自分を知ることもできない人に他人を知ることができるわけもないので当然人間関係の問題は絶えることがありません。「好き嫌いを直したいんだけど嫌いなものは食べたくないんです」なんて言い草、通用しませんよね。

ともあれ、相手に対する数々の「感情的批判」がみんな貴方のことなんですよ、と言ったって普通は理解されない、理解できない。別に他人に指摘されなくたってよくよく見ていけばイヤでも自分でわかってしまうはずのことなのにどうしてみんなそこまで行かないのかつくづく不思議です。だってこんなに丸見えなのに!

そんなふうに「感情的批判」が自分の中に噴出してきた場合、相手がどう思っているのか、とか相手がどんな人なのかなど「相手のこと」は一旦脇に寄せておき自分のことだけを見つめてみてください。あらイヤだ、あれもこれも全部私のことじゃないの!多くの人がこれを認められないようなのです。認めてしまったら自分があまりに惨めだと思うのかもしれませんが、それがどーした?と言いたい。ワタクシゴトで恐縮ですが私など、今までこんなことしてたなんて、あんなこともわかってなかったなんて私は何たるバカ女だったのか!と気づいて愕然とするのはもはや日常茶飯事。でも守るべき自分なんかどっちみち初めからないんだし、どうしようもない大バカ女だとわかったからってそれでいちいち揺らぐ自分じゃなし、なあんだ、そうだったのか。わかっちゃった、ああスッキリ。もし、そんなことを認めるのは自我崩壊の危機だ!と言うのなら「その程度の自我なら無くなったって困らないでしょ?さっさと捨ててしまったほうがいいですよ。」今度は「私にだってプライドがあるんです!」ですって?まあ素敵。ただ自分の弱さを誤魔化すために自分の周囲に要塞を築いているだけでしょう。その要塞をプライドと呼んでいるのでしょう。やっぱり「さっさと捨ててしまいましょう」。とにかく「擁護・防衛されるべき自分」を外してみていけばたとえ相手のことを考えていたつもりでも途中から「あれ?これって私のことだ」と気づいてしまうのです。ああ、イヤでもそういうことになるのです!

ところで貴方は後生大事に「何を」守っているつもりなのですか?それは一体何のため?

恋愛においての数々の不満は煎じ詰めれば「相手が自分の思い通りになってくれていない」という身も蓋もない事実に帰着してしまいます。私は愛や信頼関係やコミットメントを求めているのだ!と立派なことを並べてみても大抵の場合は要するに「思い通りにならない」ことの不満です。第一、愛や信頼関係やコミットメントに本気で直面している人なら悩み方の種類も違ってくる、これは一目瞭然です。鏡現象で言うなら、相手に「愛や信頼関係やコミットメントが見られない」と感情的に怒りをこめて言う貴方にこそ、それらの欠如があるのかもしれないのです。相手が自分の思い通りにならないなど、そもそも相手にそんな義理も道理もない以上どうみても「なってほしい」というのは貴方の我が儘なのですが、それを認めたくない貴方は自分の欲求を正当化し、更に相手の人格批判を始めたりするわけです。もちろん相手だって完全無欠の人間ではないから批判されるべき点はあるでしょう。しかし考えてみれば所詮「思い通りになってくれない」に終始するのであって、思い通りになってくれていれば相手の欠点だって別に気にならなかったりするものなのです。

「思い通りに行かなくて悲しいわ」だけなら鏡現象ではありません。が、そこに「怒りに近い不満からくる感情的批判」が出ていたら限りなく間違いありません。

恋愛における鏡現象のあらわれかたは実にさまざまです。多分みなさん興味のあるところだと思いますので次回からできるだけ多くの例を挙げて説明いたします。(この項続く)


 
第28回「誰の問題?誰が問題?V」

(承前)今回は、他人との関係が自己を映す鏡となる現象の具体的な現われ方を挙げていくことにします。たいていの場合は「自分の中の抑圧」が他人の中に見える、それで感情を刺激されるというのが根本にあります。「鏡」というからには「投影」したものが「反映」されるのです。何も投影していなければ当然反映も起こりません。投影されるものは、貴方の本当の状態、意識の中に刻印された設定や観念などです。

あの人って本当に嫌なヤツ!どうしてあんなことできるんだろう、信じられない、頭にくる、イライラする!と、もう自分でもどうしようもないくらい、ストレスになるほど感情的に反応してしまうとき、貴方が相手の中に見ている嫌な部分すなわち貴方をもっとも刺激する部分が実は貴方の中にもあって、貴方はそれに気づかないか見ないふりをしているーつまりそういう部分があることを「認めていない」言い換えれば抑圧している、という場合がまず挙げられます。逆に言うと「自分の中にあって自分が認めていないイヤな部分が相手に投影されて外在化されている」。これはかなりわかりやすい出方でしょう。

例えば、誰かが自分の学歴やらモテぶりやら楽しげなライフスタイルやら何やら、何でもいいけど鼻にかけて自慢しているとする。実際には自慢しているわけではないのかもしれませんがとにかく貴方には「自慢」だと映ってしまうのです。場合によっては「私を馬鹿にしている」とまで感じてしまうこともありえます。これも相手にはそんなつもりがなかったりするのです。この場合、実は貴方が自分自身のことを馬鹿にしている=自己評価が異様に低いのであって、だからこそ相手の言動がそのように映ってしまう。貴方が自分自身を普通に評価している人であれば、たとえ相手が本当に貴方を馬鹿にした態度を示してもここまで頭にくることはないのです。

さて、例えば誰かが自慢話をしているとして・・貴方の中にそれらに対するひそかな劣等感があったりー実際劣っているのかどうかは関係なく単に主観的な自己評価が低い、ということー或いは「私だってそこそこ優れているのにあの人みたいにみっともなく自慢なんかしない」という気持ちーこれも実は自信のなさを抑圧しているーがあったりすると、実際にはただ相手が普通に話しているだけであっても過剰な反応が起きるのです。こういうケースでは、「相手のそういう部分が貴方の中の劣等感を刺激する内容である」ゆえに「本当は羨ましいのに素直に『羨ましい』と認められない」ことがまず見えるはずです。そういう劣等感が抑圧されておらずちゃんと自分で認められているのであればただ「いいなあ、あの人は。羨ましい」で済むはずであってそんなにイライラするほど頭にくることはないのです。また、たとえ相手が「勘違いしてみっともないまでに自慢をして」いるのであっても、それに対して呆れたり内心苦笑したりするくらいで或いは気の毒に思うくらいで済むはずです。

また、上記のように相手に対して抱く、例えば「あんなことしちゃって!」という気持ちが過剰に感情的に現れる場合については劣等感とは別の説明を要します。よくあることですが、誰かが平気で二枚舌でも偽善でも自慢でも要するに「良くない」とされていることをしてうまくやっているのを見た場合に、それが「鏡現象」になっていなければただ驚き呆れ「そういう人なのか」と認識し、せいぜい軽蔑するくらいで済むのです。そして当然「こういう人とは距離を置こう」となるでしょう。たとえその人の性格の悪さによって貴方が何らかの被害を蒙っていたとしても、まあ多少は頭に来ますがそれでも「そういう人だ」とわかったならそこから今後の対策を冷静に考えることができるでしょう。それを「許せない!」と心底感情的に反応してしまうと距離をおくどころか「思い知らせてやる」とばかりに戦闘態勢に入ってしまい当然更なるトラブルが起きる。鏡現象でなければ怒りがこみ上げてもすぐに冷静に戻れます。どうしてそんなにまで「感情的に」頭にくるのか?・・・貴方も本当はそういうことをしてみたいからかもしれないのです。或いは貴方の中に全く同じ類の「嫌な部分」があるのかもしれないのです。「あんなこと!」をする「許せない」自分がいるのかもしれないのです。

ここが肝要です。貴方がそういう「悪いこと」をしないのが以前に述べたような「自律的倫理性」から出ているのであれば、その「悪いこと」或いは「偽善」をしている人をみても別に感情的に反応する道理がないのです。しかし貴方がそれらをしないのが「してはいけないと教えられてきたから」に過ぎず、本当に生きた倫理として内在化されていないなら話は別です。すなわち・・他人に評価されたいから、いい人でいたいから規則を守ってきた。あの人は平気で規則を破るのにそのことで別に悪い目にもあっていない、ズルイ!許せない!

確かに「平気で規則を破る」のは良くないことですが、「鏡現象」になるとこのイライラや許せん!という気持ちがストレスになるほど強まるのです。逆に言えば、そんな状態になっていたなら自分の中を、そういう状態を生じさせるものは何なのかをじっくり見てみなさいということなのです。さあ、目を皿のようにして見て下さい。

(全く余談ですが、正直者は馬鹿を見るのだと本気で思い世をすねているような人は上記の理由により真の正直者ではない、ということになります。)

貴方から見れば大したことない誰かが貴方に対してやたらに偉そうにあれこれ言ってくる、貴方は適当に受け流すこともできないほどイライラしてストレスが溜まる。「何よ、エラそーに。自分だって本当はこれこれこうで大したことないくせに!あの人に自分が実はどうってことない人間だとわからせてやりたい。」

ワカラセテヤリタイ?あらまあ大変、今度は貴方が「偉そうにふるまいたい」のですか?相手はダメなのに貴方にはそれが許されるのですか?

こういう具合です。まだまだ続きます!(この項続く)

 
第27回「誰が問題?誰の問題?U」

承前)人は他人とのかかわりの中で多くを学ぶことができますが、それは「相手がどんな人かを知る」ということよりもむしろ「自分自身について学ぶ」ということなのです。本当に透徹した目で自分自身を見つめることができる人であれば、他人を経ずとも直接「自分自身について徹底的に調べ深い理解に至り」それを他人および他人とのかかわりに生かすこともできるのですが、そこまで自分を客観視できる人は非常に少ないでしょう。他人とのかかわりによって、その中で、自分自身について知るというやり方から入るほうが一般的です。一般的とはいっても多くの人はそれさえできていません。

「他人は自分の鏡である」とよく言われます。これはどう見たって真実です。但し、この「鏡である」という意味をうまく捉えていないと理解できない現象でもあります。また、その鏡を見る自分の目が曇っていたりそもそも目が閉じてしまっていたりすれば、或いは鏡自体が欠陥品であれば当然お話になりません。

いついかなるときにおいても「他人が自分の鏡」があてはまる、とは言えない。しかし、もし貴方が誰かに対してアタマに来る・悔しい・イライラする・許せない!などの感情を反射的あるいは継続的に抱いていたり更にその人を批判したくなったりしていたら、それは100%間違いなく「鏡現象」です。また、誰かのことが気に障って仕方が無い、考えるとイライラするけど頭から離れないなどという場合も同様です。簡単に言えば、誰かの言動に対してそれを直接相手にぶつけなくても「感情的に反応してしまう」とき、いくら貴方がイヤでも認めたくなくても、こういうときにその誰かは貴方という人を映し出す鏡になっているのです。

この「感情を伴うか」どうかが非常に大切なポイント。何の感情も湧かずにただ相手を批判しているだけならその相手は別に貴方を映し出す鏡ではありません。

前回、「自分の真実を見つめるために自分にダメージを与える人を引き寄せている」と書きましたが、それはこのような「鏡」を通して自分自身について学ぶため=自分という人間を知るためというのと全く同じ意味です。言い換えれば、貴方がまだ知らない自分、かつ貴方に存在を認められたいと望んでいる自分が(そんなものはない!とたとえ否定したくても、です)貴方の中にいる、ということだし、もしも貴方が「人間関係で辛い思いをする自分を変えたい、何とかしたい」と望んでいるのならまさにその願望を叶えるチャンスとしてそのような他人が引き寄せられてきたということでもあるのです。他人とのかかわりで苦しんでいるとき、それは実は「自分自身を知り解放するチャンス」に他ならないのです!

