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第150回「分かる?! X」

(承前)相手に理解されたい、自分のことを分かって欲しいという願望は人間関係におけるトラブルや悩みごとの大きな原因になるものです。もしもあなたが全く条件なしにただ「周囲の人たちが・大事な誰かが私のことをわかってくれたらいいな」という思いを抱きつつ日々動いて過ごしているというだけであればそれほど問題にはなりません。しかし、前回でも述べたように大抵の人は「理解されたい」というときそこに何らかの条件をつけてしまうのです。即ち、自分が望むとおりの形で理解されたいと望んでしまうわけなのですが、これは大変難しくかつ危険なことです。

自分が望むとおりの形で相手に理解されたい、つまり「私はこれこれこうである」という自分の姿や思いを相手に間違いなく伝えたい、というときに生じる問題点を考えてみましょう。

たとえば、貴方があることで非常に悲しんでいてそのことを相手にわかって欲しいと思ったとします。ところが心底で貴方は「悲しんでいる自分を見せ付けて相手を傷つけたい・反省させたい」「いたわりの言葉が欲しい」のだったり「私はこんなに繊細なのだから私に対する言動には気を遣ってちょうだいね」と伝えたいのだったりする、そういうことも少なくないのです。となると、貴方は「自分が悲しんでいる」のをわかってほしいつもりで本当は別のことをわかってほしい・伝えたがっているということになりますよね。

となると、相手が貴方に対してこういった「心底の願望」に応えてはくれない「ように見える」反応を寄こした場合、貴方は「わかってくれていない」と感じて怒りや悲しみや欲求不満を感じるに違いありません。

つまり、相手が「ああ、この人は悲しんでいるのだな」と感じる=わかるだけでは不十分だと貴方は思っているのです。そう感じた上で貴方が望む反応までしてくれないと「ちゃんとわかってくれた」と認めることはできない。たとえ相手が「ああ、この人はこういうところでこういうふうに悲しむのだな」という貴方の内在論理をつかんでいたとしても、そこから更に一歩も二歩も進んで「そういうときはこうして欲しいんだな」と思って欲しい、言ってみればより深い内在論理をつかんでそれに沿って反応してくれなければ満足できないのです。

更に、相手が実は貴方のことを全て見抜いており心底にある願望までわかってしまっていたとしても、即ち「ああ、この人は私のことを責めているんだな」「私に優しくしてほしいんだな」というところまで相手が「わかってくれた」としてもそれで全て解決になるとは限りません。

もしそこで「貴方は私のことを責めているんだね」「優しくしてほしいんでしょ」などと、まあ言ってみれば図星を突かれてしまったら感激するより逆上する人のほうが多いのではないか、と思います。

もちろん、自分が望む印象を相手に植え付けその上で相手を自分の望むように動かす、という技術に長けた人・・たとえばスパイです・・もいますし、それを無意識にやってしまえる人もいます。そういう人はやはり相手の内在論理を掴むことにも長けているのです。頭で、ではなく身体で或いは動物的な勘でそれができるような人なら、何となくいつも周囲の人をうまく動かしてしまいます。そんなのズルイ、と思うかもしれません。事実、こういうタイプの人は「したたか」などと言われることもあるでしょう。

しかし、無意識的なのであれ相手の内在論理を掴んでそれをうまく使える人というのは、「この人に対してはどのように振舞えばよいのか」「この人はどうすれば動いてくれるか」ということがいちいち考えなくても「無意識に」わかってしまっているのですね。当人がいくらエゴ的な願望を抱いているとしても、それを相手にわからせて相手を動かす際には一旦(自覚はなくても)エゴを捨てるというプロセスが出てくるわけで、これまた皮肉な現象です。

要するに、自分のことをわかってほしいと思う場合であっても「相手が相手のやり方で勝手にわかる」のではたいがいの人は満足できない。わかってもらう、というのがある程度以上「自分をアピールしたい」ことと同義であるからには自分が望むとおりの伝わり方をしないと意味がない。であるならば、やっぱりまず最初にこちらが先方の内在論理をつかんでおくしかありません。そうすれば「この人のどこにどう訴えかければ動いてくれるか、伝わるか」もわかるからです。

   
第149回「分かる?! W」

(承前)唐突におかしなことを持ち出すようですが、いわゆる「スパイ」それも国際的なレベルで活動するようなスパイの方々というのは「先方の内在論理をつかむこと」に精通しており、また逆に「先方に自分の内在論理をつかまれないこと」にも長けているのです。こういう職業は何だかエゴの権化のように感じられますが、スパイ個人のエゴが強かったらとてもじゃないが絶対にできない仕事です。実際、スパイ(および元スパイ)にはいわゆるエゴの部分が薄い人が多いそうで、別にスピリチュアルな方向での覚醒を目指しているわけではない、どちらかというと逆方向を見ているように思われるような職種の方たちが仕事上の必要から「エゴを落としていく」に至るというのは面白いものです。

私たち一般の人間であれば通常は「相手に自分の内在論理をつかまれない」ようにする必要は生じないでしょうし、また普段それをやってしまってはスピリチュアルな意味での関わり合い、相互理解というのも難しくなるような気がしますよね。

さて、貴方は相手の内在論理を何とか理解できるようになりました。では、今度は「相手に自分のことを分かって欲しい、理解して欲しい」という場合にどうしたらよいのか?について考えてみましょう。これは以前にも他の形で書いたことがあるかもしれませんが、このコラムはどうせ?同じテーマの繰り返しになることがあらかじめわかっていて始めたようなものなのでご容赦くださいませ。

前回までの項でご説明したように、誰か・何かを理解しようとした場合目に映り耳で聴こえた情報を断片的に寄せ集めそれを自分の意識のフィルターを通して解釈・判断していたのではうまくいかないのですが、そういうことを日ごろ貴方も周囲の人からされているのだ、というちょっと怖ろしいことがまずここでわかります。そう考えれば貴方が誰かに対して「どうしてこういうことをするんだろう、こういうことを言うんだろう」と考えてしまうのも「自分と相手の内在論理が異なっている」という原因のほかに「相手は相手自身の内在論理によって私の言動を解釈・判断しているからだ」という事情も見えてくるわけです。双方がそれぞれ異なった内在論理によって相手を見ている、それぞれが自分自身の内在論理に当てはめて相手を見ている、これは別の言い方をすれば「それぞれが相手を自分と言う鏡に映して、その鏡像を相手だと思っている」というふうにもなります。だから人間関係の問題は絶えないのです。それぞれが、いや片方だけでも上記のような事情をわかっていればまだしもですが、たとえそうであっても今度は「私は彼(女)を彼(女)自身の内在論理から理解しようとしているのに、彼(女)は私に対してそういうふうにしてくれない」という不満が出てくるかもしれません。

更に厄介なのは、こと人間関係となると大抵の人が「理解すること」よりも「理解されること」に重きを置く傾向がある、つまり理解したいより理解されたい!とより強く願ってしまう傾向を持っていることです。更に更に言えば、「自分が嬉しいと思える形で理解されたい」というのがおそらくこの「理解されたい」の内実なのだろう、というのがまた二重に厄介です。たとえば、貴方が死んでも認めたくないような自分自身のある部分を誰かに的確に見抜かれたとしてもあまり嬉しくはなかったり、むしろイヤだなあと思ってその相手を嫌ったり避けたりすることさえありうるわけです。こういう場合、「見抜かれた」と気づいていなくても何となく「この人といると居心地が悪い」と感じたりすることもあります。面と向かって指摘でもされようものなら逆上する場合もあるかもしれません。こういうとき「ああ、私のことをこんなにわかってくれているのだわ」と思わない人も少なくないのです。

まあ、このあたりには表現方法における気配り的テクニックというのもあって、たとえば「貴方は空気が読めなくて気が利かないからいつもトラブルばかり起こしているんだ」と言うよりも「貴方は純粋な人だから誤解されやすいのよね」と言う方が相手は喜びますよね。もちろん前者のほうが真実をついているのですが、こう言われて「理解されて嬉しい」と思う人もそういないでしょう。ひどいことを言われたと思ってその発言者を嫌ったり避けたりする可能性のほうが高いと思います。

理解されたい、もっと言えば例のアレです「本当のワタシをわかってほしい」というのは一体何をどうされたいのか?このあたりはずっと前に「本当のワタシ」などの項でもいろいろ書き散らしておりますので、ご興味がある方はご参考にどうぞ。

スパイの話ではないですが、上の「純粋云々」のように「私のことを分かってくれている!と相手に思わせる」というテクニックというのもあるにはあるようです。が、こういうものに騙されて喜んでいるようならその人の「理解されたい願望」というのは要するに「認めて欲しい・同意して欲しい・味方になってほしい・好かれたい」などという願望と同じなわけであって、好き嫌いや利害と理解とは全く別次元であるという原理を思い出していただければこの手の「理解されたい願望」というのは単なるエゴの欲求に過ぎないこともわかりますね。

次回もこの続きです。(この項続く)

 
第148回「分かる?! V」

(承前)相相手の内在論理を掴み理解するようになれば自分と相手との関係を、それがどんな種類のものであっても、良好かつ円滑に進めていくことがより容易になります。これは一見スピリチュアル的なやり方で人間関係を構築したり更に深めて行ったりすることとは異なり、もっと「この世的」な感じを受けるかもしれませんが、それでもやはりこれらは全く違う2つのものではなく片方からもう片方に簡単に移行できるような類似性を持っているのです。

さて、個人であれ組織であれ内在論理は千差万別なので当然その中には貴方自身のそれと近いものもあれば、あまりにも隔たっていてどうにも手がつけられないと思うようなものもあります。また、内在論理における好き嫌いというのも当然あるわけで、たとえばあの人・あの組織・国家の内在論理はこうなっている、というのは何となく見えるけれど絶対におかしいと思う、気に入らない、私とは合わないなどと感じることも珍しくはありません。また、外国語を学ぶのに際してもある言語ならそれほど苦労せずに入っていけたのにまた別の言語にはどうしてもなじめなかった、という経験を持っている方がいるかもしれません。これも、どちらがより難解で複雑だったかというだけではなく、自分にとってその言語の内在論理がなじみやすいかどうか、という理由もあるのではないか、と私は考えています。

内在論理を知る・掴むということとそれに対して貴方個人の判断を加えること、この両者をごちゃごちゃにしてしまっては何もかもぶち壊しです。せっかく相手の内在論理がわかってもそれを何に生かすこともできずに終わってしまうからです。以前も書いたことですが、何かを理解するということは「それに同意する、賛成する、それを気に入る」のとは全く次元を異にするものであり、というよりむしろこれら「同意・賛成・好感」などを介在させてしまえばそれだけ「理解」にとっては妨げになるのです。あることを理解するのに当たって好き嫌いを初めとする「貴方の側の判断・評価」というのはさしあたり必要ありません。理解したうえで「でも、私にはどうもなじめない」というのならまあ問題ありません。なじめないと思ったところからどうするか、は貴方の自由なのです。

つまり、内在論理(に限らず全てのことについて言えるのですが)を掴む・理解するにあたっては虚心坦懐な姿勢が要求されるのです。これを言い換えれば例のごとく「エゴを脇に退けて」「オープンになる」というふうになります。

日常生活でしょっちゅう経験することだと思いますが、多くの人が「自分にとって気に入らない」ことについて「わからない・理解できない」と言いますね。これは要するに「気に入らない」ものに対して自分自身が拒絶の姿勢をとっている、ということなのです。しかし、嫌いな人や場所ともストレスなくうまくやっていこうと思うならばどうしたって「理解しよう」という虚心坦懐な姿勢がまず必要なのであって、その上で「これは距離をおいたほうが良さそうだ」とか「うまく逃げるしかない」などという結論を出せばよいのです。逃げるにしても「うまく」やらなければ却ってトラブルの元になるわけですし、「うまくやる」ためにはまず相手を理解するところから始めるしかないのです。

「気に入らないもの」に対して「理解できない、わからない」というのは、それを理解することが「嫌なものを無理やり飲み込むように受け容れる」ようなイメージとつながるからだろうと思います。あるいは、理解することイコール「相手に屈服する・負ける・妥協する」と思い込んでしまっているからかもしれません。が、前述したように理解というのは同意や賛成や好意とは全く別の次元に属することなのですから、理解したからといって貴方が相手に隷属したことにもならないし貴方が無理やり自分の考えや内在論理を変える必要もないのです。ただ「そうなのか」と了解すればよい、そんな感じです。

他者との関係を築く際に「自分が相手の内在論理を掴むことによりうまく対応する」方法をどうしてもうまく取れず、逆に「相手を自分の内在論理に引き込もうとする」「相手に自分のことをわかってもらおうとする」というアプローチを行ってしまうタイプのかたもいらっしゃるのですが、これはどうしてもうまく行きにくいのです。なぜならば、当たり前のことですがその相手が貴方のことを別に理解したいなどと思っていないかもしれない確率が高いからです。相手がヒトならまだしもですが、これが組織だったりした日には目も当てられないことになってしまいます。

極端なことを言えば、もしも貴方が誰か・どこかを相手に戦わなくてはならない場合或いは相手を屈服させたりこちらの要求を呑ませたりしなければならないような場合、それも大嫌いなヒトや組織を相手にしなくてはならない場合、そういうときこそ「相手の内在論理を掴む」ことが絶対不可欠の条件になるのです。気に入らないから理解したくない、なんて言っていたら戦う前から負けているようなものです。

いやな職場で仕事をしている方なら、その職場の内在論理を掴んでしまえば・・それがどんなに気に入らないものであっても・・それなりにうまくやっていけるようになるでしょう。ひょっとしたら想像もできないくらい状況が変化してしまうかもしれません。いやだから辞める、というだけでは次の職場でまた同じ経験を引き寄せてしまうことになる危険がありますが、自分なりに改善できたうえでやっぱり合わないから辞めるというのであれば次はより良い仕事場に恵まれる可能性が高いのです。

   
第147回「分かる?! U」

(承前)自分以外のいろいろなものの内在論理をつかめれば、人間関係はもちろん人生全般がかなり楽になるのですが、これは一朝一夕にできることでもありません。だからといってこのアプローチ方法を全く無視してしまうのはあまりにも勿体ないことです。

相手を理解するに当たってはその内在論理を掴むのがもっとも(といってよいくらい)有効なのですが、多くの人々がそれとは全く逆のことをしてその挙句にますます相手との溝を深くしてしまっています。

すなわち、相手の言動を表面的に捉えた上でそれらの一つ一つを「相手の」ではなく「自分自身の」内在論理に当てはめて解釈してしまうのです。彼(女)が、あの時こう言ったのはどういう意味だったのか、何故そう言ったのか、何故こういう行動を取ったのか、などのことは全てそれをした当人=相手の内在論理から生じているものであるにもかかわらず、それを見聞きした側である貴方自身の内在論理に当てはめる・・・こういう気持ちだったらこういうことを言うはずだ、こういうふうに振舞うはずだ、などと貴方は考えます。が、それはあくまで「貴方の」考え方、貴方の内在論理なのであって相手が同じであるとは限らない、というよりたいていの場合は違うと思って間違いないでしょう。たとえば、相手があなたのことを思いやって言った(或いは送信した)ことばでも貴方から見れば拒絶のメッセージと映るかもしれません。矛盾した発言が多いのは単にいつもその場で思いついたことをそのまま口に出してしまうからかもしれません。貴方が常に自分の発言に一貫性を持たせているつもりであり、それが誠実さを表すのだと考えているのであれば、言動が矛盾している人物は『嘘つき』だったり「不誠実」だったり、ということになってしまいます。

そこまで断定的にならないにしても、相手の言動の一つ一つを自分自身の内在論理に照らして無理やり一貫性を持たせて解釈しよう、というのは非常に危険であるという以前に端的な誤りであるといえます。まるでドイツ語やフランス語を日本語の文法に当てはめて勉強しようとするようなものなのです。

余談ではありますが、ひとさまに何か差し上げるときに「つまらないものですが」というのは欧米ではありえないことだ、つまらないものを人にあげるなんてとんでもなく失礼なのだからそんなことを言う日本人はおかしい、とか自分の妻を「愚妻」などというのは論外におかしい、などという「日本文化批判」が日本人の間からなされた時期がありました。もともとは異文化の内在論理を理解できない、そんなものがあると考えることさえできないようなバカな外国人からなされた指摘だったのでしょうがそれをまともに受け止めるほうも同じくらいバカですね。文化が違うというのはとりもなおさず内在論理が違うということなのであり、それによって言語のありようもまた異なるのです。相手を敬うという発想はどこの文化にもありますが、そのありようが文化によって異なるためにそれをあらわす敬語表現も言語によって異なるのは当然のことです。

これとほぼ同じこと、相似形のようなことが個人間でも起こり得る、あるいは実際に日々起こっているわけです。ですから、まずは「相手の言動を自分の内在論理に当てはめて解釈する」のだけはやめましょう。

「私だったらそういうことはしないわ」「私が彼(女)の立場だったらこうするわ」などというのもまた「自分の内在論理」本位の考え方ですね。「相手の立場にたって考えろ」「相手の身になって考えろ」と言っても、考えるのが貴方でありなおかつ貴方の内在論理によって考えるのであればいくら「相手の立場にたった」「相手の身になった」ところでただ貴方自身が何かのシミュレーションをしたに過ぎないのであり、相手の何を理解したことにもなりません。内在論理をつかむというのはむしろ「相手の頭になって考えろ」なのです。もちろん他人の頭で考えることなど実際にはできるわけもありませんが、要するに「あの人はこういうふうに考えたのだな」ということがわかるくらいには自分の頭を使え、その程度の意味です。

この人が何を言おうとしているのか、何を考えているのかさっぱりわからないというのは殆どの場合相手の内在論理がわからない、ということなのです。

 
第146回「分かる?! T」

今更改めて言うのも何ですが、リーディングはたいてい何か知りたいことがあってそれを知るための手段として用いられるものです。就職できるか、契約がまとまるか、どの病院が一番良いか、などあまり感情的な部分に関係ないことであればやる側も聴く側もそれほど困難を覚えずに済むのですが、これが人間関係にかかわることだとそう簡単にはいかなくなるケースが多いのです。
夫婦関係・恋愛関係はもちろん、家族・友人・仕事関係或いは病院の先生や子供の担任の先生など、問題になる「相手」も関係の深さや種類・親しさの度合いも多様ではありますが、知りたい内容は限られています。すなわち「相手が自分をどう思っているか」「自分はこの相手に対してどのように接したらよいのか」という部分に集約されるのです。
ところで、私に限らず誰でもそうだと思いますがリーディングの際にはただ「相手はこう思っています」というだけではなく、その相手がどういう性格でどういう考え方をするか、あることに対してどのような捉え方をし、どのように反応するか、更にそれをどのように表現するか、というところまで説明するようにしています。これを「内在論理」と言います。同じ状況にあっても同じ事をされても人によって捉え方が違うのだ、ということは以前から書き続けていますし皆さんも日常生活の中で経験なさっていることだと思いますが、堅苦しい言い方をすればそれは個々人がそれぞれ固有の内在論理を持っているから、ということになります。内在論理というのは個人の考え方に限らず、国家を初めとする組織においても存在するものですし、その他いろいろな言語においても学問においても存在するものです。
たとえば、どんな環境におかれてもすぐに慣れてうまくやって行ける人というのは、適応能力があるという要素の他にその場の「内在論理」を掴む能力に長けている場合も多々あるのです。それだけではなく外国語などの習得が得意な人、というのは一口に「語学が得意」と言ってしまえばそれまでですがこれもやはり「ある言語における内在論理を掴むのが得意」である、とも言えるわけです。逆に言えば、いわゆる「空気が読めない人」とか「真面目にやっているのにトラブルを起こしやすい人」などは周囲の或いは相手の「内在論理」を掴むのが苦手であるということにもなります。
さて、この内在論理を掴むことこそ通常の意味で「相手を理解する」ことなのです。スピリチュアルな意味での「理解」というのはそれらを超越しているというか、いきなり相手の全てを受け容れるようなものでもあるので同列に扱うことはしにくいのですが、それでもやっぱりかなりの部分が重なるのです。何故ならば、相手の内在論理を掴むためには余計な感情も判断も批判も脇においてこちらが完全に空っぽに、あるいはオープンにならなければならないからであり、その姿勢はまさにいわゆる「スピリチュアル」なものに他ならないからです。
相手の内在論理・・・思考・行動のパターンと言ってもよいのですが「内在論理」はどちらかというとその人の世界観・宇宙観にもつながるようなものであり、ある人がこの世において即ち身体を持って存在していることにおいて「まさにその人である」ことをそのまま示すようなニュアンスを含んでいます。ならば、自分とは違う誰か・何か=即ち「他者」の内在論理を掴むということはそのまま「自分ではない他者の存在を認め理解する」ことにもつながります。
これがわかると、つまり相手の内在論理をつかめるようになると、たとえばある状況において相手がどう感じ考えているか、何故こう言うのかなどがよく分かるというか「見える・読める」ようになります。もちろん、同じ内在論理といっても単純でわかりやすいものもあれば逆に屈折して複雑なものもあり、全てのものの内在論理がいっぺんに把握できる方法などはありえません。しかし、少なくとも全てのものには内在論理があり、表面的なあれこれに拘泥するよりは「これの内在論理はどうなっているのだろう」というアプローチのほうがずっと楽だし確実なことは確かです。
つまり、相手がどんなことを言ったか、どういう行動や態度を取ったか、それらについていちいち「どういう意味だったんだろう、何を考えてるんだろう」などと考えるのは表面に浮き上がってきたかけらだけを拾って全体を見ようとするような、苦労の割には正確さも期待できないようなやり方なのです。それらの「かけら」が互いに矛盾する場合も多いことを考えてもこのやり方が困難で当てに出来ないものだとわかります。それに対して「内在論理」を掴もうとするのは相手の「骨組み」を知ろうというようなものなので、表面に何が出てきてもそうそう惑わされません。

   
第145回「エモーションX」

(承前)感情というものは実はマインドの一部でありマインドの中でも身体に近い層にある、従ってマインドが何らかの判断をしなければ生じないものでありどんな感情が生じるかはその前にマインドが状況に対してどういう判断を下したかによって決まる、と繰り返し述べてきました。これは本当に重要な点であり、このことがある程度理解できればそれだけでも自分の感情に支配されなくて済むようになります。

さて、スピリチュアルでは良く「ハートの感覚に従いましょう」などといいますね。ここでハートというのは循環器としての心臓という意味ではなくて、どちらかというとチャクラに近いものだと思ってよいでしょう。詳しいことは割愛しますが、このハートチャクラというのが愛の座であり、愛のエネルギーを司るところだとされています。ここで、ハート=感情、ではないことに注意してください。ハートはあくまでも「愛」のみを司るところであり、その他の感情とはつながっていないのです。チャクラでいうといわゆる「感情体」を司るのはみぞおちの部分にある第3チャクラです。また、感情が抑圧されているときには喉の部分にある第5チャクラに詰まりが出る場合もあります。

いずれにせよ、チャクラという考え方に則ってみても「愛」とそれ以外の感情がハッキリ分かれていることがわかります。「ハートの感覚に従え」というのは一つの言い方に過ぎないのですが、それにしてもこれにはある程度以上の正当性があります。ハートの感覚に従う、ということは別の言い方をすれば「愛があるか、ないか」であり「愛という状態にあるか、ないか」なのですが、本質的な意味での「愛」というのは「不安も恐怖もない、今ここに在るだけの状態」を示しているわけですから「愛がある」というのであればそこには不安も恐怖も罪悪感もない、時間も空間もない、本来の自分だけがある、そういう状態にあるということになりますね。ハートの感覚が「イエス」であればそれは今の貴方が「今ここ」にあり、エゴのない本来の自分になっているということですから、その決断・決定はたとえば「宇宙の波動と同調している」ごとくに間違いないものだ、と言えるわけです。ハートの感覚というのは一般的には「アタマによる判断」と対極にあるものとして対比的に使われる言葉です。頭で計算してああだこうだ、と考え判断してもそれらは全て「過去からの情報」を基にして考えられたものに過ぎず、過去に経験したあれこれというのは全て自分の主観によってどうにでも捻じ曲げられてしまうものなので、「アタマの判断」はそもそもの立脚点からして信用できないということになりがちです。

それに対して「ハートの感覚」は、一見とんでもなく非常識なものであってもそれに従うことによって思わぬ良い展開を見せたりそれこそ「奇跡」につながったりする、つまり現在の自分のアタマ=過去からの情報・知識の集積という枠から解放されて驚くべき方向に導かれたりもするのです。

これは別にハートの感覚に限ったことではありません。たとえばインスピレーションというものがありますが、これが得られるのも「今ここ」の状態にある時です。面白い話ですが、不安なときに出てくるのは「悪い予感」だけでありこれはインスピレーションでも何でもありません。不安な気持ちが不安な状態を呼んで現実化させてしまうだけです。実際、不安なときに勘が冴えるという方もいらっしゃるのですが、どうも悪い方向の勘だけが冴えるのです。そういう状態のときに「今がチャンスだ!」などという勘は全く働かなくなります。つまり、勘が冴えているというより不安を基軸にした引き寄せが起きてしまっているだけだ、と考えたほうが良さそうです。これらには常に感情が絡んでいます。

純粋な感覚が訪れるとき、そこには感情の邪魔が一切入っていないわけです。

ところで、ハートの感覚とは要するにエゴ的なアタマや感情で動くな!ということを言っているだけなのでこの言葉にあまりこだわらないほうが良いと思います。「ハートの感覚っていうのが良くわからない、それを何とかして育てたい」と思うあまりにチャクラを開くワークショップなどを転々としてしまうようなことになっても困ります。だいたい、ハートの感覚に従うというのは文字通り「今ここ」の状態でいること、その状態を保ちつつ動くことに他ならないのです。

ブルース・リーは「考えるな、感じるのだ」と言ったそうですが「感じよう、感じよう」と力んでもどうにもならないのです。それどころかその「感じよう」という欲や力みが障害になり、ますます訳がわからなくなるだけです。「感じる」ためにはまずそれを阻むものを取り去ること、つまりマインド内で起こる「ああだ、こうだ」やそれに伴う感情を一旦脇に置くこと、そして「今ここ」の状態になること、それだけで十分でありそれだけが重要なのです。瞑想も一つの方法ではありますが、だからといって瞑想しない限り「今ここ」になれないということは絶対にありません。

   
第144回「エモーションW」

(承前)先に、感情には大きく分けて2種類しかないと書きましたが、より正確に言えば「愛」というのは一つの状態であって感情ではありません。ただ、愛から派生する感情というものはあります。スピリチュアルな立場からすると、エゴが消え去り本質だけになったそこにはただ愛がある、全ては愛から発生しているのだということになるのですが、他の立場では同じ状態を表すのに「無の境地」といったりもするのでわかりづらい方もいらっしゃると思います。この「無」というのは、これも正確に言えば「エゴがない」「余計なものが何もない」ということであり、逆に言えば「ただ存在だけが在る」というものなのです。要するに例の「今ここ」ということですね。幸も不幸も喜びも悲しみも何もない、対立するものが何もないという状態なのです。そして、こういう状態にあるときこそもっとも「愛」それも「無償の愛」というものを経験しやすくなるのです。何せエゴたる自分というものが消えているのですから、そこから発生する様々なネガティブな思い・感情も他者との区別もなくなるわけで、そうなれば当然「愛」という状態を邪魔するものもなくなります。「無の境地」とは何か砂漠みたいに荒涼としたものではなく、またブラックホールみたいな真っ暗闇でもない、ただ「今ここ」であって時間も空間も超えて存在する意識の状態です。

これに対して恐怖およびそこから派生する感情は全て「今ここ」から離れてしまっているせいで生じるのです。言い方を変えればそれらはエゴの産物であり、そうであることによって必然的に「身体」と深く関わっています。何故なら、身体というのはマインドの中のある部分が外在化されたものだからであり、その同じ部分がエゴを生み出しているというかエゴの支配を許しているというか、ともかく両者は相互にかなり深く関わりあっているのです。よく「身体と心はつながっている」というのは要するにこういうことでもあるわけですね。この場合の「心」とは言うまでもなく「感情体」であり更にはそれを生じさせるところの「マインド」のことです。その「心」がある考えに支配され、更にそれに伴う感情に侵されるとそれに呼応している「身体」にも当然作用して、ガチガチに緊張したり痛みを感じたりするのですね。

身体に出るさまざまな症状は、感情がそういう形で表現されているものだと言うこともできるのですが、これは「感情が身体を通して解放されようとしている」のであり「抑圧されているから身体に出る」のでもある。ただ、身体に不快な症状が出たからといって必ずしも感情が解放されるわけではないし、それどころかその不快な状態に悩むことによってますますネガティブな感情が増大してしまうことさえあります。あるいは、前に述べたように「抑圧がそのまま表現されているだけだ」と見ることもできます。いずれにせよ、このような状態におけるポイントはただ一つ、「気づき」だけです。つまり、貴方の中に何か解放されるべき感情があることに気づく必要を促されていると考えればよいのです。単純に「身体の声」と言っても良いですし、スピリチュアル風に表現すれば「貴方に気づいてもらいたい、そして癒して解放してもらいたいと思っているものが貴方の中にある」というふうになるでしょう。

これまたスピリチュアル風に言えば私たちは瞬間ごとに何かを「選んで」いるのですから、同じ「身体の不調」「不快な症状」にあっても「ああいやだ、どうしてこんなに具合が悪いのだろう、私は不幸だ、人生はつまらない」などと考えるか「何かの感情や思いが解放されたがっているんだな」というふうに一つのチャンスとして捉えるかはもっぱら私たちの選択にかかっているのです。「この状態にどんな意味があるのか」と考えても良いのですが、それを言ったら基本的には唯一つの意味しかありません。すなわち「抑圧されているものが解放を待っている」というただそれだけなのです。

さて、それではどうしたら良いのでしょうか?このように抑圧されたものがある形をとって現れた場合、一体何が抑圧されてしまっているのか本人にはわかりにくいことが多いのです。それを探り出すのもまあ一つの方法ではありますが、それよりもっとシンプルで効果的な方法は例によって「愛と赦し」なのです。

まず、なるべく「今ここ」の状態に自分をおくように努めること。そして、抑圧されているものが何かわからなくてもそれに対して感謝を与え愛を注ぎ赦しを請うことによって解放が可能になります。

抑圧されている、というのは「存在しているのにその存在を認められず存在することを許されていない」状態です。つまり「愛されていない存在」であるとも言えますね。怒りやら悲しみ・憎しみやらそんなものの存在を認めてしまったら、おまけに愛を注いでしまったらとんでもないことになるのではないか?と心配する方もいらっしゃるでしょうが、大丈夫です。全てのネガティブな感情は恐怖に派生する、のであり愛あるところに恐怖はない、この両者は共存できないことを思い出してください。

ここで「感謝」というのは「そこにいることを見せてくれてありがとう」というような意味です。抑圧されたものが見えなければ解放もできませんので。

ちなみに、「愛」というのがどうしてもピンと来ない、そうしようと思ってもうまく行かないという方もいらっしゃるようですが、それについては後述します。そういう方はあまり無理せず「今ここ」の感覚を体得することに努めてみてください。

 
第143回「エモーションV」

(承前)どんな感情であれ、いったん出てきてしまったものを抑圧するのは心身によくない影響を及ぼしてしまいますので、「解放」するのが良いのです。要するにちゃんと認識し、受け入れ、意識から去らせるということが大切です。それが喜びなどという「ポジティブ」なものだったとしてもやはり同じことです。こういう感情が自分の中に沸き起こっているのに「良くないのではないか」などとジャッジしたり理屈をつけたりして押し込めてしまうと、それから先同じような感情を味わうことができにくくなってしまいます。また、いくら嬉しくて幸せだからといってそれも感情は感情であり、時間とともに過ぎ去っていくのが当然なのですが、それを無理やり持続させよう・溜め込もうとすると今度は執着になってしまいます。中には幸せなときに「これをいっぺんに味わうのは勿体ない、減らしたくない」などと考えたりして押し込めてしまう方もいらっしゃいます。

つまり、どんな感情であれ抑圧され溜め込まれていると心身ともにガチガチに固まってしまい、平和な気持ちになりにくく、その上直感が働きにくくなってしまうのです。

一方、恐怖を筆頭とするネガティブな感情については、誰だって溜め込もう・持続しようなどと思うわけがありませんね。見ないふりもできず、いやになるほど味わい涙を流しても一向に解放された感じにならない、意識から去らない、それはどうしてでしょうか?

