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碧海 ユリカのコラム掲載。
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第300回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 28・29

28 復活=よみがえりとは?

復活=よみがえりとはごく単純に言えば死の超克である。生とワンセットで死があるような世界の超克であり、身体の超克である。これはあくまでも身体ではなくマインドにおいて起きるものだ。マインドが目覚め変容するのであり、それに伴ってマインドが映し出す世界もまた変容する。聖霊の導きによって世界の存在目的は「分離と幻想の維持」から「自身においてあがないを受け入れること」に代わり、世界は恐ろしくて悲惨なところから天国に似たものに変容する。私たちは神からの賜物にハッキリと気づくことができるようになる。

復活=よみがえりこそが「救い」なのであり、これはあくまでもこの世においてなされるものだ。つまり、これはまだ夢の続きなのであって尚且つ夢の最終段階なのだ。ここにおいて私たちは今まで現実だと思い込んでいた偽りの自己を死なせ、この身体を保持したままでこの世に生まれ直すのである。この時、身体は完全な機能を取り戻す。即ち、ゆるしと癒しと救いのためのコミュニケーションツールとしてのみ働くようになるのである。攻撃したり病んだり傷ついたりするためにあるものではなくなるのだ。

復活=よみがえりは最後のレッスンであり、ここにおいて学びは完了し神を迎え入れる準備が整ったことになる。ここまでくれば後は神が私たちを引き上げて下さるのを待つだけだ。神によって本来の状態に戻ること、神のひとり子がその父を渇望すること。それ以外を求めることはもはやなく、それ以外には興味も関心も何もなくなってしまうのだ。

私はよみがえりであり命である、とキリストは言った。復活とは「死の否定」であり、それによって「私たちは真に生きているのだ」と改めて断言することができる。死を伴わず、いかなる矛盾も内包しない永遠の生である。よみがえりによって立ち現れる世界には一切の矛盾がない。私たちの知覚認識機能が正されるからだ。生はどこまで行っても生であり救いであり、愛はどこまで行っても愛であり恐怖と混同される余地はない。その一方で、苦痛や惨めさはそれが快楽や喜びと混同されることなくただありのままに「地獄」として知覚認識される。

あらゆる偶像は消え失せ、真の神だけが私たちのマインドに想起される。生けるもの全てがキリストの顔を映し出し、あらゆる間違いは隠されたままにされることなくゆるしの光に照らされて正される。悲しみは神の御心ではなく、従って「間違い」である。ゆえに悲しみもまたこの世から消え失せる。この世は、神の御心と同じマインドが投影されたものになる。即ち、天なるよろこびに満ち満ちたところになるのだ。

学びが完了した人は既に知覚認識機能が正され、キリスト=聖霊のヴィジョンが身についているはずである。あらゆる間違いが正されれば幻想は「ありのままに」全く無意味なものとして認識される。従って恐怖も攻撃もなく、ただ平和だけがある。テキスト篇で「常に平和を得ることを目指しなさい」と出てきたが、それもまたここにおいて完全に達成されたのだ。私たちの思いはいつでも神の御心と同じほうを向いており、そこにこそあらゆる善きものが尽きることなく溢れているのにも気づくようになる。ゆえに、求めるものは全て与えられていたとわかるだろう。応えられないままに放置されるものなど何一つないのがわかるだろう。全てが「今ここ」に与えられているのだ。

これは夢の最終段階であり、「本当の世界」であり「幸せな夢の中」である。つまり、復活=よみがえりを成し遂げてもそこはまだゆるしを必要とする次元なのであり、そこに私たちはゆるしとあがないを為すという目的を持ってとどまっているのだ。しかし、ゆるしは「最後の幻想」なのでもある。幻想が全て消え失せてしまえばゆるしもまたその存在意義を失って消え去るだろう。ゆるすものが何もなくなるからである。その時こそ、ついに神の御言葉である真理が姿を現すのだ。真に求めれば求めるほど、それは速やかに訪れる。

それは必ず訪れる!時空を超えた「とこしえ」の世界が必ず訪れるという期待が私たちの心の奥底から突き上げてくる。そこに死はなく、また恐怖もなく神のひとり子はとこしえに自由である。私たちを不自由にさせるものは何一つない。今まで不自由だったのは幻想を現実だと思い込んでいたからだ。いまや、幻想は幻想として何の意味もなく作用ももたらさないものになったのだ。ゆるしという光に照らされて神のひとり子は罪も穢れもない全きものとして立ち現れる。 幻想は幻想として「正しく」知覚認識されるため、あらゆる「差異」もまた事実上消失する。違いは見えても違いではなくなる、ような感じである。あなたが愛そのものならばあらゆるものにその愛が投影され、あなたには愛だけが見えるようになる。言い換えれば愛がそれじしんを見ているわけだ。そこにはやはり事実上「他者」がいないのだ。身体が見えてもそれを幻想だとわかっていれば、そこには「ただ一つのマインド=神の御心から生み出されたもの」しかないとわかるだろう。

復活=よみがえりの世界は、人の子として生まれ、神から離れた個としての自分を死なせ、神のひとり子としてよみがえったキリストの世界でもある。そこにはキリストの聖性が満ち満ちており、私たちもまたキリストと同じように聖なるものだという事実を受け入れるようになる。神からつくられたありのままの自己を受け入れるようになる。私たちの思いを神の御心と同じようにしてください、ということだけを願うようになるのだ。何故なら幸せも喜びも何もかもがそこに、そこにのみ在るからである。そこから離れたことこそがあらゆる不幸の始まりだったとわかるからである。

ここに書かれているような状態・次元に私たちはいつか必ず至るようになるが、今はまだそこまでの準備ができていないだろう。神の御心だけを喜んで求めよう!というレベルにまでは達していないだろう。マインドのどこかが悪夢を現実だと思い込んでいるうちは、この世は天国に似たところになれないのである。つまり、あなたが少しでも苦しんだり悲しんだり怖がったりしているうちはダメなのだ。神から遣わされた教師は、少なくともこの天において世人に一歩先んじているはずである。悪夢を現実だと思い込み、それを実際に投影して世界を作り出してしまっている人々、いまだ目覚めていない人々に平和とよろこびと祝福を教え示すのが彼らの任務であり、そのためにゆるしや癒しがあるのだ。

否定され忘れ去られ殺された真の自己、神のひとり子に祝福を与え、自らの判断や批判を捨てて聖霊の判断に委ね、いまだ闇の中で喘いでいる人々のその苦しみの姿の代わりにキリストの顔を見てあげる、すなわち彼らの真実の姿を見てあげることがゆるしであり「あがない」なのである。

真実の姿を見てその意味を理解すれば、誰でも神のひとり子としてよみがえり救われるのだ。真の自己はあらゆる幻想から解放されており、完全に自由である。彼(女)を不自由にしておくものは何一つないからである。自らのマインドが間違いに陥って自分自身を不自由にしない限り、私たちはいつだって自由なはずなのだ。かつてあなたが求めていたあれこれはあなたを幸せにせず、むしろ苦しめるものだった。自分を苦しめているように見えていたあれこれ、それらもまた聖霊の光によって新たな解釈を与えられれば、あなたを助けよろこびを与えるものとしてよみがえり復活するのである。言い換えれば「あらゆるものが神の御心に適うようになる」のだ。そこに至って初めてあなたは神を迎える準備ができたことになる。

かなり乱暴な言い方だが、とにかくまずこの世界が「光り輝く素晴らしいところ」に変容しない限り私たちは天国に至ることができない。悲惨なこの世からいきなり天国に直行というわけにはいかないのだ。まずはこの身体を持ったまま、この世界に身をおいたままエゴたる自分を死なせて神のひとり子としてよみがえる=マインドが完全に変容する、ここを経なくてはならない。これを経ずに、たとえば「この世があまりに苦しいので天国に行きたいんです」とか思って自殺しても全く意味がないのである。

神に直接至ることは滅多にないのでそれを目指す必要はない、と言っていた「コース」だが、この「よみがえり」については「学習カリキュラムの完了」だと言っているのだから私たちは「コース」をきちんと学習すればそこまでは行かれるはずなのだ。


29 その他について

このマニュアルはテキスト篇とワークブックの補足にあたるものであり、テキスト篇とワークブックに出てくる主要な概念のいくつかを簡単にまとめつつその中のほんの一部を取り上げたものであって、教えと学びの現場において想定される質問と答えを全て網羅するものではない。従って、テキストやワークを読まずにマニュアルだけ読んで済ませることはできない。名前は「教師用マニュアル」となってはいるが、テキストもワークブックも完了して「神から遣わされた教師」の資格を得ていないうちに読んでも構わない。何故なら、生徒もいつかは教師になるのであって「教師・生徒」という区分は暫定的なものに過ぎないからである。「奇跡のコース」の、テキスト篇とワークブックは「最初から順番通りに、飛ばさずに全部やる」のが鉄則である。それさえ守れば、この「教師用マニュアル」はどこに混ぜ込んでも構わない。通常はテキスト篇で原理原則をしっかり学んでからワークブックをやるのがお勧めだが、「教師用マニュアル」を真っ先に読んだっていいのである。(ちなみに私はテキスト篇が終わってワークブックを始める前に読んだ。)

「コース」学習は、上に書いたとおり決められたカリキュラム通りに進めなくてはならないが、あなたの周囲のあらゆる人が「コース」をやるわけではないのだしまたその必要もない。従って「コース」で学んだあれこれをあなたが実践で教え示そうとするときには「コース」の中身なんかに一切触れず、それを十分に消化し受肉化したうえで状況に応じて臨機応変な対応をしなくてはならないのだ。「コース」にある通り理論的に説いたほうが良い場合もあるし、ただ祈るだけのほうが効果的なこともあるし、それどころかただ微笑みを投げかけるだけで十分という場合さえある。理論的な説明は難しすぎてわからない人、あまりに心を閉ざして何を言っても聴こうとしない人には、その人が受け入れられる範囲内の対応をしなくてはならない。何をどこまでやるかは本当に相手次第、状況次第なのだが、それを「あなた」が判断・決定してはならない。常にその都度、聖霊に判断を委ねるのがこれまた鉄則なのである。それがもっとも間違いないからだ。判断し決定することは聖霊の役割であって、「あなた」の役割ではないし「あなた」にはその機能も能力も、責任さえも元から備わっていないのである。あなたの役割は「どうしたらよいか」を聖霊に尋ね、委ねることだけである。聖霊は絶対に間違うことのない教師でありガイドなのだから、喜んで任せてしまえばよい。自分でロクにわかっていないようなことを必死で考え判断したところでやっぱりロクなことにはならないからである。普通に考えてもそうですよね。これは、「いずれ自分でもできるようになるのだが、今はまだ無理だから聖霊に委ねなさい」という意味ではない。何をどうやっても「このワタシ」には正しい判断など永遠に絶対できないんだから、もうそういうふうになっているんだから、まずそれを認めて受け入れなさいと言っているのである。

一般的に言っても「自分にはできもしない、自信もなく資格もないようなこと。自分がやってはいけないこと」をやろうとし、更にその責任まで負わされるのは大変苦しいことである。それどころか恐ろしいことでもあり、「ああどうしよう、本当はワタシ何も知らないしできないのに」という疚しさや罪悪感も生じてしまうだろう。何十年も運転をしていなくて運転免許もとっくに失効しているのに、よりによって運転の難しい車で「要人を空港まで送りとどけて下さい」と言われてつい引き受けてしまったときの気持ちを想像してみて下さい。たまたま何とかやりおおせたら今度は「じゃあこれからずっとお願いします」と言われてしまったりして、そうなると「ああどうしよう、この間はたまたま何とかなったけどいつかバレる。失敗する、ひどいことになる」という恐怖と罪悪感に陥るだろう。