直接かかわりのない他人であっても同じことです。芸能人でも文化人でも政治家でも、どうにも気になって仕方がないイライラするイヤな奴!全然好きじゃないんだけどどうしても気になって・・と思う人がいたらそれも鏡現象です。つまり、それは「自分を解放するチャンス」として使えるということです。

「憎いあの人は貴方の鏡です」などという事実は認めたくない!という人もいることでしょうが、前のコラム「明るい絶望」を思い出してください。どんなにそれがショックで屈辱的であっても認めて受け容れないとその先には行かれないのなら、以前流行った「本当の自分」とかいうものを知りたいのなら、さあ認めてしまいましょう。断崖絶壁から飛び降りましょう。

となると今度は認めたくないあまりの抵抗で「だってあの人はああだけど私はこうだから、ほらこんなに違うじゃない!」と言う人もいるでしょう。こういう人は本当に救いようがありません。だって「鏡現象」を利用して自分自身について学び意識を変えていきましょう、貴方を悩ませているものから解放されましょう、という目的でやっていることなのだから当然鏡に映るところの「相似点」に着目しなくてはならないのに、わざわざ相違点を数え上げてどうするのですか。他人なんだから相違点なんか沢山あるに決まっているじゃないですか!そんな当たり前のことを言ってどうするのよ!というわけです。つまり、このような方々は「ハワイに行きたいけど飛行機にも船にも乗りたくないの」と言っているのと同じなのです。

本当に貴方がこういうことを通してでも自分を変えたいと望むならば、敢えてその相手との相似点を見つけていくくらいの覚悟がなくてはなりません。

もちろん、鏡現象と言ったって単純に「自分と瓜二つのあの人」という形でそのまま映るわけでもありません。いろいろな現われ方があります。でも、一旦そのコツをつかんでしまえば何かあるたびにその都度「ああ、これか。私もこうなんだ、私こそこうなんだわ」とウソみたいに簡単に「見えてしまう」ようになります。これも私が保証します。次回は、この「鏡現象」の具体的な現われ方について解説いたします(この項続く)

 
第26回「誰が問題?誰の問題?」

人は生きている以上いろいろと感情を刺激される出来事に見舞われますが、それらは通常「自分以外の何か」によってもたらされるものです。中でも悩みの種になりやすいのが他人との関係におけるあれこれでしょう。「他人」の延長として「国家」を含む「社会」というのもありますが、ここでは主に貴方と直接かかわりのある他人というものに限定して話を進めます。

ずっとリーディングの仕事をしていて気がついたことがあります。悩みが絶えない或いはなかなか解決できないような人が何らかの不運や苦しい出来事に遭遇したとき、「あの人(たち)のせいでこうなった」と考える傾向のあるタイプと「私がダメな人間だから、能力がないからこうなった」とするタイプと、まあ大雑把に分ければこの2種類に大別されるのですが、面白いことに前者の殆どが「実は本人が原因になっている、本人の責任が大きい」という割合が高く、それに対して後者は「相手・周囲がおかしすぎる。これでは貴方がどんなに頑張っても、貴方でなくても誰でもトラブルになったでしょう」と出る割合が高いのです。後者の「自分のせいにしてしまう」人たちは、実際には彼らが思い悩んでいるほどのトラブルにはなっていないこともあるので、ちょっと意識を変えれば事態の収拾も早いものです。しかし重症のタイプになると、以前にここで述べた「ダメな自分を罰する」意識のパターンで自分にダメージを与えるおかしい人ばかりを引き寄せてしまうケースなどもあるのですが、ここでまず問題にしたいのは前者のタイプです。もちろんこの中にも「わざわざ自分にダメージを与える人たちを引き寄せる」意識を持った人が多く含まれます。自分が招いておいて相手のせいにしているのだからご苦労様なことですが、この人たちがそういう相手を引き寄せるのは「自分を罰するため」ではなく実は「自分の真実を見つめるため」です。そこが後者との大きな相違点だろうと私は睨んでいます。

たとえ誰かが貴方に対して何らかダメージを与えるようなことをしても、そこに悪気があってもなくても、貴方が何を感じどんな影響をどこまで受けるかというのは実は完全に貴方しだいです。もちろん瞬時に「こう感じよう、こういう影響を受けよう」などといちいち考えて選択することなどはできず、大抵の人は無意識に反応してしまっているわけですから最初に喚起される感情はどうしようもありません。しかし、後から冷静になってみてみれば「別に対して怒ることでも傷つくことでもなかったな」と反省もできるわけです。それを野放しにどこまでも拡大してしまうと、誰かにいやなことをされた帰り道に電車が遅れても石につまずいても「あの人のせい」になってしまったりーつまりその後に引き続いて起きる良くないことが全て「あの人のせい」になってしまい、その経験が尾を引いて後に同じことが繰り返された場合、トラウマだ!あの人のせいだ、ともなってしまうのです。(余談ですが、昨今トラウマという言葉があまりに安易に使用されているような気がします。筒井康隆によればこれは「自分のことを虎だと思って悩んでいる馬」のことだそうです。)

初めに喚起される感情―怒り、傷つき、悲しみ、恐怖などーはどうしようもないにしても、それだって「何故ここで自分はこのような感情を抱くのか?これ以外の何かではなく、何故この感情なのか」と検討することもできるしそれは自分の意識の刻印を知るために大いに助けになるのに、どうしてだかその作業をする人は非常に少ない。これも私からすると不思議でなりません。更に、その経験による影響力の大きさに関して言えばこれはもう完全に貴方次第、貴方の問題です。この時点においてはもう既に「あの人のせい」なのではなく、その影響力が大きく自分に及ぶのを許してしまった貴方自身の責任なのです。これは過去のどの時点においても言えることです。敢えて厳しい言い方をしてしまえば、幼少時に周囲の大人から受けた影響もあてはまります。もちろん子供なのですから判断力もなく不可抗力だったわけですが、同じ環境・出来事からどんな影響をどう受けるかは個人差がかなりあることを考慮すればやはり「受ける側の問題」ということになってしまう。これらは大人になってから「理解」しなおすしかないのですが・・・。

とにかく、結局どうしたって自分の問題というところに帰着するし、またそうでなければ人間関係でトラブルや悩みが生じている場合にそれらから解放されることもできなくなってしまうのです。貴方に対する誰かの態度が変わらない限り貴方の問題も終わらないのだったら不自由でしょう。第一、その誰かは貴方の側の問題なんて全然知らないも〜ん、だったり、たとえその人が貴方に与えた影響を自覚し反省してくれたところで貴方の中から問題が一掃されるとも限らないのです。そういう影響を受けるという「傾向を持った」貴方の「意識」そのものが真の原因だからです。しかし、自分の責任であるならば自分さえ変わればそれらの悩みからも解放されるわけです。誰か特定の人に限らず、一般的に他人や周囲からの悪影響を受けずに生きていかれるようになるということです。

自分さえ変われば・・・でもどうしたら?いろいろなアプローチがあるでしょうが、ここでは他人とのかかわりに限定して述べているのでそこから学べるやり方をご紹介します。(この項続く)

 
第25回「明るい絶望V」

(承前)絶望だの「救いがない」だの少々極端な言い方をしてしまいましたが、例えば「あるがままに生きる」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」などと根底で通じていることだと思います。ということはつまり特別なことではなくて、古来から理法とか心得として受け継がれ行われてきたことでもあるのです。

以前から述べていた「希望を持ち続けてポジティブに生きる、前向きな信念を持つ」ことと矛盾するように見えますが、この二つはアプローチの仕方が逆なだけであって実は全く同じ状態を表しているのです。

両方とも、「期待しない」「執着がない」=「エゴが無い」ために中心が定まって全的にリラックスした状態です。単なる虚脱感ではありません。

ということは、絶望が極まった状態にある人、その境地を知るに至った人は却っていろいろなことができてしまったりすることもあるわけです。これは非常に逆説的で面白いところです。

一つの例ですが、戦争でそれこそ「奇跡的に生き残ってしまった」ような人が、自分の人生はあそこで一回終わったのだ、そこからは死んでもともとの人生、おまけの人生なのだからもう怖いものは無い、失うことを怖れない!という境地で生きて立派な仕事を成し遂げた。そういう人々が沢山います。その一方で戦争に負けたことで信じていたもの全てを失ったことに耐えられずその場で自殺したり自暴自棄の生き方を選んだりした人もいたわけですから、同じ境遇が同じ経験をもたらすとも限らないのです。

このような転換的気づきというのは努力によって、というか能動的に得られるものではない、というところが難しい。自分が空っぽになってこそ、そのスペースに「入ってくる」かの如くに得られるものです。気づきとか理解というのはおしなべて受動的なものなのです。そのためにできるのは自分という器を空にする日々の努力くらいでしょう。

ゆえに、「全的な絶望をすればいいことがあるのならやってみようかな」などということは不可能なのです。何故なら「いいことがある」「より良くなる」という目的が介在してしまっては完全な手放しの絶望にはなりえないからです。

どん底の状態、茫然自失の状態にある人が「この経験にもきっと意味があるはずだ、挫けずに頑張ろう」というのは正当なことですし私もクライアントに対してそのように申し上げ、更にその「意味」の内容までリーディングすることもあります。しかし、ここで述べている「全的な絶望」とは、そんな「意味」すら崩壊する極限状態です。この事態、この経験には何か意味や学びがあるのかもしれない、そんなものは全く無いのかもしれない、どっちだっていいのだ。あろうとなかろうと今はこれを受け容れるしかない。そういう感じです。意味や学びを「期待」してしまっているうちはどうしても堕ちるところまで堕ち切れない、陰が極まるところまでいかれないのです。

「期待」が無いのであれば、それらの意味や学びを信じて踏ん張ろう!という姿勢は正しい。ただ、期待でなくても「何故こうなるの?この経験の意味は何?何を学んでいるの?」ということにこだわりすぎ、それら理由や意味がわかるまでは前にも後ろにも身動きが取れない、というのなら、そんなものはさっさと手放してしまいなさい、忘れてしまいなさいと言いたい。今すぐわからなくたっていいではありませんか。先ほど述べたように、それらが「わかる」という一種の気づきは向こうからやってくるかの如くに得られるのですから、自分の準備ができれば悩まなくたってイヤでもわかるようになっているのです。先の「奇跡的に生き残ってしまった人たち」も「何故自分だけが?一体どういう意味があるのか」と初めは悩んだことでしょう。そして「わからない」という事態をそのまま受け容れて生きたのだと思います。「意味」は後からついてきたのでしょう。一方、スピリチュアルを標榜している方々の中には、辛い経験をしているときそれに無理やり自分勝手な意味づけをして自己満足に、それも下手するとエゴの満足に陥っている現象も見受けられます。こういう方々は間違っても「もうじたばたしても考えても無駄だよ、諦めるしかない」とは言えない、そんなのはスピリチュアルな考え方に反する!と思っているので誰かに言われても受け容れられない。その「諦め」こそ彼らが究極目的としているところの「エゴの手放し」につながるのに!こうして下手に意味を固定してしまったために今度は本当の大きな気づきを取り逃がすのです。ああ、なんて絶望的な人たちでしょう。

ここで述べた類の絶望が起こるきっかけはいろいろありますが、基本は「理解できない・認めたくない現実を認めて受け容れる」ということです。やってしまえば実に爽快!私が保証します。

 
第24回「明るい絶望U」

(承前)前回、「救いなどは無いと知れ、諦めろ、絶望しろ」みたいな過激なことで終わってしまいましたが、ここからその詳細な説明を致します。

救いがない、それを求める必要が無い、のならば救いを求めるための努力もまた必要がなくなるわけです。というか無いものに向かって努力はできませんね。

一般的に言えば「努力」というのはとても重要で価値あることなのですが、これにもいろいろな種類があります。どんな状況であれ自分はこうするのだという自律的倫理性―これは簡単に言うなら、例えば「悪い」とされていることを「してはいけないから」しないのではなくて「したくないから」しない、というようなもの。抑圧がない状態です。故に他人にそれを強制する気持も起こりませんーに従って日々努力する、というこれは私から見るとより本質的な類のものです。何があろうがなかろうが日々精進、みたいなことですね。

もう一つの「努力」、こちらのほうが現代では普通のことだと思いますが、いわゆる何か「目標を達成するための努力」です。何かしら「達成すべき目標」がなければ成立しないものです。乱暴に言えば「その必要があるから、或いは頑張ればよいことがあると思うから頑張る」みたいなことです。じゃあ必要性や良いことがないのだったら、つまり報われないのだったら頑張らないのか?つまり自律的なものではあり得ないのです。

「救いを求めるための努力」というのは明らかに後者のほうですね。これがもはや必要なくなるわけです。前回の最後で「下手に絶望・諦めをやると危険」だと書いたのは、こういう類の「努力」がもはや不要になってしまったとき自分が今までしてきたことの全てが無駄だった、これからどうして生きていったら良いのか!?という心境になりーこれが通常の意味で「絶望」と呼ばれるものですーそのことに耐え切れずおかしくなる場合があるということです。