一つには、いま貴方が何かのことで悲しみ嘆き苦しんでいたとしてもそのずっと奥に「はるか昔に抑圧して押し込めてしまった同じような感情」が存在しているためです。それらを無視して「いま目の前で起きていること」「今の自分に起きていること」ばかり考えているから、実はずっと過去からつながっている同種の感情は癒えず解放もされないのです。逆に言うと、いまの自分に生じている感情をとことん解放できればそれと同時にずっと溜め込まれていたものも解放できるわけです。

もう一つ、何かのことで悲しみ嘆き苦しんでいるときというのは、ただひたすらその感情のみが存在していることが少なく、たいていの場合「こんなことになってしまって私は惨めだ、これからどうなるんだろう」「いつもこんな目にあうなんて私は何か悪いことをしたのだろうか」などなど、感情以外に「考え」が入ってしまっています。その「考え」が更に自分を蝕みそこから次々に同じような感情が喚起されてしまうのでいくら味わっても泣いてもエンドレスになるわけです。

注意していただきたいのですが、「感情」というのはそれを呼び起こす「考え」があってこそ生じるものです。まあたいていはほぼ同時に生じるので意識しないとわかりづらいかもしれませんが、通常はそうなっています。何の原因もないのにふと怒りが・不安が生じたというのならそれはまさしく「過去に抑圧したものが浮き上がってきた」とか「周囲に漂っているそれらの感情・想念が過去に自分が抑圧したものを刺激して動かした」とかいうことになります。これは、以前に書いた「憑依」というものですね。

そのときに述べたことを繰り返しますが、感情とはどんなものであれ「自分自身」の一部ではないのです。自分の一部ではないものを後生大事に自分の意識の中に押し込めておく、というのはいかにも不自然で不健康なことではありませんか。

少し話を戻しますが、考えが感情を生じさせるのなら根本的原因である「考え」のほうを変えてしまうという方法ももちろんあり、実際そのほうがより本質的アプローチでもあるのです。ただ、人によっては感情を解放するアプローチのほうがやりやすいこともあります。これは体質の違いもありますが、その時々のケースによって自分のやりやすいほうを選んでも良いと思います。

さて、感情を解放しよう、とする際にはもっぱら「感情のみ」を取り扱うことがまず大切です。それもいま貴方に生じている感情には一切名前をつけないようにしてください。怒り、不安、悲しみ、怖れなどいろいろありますが、自分では怒っているつもりでも実はその奥に悲しみがあったり悲しんでいるつもりでも奥には怖れや罪悪感があったり、となかなかわかりづらい構造をしていることも多々あるのです。それを無理に特定してしまうとうまく行きません。

それらの感情が十分に浮き上がってくるためには「あの時ああだった」「本当はこうだったのに」など言葉で誘導するのも構いませんが、心が何かの感情で満たされたならその後は言葉も考えも一切必要ありません。というよりそんなものはないほうが良く、ただ涙を流す、身体を激しく動かす、クッションを叩く、など身体を使ってその感情を心身から追い出し解放します。それらの動作が自然に止むまで続ければよいわけです。大声で叫ぶという方法もありますが、これは場所を選ばないとおかしなことになってしまう危険、および場合によってはちゃんとケアしてくれるトレーナーやパートナーがいないとどんどん不安になって余計な傷を負ってしまう危険があるのであまりお勧めできません。

また、先ほども書きましたが感情と考えとをごっちゃにして同時進行させてしまうともう絶対に解放はありえません。たいていの場合、次から次へ自分を貶め傷つける考えが湧いてきてしまうからです。

しかし、やはり基本的にはどんな感情もそれが生じる一瞬手前に「考え・判断」があり、更にそれらの「考え・判断」がどう選ばれるかは「あなたが自分や世界をどういうものだと考えているか」によって決まってくるのです。感情の解放が本当にうまく行った場合にはこのレベルから変化を起こします。

   
第142回「エモーションU」

(承前)感情には大きく分けて「恐怖」と「愛・喜び」がある、逆に言えばその他の感情は全てこの2つから派生したものである、というのは前回述べました。

そもそも何故人は感情を、それもとりわけネガティブな感情を抑圧してしまうのか?理由は簡単で、自分にとって不愉快であるようなものを直視し味わうのが辛く苦しいことだから、あるいは辛く苦しいことだと思っているからですね。しかし、このようなケースはたいてい小さい子供においてのみ生じるようなのです。とんでもない大事故・大惨事であれ、大人から見れば本当にどうってことない小さな出来事であれ、とにかく目の前で受け容れがたい出来事が起きてしまった場合子供にはそれをうまく処理することができません。従って大人だったら強く抱いて当然であるようなあれこれの感情を表に出すこともなく、あるいは認識することさえないままに意識の奥底にしまいこんでしまうのです。これは、ずっと以前にコラムで取り上げた「意識の刻印」という形でその人の経験を作るうえで大きな役割を果たすことになります。

さまざまなワークでは・・・幼児期どころか過去生の傷まで遡るものもありますね・・・意識の奥底に閉じ込められてしまったままのこういう傷をあぶり出し、その当時に本来だったら味わったであろうような感情を呼び起こし改めて味わわせ、その上で解放するという方法をとっています。これらには効果のあるものもないものもあり、また同じワークでもある人には効いたのに別の人にはダメだったという個人差もあるので「これなら絶対確実」と言えるものはないようです。が、リーディングで「このワークは私にとって効果がありますか」というご相談を受けることもあり、その場合はわりあいハッキリとしたリーディング結果が得られます。

一般的に「グループワーク」の場合、周りの人が派手に大暴れ?をしてしまうと本来自分の中にはないはずの感情が転移してしまい、同じような反応をすることも体質によってはありうるので注意が必要なのではないか、と思います。

こういう「昔の傷」で興味深いのは、単に「ひどいことをされて傷ついた」というものばかりではなく「ひどいことがあったのに悲しめなかった」とか「周囲の人たちに共感してあげられなかった」或いは「自分のせいでこうなってしまったのではないか、と考えた」などというものがかなり多いことです。普通に考えればありえないことであっても子供の感覚なら何でもありになってしまうのです。私のせいで親が苦しんでいるのではないか、私が悪いから周囲の人々の機嫌が悪いのではないか、みたいなものもそうですね。これらはいわゆる「罪悪感」となり、もっとも劣等感コンプレックスにつながりやすいものです。また、場合によっては「罪深いのだから今後も悪い目にあうのではないか」という更なる恐怖にもつながります。

さて、本当は怒っているはずなのに他人に対してのみならず自分に対してもそうでないふりをすることによって抑圧してしまう、などという場合であればそれに気づいてちゃんと認め受け容れる、そうしている自分を赦すという「解放プロセス」を取ることが、まあ難しいとはいってもまだ比較的容易なのです。

そうではなくて、前回にも述べたような「抑圧をそのまま表現」してしまっている人のほうがずっと難しいのです。こういうケースでは表に出ているのとは別のものが意識の奥のほうに隠されているのですが、それはたいてい例の「刻印」と関連しているので自分自身でもなかなか認識できないわけです。

感情を解放する、というのは外に向かってぶつけることではない、これは非常に重要なポイントです。もちろん前回述べたように一人でワアワアやってもいいのですが、これだって別段必要なことではありません。「解放」という言葉にはどうしても外に向かうイメージが付きまとってしまうのがちょっと厄介です。

ネガティブな感情の解放というのはむしろ「消失」「溶解」といったほうがわかりやすいと思います。これまた誤解を招くかもしれませんが「癒し」でも構いません。ただ、「癒し」というとどうしても一時的な「慰撫・なぐさめ」のような意味が入ってしまいます。ここでの「癒し」とは例えば「病が癒された」のような「治癒」の意味だと考えてください。

さて、「ネガティブな感情を解放する」ためには先ほども書いたように何であれそれらが自分の中にあることを認め受け入れ赦す、というのが一般的なプロセスと考えられています。しかし、刻印タイプのものになると相当なことをしなければ「自分は実は何を怖れ、何に悲しんでいるのか」というものが見えてきません。上記のプロセスに従うとすればこれが見えないうちは何もできないということになってしまいます。例えば失恋の悲しみや苦しみで七転八倒している人や、自分自身や身内の死の恐怖・不安におののいている人はそれらの感情をイヤと言うほど味わっている、認めているはずなのに全然それらが溶解も消失もする気配がなかったりするわけでしょう。とすればこれらの感情は「抑圧の結果」に過ぎないということになってしまいます。じゃあ、いったい私は何を抑圧しているの?そういう疑問が当然出てくることになりますね。

実はこれ、非常にシンプルなのです。抑圧されているものは個別なように見えても実際には万人に共通なのです。すなわち「恐怖(と罪悪感)・愛(と喜び)」しかありません。

   
第141回「エモーション」

スピリチュアルに限らず自己変革を志向するさまざまなワークでは「感情を解放する」ことが非常に重要視されています。どんなものでも普通は溜め込んだり押さえつけたりするよりは解放するほうがよいに決まっているので、「感情の解放」が意識の変容や成長にとっても良いことであろう、というのは納得できます。

ところで、「感情を解放する」というのはいったいどういうことを指しているのでしょうか?その時々で自分が抱いている「感情」をそのまま外に向かって表現すること、だと理解されていることが多いと思いますが、このあたりが実は結構ややこしいのです。それがネガティブな感情である場合には特に注意が必要なのではないか、と感じます。そのあたりを曖昧にしたままで自己流に「解放」してしまったり、或いは間違った指導を受けてしまったりして却って苦しさが増した、という例もあるのです。

また、感情のコントロールというのもわかっているようで実はわかられていないようなのです。普通、この言葉は感情自体をコントロールするのではなく「感情を表にあらわすこと」における制御という意味で使われており、オープンさを重んじるスピリチュアル方面においてはわりと否定的に捉えられているようでもあります。が、「表にあらわすこと」ではなく「感情自体」をコントロールするのであればそれはまさにスピリチュアルな方法論なのではないか、と思います。

たとえば、誰かに対して強い怒りを感じたとする。この「怒り」自体を「私自身の鏡に過ぎない無意味なもの」「エゴの暴走だ」などとして無化し、消去できるのであればそれは怒りという感情をそれ自体において立派に制御・コントロールしたということになるのですが、通常の意味における「感情のコントロール」だと誰かに対してどんなに激しい怒りを覚えても相手を罵倒したりつかみかかったりしない、ということになり「怒り」という感情自体は依然としてあなたの心の中で暴れているわけです。ところがこのレベルで考えてしまうと今度は「感情の解放=表にあらわすこと」というふうにもなりかねません。そのあたりが問題になってくるのです。

感情を素直に表現しましょう、抑圧するのはやめましょう、というのならブチ切れて暴力を振るったり、激情のあまり相手をつけまわしたり、会議中に泣き出したりするのは良いことなのか?という疑問が生じてきますし、いや、それはひとさまに迷惑がかかるから良くないことだ、とすれば今度は「相手に迷惑がかかるからいつも自分が我慢する」という、スピリチュアル方面では非常にNGとされる状況を是認することになってしまうのではないか?という疑問が出てきます。こういう「矛盾」に見えることはいったいどう考えたらよいのでしょうか?

まず、上に挙げたような「暴力・激情」などというのは感情を素直に表現し解放しているのではなくて、むしろ「抑圧をそのまま表現してしまっている」というほうが正確なのです。つまり、日頃から感情をうまく扱えているか或いは解放できていればそもそもこのような事態にはなりようがないわけです。ということで、これらは社会常識云々以前に「感情の解放」とは全く違うものであることがわかります。

「怒りを解放する」と銘打ったワークで、自分の心の中にある怒りを遠慮なくぶちまけるというのがありますが、これは一歩間違うとスッキリするどころか表に出したことによって却って怒りが深まり固まる場合があります。特に「あの人にこういうことをされて頭にくる!」みたいに具体的な相手を特定するとそうなる確率が高いようです。こういう形で怒りを解放=ぶちまける、のであれば「誰がどうした」などという表面的なことは一切措いておき、ただ「原初的な感情」だけをぶちまける、すなわち動物のようにワアワアわめいたり唸ったりするだけのほうが余程効果があります。

さて、感情にはいろいろなものがありそうですよね。ネガティブなものなら怒りだけでなく憎しみ・悲しみ・嫉妬・不安などが挙げられると思います。

しかし、感情というのは大別すれば「愛」と「恐怖」しかないのです。更に単純化すれば「愛」か「愛がない」かどちらかである、ということもできます。怒り、憎しみ、不安などなどこれらは全て恐怖から出ているものであり、そこがわかっていると解放するのも非常に楽になります。悲しみについては両方ありうるのですが、要はエゴが介在しているか否かによって区別されます。とはいっても、今の私の悲しみはどちらだろう、などと考え込む必要はありません。

ともかく、解放というのは「抑圧しないこと」に違いありませんが、だからといって「相手に感情をぶつければよい」というのでもないのです。何故なら解放とは本来意識内で行なわれるものであるのに対し、「ぶつける」というのは感情が意識のなかで解放されていなくてもできることだからです。(この項続く)

   
第140回「自信がない?番外編」

本来の意味で自信がある・勇気がある、というのは、逆説的な言い方をすればわざわざ自信だの勇気だのそういうことをいちいち気にしない、囚われないでいる状態のことになります。「絶対にうまくいく!何故なら〜だから」などと根拠を挙げて自分に言い聞かせているのであればそれはとりもなおさず実は自信がないからであって、本当に安心している状態であればそんなことをする必要自体が生じません。

さて、ここで「よくある疑問」です。こんなふうに安心しちゃっていて本当に大丈夫なのか、油断していてはダメなのではないか、このままでいいんだと思ってしまうと進歩がなくなって堕落してずーっとこのままになってしまうんじゃないか、などと考えてしまう方も少なくないかもしれません。

これは全く逆なのであって、むしろ安心できない状態にあれば集中できず、油断なく常に緊張していればオープンでいられなくなり、却って「進歩が妨げられる」ことになってしまいます。

以前にも書いたことですが、「今ここ」「すべては完璧である」「あるがまま」「リラックス」などなど、スピリチュアル方面の教えにはその前提になる部分がきちんと理解されていないとどうしてもわかりづらいものが多いのです。禅などもそうですが、いくら理論できっちり説明したとしても本当のところは実際に体感してみないとわからないので、今の時点で「どうしてもピンと来ない」という方はあまり気にせず「そういうものなのか」くらいの感じで心に留めておかれればよいと思います。

何かうまくいっていないと感じることがあるとして、あるいは具体的に成果が上がっていないとか失敗してしまったなどということがあるとして、まず事実を価値と混同せずにジ事実は事実として受け止める、というのがまず必要ですね。

たとえば、今月は仕事の成果が上がらなかった、あまり努力もしなかったな、とか食べ過ぎて運動もしないで体重が増えちゃった、何かの数値に異常が出てしまった、とか或いはどうもあの人はそれほど私に関心がないみたいだな、などなど「できたら認めたくない事実」というのが誰しもあるものです。何故認めたくないかといえば、それらを事実だと認めてしまう=自分がダメだ、ということを認めてしまう=自分の価値を否定すること、と思ってしまっているからです。

これも逆説的に聞こえるかもしれませんが、自信がある人ならばたとえ自分が思っていたよりも力がなかったようだ、思っていたより関心を持たれていないようだ、というのを「それはその通りである」と平気で認めることができます。自分はまだまだ力不足だからもっと頑張ろう、と普通に思うことが出来ます。そこでいちいち落ち込んで自分を責めたりはしません。また、たとえ白熱した議論の最中であっても自分のほうが間違っていたと気づけば即座にそれを認めることもできます。つまり、自信がある人ならば「自分の力不足」やら「自分にとって都合の悪い事実」をそれこそあるがままに認め受け容れることができるわけですね。

ここで「自信がある人」という表現を使ってしまいましたが、これは「私はすごいんだ、素晴らしいんだ」と思っている人という意味ではもちろんなくて、うまく表しにくいのですがたとえば「囚われていない人」それこそ「オープンな人」のような感じのほうがわかりやすいかもしれません。

これまた逆説的な話になりますが、オープンな人が「自信をなくしちゃったわ」などと言っている場合彼または彼女は「自信をなくした」ことを抵抗なく受け容れているのであり、だからと言って「私はダメだ!」「あの人のせいだ!」などと自分や他者を責めることもなく本来的な自己評価は別に揺らいでもいないのです。従って、それほど落ち込むことなく心の中を整理して考え方を改めたりさっさと次の段階に進むべく努力し始めたり、そういうことができるのですね。

たとえば、明らかに自分が怠慢な状態になっているのに「私はこれでいいんだ、ナチュラルに生きるのよ」「私はあるがままでいいの」と思ってしまうならばそれはやはり事実を事実としてきちんと受け止めていない、ということになるでしょう。怠慢=悪いこと=悪いことをしている自分はダメな人、という構図があり、尚且つ自分をダメな人だと思いたくないのであればどうしたって今の「サボっている、怠慢」という事実を見ないようにするしかなくなります。これも以前に書いたかもしれませんが、怠慢なら怠慢というのを単に「間違ったことをした、間違えた」と認識すればよいところを罪悪感につながる形の「悪行」のように捉えてしまっている、その時点でそれこそ過ちを犯しているのです。

「全ては完璧」と同じく「あるがまま」というのも「今ここ」とまったく同じものであって、現象や外観を意味するものでも価値判断を意味するものでもありません。

とにかく、「今ここ」という感覚抜きに自信だけをつけようとするのは意味がないばかりかそもそも不可能なことなのです。次回からはこういう感覚について少し考えてみようと思っています。

   
第139回「自信がない?X」

(承前)ご当人は「自信がない」とおっしゃっていても実は「勇気がない」のだ、というケースに遭遇することがリーディングの現場で時々あります。

たとえば、今の仕事を辞めて転職・独立したい、離婚したい、家を出たい、など「生活を変えたい」と思っているのに自信がなくて・・・というのはそれを実行した場合に成功するかどうかわからない、とんでもない苦労をするかもしれない、などと考えて不安になっているわけですし、誰か好きな人でもいて誘ってみたり自分の気持ちを伝えてみたりしたいけど自信がない、というのも「それをして良い反応がなかったらどうしよう」「却って嫌われたらどうしよう」などと考えてこれも不安になるわけですね。誰でも一度くらいは同じ思いをしたことがあるのではないでしょうか。

こういう類のことは、「完全にうまくいく保証」を得ることなど誰にとっても不可能なのです。もちろんリーディングや占いなどで「この時期なら大丈夫でしょう」「その時期に実行するとこういうことが起こりますよ」というふうなアドバイスを得ることもできますが、そんなふうに言われて「はい!じゃあ頑張ってやってみます」と元気いっぱいで帰られるのは、たいてい相談に来る段階で「こうしよう!」と既に自分自身で決めていた方であり、何らかの結果やアドバイスを得て背中を押してもらった気分になられた、勇気や安心感が増したということなのです。

よくよく考えれば完全な保証などない状態で何故踏み切れるのか?そういうとき、必ずしも「絶対にうまくいく!」という自信があるわけではない、何の苦もなくできるだろうとわかっているから踏み切れるというわけではないのです。どちらかというと、「何とかなるだろう」というくらいの、つまりは「多少のことがあっても私は何とか持ちこたえ乗り切れるだろう」というふうな感じだと思います。

一方で、どうしても決心がつかない人、「自信がない」とおっしゃる方はもう本当に「100%うまくいく保証がないとダメ」でそんな保証は普通ありえないから結局踏み切れない、ということになるのですが、このような方は同時に「少々のリスクも苦労もいやだ」と考えているわけなので自信というより「勇気がない」といったほうが正確かと思います。

こういうケースにおいては、自信の有無と勇気の有無というのがかなり重なります。ここが、単に「このお料理の味付けどうだったかしら、自信がない」「いつもの電車に間に合うかどうか自信がない」ような類の「自信」との相違点になりますね。「自信」を「勇気」と置き換えても意味が変わらないようなとき、その「自信」というのは自分の価値を揺るがし得る類のものだ、とわかります。

「転職したいのですが・離婚したいのですが、自信がないのです」という代わりに「勇気がないのです」と言ってみると妙にしっくり来て「ああ、何だそうだったのか」と自分の状態がよくわかることがあります。自信がない、というふうに考えていると前回までに見たように「自信をつけるためにあれもこれもやっておかなくては」となり、実際にあれこれ始めてみたところでなかなかそれが十分とも思えず自信もつかず結局踏み出せない、という状態になってしまうことも多々あります。

しかし「勇気がないのだ」と認識していれば、自分の問題点はずっとクリアになります。何かに対して踏み切れないのは状況のせいでもなく、あれやこれやができるできないという自信の有無のせいでもなく、ただ勇気がないからだとなれば、もうそこだけみていればよいのだ、ということになるわけです。

この「勇気がない」というのも細かく考えればいろいろな種類がありますが、一言でいってしまえば要するに「恐怖」と大きく関わるものです。つまり例によって「今ここ」にいないことから生じる現象なのですね。何故なら、不安と同じく恐怖もまた「過去からの情報」によってのみ存在するものだからです。前回のコラムの内容とあわせて考えれば、この点においてやはり勇気と自信とは表裏一体のものである、と言えるのです。

自信でも勇気でも同じことですが、「ない」なら「ない」とそのことを自分でハッキリ認め受け容れることがとにかく重要です。一番まずいのは、「あるふり」をすることです。それも他人に対して格好つけたり見栄を張ったりするのではなくて、自分の中において誤魔化してしまうこと、たとえば「これができないのは勇気がないからじゃないわ、あの人が邪魔をするからよ」とか「自信がないわけじゃないけど、状況が悪いから」などと正当化してしまうことです。自信や勇気が「ない」つまり「自分の価値を否定」することだけでも十分に抑圧的なのにそれを更にもう一度ひねって捻じって抑圧するのですから、もう訳が分からなくなってしまいます。こういう状態を保ったままで「今の生活を変えたい、状況を変えたい」と思ったって、そりゃあ無理ですよ!だって、その前に貴方が自分でねじ止めして抑えつけた上にしっかりロックをかけてしまっているのですから・・。(この項続く)

   
第138回「自信がない?W」

(承前)まず前回の補足です。

不安というのは全て、本当に何もかも全て「過去」に起因するものです。未来に対する不安であっても結局は過去に結びついています。これも以前書いたことかもしれませんが、重要なので繰り返します。未来に関して何らかの不安を抱くことができるのは、過去に経験あるいは直接経験しなくても見聞したことによって「ああいうことが自分にも起こりうる、そうなったらどうしよう」と考えるからです。そのような情報が一切なければ、目の前で何が起きていても「そういうものだろう」で済んでしまったりするのです。今ここにいる、という状態においては過去にまつわるものが一切持ち込まれないので、不安になりようがありません。また、同時に過去の幸せや成功体験から来る様々な思い(いわゆる自信というのもこれに含まれますが)も存在し得なくなります。

従って、「プラスもマイナスもないゼロの状態」であり「良いも悪いも幸も不幸もない」状態であり、一切の過不足がなく文字通り「完璧」と思える状態、実際に完璧である状態になるのです。

スピリチュアル方面の教えで「自信を持ちなさい、貴方は今のままで完璧なのだ」というのがありますね。これを聞いて即座に「ああ、その通りだ」と納得できる方は少ないと思います。どちらかというととてもじゃないけど受け容れ難い。完璧なわけないじゃないか、だって身体にはあちこち悪いところがあるし、体重もオーバーしているし、仕事も変えたいし、恋愛だってうまく行っていないのに、どうしてこれが完璧なのか?むしろ欠陥だらけじゃないか、というふうに思ってしまうのは無理もないことです。

ここに壊れた車があるとしましょう。動かないか無理やり動かせばたちまち自分が危険な目に遭う、というような車であればとても「完璧な状態だ」とは言えませんね。しかし、私たちは車のような「モノ」ではないのです。これも繰り返し書いていることですが、スピリチュアル方面の教えがわかりにくいと思われたり誤解・曲解されたりするのは、殆ど全てそれらが「身体=モノではなくて意識について述べられているものだ」ということを了解できていないからなのです。

更に、仕事やら健康やら恋愛などにおけるあれこれの状況について、貴方は「問題である」とか「不完全である」など要するに「良くない、ダメだ」という判断を下してしまっているわけですが、これらは全て移りゆくものであって本質とは関係ないのだと認識できていれば、「困ったな」くらいは感じてもそのことによって「自分の価値が揺らぐ」ようなレベルで自信を失くすことはできなくなります。

自信をつけるために何か一つのことに頑張って取り組んでみる、という方法を取るのが良くないのではありません。これはこれで十分に有効です。しかし、人間と言うのは喉もと過ぎれば熱さを忘れるものです。ある時期にすごいことを成し遂げたとしても、時間がたってしまえばその時に感じた「自信」など既に効力を失っていたりするのです。

或いは、次々に眼前に訪れることをその都度「成長のための機会だ」と捉えるのも結構なことです。これらは大体全て「愛と赦しを実践する」機会として使えるはずなので、そのように捉えられれば無駄に苦しむこともなくなるでしょう。しかし、成長のための機会だというのはわかるのだが、自分が果たしてこの機会をうまく使えるのか、その自信がないということももちろんあると思います。そんな時こそ「今ここ」に立ち戻るのが大切なのです。

自信に関してもう一つ重要なポイントは、自信がないとしてもそれを苦にするな、ということです。こんな私ってダメだわ、と感じてしまう人というのは大体そのこと自体を受け入れられず否定しようとするから、つまり「ダメでないようにしなくては!」と無理をするからますます悪循環に陥ってしまうのです。ネガティブ・ポジティブについての回にも出たことですが、自信がないという状態を否定せず、それに抵抗したり闘ったりせずにそのまま受け容れてみましょう。自信がないからといってますます自分を責めたりせず、ただ受け容れるのがポイントです。「自信がなくて何が悪い!」くらいの気持ちでちょうど良いくらいです。

不安というのは、何とか打ち消そうとすればするほど強くなってきてしまいます。心の中で「きっと大丈夫よ」「でもやっぱり・・・」「いや、そんなふうに考えるのは良くないわ」「でも、もし本当にそうなってしまったら?」などという一種のエンドレスな闘いが始まってしまいます。多少冷静な人なら遅くてもこの時点で「ああ、きりがない、バカバカしい、やめたっ」と打ち切ることができますが、そういう人はあまり多くないようなのでやっぱり「私は不安なんだ!」と丸ごと受け容れてしまうほうがやりやすいと思います。

つまり、「不安や恐怖があるなら抵抗せずいったん受け容れる」その上で「今ここ」に立ち戻るようにし、その状態をなるべく保ちつつ今やるべき目の前のことを淡々とやる、というあまりにもシンプルで当たり前のことなのですが、これこそが極意なのです。(この項続く)

 
第137回「自信がない?V」

(承前)自信の有無にはさまざまな位相がありますが、ここで専ら問題にするのはより根源的な意味においての自信の有無についてです。たとえば、「いつもの電車に間に合うかどうか自信がない」とか「あのテストに受かるかどうか自信がない」などというものであればそれが即「自分の価値」に直結しないことが殆どですよね。こういったレベルのことでさえもいちいち自分の価値と結びつけてしまうようであれば、それはとりもなおさず「根源的にかなり自信がない」状態にあることを示しています。「自分」とは、これくらいちょっとしたことで揺らぐようなはかない価値しかないものだと思い込んでしまっているわけです。

逆に言えば、普通の人なら自分の価値を否定されたように感じる出来事に見舞われたとしても「しまった、電車に乗りそこなった」「ああ、失敗しちゃった」くらいの受け止め方しかしないで済むような人もいるわけで、揶揄的に鈍感力だとか何とかそんな言われ方もするかもしれませんが、とりあえずこちらのほうがずっと楽に生きられるのは間違いありません。

「これは自分にとってどういうことを意味するのか」が常にまず貴方自身によって決められます。「これができなかったら私はお終いだ」「この人に好かれなかったら私は破滅だ」などということを他の誰でもない貴方自身が自由に、あるいは勝手に決めている。だからこそ「もしできなかったら」ということが恐怖になり、「好かれていない」と感じることが死んでしまいたいくらいの絶望になり、などという事態が発生するのです。

非常に理屈っぽくなってしまって恐縮ですが、「あれをやってみたいけどできるかどうか自信がない」という悩みや堂々巡りに陥ってしまうとき、本当に問題になっているのは「できるかどうかについての自信」ではなくて「勇気」です。何かがうまく行くかどうか、実現するかどうかなど基本的にはわかりっこないわけで、「絶対に大丈夫」という完全な保証など得られるはずもない。自信がない人というのはえてして保証を求めてしまいます。ありえないものを求めるのですから当然得ることはできず、たとえ霊能者やら占い師やらに「絶対大丈夫ですよ」といわれたところでそれを100%信じることもおそらくできず、少々の安心を得られるくらいが関の山で、結局何もできないままになってしまうのですね。

本当に自信がある状態、というのはこのような保証の有無とは全く関係がありません。うまく行くとわかっているから、つまり「うまく行く」という点において自信があるからやる、のではないのです。本当に自信があるとき、そこに保証を求める気持ちは一切なくなります。そういう考え自体が出てこないのです。

まれに、「うまく行ってしまっている状態がハッキリ見える」というケースもあるにはありますが、これは別に絶対必要な条件ではありません。そんなものが見えなくても大丈夫です。

ものすごく単純なことなのです。本当に自信がある状態=不安のない状態、というただこれだけのことです。「絶対にできるぞ〜、だってこれもあれもちゃんとしてるんだもの、私はすごいんだもの」などというような力みも全く必要なし。強いて言えばプラスに傾いているようでもあるが、厳密にはプラスもマイナスもないゼロの状態だと表現することもできます。「大丈夫、うまく行く」も「だめかもしれない、どうしよう」も何もない。自信がある状態=不安がない状態=結果についての執着がない状態、とも言えます。が、結果について執着を持たない、というのも誤解されやすい表現のようなのでちょっとしつこく解説しておきます。

結果について執着を持たない、というのは「だめでもいいや」という意味ではありません。良い方向であれ悪い方向であれ、結果がああだったら、こうだったらなどともかく一切考えないのです。つまり「今ここ」にのみ生きているという例のあれです。

ということは更にこうなります。

自信がある=不安がない=結果に執着しない=「今ここ」にのみ生きている。

前回までのコラムで「自信を持つための根拠になりそうな事実をあれこれかき集めても意味がない」と述べましたが、「これがあれば、あれができれば自信がつく」というのはあくまで貴方の「考え」でありもっと言えば「思い込み」です。そもそもどうして「あれ」や「これ」があれば自信がつくだろうと思えるのでしょうか?何故そのように判断できるのでしょうか?全て「過去の経験」「過去に見聞きしたこと」に基づいて貴方が「こうなれば、ああなれば自信がつくのだな」と主観的に判断したからに違いありません。

であるならば、このように「根拠になりそうな事実をかき集める」のは全て「過去」と結びついているのであって、「今ここ」にのみ生きている状態とは相反するのです。今ここ、にいるならば過去も未来も何もありません。過去に基づいた不安も未来に対する不安もない、不安がないから執着もない、そういうことですね。

結局いつも同じところにたどり着いてしまいます。自信をめぐる考察においてもやっぱり行き着くところは「今ここにのみ生きましょう」なのでした。(この項続く)


   
第136回「自信がない?U」

(承前)自信というのは徹頭徹尾あなたの意識以外の何かによっては与えられないものである、それなのに自分以外の誰か・何かによってしか与えられないのだと考えてしまう。自信を得るためにはより多くを所有し、より高く、より美しくあることや誰か・何かに認められることなどが必要なのだと思い込む。そう思い込んでいるのは、つまりそれらに価値を与えているのは他ならぬ自分自身なのに、たいていの人はそのことに気づかずそれらを得ようとして得られないために苦しんだりするのです。

まるで、自分が仕掛けた罠に自分がはまってしまい必死で助けを探しているようなものですね。

これは、要するに事実を価値と混同してしまっている状態です。たとえば、今月の営業成績が社内で最低だったとします。或いは、好きな人に「あなたには魅力がないから好きになれません」と言われてしまったとします。これらが愉快なことでないのはまあ認められます。が、「成績最低」とか「好きになれないと言われた」などという「事実」は事実に過ぎないのであってそれをろくに考えも経ずに即「だから私はダメなんだ、自信を失くした」という評価に結びつけるのは、よく考えると何の正当性もないことではないでしょうか。

何も感じるな、とまでは申しません。でも、そういうことがあってガッカリしたり落ち込んだりするのは仕方がないとしても、そこから一足飛びに「自分自身の価値」を否定するところまで行ってしまう必要もないのではないでしょうか?