しかし、あなたがやろうとしているのはそれ以上のことなのである。車の運転ならまだ免許を取り直して練習すれば済む。だが、「正しい判断と決断をする」能力はどんなに練習しようが「このワタシ」には絶対に、未来永劫身につかないものなのだ。そのことに気づかず「自分で判断して決めよう、自分が何とかしよう」と思ってやっていれば、自覚はなくても大変な恐怖と罪悪感に囚われるはずなのだ。というか、多くの人が自覚なくこうして恐怖と罪悪感を育て強化しているのだ。何故なら、この世界では「自分で考えて決めなさい」が当たり前であり、それどころか望ましいこととされているからだ。実はそんなことできないしやってはいけないなどと誰も思っていないからだ。

逆に言えば、聖霊に委ねることが日常的に且つ頻繁になればなるほど私たちは必然的に罪悪感や恐怖から解放される。自分ができないことはさっさとできる人に任せてしまえばよい、それも「絶対に間違いのない、完全に信頼できる者」に任せてしまえばもう何も心配要らない。更に素晴らしいことには、こうして恐怖から解放されればこれまた必然的に愛が戻ってくるのである。自分で判断しようとせず聖霊に委ねる習慣がつくほどにあなたは「愛」に満たされるようになるのである。

真理に至る学びの中には逆説的なことが多い。与えれば与えるほど多くを受け取るとか、健康になりたかったら身体のことを忘れろとか、例を挙げればキリがないがここにもまた一つ逆説が出てくる。「ワタシひとりでは何もできません」と認めればあなたは万力を得るのだ。もちろん、私ひとりでは何もできないから誰かを見つけて依存しよう、ということではない。何故ならその「誰か」もやっぱり「ひとりでは何もできない」に決まっているからである。それを超えたものに委ねなくては意味がない。簡単に言えば、いわゆる明け渡し=surrenderによって聖霊の或いは宇宙の全ての力が流れ込んでくるのである。

ここは「個であるこのワタシ」と「本来の自己」が混同されてしまうとわかりにくくなる。個であるこのワタシには何も、なあんにもできないのだが、神から造られたままの本来の自己たる「私」には神と同じ力が宿っているのだ。更に、個であるこのワタシなんて本当は実在しないのだった。これは本来の自己を忘れ果てたあなたがでっち上げたイメージに過ぎない。イメージに過ぎないものは何もわかっていないし、そこに力があるわけないのである。おまけにこのイメージは「神から離れ、神ならぬこの身」という、それじたい初めから力を放棄したようなものである。これでは話にもならないではないか。全く何も知らず、何もできないにもかかわらず、私たちは「できる」と思い込んで生きてきた。そしてそれが図らずも(しかし不可避的に)恐怖と罪悪感を育てる結果になったのだ。

これに対して「本来の自己」とは、神において聖霊と一つのものである。おなじ「わたし」でも天と地以上に違うのだ。あなたが本来の自己であっても聖霊であってもやはり「私」と言うだろう。その時「わたしにはできる、わたしが判断する」というのは正しいことだ。つまり、あなたは今どの「わたし」なのか。

聖霊の判断は常に真理を反映しているので、たとえば「あらゆるものは神において一つである」という事実を反映しているのでいかなる種類の攻撃もありえず、従って罪悪感を生じさせることもない。これなら全てのものに対して利益や助けを与えてくれる。

本当はできもせず、やる資格もないことを「できる」と思い込むのは一種の自己欺瞞である。他者に対してよりもまずあなたは自分自身に対して誠実でなくウソをついていることになる。それをまかり通らせているのがこの世界なのだ。

神から与えられた力、神からの賜物は「あなた」という場において働く。あなたはただそこにいて身体を貸すだけだ。あなたが聖霊に委ねれば、あなたに本来備わっていた力が動き出すのである。「個としてのあなた」が神からの力を使って何かする、というのではない。この違いはわかりますね。

ところで、「聖霊に委ねる、任せる」「聖霊の導きを求める」と言われて「じゃあ、聖霊さまお願いします」とかいって何か降りてくるのをじっと待っていて、その間何もできなくなるという人がたまにいる。聖霊と交信して相談しないとわかりません、とか。これはまったくナンセンスなのであって、「コース」が言っているのはそんなことではない。もちろん、そういう形でメッセージを受け取るタイプの人もいなくはないが「コース」はそんなことを目指せと言っているのでもない。とにかく日々、できるだけ多くの時間を「浄化されたマインド」で過ごしていれば自然に聖霊が働いてくれる。つまり、四六時中マインドを感謝と平和で満たすようにしていれば良いわけである。是非これを習慣にしてほしい。そういうマインドが聖霊を招き入れるからだ。あなたは「自分がやった」のか「聖霊が決めた」のかわからないまま何かを決め判断しているかもしれない。にもかかわらず聖霊の導き通りに正しい判断ができるようになるのだ。

教師用マニュアルの16章にも出てきたとおり、私たちは朝毎に夕毎にマインドを鎮めて聖霊とともにいる時間を持つべきなのだった。その日いちにちを聖霊とともに過ごせるように毎朝祈り、夜にはその日いちにち導いてもらったことに対して感謝の祈りを捧げるとか、いろいろ工夫してやってみて頂きたい。

聖霊の助けや導きを求めるとき、言葉は重要ではない。私は自分が思っていることをうまく言い表せないからダメよ、なんて落ち込む必要はまったくないのだ。これも前に出てきたことだが、聖霊は言葉でなく心の求めに応じるのである。たとえ言葉で「このバカ野郎、死ね」と言っても心が必死で愛と助けを求めているのなら、聖霊はその愛と助けを与えてくれるのだ。あなたが本当に求めているのは何か、聖霊には明白にわかる。神から遣わされた教師であるあなたが誰かの攻撃や罵声をやはり「愛と助けを求める叫び」と捉えるのと同じように、である。神はそのひとり子を苦しませておくようなことはなさらない。苦しみ続けるのはあなたのマインドがオープンでなく助けを受け入れることができないからなのだ。もう死んじゃいたい、とか自傷行為に走ったりしたとしてもやっぱり神はいつでもあなたを守り続けている、そういう存在なのである。それが「神は愛なり」ということなのだ。

あなたは神によって完全につくられたものであり、また愛でもある。それを思い出しなさい。あなたの弱さは神の強さである、というのはわかりにくい表現だ。あなたが「私は弱い」と思う時の「わたし」は本来の自己ではない。本来のあなたには神と同じ力が宿っているのであれば、「私は弱い」と知覚認識するのは幻想であり間違いなのだ。幻想の「ワタシ」は弱い(に決まっている)が、神のひとり子としての「私」は強い。そのことは実際に聖霊が示してくれるだろう。だからあらゆることを聖霊に尋ねなさい、そうすれば聖霊は応えてくれるだろう。いつかそうしよう、ではなくて今すぐにここでやりなさい。いつか応えてくれる、ではなく聖霊は常に今ここで即時に応えてくれるのだ。長い時間がかかるとすればそれはあなたの側の問題である。

前章で「神を迎え入れる準備をする」と出てきたが、準備をするのも待つのも専ら私たちの側なのだ。神は準備することも待つこともない。言葉のあやというか表現として「神はあなたを待っていて下さる」などと書かれていることもあるが、「待つ」というのはその言葉の中に既に時間的要素が含まれている。そういうものは時空を超えた神にはありえないことなのである。神はただ変わらずにとこしえに、そして常に今ここに「在る」だけだ。

今までの「あなた」、つまり傷つきやすくて恐怖に囚われ、危険な世界に生きている「ワタシ」というイメージをちょっとの間でもいいから忘れてみましょう。良しあしの判断をこれまたちょっとの間でもいいから手放してみましょう。神は本来のあなただけをご存じなのであり、あなたは神につくられたとおりのものであり、神の御手に抱かれている。今もこれからも、とこしえに。そのゆえに私たちは神に感謝を捧げるわけだが、その「わたし」は既にキリストと同じ神のひとり子になっている。愛が愛じしんを見るように、感謝もまた「誰が誰に」などという他者性を越えてそれじしんにおいて与え受け取られるのである。

「あなたが為す全てのことに祝福あれ。あなたが世を救うのを神は手助けして下さる。神から遣わされた教師よ、神はあなたに感謝を捧げる。あなたによってもたらされる神の御恵みのうちに全世界は立ち止まる。あなたは神に愛された子、あなたを通して神の声が世界中に聞かれるだろう。あらゆるものは時間の支配を受けなくなり、あらゆるものが視界から消え去るだろう。変わりゆくものはみな消滅するだろう。見えず聞えもしないが真に存在する世界はあなたによって開かれるだろう。

あなたは聖なるかな。世界はあなたの聖性によって照らされ光り輝いている。あなたはひとりきりではないのだ。私はあなたに感謝を捧げ、神のためにあなたと一緒に頑張ろう。それがわたしのためでもあると知っているからだ。そして、私とともに神に向かって歩く全ての人々のためでもあると知っているからだ。アーメン」

第299回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 26・27

26 じかに直接、神に至ることは可能なのか?

まず、直接到達するも何も私たちは元々「神と一つ」なのだった。そういう意味では既に到達してしまっているというか、神と自分との間にわずかな距離もないわけなのだが、もちろん私たちはその本来の状態を忘れ果ててしまっている。神意識も神の御言葉=真理もあらゆる人の中に手つかずのままで存在するのだが、このことに気づくのはやはり容易ではない。真理=神と自分とを分かつあらゆるものがそっくり取り払われなくてはならないからだ。それはもはやこの世ではない。この世に在ってこの世を超えることはできるし、この世に在って天国を味わうこともできる。その時私たちは聖霊に満たされ神を感じるだろう。しかし、文字通り「神そのものに到達する」というのは!この「神」とは、神が遣わした神の一部である聖霊の化身などではない、神そのものなのである。そこに到達したときにはおそらく神も何もない。言語が生じる以前の状態なんだから言語で表せるわけもない。だからそういう状態に至った人は大抵そのことについて多くを語らない。

この世において神を感じたり、神を垣間見ることはできる。つまり、聖霊を通じて(介して)つながるわけである。神から遣わされた教師はそれを介さず直接に神とひとつであることをハッキリ感じられることはあるが、ほんの一瞬かそれ以上か、いずれにせよ長くは続かないものだ。それさえ、もうとんでもないくらい信仰に身を捧げた末のことである。この世にいながらかなりの時間をそういう状態で過ごせる人もいなくはない。が、これはかなり稀なことなので目標にするにはあまりにも現実性がない。そうなったらなったでいいし、ならなくても別に構わない。だから、とりあえず今のところ私たちは「他者」(のように見える人々)との境目をなくしていくことだけを心掛けていれば良いのだ。まずはこの世の人々と「ひとつである」ことをマインドにおいて実現するのだ。そうすればあなたはこの世に在ってこの世を超えることができるだろう。

神とひとつになっている或いは神と直接交流し一体化している状態を自覚しつつ生きる、というのはどうやらかなり無理なことのようである。全然無理なくそれをやっているわ、という人もいそうだが、その人たちが直接交流しているのは「神」じゃなくて実は聖霊の一種なのだろう。彼らはそれを神と思い神と呼んでいるのだろう。とにかく、じかに神と交流できるようになったら身体は完全に不要となり、更にそういう状態を身体は支えきれないのだ。文字通りの意味であらゆる幻想を「捨て去る」しかなくなるのだ。簡単に言えばそこまで覚醒してしまった人は死にますよってことですね。もっともそこに至ればもはや身体もなく死もなく自分もないんだから、身体として生きていようが死のうが全然問題じゃないはずなのだ。

そういうふうにして身体じゃなくなった人たちは古今東西少なくないのである。「コース」は彼らを「教師の中の教師」と呼んでいる。キリストももちろんその筆頭格である。彼らには身体がないので目には見えない存在ではあるが、逆に言えば身体じゃないので時空を超えていつでもどこでも私たちの必要に応じて姿を見せてくれたりするのである。まあ、聖霊の一種だと考えてよいと思う。姿が見られなくても、彼らはちゃんと私たちを助けてくれている。直接的に何かの形でメッセージをくれることもあるだろうし、或いは書物を通じてのこともある。どういう形で、かはわからないが、彼らは助けを必要としている人々のところに必ず現れる。用もないのに来るなんてことはない。彼らのうちの誰かの名を呼んで助けを求めればそれは必ず与えられる。ここでは具体的に名前が挙がっているわけではないので、たとえば誰の名前を呼べばいいのか私たちにはわかりにくいのだが、少なくともイエスキリストなら間違いないだろう。その他、ここのブログに貼り付けているアヴィラの聖テレサとかエックハルトなども「教師の中の教師」だろうか?

