碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 196
第24章 その5
この世の生存競争は全て「個体保持」のためのものである。種の保存のために自然淘汰が行われる、という考え方もそれと全く同じものだ。
ひとりひとりが身体という要塞に閉じ込められた別個の存在であり、それぞれが自分の中に自分だけの世界を持っていて、他者=異物の侵入を許さず、愛や光を締め出してしまっている。個体を保持しようとすればどうしてもそうなるのであって、常に攻撃の危険にさらされているので警戒を怠ることができず、ゆえに自分からの攻撃は正当化され、完全な平和は得られず、そういうことを繰り返した挙句に最後は必ず死ぬ運命なのだ。うんと頑張ろうが何もしなかろうが、結局は「生まれて死ぬ」ことに変わりない。個別=身体を現実だと思っていればそうならざるを得ない。いや、魂は不死なのだと考えたところでそれが「個別の魂」であれば、個別の身体を持った同じような生を幾度となく繰り返すだけではないか。
もうそういうことは止めにして別のゴールを目指してみませんか?と「コース」は言っているのである。より平和で安全で愛に満ち、しかもより少ない努力で得られるものだ。なぜならそれが本来の自然な姿だからであり、神の限りない力に助けられるからである。しかし、たいていの人が「そっちのほうがずっと難しい、大変だ」と思っている。これもまた「個体保持」という幻想が根強いためなのだ。個体を捨てるなんて、そんな!これはとんでもない「犠牲」ではないか、と思ってしまうのだ。しかし、私たちが「自分だ」と思い込んでいるこの個体は、実は自分ではない。それどころか本当は実在さえしない。実在さえしないものを守ろうとするのはそれこそ大変だし、虚しい努力に決まっている!
いつも言うようだが、個体を捨てるからといって別に「死ね」などと言われているわけではないのだ。個体としてではなく「神においてひとつのもの」として生きてみませんか、と言われているだけである。犠牲や喪失の恐怖が強いとどうしてもその方向にひきずられた解釈しかできなくなる。
しかし、少しでも神に或いはキリストに委ねようと思ってみれば、私たちは今までどれほどの重荷を背負って生きてきたかを知ることになるだろう。スピリチュアルふうに「宇宙に任せよう」というのでも構わない。やってみたことのある人はわかるだろうが、下手に個体を守ろうとしないほうが結局ずっと「守られた」状態になり、現実生活のあれこれについても余計な苦労をせずスムーズにできてしまうのだ。個体を守ろうというのは要するに閉じた状態であり、何でもオープンでいたほうがうまくいくのは当たり前のことだ。
それにしてもこの「個体・個別」を現実だと信じ込みそれを守ろうとすることが私たちにどれほどの影響を与え重荷を強いていることか!個としての私たちは神から造られたものではなく、私たち自身が勝手に作り出した(と思い込んだ)ものである。神と同じ「創造」の資質とパワーを与えられた私たちは、それを誤用してしまったのだ。神の創造とは似て非なるもの、そこに愛はなく分離からくる恐怖と罪悪感だけが残る、そういうものを作り出してしまい、なおかつそれを守ろうと必死になってきた。この身体であれ、個としての自分であれ、自分以外の他者であれ全ては私たちのマインドが作り出した(と思い込んだ)ものなのである。実体がなく幻なので、死ぬ思いで守っていないと破滅してしまう。いや、必死で守ったところで結局最後は死んでしまうのだ。
本来の私たち・・神によって造られたままのスピリットとしての私たち・・は、永遠に変わることなく存在し続けるものである。創造されたものは全て、生死などという現象にかかわらず過去も未来もなく常に今ここに在り続けるのだ。自分においてそのことがわかれば、それはあらゆる人についてもあてはまると気づくはずなのである。相手に聖性が見えればそれは自分の中にもある、というのと同じことだ。反対に、相手を個別のものだと見ればそれは自分自身についてもまたそのように考えていることになる。やはり投影=鏡なのだ。私とあの人は違うわよ!と思うなら、そう考えるまさにそのことが「個別性」を現実だと信じている証左になってしまう。