あるいはこういうケースもあります。やりたいことがあるのになかなかチャンスに恵まれない、思い切って飛び込む勇気もない、それどころかやりたいこともわからない、こんな人生でいいのか?いつまで経ってもなかなかネガティブな考えから抜けられない、私って何て情けないの?自信なんか持てないわ、とか「とんでもないミスをしてしまった!何てバカなんだろう、もう自信を失くした」などと思ってしまうときも「勇気がない自分」「人生に目標を持てない自分」「なかなかできない自分」「ミスをした自分」=「ダメな私、価値のない私」とこれまた一足飛びの判断&評価状態です。

勇気がない・情けない・ミスをしたなどというのはそれなりに「事実」なのかもしれませんが、だったら「そういう自分を何とかしよう」とだけ思えばよいのであって別にわざわざ落ち込んだり更にその挙句に自信を失ったりする必要はないでしょう。

このように事実を価値と混同したまま自信を得ようとすると、今度は「私にはあれがあるじゃないか」「私はあんなこともできたじゃないか」など、自信の根拠となりそうな事実を列挙して何とかしようとする、という事態が生じます。そしてたいていの人はここで挫折するのです。「だからって何なの?あれがあってこれができたって、肝腎のことがちゃんとできてないじゃない!」そう思ってしまえば全てはお終いです。

ここにおいては、事実と価値を混同した挙句の果てにそこにランク付けまでが持ち込まれています。しかも、全くの主観的基準(と呼べるかどうかさえ疑問ですが)によって!肝腎なことができていない、自分にとって最も価値だと思えることがうまくできていない、だから自信が持てない、というのは一見論理が通っていますが出発点において間違っています。なぜならば、自分にとってこれこそが一番大切だ、というのは貴方自身の考えに過ぎないからであり、自分がそう信じ込んでいるという以上の正当性も持たないようなことだからです。

こういう現象は恋愛においてもっともわかりやすくあらわれます。他の事はそこそこうまくいっているような人が、普通で考えれば大したことのないような相手に好かれるか・大切に扱われるかというただそのことだけによって自信を持ったり失ったり、つまり自分の価値を左右されてしまうのです。「たとえ全世界が手に入っても君の愛がなければ僕には生きている価値なんかないんだああっ」というあれですね。ばっかじゃないの、と思って読んでいる方も、よくよく考えればそれに近いことをしている可能性はあるはずです。

恋愛に限りません。どんなことであってもやっぱり事実は事実に過ぎないのであってそれを価値と混同するのは馬鹿げています。

となれば、自信を持ちたいからといってその根拠になりそうな事実をあれこれ集めてみるのもやっぱり馬鹿げているのです。あれが達成できれば、これが実現できれば自信が持てる、などという発想は無論のことですが、よく言われるような「自分が現在得ているものをちゃんと評価して自信を持ちましょう」という発想も基本的には同じことです。

もちろん、自分が得ているあれこれに対して前向きな評価が自然にできるのであればそれはまったく構いません。が、そんなことができるというのはそもそもその人に自信があるからなのであって、前向きな評価の結果自信がついたわけではない、そういうものなのです。

ただ、その際にも事実と価値とを甚だしく混同していれば何というか過剰に「こんなことができちゃう私って偉い!」「こんなものを持っている私ってすごい!」などというふうにもなります。いくら自信を持ちたいからと言ってこんなふうに感じなくてはならないわけはなく、これはむしろ慢心につながり一歩間違えば危険な事態にもなります。

これができる、あれも持ってる、それに対して「ありがたいことだ」と感謝の気持ちを抱くくらいで十二分なのであって何も「すごい、えらい」などと自画自賛する必要などどこにもありません。

そうです、本来の意味での自信とはこんなものではありません。もっと静かで深いのです。(この項続く)

   
第135回「自信がない?」

前回のコラムでも少し予告編みたいなことを書きましたが、今回からしばらく「自信」について考えてみようと思います。

自信がないからうまくいかないのか、うまくいかないから自信がないのか、或いは自信があるからうまくいっているのかうまく行っているから自信があるのか、そのあたりの同語反復的堂々巡りを考えても、この問題がなかなか厄介なことがわかります。昨日まで自信満々だった人が何かのきっかけで急に弱気になったりすることも少なくありません。

これまで述べてきた内容から考えれば、やっぱり自信がない人というのはいろいろなことがうまく運びにくいという傾向があります。というか、そういう方は常に自分の自信のなさ(つまりネガティブな信念)に目を曇らされているので、たとえ実際にはうまく行っているとしてもそのことに気づかないのです。まさかそんなことが〜?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、長いことリーディングの仕事を続けてきて数え切れないくらいその「まさかそんなこと」を私はみてきたので間違いありません。

実際にはうまく行っていても本人はそのように認識できず、どちらかというと「ダメ」なほうにばかり意識が向いているわけですから、ますます自信がなくなる一方になるわけです。

また、ちょっと物事がうまく行って「調子に乗っている」状態を「自信満々」だと勘違いしてしまうケースもわりと見かけます。こういうのはむしろ「過信」と言った方が良さそうです。状況が少し変わればたちまち意気消沈してしまうなら、そもそも初めから大した自信などなかったことになるからです。

ところで、皆さんも誰かに「もっと自信を持ちなさい」といわれた経験が一度くらいはあるのではないでしょうか?そう言われて確かにそのとおりなのよねと思っても、だからといって「はい、そうします」などと、即座に或いは翌日とか一週間後でも良いですが、とにかく自分の意志で自信を持つことはできましたか?

また、どうやって自信を持ったらよいのか?と考えたことはありませんか?それに対して満足できる答えを得られたことはありますか?

このあたりに「自信」ということを巡る問題や誤解が潜んでいるのです。

簡単にまとめてしまいますとこうなります。

「自信とは、自分の意識以外の何かによって与えてもらうことはできないものである」

それゆえに「真の自信は、いかなる外的条件にも左右されない」

更に「真の自信とは、そもそもあるとかないとかいう問題を超越している」

初めに挙げた「自信とは、自分の意識以外の何かによって与えてもらうことはできない」というのは前回少しお話したことですね。どんなに優れている(と見える)人でも、ある分野で明らかに業績を上げ高い評価を得ているような人でも、本人だけが「自信が持てません」と(謙遜でなく)思っていることもあるのです。「自信がある」状態というのをたいていの人は「何かと比較して自分がこれだけ優れている」と思えて安心できるようなものだと考えているようですが、そうだとすればこういう人たちは自分の中に大変高い基準を持っていてそれと比較すれば自分はまだダメだ、と感じてしまうのかもしれません。

また、つまり学歴やら年収やら身長やら、ある能力がどの程度あるか、とかどれくらいモテるか、とか一見客観的に感じられるようなこれらの基準めいたことに照らして自信を持ったり失ったりするのは全て「自分以外の何かによって自信を得ようと」しているからであり「自分以外の何かによらなければ自信が得られない」と信じているからです。しかし、実際には全然逆のことが起きているのです。たとえば貴方の年収が一億円であってもゼロ円であっても、それが「自分にとってどういうことなのか」を決めるのは貴方にしかできないのです。ゼロ円なら普通に見ればあからさまに「低年収」であり下手すれば「ビンボー」かもしれませんが、それを「悪いことだ、不幸なことだ、ダメだ」と判断して自分にそのようなレッテルを貼れるのは貴方しかいない。逆に「こんなんで私もよくやっているなあ」と自信を持ってしまう人もいます。また年収が一億円だったとしても「こんなに稼いでしまってまるで金の亡者みたいだ、きっとバチが当たる」などと考えてしまう人もいるでしょう。

あの人はクリスマスに沢山お誘いがあったのに私には全然なかった、という場合などでも同じです。そのことを自分がどう評価するか、しないか、というそれだけが問題なのです。たとえ世間一般や家族がどういう「常識的見解」を言おうとも最終的には貴方が意識の深い部分で同意しない限り、そんなものは貴方にとっては意味を成しません。結局、自分ではどうにもならないことだと思っているつもりでも実は自分にしかどうにもできないことだったりするわけですね。

ポジティブ思考の罠と同じで、本来の意味において自信というのは「あれができる、これもできる、これだけできる」という事実の集積によって増していくようなものではないし、自信を持つためにあれこれの根拠をかき集めればよいというようなものでもないのです。これを裏返すと「あれ」や「これ」が自分の思うとおりにできないうちは自信など持てないし持ってはいけない、というようなことになってしまいます。それゆえに、自信を持ちなさいと言われても「こんな状態の私にどうして自信など持てるのか?あれもこれもできていないのに」とか「自信を持つためにはまずあれとこれをしなくてはならない」などとなり、その計画が挫折してますます自信喪失に陥ったりする羽目にもなります。

人によっては「良いところをなるべく沢山見つけるようにしなさい、たとえば貴方には〜があるじゃないの」などと言って励ましてくれたりもするわけですが、自信喪失に陥っている人にとってはこれも殆ど意味をなしません。何故なら、冒頭でも述べたように「うまくいっていることが認識できなくなっている」からであり、尚且つ他人がいくら認めてくれても自分がそれを別に価値だと思えなければ自信の根拠にはなりえないからです。(ついでに言えば、こういうときはたいてい感謝の念も薄れがちです。)

自信を巡る考察はまだまだ続きます。(この項続く)

   
第134回「ネガ・ポジ オマケ編その2」

しつこくて申し訳ありません。今回は、前回までの補足だと思ってお読みいただければ幸甚です。

ここまで何回にもわたって書いてきたことではありますが、私の乏しい筆力のゆえになかなかうまく伝わりきらないところがでてきてしまっているようです。

ネガティブな状態でいたくなんかないのにどうしてもポジティブになれないの、そう感じて落ち込んだり、つまりますますネガティブになってしまったりするときは抵抗するのを止めてその「ネガティブなもの」を受け容れて浄化するのがよい、ということは既に述べました。このことからも少しはわかるように、ネガティブの反対物としてのポジティブを求めようとするとうまく行かないことが多いのです。

具体的に例を挙げてみましょう。いま、何か心配なことがあるとします。来月の売り上げはやっぱり落ちたままだろうか、あの人は私のことが嫌いなのだろうか、この病気はなかなか治らないのだろうか、などなんでも良いのですが「良くない想像」をしてしまって不安になったときにそれらの不安を打ち消して「ポジティブ=前向きに考えよう」とばかりに「来月の売り上げはきっと上がる!」「彼(女)は私の事が好きに違いない」「この病気は必ず治る」など「良い想像」をするのは、まあ悪い想像よりはマシなような気がしますが要するにせいぜい「マシ」という程度です。

何故ならまず一つには前回も書いたように「本当は違うかも」という考えが消え去っていな可能性があるからです。そこをクリアしたとしても、こういうふうに考えるときたいていの人は「きっとこうなる!なってほしい」という結果に執着しがちです。そして何よりも、このように考えたことによって心がすっかり平和になったかどうか?が最大のポイントなのです。

きっと大丈夫よ、何とかなる!と思ってとりあえずでも何でも気持ちが安定し、心配事から解放されるのならまずは成功と言えるでしょう。全ての基本はこの「安心感」なのです。これが得られないのであれば、一見前向き風などんな考えを持ってこようと意味がないわけです。

たとえば「会社が潰れました」とか「解雇されました」という事態にあって「却ってラッキーだった、もうウンザリだったから」とか「待ち人がなかなか来ない」ときに「よかった、これで本を読む時間ができた」などと、自然に心からそう感じられるのであればもちろん何の問題もなく素晴らしいのですが、これを「無理やり」するとなると・・やっぱり無理なのです。そんなことをしなくてもただ「ああなったら、こうだったら」という不安から心を離してしまえればそれで全くOKです。

自信がない、というのも代表的なネガティブ状態ですが、ここから脱出して前向きになりたいからといって半ば無理やり「私は素晴らしい!」などと自分に言い聞かせようとしてもうまく行かないケースが多いようです。これも上記と同様で、別に「素晴らしい」などと思う必要は全くないのであり、ただ「自信がない、私はダメだ」と「自分が」が考えてしまっている、というそのことを受け入れ浄化すればよいだけのことなのです。そもそも、自信などというものは読んで字のごとく自分が自分に与えるしかないものであり、他人がどう見るか、どう思うかなど一切関係ないはずです。他人からの評価が自信の根拠になってしまっている人もいるにはいますが、それらを解釈し判断するのは自分自身しかありません。実際に成績が出なくて低い評価を受けてしまっているときでさえ、それを単に「現在、このことにおいて自分は成績が出せていない」とだけ受け止めても良いのであって、もう「駄目人間だ、価値がない」というところまで行ってしまったりする必要はないのです。

また、恋愛などで相手が貴方の期待通りに貴方を扱ってくれない場合にひどく自信を失ってしまうことも良くありますね。これも実は単純なことです。この人にこそ自分のことを認めて欲しい、そう思う相手から認めてもらえなければ落ち込むのは当然ですが、そもそもその人にそれほどまでの価値やら貴方に対する影響力を与えてしまったのは他ならぬ貴方自身ですよね。自分が勝手に相手をそんな存在に祭り上げただけなのだから、その相手が貴方を大切に扱わなかったという理由で傷つくならば、それは貴方が貴方自身を傷つけているだけである、ことになるでしょう。

何でもそうなのです。何かを価値だと思うのは全て自分自身(の意識)でしかない、なのにそれが与えられなかったりするとまるで全世界から見放されたような感覚を味わってしまう、こういうおかしなことが実に普通に行なわれているのです!

つまり、自信がない状態というのは100%本人の思い込みに過ぎません。こういうことに対して逆方向の思い込みを持ち出して「自信を持とう」というのは、まあたまたまうまく行けばラッキーですが、あまり素晴らしい方法とも思えません。前回に述べたような「ポジティブであるための理由を探す」のと同じようなものになってしまいます。

どんなやり方でも良いから深くリラックスしてあれこれの考えに囚われない状態になれれば、それでOKなのです。「私ってすごいわ」「絶対にうまくいく!」などと力むよりもこのほうが余程「うまくいって」しまうことでしょう。

今回少し取り上げた「自信」というものについて、次回から詳しく見ていくことにしましょう。


   
第133回「ネガ・ポジ オマケ編」

ネガティブな考え方や感情にはたいていいちいち理由があるのです。こういう自分だから、こういうことができないから、こういう状況だからこうなのだ、などという「自分の意識の外側にあること」はもちろんですし、全ての原因が自分の中にあるとわかっていても、わかっていてなおなかなかそれを変えられない自分はダメだ、と思ってしまう場合もあります。いずれにしてもネガティブなものには理由がある、それも自分の中では「こうなのだからネガティブになってしまうのは当たり前だ」と思えるだけの理由があるわけです。逆に言えば、これがネガティブなものの特徴の一つでもあります。この考え方に従えば、ポジティブになるためにはそれなりの理由が必要だ、ということになってしまいます。

ポジティブになろうとして、ポジティブでいようとして却って悪い方向に自分を追い詰めてしまう原因がここにもあります。即ち、ポジティブに考えるための理由探しをしてしまうのです。同じ状況でもこういうふうに捉えれば辛くないわ、ということがありますね。確かにこれは有効な方法ですし、一つの現象であっても異なった視点を持てば全く別の見方ができるのも真実です。ひとつの見方に固定されない、というのは「自由」なことでもあります。

しかし、これが一歩間違えるとかなり苦しいことになります。こういう考え方は苦しいから別の見方をしてみよう、とか私はダメだと思っていたけど良いところもあるはずだから探してみよう、などというアプローチが無理なくすんなりうまく行ってしまうのであれば問題ありません。問題になるのはそれを「頑張って無理やり努力してやっている」場合です。

すなわち、落ち込みたくないからできるだけ良い方に考えようとする、しかし自分がその「良いほう」の見方を本当に心から信じているわけではない、というようなことですね。例えば貴方が本当に落ち込んでいるときは、誰かにほめられたり認められたりしても「貴方はそういってくれるけど、でもねえ」「やっぱり私は〜なのよ」とか「そうかもしれないけど、でも悔しいの」などという気分になり、それらを素直に受け止めることができなかったりするでしょう。ここで「そうか!そうよね」と突然憑き物が落ちたようにすっきりできれば問題ないのですが、いつもいつもそうなるとは限りません。

自分自身に対しても同じことなのです。ポジティブでいよう、としていくら努力したとしても「でも本当は違うのよね・・・」と心の底で思ってしまっているならそれはやっぱりポジティブにはならず、自分の中に矛盾や葛藤が生れてしまった分却ってネガティブの度合いが増してしまう、という事態に陥ります。あるいは、自分の中のネガティブさを見ないで済むようにするためにこれも無理やり「こういう事情があるんだから私はこれで良いのよ」という正当化に陥れば、見ずに済んでいるネガティブなものも実はしっかり残っているわけでこれまた抑圧や葛藤が生まれ、結局ますます苦しくなります。

ハッキリ言いましょう。ポジティブになるのに、つまりハッピーになるのに理由は要りません!ネガティブになるのにはどんなに「自分なり」のものであっても必ず貴方がそうだと信じられる「理由」があるのに対して、ハッピーでいるためには理由など要らないのです。むしろ、そういう「理由探し」を一切放棄したところに本当のポジティブや幸せがある、と言えるのです。

以前にも書きましたが、理由や根拠のある幸せーそれも変化する可能性があるものが理由や根拠になっている幸せ、というのは「条件」によって成立する幸せなので、もしもそれを成り立たせている「条件」がなくなったり或いは自分がもはやそれらを「幸せでいるための条件だ」とは思えなくなってしまえば幸福も失われるのでしたね。

これと同じようなことなのです。本当にポジティブな人というのは要するに状況に左右されずに心の安定を保てる人であり、変化を怖れない人です。こういう人々は根本的なところで「全ては自分にとってより良いことである」という信念を保持しているため、何があっても大丈夫なわけだし先の心配をする必要もない。いちいち理由付けなどないのです。

ポジティブ、というと何か「明るくて元気いっぱい」みたいなイメージを抱きがちですが、別にそんなことはありません。自分に自信があるから殊更に自己主張する必要もないため無口で静かになっている人だっているのです。イメージを先行させないように!

ネガティブなものから解放されるためには、ポジティブになろうと努力するよりも直接ネガティブなものにアプローチして浄化してしまうのがとにかく一番です!

   
第132回「ネガ・ポジX」

(承前)これまでの連載で「ネガティブな考えや感情」と敢えて分けて書いてきましたが、実はこの二つは同じものなのです。ずっと以前にも何度か書いてきたように、基本的には感情も思考の一部であり思考から生じているものなのです。何かの現象があったとき、まず貴方がそれを自分にとってどのようなものだと考え判断するか、無自覚であってもこのプロセスを経ないとどんな感情が生じるかは決定されません。お医者さんから「病気です」と言われ「あれもこれもできなくなる、もうおしまいだ」と絶望に陥るか、「やった!仕事を辞められる」と嬉しくなるか、とか誰かさんから連絡がないというのを「何かあったのではないか」と心配するか、「私を嫌いになったのではないか」と苦しむか、とかもういろいろな例を挙げることができますね。

感情はハートから、思考はマインドから、と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが少なくともネガティブな感情については100%マインドから生じています。なぜならば、ネガティブなものはこれまた100%全てエゴの産物であり、エゴというのは歪んだマインドに巣食うものだからです。或いはエゴがマインドを歪ませてしまうと言っても良いのですが、とにかく否定的な感情は宇宙マインドではない矮小マインドからしか生じないのです。そして、否定的な感情を生じさせるのはこれまたエゴによる否定的な判断しかありません。

言い換えれば、ろくでもないことを考えているときは必ず感情的になっているはずであり、感情をベースに考えているはず、ということになります。「悩む」というのはこういうことなのです。

何がしか普遍的なこと・本質的なことを思考しているときにエゴは消えています。ということはそういうときもはや普段の「貴方」というものはいなくなっているのです。この身体を持ったこの私、というのが全然いなくなればそれにまつわるあれこれも当然生じなくなります。悩む、というのは常に「この私」が主役であるのに対して正しく考えているときには「この私」など消え果てているわけです。

ところで!感情がどこからくるか、はさておいてそもそも「感情」とはどういうものか?をもう一度考えてみましょう。ある感情に襲われても10分後には別の感情が来ている、などという事実を考えても「感情=自分自身」ではない、ということがわかります。たとえばいくら怒りに燃えたとしても「怒り=自分自身」ではないわけです。つまり、内から沸き起こるものであろうがどこからか渡来して貴方の心を捕えるものであろうが、感情というのはあくまでも「あなた」ではなく「あなたの一部」でさえありません。

ここで、あえて「感情は貴方の判断をきっかけとしてどこかから渡来し、貴方の心を捕えてしまうものだ」と考えてみましょう。どこか、といっても自分の外側ではないのですが、まあ言ってみれば「宇宙の誕生から今までの、全ての生物が経験したあらゆる感情」が蓄積されたものが集合無意識のようになって我々ひとりひとりの潜在意識に予めインプット或いはプログラムされている、と思っていただいて構いません。貴方が何らかの判断によってある感情を引き出し捕まえてしまうのであれ、貴方の判断によって選ばれてしまったある感情が引き出され渡来するのであれ、とにかく貴方の本質存在とは別の何かにまあ「取り憑かれる」ような事態であることには変わりありません。よく「霊に憑依された」などと言いますが、構造としては感情についても全く同じことなのです。ある感情に憑依されるのも、何かの感情に憑依された霊に憑依されるのも大した違いはない、と考えて差し支えないと思います。

何が言いたいかというと、要するに「憑依されたのだから浄化すればよい」ということなのです。肝腎の自分自身が感情に憑依されているのにその自分がどうやって浄化するの?と思われるかもしれませんが、よく考えてみて下さい。取り憑かれた自分、を自分が浄化するのではなく、「憑依したもの」=感情を本質存在たる自分が浄化するのです。自分自身はあくまで感情とは別物であるからこそ可能なことなのですね。

浄化の仕方は前回までにご説明してあります。

おかしな話ですが、これはポジティブな感情についても同じ事情・構造なのです。嬉しい、ハッピーなどそういうものなら憑依されても大歓迎なのですが、実はこういうものの中にもエゴ的喜びや満足に関わるものが少なくありません。

本当に平和で満たされているとき、というのは別にとりたてて嬉しいとか幸せとかそんな感情すら覚えないものです。幸も不幸も、喜びも悲しみも何もない、ただ力強い静けさが限りなく広がったような状態というか何というか、うまく表現できませんが「自分がない」状態あるいは自分が宇宙そのものになってしまっている状態というのはそういうものなのです。これは、ある程度慣れてくればスイッチ一つで簡単に至れる状態ではあります。

次回は、同じネガティブでもちょっと違った類のものについてお話します。

   
第131回「ネガ・ポジW」

(承前)前回は、ネガティブなものに対処する方法としてある種の「開き直り」というのをご紹介してみました。要は、それらに抵抗せず「積極的に受け容れてみる」ことにより自然にポジティブに変容するのに任せればよいわけです。

この方法のバリエーションとして、同じ「積極的に受け容れる」のでも「否定的な感情・考え」を慈しむというものがあります。自分にとって不快な感情や考えは普通「追い払いたい嫌なもの」なのですが、いやがったり嫌ったりしないで敢えてそれらの感情や考えを抱きしめ愛情を注ぐようなつもりに、何というか「これを大切にしてみよう」という気持になってみるのです。全ての問題やそれに伴う苦しみや怒り・恨みなどのネガティブな感情は、見方を変えれば「浄化されるべく出てきたもの」であり、「与えるものが自分に返ってくる」原則からすると「浄化する=愛情を注ぐ」ことによって貴方自身が浄化され愛情に満たされることも可能になるのです。この方法は一見、ネガティブなものにエサを与えるように感じられますが、実際には全く逆のことが起こります。すなわち、やっぱりそれらの否定的なものどもは愛情によって消えてしまうのです。

否定的なものは、否定的な姿勢によってのみ栄養を与えられる。嫌なものだから追い払おう、逃げよう、抵抗して闘おう、という姿勢によってますます増殖したりするのです。逆に愛や感謝を与えれば消えてしまいます。

これはいわゆる「悪いものとの共存」とは似て非なるものです。病気をはじめさまざまな苦しみと共存していこう、というのは「貴方は困った存在だけど距離を保ちながら一緒にやっていきましょう」みたいなことを指していると思います。貴方と闘うつもりはないけどあんまり暴れないでね、となだめつつだましだましやっていく、のような一種の妥協であって浄化でも変容でもないですね。ここで述べているのはそれとは全く違うことです。

また、「感情を解放する」ということでこれらネガティブな感情を「誰かにぶつける」こととも全く違います。上記のプロセスがうまく行けば、ネガティブな感情や考えは自分の中だけで消えてしまうのでわざわざ誰かにぶつける形で表現する必要もなくなります。

なお、やはり「感情の解放」テクニックとして時々見かけるものに「それらの感情をとことん味わってみる」というのもあります。ここでご紹介している方法はこれとも違います。とことん味わうことで「あれ、何だったんだろう」と正気に戻るケースもあるにはあるのですが、この方法はどうしてもハイリスクです。下手するとネガティブな感情に自分が呑み込まれ同化してしまってますます辛くなるからです。「とことん味わう」のではなく「ただ眺める」のならまだ安全ですし、効果も期待できます。

ネガティブな感情・考えに襲われたとき、ちょっと立ち止まってそれらをじっと眺めてみるのです。「これは一体何なのだろう」あるいは「あなたは一体何なのですか?」のように擬人化しても構いません。そうしてみると、こういうものたちはどうしたってゴージャスには見えないだろうし、勢いはあっても美しくもなく人に怖れられることはあっても好かれそうもない姿をしているのがわかると思います。つまり「それ自体が愛に満たされておらず、ハッピーでもない」ような何だか『気の毒なもの』に見え、感じられてくるでしょう。これらに愛情を注いでみれば良いのです。そのことによって貴方に愛が返ってくるのですから、そういう機会を与えてくれたことを感謝しましょう。すなわち、それら「何だか気の毒なもの」に対して「私に浄化の機会を与えてくれてありがとう」と言ってみるのですね。

この方法はもちろん他人や周囲の状況などに対しても使えます。貴方を悩ませ、怒らせ、苦しめ、悲しませる誰か或いは問題などがあるとすればそれらは実は全て「自分の意識の内部にあるものが投影された」現象なので、外側の対象は無視して専ら感情や考えだけを扱うのが大原則なのですが、やはりそれをなかなか難しいと感じる方々もいらっしゃることと思います。そのような場合には上記のような言葉を直接それらの対象に向けて言っても良いのです。

もしも貴方の家の中や玄関の前に大きなゴミが落ちていたら拾って捨てますね?「これは私が置いたものじゃないんだから、私は何もする必要なんかない。やった人が拾って捨てるべきよ」と言って放置すれば、どんどんゴミだらけになって汚く不快になってしまうのですから、気づいた端から拾って捨ててキレイにするのが当たり前、ではないでしょうか?この場合、その「ゴミ」は貴方に「浄化の機会を与えてくれた」ものであり、拾って捨てたことにより貴方の家も貴方自身も浄化されるのですから貴方は「ゴミ」に感謝したって良いわけですよね。ところが、目に見えないこととなると多くの人が平気で「放置」をしてしまうのです。

「私がこんなふうに考えるのは、こういう感情を抱くのはあの人(或いは、環境・時代・お金・身体・などなど)のせいよ」「私が悪いんじゃないのだから、私のせいじゃないのだから、私が始末をする必要なんかないのだ」と、こうなります。つまり、こんな(ネガティブな)考え・感情というのが「ゴミ」に当たります。自分が捨てたんじゃなくて誰かが自分のところにおいていったのだからその人が始末してくれるべきだ!とばかりにそのまま放置して、自分の心をゴミだらけにしてしまうのですね。

こういう「ゴミ」も嫌がらずに愛を注ぎつつ、また「浄化のチャンスを与えてくれてありがとう」と感謝しつつ心の中で燃やしてしまえばどんなにすっきりするでしょう!

    
第130回「ネガ・ポジV」

(承前)ネガティブなもの、即ち貴方が何らか不快を覚える感情や考えなどは貴方にとって有害であるとはいうものの、それを忌避しようとするあまり抵抗したり闘ったりすると更なるネガティブが生じてしまう、これを前回述べました。

これらネガティブな感情や考えを処理するために絶対必要な前提条件があります。それはすなわち、自分がそういう感情や考えを抱いていうるということに気づく、それを認識するということです。まあ当たり前といえば当たり前に簡単なことなのですが、人によってはこの段階を経ずにいきなりそれらネガティブな感情や考えにさらわれ囚われてしまうことがあるのです。「私は今、〜で不安になっている、〜のことで怒っている」と認識する間もなく「わあ〜っ」「カーッ」「きいーっ」となってしまい、更にその不安定な状態のままああでもないこうでもない、と考えたりおかしな(但し本人にとっては至極まっとうな)結論を出してしまったり、とどんどんドツボにはまるような感じになってしまうわけですね。自分がネガティブなものに囚われて突き動かされているという自覚すらない状態です。ここからちょっとでも抜け出すのがまず第一歩です。誰だって自分が「不愉快」かどうか、くらいは自分でわかるはずなので、ここまではまあ知っていれば誰でもできるものだとしておきましょう。

その後どうするか?前回書いたとおり、抵抗せずにただ眺めてみるという方法が一つありますが、今回ご紹介するのは、更に進んでそれら否定的な感情や考え方を「積極的に受け容れてみる」というものです。

さて、ネガティブなものを処理する際に注意していただきたい点があります。まず一つは「それらの感情や思いを正当化しない」ということです。ここでご紹介している方法のポイントは「ネガティブなものはネガティブなものだと認識した上で受け容れる」ということであって、そこにネガティブな感情を正当化するという意味はないからです。こんなことをされたんだから怒って当たり前、あんなことがあったんだから苦しんで当たり前、自分の感情は当然なのだ、正しいことをしているんだ、だから良いのだ、という正当化は「受け容れる」こととも開き直りとも違います。

注意点の二つ目は、あくまで「自分だけを問題にすること」。正当化とも重なるのですが「あの人が悪いんだから私が苦しむのは当たり前」「これこれこういう状況なんだから不安なのは当たり前」というように「自分以外の何かのせい」にしてはならないのです。

ここが最重要ポイントです!「何かのせい」にしてしまう発想から抜けられない場合にはこの方法は使えません!