彼らには私たちのことが全て見えているのだ。私たちが間違いを犯していることに気づけばそれを正して浄化してくれる。彼らの名において助けを求めれば応えてくれるし、私たちに必要なものがあればそれを与えてくれる。

身体という(実体はないにしても)制限を文字通り取り払い、時空を超えて即ちより広範に且つ変幻自在に私たちを助けるという目的のためだけに身体を捨てる人たちもいる。が、これもまた非常に稀なことだそうである。ただ「そうしよう」とだけ思って自殺してもダメなんだろう。

このように身体を捨てた「教師」たちは、いまだ幻想のこの世で苦しんでいる人々をよりたくさん助けるためにそうしたわけだが、それをするためにはこの世の助手みたいな存在が必要なのである。神と完全にひとつになった彼らの言葉を受け取り、それによって他の人々を教え助けるような存在・・・即ち「神から遣わされた教師」である。この世界の地に足をつけた教師たちと連動することによって彼らの目的は全うされるのだ。

この世界は幻想の産物であり、それを成り立たたせている全ての常識や法則は私たちを「身体=人間」に留めておくためのものであり、私たちをその枠の中に限定するものである。これらはみな幻想であって実体はないのだが、私たちは身体を持ってこの世に生きている限りこれらを「なくす」ことはできないのだ。なくすことはできなくても、その効力から自由になることはできる。それらに縛られないでいることはできる。それが解放なのであり救いなのである。それだけでももう十分以上なのである。

神と究極の合一状態になんかならなくても、サイキック能力が出てこなくても、正しい目的を保って聖霊に委ねていれば必要なものはその都度すべて与えられるのだ。苦しんでいる人と出会えばあなたはその人が理解できるように語り、その助けになるだろう。救いを必要としている人と出会えばあなたは自分を、そして相手を呪縛している「間違い」に気づき、それを正して手放すだろう。そうしなくてはならないのである。救いとはそうやってそのつど実地に為されていくものなのだ。

本当の意味での「神との合一」というか、本来あったところの状態に「完全に」帰ること、これについては「そういうこともあるのか」くらいに留めておいて、間違ってもいきなりそこを目指したりしないでほしい。私たちの目的はあくまで救いでありまたあがないや癒しなのだ。それを十分に経ないでいきなり「合一」なんて、まあそうなってしまう場合もなくはないのだが、かなり危険なものかもしれないので「コース」も常に「いきなり目覚めるのは危険」と言っているのである。

今ここで直面している問題だけを見て助けを求めなさい。そうすれば必ず応えられる。答えは必ず与えられる、というかいつでもここにある。あなたはそれを受け入れさえすればよいのであって、受け入れたものは必ず周囲の人たちにも与えられる。必要なものは何らかの形で必ず与えられるのだと信じよう。あるいは、もっと単純に考えてもよい。たとえば今あなたが何かで悩み苦しんでいて「平和になりたい」と望むのなら、今ここで平和になれるのである。身体の痛みもおそらく同じであって、まずマインドを苦痛から解放すればあなたは「苦痛」から解放されるのだ。こういうことが普通にできるようになるほうが今は「神との合一」なんかよりずっと重要なのだ。ま、神と合一しちゃえばいかなる苦痛も恐怖もなくなるのではあるが、それにしてもそんな究極の状態をいきなり目指すのはあまりに現実性を欠いている。

神の、即ち聖霊の導きを信頼して従っていればあなたには必要なものがその都度すべて与えられ、何も欠けるものはない。


27 死とは?

死とは、一般的な定義によれば身体の生命の終わりである。生命がなければ死もないのなら、死がなければ生命もない。死と生命とは絶対矛盾的自己同一の関係にあり、対極にありながらもワンセットなのである。しかし、「コース」の教えは一切の矛盾を認めない。矛盾がある、というそのことこそがこの世の特徴であって、ゆえに「この世はおかしい」と言っているのである。「コース」の教えでは、生はどこまで行っても生のはずであり、その裏側に常に死があることによって成立する生など「ありえない」、つまりそんなもの生だとは言えないのだ。このような矛盾が「大常識」として平気でまかり通っているのは一にも二にも「身体=生命体」が存在する(と思われている)からである。そして、こういう最も基本的な部分における矛盾が「あたりまえのこと」として普通に受け入れられているこの世だからこそ、矛盾=対立=争いもまた同じようにあたりまえの現実として受け入れられてしまうのだ。つまり、「生まれたものは死ぬ」=生の中に死が含まれている、のが当たり前の世界ではその構造から言って平和など絶対に不可能なことになる。

別に人間に限らない、動植物でも何でも生まれたものは老いて活力を失ってやがて死ぬ。それが自然の法則であり自然の摂理なのだと誰もが疑いなく信じている。いつどうなるか誰もわからない、明日死ぬかもしれない。生命とはそれくらい不確かであり、それに対して死は絶対確実である。遅かれ早かれどんな形であれ、生まれたものは絶対に死ぬ。そして、これは神の御心であるとさえ信じられている。普通に考えても、病の時には神に命乞いをし、死ねば「天に召された」というのは明らかに矛盾である。天に召されるのが幸せなことなら病になっての命乞いはしないはずだからだ。私たちの命は神の御心次第なのか?まあ、私たちの人生や世界や身体の生命があまりにも不確かで頼りないので、何か起きても全部「神の御心」だということにしておけば楽ではある。じじつ、敬虔な信者の人々はたいていそう思っているだろう。

しかし、本当にそれは神の御心だろうか?そもそも神は身体を創造してはいないのだ。ならば、自然の摂理であると信じられているあれこれもまた神によるものではないはずである。この世界、いや全宇宙でさえそれを物理的に捉えるならば神の創造によるものではないのだ。簡単に言えば、変化するものは全て神の創造ではなく私たちのマインドが投影によって作り出したものである。

多くの人々がもっとも恐れているのは死であり、だからこそ「永遠の生」と言われるものが救いになってきたわけだが、「苦しみながら生きることのほうがずっと怖い」という人もいて、こういう人々にとっては死が「苦しみを終わらせる救い」になるのだ。でも、死なないと楽になれない・救われないような「生」っていったい何?と思わないだろうか?その点、「コース」学習による真の救いなら「ここで生きながら苦しみを終わらせ救いを得られる」のだから、もうこんなありがたいことはない。

私たちの「身体の生命」が神のものであり神の御心しだいなのだったら、普通に考えればどうしたって神は「恐ろしい」存在に映ってしまう。よほどの信仰を持ってでもいない限り、あなたやあなたの身近な誰かがある日突然思いもかけぬ形で命を奪われたらそれを「神の御心だ」と言って喜んで受け入れたりはできないだろう。そこに神の限りなき愛などかじることはできないだろう。神に見放されたと思ったり神は残酷だと思ったりするかもしれない。恵み深き神ではなく「私たちの生命を意のままにするもの、私たちを支配するもの」であり、私たちとは全く別の存在だということになってしまう。

そういうわけで、一般的には死に対する恐怖は神に対する恐怖と同じものになっている。神に見放されたら死ぬ!神を怒らせたら死んでしまう!そうならないように神を信じ崇めよう、というのではまるで神と取引しているみたいではないか。一生懸命お祈りでもして神の機嫌をとって賄賂でも贈れば丈夫で長生きできると考えているかのようである。裏返せば、それをサボったらたちまち神に見放されると思っているのであって、これではやっぱり神は「絶対の愛」でなく「君臨する支配者」に過ぎなくなる。ちょっとでもブチ切れられたらお終い、その恐怖(もちろん罪悪感に裏打ちされた恐怖である)が多くの場合信仰の基盤になっている。要するにみな「神の怒り」を恐れているのだ。

死んで埋葬された神のひとり子の「身体」は腐敗し虫に食われて朽ち果て、その虫たちもまた同じように死んで朽ち果てる。生まれたものは、生まれたがゆえに死ぬ。死の原因は病気や負傷なのではなく生(命)そのものなのだ。それを私たちは自然の摂理と呼ぶ。

しかし、身体の生命=生死と神とを結びつけることはできないのは明白で、何故なら神には永遠の生しかなく神は身体を作っていないからである。

さて、身体は死んでも魂は生き続けるという考えもまた一般的であるが、だからといって人が死を全く恐れなくなるわけでもない。ある部分は死んでも別の部分は生き延びる、私たちは「身体と魂」から成っていて身体は死んでも魂は生きる、というのは至極まっとうな考えに聞えるが、「コース」はこれさえ認めない。この場合についても死が「現実にある」ことには変わりないからである。つまり、私たちの存在が「身体と魂」の二つによって成り立っていて、その両方ともが実在だとしたうえでの考えに過ぎないからだ。だが、真理に少しでも虚偽が混じったらそれはもう真理とは言えない、それと同様に生に少しでも死が混じったらそれはもう生ではないのだ。身体が幻想であり魂が真実だとすれば、身体が死ぬのもまた幻想であり、要するに身体も死もともに「ない」ことになる。身体が死んでも魂が生き延びる、のではなく「身体は初めからなかったのだから死もない」のであり、身体=生ではないのだ。

再び、生はどこまで行っても生なのであり、いかなる形であってもそこに死が入り込むのは矛盾になる。あたりまえのことのようだが実は矛盾、そういうものがこの世には山ほどある。愛と恐怖、愛と憎しみ、愛と不安などもみなそうではないか。愛しているから憎いんだとか心配なんだ、とみな平気で言い、聴くほうもまた普通に聴いているではないか。

神から遣わされた教師たるもの、この手の矛盾を認めてはならないのである。何故なら神には矛盾がありえないからだ。神の御心にないものを真実・現実として受け入れるわけにはいかないからだ。神の御心には分離もなく、分離を象徴するところの身体もなく、従って死もなく、もちろん恐怖もないからだ。そして、そのことを教え示すのが神から遣わされた教師の役割なのだからだ。

神が身体を作っていないことは既に明白なのだがこれを今一度確認すると、もしも神が身体を作ったのだったら神は「死すべきもの」=神じしんとは違うものを作ったことになり、更に「ひとりひとりが別もの」という「他者の存在する世界」を作ったことになり、そうなれば対立や争いは不可避である。そんな世界を作ったものを「コース」は神とは呼ばないのだ。だいいち、これだとそもそも神の中に「分離・バラバラ」という概念があったからこそそれが投影されたことになってしまう。どこまでいっても「一」である、しかも完全無欠な「一」であることこそが神の本性なのだから、これは絶対にありえないことだ。