私たちが「自分の価値」を考えるとき、どうしても「他の誰とも違うこのワタシの価値」というふうになってしまう。しかし、そうしている限り自分の本当の価値は絶対にわからないのだ。私たちの本当の価値はこの「個別」である何かに閉じ込められるようなものではないからだ。いわゆる「本当の自分探し」がなかなかうまく行かないのも、ちょっとうまく行ったように思えてもすぐにまた袋小路にはまってしまうのも、「個別であるところの自分」を探そうとしているからだ。そんなものは「ない!」のである。
さて、私たちは身体を守りたいのか?まあたいていの人は病気より健康を求めているだろうが、この世において健康という概念は「不健康」とワンセットになっている。健康というものしか存在しなかったら、誰がわざわざ健康になりたいなどと思うだろうか?私たちには「病気・不健康」という状態が「現実」としてあり、そうなりたくないために健康を求めているのではないか?健康だけではなく、より若く美しく強く見えたいなどというものもある。しかし、それらは結局何のためなのか?この世において「このワタシ」がより多くの満足と利益を得るためではないのか?しかし、それをすればするほど「個別性」を強化することになり、その結果ますます罪悪感や恐怖が強まってしまうことは以前にも述べた。
そもそも身体がマインドの一部であるのなら、そして身体は実在しないのなら、守ることじたい不可能ではないか。私たちにできるのはマインドを守ることだけではないか。
じゃあ、私たちはマインドを守ることができるのか?答えはイエスでありノーである。マインドを守るのは「このワタシ」つまり神からバラバラになったところのワタシではないのである。このワタシにマインドを守ることなどできないのだ。マインドを守れるのは神と一つであるところのスピリットたる私だ、と言うことはできる。しかし、より正確にはマインドは神にあるいは聖霊によって常に守られているのである。私たちは間違いに陥らないようにマインドを見張ることはできる・・これは、ある意味で「守っている」とも言えるだろう。そもそも、マインドそのものが傷んだり歪められたりすることはありえないのだ。今まで散々「私たちのマインドは幾層にも分裂してしまった」と書かれてきたし、私もそう書いてきた。しかし、本当は!そんなことはありえない、不可能なのである。ただそれが現実のごとくに思われ信じられているだけなのだ。学習途上の私たちは、とりあえずこれ以上間違いに陥り幻想を現実だと思わないようにマインドを見張っておく、それによってマインドを「守る」ようにしよう、と考えておけばよいと思う。
いかなるバカげた考えや間違いも私たちのマインドを傷つけたり歪めたりすることはできないのだ。何故ならマインドは神によって造られたもの、神の御心の一部である完璧なものだからである。にもかかわらず私たちが有史以来こういう事態になっている(ように見える)のは、取りも直さず私たちが「夢の世界」にどっぷり浸かっているからに他ならない。
何度繰り返しても繰り返し足りないことなのだが、私たちの(認識する)世界はマインドが映し出すものであり、そのマインドは自らにとって真実であるとするものを映し出すのだった。言い換えればマインドはその目的とするところに応じて世界を映し出す。私たちの目的は救いであり解放であり平和である。これを見失ってはならない。ここから動いてはならないのだ。この世で起きている(ように見える)あれこれ、その一つ一つについて「いったいこれは何のため?」と自問してみてほしい。あなたが出した答えはあなたの世界観を或いは自分が何者であるかという自己規定を表しているのだ。ひとりの人間(!!)として考えれば「とんでもないこと」にしか思えない大惨事であろうが、スピリットから見れば「何も起きていないに等しい無意味なこと」だったりする。これは通常あまり大きな声では言えないことだが、本当にそうなのだから仕方がない。どんなことが起きている(ように見える)のであろうと、マインドの平和は揺るぎない。何故なら私たちはそれを目的にしているからだ。どんなことに遭遇してもマインドが平和である、これが救いであり解放でなくて何だろう?