要するに、貴方がたとえば誰か特定の人々や場所・ものなどに対して不快な感情や考えを抱いてしまうような場合でも重要なのは常に「貴方が不愉快であるという事実」だけなのであって、それらの原因だとみえるあれこれではないのです。「こういう状況だから」苦しい・辛い・頭にくる・不安だとか「こういう自分だから」落ち込む・自信がない・きっとああなるわ、などという場合、「こういう状況」や「こういう自分」を何とかしようとするからますます大変なことになるわけなので、これらのことは一切度外視しておく。即ち、ものや場所や人それ自体が「いや」「不快」だ、というのではなくそれらを「不快だと感じている」その事実だけを扱うのです。これをまずしっかりおぼえておいてください。

たとえば貴方が何かで苦しんだり不安になっていたりするとします。それを何とかしたい、と思う。ここで、その状況をコントロールするのもそれらの苦しみや不安から逃げようとするのも止めて開き直ってみる。(これは以前「明るい絶望」で書いたことと重複していますのでよろしかったらそちらもあわせてお読み下さい。)

「どうしてあの人はああなんだろう」「どうしてこの会社はこうなんだろう」「どうして私はこんなことができないんだろう」などと考えて落ち込んだり怒りを覚えたりするとき、「あの人」「会社」「出来ない私」を何とかしようとしてはならないのです。「どうして〜なのだろう」と考えて否定的な思いになってしまっているというその事実だけを扱いましょう。こういう思いを選んで苦しんでしまっているのは私の自由なんだから、誰に向けているわけでもないんだから、ダメなことかもしれないけど、だったらダメでいいじゃないか、と考えて積極的に受け容れてみるのです。

こんな感情・考えを抱くのは何かのせいではなくて全て自分の自由なのだ、良くないことだとわかっているけど私が好きでやってるんだ、何か文句あるか!のように考えてください。明るく楽しいことを考えたくてもどうしてもできない、という「不自由」な状態から「私は自分の自由意志でこの苦しみ・怒り・不安・自信のなさなどを選んでいるんだ、結構じゃないか」というふうに切替えるのです。何か否定的な思いに襲われるたびに「この〜という思い・考えは私が好きで選んでいるんだ」と宣言するようにしてみます

なお、この処理プロセスをおこなうときには「どうしてそうなんだろう」「これを選ぶことにどういう意味があるんだろう」などとは一切考えない。これがコツです。この方法がうまく行くと不思議なことに何だかサバサバした明るい気持になってくるのです。呼吸が楽になり先刻までの不安や怒りや悲しみなどがもはや貴方を苦しめる「不快なもの」ではなくなります。というより、積極的に受け容れたことによってこれらが消えてしまうのです。これは「積極的に受け容れる」という姿勢自体が非常にポジティブなものであるために生じる逆説的な現象です。

ここで「正当化」「自分以外の何かのせい」になってしまっているとネガティブな思いが外に向けられるのでかなり危険なことになります。

特に「憎しみ」やら「相手の不幸を願ってしまうこと」などについては危険度大です。これらの処理の仕方については別に後述するつもりです。

繰り返しますが、この方法のポイントは通常「自分の意志に反して」生じてしまうように思えるネガティブなあれこれを自分の自由意志でもう一度積極的に受け入れ選びなおすことによって逆転してしまう、ということなのです。

次回はこの方法のヴァリエーションをご紹介します。

   
第129回「ネガ・ポジU」

(承前)どんな考えや感情が意識の表面に沸き起こってくるか、それは自分の意志でどうにかなるものではありません。ただ、沸き起こってきたものをどう処理するか、これは自分の意志で選ぶことが出来ます。また、いくらやる気を出したいとか自信を持ちたいとか思っていてもこれらも意志の力ではどうにもならない。さあやる気を出そう、自信を持とう、と意志すればそうなる、という類のものではないのです。

「自由であること」でも述べましたが、自分がこうなりたいと思っているのにどうしてもそのように考えたり感じたり捉えたりすることができない、イヤだイヤだと思うようなことばかりが次々と沸き起こってしまう、というような一種の「意識の不自由」状態というのは誰しも経験があることでしょうし、誰にとっても苦しいものです。自分にダメージを与えるそのような感情や考えに、ある人は翻弄されハマってしまい、ある人は「これではいけない、何とかしよう」と頑張る。ところがここにまたつまずきの石があるのです。ずっと以前「ポジティブ思考」などの項でも述べたことと同じなのですが、ネガティブなものから解放されようと頑張る、そのことがまた別のネガティブさを生み出してしまうことがよくあります。

こんな気持ちはいやだ、どうしてこんな考え方をしてしまうのだろう、こういうのは捨てたい!そう「意志」してとりあえずその場でそれらを捨てることはできます。といってもここで永久に無くすことができるわけではないので、出てくるたびにその作業をするわけです。これは前回書いたとおりです。しかし、それすら出来ない人も大勢いると思います。つまり、こういう気持ちや考え方を止めよう、捨てようと意志してもできないとき、その「抵抗」自体がダメージになったり或いは「できない自分」に対して落ち込んだり「私はだめだ」と罪悪感を抱いたりしてしまうのですが、これは「ネガティブから解放されたい」という努力が挫折して新たなネガティブさを生み出していることになります。

これでは何の意味もありませんね。ではどうしたらよいのでしょうか?

「ポジティブ思考」でも書いたと思いますが、重要なことなので繰り返します。まず「闘う姿勢」というのはどんな場合でも絶対にNGです。闘う、というのは「敵」の存在が前提条件になっていますが、何にせよ「敵」を作ってしまうとそれだけでもうエゴが喜んでしまうのです。闘わないこと!これをまずよく覚えておきましょう。手放す、というのは文字通り「力を抜いて離す」ことであり、力をこめて放り投げるのではありません。手放すためには「闘う」のを止めなくてはならないのです。というよりまず「闘う」こと自体を放棄する・手放すわけですね。となると、どうなるか。

「こういう考え方・感情はイヤ、手放したい」と思ってもそのようにならなかった場合には「何とかしなくちゃ」と力んだり葛藤したりするのは止めてまず深呼吸しましょう。そして「私は今こういう風に考えているんだなあ、感じているんだなあ」というふうに少し突き放してそれを見てみます。批判や非難はしないこと、ただ眺める感じです。そうしているだけでフッと平穏な気持ちが出てくることさえあります。このとき貴方は「手放せて」いるのです。もちろん、また同じような不愉快な感情や考えが戻ってくることもありますが、そのたびにこの作業を繰り返せばよいのです。段々にネガティブなものに振り回される頻度も程度も落ちてくるでしょう。

闘う、と同じようなことですが「抵抗」というのもまた難しい姿勢です。抵抗する、というそのことの中に既に「力み」が含まれているでしょう。抵抗するのを止めたら手放せてしまった、ということが非常に良くあるのです。もうどうでもいいや、このままでもいいや、という風に吹っ切れた瞬間から流れがどんどん変わってきた、という話もよく聞きますね。何とかしたい、どうにかしたい、という「力み」を捨てて一種の諦観に至る・・・例の「明るい絶望」です・・自暴自棄ではありません。希望も心配も全て、先のことは何も考えずただ目の前のことだけを淡々と一生懸命やる。これをやったらああなる、これをしておけばああならない、など一切考えない。こういうとき貴方はまさに「今ここ」に生きている状態なのです。そうすると自動的に意識が「本来あるべき姿」に戻れるのでこれまた自動的にいわゆる「悪いパターン」も一掃されてしまうのです。

このときに生じる「エゴの抵抗」は、「貴方ね、ここで頑張るのをやめて力を抜いたら一生辛いままだよ、もっともっと悪くなるよ」「闘うのを止めてしまったら負けちゃうんだよ」というふうな形を取ります。闘う姿勢を放棄する=敗北ではありません。このとき敗北するのはエゴです。放棄することによって貴方は「勝利」からも「敗北」からも解放され「奇跡」に近づくのです。よく「常に心配していないと知らないうちに悪いことが起きてしまうようで不安だ」というかたがいらっしゃいますが、これも立派に「エゴの抵抗」です。

要するに、意識に沸き起こるイヤな考えや感情或いは行動のパターンなどについては「そこから逃げよう」「やっつけよう」「お願いだからいなくなってちょうだい」などと抵抗するよりも「あ、こんなものがあったわ」「あら、まただわ」くらいに捉えて「フーン」と眺めておくほうがずっとずっと効果的です。ネガティブなものがダメだからといって闘ったり抵抗したりするのはかなり「エゴ的」方法であって、もしかすると「エゴの罠」かもしれません。もちろん、これらを手放すための「テクニック」なるものもあまたあります。たいていはイマジネーションを使うものですが、これらの有効性は個人差があるので一概にお勧めはできません。また、一度やれば効果が永久に続くわけでもないので「何かの度に、その都度」行なう必要もあります。

次回は、テクニックというほどでもありませんがより積極的なアプローチをご紹介します。(この項続く)

   
第128回「ネガ・ポジ」

コラムで繰り返し書いているように全てネガティブなエネルギーは貴方にとって有害なものであり貴方を傷つけます。そして、たとえそれらが自分の外側にあって自分に影響を与えているように思えても実際にはそうではありません。誰か他人のネガティブな想念やエネルギー、場所の気などというものは確かに存在するのですが、もしも貴方にそれらと合致する「鍵穴」のようなものがなければ感知することはあっても影響されることはありません。

さて、ネガティブなものはどうもいけないらしい。だいいちそういうものが自分の中にある、という状態は誰にとっても心地よいものではない、おまけにそんなものがあると運も落ちそう!困った、どうにかしなくては。誰でもそのように考えるでしょう。しかし、ネガティブなものを心=意識の中に取り込むのは止めよう!と決心したからといって簡単にそれを実行できるわけではありません。そう思ったそばから「ああ、あの件はどうしよう」「あの人って本当に困るのよね」「頭にくるわ」などなど相変わらず怒りや不安や恐怖、あるいは自己卑下や批判などが次々と頭をもたげてきてしまうのです。

スピリチュアル系の考え方を学んでいくとたいてい「全て宇宙にお任せしなさい」みたいなことが出てきます。自分の小さいマインドであれこれ考えたってどうしようもないのだから全ての根源である偉大な力に自分を預けてしまえばよい、そうすれば不安も何もなくなるのだから、ということなのですが、これも「はい、そうします」で簡単にできるとは限りません。前回もお話した「エゴの抵抗」があるのです。エゴではない、或いはエゴの入る余地のない偉大な力に自分を預けてしまうということはとりもなおさず「エゴの手放し」であり、エゴの立場から言えば「存亡の危機」となりますので当然抵抗が起こります。これはたいてい「そんなわけの分からないものにわが身を預けてしまってとんでもないことになったらどうしよう」などという感覚としてやってきます。普通に考えればろくでもないことしかしないエゴとともに(或いはエゴに支配されて!)生きるより、自分が意識できる範囲をはるかに超えた叡智のある偉大な力にわが身を預けて生きるほうがずっと楽でハッピーに決まっているのですが、何せそんなものは「よく分からない、知らない」わけだし通常誰でも「よくわからないもの」には恐怖を覚えるものなので、まあ「知らないおじさんについていってはいけません」のごとくにちょっと引いてしまうのですね。つまり、「宇宙(でも神でも何でも)に全てを預けて生きる」ことができるためには予めある程度「それが自分などをはるかに超えたとんでもなく素晴らしいものだ」ということを実存的に(アタマで、ではなく)わかっている必要があるのです。この「理解」がまた「意志や努力で得られるものではない」のだから、やっぱり「宇宙の力、なんてよく分からないものに頼るわけには参りません」という状態から抜けるのは難しい。

概して、スピリチュアルな考え方・生き方というのは本当にシンプルなものなのですがシンプルだからといってイージーなのではないのです。殆どの人々がぐっちゃぐちゃの複雑状態に慣れきってしまっているので、シンプルであることには却って大変な困難を覚えます。ネガティブなものを抱えるより良いことを考えていたほうがずっとハッピーなのに、誰に頼まれたわけでもないのにあたかも「自動的」にそうなるかのようにネガティブになってしまう、というのも同じことですね。シンプルに「明るく幸せ」な心の状態を選べばよいのにそれができない、それを難しいと感じてしまう。これは誰しも経験があることだと思います。

いろいろな本を読んだりセミナーに出てみたりしても結局ここでつまずいてそのままになってしまう人が多いのもうなずけます。「こうすればよい、っていうのはすごくよくわかったけど努力してもどうしてもできないの」となるのです。努力が足らん、という場合も多々あるのですが、そういう人はまあ頑張っていただくしかないとして、ここで問題にしたいのは「努力の仕方を間違えてしまう」場合です。

一つは「意志の使い方」に関するものです。ネガティブなことを考えたり苦しい感情を抱いたりするのは止めよう、と思っても「ついつい」出てきてしまう。この部分は意志の力でどうにかなるものではありません!これらが湧き出てくるところは無意識・潜在意識なので、殆ど反射的に起こってしまいます。だから、「こういう考えや感情が湧かないように」と意志の力で止めることは絶対にできないのです。

ですからいきなりこの部分を何とかしようとする試みは必ず挫折します。

湧き出てしまったものを顕在意識の部分で「あ、これはいけないものだな」と認識し、「これは手放したい」という意志を持つ。ここまでは問題ありません。しかし、意志の力でエイヤッと手放すのは非常に難しい。このやり方も挫折につながります。これは前回のコラムでも触れましたが、「愛と感謝とゆるし」によって浄化・変容させるのが最も効果的であり、これなら「そうしよう」という意志によって可能になります。

反射的に生じてしまうネガティブな考えや感情などというのは全て意識の根底にある「信念」によるものであり、この「信念」は何か大きな気づきや理解が起きたときには瞬時に手放せるものなのですが、それまで手をこまねいて待っている手はありません。ではどうするか?ネガティブなものが生じるたびに上記の「浄化・変容」の作業をし、新たな信念を繰り返し潜在意識に送り込んでやるのです。これは意志の力でできます。が、先ほども書いたようにこの方法は「シンプルだが容易くはない」のです。かなりの根気を必要とするでしょう。それが続かない、というのはまあ「努力が足らん」なのですが・・

とにかく、潜在意識から何かが沸き起こってくること自体を、或いは沸き起こそうとするべくコントロールするというのは意志の力で出来ることではない。これだけ憶えておいてください。(この項続く)

 
第127回「自由であることX」

(承前)スピリチュアル関係の本などによく出てくる言葉で「手放し」「明け渡し」などというのがあります。それぞれ英語で言うと「letting go」「surrender」なのですが、これらは今まで述べてきたところの「本質的な自由」と密接な関係があります。

まず「手放し」とは何を何に対して手放すのか?から考えてみましょう。簡単に言えば、今の貴方から自由を奪っている全てのものを手放すのです。ネガティブな感情、執着、貴方が一歩踏み出すのを阻むような、もはや不要な愛着、自分自身を幸せにしないような考え方や信念などなど、つまりは「エゴ及びエゴの産物」を手放す・捨てるのが大切だと言っているのです。ああなったらどうしよう、などという心配や恐怖も、こうなったらああなるに違いない、という考えも、世の中は・私はこうなのよという思い込みの信念も、更に期待でさえも、とにかく貴方を過去や未来に縛りつけるような全てを手放せればその瞬間貴方は「今ここ」に本来の自分という姿で存在していることになるのです。このような思いが頭をよぎったり嫌な感情が襲ってきたりしたらすぐに「これは手放すべきものだ」と認識するようにします。慣れてくればその瞬間にとりあえず手放すことができるようになります。しかし、多くの人がここでつまずいてしまいます。手放せばよいということはわかっている、手放したい、でもできない!手放さなくてはならない、と思うことが新たなストレスになる、手放せない自分に対してまたしてもフラストレーションや怒りや罪悪感が湧いてしまうなどというケースをよく見かけます。このようなときに最も効果的な方法は、少なくとも現時点での私の経験では、やっぱり「愛とゆるしと感謝を与えること」なのです。これらの波動は大変パワフルなものなので、それによって「手放したいネガティブなもの」を浄化したり変容させたりすることができます。

何に対して手放すのか、つまり手放したネガティブなものってどこに行ってしまうのか、という疑問を抱く方もいらっしゃるかもしれませんが、これらの高い波動によって浄化され変容されてしまえばエゴもエゴの産物ももはや「愛の一部」になってしまいます。愛とゆるしと感謝によって浄化・変容させつつ神なり宇宙なりに返す、そうすれば貴方は自分が返した=与えたのと同じものを受け取れる、即ち「愛の一部」であるようなものが今度は貴方に返ってくるという素晴らしく嬉しいことが起きるのです。

そもそも「手放し」とは「ゆるし」と全く同じものだと考えていただいても構いません。

具体的なやり方は別に決まっていませんが、たとえば貴方が無条件に無償の愛を感じられるものを思い浮かべてその感覚に浸ること、どの言語でもよいから「愛」と心の中で唱えること、「ありがとうございます」と唱えること(何に対して、ということは関係なくただこの言葉だけでよいのです)などなど、要するに「愛や感謝に満たされた感覚」になることが目的です。「ゆるし」というのは愛の付随物ですから特に何かしなくても良いような感じがしますが、「ゆるします」「ゆるしてください」と唱えるのが良いというやり方もありますね。ただ、この場合は一歩間違うと他者に対して「私は貴方を許してあげるわ」という意味になってしまう危険があると思います。波動の高い赦しというのは全て自分自身に対して向けられるものです。他者によってダメージを受けた場合であってさえも、それをひどいこと・ダメージと認識したり更に相手に対して憤りや恨みを感じたりするのは全て「あなた自身」ですよね。それに、そもそも他者などというものは貴方の心の中にしか存在しないのでした。要するに「ゆるし」というのは、自分にとって有害な考えや感情を抱いてしまった、エゴに支配されてしまった、そういう自分を赦すということであり、「間違えちゃった、赦してね」というような感じで構わないのです。

何か嫌なことや心配事があったり、考えが袋小路にはまってしまったりしたときにはそれを「手放し」ならぬ「野放し」にしてはいけません。その都度、上記のようなやり方で「手放す」という習慣をつけてください。

次は「明け渡し」ですね。Surrenderには「降伏」という訳語もあり、これだと何となく「負けた」感じでネガティブに捉えてしまうかもしれませんが、それでよいのです。何故ならsurrenderするのは「エゴ」なのですから!エゴに勝利されてしまったらもう最後、人生は真っ暗闇です。つまり、明け渡すというのは、エゴが降伏して貴方の意識(潜在も顕在も集合無意識も全て含めて)が一旦からっぽになり、エゴに代わって根源的エネルギーが直接入ってくるということなのです。神意識や宇宙意識が入ってくる、という言い方もありますが意味は全く同じです。貴方の自由を奪っていたところのエゴが降伏するのだから、当然の帰結として貴方は想像もできないほどの自由を味わうことになります。ところが!エゴも存亡の危機に際して黙ってはいません。抵抗をしてきます。これは「大変だ、そんなことをしたら自分というものがなくなってしまう」という感覚としてやってきます。自分の個性、自分らしさなどと思っていた全てのこと、よいことも含めてこれまでの自分の全てがなくなってしまうような恐怖を感じるのです。明け渡し?そんなの怖いわ、と思うならそれこそが「エゴによる抵抗」なのです。実際にはエゴなど消えてもらったほうが本来の貴方の個性というものがよりいっそう素晴らしい形で隈なく発揮されるのでご心配なく。

日々「手放し」ワークを続けていると、自然に「明け渡し」が起きるときがやってきます。が、これは一回だけで終わるようなことではないのです。一度そこまで行った人が次の段階に進んでまた新たに「明け渡す」というのが一般的なコースのようです。最終段階まで行ってしまえばこれはもう「仏陀」です。そこまでではない、通過点での明け渡しはずっと以前に書いた「明るい絶望」みたいな形で現れることもよくあります。

皮肉なことに、スピリチュアルな生き方を実践しようとして「目覚めたい!」或いは「覚醒したい!」という思いが募り更にこれが執着となり、結局「エゴの餌食」に成り果てているケースも多々あります。これは手放しも明け渡しも「普通の生き方」の人よりずっと困難だったりするのがまた切ないことです。私はスピリチュアルな生き方をしているはずなのにどうしてそれを手放さなくてはいけないの?手放したら元の自分に、世間の人たちと同じような自分になってしまうんじゃないの?ああ、これこそがエゴの抵抗でなくて何でしょう?

 
第126回「自由であることW」

(承前)自由とは、外的条件による制約も含めて何かを自分が「抑圧だ」と認識するかどうかにかかっているわけです。そして、人というのは往々にして自分の内部の問題を外的な要因のせいにすり替えてしまいます。いま私がこんなに不自由を感じるのはこの環境のせいだ、この人のせいだ、この身体のせいだ、などなど自分の内部以外のところに原因を見てしまい、従って「自由」になるためにはそれら外部にある原因を除去しなくてはならないと考えるに至るのです。

そしてめでたくもそれらの「外部要因」が除去され貴方の望んだところの「自由」が獲得される、ということももちろん大いにありえます。そうなればとりあえず貴方は以前に比べて幸せを感じることもできるでしょう。

ところで、「自由」とは「幸福」と全く同じような構造を持っています。つまり、例によって例の如くですが、それらは実は専ら当人の内面の問題でしかないということであり外的条件にかかわらず得ることができる、逆に言えば外的条件によっては獲得されえないものなのです。いくら外的条件を素晴らしいものにしたとしても相変わらずあなたの内部に抑圧があるのならあなたはやっぱり不自由を感じ続けるだろうし、外的条件によるあれこれの制限があったとしてもあなたの内部に抑圧がなければ「不便」を感じることはあっても「不自由さ」が不幸感と同義の意味で感じられることはないはずです。

即ち、自由と幸福とはコインの両面のようなものなのですね。自由だけど不幸だわとか不自由だけど幸せだわ、という場合もありそうに思えますが、前者は「環境は自由だが精神は不自由だ」であり後者は「環境に制限されているがそれに囚われていない」ということになります。

自由と幸福とはともに「内面に抑圧のない状態」であり尚且つ「恐怖のない状態」であろうことは異論を俟たないと思います。以前にもかいたとおり、恐怖というのはやはりエゴの産物で常に「過去」及び「過去の経験に基づいた未来への思い」と結びついた形でのみ存在します。

さて、自分の内面において不自由であることこそ真の意味での不自由なのですが、これは「良いことを考えたいのに悪いことばかり考えてしまう」とか何かの出来事に対してついつい怒りや傷つきを伴うような反応を示してしまう、などの例を考えればよくおわかりになるのではないでしょうか?ちょっとしたことなのに反射的に怒りが湧いたり「きっと嫌われたんだ」と感じたりする癖のある人も少なくないと思います。こういう「クセ」に振り回されてしまうことこそがまさに「不自由」な状態なのです。

自分に起きることに対して貴方はどのような反応・判断をしても良いのだしどのような感情を抱いても良いのです。この部分は完全にあなたの自由です。なのに、たいていの人がこの「自由」を行使して自分を苦しめるようなことをしてしまっているわけです。喜んでも良いところで苦痛を感じたり、「ふーん」で済むところで怒りや侮辱を感じたり、本人はそうしたいと望んだつもりもないのにそうなってしまうというのはいかにも「不自由」なことに違いありません。ここで怒って何が悪い!そんなの俺の自由だろう!という人もいるでしょうが、それで貴方は気分が良いですか?「怒ってはいけない」と言われて怒りを抑圧されれば気分は最悪でしょうが、そもそもそういう「怒り」を選ばないこともできた、その自由もあったのです。更に、もしも怒りが湧き起こってしまっても今度はその感情に囚われるか・すぐに手放すかという「自由選択」があります。ここにおいても「忘れたいのにどうしても収まらない」となればこれはやっぱり不自由ですよね。もうおわかりでしょう。これらは別段「外的な何か」によって命令指示されたことではありません。全て貴方の内部で起きていることですね。内部の何かが貴方の背中を押している・・・この「何か」が抑圧或いは抑圧的な信念だろうということは容易に察しがつくはずです。

全ての抑圧は、或いは貴方の意識に刻印されている全ての信念は「過去」と結びついたものです。より正確に言うならばそれらは全て「記憶」によるものであり、もっと正確に言うならば「エゴが編集した記憶」によるものなのです。ここで「過去」というのは今回の人生だけではなく過去生も或いは集合無意識も全て含むものですが、要するに何かの出来事を貴方が過去においてどのように捉えたか、どのような経験として認識したか、それに従っていろいろな信念が形成され刻印されてしまうのですね。

エゴがなければ「時間」というものも存在しません。エゴなしの状態は常に「今ここ」しかないのです。ところで、自由とは「エゴが(限りなく)消失した状態」なのでした。ということは!自由とは常に「今ここ」にしかないものであり、自由な人というのは常に「今ここに」においてのみ生きている人だ、ということがわかります。将来の自由、将来の幸せなどというものは「ない」。自由も幸せも「今ここ」に「ある」か「ない」か、なのです。となれば、貴方が一瞬でも「今ここ」の状態になればその瞬間貴方は全ての過去の記憶から、恐怖からも抑圧からも解放されていることになります。

次回はもう少し実践に即した形を考えてみましょう(この項続く)

 
第125回「自由であることV」

(承前)本当の自由とは自分の心に抑圧がない状態のことである、抑圧がない状態即ち既に抑圧から解放された状態から出た行為なら全て「自由な行動」であるが、抑圧を保全したままでそこから解放されたい・逃げたいという欲求から出た行動は反動的なものに過ぎず「抑圧から生じた抑圧的な行動」であり、ただ単に「不自由が表に出ただけ」なのである。そんなことを前回述べました。

会議中にお腹が空いたからといって勝手にパンを食べ始めるとか眠くなったからといってその場に突っ伏して寝てしまう人がいたとしましょう。当然周囲からは「何やってんだ!」と非難を浴びることになります。そこで「俺は腹が減ってんだあ、食べて何が悪い!誰にも迷惑かけてないだろ」とか「会議中に眠るなという規則でもあるのか?」とか、万一本当にそういう規則があった場合「そんな規則は人権侵害だ!訴えてやる」などという態度に出たとしたらまあその人は相当抑圧が強い人なんだなということがわかってしまいます。自分だって考えればわかるはずの当然の注意を受けただけなのに、もともと「抑圧されている」という信念が自分の中にあるためにそれが鏡現象として、或いは投影・外在化されてあたかも周囲が自分に抑圧を与えている!という強い感情が喚起されてしまうのです。

また、結局空腹や睡魔を我慢して乗り切ったとしても心の中で「こんなくだらない会議なんかしやがって、俺は腹が減ってたんだぞ。人のこと何だと思ってんだ!」などと怒りに燃えてしまうのだったら多分その怒りはどこかで反動的行為になって現れるでしょうから(誰かにやつあたりするとか、どこかでヤケ食いするとか)結局、本質的には実際に行為に表した人と同じだけ自分に対して抑圧的だったということになるのです。

ところで、「仕事をさぼって”自由に“過ごしていたら会社をクビになった」「”自由に“暴飲暴食していたら病気になった」「”自由に“我が儘放題に振舞っていたら友達をなくした」「陳列棚からレジを通さずに”自由に“商品を持ち帰ったら警察に捕まった」などなど、そういう例を考えてみるとまず思い浮かぶのはいわゆる「自由には責任が伴う」という言葉です。これは一般的には、何をするのも貴方の自由だがそれによって生じたことについては文句を言わずに責任を負え、という意味なのでしょう。が、ちょっと深く考えてみるとそれどころではない意味が含まれていることもわかります。

即ち、繰り返し述べているように貴方はその都度自分の経験を自分で選んでいる、どのように捉えどんな反応をし、どんな感情を抱くかなどということをその都度自分が選んでいるのですから、この「選ぶ」という部分において自由であり尚且つ「自分がどうありたいか」を決める責任があるのです。自由だからこそ責任が生じてしまうわけですね。

ところが、多くの人はこういうことについて自分が自由であるなどとは全然感じられていないものです。こんな風になりたくないのに、こんな風に思いたくないのにどうしてもそうなってしまう!というような、自分の感情や行動が自分の思い通りにならないという厄介な「不自由さ」を感じてしまうのです。これは、何なのか?

もちろん、「内部に抑圧があるから」「トラウマに引きずられているから」「過去生の経験が影響して」云々、などという理由も挙げられるでしょう。が、根本的に考えてみれば要するにこれも全て「エゴのしわざ」なのです。乱暴な言い方ですが、「自由に振舞った(つもりの)結果が自分にとってより不幸なものになる」ような場合、つまり上に挙げたいくつかの例のような場合における「自由」とは単に「エゴの大暴れ」でしかないのです。そもそもエゴの本質的な働きが「分離し制限を与える」ことなので、エゴと自由とは絶対に両立できません。言い換えれば「自由」というのは限りなくエゴのない状態のことを指すのです。ここを勘違いするともう本当に怖ろしいことになってしまいます。自分を解放するのは素晴らしいことですが、これは「エゴをなくすことにより真我である本来の貴方が自由に発揮される状態」であるはずであって間違っても「エゴの解放」ではないのです。自分を解放するつもりで「エゴたる自分」を解放してしまったら、もう何でもありというか完全な無法地帯が出現するしかありません。

限りなくエゴのない状態であれば「分離・制限・抑圧」が非常に少ないわけですから、それらに対する抵抗も殆どなくなります。この時点で貴方は既に「自由」なので、それ以上わざわざあれやこれやの「自由」を求めてジタバタしたり苦しんだりする必要もなくなるのです。だいたいにおいて「私は自由を求めているんだ」と声高に言う人ほど不自由なのであって、不自由だからこそそんな主張をしなくてはならない羽目に陥っているのです。

究極のところ、もしもある共同体の構成員全てがエゴのない状態であればそこには大した規則も規制も必要なくなるわけです。それぞれが自由にしていても無法地帯にはならない、自律的な秩序が保たれているからです。

エゴ=分離・制限・抑圧であるのに対して真我である本質の部分は「全てはひとつで」あり、本質においては自他の区別もないのでしたね。であれば、自分にとって良いこと・悪いことが他者にとっての良いこと・悪いことと一致するしかありません。いま、エコロジーが盛んに言われているのは貴方=人間にとって良くないことをすれば環境=地球にも良くないことになりその結果貴方=人間も困った状態に陥る、とみなが気づいたからでしょう。このような考え方が浸透すればおのずから秩序が生れます。(この項続く)

 
第124回「自由であることU」

(承前)前回、自由とは「したいことを自分の好きなときに好きなようにできること」だと一般に思われていると述べました。確かにそれはそうです。でも、ちょっと考えてみましょう。この「したいこと」って一体どうやって決まるのでしょうか?

もちろん、人間誰しもお腹が空けば食べたいし眠くなれば仕事中でも眠りたい、とか電車の中で急にトイレに行きたくなって困ったなどという事態に無縁ではありませんね。したいのにできないとき、たいていの人はそれを「我慢する」ことになります。即ちこれが「不自由である」というわけですが、じゃあ会議の途中でいきなりパンを食べだしたり人目もはばからず眠ったり、まあさすがに公衆の面前で用を足す人はいないでしょうが、そのようなことをすればそれは「自由に振舞った」ということになるのか?