今までの全てが無駄であったとしてもそれが何だというのか?その事実すらも受け容れるくらいに「救いのなさ」「絶望」が徹底されていないとダメなのです。前回述べたように「陰」が極まらないと「陽転」しないからです。

たとえば・・自分の全人生をあげて心血を注いで神を信仰してきた、ところが「神は死んだ」とか「そんなもの初めからいなかったのだ」とわかってしまった。これは神でなくても、実現したい夢でもキャリアでもパートナー・ソウルメイトでも何でも当てはまるのですが、ここで人がとる姿勢は大体3つです。(1)「きかなかったことにして」以前と同様な生活を送る、(2)錯乱発狂するか自堕落になるーこれは「信仰すれば救われる」と、救いのためにつまり目標のために信仰努力をしてきたからこそですー(3)もう一つは「そういうことなら仕方ない」と受け容れる。無駄な抵抗をしない。というより、もはや抵抗することも、落ち込むことすらできないのだ、という認識に至ってしまうのですね。落ち込んではいけない、というのではありません。落ち込む余地すら残されていないのです。

すると、どうなるか。たとえ貴方の信じてきたもの全てが水泡に帰したとしても、依然として世界は存在し貴方は存在するではないか。日々の進行というものは相も変わらず続いているのです。ああ、こういうことだったのか!と、ここに深い驚きを覚えずにはいられません。

この「絶望が極まった状態」というのは、わからない人にとってはとんでもなく不自由なものに感じられるかもしれませんが、事実は正反対です。ある意味では自分を束縛するものがきれいさっぱりなくなってしまったのですから、ここにこそ「絶対自由」があるのです。

また、そんな「救いがない」ことがわかってしまえばさぞかし人は落ち込んで自暴自棄になって堕落するだろうと思うかもしれません。これも逆です。もし「落ち込ん」だり「自堕落」になるのなら、それはまだ諦めが悪い!絶望が足らん!ということなのです。

この「絶対自由」の状態にあれば自律的な倫理性というものがおのずから生じることになっているので堕落しようがないわけです。冒頭で一つ目の努力、として挙げた努力を自然にやるようになるのです。

陽に転じるほど陰を極められるか、そのことに耐えられるか、というのは結局その人がエゴを手放せるか、ということと殆ど同義なのだと思います。特に自分に関することで「意味が無い、価値が無い」という事実に耐えられないのは即ちエゴの作用なのです。

いずれにしろ、意識が「陰極」に至ってしまえばスッカラカンの青空みたいな清々しく力強い感覚が生まれます。この手の「絶望」「諦め」は断じて妥協などではありません。もっとトータルな何かです。それによってこれまでとは全く異質の世界、姿の違う世界が開けてくることは確かです。貴方も世界も依然として存在している、しかしその「在り方」が変容するのです。(この項続く)

 
第23回「明るい絶望T」

これまでのコラムでは、あなた自身がより良く生きるためにはできる限りポジティブに前向きに物事を捉えて希望を持ち続けることが大切だと書いてきました。今回は一見それらとは矛盾することを述べます。

「どんなことがあっても希望を捨てないで」とか「救いがあると信じる」のは確かに大切なことである、というかそれが完璧にできるなら非常に望ましい姿勢であることは間違いありません。しかし、人が何故悩み苦しむかというとそういう希望やら救いやらを「信じ切れない」からなのです。誰でも思い当たることがあると思います。神頼みでも自分頼みでもポジティブ思考のアファメーションでも何でもよい、「こうなりたい、絶対に大丈夫だ」と思いたい、しかしその側から「でも本当に大丈夫だろうか」という疑問・不安が頭をもたげる。また、個々の問題についてではなくもっと大きな次元のこと、例えば自分の人生全体などを考えたときにも同じです。人が宗教やスピリチュアルなあれこれに興味を持ったりハマったりするのは「より良くなりたい」からですが、それもミもフタもない言い方をしてしまえば要するに「救われたい」からでしょう。「救い」という言葉が適切かどうかわかりません。「希望」とか「うまく行く方法」でも良いのですが、大体「成功哲学」でも「覚醒を求める」でも、これをやれば今までのいろいろな苦労から解放されるという発想からなされていることが殆どなので、ここはやはり「救い」と言ってしまいましょう。そういうあれこれは全て、どこまでも「救いがある」と信じているからこそ始めるものですね。そしてその反面、もしも救いがなかったらどうしよう、という不安が大なり小なり背中合わせに存在したりするわけです。そして現になかなか思い通りに行かないと「この宗教、このマスター、このワークではダメなのだ」と判断して別のものに行ったりすることも少なくありません。病気治療中の人が次々に病院や治療法を変えていくのと同じ構造です。

ここでない別のどこかに行けば、別の何かをすれば効果が出て救われる、どこかに何か自分を救ってくれるものがあるはずだ!これが本当に強固な信念になっている人はまだ良い。そこにこそ希望を持ちそれを心から信じて日々たゆまぬ努力ができるなら、いつか自分の外側の何かによってではない形で大きな気づきをー「ああ、そういことだったのか!」という気づきを得られる可能性が高いからです。しかし、初めから自分が何を求めているのかも良くわからないままにただ自分の精神の不安定さに突き動かされて何かに「おすがり」するような姿勢ならば多分どこに行っても何をしても大して変わらないでしょう。人間というものは何らかの信念或いは覚悟が固まらないと全的にリラックスした状態にはなれないからです。

ともかくも、救いがあるはずだと思うからこそそれが得られないときに悩み苦しむのならば、そこから抜ける方法は二つしかありません。一つは今まで述べてきたこと、つまり「自分は救われるのだと確固たる信念を持つ」、信じきるということです。もう一つは、「救いがあるはず」という発想を捨ててしまうこと。そんなものはどこにもないのだ、救いも希望も「無い」のだ、「無かった」のだ。「無い」ものは求めることもできない。言い換えれば「求める必要が無い」のです、だって「無い」んだから!「無い」ものを「あるかも」と思うから苦しいんでしょう。本気で「無いのだ」と認められるか。これは「一歩の違い」のようですが、とんでもなく大きな違いです。

これはつまり良い意味で「諦める」「完全に絶望する」ということでもあります。一見すると非常に暗〜いどん底でネガティブな感じがするでしょうが、ネガティブの極致であれば「陰極まって陽となる」です。全然暗くない、実はこれほど明るく晴れ晴れした状態はないのです。これはもっとも大きな気づきの一つでしょう。その代わり下手にやると錯乱発狂の危険があるかもしれません。本来こういうことは意志してできることではなく、また実際に体感として「わかる」人にしかわからないものなので今これを読んで全然ぴんと来ない方々は「そういうこともあるのか」くらいの気持ちで捉えておいて下さい。わからなくても覚えておいて損はないことです。(この項続く)

 
第22回「幸せになりたい!番外編」

幸せである、ということはそこに不安がないことである、とは誰にでも納得できることだと思います。今回はその「不安」にフォーカスしてみましょう。

さて、前に成立条件を満たすことによって得られた幸せは絶対的なものではないと述べました。「絶対的」というのは別に「永遠に壊れることなく存続する」という意味ではありません。自分ひとりで何の条件にもよらず感じる「満ち足りた状態」の幸せとて、所有できないものである限りにおいて「固定され存続する」ものではない、このことにも既に触れました。

この場合の「絶対的ではない」というのは、言うならば「幸せの中にも不幸の影が差しやすい」或いは「同時に不安も生じる確率が高い」のような意味です。つまり「満ち足りて十全」になりにくいということです。

あなたが何かしら恵まれた境遇に身をおくことになり、なんてラッキー!幸せなんだろうと思うとき、同時に「こんなに幸せでいいのかしら」「いつまで続くのかしら」などの不安を感じることがあるのではないですか?得たことによって今度は失うことが怖くなるわけです。得られたものが大きければ大きいほど、失うことの不安や怖れも大きいものになってしまうでしょう。更に、人によっては求めていたはずなのにその「幸福」という状態に耐えられず、前項の最後で触れたように「なじんだ不幸・不安定な状態」を求めてしまうこともあります。

その人がもともと不安を感じやすいー意識の根底に不安があるーならば、どんな状態になってもやっぱり不安なのです。「不安な人」がお金持ちになっても恋人ができても意識が変わらない限りやっぱり「不安」なままなのは少し考えてみれば自明のことです。

「お金がないから」「恋人がいないから」不安定、だったものが今度は「お金があるから」「恋人がいるから」不安定になる、それだけのことなのです。

常に不安を感じてしまう人、意識の根底に不安がある人というのは換言すれば意識の根底に「私は求めるものを得られない」もしくは「その価値がない」がある、要するに自己評価が低いわけです。幸運にも求めているものを得たことにより自信がついてこれが変わればメデタシなのですが、そうならない人も結構います。こういう場合、まず間違いなく「自分自身に問題がある」。自分自身が「不安」という存在のしかたをしているのです。

結果としてこのような人々はどうやら安定を求める気持ちが異様に強くなるように見受けられます。何事に対しても「こうなることは絶対に確実だと知って安心したい」のです。そしてここが肝要なのですが、これらの人々の「安心したい」とは、基盤にある「不安」から生じている、ということです。不安から逃れたいだけなのです。ここが以前述べた「確実だと思って安心していればそれは叶うだろう」という、つまり「基盤に安心がある」こととの決定的な違いです。根底の不安が去らない限り何をやっても何を言われても穴が開いたバケツのごとく安心できないのですから、どんな状態になろうがそれで「十全に幸せ」になれる道理もありません。

加えて、「自分の将来が絶対確実にこうでなくては」と執着することで流れに身を任せることができなくなり、自然にしていればうまくいくであろうことを自ら潰してしまったりもするのです。

もしあなたがそのようなタイプであるなら、不安が生じたときにそれから逃れようとしてありもしない、また所詮信じきることもできない「絶対確実な安定」を求めたりしてはいけません。むしろ、ただその不安をそれとして受け止め眺めていれば良いのです。そうしている時、そのことにおいて貴方はなんと安定しているのです!これなら執着も生じません。

こうしてみると、幸せとは不安のない状態であるというよりもまず「執着のない状態である」と言う方がより正確な感じがします。

更に言うならば、幸せを求めることに執着すればそれによって不幸になる、となります。案外、こういうところに嵌ってしまう人もいるようです。

何にせよ、幸せとはどこまで行っても自分の中の問題なのです。

 
第21回「幸せになりたい!W」

(承前)何も起こってないのに今ここでいきなり幸せになることができる。幸せというものを、何かを経ることなく直接経験することができる。では、どうすればよいのでしょうか?