個人としての私たちはこの大いなる目的を実現させるための手段として機能している、と言っても良い。変な言い方になって恐縮だが、たとえば身体を超越するためにはその超越されるべき身体が必要なのであり、世界を超克するためにはとりあえず超克されるべき世界が眼前にあることが前提になる。
本来の状態即ち神においては「あらゆるものが一つである」ことを思い出してほしい。そこでは手段と目的は一つなのであり、両者の間に区別はない。これは考えてもわからないことだが、経験することはできると「コース」は言っている。私たちにその経験をさせてくれるのが聖霊なのである。聖霊に導かれて私たちはある日あるところである状況下においてそういうことを経験する。もちろん、本来は時間も場所も「ない」のだが、とりあえず今の私たちにはそれが「現実」になっているのだし、聖霊は私たちの幻想を「学びのためのツール」として有効利用してくれるので、私たちそれぞれがその都度理解可能な範囲において私たちを導くようになっている。だから、たとえば「何か偶然の・あるいはやむを得ない理由によってある場所に出向いて全てが変わってしまうような経験をした」「あるとき偶然にある人と話をして大きな気づきを得た」などということがあるわけだ。
しかし、そもそもそう思い判断するところの「知覚認識」じたいが既に「手段」に過ぎないのである。日々見たり聞いたり感じたりするというこれらが「手段」だとはなかなか理解しづらく受け入れがたいかもしれないが、とにかくそうなのだ。自分が何を見聞きした(と思う)かを見れば自分のマインドのありようがわかる、自分が何を真実・現実だと考えているのか、何を「望んで」いるのかがわかる。これだけでも十分に手段ではないか。たとえばあなたが幸せを望んでいる「つもり」なのに、いまあなたが何かで苦痛を感じているならあなたは実は苦しみを望んでいたのだとわかるではないか。そんなことは絶対ない!と思いたいかもしれないが、ここは是非認めていただきたい。幸せを、平和を求めていたはずなのに「間違ってしまった」のだと認めればよいだけなのだ。間違いは、それが間違いだと認めないかぎり正すこともできない。
常軌のことを逆から見れば、知覚認識とは或いはそれが宿るところの「身体」とは、自分の願望を現実化するための手段だとも言える。エゴで生きていればどうしたって苦痛は免れないので、身体はその苦痛(という願望)を体現するための手段になってしまう。
しかし、身体によってもたらされるものは全て身体にとっての現実でしかないのだ。なのに私たちは、見え聞こえ触れられるから実在する!と思ってしまう。それどころか自分の実在さえこの知覚認識機能によって確認されるものだと思ってしまっている。
この身体を「自分」だと考えること、他でもない「このワタシ」があると考えること、これを「コース」は「偽物の神の子」だと言っている。つまり本来の神ではなく、神と分離したマインドが作り出した被造物(もどき)だと言っているのだ。この「神の子」は創造主である「このワタシのマインド」の目的に沿って動くようになっている。本来の神の創造のパロディみたいなものである。
かくのごとく、この世には二種類の「神の子」ができてしまった。もちろん本当の神の子は「ひとつ」なのだが、それは忘れ去られている。そしてこの異なった神の子どうしは決して出会うことがない。ひとつが現れればもう一つは消えるのである。あるいは、一方は外側に他方は内側にあると言っても良い。
この二つの違いはどこにあるか?それぞれの「目的」が違うのである。ある人がエゴなのかそれともスピリットとして生きているのかを分けるのはその見かけや行為ではないのだ。私は特別なのよ!迫害されて苦しんで死ねば天国に行けるのよ!と思って死んだ殉教者は、その行為は一見立派なようでも結局エゴである。
個人であること、特別であることを求めれば良くも悪くも知覚認識はそのような現実を映し出す。しかし!知覚認識機能も学びのためのツールなのだから、目的さえちゃんとしていればそれに適った働きをして、愛や平和や癒しを現実化することになるのだ。知覚認識機能を正す、とはそういうことである。
碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 197
第25章 その1
自分で気づいていようがいまいがキリストは私たちと共にある、というか私たちの中にある。が、キリストは身体に宿っているのではない。ならば、キリストは私たちの身体の中にいるのではない。
今までの内容を見れば言うまでもないことのようだが、それでもつい私たちはキリストを思うとき自分の胸に手を当ててみたりする。まるで自分の心臓=ハートの部分にキリストが宿っているかのように、あるいは自分の身体の奥深くにキリストが宿っているかのようにだ。これはもうある程度仕方のないことなのかもしれないが、私の感じるところによればどちらかというと「キリストの中に自分がある」と思ってみたほうがわかりやすくなるようだ。基本的には内も外もないのだからどちらでも構わないのだが、身体の中にあれこれが閉じ込められているというイメージは持たないほうが良いような気がする。