「自由な会社・社会」であれば会議の途中で食べようが眠ろうが、それが周囲の人々の邪魔にならなければ許されるのかもしれませんが、一応スピリチュアルを謳っているこのコラムとしてはここでも専ら内的な面から考察を進めてみたいと思います。

自由とは、「不自由でない」ことだ。即ち「抑圧がない」ということです。そしてこの「抑圧」というのはその時々の社会や環境(家庭を初めとする個人的な人間関係)によって与えられることも非常に多いですね。例を挙げるまでもないでしょう。思想や言論の統制がある社会も存在した・しているし、法的に定められていなくてもその「社会の一般常識」として「こういうことはすべきじゃない」とされていることも沢山あるし、更に各家庭の中においても「こうしなくちゃならないのだ、それが普通だ」という決まりごとみたいなものがあったりします。あからさまなものではなくても何となく周囲の空気から「こうしなくちゃいけないんだ、こうしてはいけないんだ」という考え=信念を受けてしまうことも非常に多くあります。

ものすごく乱暴な言い方ですが、国家や社会など外側からの抑圧ならばそれは「形だけ」のことで済む、「こういう考え方はいけない」とされていても自分の心の中で勝手に考えている分には何も問題ないですね。わざわざそれを表明すれば捕まって拷問にあったり殺されたりしてそれこそ究極的に「肉体の不自由」状態におかれてしまいます。どんな抑圧的な社会であっても、逆にそうであればこそ人々はその都度それなりに工夫して「抜け道」を見つけてきたのです。贅沢が敵なのだったら、一見わからないところでこっそりおしゃれをするとかいうのもその一つですね。もちろん、こういう外的な抑圧はないに越したことはありません。が、同じ状況におかれてもそれが自分にとってどの程度の抑圧になるのか、それを決めるのは実は貴方自身しかいないのです。

よく自由と放埓とは違うなどと言いますが、抑圧されている!と感じればそこから解放されたいという強い気持ちが起こり反動的な行為に及んでしまうものです。お金遣いが、或いは異性関係が異常に激しいとか、自分から短期間で転職を繰り返すとか、目上の人にも平気で乱暴な口をきき喧嘩をふっかけるとか一見「自由奔放な人ねえ」と受け取られかねないことであっても実は本人の内なる抑圧が異常に強いことの表れだったりするのです。そしてこのような「自由奔放」な振る舞いをしたところで根本の原因である抑圧が消えるわけではありません。行為ではなく「あり方」「信念」こそが本質的な問題なのでそこを放置して何をしたところで変わるわけがないのです。実際には「解放されて」いるのではなくただ「その場しのぎ的に自分の問題から逃げて」いるに過ぎません。それどころか、むしろ自由奔放に見える反動的行為そのものがますます本人の抑圧を強めてしまう場合が多く、けっきょくいつまでも同じ事を繰り返す羽目になります。

本当に真の意味で「自由」な人ならそこには抑圧がないのですから、抑圧から解放されようという反動としての激しい振る舞いなど起こりようがありません。そういう人は、普段は案外おとなしく見えたりします。本人は別に「従順」にしているつもりはなく、かといって反抗的になる理由もないだけの話です。本当の意味で自由な状態であればそこにはおのずからある秩序が生れる、そういうことになっているのです。

したいのにできない、と感じるとき私たちはそれを環境や周囲の人々のせいにしがちですが、実は本人がそれを自分の中で「抑圧」にして「我慢」してしまっているから辛いと感じたり怒りを覚えたりするのです。

いわゆる「修行を積んだ人々」というのは、自分が身体ではないと熟知しているために生理的な現象さえも「我慢する」のではなく「自分から離す」ことによってコントロールできているようです。冒頭に挙げた「会議中にお腹が空いて」「眠くて」「トイレに行きたい」などというのもそれが「抑圧=我慢」になってしまえばこの上なく不自由で苦しいのですが、それらは結局肉体の問題であり自分は肉体ではないとわかっている人にとってはどうにでもなることなのです。

さて、この「抑圧」です。あの人は抑圧されてるからねえ、などというけれど本当の意味で貴方を抑圧できるのは貴方自身しかいません。(この項続く)

 
第123回「自由であること」

自由、というものをごく簡単に定義してみると例えば「したいことをしたいときに自分の好きなようにできること」みたいになりますね。そしてこれは「身体にかかわるもの」である場合が殆どです。これまで人類の歴史の中でさまざまな「不自由」を強いられ抑圧された多くの人々がいますが、それは殆ど「行動に制限が設けられている」「逆らうと殺されたりする=生命が自分の自由にならない」という状態だったと思います。現代の日本ではそういう事態はあまり考えられませんが、今度は文字通り「身体の不自由」というものが存在します。歩けない・喋れない・見えないなどといった状態は老齢になれば誰にでも生じうることです。

これらの「不自由」からの解放は、その都度何らかの「社会改革」みたいなものがなされ、勝ち取ったという言い方もできるとはいえ「自由を認められ与えられ」たり、或いは医療技術の進歩などによって今までできなかったことができるようになったり、というかたちで可能になります。貴方一人で今ここで、という類のものではありません。

言い方を換えれば・・・というか敢えて乱暴に言ってしまえばこれらは全て、いくら「人間の尊厳」にかかわるものであったとしても、「身体」といういわば「外側のもの」「目に見える現象」における自由・不自由なのです。たとえ思想統制であっても、ある人が自分の心の中で勝手に考えている分には何の手出しもされないでしょう。

何がどうあろうと、あなたの心の中・あなたが何をどう捉え考えるかということを統制できるものはないのです。どんな状況・環境におかれていようとも、それがどれほど「不自由」に見えようとも貴方の意識・貴方の心だけはどこまで行っても貴方のものです。つまり、誰でも必ず常に「心の中の自由」或いは「思考・感情の自由」を持っているわけですね。これまで書いてきたこととも重複しますが、何かについてどう思うか・どう判断するか・どう反応するかというのはいつでもその人が自分自身でその都度選んでいるのでした。もちろん、各自に固有の「思考の癖」「パターン」みたいなものがあって殆ど反射的にそれに従ってしまっていることも少なくありません。これらは、幼少時の環境(宗教や教育も含めて)やら過去生も含めた過去の経験などによって培われてしまったものですが、同時に貴方がそう望むなら今すぐにでもそれらを手放し新しい「見方・考え方」を自分に植えつけることもできる、即ち「変更する自由」というのが常にあるのです。これなら「貴方一人で今ここで」の解放が可能です。

このコラムでは専ら「現象でなく本質を」扱うことにしていますので、「自由」についてもやはり同様に見ていきましょう。

環境や状況がそれほど苦しくなくても人は何故か自分自身を不自由にしてしまいがちです。本質的な自由というのは、自分自身に制限を与えるような考えを抱かないでいる状態なのではないかと思います。心配事が耐えなかったりいつも何かにおびえていたりする人はそれだけでもう十分「不自由」な状態におかれているというか自ら不自由を作り出しているわけですが、そもそもそれらの「ネガティブな思い」というのは先に述べたように「今までの経験」とそれに伴う「判断や評価」によって自分を縛っていることから生じるものです。たとえば、過去に傷つけられた(と感じる)経験があるために他人に対してオープンになれない、失敗経験があるためにまた同じ事になるのが怖くて踏み出せない、などというのは全て「恐れに囚われて」いるわけです。この「囚われて」というのが文字通り「不自由な状態」を表しているのですが、ここでもわかるようにたいていの人々が過去のあれこれに囚われています。もしも、スピリチュアルな考え方のとおりに「常に今ここしかない」という生き方ができていれば不自由などあり得ないのです。まあなかなかそこまでに至るのは難しいのですが、原則を知っておくのは大事なことですよね。

とにかく、本質的な意味での「自由」というのはどこかから与えられるものではなく常に貴方の中にしかないものであり、行動や環境に先んじて「自分自身の内側」を自分がどうにでもできるのだ、というものなのです。自分としてはこういうふうに考えたいのにどうしても逆のことを思ってしまうの、という経験がある方も少なくないでしょう。これこそが究極の不自由なのではないかと思います。「もっと自信を持ちなさい」と誰かに強く言われても「はい、そうします」というふうにしてさっさと「自信ある状態」になることはできないし、「幸せになると信じなさい」「自分自身のすばらしさを理解しなさい」などと言われてもやっぱり「はい、そうします」にはなれなかったりする。変な言い方ですが、これは「自分が不自由な状態でいることを選ぶ自由」を行使しているような現象です。これらを与えてもらうことはできませんし、命令されても押し付けられてもどうにもなりません。

「私は自由だ」或いは単に「自由」という言葉を唱えてみてください。仕事に縛られ家庭に縛られちっとも自由なんかじゃないわ、と思うかもしれませんが、そういう「外側」の部分ではなくて「私は過去にも何ものにも囚われず、どんな考えかた・感じ方も選ぶことができるのだ」という意味をこめて言いましょう。これは、前回のコラムで述べた「原因」の部分、良い原因を作る効果があります。

 
第122回「原因と結果 オマケのオマケ実践編」

貴方にとっての世界、つまり環境や経済状況や人間関係や仕事や健康などはすべて貴方の「外側」にある現象なので、もしもこれらを変えたいのなら「原因」である「内側」つまり意識・信念を変えなくてはならない、のでした。そして「自分ではこのように強く望んでいるつもりなのにいつもそういう風にはなってくれない。これは運命なのかしら」と思ってしまうとしたら、実は貴方の「願望」を相殺或いは逆転してしまうような別の願望=信念があるのかもしれない、とも述べました。幸福や喜びや愛に派生するようなプラスの願望を相殺してしまうネガティブな願望・信念というのは殆ど(おそらく)その全てが「恐怖・分離」に根ざしているのです。幸せを望みながら「見捨てられたらどうしよう」という恐れを抱いたり、愛を求めながら別のところで敵意を抱いたりしていればうまく行かないのは当然です。分離というのは少々わかりにくいかもしれませんが、要するに「一なる源泉」から背を向けるような姿勢のことです。例えば自分の殻にこもるとか周囲に対して批判的になる、或いは自分を卑下したり非難したり罪悪感に陥ったりするのも、本質的に自他の区別はないことを考えればやっぱり「分離」です。「分離」があるからこそ自分と敵対しうる他者というのが存在するのであって、恐怖もここから生れます。抗い難い運命・何が起きるかわからない不安定な人生・危険な世の中などといったものも全てこの「敵対しうる他者」に含まれます。そして多くの人々がこれらの存在を「確かにあるものだ」と信じて生きているので、この信念に相応する経験が生じてしまうというわけです。

ならば、ネガティブな信念を相殺し逆転させるにはプラスの信念のほうが勝っている状態を作ればよいのですね。

よくヒーリングワークなどで一瞬にしてものすごく満たされた状態になりスッキリした気分になった、という体験を耳にしますが、これがいわゆる「あるがまま」の状態、判断も何もなくそれゆえに恐怖も分離もない、という「本来の状態」です。こういう意識にあるときはネガティブな考えが一切入り込まないのです。これをなるべく貴方にとっての「普通の状態」にできるようにしていけばよいわけです。このような状態は何も特別なワークを受けなくても自分ひとりで作り出すことができるし、ワークを受けたとしてもその後は自分ひとりでもできるようにならないと意味がありません。また、「そんな状態には一度もなったことがない」と言う方もいるかもしれませんが、本人が忘れているだけで必ず何度か体験しているはずなのです。それでも、どうしてもわからないというのなら何か自分に合ったワークを探して体験してみることをお勧めします。なるほど、こういう状態なのかと体感できれば日々自分ひとりで行なうワークの際に「できているかどうか」の目安がわかります。ちなみにこの「本来あるがまま」の状態というのは幽体離脱だとかその類の神秘体験とは異なります。ものすごくハッピー!だとも限りません。どちらかといえばもちろんハッピーだが、むしろ幸も不幸もなく何もなく、とてもニュートラルで時間も空間もなくなった感じです。本当に「ただ、在る」というふうなものです。誇大妄想でなく、ごく普通のこととして「私は宇宙である」のが「わかる」状態です。そして、こういう状態のときに抱いた願望などはその後ネガティブな願望に妨害されなければ必ず実現しますし、たとえ妨害されたとしても忘れた頃に実現することが極めて多いのです。

さて、このような状態を自分で作り出すにはどうしたらよいか?特別な瞑想などをしなくても大丈夫、とにかく「よい波動の言葉」をひたすらゆっくり心をこめて唱えましょう。文章でなく「愛」「平和」「喜び」「安心」「信頼」などの単語でよいのです。もちろん大声でなくて構いません。口の中で声を出さずに唱えてもよいので電車の中でも人前でもできます。日本語でなくてもどんな言語であってももちろんOKです。コツは「力まない」ことです。何とかしたいという気持ちが高じて腹の底から搾り出したり、しかめ面をしてウンウン唸ったりするのはあまり効果が出ないみたいです。

言葉自体に力がある、という考えに賛同できなくても大丈夫です。言葉はあくまでもシンボルに過ぎないのであり、シンボルであるからにはそれらが表しているところの「本質的概念」というものがあるのであって、そういった「概念」「イメージ」を自分自身に引き込み浸透させるツールとして言葉を使っているのです。美しい、といいながら醜いものを思い浮かべる人はいないでしょう。人によっては「良い波動の音楽」を聴いても同じ効果が得られると思います。それも構いません。ただ、「いつでもどこでも繰り返し何度でもできる」という点では音楽よりも言葉を唱えるほうが便利です。しかし、一方で言葉は単なるシンボルでありツールに過ぎないので「ただ機械的に唱える」のではダメです。だから「ゆっくり心をこめて」が重要になります。そうしているうちに「本来あるがままの状態」である満ち足りた静寂を得られるはずなので、何か願望のある方はここで!

もしも日常生活の中で何か嫌な気分に陥ることがあれば「やっぱり効かなかった」と思うのではなくその場で即これらの言葉を唱え、スッキリするまで続けるのです。

また、こんなことやったってダメだ、私には効かないという「ネガティブ分離信念」を排除するためには「あるがままの状態」のときに「私にはできる」「絶対にできる」という新たな信念を植えつけるのが良さそうです。

これは「習慣づけ」です。習慣を変えるのはなかなか難しく感じるかもしれませんが、それこそ「絶対できる」と信じてやるしかありません。ここだけはどうしても日々諦めずに努力するしかないのです。但し、努力する価値は想像に余りあります。

 
第121回「原因と結果 オマケ編」

これまでに述べてきたことと重複する部分もありますが、ポイントを少々おさらいしておきましょう。

貴方の外側にあるもの、つまり貴方の心の中以外の全てのもの、出来事・環境などは一切原因ではなくて「結果」なのでした。こういう状況だからこう考えてしまう、こういうことがあったからこんな自己評価になってしまう、というのが一般的な見方なのですが端的に言ってこの見方は間違っているのです。これだと、状況や経験が「原因」であり、それによって引き起こされた心の状態が「結果」になってしまっているからです。ある出来事がトラウマになって、というのも「原因」と見なされがちですが、これも正確に言えばその出来事を貴方の心・意識がどのように判断・評価したのかが問題なのであって出来事自体には意味がないのです。

そうはいっても今げんにこうなってるじゃないか、現実はこうじゃないか、というその「現実」とは何ですか?それがもしも「外側のもの」であるならば、それらは「結果」に過ぎずそれを生じさせた本当の「現実」は貴方の内側にしかないのです。

今生の貴方の経験やそれを生じさせる意識の刻印の「原因」が過去生にある、という考え方も同様です。過去生での出来事や経験はやっぱり全て「結果」なのですから、それら自体に意味があるのではなく過去生での貴方が「どんな信念を抱いていたか」「自分や世界をどう見ていたか」というそちらの部分が「原因」になるのです。

また、過去生でこういうことがあったから今生でこうなっているというのを「因果応報」だと考える人もいるようですが、これも「現象」だけしか見ていないという点において間違っています。全ては意識の問題であり、意識は形がないのだから時間や空間の制限を受けず常に「今ここ」しかないのだ、ということを思い出してください。過去の時点において「こうだ」と思ってしまった考え方や信念が間違っていたのにそれを現在の自分に対しても無自覚にあてはめてしまっているとき貴方は「過去を引きずり、過去からの影響を受けている」のです。とにかく、今生での過去であれ過去生であれ、そこで得てしまった感情というのは要するに「記憶」でしかないのです。過去に引きずられているというのはとりもなおさず「自分の主観的な記憶を真実だと取り違えて自分に適用している」わけですね。

簡単な例を挙げてみましょう。貴方が何かとっても辛い思いをした経験或いはその記憶をひきずっていて(今風に言えば「虎馬」!になっていて)それが原因で今もうまくいっていないことがある、とします。客観的にみればその「辛い経験」は単に貴方がやり方や考え方を間違えたために失敗しただけなのですが、貴方は何故か「私がダメな人間だからだ」「運が悪いから、前世が悪いからこうなったのだ」「世の中は・他人は恐ろしいものだ」と解釈してしまいました。それが信念になれば当然現在の貴方に影響を及ぼすわけです。が、冷静に考えて「あれは私がこういう間違いをしていたから、間違った考え方・やり方をしていたから起きたことだ」と理解できれば今後はそれを改めればよいだけのことであって、自己評価や世界観という「信念」の部分には一切影響がないはずなのです。ここでいう「間違い」というのは別に「悪いこと・罪深いこと」という意味ではありません。お料理で火加減を間違えたとか下味をつけるのを忘れた、とか或いは人参を買おうとして魚屋さんに入ってしまい当然見つからなかった、大阪に行こうとしたのに東北新幹線に乗ってしまった、いうのと同じくらいの意味のことです。

ともかく、これらは単なる「間違い」なのでありただ反省して繰り返さないようにすれば済むだけのことなのですが、人間関係やら人生の大事やらに関わることになると多くの人が現象だけに囚われてしまい、何か抗い難い運命や宿命という「原因」があるのではないか、と考えがちなのです。そうすると、次もまた同じようなことをしてしまいます。今度こそ大阪に行こうとしてまたしても東北新幹線どころか鈍行に乗ってしまう、人参を買おうとして魚屋さんにそれもコワーいおじさんがやっているお店に入ってしまったというようなことも少なくありません。こういうものは全て、初めに「あれは単なるミスでした」という事実を認識しそこなったことが「原因」になっているわけですね。

ところで、自分に起きたことの原因を「自分の認識ミス」とするよりも「抗い難い運命だ」とするほうが楽だったりする人も少なからずいるのです。これもまた信念!つまり「抗い難い運命」というものが存在し自分がそれに翻弄されうる、という信念に基づいているわけです。

認識ミス、と簡単に申しますが「自分とはこうだ、世界とはこうだ」という現在の貴方の認識が自分自身にとってネガティブなものであればそれも当然「認識ミス」として処理できるし、そうすべきでもあります。意識改革というと何か大仰な感じがしてやる前からハアー・・とため息が出てしまうかもしれませんが、単なる「認識ミス」を訂正すればよいと考えれば少しやりやすくなるかもしれません。是非試して御覧になってください。

 
第120回「原因と結果X」

(承前)前回では本質的な因果関係の法則をどのように生かせばよいか、について述べました。その続きです。

さて、引寄せの法則でもマーフィでも何でもそうですが、この「因果関係」というのは要するに「自分の意識の中にあることが外界に投影されて経験となる」のでしたね。従って単純に申せば「よいことを考えればよいことが起きる」のでした。たとえば「私は素晴らしい」とか「私は恵まれている」などという考えを日々自分自身に言い聞かせて意識に浸透させればそれらが反映されているような出来事が起きてくれる、というわけです。しかし、自分自身についていくら良い「考え」「イメージ」を反芻し浸透させようとしたところで、もしも貴方がその一方で他人に対して批判的だったり「あの人はきっとダメよ」とか「あんなことをしていたら地獄に落ちるわ」などと考えていたらどうなるでしょうか?潜在意識には自他の区別もない、というのを思い出してください。たとえ誰のことであっても貴方がネガティブな批判的な考えを抱いてしまえばそれは既に一種の「願望」になるのです。どんなに自分の幸福や喜びを信じたとしても、他でネガティブな考えを持ってしまえばこれらは拮抗し矛盾した願望となります。その結果、貴方が自分自身について抱いた前向きな願望は攪乱され、そのままきれいに実現・・つまり投影され外在化されて経験となる・・・することができなくなるのです。

競争ごとなどで、「相手の負け」を願ってしまったり、まれにあることですが恋愛などで貴方の好きな相手が貴方以外の異性と親しくしていることで嫉妬したり苦しんだりして「あの二人がどうか別れますように」などと願ってしまったりすれば、もしかすると「負け」たり「別れ」たりする羽目になるのは貴方自身になってしまうかもしれないのです。これは怖いです。が、この部分を知っておかないとそうと気づかずに自分の不幸を願ってしまう危険があるのです。

即ちこういうことです。本質的な因果関係の法則を正しく生かしたいと思うなら、何であれ誰に対してであれとにかく「一切の」ネガティブな思いや批判的な考えを排除しなくてはならないのです。これは結構難しいでしょうね。前回でも触れましたが、いろいろな「願望実現」「幸運体質への改善」をしても今ひとつ効果が上がらない人が多い理由もここにあると思います。自分の幸せを願うだけなら簡単、自分の思い込みをネガティブなものから前向きなものに訂正するのもそんなに難しくない。でも、他人や社会・世間などに対しても「怒り・批判・心配」などを抱かずにいるのは通常かなり難しいことではあります。そういう気持ちが沸き起こるたびに「愛」「喜び」などに切替えていく努力をするしかありません。ここだけはどうしても頑張るしかないのです。ただ、やってみればわかることですが、誰だって批判や怒りや恨みを持つよりも愛や喜びの気持ちを抱いているときのほうが自分自身も楽だしハッピーなはずなのです。以前「与えること」についてのコラムで書いたことですが、与えること=受け取ることであり、尚且つ「自分にないものは与えられない」逆に言えば「与えられるなら貴方は既にそれを持っている」のです。ということは、貴方がつい批判や怒りを向けてしまう相手に対して「愛」「平和」「喜び」などを放射してあげるならば、貴方自身がそれらの「よきもの」に包まれることになる、貴方が自分自身に対してもそれらを「与えた」ことになるのです。このあたりのことも実は従来からある様々な「願望実現」「意識改革」の本に書いてはあるのですが、どうもあまり理解されておらずそれゆえ軽視されているような感じがします。

ともかく、このように常に自分が「ハッピー」で「平和」な意識状態でいられれば、それが即「貴方の経験を作る原因」になるのです。

その他「どんな問題でも何とかなるものだ」とか「やればできる」などというのも立派な信念です。「やればできる」と本当に信じていないと何事も簡単に挫折してしまいます。上述したような「意識改革」の方法を試してみるに当たっても「やればできる」と信じていなければ効果が出る前に止めてしまい、挙句に「あんなの効かなかった」と言ったりするわけです。

ついでに言えば、努力も信念のうちです。絶対にできるようになると信じて努力し続ける、というのは、「できるようになる」と心底から信じていればこそ続けられるのであって、これはそう簡単なことではありませんね。ちょっと苦しくなったときや飽きてきたようなときに「こんなことやって何になる」「無駄じゃないか」「これよりあれをしたほうがいいかも」という心の囁きが聞こえて「もう、いいや」になってしまった、という経験をお持ちの方も少なくないでしょう。

客観的にみれば何の保証もないのに「うまくいく」と何の疑いもなく信じきれるとき、というのは本当にうまく行ってしまうことが殆どです。本人に実力がなくてもうまく行くのか?というご質問の答えが先ほどの「信念」なのです。うまくいく、と信じられていても実際には力がないのであれば当然いろいろな壁にはぶち当たるでしょう。そのときに「絶対できるようになる」という確固たる信念があればそれらの「挫折」も単なる努力の一過程にしか過ぎず、大した苦しみもなくどんどんクリアして行かれるでしょう。しつこいようですが、努力と苦労とは違うのです。苦労、というのは主観的なものであり当人の意識がそう捉えているにすぎません。

全ての原因は意識にあり!ここだけはしっかり憶えておいてください。

   
第119回「原因と結果W」

(承前)貴方が経験する全てのことの原因は貴方の中にあり、貴方の中にしかないのです。一見貴方の「考え」とは全く関係ないような出来事だったり、それどころか「もっとも望んでいない」ような経験であったりするものだったとしても、それらを引寄せるところの信念が貴方の中にはあったわけです。これが単純に「誰かを苛めたから自分も苛められる」ようなことではない、とも述べました。もちろん、これらの「経験」とは概して主観的なものです。ある出来事がAさんにとっては「とんでもない悲惨な経験、悲劇」と捉えられる一方でBさんにとっては「まあ人生いろいろ、こういうこともあるさ」というか「ちょっと転んだ」くらいのことであり、Cさんにとっては「大チャンスだ」となったりもします。すなわち、自分に生じた経験を「悲惨、悲劇。どうして私がこんな目に?」としか捉えられない人にとっては「人生はままならない、どこに危険が潜んでいるかわからない」「私は運が悪い」のですから、必然的にそういう経験の連続になってしまいます。しかし、逆に言えば「誰から見ても惨事」であるようなことに見舞われたとしても自分の考え一つでそれを「チャンス」にすることもできるわけで、そのような考え方や捉え方に通暁してしまえばトラブルに遭遇することもあまりなくなってくるのです。こういう人々は、自分に起きることの原因が全て自分の中にあると理解しているので、何が起きてもその原因を内側に探すことができ、更にそれを取り除くこともできるのですからその都度バージョンアップしていかれるのですね。まあ、前回もちょっと触れましたが「ピンチがないとチャンスにならない」という信念を持ってしまえばこれまた当然の帰結としてその人生は「ピンチの連続」になるのですが・・・・。

こういった本質的な因果関係の法則を理解できれば今度はこれを良い方向に使うこともできます。何も目新しいことではありません。マーフィ、引寄せの法則、ザ・シークレットなどなど名称の違いはあっても「幸運体質を作る方法」というのはどれも基本的に同じ事を言っています。「思ったことが実現する」「願ったことが叶う」というようなものですね。この手の方法論が次々に衣装を替えて登場して話題になるたびにそれらを試してみる人々も沢山いたはずです。が、結局大して変わらなかった、効果がなかった、やっぱり駄目だったということになってしまうケースが大多数だと思います。でなければこういう方法論が常に新たな装いで出てくる必要性がないはずだからです。あの方法では駄目だったけどこれなら行けるかも!と考える人が多いからでしょう。

何故効果が出ないのか?私が見るに、それは各々の方法論に欠陥があるせいではないようです。要するにみんな「ちゃんとやっていない」からなのです。いや、私は本に書いてあるとおりに毎日こういう言葉を唱えて念じたわ、という反論もあるでしょう。しかし、どんな言葉を使うかは二義的なことであって少なくとも最重要ポイントではありません。愛と喜びに満たされ、自由であり守られているという絶対的な安心感に包まれる・・・という感覚が自分に本当に根付くところまでやらないと駄目なのです。毎日こういうことをしなさい、という指示に従ったとしてもその一方でやっぱりあれこれ不安になったりネガティブな感情に襲われていたとしたら、その方法の効果は出ていない・・・言い換えれば「ちゃんとできていない」ことになります。ポイントはここです!何か具体的な願い事をしたとしても、こういった感覚が貴方の「常態」になっていないのならやっぱりうまく行かないでしょう。これは以前のコラムでも述べた「達成された喜びと安堵感」を先取りしましょう、というのと同じことです。

これができるまで幸せはない、あれが達成されるまで喜びはない、と考えてしまえば「これ」ができておらず「あれ」が達成されていない今の貴方は幸せでもなく喜びもない、ということになります。つまり「貴方は幸せではなく喜びもない」のです。これが貴方による「今の貴方という信念」なのです。今の自分についての信念を変えない限り「未来の良い自分」というものもありえません。

でも実際に今はあれもこれもできていないというのが事実なのだ、と言うのならせめて「あれやこれができていない」ことと「幸せ・喜び」には直接の関係がないとだけでも理解するようにしましょう。以前「理由なし・条件なしの幸せ」ということについて書きましたが、幸せや喜びのためには「あれやこれが必要だ」と信じてしまうのは自分で自分を束縛していることに他なりません。たとえ世の中一般がそういう「常識」を持っているように見えても貴方自身に関してどうか、を決めるのは貴方自身しかいないのです。

願い事は忘れた頃に叶う、とも言われますがこれにも真実が含まれています。ある願望が貴方の中に根付き、なおかつそれに対する執着が消えた・・・つまり「いつ叶うんだろう、どうしたら実現するんだろう」とひっきりなしに気にしていた状態がなくなった・・・とき、そして更におそらくリラックスして過ごしているときに貴方の顕在意識では「忘れて」しまったその願望がスーッと外在化されるわけです。

因果関係の法則をうまく生かすことについて、もう少し考えていきましょう。(この項続く)

   
第118回「原因と結果V」

(承前)「自分に起きることは自分ではどうにもならない」と思えばこその神頼み、というものには2種類あると前回書きました。困ったときにだけ何かにすがる、これは殆どの場合エゴが主体になってしまっています。ですから、ある願い事がたとえ叶ったとしてもそこに残るのは「私」が願ったから「神・宇宙」が応えてくれたという感覚になります。即ち、自分と「神・宇宙」などが全くの別物として認識されているわけで、そこだけみても「全ては一つである」というスピリチュアルの原理ではない、ということがわかります。また、「失敗したらどうしよう」「病気になったらどうしよう」という恐怖や欠乏の気持ちから「成功しますように」「健康になりますように」と願ってもここでは「恐怖」「欠乏」という概念がまず「原因」として存在しているわけですからその「結果」が成功だったり幸せだったりするわけもないのです。つまり内側にある「恐怖」「欠乏」が原因として外側に投影されて「結果」としての経験になるだろう、ということになりますね。

こういった本質的な「因果関係」については慣れてくると一見唐突に起きたことでも「あ、あれが原因でいま私はこういう経験をしているのだな」とすぐにわかるのですが(あれ、というのはもちろん何らかの「考え」「意識」です)、このあたりの事情がわかっていないとどうしても現象自体を「原因」と捉えてしまいます。或いは「思ってもみないこと、考えたこともない事態が起きた」ようなときに「だから自分の中に原因などないはずだ」と考えてもしまうでしょう。

さて、原因とは全て「意識」「考え」であり現象ではない、と初めに述べました。ときどき「意地悪をしたから自分も同じ目にあった」とか「前世で人を苦しめたから今は逆に苦しめられている」とか「あの人を振ったからこの人に振られた」などということを「因果応報の法則だ」と考えている人を見かけますが、これらのなかで「原因」とされていることは全て「現象・行為」ですね。ということは、正確に言えばこれらは「原因」ではないわけです。本質的な意味での「因果応報」とは「中にあるものが外に投影される」ということに尽きるのです。上の例で言えば、意地悪をしたり相手を苦しめたりしたことによって無自覚にであっても当人の心の中に「自分は悪いことをした」という判断・認識が芽生え、それがやはり無自覚であっても罪悪感となり、「だから罰を受けるはずだ」という信念がどこかにできていたはずなのです。この罪悪感や懲罰への恐怖というのはそのまま自覚されないことが多いのでわかりにくいかもしれませんが、何となく不安だったりついつい他人に対して攻撃的・批判的になってしまったり或いは他人の言動に異常に敏感に反応してしまったり、というような現れ方をしています。私は何も悪いことをしていないのにどうしてこういう目にあうんだろう、前世で余程悪いことをしたのかしら、というのはまさに「現象が原因になりうる」という勘違いをおかしてしまっている例です。