そして、神により神に似せて造られたものが「死ぬ」のならそれは「神も死ぬ」のに他ならず、これまた定義により絶対にありえない。

更にもう一度確認。死はあくまでも生命体=身体にとって現実なのであり、私たちが自分を身体=生命体だと信じているその分だけ死もまた現実のものとなる。死だけではなく、老化や病気も含めたあらゆる変化が現実のものとなる。死は怖くないと思っている人でも老化や病気や障害は怖いと思うかもしれない、でも結局はみな「身体を実在」と信じるからこそ生じるものなのだ。

身体を実在のものと信じる世界は死もまた実在のもの、どうやっても避けられない絶対確実にして不可避のものとなる。聖書にもあるように「私は既に世に打ち克っている」のなら死もまた超克されるべきものである。逆に言うと、死が超克されればこの世界はもはや存在しない。死を超克したあなたにとって、世界は完全に一変するのである。そこには恐れるべきものが何もなくなる。神はただ愛であり、恐怖の対象ではなくなる。神のネガみたいな悪魔もなくなる。あなたの眼前には一切の矛盾がない神の御心だけを投影した世界があるのだ。

これこそが救いの最終段階であり、全ての幻想の終焉である。あらゆる幻想は個としての生命体=身体を実在と思い込んだところから生じたのであり、言い換えれば私たちが「神から離れ、神のひとり子ではなくなった=神のひとり子を殺した」という思い込み、もっと言えば「神の死」という考えから生じたのである。死から生じたものなんかにまともな生があるわけもないではないか。そんなところでまともに「生きる」ことなんかできるわけがないではないか。

どこまでも無理があるこの世界を「あたりまえ」として成立させるために、私たちは「身体も死も愛も恐怖も憎しみも神もみんな現実」だと信じこむ、というメチャクチャなことをしてきたのである。それらをみな現実のものにしておくために無理やり関連付けや意味づけを行なってきたのである。

矛盾を一切排して単純に考えてみよう。愛と恐怖、生と死は共存できない。そして神が愛と生ならば、恐怖と死は「神なき世界」つまり神の死に他ならない。死と神とはどうしても結びつかないのである。生の源でありひとつである神を否定したところに「バラバラの身体を持った個としての生命体」があるわけだ。神は永遠であり、また神によって造られたあらゆるものは神において永遠である。そして神は「一」なるものなので対立物がありえない。もしあるとすれば、というか私たちは自らをまさに神と対峙するものして位置付けてしまっているのだが、恐怖は愛と同じくらい現実味を帯びたものになる。

永遠不変である神によって造られ、そこから派生して生まれ出た(身体の誕生という意味ではない!)ものは神と同じように永遠不変なのだ。このことが実感としてわからなくても「事実なのだ」と思っていていただきたい。

そのうえで、神から遣わされた教師はそこに死が絡んでいるような矛盾を一切受け入れてはならないのである。たとえば、愛と恐怖、身体とマインド、愛と憎しみ、などなど、これらのうち一方が真なら必ず他方は偽なのである。

死ぬ(ように見える)もの、変化するものは全て実在しない幻である。変わりゆく形状や移りゆく現象に惑わされてはならない。これらを現実と混同してはならない。真実は移ろったり変化したり死滅したりするようなものではないのだ。幻想を抜けて真実を見据えることが私たちの任務である。

さて、「死の終わり」には何があるのか?死が終わるところには「神のひとり子は今もこれからもとこしえに穢れなきものである」という気づきと悟りがある。即ち、「復活」があり救いがあるのだ。罪からの、というより幻想からの解放と真の自由があるのだ。これだけをよく覚えていなさいと「コース」は言っている。

第298回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 24・25

24 輪廻転生って本当にあるの?

いきなり結論。輪廻転生など、あってもなくても構わない、どうせ幻想なんだから。あなたが輪廻転生を信じていてもいなくても構わない。輪廻転生が本当にあるのかどうか、ではなく「この考え方は役に立つか」という観点で考えればよいのである。使い方によっては学びの役に立つからだ。「コース」では基本的に輪廻転生はありえないとしつつ、本質的な問題ではないことを論じる愚を犯さずにただこれをどう扱うかだけを考えてみようと言っている。

私たちが「身体として生きているバラバラの個であり、身体として生きる人生が現実だ」と考えるなら魂がいろいろな身体に乗り移って転生することはあり得るだろう。しかし、言うまでもないが身体としての私たちというのがまず「実在しない」のであり、身体として生きる人生は夢なのであり、更に輪廻転生は時間軸に沿って行われるものだがその「時間」じたいが実在しない=幻想なのだったら、もう何もかも最初から無意味ではないか。神から離れ身体として救いもあがないも得ないままでいる(と思い込んでいる)うちは輪廻転生も「ある」ように見えるだろう。が、過去生も結局は「過去」なのであり、救いとは過去が実在しないと知ってそこから解放されることなのである。過去生の自分などというものを実在として認めるなら、時間も身体も実在のものだと認めることになる。ついでに、転生すべき魂もまた「私の魂、あなたの魂」みたいにバラバラの個だと認めることになる。

要するに輪廻転生とはやはり「幻想内・時間内」のものなのだ。そして、他のあれこれの幻想と同様、これもまた学びのために有効に用いることならできる。一種の便宜とか方便として用いることは可能なのだ。ゆえに、神から遣わされた教師は輪廻転生を否定したり、あるいはそれについて論じ合ったりするような無益なことはしないで、相手の状況やニーズに合わせてその都度聖霊の導きに従って対応していけばよいのである。

輪廻転生という考え方の、まあ言ってみれば利点は「魂の不死」を信じられることである。身体は滅びても魂は死なないのなら、明らかに身体と魂とは別物だとわかる。

一方で、輪廻転生はいくらでもエゴの餌になり得る。過去生で私は神官だったのよ、貴族だったのよ、マリーアントワネットだったのよ、などと信じてちょっと偉くなった気分になれたり、あるいは乞食だった、犯罪者だった、奴隷だったなどと聞けば「だから今もダメなんだ」と落ち込むこともできる。今生が過去生の因縁で決まっているなら何をやったって無駄だ。と思ってガックリ来たり絶望したりすることもある。その他いろいろ、過去生でこういう縁があったからこの人はソウルメイトなんだわ!などと思って「特別な関係」にのめりこんだりもできる。よくあるのは、今生に影響している過去生の経験を知って解放されるどころか却ってそれに囚われてしまうケースである。いま私がこうなっているのは過去生でああいうことがあったせいなのか、なあんだ!それだけのことなのか、記憶に振り回されていただけだったのか!と気づければそこで今生の苦しみもいっぺんに手放せるのに、それができる人は殆どいないのだ。説明されただけで終わってしまい、何の変化も変容ももたらさないことが多い。

とにかく、全ては「いま現在」なのだ。過去生での何かが原因で「いま」苦しんでいるのなら、過去に戻って生き直すことができない以上、その問題を解決すべく努力するのは「いま現在」においてしかないのだ。原因がどこにあるのであれ、あなたは「今のこの苦しみから今解放されたい」はずである。また、過去生がダメだったから今生もダメよ、と思って来世での救いに期待!するのであれば「来世から見た過去生」であるこの人生で頑張るしかないではないか。輪廻転生をどう捉えようが、苦しみから解放されて救いを得たいのであれば私たちはとにかく「いま」それをするしかないのである。救いのために「いま」学び努力する、これは輪廻転生を信じているか否かにかかわらず全ての人にとって必要なのはこれだけだ。つまり、輪廻転生があろうとなかろうと、救われるための学びと努力はいつでも同じなのである。

しかし、「過去生のあれとこれが今の私を苦しめている。この苦しみは過去生のカルマのせいなのだからいくら頑張ってもダメだろう」と思ってしまう人もいる。が、救いとはまさにその「囚われ・呪縛」からの解放なのである。過去生も含めたあらゆる過去=時間と過去の人生の自分も含めたあらゆる身体=個からの解放なのである。

神から遣わされた教師である私たちは、ただ「輪廻転生とは幻想の中のものである」とだけわかっていれば良いのであって、特に否定も肯定もせず聖霊の導きに従って学び教えるために役立てられるよう柔軟かつ融通無碍な姿勢を保っているのが良さそうだ。それ以上の特定な立場を取ってしまうと、たとえば「輪廻転生などありえない」とか「今生は全て過去生のカルマによって決定されている」などの考え方に固執してしまうとそれだけ教えや学びも限定されてしまうことになるのである。「コース」は一応キリスト教の枠組みを利用して書かれたものだが、その本質は時代や文化・宗教を問わず誰にでも適用できる普遍的な教えであり、あらゆる人に開かれている。その人が形の上で何を信じていても、つまりキリスト教徒であっても仏教徒であってもユダヤ教徒であっても無神論者!であっても構わないのだ。逆に言えば、神から遣わされた教師は出会う相手の文化や宗教がどんなものであってもそれらに関係なく、かつそれらを超えて教え学んでいかなくてはならないのだ。ゆえに、輪廻転生肯定論者?に対しても同じように「コース」学習の門は開かれている。私たちがすべきなのは間違いを見つけたら正してゆるす、これを日々続けることなのであって、神学論争なんかしている暇はないのである!特に、「コース」をまだあまり深く理解できていない段階では、どちらかというと今まで信じていたものから一旦離れてみるほうが望ましいに違いない。今まで信じていた考えにしがみついたままで「コース」を理解するのは無理だと思う。ただ、無理に手放す必要はないし、また相手に対して「今までの信念や信仰を手放せ」と強制したり説得したりすることはできないし、してはならない。

「コース」学習の目的はこの世の思考システムを逆転させることである。それがなされれば輪廻転生のような問題はみな無意味なものだとわかってしまう。それまでは、議論の余地のあるような問題については全て白黒ハッキリつけようなどと考えずに脇にどけておいて、ただ学びつつゆるし正していれば良いのである。だいいち、論争して白黒ハッキリなんてエゴの思うつぼの「攻撃の正当化」ではないか。別に論争なんかする気はないけど、自分の中でハッキリわかりたいと思う場合でも同じである。そんなことを考える暇があったらゆるし正していたほうがずっと良い。なぜならそうしているうちに自然にそれらの問題についての回答が得られてしまうからである。

私たちが教える際には聖霊の導きに従って話したり行動したりするのだった。ゆえに、輪廻転生という切り口が教え学びの現場で何かしら有効になる場合には、聖霊があなたにそう告げるだろうし、更にあなたを通して語るだろう。それを信頼していればもう十分以上なのである。

ただ過去生リーディングで「あなたの過去生はこうです、だから今こうなっているんです」と知らされただけでは多くの場合変容につながる気づきさえも得られない。そこに「何か」がなくてはならない。その「何か」はあなたがアタマで考えてわかるようなものではなく、ましてやマニュアル化できるようなものではない。マインドをオープンにして聖霊に語らせるしかないのである。

もちろん、神から遣わされた教師自身は、既に身体も時間も幻想であり魂に個別性はないことをわかっているので輪廻転生など信じるはずがないのだが、もしどうしても信じてしまっているなら無理して「これは間違いだから手放そう」と思う必要はない。あなたがその信念を間違った方向に用いようとしている場合のみ、内なるガイドである聖霊がそれに気づかせ正してくれるだろう。そこにおいてあなたは今までとは違った切り口、違った解釈で輪廻転生を語るのだろう。実際にはあなたを通して聖霊が語っているのだが。

輪廻転生についてのあれこれ詳細はどうでもよくて、要するに「(身体の)誕生が始まりで死が終わり、なのではない」ことさえわかれば最初はもう十分なのだ。

救いは未来のいつかや来世のどこかではなく、常に「今ここで」なされるものである。「コース」は徹頭徹尾これを強調している。今ここ、であるとき既にそこには過去からの影響も未来への関心も何もない。それこそがあがなわれた状態であり、この世においてこの世を超えた天国なのである。あなたは「あらゆる」過去から解放されている。乱暴に言えば「輪廻転生の輪の外に出た」ようなものである。

この状態に至るための助けになるように用いられるなら、どんな考えでも方便として用いればよい。そして、たいていの信念は聖霊によって光が当てられ新たな解釈がなされるならば有効な方便になり得るのである。たとえ「どうしても結婚したい」という信念!を抱いた人が来ても「特別なパートナーを求めるのはイカン」で切って捨ててしまうことはしない。それさえ有効な方便として用いることはできるのだ。

この世においては、ある考え、ある信念そのものがそれじたいとして真理であるようなことは殆どない。それらを学びや救いの役立つよう有効に用いるのなら、それらは真理を反映するものになる。そのように用いることができるかどうか、それが唯一の判断基準なのだ。ただ「幻想だ」で否定するのは正しい教え方ではない。要は、それらを用いる私たちに愛があるかないか、やはりそういうことなのではなかろうか。


25 超能力=サイキック能力はあったほうがいいのか?