何らかの薬物を摂取すればそれなりに幸福感・多幸感を味わいハイな気分になることはできるでしょう。しかし、これら快楽の感覚はその人の存在の根底とはつながっていないのです。しかも、そのような薬物なしに幸せを味わうことができないのであれば、今度は幸せが薬物という「条件」によらなくては成立しないものに、つまりはそれらに依存したものに過ぎなくなってしまいます。

「今ここでいきなり幸せ」になるためのテクニックやマニュアルはありません。しかし、誰でもそうしようと思えばできることでもあります。とにかく試してみて下さい。というより、おそらく貴方も無意識のうちにそういう状態になっていることが既にあるはずなのです。よく見てみて下さい。それに気がつけばきっと貴方は驚くでしょう。

だいたい、「私の幸せは今ここじゃない遠くにある、あれとこれがうまく行くまでは幸せじゃない」と考えるような人は、そのような「何もなくても満ち足りている」瞬間を、もう必ずといっていいほど見逃しているものなのです。それどころか、ちょっといいことがあっても「まだまだこんなんじゃ幸せとは言えないわ」とその喜びを味わうことを否定する人さえいます。そういう人々は「見えない、味わえない」というただそのことにおいて不幸である、ということもできるくらいです。

自由自在に満ち足りた状態になれるようになったら、その上であれやこれやを改めて追い求めてみたって良いわけです。そのとき、貴方の求めるあれこれは既に「幸せになるために必要な条件」という枠から解放されているのです。

もちろん、自分で勝手に「なる」幸せだって継続的で固定しているものではありません。なぜなら、どういう種類のものにせよ「幸せ」は個人が「所有」するものではないからです。保管したりすることはできないのです。それに、何も一年中一日の休みもなくずーっと幸せであり続ける必要もないのです。

ここにまたひとつの落とし穴があります。幸せというのが何か「手に入れる」すなわち「所有できる」ようなものだと思い込んでいるならば、おそらくその人はずっと不満を持ち続けることになるでしょう。もしもその人が幸せを快楽と混同しているなら、ますます悲惨なことになるはずです。快楽もまた所有できるものでも継続的なものでもないからです。

幸せとは、何というか宇宙に遍く存在するような「満ち足りた状態」に自分がアクセスするとか溶け込むとか、そんなものであると私には感じられます。何かをしていたり誰かと一緒にいたりするときに「至福の時」を味わうことがありますが、これは求める努力によって得られるようなものではなくて自然に「生じる」とか「起こる」という感じがふさわしいものです。勝手に起こって過ぎ去っていくもの・・・慈雨のようなものだと感じられます。これをつなぎとめておくことはできないし、できないからこそ貴重で美しいのかもしれません。

幸せになりたい、というのはその内容は人それぞれであるにしても、実に実にシンプルな願望であり、その基本は「不安や苦しみがない状態」なのだと思います。そしてそれら不安や苦しみは自分の意識が作り出しているものだとすれば、幸せもまた自分の意識次第ということになります。更に、ある状態を幸せと名づけるのも不幸と名づけるのも、或いは初めから名づけないのも、前述したように本人次第です。

最後に少し怖いお話。「運と意識」で述べたことに関係していますが、幸せを求めているつもりで実は不幸を求めてしまっている人というのも存在します。或いは、せっかく目の前に求めていた幸せがあるというのに、それが自分にとって未知のものであるために却って不安になってしまい、それよりも「慣れ親しんだ不幸な状態」を選んでしまうのです。未知の幸せよりなじんだ不幸。こんなことに陥らないためには、やはり常日頃から「今ここで幸せになる」状態を体験しておくことが大切であると思います。

 
第20回「幸せになりたい!V」

(承前)幸せに客観的基準はあり得ない、という話の続きです。前回見たものとは逆に、どう考えても幸せではない人が「私は幸せなんだ」と思い込んでいる、というケースもあります。自分の内面をみてみれば決して満たされておらず幸せでも何でもないのに、自分にはあれもある、これもあるのだから、素晴らしい宗教を信じているのだから、素晴らしいマスターのいうことを聞いているのだから幸せなはずだ!不幸なわけはないわ、と思い込むのもまた自分とは違う何かに幸せの基準をおいているだけのことで、一種の現状否認に他なりません。「ポジティブ思考」の項で見た「虚勢による無理やりポジティブ」に似ています。

話を少し戻しましょう。幸せであるかどうか、とは外側のあれこれではなくどこまでも本人の意識の状態のことである。通常はそれを直接求めることができないから、幸せになるために必要であると思うものをまず求める。これはTで述べました。さて、念願叶ってそういうものが手に入ったとしましょう。貴方は幸せになりました。メデタシメデタシ・・・なのでしょうか?

素晴らしい恋人ができたとする。彼(女)がいれば貴方は幸せです。でも彼(女)が去ってしまえば、あるいは貴方の気持ちが冷めてしまえばその幸せはなくなってしまいます。健康でもお金でも名声でも、同じことです。それらを得たことで新たに「失ったらどうしよう」という不安が生じる可能性さえあります。あるいは「得た」という状態にすっかり慣れきってしまってありがたみも感じなくなり、新たな不満が生じることもあります。

どちらにせよ、これら「必要と思われる条件」によって成り立つ幸せは絶対的なものになり得ないのです。

「通常、幸せを直接求めることはできない」と何回も書きましたが、実は直接幸せを求めることーというか直接その状態に至ることもできるのです。すなわち、何の条件も必要としない幸せ、今ここで何の理由もなくいきなり幸せになる・・・なろうと思えばなれるのです。なぜなら、幸せとはどこまでいっても本人の意識の状態であり本人が決めることなのだから「なりたければ今ここで何の理由もなく」幸せになったって誰も文句のあろうはずがないのです。信じられませんか?荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、この気付きを得てしまうと意識がガラリと変わります。小さなことでもそれを幸せに感じる、ということとも厳密に言えば少し違います。ほんの小さなことをごく自然に、つまり無理にそう思おうとするのではなく、ただただ「幸せ」と感じるためには既にある程度満ち足りた気持になっていなくてはならないからです。小さな幸せを数え上げて「だから私は幸せなんだわ」と思うのでは、件の「成立条件あっての幸せ」と構造的には何ら変わらないからです。

ここで少し考えてみて下さい。貴方が満ち足りた気分の時にはどんなことがあってもあまり気にしないでいられるが、逆に落ち込んでいる時は嬉しいはずのことがあっても嬉しくも楽しくもない・・・そういう経験があると思います。貴方がまず初めに「幸せという在り方」をしているならば大抵のことが不幸の種にならずに済んでしまうのです。

この、今ここでいきなり幸せになる、というのはすなわちエゴが限りなく消失した状態でもあります。もちろんエゴがなくなってもエゴによらない苦悩や悲しみはあるでしょう。しかしエゴがなければ「不幸」という状態はあり得ません。なぜならば、エゴがない時、人は幸不幸を含めた「判断」(Judgment)をしなくなるからです。(この項続く)

 
第19回「幸せになりたい!U」

(承前)前回、人は「幸せ」という形にならないものを直接求めることはできないからとりあえずそのために必要と思われる条件を満たすことを求める、と述べました。

今回は、やや違う角度から見てみましょう。幸せというのはあくまでも「当人が感じるもの、当人の状態」なので「客観的幸せ」などというものは正確には存在しません。「あの人って本当に幸せよね」と周囲が思っていても本人はそうではないかもしれない、というのはよくあることでしょう。幸せかどうかはどこまでも本人次第であり、客観的基準などない、他人に決めてもらうことではないということになるのです。

事実、どんな状況にあっても幸せを感じられる人もいれば大したことない事態でも不幸のどん底みたいに感じる人もいるではないですか。

こうなったら、ああなったら幸せなのに!と思っている人が求めるものを得ても大して幸せを味わう暇もなくすぐに「次に得たいもの」に気持ちが移ってしまい、それが未だ手に入っていないためにやっぱり引き続き「幸せじゃない」状態が続いたりすることもあります。一千万あれば幸せなのに!と思っていて一千万を手にする頃には既に「一億あったら幸せなのに」になっている。こういう人は理屈から言ったら「ずーっと幸せにはなれない」ことになってしまいます。

自分が何かを得ていないから不幸、なのではありません。何かが欠けている場合「さあ、今度はそれを目標にして頑張ろう!」という気持ちを持てて幸せである、という人だっているのです。得ていないことを不幸だと思うから不幸なのです。同様に、「苦労する」ことがイコール「不幸」ではない。苦労を不幸だと思う人には苦労が不幸である、というだけの話です。つまり、究極的には「幸福も不幸もわが手中にあり」と言えるのです。

少なくとも、幸・不幸を外側から規定することはできません。ましてや「私はあの人に比べれば幸せだわ」などという比較を外側の条件によって行うことなど絶対にできないのです。

このことを裏から見てみれば・・・たとえ世間から見てどんなに悲惨な状況にあったとしてもそれで「私は不幸である」と感じる必要はない、ということにもなります。大変でも苦しくても、だからといって惨めだったり「不幸」だったりする必要はないのです。自分の幸不幸を決めるのはー別にそんなものをいちいち決める必要など全くないのですがー常に他ならぬ自分自身しかいないのだ、ということは分かっておくべきでしょう。

他人との比較、というのがまた厄介さをもたらします。自分だけのことを見ていれば別に何も不自由していないというのに、周囲やメディアの情報などの影響を受けてしまい「恋人がいないなんて」「年収がこれだけなんて」「こんな生活をしてるなんて」「ハイヤーセルフにコンタクトできないなんて」私は幸せじゃないのかもしれない、と思ってしまう人々がいます。これも、まさに「幸せに客観的基準がある」という勘違いから来るものです。

おそらく近代以来、多くの国々で「国民の幸福」ということが考えられそのための政府や政策が作られてきたと思いますが、言うまでもなくこの場合は「生活の保障」がとりあえずは幸福な生活をもたらすものだと仮定されている、つまり仮に「客観的基準」を設けているのです。基準などせいぜいその程度のものでしょう。国民の何人かに一人が「車を持ち、年何回の海外旅行に何とかカンとか」「何割の人に異性のパートナーがいて休日をともに過ごし・・」と言われているとき、貴方は車も持たず海外旅行も滅多に行かない、パートナーもいないとします。さて、貴方は不幸なのか?(この項続く)

 
第18回「幸せになりたい!T」

誰でも「幸せになりたい」と願うし幸福を求めるものです。しかし、「幸福」とは一体何なのか、わかりますか?考えたことがありますか?「そりゃあ、お金があって素晴らしいパートナーがいて健康で云々」とか?それは「幸福それ自体」ではありませんよね。「こういう状態なら幸せである」という、謂わば「幸せを成立させるための条件」のようなものです。

まず、幸せとは「外から見て明らかにそれとわかるような何か」ではありません。あくまでも当人の内的な状態を示しています。意識のあり方というか、私の感覚としてはもっとトータルな「存在としての在りかた」に近いようなものだと捉えられます。どちらにしてもはっきり目に見える形として捉えられるものではないのです。

普通、人はそのようなものを直接求めることができないので、とりあえず「私が幸せになるために必要だと思われるもの」=「幸せを成立させるための条件」を求めるのです。すなわち、財産、やりがいのある仕事、地位、愛情、健康、美貌などなど。幸せが内的状態であると一応わかっている人でもやはりそれを直接求めるわけにはいかないらしく、やれ癒しだの覚醒だの波動を上げるだの、といわゆる「内的・スピリチュアル」なあれこれを片端から試しまくっていたりします。

何でもいいのですが、これらがあくまでも「幸福そのもの」ではなく「それを成立させるための条件」(と思われるもの)だということを忘れてしまったり或いは初めからその区別すらついていなかったりすると、本人は幸せを求めているつもりでもひたすら「それらの条件」を求めているだけ、という状態に陥ります。そしてそのことに気がついていない場合もあるのです。

第一、このような「成立条件」が本当に自分にとっての幸せをもたらすものなのか、単なる思い込みに過ぎないのか、予めちゃんと考えられていないようなケースもわりと見かけます。当初は本当に自分の幸せにつながるものであっても時を経るにつれて価値観が変化すればそれらの条件はもはや意味をなさないものになります。だからこそ、望み叶って「お金も地位もできたけど」「結婚できたけど」「美しくなったけど」あんまり嬉しくもないし虚しくてね・・・という事態が生じることも多々あるわけです。

更にそれら「成立条件」に「他人」が絡んでくると厄介です。例えば「他人による評価」「他人による愛情」を得ることが自分の幸せを成り立たせる条件になってしまった場合、それは特定或いは不特定の他人が自分の幸不幸を左右している・神のごとくに自分の幸不幸の鍵を握っているということになってしまいます。これではまるで奴隷状態ではないでしょうか?天候や自然現象など万人に遍く降りかかることならまだしも、その時その時の他人の言動が幸せの成立条件である、という点において既に十分不幸なことではないでしょうか?本人がそれを自由意志によって選んだという自覚を持っており「あの人の機嫌をとって愛情を与えてもらうのが私の人生よ!」と覚悟が決まっているならそれも幸せでしょうが、大抵の人は「今はこんなだけどこうしていれば安定という幸せが得られるかもしれない」という、おそらくは儚い望みと期待を抱いて中途半端である状態なので、必然的に不安定なままでしょう。

要するに、こういう「成立条件」あれこれはあくまでも「こうなれば幸福であろう」と仮に設定されたものに過ぎないと認識しておくべきです。それらを求めるのが悪いことだ、というのではありません。目的と手段を混同しないで、ということなのです。そもそも、それら成立条件など絶対的なものでもないのです。従ってそうやって得られた幸福もまた絶対的なものではない、ということになります。(この項続く)

 
第17回「願望の現実化W 願えば叶う、のか」

(承前)今までは割りとストレートに「こうすれば願望は現実化します」という話をしてきましたが、今回はもう少しこのメカニズムを突っ込んで述べてみることにします。

この手のことを書いた本には「善悪にかかわらず正しく願ってしまったことは実現する」というものと「ただ自分勝手な欲望を満たすようなことや他人へのダメージにつながることなど、宇宙の調和に合わないことは実現しない、特定の相手を操作するようなこと(例えば、彼・彼女を自分に振り向かせたい、など)は実現しない」というものがあります。