過去世リーディングで、「以前の人生でこういう経験をしたから今の貴方はこうなのだ」という結果が出ますね。まあこれも気付きを促すツールとしては便利なこともあるため、私も依頼があればお受けしています。しかし、過去世のあれこれ、も「現象・出来事」として捉えるならやっぱり今の貴方の経験の「原因」にはならないのです。むしろ過去世での経験がどのような「信念」として記憶されてしまったか、こちらのほうがずっと重要です。もっと言ってしまえば「過去が現在に影響する」というのも一つの信念に過ぎません!500年前の経験であれ5分前の出来事であれ、「今ここ」の貴方がそれらに影響されなくてはならない、という必然性もよく考えてみれば「ない」わけです。過去の影響をどれだけ受けるか、も実は自分自身が気づかぬままに選んでいるに過ぎません。「私はあまりにも過去の経験に囚われている」と思うならばまずここから変えていかなくてはならないのです。過去の自分を赦し癒す、のももちろん有効ですが「過去はもう存在しない、今の私には関係ない」という「世界観」を定着させるほうがむしろ手っ取り早い場合もあるのです。

「考えたこともない事態に見舞われた」場合、貴方はそれを「考えたこともなかった」のだから自分の中に原因などない、と思うかもしれません。たとえば「事故のことなど心配したこともなかったのに事故にあった」などという場合です。これも現象に囚われてはいけません。もしも貴方が「好事魔多し」とか「大殺界だから」とか「人生思い通りにはいかない」とかそんなことを考えていればそれらの「考え」が原因になるのです。つまり「失敗」「挫折」「阻害」などが内面にあれば具体的に何が起きるかは別にしてとにかくそれらが何らかの形になって現れ、そういう経験をするということになるわけです。

貴方の深い部分が大きな変容を望んでいるとき、何か非常に苦しい経験と思えることがきっかけになってその変容がなされるということも少なくありません。ただこれもちょっと注意しないと「成長や変容のためには苦しみが必要である」という信念として定着し、もうしょっちゅう苦しんでいなくてはならない原因になってしまうのですね。以前にも書きましたが、「苦しみ」は確かに成長や変容の助けになるものである反面「どうしても必要不可欠」というわけでもない、貴方の選択次第でもっと別の方法をとることも可能です。

(この項続く)

   
第117回「原因と結果U」

(承前)出来事、環境、あるいは他人の言動などなど貴方から見て「現象」であることは何の原因にもなりません。それらは全て「結果」として生じているものなのです。

リーディングの現場ではさまざまなレベルのさまざまなご質問をお受けします。クライアントがどのレベルの回答を求めているか、というのもその時々で異なりますので当然私のリーディングの答えもそれに相応するものになります。たとえば「何故あの人は私に連絡をくれないのか」という質問に対してはまず「家庭で問題が起きているからです」とか「貴方に対してこういう理由で距離をおきたいと思っているからです」など「現象」レベルでお答えするのが一般的です。そして更に「そういう理由で貴方に連絡をしない、というのは彼は貴方のことをどう考えているのか」とか「そもそも彼はどういう考え方をする人間なのか」などというレベルのリーディングになります。このあたりまではどなたがどういうご質問をもっていらしても必ず行ないます。もちろんクライアントの要望次第でより深いリーディングも可能ですし、場合によっては頼まれなくても私のほうからそこまで申し上げることもあります。

さて、話を元に戻しましょう。貴方が経験するすべての原因になっているのは貴方自身の「意識」あるいは「思考」なのです。言い方を変えれば「世界とはどういうものだと考えているか」「人生とはどういうものだと考えているか」あるいは「どんなことを常識だと考えているか」「自分をどんなものだと考えているか」などというものが貴方の経験を決定する「原因」になります。たとえば「人生どこに危険が潜んでいるか分からない」「よいことがあった後はたいてい悪いことが起きてバランスがとれる、これが常識よ」とか「そうそう簡単にうまくいくわけないよ」とか「若くなくなったらもう駄目だ」とか、本当にいろいろありますね。そういうことをどこかで本気で信じ込んでいればまさしくそれが外界に投影されてしまいます。こうして経験することが「結果」なわけです。

あるいは、ここに「私は頭が悪い」と思っている人がいるとしましょう。その人が「だから私は常に人の2倍も3倍も努力しなくてはならない」と思い尚且つそれを当然のこととして実践しているのなら別に問題はないのです。他人からみればこの人は非常に優秀に映るかもしれませんし実際に優秀かもしれません。本人は「それは私が人の何倍も頑張っているから」と考えるでしょうが、少なくとも「人並み以上に頑張ればできるのだ」という信念をこの人が持っていることは確かです。しかし「私は頭が悪いから馬鹿にされてばかりいる」という信念を持っていたならば、実際にはそうでないときでさえ「馬鹿にされている」と感じるでしょうしまた実際にそういう経験にも遭いやすくなるのです。

自分には金銭運がないとかクジ運がない、または「人生そんなにうまいこといくもんじゃないよ」と信じているのに必死で宝くじを買うような人々はもう初めから結果が見えているようなものです。同じような信念を持っていてもやはり「だからこそ地道にやるしかない」と考えている人はそれなりに結果を出していたりするのです。

人生には波がある、人生山あり谷ありだ、と考えている人も少なくないと思いますがこれには大きく分けて2種類あって一つは「それは当たり前なんだからもうしょうがないよ」と腹を括っているタイプです。こういう人は、たとえ「谷」に見えることが生じたとしてもそれが大して苦難にはなりません。このタイプの変種には「ピンチこそチャンスだ」という信念の持ち主もいますね。こういう人だと「谷」に落ちれば却って燃えて張り切ったりするのです。それに対してもう一つのタイプはずっと悲観的で「谷」というのを「災難」や「障害」「不幸」だと捉えます。そうすると日頃から常に将来のあれこれを心配したり怖れたりして過ごすことになってしまいますし、実際そのネガティブさに足を引っ張られたりするわけです。一見おなじような考え方をしているようでもこれだけの差がついてしまう、というのはその奥にまた他の信念があるからに相違ありません。

そこを考えてみましょう。実は、このような「信念」の中でも最も基本的なものはこれも大きく分けて2つあります。まず「自分に起きる全てのことは自分の思考・意識が原因である」もう一つは「自分の感情・健康・人生の全ては自分ではどうにもならない」。

ここが基本です。後者の場合、「だから神様におすがりする」という方向に行ってしまう人もいるのですがこれにも2種類あって、ひとつは「自分ではどうにもならないのだから全てを大いなる神に預けて生きる」これだとエゴを放下した状態になるので上記の前者と同じことになります。もう一つはひたすら「結果」だけを求めてただおすがりする、というもので正しい信仰心も持たずにエゴの欲求を満たすためだけにある神様や宗教に走って思うような結果が得られないとまた別のものに・・・という繰り返しになってしまいます。これはずっと後者のままです。絶対的・普遍的な力を持つはずの神でさえ救えないこの自分、というのは神に背を向けて一億光年先に跳んで行ってしまった傲慢なエゴであり、そもそも神などハナから信じてもいなかった、ということにもなります。何故ならエゴと神とは決して両立も共存もしないからです。

上の二つの「基本的信念」のうちの後者はスピリチュアル的に見れば「誤り」です。(この項続く)

   
第116回「原因と結果」

ものごとには全て原因や理由がある、と言われます。ごく日常的な意味合いでも「サブプライムで景気が悪くなった」「景気が悪くなったから自分の事業もうまくいかなくなった」とか「こういう言い方をしたから相手が怒った」とか「キーボードにお茶をこぼしたからパソコンが壊れた」とか、まあ数え上げても仕方ないくらいいろいろありますね。

ここでは主にスピリチュアルな考え方に基づいて「原因と結果」を見ていくことにしましょう。

まず第一に強調しておきたいのは「現象や経験としてあらわれるものは全て結果である」ということです。ものを落としたから壊れた、という場合「壊れた」というのは現象ですね。「仕事のストレスで胃潰瘍になった」とか「誰かに振られてうつ状態になった」「誰かに無視されて傷ついた」などというのも同様に見ることができます。ここまでは簡単にご理解いただけることでしょう。

次に、更に強調しなくてはならない点がこれです。「現象は全て結果であって原因にはならない。」これがスピリチュアル的なものの見方の特徴だとも言えるでしょう。

上の例を調べてみましょう。「仕事のストレス」「誰かに振られた」「無視された」というのは原因のように思えますが全て「現象」ですね。先に述べたように「現象」として現れるものは全て結果だ、とすればこれらも一見原因のようであって実は何かの結果であるということがわかります。つまりそれらの原因になるものが別にあるというわけです。

以前から繰り返しここで書いていることですが、あらゆる経験は当人の意識内の問題であるという原則を思い出してください。周囲からみれば全く同じ目にあっていてもそれが実際にどのような出来事として経験されるか、というのは専ら当人の捉え方・考え方次第なのです。誰かに「貴方のことは嫌いになりました、もう会いたくありません」と言われたとしましょう。まあこう言われて「死ぬほど幸せだ」と感じる人はあまりいないでしょうが、たとえば「拒否された、否定された、私は駄目な人間だ、辛い」という経験になる人もいるだろうし、「私は運が悪い、運命に見放された、孤独だ」とか「これは陰謀に違いない、誰かがこの人に近づいて私の幸福を邪魔している」とか「この人には学びが必要だ」とか「それならしょうがないや」とか、要するにこういう目にあったときに取る姿勢=経験はひと様々であり、そしてそれらの姿勢=経験はそれぞれのものの捉え方=信念や判断によって決まります。「景気が悪ければ自分の仕事も駄目になる」と普通は考えるものかもしれませんが、「自分の仕事は景気に一切左右されない」と心底信じていればそうなるわけです。まさか、と思うかもしれませんが本当に心底そう信じていればその信念に基づいてその人の世界が形成されるのです。

ここから次のことがわかります。即ち本質的な意味では「原因」とは全て「感情も含めた思考」であり、更にこれも以前述べたことですがそれら「思考」の原因となるのが「判断」であり、その「判断」の根拠となるのが「信念・意識の癖」なのです。ここに本当の尚且つ全ての原因が存在するわけです。

「世の中は危険だ、一歩間違えれば破滅するかもしれない、常に警戒していなくては」という信念があるならば全ての出来事がそれを反映した形で経験されるでしょう。言い方を換えれば、その信念が外側に投影されて現象になるわけです。成功すればそのあと必ず不幸なことが起きるという信念を持っている人がいるとします。この人はそこそこ成功したのですがそれゆえに不幸の訪れを恐れるようになります。そして「起きるかもしれない不幸」を避けるべくいろいろな手を尽くしたりそれこそ御祓いに行ったりして「不幸の原因」となるべきもの、潜在的な原因を取り除こうとするでしょう。しかし、本当の原因はその考え方自体、その信念自体にあるのです。従ってこの人の個々の努力は根本的な意味では何の役にも立たないわけです。もしも結果を変えたいなら原因を変えるしかない、これは当然のこととして認められますね。問題は「何が原因なのか」ということです。表面的なあれこれが真の原因になりうると考えていては根本的な部分では何も変わらない、ということになってしまいます。

「私には良いことしか起こらない」「私はついている」と常に自分に言い聞かせましょう、という方法がありますね。これを実行しても全然あるいは今ひとつ効果がない、という人は表面的にはこんなことを自分に言い聞かせながらその更に奥深いところで「世の中は不公平で危険なところだ」「自分にもいつ不幸なことが起きるかわからない」という信念を抱いており、「だからこそ」あるいは「にもかかわらず」私はついてるとか良いことばかり起きるなどと言おうとしているのです。「私は病弱だ、持病がある」と信じていて「だからこそ」私は健康だ、というアファメーションをしていてもやっぱり初めの信念には勝てません。

以前から何度か述べてきた願望実現についてもこのあたりをちゃんと徹底しないと効果がないのです。もう少しいろいろな例を挙げて説明いたします。(この項続く)

   
第115回「パワースポット・パワーグッズ」

「時間も空間も存在しない、全ては根底において一つである、全ては意識である」というのが本来のスピリチュアルの考え方であり、この考え方を徹底的に自分の意識に根付かせることによってさまざまな変容を促し、地上の3次元空間においてもそれらに制限されないような生き方・在り方をすることがスピリチュアルの実践となるのです。

前回の続き或いは補足のようなことになりますが、世の中にはパワーグッズと呼べるようなものが常に存在します。昨今ではパワーストーンなどもそうですし、昔から御札や魔除けのための護符や、そういったものはあったわけです。仏像や仏画などもある意味ではパワーグッズと言えるでしょう。

一方で、このようなものの「パワー」を一切認めない、それらはただの「もの」に過ぎないという唯物論的な考え方もあります。これはこれで本人が確かにそう信じていればそれなりの利点がある考え方なのです。即ちこのような人はそれらの「もの」に依存することもなくそれらを怖れることもなく、従って一切の影響を受けることもない。うんと皮相な言い方をすれば一種の「鈍感力」なのかもしれませんが、徹底していれば別に困ることもないはずなのです。

さて、これらのグッズにパワーはあるのか?ある、といえばあるのです。何故なら基本的に「全ては一つであり意識である」立場から考えればこれらのグッズもまた同様に「私たちと根底ではつながっている一つのものであり意識である」わけで、物質としての「かたち」「もの」としてみればただそれだけのことですが、「意識」として見れば相互に影響を及ぼすことは当然だからです。

たとえば、貴方がクリスタルによるワークを受けて心身に何かしらの変容が起きたとしましょう(心身、と書きましたが身体もまた意識です)。これは、クリスタルと貴方とが根本の部分では同じひとつのものからできているからこそ起きる現象なのです。この地上の3次元空間においては全く別の生成物に見えてしまいますが、実は全て同じ一つの大きな意識から創造されている、だからこそ同じレベルの波長になれば相互に影響を与え合うことが可能になります。自分とは全く別の何か、がある特定の力を持っていてそれが自分に影響を及ぼしている、と考えてしまう人も多いと思いますがそれにはある危険が伴うのです。即ち、「自分(の意識=大いなる一つの創造的な意識=源泉)」の力ではどうにもならないものが外界に存在し、自分はそれに左右されるという信念が生じてしまいます。こうなると、依存が起こります。前回も書いたことですが依存は恐怖につながるので「この石を身につけていないと不安だ」「毎月あの神社に行かないと駄目だ」「あのチャネラーに聞かないとだめだ」などという事態が起きるのです。そしてそう信じるからこそその不安のとおりのことが起きてしまったりもするのです。

また、上記の場合クリスタルは一つの波動を象徴するものであって、肉体が本質でないのと同様「もの」としてのクリスタルはやはり本質ではありません。クリスタルにマインドがある、というよりある種のマインドがクリスタルとして現象している或いは顕現されていると考えたほうが正しいと思います。全ては源泉たる一つの意識からできている、本質は形あるものの中に制限されて宿ることはない、と考えれば象徴として使用するのに「この石」「あの護符」でなくてはならない、ということもないのだとわかりますね。究極的にはそうなのですが、現実レベルではその人の今のレベルに対応するさまざまなツールを使用するのがまあ便利な方法でもあるのです。

全く皮肉なことですが、スピリチュアル周辺の人々が「わかってない、遅れている」と馬鹿にしているであろう唯物主義者の人々のほうが却ってそのようなあれこれに振り回されず自由だ、という事態も生じます。唯物主義者は拝金主義者と混同されやすいのですが、たとえそうだとしても「お金はエネルギーに過ぎない」と言いながら「お金というエネルギー」をスピリチュアル的な(と思われる)あれこれの方法で求めそれに固執する人々よりもスッキリ迷いなく金銭を求める人々のほうがこれまた自由だったりするという皮肉な現象も起きるのです。

また、上記のように「自分とは別の何かすごいもの」としてのパワースポットやパワーグッズに頼りこだわるならばそれらを大量に入手したり頻繁に訪れたりできる裕福な人のほうが断然有利である、という言説も成り立ってしまいます。このようなことは絶対にない!と断言できます。本当に何もないような場所、一般的には「悪い気」が満ちているとされるような場所、たとえば拘置所や刑務所や収容所の中にいても、一人で気づきを得て覚醒に近いところまで達してしまう例は古今東西枚挙に暇がありません。

要するに、パワーがあるとされているあれこれは確かに貴方の波動に影響を与え変容を助けてくれる道具にはなる、しかし「なくてはならない不可欠のもの」ではないし依存するべきでもないのです。

場所もそうですが、「もの」も例えば「以前の持ち主の悪い気が残っている」などということは確かにあるのです。しかし、以前からこのコラムでも書いているように「ネガティブなものは全て恐怖に基づいており、恐怖は幻想である」ことがわかっていればそれら「悪い気」というのも幻想に過ぎないのは明らかなわけですから変な影響を受けるはずがないのです。真にスピリチュアルな立場にあれば、幻想を本質と取り違えてしまうこともないでしょう。幻想に過ぎないものに影響されてしまうのは、その人がそれを幻想でなく本質だと思い込んでしまっているからです。このあたりの事情を理解した方は皮肉なことに一見唯物主義者と同じような言動になる部分が出てきます。

リーディングの現場でご依頼があれば「これは今の自分に合っているか」をみることもできますし私のほうから「こういうのが良いですよ」と推薦することもあります。しかしこれらはあくまで「こういう方法もあるよ」くらいのものであって「これをしないと不幸になる」とか「これがどうしても必要」などと絶対的普遍的な意味ではないのです。自分自身がしっかりしていれば外側のあれこれ(場所、ものetc)には一切左右されることがないのです。とはいうもののなかなかそこまで自力でしっかりできない人が大多数であるのが現状ですし、私も「部屋の気が悪くても貴方がしっかりしていれば大丈夫です」で終りにするわけにもいきません。で、玄関にお札を貼るとか塩を盛るなどという方法をお教えすることになります。そういうことがあるレベルにおいては有効なのも確かだからです。

場所もグッズも「偶像崇拝の対象」にしてしまっては本末転倒、スピリチュアルから最も遠い生き方になってしまいます。その点だけは常にご留意くださいませ。

   
第114回「パワースポット」

世界中にパワースポットと呼ばれる場所がたくさんあります。自然の地形に関係なくても神社なども文字通り「神様のおやしろ、神様が住まう場所」としてパワースポットの中に含まれていると思います。

こういった場所は一言でいえば「波動の高いエネルギーに支配されているスペース」です。「良い気が流れている」と言っても同じです。このような場所に赴いて身をおけば自分のエネルギーも浄化され、そこに存在する高い波動のエネルギーに同調することが多いので意識レベルも上がりその結果ミラクルのようなさまざまな経験が生じる場合も少なくありません。ここまでは一応事実として認められることです。

しかし、これまで述べてきたように本来時間も空間も実在しないものであり本質的かつ普遍的なものには形がなく時空間内に制限されることもない、のであれば少々考え直してみなくてはなりません。

確かに「汚染されたどろどろの水溜り」よりも「飲むこともできるくらいきれいな清流」のほうが誰だって気持ちが良いものです。エネルギーという普通は目に見えず匂いもしないようなものではあっても基本的にはこれと同じ捉え方をすればよいのですね。以前にも書いたように、自分の意識があまりにもドロドロになってしまい自力ではどうにもならなくなったようなときにはこれら「場所」のエネルギーの力を借りることができます。が、絶対にそうしなくてはならない、という意味ではないのです。わざわざ遠方の「パワースポット」に出かけてスッキリした気分で帰ってきた途端また日常のエゴ的自己に戻ってしまえば大した意味はなくなってしまいます。だったら日頃から自分の意識の浄化に努め、自分の居住する空間を清浄に保つ努力をしているほうが余程高い効果が期待できるのです。

あるいは、特殊な磁場になっているような空間というのもあります。そこに身をおくと気分が悪くなったり逆にドロドロがリセットされたりするのです。これもまた絶対的なものではありません。そういう場所があるにはあるのですが、そこに行けば全てが変わるとは限らないのです。一瞬にして全てが変化する場合もあれば帰りの列車や飛行機の中で既にもとの日常レベルに戻ってしまう場合もあるわけです。人によっては「あの場所に行くとすごく浄化される」というような特別お気に入りスポットを持っていることもありますね。

これとは逆に、都会で普通に生活していても自分の意識次第でパワースポットに身をおくのと同じくらいの高い波動に同調したり意識を浄化したりすることも十分可能なのです。というより、どちらかというとむしろ「今ここにいながらにして」「普通に生活しながら」意識を浄化しエネルギーレベルを上げていくことのほうがずっと大切だし本質的なアプローチである、に違いありません。あちらのパワースポットこちらの聖地、と忙しく飛び回っている方々の中には「温泉めぐり」と大して変わらないような感じになっている方も多々あります。楽しみやリラックスのためなら全く問題ないのですが、こういうことをするだけでスピリチュアルな生活をしているのだと考えるのは大きな間違いです。

特別お気に入りスポットのある生活、というのもまた楽しく魅力的なものではあります。が、これも一歩間違うとその場所が或いはその場所に行くことが自分にとっての「偶像崇拝」的な要素を持った行為になってしまうのです。即ち、「しばらくあそこに行かれないから具合が悪い」などという思い込みが生じ、しかも本当にそうなってしまったりするわけです。こうなるとちょっと問題ですね。形は違うようでも「あの薬がないと不安で仕方がない」「きょうはあのペンダントをつけてこなかったからきっと駄目だろう」などというのと内容的には全く同じです。

変な話ですが、戦争や内乱や飢餓や貧困にあえぐような場所にどうしようもなく惹きつけられ、そういうところに行っても「悪いエネルギー」などまるで受けず却ってパワーアップして元気になって帰ってくるような人々も存在するのです。それにマザーテレサが生涯を捧げたところだって普通に考えれば「とんでもない」場所ですね。これらのことを考えればわかるように、どこにいても結局は自分の意識が何と同調するかを選択しているだけなのです。マザーテレサは土地のエネルギーではなく神の波動と同調していたのでしょう。

ですから、非日常のあれこれに依存せず基本的には日常生活の中で意識の浄化に努めることを是非お勧めします。

ところで、神社というのは「神様が住まう場所」とされていますが本質的普遍的な絶対意識存在であるところの「神」が一つの空間に閉じ込められるなどということがありうるでしょうか?神社というのはむしろ「高いエネルギー、良い気に満ちた空間」を作り私たちの意識を浄化させることにより「神」のエネルギーを受け容れやすくなる、という場所なのではないかと思います。神はいつでもどこにでも存在するが私たちの意識はときどき汚染され歪んでしまって神のエネルギーを受け容れることができなくなります。これを一瞬でも浄化することで「神」と呼ばれる高い波動のエネルギーと同調しやすくする、そのような空間です。つまり、貴方の意識が浄化され受け入れ態勢にある限り、神のエネルギーはいつでもどこでも受け取れるのです。これは本当にそうなのです。トイレでも混んだ電車の中でも繁華街のど真ん中でもできるのです。

「気の持ちよう」というのはよく言ったものです。

   
第113回「カラダとココロ 番外編」

今まで何度なく使用してきた「マインド」という言葉について、完璧にとはいえなくても一度ちゃんとご説明しておく必要があるでしょうね。

マインド、というのはピッタリの日本語訳が見当たらない言葉です。否定的に用いられる場合には「アタマ」となり、否定も肯定もなくただ中立的に用いられる場合には「ココロ」となるのですが、そうすると「ハート」という言葉との混同を招いてしまいます。それゆえこのコラムでは敢えてカタカナで「マインド」というふうに統一してまいりました。

マインド、というのも要するに意識のことなのです。一口にマインドといってもそこには個々人のマインドから宇宙のマインド(宇宙心・宇宙意識とも言われます)まで幅広いものが存在するのです。意識というのは受容する部分と能動的に創造する部分とがありますが、一般にconsciousnessと言うときには主にこの「受容的な部分」を表わすことになります。受容と創造の両方の部分をまとめて表すにはやはりマインドという言葉しかなさそうなのです。

受容、というのはいわゆる感じる部分であり「ココロ」というふうに表現することもできますね。創造、というのは思考に関する部分です。思考、といっても「アタマ」をひねってなにやら難しいことをあれこれ考えるという意味には全く限定されません。以前何度かここでも書いたように、思考無しの感情というのはないのです(ただ、無条件の愛や喜びというのは例外的なものだと思いますが)。何かの現象が眼前にあった場合、それが自分にとってどんなことを意味するのかという判断=思考が一瞬のうちになされ、その判断に従ってそれにふさわしい感情が選択される、という作業を誰でも無意識のうちに行なっているのですね。ですから、マインドには思考と感情の両方が含まれるという言い方でも構わないわけです。

マインド、の一部が例の「エゴ」と呼ばれるものです。別の言い方をすれば、マインドの中の歪んだ部分・汚染された部分がエゴであるということにもなります。マインドという言葉が否定的に用いられる場合、それは殆ど「エゴ」と同一のものを表しているようです。スピリチュアル関係の書物などをお読みになる際には特にこの「マインド」という言葉がどういう意味合いで用いられているのか、ということに留意なさるべきでしょう。

ハート、とかソウルなどというのもやっぱりマインド=意識の一部です。が、それらはマインドのより深い部分、汚染されてもおらず歪んでもいない無垢なる部分を表しています。逆に言うと、貴方が何らかの方法で或いは日々の気づきや学びによってご自分のマインドを浄化していくと、エゴ的な部分が消え去ってこれら「ハート」「ソウル」などと呼ばれる部分が支配的になるのです。すると、日々のあれこれについてあまり悩まなくなり全てをあるがままに受け容れることができるようにもなります。

全てをあるがままに受け容れる、というのも結構誤解を招きやすい字句ですね。この世界は悲惨でひどいところだ、とんでもない不景気で明るいことがない、ここが痛い、あの人は私のことが嫌いだ、私は駄目な人間だ、etc.たとえばこういうようなことを「そのとおりです」として受け容れなくてはならない、という意味なのでしょうか?答えはノー!です。なぜならば「全てをあるがままに」というのは「判断・ジャッジなしに」無垢なココロで受け容れるということであり、然るに上に列挙したようなものは全て否定的なマインドによる「判断・ジャッジ」に他ならないからです。もっと言うならば、「全てをあるがままに受け容れる」というのは無垢な部分によって、無垢な眼によってなされるのでありそうなると否定的批判的な捉え方というのは必然的に不可能になります。つまり、こういう部分による認識というのはどうしたって「全て愛すべきものである、全て喜んで受け容れよう」というものにしかならないのです。或いは「あるがままに」というのを「本質において」と解釈しても構いません。全ての現象は、たとえそれらがどのように見え感じられたとしても貴方が何らかの「判断」を下さなければ貴方にとって何ら意味も影響もないものなのです。つまり、あるがままに受け容れるというのは「これは私にとって何も意味しない、これは私の心の平和を乱すものではない」ということであり、また「ただそのことだ」という状態でもあり更に「自分の本質は意識である」ということでもある、というわけです。

カラダもまた意識である、ならば当然のこととしてカラダはマインドでもある、というふうになります。Body, mind, soul, heartなどという区別の仕方もありますが、これらは全て広義のマインドなのです。波動の違いによって区別が生じていると考えても構いません。物質に近づくほど波動が粗くなります。身体回りのこと即ち欲や煩悩に基づく諸感情は全て粗い波動をしています。

いま唐突に思いついたことがあります。神社などでご祈願をなさるときに「私のマインドが浄化されますように」というふうにしたらどうでしょうか?表面的な個々のあれこれ、について祈願するよりずっと包括的な効果があるように思います。

   
第112回「カラダとココロ W」

(承前)自分の本質は肉体である、と信じている人々にとっては「肉体の死=自己の死」となります。こういう人々は「死んだら自分が消えうせ無くなってしまう」と思うから死を怖れるのでしょうか?しかし、実はこういう人々は死を怖れる必要がない、というか論理的に考えれば死を怖れることができないはずなのです。なぜならば、自分が肉体でしかないという場合その肉体がなくなってしまえば「肉体が=自分がなくなった」と認識できる自分そのものも同時に消えうせるからです。

となると、死を怖れるというのはただ「消失することを怖れる」のではないようですね。肉体を持ったこの世界でのあれこれの楽しみや親しい人々との別れを怖れる、ということもあるのでしょうが、これも肉体=自己が丸ごとなくなってしまえば「楽しみや親しい人と別れてしまった」と認識できる自分もいないのですから怖れようがありません。

肉体でないところの自分、魂でも意識でもよいのですがとにかく肉体がなくなっても残るであろう自己、というのが存在すると信じるならばどのようになるでしょうか?こういう信念を持つ人が「この世のあれこれや人々と別れるのが辛い」から死を怖れるとしても、それは自分が現在「肉体を持って生きている」状態において推測する限りのことでしかありません。実際に肉体をなくしてみたときにどう感じるか、など普通はわからないのです。この世で生きているうちに何かの気づきや啓示を得て「肉体がなくなっている」のと同じ状態を経験できることがあります。これは幽体離脱や臨死体験などに限定されるものではなく、純粋に認識の問題です。そして、この状態に至った人はまず例外なく幸福感そして時間や空間を超越した解放感を味わっているものなのです。この世のあれがなくて辛い、つまらないとかあの人この人と会えなくなって苦しい、などという感想は聞いたことがありません。つまり、肉体なしの「自己」がどう感じるか、というのを肉体レベルであれこれ考え想像すること自体が不可能なのです。

言い方を換えれば、死んでも肉体でない何かが残ると信じ尚且つ死を怖れる、という人々は「肉体をなくして右往左往する自分」という状態を怖れているのかもしれません。前回述べたように、実際にこういう霊的存在というのはあるのです。この世に執着してさまよっている霊魂、とかいう言い方がありますがこれは「肉体に執着して」いることに他なりません。執着する、というのはそのことに価値をおいている、というのが前提ですね。私は別に「肉体には価値がないのだから粗末に扱え」と言いたいのではありません。以前にもどこかで書いた覚えがあるのですが、重要なことなので繰り返しますと「肉体を含む全ての物質は、意識によって意味や価値を与えられて初めて意味や価値のあるものになる」のです。

たとえば、「物質としてのお金」なら単なる紙切れと金属片に過ぎないわけでしょう。これらが「価値あるもの・大切なもの・不可欠なもの」とされているのはこれら自体に内在するものゆえではなく、専ら「意識」がそのように意味づけ価値を与えたからなのです。となれば、意識と物質とどちらが先かどちらが重要か、言うまでもないことになりますね。

或いは、仮に貴方が「宝石が大好きだ」とします。宝石こそ最も価値ある大切なものだと思っているとしましょう。ところが10年後の貴方は宝石などどうでもよくなって「自然の花が一番美しく価値があるものだ」と思うようになっているかもしれません。つまり、宝石も花も「それ自体」に価値が内包されていたのではなくて他ならぬ貴方自身がそれらに価値を与えるのだ、ということがわかりますね。

人と人との間の「アイ」と呼ばれる感情にもちょっと似たようなところがあります。普通は相手が現実的に具体的に何か「愛情表現」と思えるものを貴方に対して差し出してくれなければ「愛されている」とは感じられないわけです。まさか「金品をくれなければ愛されていると思えない」というほどの即物的な方はそうそういないと思いますが、言葉であれ行動であれ自分にとって「わかりやすい」表現つまり貴方が「価値がある」と意味づけできる表現でないと愛を感じることができないのが普通です。それだけだとこれは、金品やセックスに関係ないものであってもやっぱり「精神的な愛」ではなく「肉体レベルの愛」ということになってしまうようなのです。逆に言えば、何か本人にもどうしようもないような事情があって愛情表現がものすごく下手な人だったりすると、実は本人にも気がつかないような愛情がその内面にあったとしても側にいる貴方にはそれが伝わらない、ということになってしまいます。相手のこの部分を見てあげる、というのが真に精神的な愛なのではないか、という気がします。相手の中にある「愛」の部分を見てあげるというのは言い換えれば「愛を与え受け取る」ことがまさに同時に生じている状態です。

これは相当なパワーのあるテクニックとして使うこともできます。即ち、目の前のあるいは遠くの相手に対してそのような見方・感じ方をすることにより相手との関係だけでなく、全然別の関係においても質的な変化がもたらされることが大いにあるのです。