これも前項の「輪廻転生」と同じで、あってもなくてもそんなのは本質的な問題ではない。どのように用いられるかだけが問題なのだ。超能力=サイキック能力は超自然な力だと思われているが、超自然ということは「自然ではない=不自然」なのであり、不自然な力などというものはないのである。あるとすればそれは単なる魔術・・・エゴが神の創造力を誤用してひねり出したものに過ぎない。あらゆる力はこれまた本質的にただひとつのものなのであり、それは神から与えられているのだから自然なものに決まっているし、神から生じ神とひとつであるマインドには元来その「限りない力」が遍く備わっているはずなのである。

そのような「限りない力」、自分では気づいていなかった無限の力が学ぶにつれて次第に目覚めてくることは少なくない。自分でも驚くようなことができてしまうかもしれないが、ここで驚いて「すごーい!」と言って止まってしまったらおしまいなのである。これは、あなたが神を思い出した時に経験する驚きに比べれば全く取るに足りないものなのだ。ここで止まってしまったら救いや解放に至るのが遅れるだけである。

潜在的な能力、あるいはサイキック能力が開発させるのは私たちは学ぶにつれて「この世界の法則=制限」を超えることができるようになるためだ。それは潜在的に備わっていたからこそ開発されるのであって外から得られるものではない。

まあ、キリストによる癒しも含めて「奇跡の癒し」は普通に考えれば一種のサイキック能力のように考えられている。しかし、奇跡の癒しはサイキックな力によってなされるものではなく、ゆるしとあがないによってなされるのだということを忘れてはならない。奇跡の癒しもまた救いに至る道の途上にあるものであって目的にはならないのだ。私たちの歪んだ知覚認識機能を救いのために正すことを目的にするならまだしも、奇跡の癒しはそれによる副産物であり、私たちが「無限の存在」である神のひとり子だということを証しするものなのだ。従ってこれじたいを目的にするわけにはいかない。ましてや、奇跡の癒しをもたらしたいという理由でサイキック能力を得るのを目的にするなど、全く見当違いなのである。

奇跡の癒しをもたらすような力は、それをサイキック能力だと呼ぶとしてもやはり「この世の法則・時空を超えた力」である。奇跡を目撃することによってあなたはこの世の法則や制限が幻想に過ぎないのだと教え示すことはできる。間違っても「この自分の能力の凄さ」を証明するツールではないのだ。そうなればこの力はエゴを強化するためのツールになってしまう。そもそもの目的である救いとは完全に逆行する。エゴはその発祥からして愛ではなく恐怖に裏打ちされていることを考えれば、サイキック能力をエゴのために使うのは愛ではなくて恐怖を教え示すことになってしまう。これでは本末転倒だ。

この世のあらゆる「制限・限界」は、もともと私たちが「神から離れてバラバラの個」になってしまった(と思い込んだ)ことから生じた。身体をはじめ、時空間とか重力とかとにかく物理的な法則はみなそこに端を発している。この「バラバラ状態」は恐怖によって維持され、愛によって瓦解するのだった。恐怖が(一瞬でも)全くなくなったマインドは聖霊を隈なく受け入れるのであり、神の一部であるその聖霊の力によって通常ならとてもできるわけがないことまで「できて」しまうのである。この時、私たちは身体である自分をなくして「神のひとり子」という本来の自己になっている。言うなれば本来の自然な姿になっているのだ。つまり、私たちが自然な姿になればなるほど神の限りない力が私たちを通して働くようになるわけである。何か特別なことをしようとするのではなく、ただ普通に「在る」だけで私たちは無限の力のチャネルみたいな存在になる。そのとき「他の誰でもないこのワタシ、身体であるこのワタシ」はいなくなっている、というか少なくとも忘れられ超克されている。

サイキック能力には何かしら「特別」「特殊」という感じが付いて回る。ここが危険なのだ。そんな能力を持っている人は特別だとか、サイキックな自分は特別で「神から選ばれた」とか「特別な使命のために神から特別な力を与えられた」とか。しかし、そんなことはありえないのだ。神は一切の区別も差別もしない、というよりできない。誰かにだけ特別に何かを与えるなんてことはありえないのだ。そう考えるのはエゴだけである。そう考えつつサイキック能力を用いるなら、それが一見は人助けのために使われているようであってもやっぱりエゴのツールになっているのであり、学びも救いも遅れてしまう。どこかに不純な動機があればそれはエゴに他ならないのだ。

ここはスピリチュアルな道を志す人々が陥りやすいところだ。もはやこの世のあれこれ、たとえばお金とか地位とか名声などには興味が無くなっても今度はいわゆる「目に見えない力」を得ることによって自分の特別さを示そうとする。これは言い換えればある意味エゴの生存本能みたいなものなのだ。「この世」からスピリチュアルに舞台を変えて、そこでやはり自分が主役になろうとする。お金持ちも社会的な地位も美貌も全然欲しくなくなった、羨ましくなくなったとしても安心できない。こういうことで「この世を超えた」なんて考えるのは甘いのだ。何故ならそう思うのは実はエゴなのであり、更に目覚めも学びも癒しの力も「自分の価値を証明するための道具」に成り果てる可能性が高いからだ。これもまたエゴの誘惑である。エゴがある限りあなたはこの世を超えていないのだ。あがないや癒しや救いに向かって学んでいる「つもり」であっても、もしかしたらしっかりエゴの罠に落ちて自分を欺いているかもしれない。あなたの中にまだ特別さを求める気持ちがあるのなら、それは自分を神のひとり子ではないと思いたい=自己欺瞞への願望があることを示している。そんな願望があったら簡単にエゴの餌食になるのは目に見えている。

たとえ学びの途上で(愛によって)出てきてしまった「サイキック能力」であっても、そこに「特別さ」とか「ワタシってすごい」とかそんなエゴ的な判断があれば、その力はもはや純正なものではない。つまり、聖霊によるものではなくなっている。あなたはその力によって人を「癒す」かもしれない。が、それを続けているうちに必ずどこかにひずみが出てくる。あなた自身が救いや愛から遠ざかるため必然的に恐怖や罪悪感に囚われて不安定になってくることもある。そうなればサイキック能力によるさまざまな癒しもまたちょっとおかしなものになるだろう。たとえば、それをすることによって却って相手の不安や罪悪感を煽ってしまうようなケースも少なくない。これでは救いどころかますます相手をそして自分を牢獄に閉じ込めてしまうことになる。実際に、この手の力を用いる当人が鬱になったり身体を壊したりする例も少なくないのだ。

結局いつも同じところに行きついてしまうのだが、サイキック能力と呼ばれるような力は言ってみれば本来は聖霊のものなのだから聖霊に委ねて用いてもらうべきなのである。あなたはその場にいるだけ、あるいは身体を聖霊に貸すだけだ。定義により、聖霊は純正なものしか扱えない。つまり、聖霊によって用いられるものは何であれ純正に決まっているのである。エゴが用いるから不純になるのだ。聖霊に導かれて学ぶ途上で出てきたものであれ、生まれつき使える人であれ、他のちょっと怪しい方法によって開発されてしまったものであれ、そんなことはもうどうでもいい。要は「これからどのように用いるか」だけである。

あらゆる人に神と同じ限りない力が備わっている。どんな種類の能力として発現するにせよ、それらはみな良き目的のために用いられる可能性を秘めたものである。それら潜在能力が開発されて、この世の制限を超えるような力が「あなたにおいて」出てきたのなら、それは大いに喜ぶべきことだ。それが尋常でなく予想もできないようなものであればあるほど大きな有用性をはらんでいるからだ。ゆえに、それを聖霊に委ねて用いてもらえば、非常に有効なツールになるだろう。そして、用いてもらえばもらうほどあなたはますます愛と喜びに満たされるだろう。それは無論、エゴの「私は特別よ」みたいな虚栄に満ちた喜びとは全く違うものだ。

この世が作り出される際に私たちは本来自分に備わっている無限の力を捨てた、のではないが忘れ去り封印したのである。その力はあがないによって解き放たれるはずであり、聖霊によって再び用いられるようになるはずだ。聖霊だって元は「神と一つであるところの本来の私たち」と同じものなのだ。聖霊によって用いられるとは即ち「神のひとり子である本来の自己」によって用いられているのと同じことである。

キリストの癒しや、聖人とされた人々が生前にもたらした「奇跡」は神の力による聖なるものだと思われている一方で、サイキック能力はともすれば「魔力」=悪魔・魔女のものだとされた場合もあった。エゴがエゴのために用いればエゴが強化され、結果的に恐怖や不安や罪悪感が増大するならそれはまさに悪魔に通じる力だと言えてしまう。悪魔とはエゴの本性が擬人化されたものだからだ。

聖霊は救いを手助けするために在る。そして、救いのために役立つものなら何でも喜んで使ってくれ、最大限の成果をもたらしてくれる。だからサイキック能力が芽生えたらよくよく注意して聖霊に委ねよう。そうすればあらゆる人の中にいるキリストは感謝するだろう。あなたはその感謝を胸に、キリストに見守られつつ更なる学びの道を行く。

冒頭にも書いたように、サイキック能力はあってもなくても構わないのだし、いわゆるサイキック能力がなくても癒しや奇跡はもたらせるのだ。あなたが今ここであがないを得たために、あなたの実家にいるお母さんの病気が治ってしまうなんてこともあるはずだ。誰もあなたが癒したなどとは思わない。あなた自身も思わないかもしれない。普通の意味ではこれはサイキック能力とは呼ばれないだろう。それで良いではないか。あなたは「自分の」力に酔うことなく、ただ聖霊が応えてくれだと思ってたの感謝するだろう。だったらなお一層良いではないか。

第297回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 22・23

22 癒しとあがないの関連は?