キリストは命である。死すべきものの中に命が閉じ込められるようなことはありえないのだ。もちろん、キリストと一つであるところの本来の私たちもまた死すべき身体に閉じ込められてなどいない。
キリストとともにある者はあらゆるところにキリストを、そしてその聖性を認めることができる。いまの私たちにとって「別々の個人である」ことが自明であるのと全く同じように、あらゆるところにキリストがあるのが自明のこととなる。そのときもはや身体は意味をなさない。
自分を或いは他人を「別々の存在」即ち身体だと信じている人々は、要するに自分ではそうと知らずにキリストとともにあり動いていることになる。こういう場合、本人はどこにもキリストを見ることができないし、またキリストに成り代わって奇跡をもたらしたりして周囲にキリストの存在を知らしめることもできない。
前にも述べられていたように、身体は癒しを必要としないし癒されることもできない。癒されるべきは「身体を癒したい、身体は癒される」と思っているマインドだけなのだ!そういう間違いに陥ったマインドこそキリストによって癒されるのである。
しかし、今の私たちは自分を身体だと思っており身体が見えているわけなので、キリストによる癒しはあたかも身体に作用しているかのように見えるのだ。あたかもあなたがあなたとは別の人間である彼(女)の身体を癒しているように見えるのだ。身体はその道具として使われる、それ以外の意味はない。
本当はマインドが自らを癒しているだけなのだが、とりあえず身体を持った人間として生きているこの世においては、ある人が別の誰かを癒しているように見える。別々の人間である(ように見える)ことはこういうふうに有効利用される。そしてこのように身体を用いることこそが私たちの使命なのである。
私たちに課せられた使命はそれほど大変なものではないのだ。なぜならそれをやるのは「このワタシ」ではなくてキリストだからである。私たちはその邪魔をしなければよいのだ。これも前に書いたことだが、自分が何かをする!のではなくてキリストに自分の身体を道具として提供すればよいのであり、そうしようとしているうちに段々私たちは自分の身体がただの道具だとわかるようになってくる。
言うまでもなくキリストはマインドであり、それと一つであるところの私たちもまたマインドなのだ。それを考えればキリストが私たちの身体を通して働くのはそれほどとんでもないことでも難しいことでもないと思える。このワタシ、は何もしなくてよい、というか余計なことをしてはならないわけだ。何だ、楽じゃーん、とはならずに案外難しく感じるのは、これがエゴを捨てるのと全く同じことだからだろう。
癒しとは、キリストでもあるところの私とあなたがキリストにおいて出会うこと、聖性においてつながることである。すべてが一つであるとはこういうことでもあるのだ。
ここでもまた知覚認識機能が重要な役割を果たすことになる。あなたが見たり聞いたり、つまり知覚経験することのなかにあなた自身が現れるのだ。キリストが出てくればあなたはキリストとともにありキリストと一つなのだということだし、誰かを「他者」だと思ってしまえばあなた自身もまた「神と分離したバラバラの個人」だということになる。投影という作用を思い出していただきたい。
あなたが誰かに或いは何かに聖性を見るならば、その時あなた自身も聖なる存在=キリストになっている。あなたの知覚認識経験がそれを示してくれている。前回に述べたように、知覚認識とは自分がどうありたいかを表しているものである。自覚はなくても、あなたが判断し選択した結果なのであり、常にあなたの目的に沿ったものになる。すなわち「神においてひとつ」なのか「バラバラの個人」なのか。愛と平和を求めているのか特別さを求めているのか。知覚認識の結果はその目的と必ず一致する、というかまあ投影なのだから一致して当たり前なのだ。
私たちは本当の命である神(の御心)の一部であり、そこから生じる愛や平和は私たちの身体を通して全方位的に放射されている。あなたのマインドが誰かのマインドを癒すことができるのは、それが身体によって遮られていないからでありまた本当は別々のマインドではなくて一つのものだからなのだ。
私たちはあまりにも「別々、バラバラ」という考えに慣れ親しんでいるために天国=神の国さえ自分とは違う何かだと思い込んでいる。当面はそれでも構わない。何故なら私たちと神の国=真理とを結びつける手段を学ぶのがこの「コース」だからであり、学ぶにつれてあらゆるものが「ひとつである」とわかるようになっているからである。どんなに神を忘れ神から離れてしまったと思い込んでいても、真理を忘れていない部分=キリストが住まう部分はマインドの中にちゃんと残されている。特別でありたい・個でありたいという間違った目的が正されれば私たちのマインドは元の通り神の御心と同じものになり、同じものを目ざすようになる。