是非試して御覧になってみてください。

   
第111回「カラダとココロ V」

(承前)身体と心、意識とは密接に結びついているどころではなくて心や意識つまりマインドというべきものが外在化されたのが身体であるという考え方をちょっと応用してみましょう。

望遠鏡で見るような「宇宙」、あれは宇宙意識というマインドが外在化されたものである。

植物、鉱物、などの自然も全てそれぞれの意識、マインドが外在化されて形になったものである。ちょっと、いやかなり突飛な考え方に聞こえてしまうかもしれませんが、スピリチュアル系の教えにある「全てはひとつである」というのは、実はこのことが前提にないとありえないものなのです。宗教によっては「全ては神の被造物である、という点において一つである」ともなるわけで、別にそう考えても何の不都合もないのですが、これは「神」という絶対的な存在を認めていない人にはどうしてもなじめないでしょう。

一見は全く別個に存在するいろいろなものが「全ては一つ」なのだ、と言われてもねえ、と感じる人は少なくないと思います。何故抵抗を覚えるかというと、「見た目が違う」こと、そして「別々に存在している」ということがどうしてもまず五感に入ってくる認識だからですね。でも、結局どれも全て元はマインドなのだ、と思えばこれには本来形がありませんから「つながっている」「元は一つ」だといわれてもそれほどの抵抗は感じずに済むのではないでしょうか?形において「全ては一つ」なんてことはありえませんね。

というか、今私たちが五感で認識している世界はあくまでもこの地球上という3次元空間においてのみそのような姿で存在している、しているように感じられるだけなのですからそういう世界に宇宙全体・普遍的なものとしての絶対性はありません。身体とは、この3次元空間で生きていくためのまあツールみたいなものだと思っていれば良いような気がします。ツールなのだから良いも悪いもなく、要は「どう使うか」だけが重要だということになりますね。肉体が悪だ、という考え方をする宗教もあるにはあるようですが、これも元を正せば肉体そのものが悪だ、というわけではないのです。ただ、全ての煩悩は自分自身が、自分自身の本質が肉体であると信じることから生じるというだけのことです。

たとえ死によってこれまでの肉体を失ったとしてもこの「自分の本質は肉体である」という信念がなくならない場合も非常に多いのです。言い換えれば死んで肉体から離れてもエゴは残るということです。別に「この世に未練を残して成仏できない霊」とか「怨霊」などに限ったことではありません。普通の「ご先祖系」の霊であってもそういうことはあります。彼らが霊として苦しんでいるという意味とも限りません。

たとえば、貴方のところに亡くなったお祖父さんの霊が出てきて「こうしなさい」と告げたとします。守護霊や宇宙意識や貴方の真我たる潜在意識やハイヤーセルフが「お祖父さん」という貴方にもよく分かりやすい形をとって出てきてくれた、という場合もありますが、これがどちらなのかは調べてみないとわかりません。高次の何かがそのような「わかりやすい個人」の形をとって出てきた場合ならその「お告げ」は貴方にとってエゴを超えた正当性がある、と言っていいでしょう。しかし、そうではなくて本当に「お祖父さん」個人の霊だったら、これはいわゆる肉体意識ということになります。この「お祖父さん」が「こうしなさい」というとき、もちろん貴方のことを思いやった結果ではあるにせよそこにはお祖父さん個人の価値観や考え方が反映されてしまっている場合が少なくないのです。お祖父さんという方が「結婚して子供を何人も作るのが一番幸せじゃ」という価値観の方だったら、実際の貴方にどういう生き方があっているかどうかにかかわらず彼自身の価値観による即ち悪気はなくても彼のエゴ的価値観によるメッセージが来てしまうこともあるのです。そういう経験はリーディングの現場でもありました。クライアントさんはもちろん非常に気になってしまい「自分ではどうしてもその通りにできないのだが、このメッセージに従わなかったらバチが当たるのではないか」と心配して聞きにいらしたりするわけです。もっと極端に、明らかにエゴ丸出しの「亡くなった方」が怒りやら嫉妬やらなにやらのエゴ的感情を貴方にぶつけてきたりすることもあります。こういう場合御祓いなどをして鎮める方法もありますが、実は基本的には「生きている相手」に対するのと全く同じで良いのです。つまり、人間関係というのは相手の生死に拠らない、と言ってしまっても良いでしょう。何故なら生きていようが死んでいようがつまり肉体の有無にかかわらず私たちの本質は意識なのですから、生きている相手に対してだってこちらの意識が向こうの意識に働きかけていることに変わりはない、形はともかく内容においてはこちらの身体が相手の身体に働きかけているのではないからです。となれば、以前のコラムで書いたような人間関係における考え方のあれこれがそのまま「亡くなった方の霊」との関係にも使える、ということになるわけです。霊というのは以前も書きましたが要するに意識・想念のことなのであまりおどろおどろしく捉えないほうがよいのですね。本当にいろいろなことがあるにはありますが、「なくなった母が怒っているような気がする」と言うときは本人が、母上が生きていたら怒られるだろうなあと思うようなことをしていてそこに罪悪感を抱いているだけ、というケースも多々あり、しかもその思いが投影されて実際におかしな現象を引き起こしてしまっている場合さえあります。まあ、そんなことで気がかりがあればリーディングその他の専門家に相談してみるとよいでしょう。

   
第110回「カラダとココロ U」

(承前)
自分の本質が肉体ではない、或いはもっと過激に「肉体は本質的な存在ではない」とするとボディワーク系の本によく出てくる「身体の声を聴け」というのはどういうことになるのでしょうか?本質ではないものの声などを聴いても仕方がない、ということになってしまうのでしょうか?

この場合「身体の声」というのは言うまでもなく「アタマの考え・感情」に対応しているものです。アタマで「あれが食べたい、これが飲みたい」と思っていても身体のほうは「今は何もほしくありません」と言って?いたり、アタマで「もっともっと頑張らなくては!」と思っていても身体は「休みたいです」と言っていたり、そういうことですね。となると、この「身体の声」というのは「アタマの思い」よりもずっと深いレベルで貴方のことを理解し表現してくれている、ということになります。

ここからどんなことがわかるでしょうか?まず一つには、私たちが通常自分の「意識」とか「思い」と思っているもの、頭の中の思いというのが意識全体の中で本当に本当に小さな部分に過ぎず、しかもエゴの中でも最もエゴ的というか「本質どころか自分自身に関することも正しく理解できていない」ほど当てにならないものだ、ということがわかります。意識の深いところ、自覚していないような層の部分にさまざまな信念がありそれによる判断があり、更にそれらの判断に基づく判断が次々に行なわれているうちに貴方のマインドの表層部分(いわゆるアタマ)は文字通り「何がなんだかわからなくなっている」のです。

もう一つ、この「身体の声」とは一体何なのか?乱暴に言うとこれは「肉体意識」「身体意識」とでも表現すべき類の意識のことになります。「肉体に意識が宿っている」というのとも少し違います。今は「身体と心=マインドとはつながっていて影響を及ぼしあっている」というのも常識になりつつありますが、普通に考えても肉体より意識(心、マインドもこの中に含まれます)のほうが先んじて存在しているわけです。以前にも書いたことですが、肉体というのは「誕生と死」がありそのあいだの時間内にのみ形として存在するもの、初めと終りがハッキリしているものであるのに対して「意識」は基本的に始まりも終りもなく生れも死にもしない、ようなものがその源になっているのです。また、意識のどこかの部分がそのまま外在化したものが肉体である、と考えても良いわけです。ならば意識は常に肉体に影響を及ぼしている、或いは意識が肉体を作っているということもできますね(日常的には「体調が悪いから機嫌も悪い」など、肉体が意識=この場合は心・アタマ・感情ですが、に影響を及ぼしているように見えることもありますが)。

この「肉体を作り或いは肉体に影響を及ぼしている」「肉体に対して指令を出している」ところの意識の部分というのが普通「アタマ」では認識できないものなのです。ですから、たとえば「胃が痛い」とか肉体のどこかに異常が生じているというのは即ちそれに先んじて意識のどこかが歪んでいたり或いはそこから派生する何らかの理由で「肉体に不調が出るように」という指令を出していたり、という現象が起きているはずなのです。となれば、この「身体意識の声を聴く」ことによって貴方がアタママインドでは認識できない意識の歪みや要求に気づけるようになるわけですね。要するに肉体というものを「物質のようではあるが実は意識が外在化されたもの」「身体もまた意識である」だと認識しておけばいろいろ便利な応用ができるようにもなります。身体をツールのように使って意識と相互作用させ気付きを促すこともできますね。

身体に聴く、というのはより正確に表現するならば「身体を作り影響を及ぼしているところの意識」の声を聴いているのです。身体が意識と全く別個に存在していて意識の意思(変な言い方ですが)と全く無関係に病気になったり傷んだりして意識に影響を与える、ということはありえないのです。もちろん身体と意識は基本的に別物なのですが、前述したように意識が身体を作っているのであって、そもそも「身体」というものがちゃんと存在しているように見え感じられること自体が意識の働きです。「身体の中に(たとえば脳内に)意識がある」というのはどうやらちょっと違うみたいなのです。

ところで、「身体を癒す」というヒーリングは何故可能なのでしょうか?その答えがまさに上記のことなのです。つまりヒーリングによって癒されているのは「物質・物体」であるところの身体ではなくそれを作っている「意識」の部分なのです。癒された当人にしてみれば自分の心やアタマの思いに変化が生じたという認識がないのでビックリしてしまうのですが、これもそれら「心やアタマの思い」が相当小さな表層的な部分に過ぎないので「変化した部分」がわからない、ということから説明できます。意識は形がないので時間や空間の支配を受けません。だからこそ、何をしても全く効かなかったような厄介な症状が、しかも海の向こうで手も触れずに「一瞬のうちに消失する」などといういわゆる「奇跡」が起きたりするのです。一瞬にして消えたはずのものがしばらくしてまた出てきた、という場合は当人の古い意識の癖がまた出てきてしまったのであり、これは個人の意識が固定化されたものでなく「一瞬一瞬変化する形のないもの」だからこそ生じる現象です。本当の本質、である源としての意識なら恒常的に「全きもの」(whole)なはずなので歪んだり傷んだりすることはありません。本来ヒーリングというのはこの部分とのつながりによって起きるものです。(この項続く)

   
第109回「カラダとココロ T」

意識と肉体についての話はそれだけで長大な本が一冊書けてしまうような大変な問題なので、私などがここで扱うのにはかなりためらいを覚えます。ですから、このテーマに関しては敢えてかなり自由な且つ断片的な書き方をさせてください。

私たちは全て「意識」存在であって、肉体=自分というわけではない。とはいうもののなかなかそれを実感すること、「人間=肉体」という感覚を払拭することは困難だと思います。肉体が本質ではないにしても、一応それが「ある」ということにしておかないと生活にも支障をきたすかもしれません。

ところで、「肉体として存在する」というのは即ち時間と空間による制限を受けていることを意味します。この3次元空間における物質である以上、一度に複数の時空間に存在することはできません。もちろん、幽体離脱とかチャネリングなどという場合なら時空を超えているわけですが、これはそういうことをしている主体が「意識」であって肉体ではないという証左ですね。それにしたって意識が離れた身体はそこにいるわけだし、チャネラーの身体がどこかに消えてしまうなどということはないのです。物質としての肉体はずっとその時間その場所に留まっているわけです。つまり、逆に言えばある肉体はある特定の時代特定の場所にだけしか存在できない、ということになります。たとえば、この碧海ユリカという肉体存在は20世紀後半から21世紀前半における日本、にしか居ることができません。同時にどこか別の場所で別の人生を送ることはできない、のです。どこかの異次元空間でこの意識・・・すなわち「ここで碧海ユリカをやっている意識存在」が同時に存在するということはあるでしょう。しかし、肉体としてはそういうことは不可能なのです。更に、肉体存在としての碧海ユリカが知り合い何らかのかかわりを持つ他の肉体存在、も当然同じ時空間にあるものに限られます。意識としてではなく肉体を持ってであれば16世紀ヨーロッパの人間と直接かかわることはできません。

さて、スピリチュアルな考え方では「出会うもの全てが貴方にとっての学びのチャンスを与えてくれる」のですが、この場合の「出会い」というのはどう考えてもまず「肉体として」のものですね。ある人間が別の人間と出会ってかかわりをもってあれこれやって・・・ということを示しているのは明らかだと思います。それがいくら「意識」どうしとして惹かれあい、また「意識」どうしとしてかかわるのであっても、実際の「関係」というのは目に見える肉体を介して行なわれるのです。これは過去生においても全く同様です。それぞれの過去生において、「いま碧海ユリカをやっている意識」が選んだところの肉体存在はそれぞれの時空間内という制限の中で生きていたわけです。そしてそこで出会いかかわった人々、もまた然り同じ時空間の中にあった肉体存在だけなのです。

どういうわけだか、いわゆる「学び」というのは直接のかかわりだったり経験だったり、とにかく「肉体」を介して起きるものから来るということになっているようなのです。全て、とはいいません。人によってはずっと過去の時代の誰かの霊から教えを受けたりもする場合もあります。が、それはかなり例外的なそれこそ「特別な」ことです。学び、それ自体は意識によってなされるものに間違いありませんが学びのチャンスはたいてい「自分の肉体が存在する時空間内の出来事」から与えられます。大多数の人々にとっては「大昔の時代の外国の誰か」よりも「目の前で直接話をしている誰か」のほうがはるかに重要なのでしょう。いや、私はキリストに或いは老子に多大な影響を受けた。今の私があるのはキリスト・老子・アリストテレスでもいいですが、そのおかげだ。という人もいるでしょうが、普通「学びのチャンス」というのは以前にも言及したように不快だったり苦しかったりする経験から来ることが多いのです。これらはまず間違いなく「肉体存在どうしとして直接向き合っている」者によって、或いは「病気や怪我や貧困」など肉体に直接かかわる何か、によってのみ生じるものでしょう。そういうことで悩んだり苦しんだりするからこそ、「この時空間以外」の霊的存在に助けを求めたりもするのではないでしょうか?

私たちの本質が肉体ではなく意識なのであれば、何故わざわざ制限的な存在である肉体などという、どちらかというと厄介なものがあるのか?そこに何か意味があるとすればこれはもう「学ぶため」というただ一点しかない、そう思います。意識は時空を超えている上に本質的には自他の区別もなく、源泉とつながった一つのものである、それならばわざわざ学んだりしなくても初めから全て「わかっている」はずなのに、どういうわけだか私たちは肉体を持って生れてくるに当たってその「普遍的な真理や知識」を一旦全て忘れてしまうようになっている、そしてまた学び直すようになっているのです。言い換えれば、もともと知っていたはずの普遍的な真理を「思い出す」、これが「学ぶ」ということなのですね。

自分の本質が肉体ではない、と認識できるに従ってこの「思い出す・学ぶ」ということが

容易になり、学ぶに従ってますます自分の本質が肉体ではないという認識が深まるわけです。(この項続く)

   
第108回「スペシャル願望 番外編」

リーディングにおいて、恋愛も含めて人間関係の悩みというのは非常に多いのです。それらのお話を伺っていると、その大部分が「相手が自分の思い通りに動いてくれない」という理由によるものか「相手が自分と全く別の思考方法や感じ方をしている」ことがわからないために生じているような問題になっています。この前者については以前「誰の問題?・・」というコラムで「鏡現象」としてしつこく解説いたしましたので割愛させていただき、今回はこの後者についてちょっと考えてみようと思います。

前回までのコラムで、私たちは肉体として存在しているためにそれぞれがバラバラに別個であるように見えるけれども、本質的にはみな意識であり真我の部分においては自他の区別というものもなく、源においてはみな一つなのだということを述べました。あれ?だったら上記の「相手が自分と別の考え方や感じ方をしている」ことがわからないというのは何ら問題ないんじゃないの?相手が自分と同じ、と思うことがエゴのない真我の部分だというなら皆私と同じ考え方や感じ方をしている、と考えるのは正しいことなんじゃないの?そういう疑問が湧いてくるかもしれませんね。

非常に単純なことですが、同じ事をされて頭にくる人もいれば全く気にならない人もおり、怒りを覚える人もいれば悲しむ人もいる、というのは客観的には同一に見える現象が人によってそれぞれ別の「経験」になっているからですね。そして、何故そうなるかというとこれはそれぞれの意識の根底にある信念や価値観が各々異なっているためです。別の言い方をすれば、それぞれが自分の中にある信念に従ってその都度何らかの「判断」を下している、ほんの一瞬殆ど反射的であってもそういう作業をしているわけです。これは自分にとって喜ぶべきことか、苦しむべきことかというのを瞬時に反射的に判断・分類していてその結果がそれぞれにとっての「経験」になるのです。たとえば、同じ「家族を失った」という「経験」であっても具体的にどんな感情を味わいどんな作用が自分に及んだか、というのは個々人によって違う「経験」となる、そういう感じです。

それらの判断基準となる「信念」というか「考え方」即ち「これが私です」と貴方が心底で信じているところのもの、というのが人によって異なるわけです。そして、いくら深層意識であっても潜在意識であってもその部分は「小セルフ」とでも言うべき自己であり、エゴでもあるのです。エゴ=エゴイズム・自分勝手、というふうにだけ連想してしまうとちょっとわかりにくいのですが要するに真我ではない部分をエゴだと思ってください。どうしても抵抗があるのでしたら先ほど書いたように「小セルフ」でも構いません。あるいは、もっとわかりにくいとは思いますが「肉体意識」とか「肉体意識であるところの自分」などということもできます。要するに「肉体」という「それぞれ別個のもの」から見た「我」や「貴方」「彼(女)」ということになります。

これはもう違って当たり前なのですね。だからこそ、あることが貴方には理解できるが彼には理解できない、とか貴方の代わりに私が悲しんであげましょうと言ったって自分の悲しみが相手に移転されるわけではない、などという至極当然のことが日々生じているわけです。

相手が、或いは周囲の人々みんなが自分と同じように考え感じているはずだ、と思っている場合その「相手」とか「自分」というのは各々「小セルフ」「肉体意識」「エゴ」レベルのものなのでこれは「違って当たり前」の部分なのです。そこをわかっていないから・・・つまり「肉体意識としての自分と他人は考え方も感じ方も違うのだ」ということをわかっていないから様々な誤解や軋轢が生まれ悩みやトラブルが起きるのです。「自分」「相手」というのが肉体意識なのか本質的存在なのか、肉体意識であれば必ず違いはあります。こういう「違い」が存在するのだということを認識・理解するのは人間関係の基本なのです。もしもこのレベルで「みな、同じ」だと思ってしまったら怖ろしすぎます。とんでもない自己中心的な「全体主義的」考え方になってしまうでしょう。

「本質的には自他の区別がなくみな同じ」と言われると何となくみんな同じ顔かたちをしたサイボーグかクローン人間ばかりがいる光景を思い浮かべてしまう方もいらっしゃるかもしれません。が、これは明らかに「肉体としての自己」と「意識としての自己」を混同した結果です。

その上で、それらの「違い」に自分なりの判断で優劣をつけてしまうとこれまた問題が生じる原因になります。簡単に言えば「あの人は私と違うからおかしい、間違っている」となるのです。このように言われれば明らかに変なことだとすぐわかるのですが、多くの人がそうと気づかずにこれをやっているのです。その場合、往々にして「私」でなく「普通は・・」というすり替えが行なわれます。「普通はこうでしょ、おかしいよね」と言いつつ実は「私はこうなの、それって普通でしょ、正しいでしょ、だからあの人はおかしいよね」と言っているわけですね。こういうとき「あの人のやりかたは私のとは違うので今の私には理解できないしついていけない」とだけ思っていれば人間関係の悩みやトラブルはかなり減るのではないかと思います。

肉体意識存在・・・生きているものだけとは限りません!・・・としてはハッキリと自他の区別がある、ということを認識しつつも、ものすごく違っているように見え感じられるけれども本質においては一つなのだと思っているとそれらの「違い」というものがあまり気にならなくなります。別に全ての人と、自分と異質の人たちとも仲良くしなくてはならない、という意味ではありません。異質に見える人たちの存在をそのまま認めて受け容れられるようになればかなり楽に過ごせますよ、しかも相手を理解しやすくなりますよということを知っていただきたいのです。

   
第107回「スペシャル願望V」

(承前)誰かとの特別な関係、及び誰か特別な人にとって自分も特別な存在でありたいということを求める人は昨今とても多くなっていると思います。これは特に異性との「ロマンティックな」関係を指すもので、男性よりも女性のほうがより強く抱く願望のようでもあります。

さて、このような願望は古今東西通じて「普遍的」に存在するものではありません。そんなことを考えもしないような時代や社会というのもあった(ある)はずです。そんな願望を抱くことが一般的ではない状況の中でもそのような「特別な関係」を得る人々、というのがいることもまた事実です。

こういうことはある程度、属している時代や文化の影響を受けるものです。ということは、「その程度のものだ」と言えることでもあるのです。

そのような関係に憧れる方も多いでしょうが(以前のコラム「ソウルメイト」をご参照下さい)、そういう方々に申し上げておきたいのは以下のことです。

まず、「特別な関係」があるかないか、自分が誰かにとって特別な存在であるか否か、ということと「自分の価値・評価」とは関連性がありません。前回までにも何度か言及していますが、このあたりを混同すると大変苦しいことになります。即ち「運命的なパートナーがいない私は何か欠陥があるのではないか、不幸なのではないか」とか「あの人から特別だと思ってもらえない私は駄目な、魅力のない人間なのではないか」などと考えてしまいがちになるのです。そういう相手や関係に憧れたりそれらを求めたりするのはまあ良しとしましょう。が、何故貴方はそれらを求めるのか?その理由をちゃんと考えたことがあるでしょうか?映画や小説やドラマに出てくる、あるいは歴史上のカップルなどを見て「いいなあ」と思ったり、またそれらメディアのあおりによって「いないとだめなのかも」などと強迫観念的に思ったり、などというケースが殆どなのではないか、という感じがします。そのような「特別な相手や関係」を何故求めるのか、というのを自分自身の問題として真剣に考えてみたことはあるでしょうか?

もっともそんなことを考えなくても自然な巡り会わせで相手が出てきたり関係が生じてしまったり、という場合もあるわけですが、なかなかそういう機会に恵まれず尚且つそのことで悩んでいるならば今一度ちゃんと考えてみて下さい。すると、そこからいろいろなことが見えてくるのです。

愛されたい、大切にされたい、と強く思っているならばそれは現在の貴方が「自分のことを大切にしておらず愛してもいない」かもしれないのです。価値を認められたい、評価されたいなどというのも全く同じように捉えることができます。

安定が欲しい、というのもまあ似たようなものです。それがたとえ「経済的な安定」だとしてもやっぱり同じことです。なぜならば、経済的に不安定な状態におかれていてもそれが即「精神的な不安的」につながるとは限らない、そういう状態でもあまり気にせずそれなりに楽しい気持ちで生きている人だってたくさんいるわけで、結局は「内的な安定、平和」を欲しているという点では上記の「愛されたい云々」のケースと何ら変わるところがないからです。自分が安定していない、つまり自分で自分を安定させられないからそれをしてくれる相手を求める、ということですよね。

また、「心から信頼できる人とつきあいたい」と思っているのに実際には全然違う相手が出てきてしまう、というのはやっぱり貴方の中に「信頼」というものが欠けているからなのです。自分というものを信じられない、自分の価値を信じられないから相手に対してそれを求めてしまう。自分でできないから「私を信頼させてちょうだい」と相手に求めることになってしまうのです。

このあたりのことをよく整理してみると、くだんの「願望」が単に貴方のエゴから来ているものに過ぎない場合も多々ある、ということがよく分かると思います。特別な関係、特別な相手というものにもいろいろあるでしょうが、普通皆さんが憧れるような「素晴らしい関係」というのは、一瞬でもエゴが消えているときにこそ現れるものなのです。

エゴから来た願望は貴方にとって危険でもあります。何故なら「私は特別な存在なのだ」と思わせてくれるような人間によって、簡単に騙されてしまうことだって十分にありうるからです。

スピリチュアルの世界では、よく「宇宙は完璧だ」といいます。宗教によっては「神のなされることは完璧だ」という場合もあります。この「完璧」というのは「貴方にとって何もかも嬉しいと思うことばかり」という意味では全然ありません。そうではなくて、求めたものが与えられる、自分が与えたものが戻ってくるというその原理が完璧に現実に反映され、現象として現れるという意味なのです。(本当はこれ以外にも大きな意味があるのですが、難解になるのでここでは触れません)

ということは、もしも貴方が自分のことを愛せず大切にもできずにいて「誰か特別な人に愛されたい、特別だと思われたい」と望んでいるならば、常に述べてきたように根底にあるほうの願望=意識の刻印・信念である「自分を愛せず大切にもできない」ということのほうが実現されてしまうのです。そういう思いを再確認されられるような相手や関係に「恵まれてしまう」わけですね。

これを逆転させるとこうなります。即ち、もしも「よい意味での」特別な相手や関係が欲しいのならまず自分自身が「そのような」状態になっておきましょう、ということです。自分が自分のことをちゃんと大切にして他人との比較無しに自分の価値を認め、他人からの評価を必要としないような状態になっていれば、また自分が自分のことを十分に信頼できる状態になっていればそのことが誰であれ相手との関係にも反映されるのです。

これを経ずに「特別な相手・関係」を求めてしまうと、ある意味で「特別な」ものが得られてもその相手との関係において全く想像もしていなかったような苦労をする羽目になることが結構多いのです。ただ、これは自分にとっての学びや変容の機会でもありますので、そのように捉えれば結果的に「愛したり大切にしたり信頼したり、価値を認めたり」ということが自分の中においても誰かとの関係においても可能になるでしょう。

本当に自分ながらどうしようもない、というような人間が誰か自分のことを全て受け容れてくれる人にめぐり合ってすっかり変わった、という例もあります。が、これもその当人が自覚はなくてもその準備ができていた、ということに他ならないのです。

これと逆に、自分をすっかり変えてくれるような相手にめぐり合っていながら自分の準備ができていないためにその機会をうまく生かせずに終わる、というものもあります。

結局「全て自分次第」ということになってしまうわけですが、だからといって「特別な相手や関係が欲しいから」必死になって努力する、というのはあまり実りがないようなのです。おそらくこれはその願望が「執着」になっているからでしょう。先に挙げたような「自助努力」みたいなものは、何かの目的があってもなくてもあなた自身にとって良いものであり同時に必要なものでもあるので、何かの結果を期待して行なうようなものではないのです。それ以上のことは「絶対他力」にしておいてあまり考えないほうが良いと思います。ちゃんと自分を整えておけばチャンスが来たときにうまく活かせる、それで十分ではないでしょうか。チャンスが来ないかもしれないのに努力なんかできない、と思うならば、チャンスは絶対来るのだと心底本気で信じきってみましょう。しかし、そんなふうに思ってしまう人は何かを心底本気で信じるなどということもなかなかできない、のですが・・・・。

   
第106回「スペシャル願望U」

(承前)ところで、人は何故特別であることを欲し求めるのか?これは一つには「価値」という感覚の問題でしょう。本当の自分探し、なるものが往々にしてこの「特別でありたい」願望と混同される現象を見ても「自分が価値ある存在であると思いたい」という気持ちが強く働いていることがわかります。ということは即ち、特別でありたい願望が強い人ほど実は自分に自信がなかったり自分の価値を認めることができていなかったりする傾向も強い、と言えるのです。

もう一つには、私たちには何か「普遍的なもの」つまり「ずっと変わらない価値のあるもの、絶対的なもの」を求めるという本性があるからだと言えます。乱暴な言い方をしてしまえば、人はおのづから「真理」を求めるようにできている、ともなります。当然のことながらそれを宗教に求める場合も多々ありますね。

ところが、そういう「絶対的なもの、普遍的なもの」を現実の生活の中で具体的に何に求めてよいか、これが普通はなかなかわからないわけです。神とか存在の源泉とか言ってもピンと来ない人は多いでしょうし、また無理やりそう思おうとしたところで具体的にどうしたらよいのかもわからないでしょう。そこで、多くの人がこの部分を省略していきなり「身近にある、目に見える何か」「はっきりそれと認識できる何か」を、これこそ自分にとって「絶対的なもの、自分に価値を与えてくれるもの、永遠に保証を与えてくれるものだ」として、というかそう思い込んで求めることになるのです。もちろんそれらは当人の思い込みに過ぎないのですが、当の本人が「これは思い込みに過ぎない」とわかっていればそんなに熱心になれるわけもない、そこでたいていの場合は「疑いもせず」求める、ということになるのです。

つまり、何か自分にとって特別なものや自分が特別でいられる何か、を求めて止まない人々というのは実は「自分が本当に求めているのは何なのか」をわかっていないのです。わからずに求めている、ということですね。更に、本当は「普遍的なもの、絶対的なもの、変わらない価値のあるもの」を求めているのにもかかわらず、現実には名声とか評判、地位、お金、誰か特定の人からの愛情、などなど「絶対でもなければ普遍でもないもの」「うつりゆくもの」を求めてしまっているのですから当然のことながらそこには常に不安や苦しみがつきまとう結果になります。まるでシェークスピアのロミオとジュリエットのようですね。うつろいやすい月などに誓ってはいけない、のと同様、絶対的普遍的なものをこの世の現象に過ぎないあれこれに求めることはできない、「してはいけない」のではなくてただ不可能なのです。

おまけに、前回も見てきたように「特別である」ことと「普遍性」とは対極の概念ですから、そこだけみても「絶対的・普遍的なもの」を求めているつもりで「特別さ」を志向することはそもそもが不可能、できない話だ、というのがわかるでしょう。

ここまでの話を前提として、今回は「人間関係におけるスペシャル願望」のことを見ていきましょう。これも前回の話と同様に、「誰かと特別な関係にあること」あるいは「誰かとお互い特別な存在であると認め合うこと」自体には何の問題もありません。それが単なる一時の錯覚だったりもするわけですが、本当にお互いにオープンでいられるお互いに特別な存在というものが既に貴方の身近にあるならば、大いに感謝・祝福して大切にして欲しいのです。ここでも、問題になるのはそういった「特別な存在になりたい」という願望や志向だけです。

きょうび、メディアの煽動もあってかともすれば「誰か特別な存在がいないと駄目だ、誰かにとって特別な存在でないような人は駄目だ」と思ってしまう人も少なくないかもしれません。しかし、何故そう考えてしまうのか、を精査してみれば上のようになります。ただ「だって淋しいじゃない」と思っているだけの人だってそれをもっときちんと説明しようとすれば、これも上で述べたようなことになります。

誰かをすごく好きになれば自然とその人が貴方にとって特別な存在になります。ここまではまだ良い。しかし、「私が誰かにとって特別な存在でありたい」というのはどうなのでしょうか?この二つをうんと乱暴に表現するとこうなります。即ち、貴方は誰かを貴方にとっての「神」にしたい、そして貴方は自分が誰かにとっての「神」になりたい、のだ、と。神、というのはもちろん象徴的な表現として言っているわけなのですが、「絶対者」というよりも「神」のほうがよりわかりやすいと思います。そして、言うまでもないことなのですがこの場合の「神」はどう考えても「絶対普遍の真理の体現者」などでは全然ないのであって、せいぜいが「偶像の神」に過ぎません。

特別さ、を求めている貴方は実は自分に価値や安心を「絶対的に且つ永遠に」保証してくれる何か、を求めているのであって、しかもそのことに気づいていない。だから、その代用品として「特別さ」を求めることになる、という具合です。

そして、一旦その「特別さ」が得られたと感じると今度はそれを手放したくない!と執着することになります。何故ならその「特別さ」は本来「絶対的・普遍的」なものであるはずだったのであり、もしそういうものならば「永遠に変わらず失われることもない」ものでなくてはならないから、失うことがあってはならないからです。そんなことがあったら貴方の価値も安心も砕け散ってしまうでしょう。

しかし、もしもそれが本当に「絶対的普遍的な」ものであるならば定義から言っても「失われる」ことはありえず、従って「失いたくない、失ったらどうしよう」などという不安や恐怖も生じるはずがないのです。そのような不安や恐怖がリアルなものとして生じるというまさにそのことが、実はその「特別さ」が本来求めていたはずのものとは別物だった、という証明になるではありませんか!