この両者は関連しているどころか同一のものである。癒しとゆるしとあがないは同じことを指していると考えて差し支えない。

あがないとは自分の罪がゆるされ浄化されて神に造られたとおりの本来の自己に立ち返ることである。そうすれば自動的に歪んだ知覚認識も全て正される。あらゆるものを自分と同じく神に造られたままの完全な姿として見ることができる。この状態において病むのは不可能である。何故なら神は完全であって身体ではなく病むことがありえない、そして神によって神に似せて造られた私たちもまた同じはずだからだ。このことが認められるからこそ癒されるのである。あがないによって私たちは癒され、またあがないを周囲の人にも与えて癒すことができるのだ。というより、あがなわれたとき私たちはあらゆる奇跡が既に為されていたことを知るだろう。と言われると???かもしれないが、そういうことなのである。あがなわれたマインドには病も苦痛ももはや現実のものではないのだ。ここに病人がいる!この人は病んでいる!だから癒して治そう!というふうにはならないのだ。もう癒されてしまった完全な姿をあなたは見ることができるのである。

前から繰り返し言われているように、神に遣わされた教師の役割はまず自分においてあがないを受け入れ自分のマインドを、そして知覚認識を正すことである。

本当の意味ではゆるしも癒しもトータルなものなのだが、この世的な意味では「ちょっとだけゆるした」とか「ここだけは癒された」などということも十分にあり得る。あがないも同様であって、この世的に考えれば「ここまではあがなわれた」なんてこともありそうだが、本当の意味では部分的なあがないなどありえない。天国の一部に地獄が混じっていればそこはトータルに天国とは言えないとか、真理の一部に虚偽が混じっていたらそれはもう真理とは言えないのと同じことである。ここまで、とかあそこまでなどという度合いがない完全なあがないが為された時、奇跡もまた難易度なく為されるようになる。

しかし、実際の学びのプロセスは三歩進んで二歩下がるようなものであり、ある瞬間には完全にあがなわれたと感じても次の日にはまた迷いが生じたりすることも珍しくない。あ〜やっぱりここはまだダメだったわ、と思ってガックリ来たり、そういう時には癒しや奇跡のほうも「やっぱりここまでは無理なのか」になったりするのである。ゆるしやあがないがどれだけすごいものなのか、例外なしに全てを包括してしまうものなんだ!ということまではなかなか実感としてわからない。なかなか完全な形で受け入れられないのである。自分が受け入れさえすればどれほどのことが可能なのかわかるのはずっと後になってからかもしれない。もちろん、突如としてそこまで至ってしまう人も稀にはいる。が、そういう速度の違いはあまり気にしなくていいそうである。その時々で必要なことは必ず与えられると信じよう。あなたは方向性だけをちゃんと定めて今の自分にできることだけを誠実にやれればそれで十分なのだ。後は神=聖霊の力が何とかしてくれるはずだからだ。もしあなたが神から遣わされた教師として成長していきたいなら、まずはゆるし=癒しという原理を理解しておく必要がある。

これまた繰り返しになるが、病がマインドの意志と無関係に生じるという考えは間違いだ。身体がマインドの許可なしに勝手に病むことはありえない。そう考えるのはエゴの思考システム・・私たちは身体でありマインドと身体とは別物だ・・の特徴であり、またそう考えてしまうのはマインドに対する身体の優位性を認めることになってしまう。身体が勝手に病んだり治ったりしてマインドを一喜一憂させるならマインドは身体に支配されていることになる。また、身体が病によって攻撃され、その身体がマインドを攻撃しているという現実を認めることにもなる。これはまさに「神からの分離=他者の実在」を認めることに他ならない。他者がいなければ攻撃はあり得ないからである。

マインドが身体の支配下にあるならマインドは身体を癒せない。そしてそのマインドが神によって造られたものなら神にさえ身体は癒せないことになる。身体もまた神によって造られたと考える人もいるが、その場合は身体を作った神が身体を癒すというふうになるのだろう。でも、それを願い求めるのはマインドではないか。身体とマインドが別々のことを望んでいるのだったら、神はどちらの言うことを聴いたらいいのか?そしてマインドが身体より優位にあるのだったら、マインドが神に願い求めたって身体の言い分を聞かれてしまうのではないか。これでは救いも何もない。これで救われようと思ったらまず身体を消してしまうしか、つまり死ぬしかなくなる。身体が実在すると信じている前提で身体の命を犠牲にしてしか得られない救いなんて!全然ありがたくないのではないか。

身体はマインドの指示なしには病むことさえできないのだ。私たちは別に好んで病気や障害を持とうなどと考えた覚えはないはずなのだが、実際にはこれらもまたマインドが決めたことなのだ。この病気、この障害を得ようと決めるのではない。身体がマインドより優位にあると決めた、身体が勝手にあれこれやってしまうのだと思い込んだ。ただその決断によって病や障害が生じるのだ。

このことを理論上はわかったつもりでも、私たちはやはり「例外なしにどれもそうなんだ」とまではなかなか実感としてわからないのである。自分に生じたことであれ他人に生じたものであれ、何かあればやっぱり「どうしてこうなるんだ!」と思ったりするのである。そうしている間は癒しの奇跡などもたらせない。そう考えるマインドも、また目の前にある(ように見える)身体もすっ飛ばしてキリストのイメージだけを見るようにする、つまりあらゆるものを既にゆるされあがなわれた完全な姿で見るようにする、これによってのみ私たちは癒される。「病んだ姿が現実に見えるのは、そう見える私の知覚機能がおかしいからなのだ」と考えなくてはならないのである。

神から遣わされた教師は、癒しがまず自分自身(のマインド)において必要なのだということに気がつく。それがわかれば、つまり「間違いを間違いとわかる知覚認識」によって「間違いを正し知覚認識を正す」ことができれば、その結果として癒しはもたらされる。その対象は何でもいいのだ。自分自身のマインドの間違いが正されれば、それに応じていろんなものが・・一見はまったく無関係に思えるものまでが・・・癒されてしまうこともある。自分の中のこの部分が癒されればそれに応じて外側のあの部分が癒される、という対応の仕方はしないのである。が、そういう表現をするほうがわかりやすくまた受け入れやすくもあるので、ヒーリングやリーディング、チャネリングなどでは「あなたのこの部分がこの症状をもたらしている」という言い方をすることはある。それはあくまで便宜に過ぎない。この表現にこだわり過ぎると次々に「ブロック外し」を延々と続ける羽目になる。癒しもゆるしも、もっと演繹的なものなのだ。ひとつ外れれば全部外れる、のが本来の原理である。

相手の症状が「ほんもの」「現実」に見えるなら、あなたは相手のエゴに同化してしまったのだ。そして、間違いを正し癒すどころか間違いを共有することによって強化してしまったのだ。あらゆる病や不具合は「自己認識の誤り」に端を発するものである。つまり、自分が完全なものとして造られた神のひとり子だ、という正しい認識を捨ててしまったわけである。相手の症状を「現実のもの」と見てしまった時点であなたは相手と同じ間違いを犯したことになる。結局、「自己認識を誤った」という点において相手と同じ病を患ったも同然というふうになってしまうのだ。どんな病であれ根源は同じだからだ。この状態のままでは何をやっても癒しはもたらされない。「相手とは別の身体を持ったこのワタシ」には癒す力なんかない。癒すのはあなたではなくて聖霊なのであり、聖霊が働くためにはあなたが引っ込まなくてはならないのだ。

まずは自分自身が自分のマインドにおいてあがないを受け入れること。これがとにかく肝心なのである。でないと相手の間違いを正すこともできない。相手の間違いを正すとは「あなたは間違ってますよ、こうなんですよ」と言葉で説明して納得させることではなく、まあ言うなればそのことを自然にわからせ受け入れさせることなのだ。具体的な方法についてはもう何でもいいのであって、極端にいえば「指一本動かさず一言も発しないで」も構わないわけである。与え受け取るのはマインドだけだからだ。

相手を病人と見たまま癒すことはできない。自分自身がそう見てしまうのは間違いであって、間違ったまま間違いを正すことはできないからだ。そういう自分が引っ込んで聖霊に引導を渡すからこそ自分自身がまずあがなわれ、それが自然に相手にも与えられる。あがないはどこかに限定されない全方位的なものなので、あなたが受け入れればそれは自動的に放射される。「癒そう!!」なんて力む必要はない。というよりその姿勢では癒しがもたらされない。

あなたのマインドにおいて受け入れられたあがないは例外なしにあらゆる状況であらゆる人に作用する。どんな病も症状も例外なしに癒される。これは信じにくいかもしれないが、信じないのは神の力を疑うのと同じことである。そんなのとても無理よ、というのは癒すのがこの自分であって自分の力はそこまでじゃない、と言っているのと同じなのである。つまり、そういう事態にならなかったらそれは自分の信仰に限界があるということなのだ。完全に聖霊に委ねきっているという状態、全く揺るぎのない信仰を24時間保ち続けるのはいくら何でも難しいことだが、たった一瞬で十分なのである。一瞬でも完璧な状態になれればそこであらゆるものが癒される。

私たちの役割、私たちがすべきことは「分離の感覚」を癒すことである。神から離れた不完全で無力なワタシとあなた、この感覚があらゆる病の原因なのだ。そして、自分と目の前の(あるいは心の中の)誰かも身体としては別々だが、実は同じひとつのマインド=聖霊・スピリットなのだと認めること。身体は別々でもその身体は実在しないのだから、私たち(のマインド)を分かつものなど何もない。分かたれている、というその思いこみを捨てさえすればよいのである。「自分」とは本当は「神において一つの、神のひとり子」なんですよ、という事実をまず自分が受け入れれば、つまり自分においてゆるしとあがないを受け入れれば、その事実が見えなくなったために病み苦しんでいる相手にも真実を教え示すことができる。あがないもゆるしも、まず自分自身において受け取られ受け入れられる。つまり、この時点であなたの知覚認識は正され相手を真の姿=聖霊として見るようになる。それが「あがないを相手に与え相手が受け取った」という意味だ。これが癒しなのである。それを相手が更に受け入れれば癒しは現象としてあらわれる、たとえば症状が消えるなどのハッキリわかる形としてあらわれる。

神の力には限りがない。限りがない、というのはもう文字通り限りがないのであって「できないことは何もない」のと同じことだ。いくら何でもこれは無理だろう、と思うのは自由だが、そう思うあなたの現実は「できないこともある」という思い込みが投影されたものになる、それだけのことだ。このワタシ、は神じゃないからできないことだらけだが、神は全能なのだ。できない、と思うのは「今のあなた」の判断に過ぎず、今のあなたの判断の限界を示しているだけである。だから!判断を手放しなさいとしつこく言われているのだ。自分ではできっこなくても神あるいは神と一つである聖霊に委ねればできるんだから!これはできない、と思う時あなたは神から離れている。神とともにいても尚且つできないと思うならあなたは神の力を勝手に限定してしまっている、というか神を神でなくしてしまっている。神と神のひとり子とは一つであって、別のものではない。そこに力の差はないのだ。神にはできても神のひとり子である私にはできない、というのは間違いだ。

あがないを得るときあなたはこのことを理解するだろう。一人決めの判断を捨てて、神に造られたとおりの完全なる穢れなき自己を受け入れるだろう。これを癒そう、あれは無理だなどと思うこともなく、癒しはひとりでにもたらされるようになるだろう。あなたは神と同じことをあらゆる人に向かって言うだろう。「これは私の愛する子。完全なるものとしてつくられ、とこしえにそう在り続ける」


23 イエス様は癒しにおいて特別な役目を持つのか

祈りの最後に「救い主イエスキリストの御名によって・御名を通して御前に捧げます」みたいなことばが良く出てくるが、これはいったいどういうことなのか?実際に、聖書にも「私の名によって願うことは何でも叶えてあげよう」というイエスさまの言葉が何度も出てくるのだ。「イエス・キリスト=Jesus Christus」という名前に特別なパワーがあるのか?何かすごいものを呼び出すための呪文やマントラみたいなものなのか?いずれもnoである。じゃあ、どうしていちいち名前を出したりするんだろうか?