結論から言うとどちらも正しいのです。ただ、後者においては必ずしも「宇宙の調和に合わないから」現実化しないわけではありません。この手の願望には、どうしても個人のエゴが絡んでくるのですが、そういう場合そこに「執着」がかなり不可避的に伴います。前回までの説明でお分かりのように、願望の現実化を阻む大きな要因は、この「執着」―何が何でもうまくいって欲しい、失いたくない、失ったらどうしよう!とかーなので、その結果この手の願望は現実化しにくくなるのです。

もう一つ、善悪・正邪に関してノーマルな常識を持っている人ならば、それに反するようなことを願っていても心のどこか奥底で「こんなこと願ったらいけないんじゃないかしら」と思っていたりするものです。人によっては全然悪いことでもなんでもないのに「いけないんじゃないか」と思うことさえあります。これは以前「運と意識」で述べたことと関連性があります。

「より良くなりたい」というのが根底にある人が「あの会社に入りたい」「あの人とつきあいたい」と思っているとします。ところが、あの会社に入ることやあの人とつきあうことが実は「より良くなる」ことではないのだとしたらーその時点では当人にはわからないことではありますがーそれらの願望は相反するので実現しないということになるのです。あるいはそれこそ「より良くなる」という宇宙の調和に合わないのかもしれません。とにかく、相反するものがあれば阻まれることには間違いありません。このあたりがグチャグチャになっている人もいます。つまり、自分の複数の願望が全然別方向を向いていて、しかもその中に否定的な思いも混じっているとすれば何もかもが思い通りにならないのは自明のことです。

もちろん、「どんなことでも願えば叶う」わけはありません。例えば、今から身長を20センチ伸ばしたいとか、ウィリアム王子と結婚したいとか、違う人種になりたいとか、亡くなった人を生き返らせたいとか・・・いずれも不可能です。どんなことであれ、その人が意識の底で「現実化する」と本当に知っていることだけが現実化するのだ、ということです。これもまたコラムの「運と意識」と関連していますね。

最後に、重要なポイント。何かを現実化するために、あるいは何かを得る際にはそれと引き換えに何かー貴方の願望を実現するためにはもはや不必要だったり邪魔になったりするものーを失うこともあります。前にも書きましたが本当にどんなプロセスを経るのか当人には見当もつかないことが多いのです。従って「これこれがこうなってああなって最後にこうして実現する」などの自分勝手なシナリオは却って願望の現実化を阻害するだけです。慣れ親しんだものを失って一時的に不安定な状態になるかもしれません。しかし「失うこと」を怖れてはいけません。失うことを怖れれば貴方は何も得られないでしょう。それどころかますます失うでしょう。

 
第16回「願望の現実化V 願ったことは叶う、のか」

前回の「現実化のための秘訣」の続きです。

2番目は「期待をしない」こと。これは少し難しいかもしれませんが非常に大切です。期待と「焦り・失望」とは対になっているからです。誰でも、特に期待しないで何となく「ああなったらいいなあ」と思っていたことが本当に実現してしまったという経験があるのではないでしょうか?特に注意すべきなのが「時期についての期待」と「相手の反応や結果に対する期待」で、それも今日明日のような近い未来に関するものが特に良くないのです。時期についての期待は「いつそうなるんだろう、まだなのかしら」という焦り、「ああ今日もダメだった」という失望につながり、相手の反応云々については「今度こそよくなってくれないとイヤだ」という焦り、「せっかくこうしているのに相手は全然変わってないように見える」とか「念じて頑張ったのに成果が上がらなかった」という失望につながる。人によっては怒りすら感じることがあるでしょう。ともあれ失望感のほうがリアルに刻印されてしまうと、例の潜在意識の法則により今度は「失望感をもたらすこと」が更に実現するような有様になってしまいます。

1年後、5年後にああなったらいいなあ、くらいにしておくのなら気持ちに余裕が出るのであまり問題にならないようです。望んだことが「忘れたころに叶う」場合が多々あるのもこの「期待をしなくなる」からである、と言えるでしょう。

もしも「失望」を味わってしまったらそれを取り消しておく必要があります。「まあ、いいか。これから頑張ればいいや」くらいのことでも十分効果があると思います。

「ダメだった時にがっかりしたくないから期待しないようにしています」という人がいますが、これは予め「失望」を想定しているというかなりネガティブな姿勢なので上述した「期待をしないこと」とは似て非なるものです。

もう一つの秘訣は「願いが叶った状態の感覚を先に味わって感謝する」ということ。いわば「感謝の先取り」です。とにかく先に感謝してしまえばその「感謝している状態」が刻印されてそれにふさわしいことが現実化する、というわけです。先ほどの「失望感が現実化する」と仕組みは同じだが全く逆の方向ということになります。これはなかなかに高度なテクニックのように思えますが、最近ではあちこちで説かれてきています。たとえ感謝すべきようなことが何もないと思っても、努めて「ああ、良かった、嬉しいな」などという気持ちとともに感謝を味わい口にする癖をつけておくと面白い動きが開けてきたりするのです。無理やり感謝の理由をひねり出したりする必要もなく、誰か特定の人に向かってする必要もありません。神でも宇宙でも守護霊でもご先祖でもよい、ただ感謝の気持ちを味わい表現すればよいだけです。これが劇的に波動を高めます。

言うまでもないことですが、「感謝をすれば効果があるのね、じゃあ感謝してみるけど一体いつどんな風に何が起きるんだろう、今日かしら明日かしら」などと打算による期待をしてしまっては元も子もありません。また「感謝しなくてはいけない」というのが強迫観念になってしまうのも論外―何故ならこれだと「本当は感謝していないのに無理やりそうしている」に過ぎなくなるからーなので、これらについては十分に意識しておく必要があります。

もう一つは、当たり前のことですがいくらよいことを願ったからといって一日の大半を不安や疑いなどの否定的な気分で過ごしたりすれば、その否定的な気分のほうがずっと支配的になりますので良いことは現実化されません。(この項続く)

 
第15回「願望の現実化T―願えば叶う、のか?」

(承前)たとえば恋愛のことを願ったはずなのにうまく行くのは仕事ばかりというとき(もちろん心底では「本当は望んでいない」意識が邪魔していることもあり得ますが)その仕事の好調さが自信や魅力、あるいは出会いのチャンスを増大させて思いがけない形で恋がやってくる、というようなケースもあります。人生を大きく好転させたいと念じた途端に病気になって入院した先で自分に転機をもたらす出会いが起きることもあります。何がどうつながっているのか自分では見えないことが多いのです。それをうまくつなげていくためには以前述べた「ポジティブ思考」が必要になりますが、今の流れが良い方向にいっているのかどうかリーディングによってチェックすることももちろん可能です。

とにかく一度何かを願ったならば、不安や焦りを抱かずにリラックスして生活し安心と信頼を持ち続けること。力んで「どうしてもこうなって欲しい!」という姿勢ではうまく行きません。ほかにもいくつか秘訣があるのでご紹介します。

何か実現して欲しいことを願った場合、それに関して今できることを探して進んで実行すること。どんな小さなことでも構いません。初めからうまく意識が変化すればこれは自然に「見つかり、やる気になる」ものです。しかし、さしあたって直接関係ありそうなことがどうしても見つからなければ、ほかのことでもよいから「これも自分の願望実現にどこかでつながっているのだ」という認識のもとに日々のいろいろなことを楽しく一生懸命行うのです。たとえば、自分で事業を起こしたいのだがお金もないし何をしてよいか皆目見当がつかない、という場合にはとりあえず現在の仕事を今まで以上に真剣にやってみる。全然関係ないように見えても「楽しく生き生きと仕事に取り組む」という波動の意識を作ることが効果をもたらすのです。家族どうしの関係改善をしたい、と望んだがあまりにもこじれているのでどこから始めてよいかわからない、というときには毎日の家事を今までにないくらい心をこめて行う、とか。いずれの場合も大事なポイントは「一生懸命、かつ楽しく」やることです。この気持ちが意識の波動を高めて知らず知らずのうちに良い変化をもたらすことにつながるからです。つまり、まだ実際には何も変わっていないのだけれど自分自身は何だか楽しく安心した気分になってきたならば、それはよい方向に行っているというサインだと考えられるのです。そのまま進めていけば、どのようなプロセスを経るかはわかりませんが、次第に望むような現実ができてくるというわけです。

また、何かを願うときに「否定的な言葉」を使うと逆効果になるというのも良く知られていると思います。例えば、「失敗したくない」「振られたくない」だと、まず「失敗」「振られる」という言葉が刻印されるわけです。或いは、それらは根底に「私は失敗するかもしれない」「振られるかも」という怖れ=マイナスの願望があることを示しているので、当然そちらのほうが実現されることになります。「病気を治したい」というのも「病気」という言葉があるため同様の理由で要注意とされています。これは「健康になりたい」あるいはただ「治りたい」というような表現にすれは大丈夫です。

論外なことですが、「あの人の仕事が失敗すればいいのに」「離婚すればいいのに」などと他人について良くないことを願えば、それは自分のこととして現実化してしまいます。すなわち失敗したり別れたりするのは「あの人」ではなくて「あなた」になってしまうのです。逆に他人の幸福を願えばそれは「あなた」のこととして現実化する、とも言えます。
次回も、この「秘訣」の続きをお話します。(続く)

 
第14回「願望の現実化T―願えば叶う、のか?」

「潜在意識による願望実現の法則」というのはかなり前から人口に膾炙した感があるのでおそらく皆さんよくご存知でしょう。それでは、本当に「願ったことは叶う」のでしょうか?

これは「願った“つもり”では叶わない」「願わなくてもリアルに思ったことは叶ってしまう」と言えます。このあたりは以前のコラムで似たようなことについて何回か説明していますが、その願望が潜在意識にうまく刻印されるためには焦りや不安があってはならない(ひいては「期待」すらも障害となる)のです。すると焦りや不安の方が刻印されてしまい、効果がないどころか全く逆の結果が生じる場合もあります。潜在意識にとってこれら「焦りや不安をもたらすような出来事」のほうが「リアル」に受け止められるからです。「こうなったらどうしよう」と思っているとまさに「こうなったらどうしよう」という気持ちが更に強化されるような出来事が現実化してしまうというわけです。

何を望もうが、それを自分の潜在意識が「そうしましょう」と認め、許可を与えたことが現実化すると言うこともできます。ですから「願ったことは叶うのだ!」という信念を潜在意識レベルで強く持っている人にとってはそのことが、つまり「願いは叶う」が現実として経験されます。「運と意識」で述べたように「私には願いが叶うような価値がない」と信じている(?)人ならばそのとおりの現象が起こります。

願望の現実化はマジックでも何でもありません。何かに対して強い信念を伴った願望を持つならば、まず意識レベルでの変化が生じます。難しいことではありません。何もなくても何となく楽しくて充実した気分が続いた後に素晴らしい出来事が起きたり、別にいやなこともないのに漠然とした不安感が続いた後にショックなことが起きたり、ということは皆さんもきっと経験したことがあるはずです。ここで敢えて馬鹿げた例を挙げると「痩せたい」という願望が刻印されれば何もしなくても、或いは好き放題な食生活を送っていても自動的に体重が減っていくなどということはあり得ません。意識が変わることによって自然にそちらの方向に導かれていくのです。このプロセスでは全く予想外の出来事に見舞われたりしますが、それは願望の現実化に必要なものが次々と引き寄せられてくるからであって、後で振り返ってみるとそれらが見事につながって結実してきたことがわかるのです。

このことがわかっていないと、ちょっと望んですぐに効果が表れないから諦めてしまったり不安や焦りに見舞われてしまったりしてその「不安や焦り」のほうが自分にとってリアルになるためにうまく行かなくなり、「あんなの嘘よ」ということになる。ストレートにやってくるとは限らない、ということをお忘れなく。(この項続く)

 
第13回「なぜ生きる???」

先日、電車の中で前の座席の人の新聞に「なぜ生きる?」という本の広告が載っているのを見かけて少し気になりました。

「なぜ生きる」とは「何のために生きるのか」「生きる意味とは何か」つまり生きることにどんな理由・目的があるのかということでしょうね。今日この手のタイトルは非常によく見かけるものです。

私にはこれが明快であるようでかなり曖昧な問いであると感じられます。どちらかというと「なぜ生きる、と問うのはどういうことか」のほうが先だと思うのです。

まず、先進国・文明国の殆どの人々にとって「生きる」というのは「生活する」こととイコールに捉えられているはずで、それもその「生活」というものがかなり「何でもあり」状態なわけです。しかし、「生きる」という普遍的な現象・言葉をそのまま捉えるならば「何故生きる」という問いも普遍的なものでなければならないのであって、そうなると古今東西、現代でも世界には「生きる」ということがただ「生存する」でしかないような人生を送って言う人々も当然いるわけですから、そこまで包含してより根源的なものとして考えなくてはいけないことになります。つまり、件の問いは「なぜ生存する?」になってしまうのです。

食べて寝て排泄して子供を作って、という本能だけの日々しかない、医療を含めた文明もなく或いは戦禍や貧困によって明日の命もわからず、などと先進国の人々からすれば「これなら生まれてこないほうが良かったのでは」と思えるかもしれない一生を過ごす人々も少なからず存在している。こういう人々、おそらく本能によって「なるべく死なないように日々頑張っている」ような人々にとって「なぜ生きる」或いは「なぜ生存する」という問いはどんな意味があるのでしょうか?