或いは、単なる現実的な利害関係からお互いに「特別」な存在になってしまっているような関係というのもあります。これは、この世の「生活」という観点から見れば一方が他方にとっての「絶対者」ということになります。が、この場合においても、自分に安心や価値を与えてくれるその相手がいなくなったら安心も価値も失われる、というのは同じです。

そうはいっても、やっぱりどうしても、「お互い特別な存在」であるような関係には憧れるしそういうふうになりたいなあ、と思う人は多いことでしょう。そのあたりは、ずっと以前「ソウルメイト」というシリーズでも触れています。私はこのコラムで「相手にとって特別な存在になるためにはどうしたらよいか」などという恋愛ノウハウを持ち出すつもりはありません。強いて言うならば、徹底的に戦略的になるか或いは全く逆にそんなことを一切考えもしないでオープンな状態でいるか、のどちらかだろうと思います。しかしまあ、特に恋愛関係においてはこの「特別になりたい」という気持ちはどうしても避けて通りにくいものだというのは良くわかるので、次回もこの続きをいたします。(この項続く)

   
第105回「スペシャル願望T」

スペシャル=特別である、というのは前回に見た愛の「普遍」とは対極にある概念です。しかし、「特別な存在になりたい」というような願望を人生で一度くらいは抱いたことがある人が少なからずいることと思います。

いきなり断言してしまいますが、この手の願望を抱くのはエゴの作用です。理由はごくごく単純です。特別というのは即ち「異なっている・違っている」ことなので、普遍性ではなく個別性を強調するものです。意識の本質―時間も空間も超越した私たちの本性―においては自他の区別がない、のに対してエゴの温床である「肉体」はいうまでもなく個人差がある、一つとしてまったく同じ個体はないのです。この部分に根拠を持つ願望は普遍や一体化よりも個別化、分離化を志向しているわけですからどうしてもエゴから出ていることになってしまうのです。

もちろん、「皆それぞれ違っていて当たり前で、それが素晴らしいのだ」という考え方もあるでしょう。しかし、これは「皆がひとりひとり違っている」ということにおいて「皆、同じだ」と言っているのです。違いというのは常に表面的なことなのですが、それでも明らかに個体差がある。見た目も考え方も感じ方も個人差がある、というのは願望でも評価でもなくて少なくとも現象的には事実を述べているに過ぎません。それに「それぞれ違うということが素晴らしいのだ」というのは別にそれぞれの「違い」の優劣などを比較していない、のも明らかですね。このように言ってしまうことによって逆に「差異」を無化してしまっているようなものです。ですから「何か特別な存在になりたい、ならなくてはいけない」と思うこととは似て非なるものだ、と言えるのではないでしょうか?

これと全く同じ事を違う言い方で表現したのが「みんな一人ひとりがそれぞれ特別な存在なのだ」というものです。全員が特別だ、というならもうそれは特別でもなんでもない、ということと同じであり、殊更に自分の個性だの特殊性だのを声高に主張する必要もなくなってしまうでしょう。

ともあれ、「私はフツーの人と違うの」と思いたい=特別な何かになりたいという「願望」は個別化・分離化を志向しているのと同じなわけです。何かの事情で特別な存在に祭り上げられてしまった人に孤独がつきまといがちなのはこのためです。ここで「願望」とカッコつきにしたことに注意してください。本人が特に望んだわけでもないのにそういう「特別」「特殊」になってしまっている場合は別に問題ないのです。だいたい、本人が自分は特別だと思っているかどうかもわからないのだし、たとえ思っていたとしてもそこに価値を置いていないのであればこれば別にエゴの作用ではありません。願望=志向するということが問題なのです。

つまり、貴方に何か特別な才能なり大多数の人々とは違ったものが備わっているということ自体は全く問題ないのです。そのことに価値をおく必要も否定する必要もない、何故こうなのだと思い悩む必要もありません。ただ、こうなのだと認識するだけで済んでしまうことです。

特別な何かになりたい、と望むからには今現在の自分が「特別ではない」と思っていて尚且つ「その自分にはあまり価値がない」と判断していることが前提になります。ということは、ここで「特別であることは価値がある」という信念ができていることがわかりますね。

さて、特別になりたい、といっても何でも良いわけではないでしょう。これはより明確に表現すれば「秀でた存在になりたい」とか「目立ちたい」とかいうようなことになると思います。これも、ただ「優れたものになりたい」というだけであれば他人の存在など関係なく自分が頑張ればよいだけの話であって、そこに「こうありたい、こうあるべき自分」を持ち込まなければ問題は生じません。それが「他人との比較」やら「世間からの評価」という観点が持ち込まれると困ったことになりがちなのです。

別に私は「特別な存在になろうという願望を抱いてはいけない」と言っているのではありません。そんなことは個人の自由です。が、この手の願望を抱いてしまうとそこにはもう絶対に苦しみがつきまとう、このことをしっかり認識していただきたいのです。これは必定です。だってそうでしょう?まず、これは基本的に普遍性や一体化ではなく個別化・分離化を志向しているわけだから、これまで何度も見てきたような「愛や幸福感」=普遍・一体化とは逆の方向を目指すことになってしまうのです。更に、こういう見方で生きているとこれまた必ずや「比較」「勝ち負け」というのがつきまとうのは避けられません。ということは必然的に人生がストレスの連続になる、というふうになるのです。

しかし、以前にこのコラムでも触れたようにいわゆる「(本当の)自分探し」というのがともすればこの「特別になりたい願望」と混同されてしまっているケースを結構見かけます。これは苦しいに違いありません。個別化・分離化願望が苦しみや不幸をもたらすだけでなく場合によってはとんでもなく破壊的になることもあるのです。これは、昨今では珍しくもなくなった「自分の存在を示したかった」とか「注目を浴びたかった」というだけの理由による殺人事件などを見ればすぐにわかることです。

まあ、これは極端な例ではありますが同じ数直線上にあることは確かです。

もしも貴方が何かの使命に目覚めてしまって「これを全うするということは世人からはかなり浮いた存在になってしまうが、それも仕方がない。」と思うならば、これは願望などではなく一つの覚悟であり決意表明です。フツーの人とは違ったことがしたいの、でもフツーに結婚して幸せになりたいの、などと思っているなら顔を洗って出直しましょう。特別である、というのは大変な覚悟を要するものであり、願望でどうにかなるようなものではありません。また、そんなことを目指す必要などどこにもないのです。

特別でありたい、という願望がおかしなふうに実現されてしまうもう一つの例が「病気」です。病気である、というのは通常「普通とは違った状態」を示しているわけですよね。でもそんな形で「特別」になってしまっても困るのではないでしょうか?時々、重い難病にかかってしまったような方がそれを一つの使命だと受け容れ、その人にしかできないような活動をしているというケースを見かけますが、望んでこういう風になりたいという人はそうそういないと思います。が、一方で自分が無意識のうちに望んでしまってこういう形で特別な状態になる、ということもあるのです。

自分が他人と違うからといって悩む人もいれば、違わなくって平凡でイヤだと思う人もいる。どちらもナンセンスです。見方や考え方・価値観の違いというのも含めて全ての「差異」は「個別化」の象徴である肉体の存在に端を発しているのであり、肉体が本質的な存在ではない、とすれば「差異」もまた然り、です。

ところで、世間的に特別なんかじゃなくてもいいけど「あの人」にとって特別な存在になりたいの、と考える人も多いことでしょう。ここにもまたワナがあるのです。次回はこれを詳しく見ていきます。(この項続く)

   
第104回「アイとオソレY」

(承前)タイトルが「アイとオソレ」であるにもかかわらずこれまで数回に渡って「愛以外」のものばかりを扱ってきました。そろそろクリスマスでもあることですし、今回はついに「愛」のことを書いてみようと思います。

とはいうものの、そもそも言葉というのは真理を表すことができない、というより真理は言葉によって直接に表すことができないものであり、表せるとしたらそれは詩や寓話などによってのみである、という事実を前にして非力な私はやはり手も足も出ずに立ち尽くすしかないのです。試みに、新約聖書のコリント人への第一の手紙13章・・・パウロによる愛についての非常に有名な叙述ですね・・を引用してみましょう。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私はやかましいドラ、騒がしいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山をも動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義をよろこばず、真実をよろこぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言は止み、知識は廃れよう。私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

(中略)

私は、今は一部しか知らなくとも、そのときにははっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」

いかがでしょうか?わかったようなわからないような・・そんな感じでしょうか?まず、この文章の前半部分では「愛」が如何に重要で必要不可欠なものであるかが説かれていますね。そしてそれに続いて「愛とはどんなものかしら」というのが説明されています。しかし、この書き方をみてもおわかりのように、ここでは「愛」の性質・属性を説明しているのであって「愛とはこうだ」と定義しているのとは違います。「直接的に述べている」わけではありませんね。

愛とはこれこれこういうものだ、愛の性質はこうだ、こういうものは愛ではない、などといくら述べたところでそれらは「愛」というものの本質には至ることができず、その周辺をぐるぐる回るだけになってしまうのです。そういうものなのです。要するに、言葉で理解するものでもできるものでもない、ということにもなりますね。

しかし、それでもやはりこの叙述は圧巻です。少なくとも今現在の自分が「愛であるかどうか」はこの記述によって検証できます。また、愛というものが「部分的なものではなく完全なものである」と述べています。これも非常に卑近なたとえに置き換えるなら「誰か特別な人やものだけに対する愛情」というのは本当の愛ではない、ということになります。つまり愛とは「完全なもの」「普遍的なもの」であり「あまねく在るもの」であり、おそらく「光」に喩えられるものなのでしょう。光があまねく全てを照らすようなものなのでしょう。以前のコラムで述べたことですが、愛というのは何かの行為である前に一つの「状態」である、一つの万遍ない状態である、それも「一部だけ愛である」ということはありえない、完全にその状態であるかそうでないか二つに一つしかありえないものなのです。

そして、もちろんある瞬間には完全に「愛の状態」であっても次の瞬間には恐怖にわが身を渡してしまうこともある、またその逆もある。その選択は完全に貴方の自由意志によるものです。ですから貴方の決意一つで、今ここで「完全なる愛」の状態になることもできるのですね。

愛にも種類がある、という言い方も存在します。いわゆるアガペーとかエロースとかフィリア、そういうものですが、本質的な愛というのはどうしてもただ一つであってそれがその時々でいろいろな形をとって表現されるということを指しているのだと考えられます。

私がここで言いたいのは、愛とそうでないものとを混同しないで下さい、ということです。これまでにも繰り返し述べているのですが、憎しみや怒りや嫉妬、悲しみ、傷つきなどは愛の反対物であって愛の副産物ではありません。それらがあるとき愛はなくなっているのです。愛しているから傷つく、のではなく愛がないから、あるいは愛でないから傷つくのです。このあたりは多くの人々にとって非常に重要かつ永遠の?課題なのかもしれませんね。怒りや悲しみについては、それが専ら相手のためのものであるならばまだ「愛」である余地があるのですが、「相手が自分の思い通りになってくれないことに対する」感情であるならばやっぱり愛の反対物に他なりません。

とにかく、近年「愛」という言葉は絶望的なほどに濫費され価値は下落する一方のように感じられます。しかし、だからといって愛そのものの価値が下がったわけではありません!それにしても、と思うのです。それにしても、いかに「愛」といわゆる「恋愛感情」が混同されていることか!恋愛感情の中にも一抹の「本質的な愛」が含まれていたりすることはあります。しかし、だいたいにおいて恋愛感情は先に述べた「憎しみ・怒り・嫉妬・悲しみ・傷つき・・・」などと容易に結びつきやすいのです。これは誰しも納得できるところでしょう。更にひどい場合には、単なる色ボケやら欲求不満でさえも「愛」という名を与えられて語られてしまうのです。

愛、というのは何らか特定の対象を必要とするものではないのです。まず自分がその状態になっていること、そうすれば「全てが」その愛の対象になる、あまねく愛で満たされるという具合です。

この「本質的な愛」の状態を知らないという人は絶対にいないはずなのです。どんな人でも絶対に知っている、忘れてしまっていることはあっても全く知らないということはない、そういうものです。

時あたかもクリスマスウィークです。信仰の有無にかかわらず、せっかくですからこういった「愛」について思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

    
第103回「アイとオソレX」

(承前)恐るべき「憎しみ」の感情に囚われてどうにもならなくなってしまった場合はいったいどうしたらよいのか?憎しみ、というとかなり大仰に聞こえてしまいますが、要するに「悔しい、あの人が幸せになるなんて許せない」というレベルのものも立派な憎しみです。そう考えれば結構身近にあるものなのです。

この対処方法について述べる前にまずご理解していただきたいことがあります。それは、「憎しみ」というのは実は「そうしたいからそうしている」ものだ、ということです。つまり「憎みたいから憎んでいる」のです。そんなことはない、私だって憎んだりなんかしたくないけどどうしてもそうなってしまうの、とかあんなことをされたら誰だって憎しみを抱くに決まっているのだから仕方が無い、と思うかたも当然いらっしゃるでしょう。しかし、貴方がどんなにイヤでも、認めたくなくても同意したくなくても、どうしてもそうなのです。たとえとりあえずであってもこのことに同意していないと次に進みにくくなってしまいます。

確かに「あんなひどい目にあったら誰だって憎しみを抱くのは当然だ」と思えることはあるものです。しかし、100人が100人とも「当然だ」と思ってくれたとしても同じ目にあって憎しみ以外の感情や態度を選ぶことが可能である以上、それはやはり真の正当性でも必然性でもないということになってしまうのです。こう言われると「いや、絶対そんなことはない!これは憎んで当然のことだ」と思うかたもいらっしゃるわけですが、それこそが「憎みたいから憎んでいる」ということなのです。それ以外の感情や態度を選ぶこともできるのに「そんなことはイヤだ!断じてこうなのだ」と、「憎しみ」を手放すのを拒んでいるわけですから、これはもうどうしたった「憎みたいから憎んでいる」以外の何ものでもないではありませんか。この点をよく考えてみて下さい。

憎しみを手放す方法としてまず挙げられるのが、「憎しみがいかに貴方にとって有害であり、貴方を不幸にするものであるか」という事実を本当に理解することです。自分を傷つけたいと思わない限り燃えている火に飛び込んだりビルの屋上から飛び降りたりする人はいないでしょう。当たり前のことですが、それらが「自分にとって非常に危険である」とよくわかっているからですね。普通、人は絶対に危険だ、とわかっていることをしないものです。「悪いってわかってるんだけどついやっちゃうのよねえ」という人は、本当にはわかっていないのです。道徳的に正しくない、のではなくて自分にとって有害だから悪い、ということ。これを本当によくかみしめて理解すれば「ああ、やめよう」となるはずなのです。やめようと思ってやめられるなら苦労はない、と思うかもしれませんね。しかし、本当にその有害さ、恐ろしさを理解したならば、憑き物が落ちるがごとくに手放せてしまうものなのです。

是非試してみてください。とはいうものの、これができる人はそう多くはありません。そこでもう一つの対処方法をご紹介します。

憎しみには当然のことながら何らかの理由がある、本人からしてみれば何かを憎むべき「正当な根拠」がある、ということになっているわけですが本当にそうなのか?この部分を徹底的に精査・検討してみるのです。そもそも何かの現象があり、それを貴方が自分の信念に従って判断・評価しそのようなものだと決定したからこそ「憎しみ」という感情を選択することになった、とは以前にも述べましたね。その根本部分をもう一度考え直してみる、というわけです。何かことが起こって、それを「ひどい目にあった」と解釈し決定するのは貴方の意識ですね。誰か他の人たちが貴方と全く同じような解釈をしてくれたとしても、先に触れたように「だからといってそれが普遍的な正当性をもつ、ということには全くならない」のです。何より、貴方は幸せになりたいのか不幸でいたいのか、という選択肢が常に先行していることをはっきりと認識しておいてください。「幸せになりたい」と思っていながら「この憎しみは正当だ!」とするのは矛盾以外の何ものでもなく、この時点で自ら「幸せになる」という選択肢を放棄していることになります。「幸せになりたいのに、憎んでしまうから辛いの」という方もいらっしゃるでしょう。ハッキリ言って「甘い!」のです。ここは断固たる、かつ厳然たる決意と態度をもって臨まなくてはならない部分なのです。なんといっても決めるのは貴方自身しかいない、何故ならそれは徹頭徹尾貴方自身のことなのですから!あなたは一体どうなりたいのか?私が幸せになるためには相手が不幸にならなくてはいけない、と思うか?自分が与えたものがそのまま自分に返ってくる、与えたものを受け取るという原理からいってこれは不可能な事態です。とにかく、何故あなたはそれを「憎むべきこと」だと判断したのか?これを徹底的に検討していくと、憎しみというものが完全に「無意味」である、つまり抱くに値しない感情であるという結論に至るはずです。また、前回も少し触れましたが、憎しみの対象を「理解」しようと努めてみる、というのもこの方法のうちに含まれます。批判も非難もなしにただ「理解」しようとするのが重要です。理解、というのはある種の愛情がなくてはできないことなので、それをする過程で既に憎しみは手放されているという具合になります。

これら第二の対処方法は「おそるべき」パワフルなものなのですが、日頃「考える」習慣が無い人―「考える」と「思い悩む」の区別もつかず、つまり感情本位で生きている人にとってはかなり難しいかもしれません。それでも本当に強力な方法なのでご紹介した次第です。

どれも私にはできそうにない、やっぱり駄目だわ・・・と思っても諦める必要はありません!次にご紹介するのは一番簡単なものです。自分ではどうにもならない感情を抱いてしまってにっちもさっちもいかなくなった、のならそれを何か「大きなもの」「超越的なもの」に預けてしまえばよいのです。これは宇宙でも神様でも守護霊でもご先祖様でも、貴方が本当に信頼してお任せできる存在ならば何でも構いません。超越的な存在であれば、貴方の憎しみを解体して変容させる力を持っているはずなのです。この苦しい感情を引き渡します、何とかしてください、というお願いの仕方で構いません。その瞬間、気持ちがスーッとなったらうまく行ったと思って大丈夫です。同じような感情に襲われるたびに繰り返しても構いません。これは実は第一の対処方法の別ヴァージョンのようなものなのですが、人それぞれやりやすいほうがあると思いますのでいろいろ試してみてください。

憎しみなどを抱いているとき、たいていその人の身体は緊張しています。ですからヨガや呼吸法などもそれなりに効果があるのです。しかし、これらも「やっている最中は憎しみのことなどすっかり忘れていたがスタジオから一歩出たら元に戻ってしまった」ということが多いですよね。つまり・・・ああ、やっぱり「憎みたいから憎んでいる」んです!ここをしっかり認識しつつ何度でも呼吸法を繰り返せばよいと思います。

どうしても、どうしても駄目だ!という場合にはいっそのこと自分の幸せは全て放棄して一生憎しみを抱いて過ごす、という選択肢もあるにはあります。これはこれでかなりの覚悟が要りますが、それができるなら、まあ絶対にお勧めはしませんが、どうぞご自由に。しかし生涯の最後に、つまり死に瀕したときその人の心にはどんな思いが去来するのか?その瞬間に全てを赦せる状態になる、ということもあったりするので・・・まあ実に、人生いろいろなのであります。(この項続く)

    
第102回「アイとオソレW」

(承前)恐怖に端を発する様々なネガティブな感情の中でもとりわけ困ったものが「憎しみ」です。「憎しみを持つのはよくありません」と、私も声を大にして申しますが、これは別に道徳的な意味で「人を憎むのは悪いことだから止めましょう」といっているのではありません。そうではなくて、憎しみは貴方自身に多大なダメージを与える、つまり憎しみを抱いているその当人が最もダメージを蒙る感情だから良くない、と言いたいのです。

あらゆるネガティブな感情の中で最も破壊力の強いものがこの憎しみかもしれません。憎んだ相手にたとえ生霊のように想念を飛ばしたところで当人自身も非常なダメージを受けるわけですし、相手にネガティブなものが少なければせっかく(?)の生霊=想念もそこに取り憑くことはできずに跳ね返されてくるのですから、本当に何も良いことがないのです。

前回述べたように、憎しみもまた恐怖から派生した感情です。何かに対して憎しみを抱く、ということは当然その前提として攻撃を受けたり被害を受けたりして、あるいは将来そうなるかもしれないという脅威を抱いているわけですね。つまり、憎むべき相手=敵、が存在してしまうのです。恐怖の場合と同様、この「憎むべき対象」もさまざまです。誰か特定の人物だけではなく、組織や国や世界や、運命や神や、自分の性格やら体形やら、あらゆるものがこの対象になりえます。いかなる意味においても自分にとって何らの脅威になりえないものに対して憎しみを抱く、ということはないはずです。一見それが貴方より断然力の弱いようなものであったとしてもやはりどこかで脅威を抱いているはず・・・つまり強大な敵となっているということになるのです。

憎しみが「強い不安感」と並んでいかに怖ろしい破壊力を持つか、言い換えれば如何に貴方を不幸にするか、これはちょっと考えても経験的におわかりかと思いますが具体的に説明してみましょう。

前回、幸せや喜びを味わっているときには必ずそこに「一体感」が伴うのに対してネガティブな状態のときにはその「一体感」が味わえないと書きました。もっと言えば、ネガティブな感情を抱いているときーネガティブな状態になっているときというのは「分離感」とも言うべきものがこれまた必ず伴っているのです。分離感というのは例えば「何をしても楽しくない、嬉しくない」などという状態を思い浮かべてくださればよく分かるのではないでしょうか。好きなものを食べても美味しくない、映画をみても楽しくない、好きなはずの音楽を聴いても何も感じない、などなどこれらは全て上記の「一体感」を失っているからですね。まあ「鬱」と言ってしまえばそれまでですが、特に鬱病と診断されるわけではなくても「憎しみ」に支配されているときたいていの人はこんな状態になってしまいます。これこそが「不幸だ」ということの意味です。

恐怖や不安などに比べて憎しみというのはその対象、つまり「敵」の存在がかなりハッキリしています。敵と自分とは明らかに別のもの、対極にあるもの・・・自分が「善」なら敵は「悪」だし、自分が「正」なら敵は「邪」である、つまりとりわけその「分離度」が高いということになるのです。そして上記のことからも明らかなように、分離感が強いほどつまり一体感からかけ離れているほど不幸だという公式が成り立ちます。

ここで注意していただきたいのは、言うまでもないことですが「憎しみを抱いてしまうような事態に見舞われたから不幸」なのではなくて、あくまで「憎しみを抱いている」というそのことが不幸なのです。

さて、貴方が誰か或いは何かを憎んでいるとしましょう。この場合、貴方はまず間違いなくその対象を理解していないのです。だからこその「分離感」なのですが、たとえその対象がどんなに貴方にとって身近なものでも、つきあいが長いものであっても、ひょっとすると貴方の一部であるようなものであったとしてもやはり理解はしていないのです。理解できないから、どういう姿勢をとってよいかわからないから憎む、ということは多々あります。理解しあっていて尚且つ敵同士、というのはいわゆる「好敵手」つまり「よきライバル関係」みたいなものですから、厳密にはここで述べているような「敵」とは違います。また、その対象を理解していて本音では愛情を抱いてすらいるのに、自分がそれを愛していると認めたくないから、或いは愛情の表し方がわからないから「憎む」という姿勢をとってしまう、ということさえありえます。しかし、たいていの場合は「憎い」その対象を理解していないのです。変な例かもしれませんが、何かとんでもない悲惨な事態に見舞われたとき「運命は、神は、何故私をこんな目に遭わせるのだ」と、その「何故」が理解できないから運命なり神なりを憎んでしまったりするでしょう。逆に言えば、人は自分が本当に理解したものを「憎む」ということはできないのです。たとえ好きになれなくても、共感も同意もできなくても、理解していれば「憎しみ」は生じません。理解、というのは当然のことながら「一体感」と似たようなものですから理解してしまえばそこに「分離感」が生じなくなるのです。

誰かに対して憎しみを抱いたとき、その相手の不幸を願ってしまうケースもよくありますね。うんと極端な言い方をすれば、これは一種の「殺意」につながります。そして以前から繰り返し述べているように潜在意識の部分には「自他」の区別がないということを考えれば、誰かに対して強い憎しみを抱くということはとりもなおさず相手=自分の不幸を願っている、自分に対して殺意を抱くのと同じことになってしまうのだ、となるでしょう。これもまた大きな破壊力になっていますね。

このことがよくわかっていれば「憎しみを抱く」「相手の不幸を願う」など言語道断、それらが道徳的にどうのこうの、というのではなくて自殺行為だからという理由で自分の意識から追い出そうとするはずです。しかし、これがまた容易ではないことだったりするのです。

憎しみを抱いているというまさにそのことが不幸である。憎しみを抱いている当の本人も決して楽しくはない、それどころか苦しくてイヤだという自覚もあるはずである。なのにどうしてもその感情を手放せず、その状態から抜けられず、それで更に苦しんでしまう・・・・珍しくもないことですよね。人によっては「こんな状態になったのはあの人のせい」だとしてますます憎しみが増強されてしまったりもするようですが、これは勘違いというものです。

さて、この苦しい感情を手放すにはどうしたらよいのか?それについて少し考えてみましょう(この項続く)

   
第101回「アイとオソレV」

(承前)どんなものであれ、感情が貴方に及ぼす影響力は凄まじいものです。しかし、今では何らかの薬物を投与することにより特定の感情を生じさせることも日常的に行なわれるようになりました。このように「人為的に」与えることができる、ということは、感情は貴方の内面にあるように思えても別に貴方の一部でもなく貴方に付属しているものでもなく、浮かんだり消えたり訪れたり去ったり、その程度のものでもあると言えるのです。それを考えればますます「感情的に判断すること」がいかに愚かしく恐ろしいかもよくわかるでしょう。一時の感情に我を忘れてとんでもないことを言ったりやったりしてしまった、それを水に流したいなら貴方も他の人たちに対して同じようにしなくてはなりませんね。

さて、恐怖という感情こそがあらゆるネガティブな感情のおおもとである、と前に述べましたがもう少し詳しく説明してみましょう。

不安、怒り、憎しみ、嫉妬、惨めさを伴う悲しみ、苦しみ・・・などなどネガティブな感情にはいろいろありますね。これらは一見「恐怖」とは結びつかないように思えるかもしれません。しかし、ネガティブな感情やら考え方には少なくとも一つの大きな共通点があります。それは「敵の存在」ということです。敵、即ち貴方にダメージを与える或いは与える可能性のあるもの・・・人でもものでも状況でも・・・がなければこれらの感情も存在しないはずなのです。敵、というのは定義から言っても「貴方を攻撃するもの、貴方にとって不利益になることをするもの」ですからそこには当然恐怖が生じます。別に「身がすくむような」と形容されるほどのものではなくても「あらまあ、危ない。ちょっと気をつけておかなくちゃ」くらいのものであっても本質的には同じことです。そして、この敵あるいは仮想的とは実にさまざまな形をとって表れます。具体的な人物や組織だったり、世間一般、世界、状況、運命、または自分自身のなかのある部分や感情だったり、ひょっとすると「神」だったり・・・とにかく「敵」の存在をリアルに認識してしまうと恐怖が生まれ、その恐怖に心が反応してさまざまなネガティブな感情を生み出す・・・というような構図になっているのです。このようにみてみると「敵」に対する感情は一般的に考えられているよう憎しみだけではない、その根本に在るのは恐怖なのだということがよく分かります。

ところで、この「敵」というのは一体何なのでしょう。上述したようにその人の意識によって何でも「敵」になりえてしまいます。実際にはどうであっても貴方自身が「あれは私に危険やダメージを与える」と認識してしまえばその瞬間にそれが「敵」になってしまうのです。自分が愛している(つもりでいる)ものがそのまま敵になってしまっていたりするケースも多々ありますね。「あの人のことが大好き、だけど裏切られるかもしれないから怖い」とか・・・また、悪いことばっかり起きる、私は本当に恵まれない、どうしてこんな目に遭うの、などと嘆き悲しみ苦しんでいる人は別に「憎しみ」を抱いているわけではなくても運命や状況や世界が「自分にダメージを与える存在」=「敵」になってしまっているわけです。ところが、以前から繰り返し述べていることですがここで再び、貴方が「世界」と思っているものは全て貴方の中にあるものが投影されて「そのように見えている」のであり、全ては貴方の「判断」によって「こうだ」と決められてしまっているということを思い起こしてください。この原則に当てはめて考えれば、そもそも「敵」というのは貴方がそのように「見て」「感じて」しまったことによってしか存在しない、現れないのです。いくら「相手が先に手を出してきた」「私は何もしていないのにダメージを蒙った」と思ったとしても、貴方がそこでそれらを「攻撃」と受け取り相手を「敵」だとみなすから悪循環が起きるのです。というより、もともと貴方の中に「敵」という存在があったからこそ外側からの刺激によってそれらのネガティブな感情が喚起されてしまうのです。

同語反復のようになりますが、恐怖だの不安だの攻撃性だの、といった要素が少ない人ほど敵が少ないものです。敵が少ないからそうなるんでしょ、と思う方もいらっしゃるでしょうが上に述べた因果関係から見れば逆もまた真なり、なのです。それに、そのようなネガティブな要素が少ない人と言うのは必然的に「敵」対的なものと出会う確率も低いものになるでしょう。

例えば、誰に対しても非常に感じの悪い人が彼(女)にだけは優しいというような場合、その彼(女)がよほど要領がいいのだとか両者の相性がよほど良いのだとかいうふうに解釈することもできますが、単にその彼(女)が「敵感情」?の希薄な人なのかもしれないのです。

さて、敵というのは再び定義に従えば「自分以外の何か」に決まっています。たとえそれが「自分の中のこういうところが憎い」「自分の体形が大嫌い」だとしても、そう思っている「自分」というのが別にいるわけですよね。自分以外の何か、とは当然「自分でないもの、自分とは分離したもの」です。分離した存在なのだからこれまた当然そこに「一体感」というものはありえません。これです。これがネガティブな感情の正体、というか何故ネガティブな感情が不幸をもたらすのか、の答えのようなものです。誰でも経験的に知っていることですが、幸せ・喜び・感謝などを感じているときには必ず「一体感」が伴っているはずです。それは本質的にはおそらく「宇宙」とか「神」とか「源泉」などと呼ばれる大いなる何か、との一体感なのだろうと思いますが、とにかくそうとしか表現できない感覚を味わうはずなのです。こういうときは、たとえそれがほんの短い時間であっても貴方の中に「敵」というものは存在しない。自分の中にないものは外在化されないからどこを探しても「敵」はいない。そういう状態になります。敵、というもの・・・危険をもたらす存在がなかったら人生どんなに楽だろうか、と思いますよね。しかし、「敵」は自分が作っているのであり自分が作らない限り存在しないわけです。いくら目の前に「危険」と思われるものがあっても「敵だ!」としてしまわなければ敵にはならない。かといって自分の身を危険にさらせ、という意味ではありません。敵だ!と判断して緊張するよりもそれをあるがままに見ているほうがより安全な対処方法を取れることが多いのです。

ともあれ、今更ながら当然過ぎることではありますが、幸福とは常に一体感とともにある、ゆえに一体感を破壊するもの=ネガティブな感情は必ず不幸をもたらす、とここで改めて確認してみた次第です。(この項続く)

   
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