今まで「コース」のなかで「キリスト」と言われていたものは、既にゆるされあがなわれた神のひとり子を表す象徴であり、キリストは私たちの中にあって私たちはキリストでもあるのだった。そして、実在のイエスという人物はやはり「人の子として生まれ、完全にゆるしゆるされあがなわれ、死を超え身体を超えて永遠の生を受け、神のひとり子となり天に昇った」という点において私たちの学びの大先輩であり、同時に人の子として生まれた私たちもまたそうなれるのだという証をあらわす存在でもある。史上最強の?「神から遣わされた教師」である。そして、神のひとり子として完全に神とひとつになったイエスさまは無限の力を持ち永遠不変の存在である神そのものになったと言っても良いわけである。神、というのは普通名詞なので人によりいかようにも定義できてしまう。中にはもちろん偶像の神もある。ゆえに、ただ「神」と言ったところでいわゆる「絶対普遍にして永遠で無限のただ一つの神」をあらわすとは限らない。そういう神だけをあらわす固有名詞はないのである。それに対して、イエスキリストは人名であり固有名詞であるのだが、イエス様は上記のような創造の神と一つになったのだから私たちが「イエスキリスト・イエス様」というときそれは神を呼んでいるのと同じことになるのだ。つまり、イエスキリストとはそういう神の別名だと言ってもよいことになる。

さて、かなりレベルの高い教師であっても神と直接交流したり神からの賜物を直接受け取ったりできる人は極めて稀である。だからこそ聖霊を介するやり方を私たちは学んでいるのだが、イエスさまは「父と聖霊と一体にまします救い主」なのだから聖霊と同じ働きをすることができる。聖霊は純粋理性の別名だったり変幻自在だったりするので今一つピンとこない人もいるかもしれないが、イエスキリストと言えばもっと具体的なイメージを思い浮かべられるのではないか。今の私たちが「絶対普遍にして永遠で無限のただ一つの神」を思い浮かべ思い出すことなど、更に不可能である。が、私たちが「イエスキリスト」と言うとき、私たちはその名によって神をも思い出していることになるのだ。イエス様自身が聖書のなかで「私を見る者は私を遣わされた方=神を見るのである」と言っている。

イエスキリストは神の御子・神のひとり子を代表する存在なのである。それは神において神とひとつなのだから、神でもあり子でもあるわけだ。子である私たちを代表するものであり、同時に神の別名でもある。神と同様に限りない力を持った「史上最強の教師」であり、既に身体も時空間も超越しているイエスキリストは、たとえその肉体がなくなっていてもいまだに、いつでもどこでも私たちと共にいることができるはずなのだ。そして、冒頭にも書いた「私の名を通して願ったことは何でも叶えてあげる」というイエスキリストの約束はやはりいつでもどこでも有効なはずなのだ。何しろ、神とひとつになってしまったイエスキリストは一切の制限から解放されているのだから!ゆえに、私たちはいまだにイエスキリストの御名によって祈り願うのである。

イエスキリストという名前じたいはやはり象徴=シンボルである。名前そのものがどうの、ということじゃない。が、イエスキリストという名前が象徴するものは神の愛であり神の言葉=真理である。執着や所有欲や喪失の恐怖を伴う「この世の愛」ではない、絶対普遍の愛である。神、と呼べるものは数えきれないくらいたくさんあるだろうが、どれも偶像化される危険を伴う。それらと違って、イエスキリストという名を思い浮かべる時、口に出していう時、私たちはほんとうの神の近くに行くことができる。身体によってバラバラに分かたれている人々との距離を最小にできる。

しかし、イエスキリストと言われてあの十字架に磔にされた受難の姿、何も悪いことをしていないのに捕えられて侮辱され殺された悲劇の男を思い浮かべてしまう人だっているのではないか?普通に言われているように、私たちの罪を背負って死んで下さった尊い方だとか、ゆえに受難は尊く素晴らしいとか、そんな連想をする人もいるのではないか?「コース」を最初から読んだ方ならそういう捉え方はなさらないだろうが、そのあたりをきちんとしておかないといくらイエスキリストという名を思い口に出してもここに書いてあるような働きは出てこないんじゃないのだろうか?

穢れなき完全な神のひとり子であり神とひとつであるイエスキリスト、ただそういうふうにだけ考えられれば確かにこの名前を思うと自然に聖なる感じになるようだ。神と神の御心によって与えられたすべてに感謝することができる。感謝と愛とは同根同質なので、感謝している私たちのマインドはその源である神を思い出していることになる。感謝の心は神を容易く迎え入れることができる。「愛」という言葉から連想する思いは幾多の勘違いを生じやすいが、感謝なら間違いなくほんとうの=神の愛に近づくことができるのだ。

私たちは、たとえキリスト教徒であっても、イエスキリストは特別な中でも最も特別な人であって、普通はあんなところまで到達できるわけがない!と思ってしまう。が、「コース」は、私たちと同じように(ではないんじゃないの?だってイエス様は処女懐胎で生まれたんでしょ、しかも母親のマリア様は最初から無原罪だったんでしょと突っ込みたくもなるのだが)人の子として生まれたイエスキリストができたことは私たちにもできるんだ、と言っている。キリストが手本・見本を示してくれた、私たちにもできるということを教えてくれた、と言っている。そのうえ、イエスキリスト自身がそう信じているのだと言っている。

イエスキリストならぬ私にはとても無理!とあなたが思っていても、イエスキリストの眼には、つまりキリストのヴィジョンを通せばあなたが罪も穢れもない限りない完全なものに見えている。神の化身に見えている。確かに、そうでなければこの「コース」という書物は存在しなかったはずである。完全な救いのための学びなんて初めから無理なものなんだったら「コース」は無意味なものになってしまう。だから、イエスキリストが教え示してくれた通りに学んで救いを得ましょう、と「コース」は言っているのだ。

完全にゆるしゆるされあがなわれ、身体を超え神と一つになった人はイエスキリスト以外にもいたのだし、今もいるだろう。もちろんキリスト教徒に限らない。有名な聖人や高僧とも限らない、ごく普通の名もなき人だっているはずなのだが、とにかく私たちは書物その他によって「この世に在ってこの世を超える人がいる」のを知ることができる。それは不可能ではないのだと知ることができている。だから、たとえ今のあなたにはできなくても「できっこない、不可能なんだ。とんでもなく困難で大変なんだ」と信じるべきではない。あなたはその信念=思い込みを周囲に教え示すことになり、それによって自分自身のその信念をますます強化してしまうからだ。自分にできないからといって目の前の誰かもできないとは限らないではないか。かといって、私たちは自分にできないことを教えるわけにはいかない、というかそんなことはできない。だからこその「イエスキリストの御名」なのである。今の私にはそこまでできないけど、イエス様にはできた。だからイエス様にお願いしましょう、ということなのだ。イエスキリストは自分さえ救われたら後はどうでもいい、勝手にやればという人ではない。最後のひとりが救われるまでつきあいましょう、という人である。

今更言うまでもないが、「奇跡のコース」はイエスキリストの言葉である。イエスキリストが私たちにわかる言語で、かつ理解できる語り方で教え導いてくれている。「コース」と同じ目的を持ち、同じ真理を教える方法は他にいくつもあるだろう。キリスト教である必要はなく、意匠は何だって良いわけだ。いま現在助けを必要としている人が、その人にとってわかりやすいやり方で学べるなら何でも良いのだ。キリスト教に馴染がなかったり反感を持っていたりする人なら「コース」で学ぶ必要はないだろうし、そもそも宗教の枠組みを用いる必要さえないだろう。私たちはその時々の必要に応じて助けが与えられるようになっているのだ。あなたは「コース」に出会った、だからキリストを象徴として用いるのだしイエスキリストの名によって祈り願う。そういうことなのだ。

神とともにある、といってもイエスキリストとともにある、といっても同じことなのだが、神とともにあるというのはもう究極の状態に近いのであって私たちはなかなかそこまで感じられないものだ。それに対してイエスキリストには何となく私たちの手を引いて導き、「ほんとうのこと」を教え示すという私たちの役割をサポートしてくれるようなイメージがあるが、どうしてもそう感じられない人やピンとこない人は別にこのシンボルを無理して使わなくても良いのではないかと思う。

第296回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 19・20・21

19 正義とは?

ソクラテスふうに言えば、正義とは「不正でないもの」である。この世においてはそうとしか言えない。何故なら、この世において真に普遍的かつ客観的かつ絶対的な「正義」なんてどうやっても規定できるわけがないからだ。

正義、という概念や言葉が成立するためにはまず「正義でないもの=不正・不当」の存在が前提としてなくてはならない。本来の状態=天国には対立概念が存在しないので、正義も不正も両方とも存在しないのである。正義しかないんだったら、わざわざ「正義」だと認識される必要もないし認識されようもない。だいいち天国なら間違いを犯すものも存在しないんだから、正される必要があるものも存在しないのだ。

ついでに、正義とは「端的な事実」ではなく判断であり解釈である。自国における正義のヒーローは、敵国にとっては悪魔の化身だったりする。

正義は真実を表すものでもあるが、この世においては真実もまた「虚偽」という概念があるからこそ成立する概念なのであって、あらゆるものが真実である天国においてはありえない概念なのだ。更に、この世では真実さえ普遍でも絶対でも客観でもないものだというおかしなことになっている。人の世で普遍的真実といえるのはせいぜい「人は生まれて死ぬ」くらいのものではないか。「身体の生死」というこれだけは時代や文化が変わっても全ての人に当てはまる「真実」である。何故なら、私たちが自分を身体だと信じているから、身体の実在を絶対確実なものとして信じているからだ。それ以外に、たとえば「真実が知りたいんです!」などと言われるときの真実とはやはり「端的な事実にその時々の解釈を加えたもの」に過ぎない。

さて、ある人が妄想の中で犯罪をおかしたと思い込んで「罪を犯しました、やりましたあ!」と言って自責の念で苦しんでいる場合、正義を為そうとするなら「あなた、本当は何もしていないんですよ、無実だし潔白なんですよ」と教えてあげるのが当然だろう。それと同じことがこの世の私たちにも言えるのであって、私たちが「神から離れてバラバラになった=神に背いた」という罪を犯したと思い込んだことによって苦しんでいるのであれば、神=聖霊の判断が下されて「あなたは本当は何もしていない、罪も穢れもない神のひとり子なんですよ」とされるのが正義である。つまり、私たちの「自己欺瞞」「虚偽申告」という不正が正されること、それが正義を為すということだ。言い換えれば、私たちの間違いが神あるいは聖霊によって正されることである。再びソクラテスふうにいえば、正義とは不正が正されたものである。

このようにもっとも根本的な部分で正義の裁きを下すことができるのは聖霊だけである。そして、聖霊によって私たちが公平にかつ正当に裁かれてしまえばもはや救いは不要になるだろう。だって何もしていなかったんだから!ゆるされる必要のあることなんか最初から何もなかった、そうわかってしまえばそこでお終いではないか。

たとえばあなたがすごく恐ろしい夢を見て目覚めたとき、「あ〜夢だったのか、夢で良かった、助かった、救われた」と思うこともあるかもしれない。しかし、時間が経つにつれてそんな夢を見たことさえ忘れる。救われたと思ったことも忘れる。初めからずっと現実の中にいただけだったのだ。それと同じような感じで、救いが完了したらほぼ瞬時に「それ以前」のあれこれは「なかったこと」になるのだ。

私たちはまず「聖霊による正義の判断」を受け入れ、そこから本当の真理を見出すための学びの道が始まるのである。

本当の真理は知覚認識され得ない、ただ直接知られるようなものである。一切の判断も解釈も入る余地のない、文字通り言語道断なものである。私たちはまず「正義」という判断=知覚認識を携えて学びの道を進み、最後にはついに本当の絶対普遍な真理に至るようになっている。学ぶにつれて私たちの世界は今までとは違う素晴らしいものに変容する。その途上にはいくつもの大きな気づきがあり、私たちの目を開かせてくれ蒙を啓いてくれる。なかなか間違いが正せなくて苦しい時もあるかもしれないが、全体としては驚きと感動三昧の日々である。まさかこんなことになるとは思いもしなかった!と、学ぶ前には想像もできなかったような喜びと平和に満たされるだろう。が、最後にあなたが到達するところ、時が終わり時を超越した地点の言語に絶する壮麗な素晴らしさに比べたら!