そもそも人は「意志によって」生きている=生存しているのか?細胞やら潜在意識に組み込まれた生存の意志というものならあるでしょうが、これは普通日々意識することなく過ごしているはずです。通常、人が「さあ今日も生きよう」とアタマ(mind)で決定していちいち充電だのネジを巻くだのなどの作業を行い・・ということはあり得ない。余命いくばくもない重病人にしたって「生存するため」というよりはむしろ「死なないため」にあれこれ治療努力をしているといったほうが正しいと思います。自殺したいと考えている人が「やっぱり今日も生きよう」というのも「死ぬのは止めておこう」なのであって、普通にしていれば人間、寿命が尽きるまでは特別意志しなくても生きているのです。

意志しなくても生きられて(生存できて)しまう以上、「なぜ生きる」という問いは半分瓦解する、意味をなさなくなります。何故生きるかわからない、生きる意味がわからないから自殺する、というのは論外です。「何故生きるか」もわからない以上「何故死ぬか」をわかるわけがない、つまりは生の何たるかがわからないのにそれが尽きるところの死がわかるわけもなく、それならば自分が全然わかってない「死」に向かえる理由など更にないからです。加えて、「自殺」という文化或いは概念を持たない社会も確かに存在することを考えても、この発想に普遍性はありません。

単に「生存」ということであれば、そこに意味などない或いは意味などわからないと言ってしまっても良いのでしょうが、「意味がない」から「虚しい、生きるに値しない」というのは先に述べたとおりあまりにも短絡的な発想です。

よく見かける「何のために生きるのか」「生きる意味」「生きがい」云々などということは、そう考えればかなりの文化を持ったところにしか生じない問いであり概念だとも言えるでしょう。逆から言えば、人間ある程度以上の文明文化が発達すれば大体こういうことを考えるに至るのでしょう。

「なんのために生きるのか」「生きる意味とは」「生きがい」などについて人々が求める或いは期待する答えとしては、「魂を成長させる」「カルマを解消する」「幸せになる」「宇宙との一体化」「愛の実現」(→いわゆるアガペーであって「恋愛の実現』では断じてありません、念のため)「エゴを捨てて真我に至る」などが巷間出回っており、これらはみな大体同一のことを意味しています。まあそんなようなものだろう、と私も感じています。

ところが、上記の問いが個人的なものに、つまり「私は何のために生きるのか」「私の生きる意味とは」となった途端にそれらの「答え」もより個別的具体的内容になり、しかも大体何らかの物語性を帯びたものになるのです。

例えば何らかの能力によって世のために役立つとか何かを創造・表現するとか伝えるとか子供を育てるとか、もう本当にいろいろあるのです。もちろんこれらはリーディングの対象でもあり、そういうものは確かにそれなりの正当性があるので、クライアントがそれを知って役に立ったり救われたりすることも多く、従って私も依頼されれば喜んで応じてはいます。

しかし、生きていくためにこれらの答えを予め知っておこう、知っておかなくては不安で毎日の生活に支障をきたす、というのでは何だかあべこべのような感じがします。生きる意味や理由や目的がわからないからといって自暴自棄・自堕落な毎日を送ってしまう、というのはもう短絡的というより怠慢に近いことです。大体どうして「意味が見出せない」ことが投げやりにつながるのか、よく考えてみれば何の正統性もないわけです。前項で述べたように、本当は「意味」などなかったりわからなかったりするのかもしれない。その「わからなさ」を抱えて腹を括って生きることも可能であり、更に「わからないのに生きている!」というのを一種の神秘と捉えることもできるわけで、神秘なら畏怖の念が湧いたりもします。そうすれば自然と生きる姿勢や態度は決まってくるのではないでしょうか?

多分、人々が「生きる意味」を問う裏には自分が生きることの価値、というか「よりよく生きたい」という気持ちがあるのでしょう。この問いは、「よりよく生きるためにはどうしたらよいか」という倫理的なことを言っているのであって生存あるいは存在の意味を問うような実存的なものではないのかもしれません。これが前項で「半分は瓦解する」と書いたことのもう半分なのでしょう。

「だったら初めからそういえばいいのに、なんて面倒くさい書き方をするのだ」と思われるかもしれませんが、「よりよく生きる」を考えるに際して前項で述べたような、つまり「存在」や「生存そのもの」に果たして意味などあるのかどうかという理解が基盤にないとどうしても安直・上滑りになったり過剰に「自分の物語」つまり「自分探し」「前世探し」みたいなものを求めたりしがちなのです。自分という人間の意味だ価値だというものをやたらに強調する危険に陥ることもあります。これは、特にスピリチュアル方面の人々に見られる傾向です。これまで本当にどうしようもない生き方をしていた人が突如目覚めて「まともに生きよう」と決心するのだって、そのような基盤があるかないかで全然違った方向に行ってしまうこともあるのです。

「よりよく生きる」と一口に言うけれど、「よい」というのはどういうことなのか?今回冒頭に挙げた「よくある答え」には、真摯に取り組むならばこれらの検討や精査がおのづから含まれています。より良く生きるとはどういうことなのか、を考えつつ、また日常のさまざまなことから気付きを得つつ過ごしていく生き方を表しているとも言えるでしょう。

 
第12回「ソウルメイトV」

(承前)またまた夢を打ち砕くどころようなことを言います。「ソウルメイト=幸せをもたらす相手」とは限らないと述べましたが、同じ「運命の糸の相手」であってもそれが「負のソウルメイト」とも言うべきケースが確かにあるのです。ある相手との関係でそれこそ魂レベル・霊的レベルに響くような辛い経験を、これでもか、これでもかというくらいの長く苦しい経験をする。「腐れ縁の相手」とも言えるでしょうが、これも自分に変容をもたらすきっかけとしてそれらの苦しい経験をしているのだという見地からすればやはり「重要な影響力を持つ相手」=一種のソウルメイトとなってしまう。つまり苦しければ苦しいほどその後の変容が大きいものになる。こういう場合、自分と相手との双方が一緒に変化してその後は良い関係になることもあれば、変化したとたんにお互いの役割が終わってしまい同時にその関係も終わるか変質することもあり、片方だけが目覚めてしまって相手を残して立ち去ることもある。これもどれが正しいとは決められない難しい問題です。

リーディングでこういうことに遭遇した場合、「さっさと断ち切るべき」と出ることもある一方で「苦しいけれど貴方にはどうしても必要なことだから頑張って続けてください、いついつ頃になればブレイクできるでしょう」と出ることもあります。ここには以前「運と意識」で述べたメカニズムも作用しているので、「意識を変えなさい、これはあなたにとってはもう不必要な苦しみです」なら「断ち切るべき」になるが、逆に「意識を変えるためにはこの経験を通過しなくてはならない」「今ここで中途半端に止めてしまうと、次もまた同じような経験を繰り返すでしょう」なら後者になる。人によりニュアンスが微妙に異なった形で現れます。もしもあなたがどうしてもこういう経験を避けたいなら、あらゆる機会を利用してまず自分の意識を見直し作り変える、という作業をしておくことです。

そのためには例えば、初めに挙げた(2)と(3)のケースを考えてみて下さい。これは、裏から見れば「出会う全ての人、関わる全ての人を自分にとってのソウルメイトにしてしまうこともできる」となります。つまり、どんな相手であってもたとえ短い間の関係であってもその人を「自分を変容させてくれる影響力を持つ、自分にとっての学びの教材」にしようと思えば、それは自分の姿勢しだいでできるのです。そういうつもりで日頃から人間関係を捉え自分を見直していくようにすれば、その後の大きな出会いがかなり良い方向に修正されてくるはずです。

最後に、「この人はソウルメイトかどうか」などと悩むのは全くのナンセンスです。そんなことを考える暇があったらまずとにかく自分をオープンにして誠実に相手と関わってみること。つまり相手や、相手との関係を自分の思い通りにしようという「操作」manipulationをしないで関わってみること。そうすればおのずとわかるでしょう。先に知っておく必要などありませんし、ましてや「出会い方」のマニュアルなど(出回っているようですが)あり得ようがないのです。

 
第11回「ソウルメイトU」

(承前)ソウルメイトとは「魂の伴侶」という名のとおり、深いレベルでお互いに大きな変容をもたらす相手なのでその関係から学ぶことが多くあり、その過程はなかなかハードですから当然そこには楽しいことばかりでなく苦しみも生じてくるでしょう。文字通り苦楽を共にするわけです。ただ、覚悟とプラス思考ができている人にとってはこういう「苦」がそれほどの苦しみとは感じられないのです。逆にそれができていない人々はこれらの苦しさに耐え切れずその関係を放棄してしまう場合もあります。ソウルメイトに出会っていても両者あるいは片方にコミットする力が足りなくて関係を手放してしまうということもあるのです。そこをクリアしたカップルでさえ「一生をともにするとは限らない」というのは、ある時点でお互いの学びが完了してしまえばそれ以上関係を続ける必要がなくなるからです。そこで関係が終わったり関わり方が変わったりすることもあるし、お互い無意識のうちに了解しあってその後も同じような関係を続けることもあります。また、極端なケースですが、片方が早くに亡くなってしまうということもある。その場合、亡くなった人にしてみれば相手は「死ぬまで生涯をともにした人」であるが残された方はどうなのでしょう?自分自身の生涯を最後までともにできなかったからといって「ソウルメイトではなかった」などと言えるものでしょうか?

結婚という形で結ばれない場合も確かに存在します。これにはいろいろなケースがあって一概には言えませんが、ソウルメイトの関係にとって結婚するかどうかということは、私が見てきたところによると必ずしも重要ではないような感じなのです。

本当にこのあたりは面白いというか難しいというか・・・人によってさまざまな出方をするようです。まあ、結婚というのは人間が作り出した社会的な制度であるのに対して「ソウルメイト」はより本質的・根源的なものなので両者に直接的な関連性があるはずもないのでしょう。

「結婚相手=ソウルメイト」とは限らない。例えば結婚して何年も何十年も経ってからそれこそ自分及び自分の人生を根底から変えるような相手に出会ってしまうこともあるのです。だからといって「私は何が何でもソウルメイトに出会うまで結婚しないわ」というのも間違いです。もちろん安直な気持ちで結婚することはお勧めできませんが、あるひとつの関係を経てこそ次に大きな出会いが用意されることも少なくないからです。もちろん、ソウルメイトと呼べるような相手が現れるまではいくら本人が望んでいても結婚に至ることができない流れの人もあり、これも全く各人各様ですが、どちらが幸せでどちらが不幸ということはないのです。

そして、「生涯ただ一人のソウルメイト」と縁がある人もいれば、「段階に応じて複数のソウルメイト」が現れるという人もいる。よく「守護霊はただ一人の場合もあるし途中で役割に応じて交代することもある」と言われますがそのこととほぼパラレルだと思います。両方とも真実であるようです。(この項続く)

 
第10回「ソウルメイトT」

この、かなりロマンティックに聞こえる言葉は皆さんもご存知だと思います。今回は私がこれまでのリーディングで経験したことをもとにして「ソウルメイト」について少々考察をしてみましょう。