自分の意志が神の御心と同一のものだ、なんてことはそれこそ考えてもわからないのだが前回にも書いたとおり経験することはできるのであり、聖霊に従えばそのような経験を得ることができる。いつ、どこで誰と何を・・・などという「動き」がエゴによるものでなく聖霊の導きによってなされれば自然にそうなる。これも前回書いたように、本当は時間も場所もかかわる相手も関係ないのだが、聖霊はあくまで私たちそれぞれに理解可能なやり方で私たちを導くようになっている。たとえば過去生などというものも本当は幻に過ぎないのだが、それを信じている人にとってはそこから入るのがもっともわかりやすいかもしれないのだ。そういうわけで幻想を駆逐して真理をもたらし「ひとつであること」を学び経験する方法や状況はまさに「人の数だけある」というふうになる。しかし、どれも結局は「同じものが別々の異なったものになることはありえない。一つであるものがバラバラになることもありえない」という事実に行きつくようになっている。
さて、この世において通常の身体による知覚機能では絶対普遍の真理を認識することは不可能だ。身体で知覚認識できるのは全て変化するもの、移りゆくもの、不確実なものだけである。そして私たちは必ず、一人残らず恐ろしいものを見聞きする。そんな経験はありません、なんて人はひとりもいないはずだ。その一方で時には美しく素敵なものも見聞きする。当然、自分にとって好ましいものだけを知覚経験できたらいいなと思う。しかし、これらはみな「変化し移りゆくもの」という点では同じなのである。だからこそ、過去に経験した美しく素晴らしいものが失われ戻ってこないことを嘆いて過去の苦しみに囚われ続け、あるいは過去の経験に鑑みて「こういうものが手に入れば幸せなのだ」と考えてはいろいろな願望を抱く。それらが実現したとしてもやはり「変化し移りゆく」ことには変わりがないのだから、またも失って或いはもはやそこに喜びが見いだせなくなって失望し嘆くようになる。
「変化し移りゆく」というこの世のあれこれを求めたところが既に間違っているのだ。そうしている限り私たちに望みはない。つまり、そもそも望みがないところに希望を抱いたことじたいが間違っているのである。パン屋に行って「指輪がほしい」といくら騒いでも懇願しても脅しても絶対に手に入らないのと同じ道理である。
厳密に言えば、私たちがいま見聞きしていることもマインドの判断が投影された「結果」なので、ある意味では既に「過去」なのだ。それがいくら素晴らしく思えても、それを永久にとどめておこうとした瞬間に美しさは失われる。
あなたにとって良いものも悪いものもひっくるめて過去を捨てなさい。そこに価値をおくのをやめなさい。今生の過去だろうが過去生だろうが同じことだ。過去は要らない。なぜなら、苦痛をもたらすものはまさにそのことによって幻想なのであり、本当に美しく素晴らしいものなら失われることなどありえず常に今ここで経験できるはずであって何も過去にしがみつく必要はないからだ。過去を手放せ、というと「苦痛は手放したいけど良い思い出は手放したくない、そういうものもなくなっちゃうんですか?」と抵抗する人がいるのだが、とにかくやってみればどんなことだかわかる。
絶対に不可能なところに望みをかけてはやっぱり失敗し、でも今度こそはと思って懲りずにやってまた失望する。私たちはこういう生き方をしてきたのである。この世のあれこれを現実だと思って、それが自分に幸せや喜びを与えてくれると思って求めてきたのだ。しかしそれらはみな「変化し移りゆく不確実なもの」に過ぎず、せいぜいが束の間の幸せと喜びをもたらすだけであり、失えば苦痛はより一層大きなものになってしまう。
私たちは形と内容を混同してきたのだと「コース」は言っている。これは私も以前スピリチュアルコラムの「シアワセになりたい」というシリーズに書いたことだ。たとえば平和や幸せというのは徹頭徹尾マインドの状態なのだから自分がそう望みさえすれば「いまここで」すぐに手に入るものである。というか、常に「いまここ」にしかないものである。ところが多くの人々が「これがあれば幸せになれる」と思い込んだあれこれ、たとえばお金や地位や名声や美貌や素敵なパートナーなどなどを、それらがまるで「幸せそのもの」だと思って求めてしまうのだ。形と内容、あるいは手段と目的と言ってもよいのだが、とにかく絵を入れずに額縁だけを飾って喜んでいても仕方ないではないか、ということだ。
神によって造られたもの、真実であるようなものに額縁は必要ない。形は必要ない、というか問題にならないのである。かくて、私たちはどこでもどんな時でも今ここで「幸せと平和」を得られるわけである。こうでなければ幸せとは言えないわ!と思うのは自由だがそれは間違った思い込みであり、不自由をもたらす。
が、今のところ私たちにはまだ何かしらの「額縁」=「形」が必要なのである。でないと内容を認識できないからだ。それが聖霊の働きなのだ。以前に述べられていたように、聖霊は私たちが理解できる姿になってあらわれ私たちを導き、気づきや癒しをもたらす。行ってみれば「内容を伴った形」なのである。その内容をちゃんと見ることができればもはや形=額縁は必要なくなる。今まであなたが必死で求めてきた形=額縁など何の意味もなかったとわかるようになるだろう。