まず、「魂レベル・霊的レベルにおいて深い関わりを持っている」とされるソウルメイトの定義にもいくつかあって(1)恋愛対象となる相手のみを指す(異性愛者なら異性、同性愛者なら同性のパートナー)(2)もっと広義に、親子・兄弟姉妹・師弟など性別を問わずとにかく霊的レベルで何らかの深い関わりや影響力を持つ相手を指す(3)更に「出会う全ての人がソウルメイトである、という考え方もあります。(1)はいわゆる「運命の赤い糸で結ばれた相手」というあれですね。(2)(3)も、「全ての存在はただひとつの魂・意識から分化したものである」という考えに基づくならば納得できるものです。

皆さんがもっとも興味を惹かれるのは(1)のタイプでしょう。リーディングでもよく「この人はソウルメイトでしょうか」という質問を受けますが、「その通りです」或いは「全然違います」という結果が出ることはあまり多くなく、大部分は「あなたの人生にとって重要な影響を及ぼす人なのでその点では確かにソウルメイトとも言えるが、生涯のパートナーではない、或いは何年後何ヵ月後の選択によってそうなるかどうか決定する」のような結果が出てしまいます。どうやら初めから「絶対確定」の運命として立ち現れているわけではなく、その人を選べる意識の準備ができているかどうかなどもあり、それなりにお互いの自由意思が作用して決まるような感じなのです。

ソウルメイトの条件の一つに「衝撃的な出会い」というのがありますが、これは各々の体質もあるのでそんなに当てにはなりません。出会ってから何年もどうってことなかった相手が実はそうだった、ということもあるのです。「情熱的な恋愛によって結ばれる」とも限りません。ソウルメイトというのは古今東西の普遍的な現象なので、当然お見合いや政略結婚の相手がそうだった、という事例も数多くあるわけです。一方「相手との間に数多くの『偶然の一致点』が見出される」これはかなり確かなことだと言えます。

もっとも、意識が開け深化してくるにつれて「衝撃的かつ偶然の一致が多い出会い」は別に珍しくもない「普通のこと」として起こってくるものなので、これらの点にはあまりこだわらない方が良いかと思います。というのも、とっくに相手との関係が終わってしまっているのにこれらの点にこだわり続け「この人はソウルメイトに違いないから」と執着して次に進めないという困ったケースがあるからです。

また、夢を打ち砕くようで申し訳ないのですが「ソウルメイトに出会ってしまえばとにかく幸せになれる!」とか「ソウルメイトとは絶対に結婚できて生涯幸せでいられる」というのは残念ながら間違いです。次回のコラムで説明いたします(続く)

 
第9回「私は何に向いているのですか?U」

(承前)前回の続きですが、少し違ったパターンをご紹介します。「何がしたい」というのでなくただひたすら「有名になりたい」とか「大金持ちになりたい」「偉くなりたい」「有名になりたい」「もてたい」というのが第一に来る人々もいます(本人は無自覚であっても、です)。つまりそのための手段は実は何でもいいので、当然の結果として「何をしたらそうなれるのか、何をしたらいいのか」で迷うのです。まあ、そんなことを人生の最優先事項にしてしまう理由も各々の意識内にあってその人を呪縛しているでしょうがそれは本稿の主題ではないのでいつか改めて、ということにして、そういう願望を持つ人はどうすれば良いのか、です。私にしてみればこれは簡単なことで、憧れやこだわりなど一切無視してとにかく「自分が一番得意なこと」をするしかない。それがいわゆる成功への早道なのはあまりにも明らかなことです。前回の言い方に従えばこの場合「will」は野心の部分だけなので、あとは自分の目的に至るために必要な「should」だけを見ていればよい。しかし、実際にはそうできていない人のほうがはるかに多いのは何故なのか。これも前回述べたように「自分のことを見ていないから」だと思います。

自分の中で目的が整理されていないとやはり混乱します。前回の例でいうと「医師になりたい」と思っている人が実は「ステイタスが欲しい」「ちやほやされたい」などのことが本当の目的だったりすれば、上記のように一回整理してみなくてはなりません。そのためなら別に医師でなくても良いのではないか?もっと別の近道があるのではないか、ということです。

生きがいを持って楽しく仕事がしたいのか、お金をたくさん稼ぎたいのか、楽がしたいのか、などなどその全てをいっぺんに叶えられれば問題ないのですがやはり優先順位を決める必要があります。例えばその中でどれか一つを選ぶとしたらどうするか。あるいはどちらの道から入るほうが自分にとってやりやすいのか。得意な分野である程度の社会的地位を確保してから好きなことをやって世に出て行くというケースも当然ながらあるのです。(ちなみにソロスは大学に自分の名を冠した講座を設けたそうです)

このあたりのことはリーディングでかなりクリアになりますが、リーディングに強制力は一切ありませんから最終的に選び決断するのはやはり当の本人以外にありません。

また、自分の目的を正しく理解して進んでいる人が、人間関係のいざこざや金銭問題などで挫折してしまう場合ももちろんありますが、これはその道が自分に向いているかどうかとは全くの別問題です。更によくあるケースは「これをしたらうまくいくという保証が見えないと始められない」から「本当に向いているのだろうか、と悩むこと。これはリーディングで「まだ時期じゃない」と出ることもありますが、単に本人の「覚悟が足りない」だけのこともあるのです。これも本稿の主題とは別のものです。

 
第8回「私は何に向いているのですか?T」
これは、主に職業の選択についての相談として比較的頻度の高いものです。しかしちょっと考えて見てください。生まれたばかりの赤ちゃんならともかく、自分が何に向いているか、など他人に聞かないとわからないものでしょうか?他ならぬ自分自身のことならば自分が一番よくわかっているはずなのに、どうしてこういう質問が出てくるのか。これは「自分の考え」と「世間(周囲)の考え」の混同や、「will」と「should」(「したい」と「すべきである」)の混同などから生じているような気がします。「私はこういうことが好きだ、あるいは得意である」だけなら、大抵の人はわかるはずです。それを「そういう職種は安定性がない」「大変そうだから無理だろう」などの一般論で否定してしまう。或いは、実は好きでもないのに「何となくあれが格好いいみたい、誰々もやっているし」という甘い憧れで違う方向に惹かれてしまう。そんなことをしているうちに自分で訳が分からなくなってくるのです。もちろん本当は向いているのに「苦手である」と自分で勝手に思い込んでいることもありますが、これもよく考えればやっている内容は合っていたがやり方が合わなかった、とか環境が悪かっただけだとかいろいろわかってくるものです。これはリーディングによく現れる事柄です。

Willとshouldについては、「私はあれがしたい、しかし今の私にはそれをする余裕がないからとりあえずこれをしていなくてはならない」と自分ではっきりわかっていれば良いのですが、そのあたりが未整理のままだと「したい」の方が押しつぶされて見えなくなってしまいます。そしてやはり「訳が分からなくなる」。

まずは周囲・社会の価値観はさて措いて他ならぬ自分はどういう人間であるのかを「見る」のです。これをお手伝いするのが私の仕事なので、私が「貴方はこういう分野に向いているようです」と伝えると「実は私もそういうことが好きだったんですが・・・」ということも非常に多くあります。その上で「私にはこれを仕事にしてやっていく勇気はない」と判断するなら生活の糧としては別のことを選び、好きなことは趣味なりライフワークとして続ければよい。ジョージ・ソロスは「本当は学者になりたかった、ビジネスは得意だけど好きじゃない」そうです。このように好きなことと得意なことが必ずしも一致するとは限りません。また、本当は医師になりたいが今から医学部受験する自信も勇気も余裕も全くない、という場合(もちろん、本気で望めば道が開けるということも言えますが)医師にこだわらず「治療者」と捉え直せば選択肢が見えてきます。このあたりを整理して明確にすればかなり楽になるはずです。(この項続く)


第7回「ポジティブ思考V」
(承前)このように「何が何でもポジティブに捉えよう、良い意味づけをしよう」とする姿勢はそれ自体が一つの束縛・オブセッションとなり、人を不自由にするものなので、そのままネガティブな姿勢に文字通り「反転」してしまうのです。案外このパターンにはまってしまう人が少なくありません。

大体、ポジティブ思考或いはプラス思考というのは、一見ピンチと思えることを「変化のためのチャンス」とする捉え方です。つまり「怪我の功名」「災い転じて福となす」「人間万事塞翁が馬」を意識化して行なおうとするわけで、「禍福はあざなえる縄の如し」の「福」の部分にフォーカスしようというやり方です。「禍」の方にフォーカスしてしまうと、「嫌なことばかり起きる、ちょっと良いこともあったけどまたすぐ駄目になった、どうせまた悪いことが起きるだろう・・・」「こうなったらああなったらどうしよう」などとなります。こういう姿勢よりもポジティブ=いわゆる前向きに生きるほうが良いのは、誰に言われるまでもない恐るべき当たり前のことです。そうするほうが運気が上がるなどという以前に、考えても見て下さい。毎日憂鬱で不安を抱えたり怒りや恨みを抱いたりして過ごすよりも単純にこのほうが断然気持が良いではないですか。もちろん、いい気持で過ごせば波動が上がるのでそれだけ良いことを呼び込めるようにもなります。

自分に起きたあまりありがたくないことの全てを「良いことだ」と捉える必要はありません。くれぐれも「現実否認」と混同しないことが大切です。単純に自分の不注意から生じた失敗は天の配剤でもメッセージでもない、やはり「失敗」として認めなくてはなりません。ただ、そのことで過剰に落ち込んだり自分を責めたりしないで、例えば「今ならまだ取り返しがつく、ありがたいことだ」などとして次に生かしていけばよいのです。

また、「私には良いことしか起こらない、と思え」という人もいますが、この場合の「良いこと」とは「嬉しく楽しいこと」という意味ではありません。一見そうでないことでも自分の姿勢によって結果的に「自分にとって良いこと」に転換できる、何が起こっても良い方に向かっているのだから大丈夫!と捉えてください。「悪いことが起きないでほしい」と言うのは、ネガティブとまではいかないかもしれませんがポジティブともいえず、非常に消極的な姿勢です。そのすぐ先には「悪いことが起きたらいやだ、どうしよう」があるからです。

最後に、一番分かりやすい例。「時間はかかるがうまく行く」といわれた場合に、「良かった、うまくいくのね」と捉えるか「時間がかかるのか・・・ガックリ、どうして?」と捉えるか。まずはこのあたりから意識してみて下さい。

 
第6回「ポジティブ思考U」
(承前)前回見たように、いくら表面をつくろっていても内心の不安を見ないようにしていたり押し隠していたりしたのでは何の意味もありません。心底からそう感じられるのでなければ、今起きていることを「自分にとって良いことなのだ」と思い込もうとする必要もないのです。これはあまり面白くない、嬉しくないことだが今は受け容れる。そして良い方に向かっていると、いつかはこれも自分にとってプラスだったのだと思える日が来ると信じて、そのときにできることを一生懸命楽しんでしていれば良いのです。それが安心感をもたらします。ポジティブな姿勢が正しく作用しているかどうか見極める一つのポイントはそこに「安心感」があるかどうか、です。これは「願掛け」の項で書いたことと同じです。安心感がある、つまり虚勢でなく本当の意味での自信があるかどうか。

わが身に何か重大なトラブルが生じたようなとき、内心はとても不安なのに人に対しては「大丈夫、平気よ」と言ってみせるのは虚勢ではなく相手に対する一種の礼儀であることもあり得ます。この心がけから言う場合は自分の弱さから目を背けているのとは違うので、それらの言葉を繰り返し口にするうちに段々自分でも「大丈夫」な気持になってきて不思議と気持が落ち着いたりするものです。しかし虚勢はどこまで行っても虚勢であり誤魔化しなのです。だったら素直に「全く参った、自信を失った。でもまあこれから頑張るわ」とでも言えばよい。こんなことは当たり前すぎることなのですが、スピリチュアルだとかポジティブ思考などに変にはまってしまうとこの当たり前のことができなくなるのです。この経験には何か意味があるのだ!と強引に妙な意味づけをして無理やり自分を納得させようとするケースもありますが、意味などすぐにわからなくても良いのです。確かにリーディングの中でこのような意味づけが出てくることもありそれが理解の助けになることは大いにありますが、たいていは本人がそれを本当に実感できるのはずっと後になってからです。(この項続く)

 
第5回「ポジティブ思考T」
何でもポジティブに捉えなさい、何があっても良いほうに考えなさいというのは、実行できるかどうか別として、もはや常識に近いほどに浸透しています。いやなことや悪いことがあっても「もうダメだ」などとは思わずに「大丈夫、うまく行っているのだ」と思いなさい、そうすれば本当にそのようになるから、という考え方です。実際にそういう体験をした人もいる一方でそんな都合のいい話があるかと疑う人もいるでしょうが、「その人が信じている通りの経験をする」という意識の作用から言ってもこの考え方は理に適っています。

私のところにいらっしゃる方の殆どは現象をネガティブに捉えて悩んでいます。しかし見てみると大抵は本人の思い込みであり、実際にはそう深刻ではないことが多いのです。ところが、稀に逆のケースがあります。例えば恋愛で明らかに相手が冷めてしまっていて避けられているのに本人が「大丈夫、彼はただ忙しいだけなのよ」とか「私のことがあまりに好きなので臆病になっている」とか言うのです。本当にそう信じていれば私のところに相談には来ないでしょうから、どこかで不安を感じてはいるのでしょう。それを表面的なポジティブさで覆い隠しているだけなのです。これでは、「信じていればうまくいく」どころか(実際には信じてもいないわけですが)そういう彼女の無神経さがますます相手を遠ざけるだけでしょう。事業が明らかに傾いているのに「平気平気」と言っていてますます大変なことになってしまう人もいます。

私は、「心配するべきだ」と言っているわけではありません。しかし上記のような「現状認識のできない勘違い」とポジティブ思考とは完全に似て非なるものです。これを間違えると本当にとんでもないことになってしまいます。この両者の違いは要するに「リラックスと単なる気の緩みとの違い」「自信と虚勢の違い」です。本当にリラックスしている時は冷静で注意力もありますから状況を客観的かつクリアに見ることができます。うまく行っていなければ「うまく行っていない」とはっきりわかる。そしてその事実を認めて受け入れ、そのことで心を乱されたりせずに何か対策を講じた上でーそれがただ待つことであったとしてもー良い結果につながると信じられるのです。

一方「気の緩み」の場合は散漫になっているので、状況を正確に把握することもできず、ただの怠慢から自分にとって楽な捉え方を選んでいるに過ぎません。こういう人に限って本当にうまく行っている時はそれに気づかずチャンスを逃したりするのです!いずれにしても現状認識ができない上に怠慢。或いは怠慢だから現状認識ができないと言ったほうが正しいかもしれません。

今うまく行っていないとしても落ち込んだりしないで「大丈夫、今に何とかなる」と信じて日々努力をする、信じているから努力も楽しくなる、それによって自分の波動も上がるというのが真のポジティブ思考です。(この項続く)

 
第4回「運と意識V」
(承前)非常によくある例ですが、さまざまな理由やきっかけによって自己評価がとても低くなってしまった人々がいます。簡単に言えば意識下に「自分は幸せになる価値がない、自分にそんな素晴らしいことが訪れるわけがない」という設定があるのです。更に、私はダメな人間だと深いところで決めている場合、こんなにダメな人間なのだから罰を受けるべきである、という設定まで加わっていることもあります。こういう人は無自覚なままに自分にダメージを与えるような、つまり自分を罰するかのような経験を選んでいきます。幼い時にちょっとしたことでひどく叱られた経験が元で「私はダメな人間、罪深い人間」という自己評価ができてしまった人もいます。これは、ただ自分にダメージを与えるだけでなく、自分の罪深さを贖おうという気持ちが意識下にあるためにいつも自己犠牲のような損な役回りばかりを引き受ける羽目になったり、ついつい悪いことに加担して良心の呵責にさいなまれ、ますます自責の念を強化していくというパターンも呼び込むことがあります。

これらは全て本人が「勝手に決めてしまった」ものなので、他人から見れば「まさかあの人が」と思われるような人でも案外自己評価が低かったりするのです。

このような「設定」をクリアにするのに前世療法が使われることもありますが、私の経験では大抵の場合幼児体験まで遡れば十分な効果があるようです。多くの人が幼少時に心に何らかの傷を負っています。特別過酷な環境で育ったり虐待を受けたりしたわけでもなく、ごく普通の恵まれていると言ってもいいような環境で育った人々でも、本当にちょっとした出来事が深く刻印されてしまうケースがあるのです。大人が軽い気持ちで「そんなことをしたら他人に嫌われるよ」と言ったとか、ひどい場合には他の子が怒られて「あの子は本当にダメな子だ」と言われているのに自分のことだと思い込んでしまったりして、ネガティブな観念がドーンと深く入り込んでしまうケースもあります。大事件に遭った、とも限らず非常に小さなことがきっかけになることも多いゆえ本人も普段は忘れてしまっているのですが、それでも本人にとっては非常に重要な出来事なので「すごくささいなことなのに何故か憶えて」いて、完全には忘れていない場合が多いのです。感情を伴わないただの「情景(scene)」としてのみ憶えていることもあります。もしもそういう記憶がある人がいたらちょっと見つめてみるといいかもしれません。

そこで「なあんだ、あんなことを私はずっと気にしていたのか」と心底から腑に落ちればその瞬間に変容が起きることだってあるのです。そういう意識状態になると、過去のその経験において自分にダメージを与えた相手のことを責める気持ちは全く生じません。これが、よく言われる「理解と許し」です。

 

  
第3回「運と意識U」
コラム第一回の続きです。今回は意識がどのように作用するのか具体的な例を挙げてお話します。

実例1ある人は今まで交通事故やら破産の危機やらをいくつも経験してきました。いわゆる「九死に一生を得た」ことが何度となくあったのです。本人はその度に「自分は生かされているのだ、守られているのだ」と感謝と感動を強烈に味わい、そういう自分は特別な人間なのだと思うに至っています。そして現在もこの人の生活にはいろいろな危機が絶えないのですが、「いつか良くなる」と信じているらしい。これは一見プラス思考のようでもありますが・・・裏返してみればこの人の人生は過剰なまでに「九死の連続」なのです。しかもそれらは周囲から見ればたいていは不可抗力でなく「十分防げたのに」と思うことばかりです。つまり「本当は無くたっていい」危機を経験することを自ら選んでいる。それらの窮地が、そこから「救われる」ことの快感や「生かされている、素晴らしい!」という生の実感を味わうために必要な道具立てになってしまっている。本人にとっては安定を得ることよりも「守られている、救われた」という感覚を得ることの方が優先されているのです。これではいつまでたっても良くはならず同じことを繰り返すばかりでしょう。

実例2 ある女性は自分に自信がないので恋愛をするのが怖い。しかしもちろん本人は「恋がしたい、恋人が欲しい」と痛切に思っています。ところが好きになるのは「何故かいつも」妻子や彼女がいる男性ばかり。なにしろ自信がない人ですからそれがわかった途端に「とても私が入り込む隙はない」と諦めてしまい、自分にはつくづく恋愛運がないのだと落ち込むのです。初めは知らなかったにしても結局「妻・恋人がいました」とわかって「やっぱり、また」と思うのです。彼女がこういう男性ばかりを対象にしてしまうのは、何の問題もない相手を選んでそれでもダメだった、ということになるのが最も怖いからです。自分自身に原因があってダメだったのではなく相手が既に「売約済み」だったから仕方なかった、と思うほうがずっと楽。だから「恋愛をしないで済む」=「より傷つかないで済む」状態に自分をおいているのです。

また、実は「悩んでいないと恋愛している実感が湧かない」ので自分を悩ませるような男性ばかり選んでいる女性もいます。

同じようなことを経験していてもその理由は千差万別なので、「妻・恋人あり」に惹かれてしまう人の全てが上記の例と同じ内面というわけではありません。いずれにしろ本人は無自覚です。「何故か」自分はいつもそういう目にあう、だからそういう「運命」なのだろうと思ったりしている。自分が深いところで何を望んでいるか(知らないうちに辛い経験を望んでいることがあるのです!)を知るのが人生の経験を変える第一歩です。(この項続く)


第2回「願掛けについて−基本的メカニズム」
新年を迎えて初詣の折に自他の幸福を祈願なさった方も多いことでしょう。今回はこの「願掛け」について考察します。

まず、お参りする対象が何か、ということは重要ではありません。それがどこの神社であろうとご先祖さま、守護霊であろうと大天使やマリア様であろうと、「これは効くがあれは効かない」などということはありません。願っている自分の意識が「個」を超えた広大かつ普遍的な意識(これを宇宙意識と呼ぶ場合もあります)にコネクトすることだけが肝要だからです。拝んでいる瞬間だけでも自分が消失してしまった感じがするかどうか、後で振り返って見て下さい。要するに自分が心から信じられるもの、向き合ったときに清浄な気持ちになれるものに対して行えばよい、というわけです。もしも「あそこの神様はご利益があるそうだ」と聞いて俄然その気になるなら、それはひとつの信念を作ることに繋がるのでその分効果が出やすくなるでしょう。

願掛けの際に身を清めたり何らかの様式に従ったりするのも全て「日常の自分」から「普遍的なもの」に次元を移行させやすくするためです。何であれ「ただそう思う」よりも身体を使って行うほうが意識の次元も変わりやすくなるのです。

もっとも重要なことは、何かお願いしたならもうそのことで悩んだり心配したりするのをやめなくてはならない、ということでしょう。何故なら一旦その問題を神様なり守護霊なりに「お任せしお預けした」からです。「この病気が治りますように」と願ったその夜から「また悪くなるかしら、治らなかったらどうしよう」などとまたぞろあれこれ悩んでしまうとせっかく願い事をしてもうまくいきません。お任せしたのに悩む、というのは「願望が聴きいれられないかもしれない、と不安に思うこと」であり結局それらの「神仏・霊などの力を信じていない」、相手を信頼していないのと同じこと。つまりそれらとのコネクトを自分から断ち切ってしまうことになるのです。皆さんもよくご存知の「潜在意識の法則」と同様、これもまた「信じるからこそ達せられる」のです。一旦、真剣にお願いしたならもう安心してそのことは心配せず「お任せ」しておく。こうすれば貴方の願望が叶えられる確率は大きく上がるはずです。そして少しでもご利益があったと感じたら必ず「お礼」に行くことも大切です。それが無理ならせめて感謝のお祈りくらいはしてください。一般的な願望実現のメカニズムについてはまた改めて詳しく述べるつもりです。


第1回「それは本当に運なのか−運と意識」
「スピリチュアルリーディングとは」のコーナーでも触れていますが、一般的に「運」と思われているものの大部分は本人の意識によってもたらされています。つまり生来のものや変えようがないものではないのです。この場合の「意識」とはいわゆる潜在意識と顕在意識両方を含んだものを指しますが、平たく言えば「あなたは無自覚なままにそういう経験を自ら選んでいるのだ」となります。何らかの事情により意識の中に刻印されてしまった「設定」があり、その自覚がないままにそれに従って動いているのです。このあたりのことは最近の脳科学でも研究されているようです。では、その「意識」はどう作られたのか。いろいろなケースがありますが、幼児体験から始まって(面白いことに前世の経験がここで繰り返されることが多いです)どこかの時点で経験したことが先に述べたように意識の中に「設定」として収まってしまうのです。リーディングの過程でこのような「原体験とそれによる設定」が出てくることもあります。例えば「大切な人に見捨てられる」恐怖がある人は、繰り返しそれを味わうような経験をするわけです。ということは、これらのことがクリアになればかなりの問題がシンプルに整理されますし自分の中の「設定」が分かればそれを変更することも可能になるのです。

人生とは一種の自然現象でもあるので当然晴れたり曇ったりの波は避けられません。しかし、いつも同じ失敗ばかり繰り返している人、同じような経験ばかりしている人はちょっと考えてみたほうが良いでしょう。
人生には波がある、と言いましたが確かに流れが停滞しているように見える時期があります。しかし自然の流れにうまく乗れている人はこういう時期それこそ自然に「ちょっと休みたくなる」のです。一方死ぬほど多忙な時期もありますがそういう時は自然とやる気に満ちてくる。そんな人々にとってはどちらも自分の意識が自然の流れと一致しているので「悪い時期」などとは全く感じられないのです。これらの「流れ」を「運勢」と呼ぶこともできますが、こうしてみれば「運勢の良し悪し」などという言い方はしにくくなるでしょう。

もう一つ。「運が良かった」「運が悪かった」という言い方は一種の「魔法の言葉」じみたところがあります。何かを成し遂げた時それが自分の実力や努力の結果だと思っていても「運が良かったのだ」と言うことによって、ともすれば陥りがちな慢心や他人からの敵意という危険を免れることができますし、どうにもならないようなひどいことに見舞われても「運が悪かった」との一言で気持を切り替えることができるならそれも満更捨てたものではありませんよね。
   
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