この世のあらゆる間違いとそれによってもたらされる苦痛や苦悩は、全て最初の「不正」から生じている。たとえば、自他に対する間違ったイメージや将来への不安や過去へのこだわりなどなどである。私たちの知覚機能はすっかり歪んでしまっていて正しく、つまり正義に基づいて知覚認識することができなくなっている。まるで歪んで曇ったレンズを通して見ているかのようだ。私たちの目や耳にはそのように映った像こそが確固たる現実の世界に感じられるのだが、逆に言えば「自分の眼前にある世界は確かに実在するのだ!」と証言しているのはこの歪んだ知覚機能と歪んだマインドだけなのである。実は全くあてにならない証人でしかないのに、私たちはこの歪んだ知覚機能を後生大事に守っている!

私たちは確固たる普遍的な基準も持たず、それでいて「神から離れてみんなバラバラの個体」であるという思い込みが現実なのだと再確認できるようなことだけを選んで知覚認識している、要するに「見たいものしか見えない」「見たいものだけを見る」のである。そこには完全無欠なものなど何一つない。あらゆるものが断片にすぎず、断片として完結しているように見え、にもかかわらず完全無欠ではないのだ。そもそも自分自身を「神と同じように完全無欠なる存在」だと認め損なったために、つまり「永久に消えない罪の痕跡がある存在、既に穢れてしまった存在」だと判断したために、あらゆるものがその間違った判断の投影になってしまったわけだ。ゆるしとは、その間違った判断を手放すことである。

そして、救いとは神による正義が為されることである。御心が地にも為されることである。今まではバラバラの個体としか見えなかったあれこれ、その寄せ集めで成り立っているように見えた世界が実は神においてただひとつの完全無欠なものだという気づきを得ることである。変化し破壊される運命だと思っていたあれこれが永遠に不滅のものだという気づきを得ることである。ここにおいて死の恐怖は克服される。というか、死はないのだとわかる。生まれなかったものは死ぬこともできないからだ。本来の私たちは生まれたり死んだりするようなものではない。

神による裁きこそ神の正義のあらわれである。これは前にも書かれていたとおり何ら恐ろしいものではなく、それどころか救いそのものである。ただただ愛によるものだからだ。私たちは自分の歪んで曇ったレンズを神に渡して神の裁きに身をゆだね、神の正義を投影した世界にいることもできるのだ。なのにそれをしないのはあなたが神を恐れているからだ。神を恐れているなら神はあなたの敵なのか?そして神とひとつであるところの本来のあなたもまた「あなた」の恐るべき敵なのか?

神は慈悲である。あなたに懲罰を与えるようなものではない。あなたは罪など犯していないし、神には罪という概念さえない。そういうふうにとらえるのはあなたが正気を失っているからに過ぎない。だから、神の慈悲と神の正義のために祈りなさい。

あなたがここで経験するあらゆること、天国も地獄も全てあなたが「見たいように見た」結果なのである。知覚機能はマインドが望んで投影したものだけをとらえるのだ。神の正義は完全に公平かつ公明正大である。何も歪ませることはできないし、全てをあるがままに映し出す。あるがまま、とは神の御心のままということでもある。静まったマインドには間違いもまた間違いのままに映し出され、真実と混同されることはない。そして間違いだとわかった時点で正されるのである。非難されたり攻撃されたりすることはない、何故ならこれらは間違いを現実と取り違えた結果として生じる感情だからである。

あらゆるものをあるがままに映し出す光=聖霊あるいは純粋理性による知覚認識がもたらされればヴィジョンが取り戻される。ヴィジョンを通してあなたは一度は見失ったあれこれを再び見出すだろう。世界中に神の平安が降り注ぐのが見えるはずだ。必ず、見えるはずだ!


20 神の平安とは?

普通に訳せば「神の平和」だが、祈祷文などではたいてい「主(なる神)の平安」となっているのでここではそれも考慮して「平和」「平安」両方の訳語を使用させていただくことにした。

さて、その「神の平安」とは普通の平和や平安な気持ちとどこがどう違うのか?どうやって見分けがつけられるのか?どうやって見出せるのか?そして、いったん見出したらどうやって維持することができるのか?

まず、今感じている平安さがはたして神の平安なのかそうじゃないのかを見分ける方法について。簡単に言えば「どう考えても、今まで味わったことのないような経験」だということである。その時あなたはまさに時間の外側にいる、過去も未来もなく「今ここ」にいる。その静寂さと広大無辺さはちょっと筆舌に尽くしがたいものだ。そこにはとこしえの静けさがある。文字通り「比べ物にならない=比べようがない」のである。何故なら、比べる対象になるべき過去のあらゆる経験がそこでは全て消え失せてしまうからである。比較を味わっているうちは、まだ完全に神の平安の中に溶け込んでいないことになる。あなたは完全な静寂の中に溶け込んで、ただ「在る」のだ。

では、この静寂さはどうやって見出されるのか?これは、ある条件・・ゆるし!・・を満たしさえすれば誰にでも見出せるものである。たとえば、そこに怒りが少しでもあったら神の平安はあり得ないと書かれているが、怒りと恐怖と罪悪感はワンセットなのでこの部分はまあどれでもいいわけだ。どれか一つだけがある、どれか一つだけがない、ということはありえないのだから。

これらが正当化されるとき、即ち「こんなことがあったんだから怒っても・不安になっても・落ち込んでも当然よ」と思っているとき、あなたは神の平安を拒絶している。平安になったらあなたの「正しさ」は失われてしまうからだ。が、やっぱり苦しいのはイヤなわけだから普通に考えれば神の平安を与えられたいはずである。となるとどうしてもゆるしが必要になる。ゆるしこそ、神の平安を見出すための必要条件なのだ。というより、ゆるしのあるところには嫌でも神の平安が見出されるのである。

対立があるからこそ怒りも恐怖も罪悪感も、また攻撃もあるのだ。他者だけではない、自分のマインドの中に「認められない自分」や「責められるべき自分」があるならあなたのマインドは分裂しそれぞれの部分が対立しているのだ。現在と過去との対比もしかり、あらゆる対立・対比は要するに「差異がある、別々である」ことのあらわれであり、神の御心から離れてしまっていることの証左でもある。そういうもの全てが一切取り払われた状態ならもはや時の経過=差異をあらわす時間軸さえ意味を失って消え失せる。

そして、いったん得られた神の平安はどうしたら維持できるのか?ま〜当然のことながらエゴが戻ってきたら平安は終わっちゃうんである。何かの拍子にうっかり怒りや不安や罪悪感にまたぞろ襲われれば「神の平安なんかもう得られないんじゃないか」という思いになる。が、ここは至ってシンプルに考えればよいのであって、つまりエゴに侵入されたらそのたびにゆるしていればあなたはたちどころに神の平安の中に在ることになる。神の平安とは、例の「聖なる瞬間」と同じものだと考えてよい。

結局はあなたの選択次第なのだ。あなたが求めるのは対立か、それとも神の平安か。自分の怒りや恐怖を正当化して自分の正しさを証明したいのか、神の平安のうちに在りたいのか。もっと極端に言えば、死にたいのかそれとも生きていたいのか?静寂なマインド=神の平安がもたらしてくれるものはちょっと測り知れないほど価値があるのだ。

死の中に平安はない。「終わり」としての死があるというその思い込みからして幻想の一部に過ぎないのであり、幻想の中に神の平安はありえない。いわゆる「rest in peace安らかに眠れ」というのは死んだ人にではなく今ここにいる私たちのマインドにこそ向けられるべき言葉なのかもしれない。

これまた繰り返しになるが、「コース」において生と死の弁証法などというものはなく、生はどこまで行ってもただ生なのである。生とは存在=神であり、生の中には一切の問題がない。

「世界をゆるしなさい。そうすれば神の御心によってつくられたものには終わりがないとわかるだろう。従って死もない、そして神の御心によってつくられたものだけがほんとう=現実であることがわかるだろう。」

この文章に「コース」学習のすべてが、聖霊による学びの全てが正確に凝縮されていると言ってよい。この事実をほんとうに理解するために私たちは学んでいるのだ。

さあ、神の平安とは何か?それは、神の御心の中には対立するものが何もないのだという素朴な理解である。対立・対比によってしか考えられず認識もできないマインドはここで引っ込むことになる。

世の中には神の御心に適わないものがたくさんあるように見える。あなたの思いは神の御心に適わない、神の御心とは違うもののように感じられる。が、実はそうではなかったのだ。神の御心はそのままあなたの思いであり、ゆえに神の平安はそのままあなたに与えられている。全能の神の御心はひとつにして全てであり、それがそっくりあなたに与えられている。あなたがつくられたときからずっとあなたのものである。わざわざ探し求めなくても、必死で維持しようとしなくてもあなたはずっとその中に在り、それはずっとあなたの中に在る。なくなったらどうしよう、なんて心配は無用である。いくらなくそうと思ったところでなくなることはあり得ないのだから。

あなたが決して知りえないような広大な宇宙の果て、あなたが思いつくこともできないようなその際限のなさ、その中に時を越えて在るあらゆる考え、それらは実はあなたのなかにあるのだ。なぜなら神の御心には果てがないからである。

神の平安を得ればあなたは神の御心の中に在ることがわかる。だから、神の平安を得て神を思い出しなさい。


21 
癒しにおいて言葉が果たす役割は?

厳密に言えば、癒しの中で言葉は全く何もすることがない。癒しをもたらすのは「言葉」ではなくもっと深い部分の祈りや求めである。私たちは何であれ自分(のマインド)が求めるものを受け取るようになっているのだ。

ところで、お祈りと言えば何となく「神さまにお願いごとをする」というものだと思われているだろうが、そうとも限らず祈りには神を讃え神に感謝するためのものも少なくない。癒しにおいて祈りが重要だとすると、それは祈りという姿勢や形式が神とつながる手段だからというだけではなくて、本当の意味で祈っているときには必ずエゴが落ちているからである。エゴが消失して聖霊が働いてくれるからこそ癒しも奇跡ももたらされるのだ。ついでに、今の私たちは神と直接に交流することはできないので、祈るにしても聖霊を通すような形になる。教会で行われる祈りにしてもイエス様などを通して神の御前に捧げられることが多い。

いずれにしろ、真の意味での祈りは願掛けではなく「聖霊を通して神とつながる」状態になるためのものなのだが、ここではどちらかというと「求め・願い」の意味合いで「祈り」の語が用いられているようである。

祈りに際して言葉を用いるのは、特に初心者についてはかなり効果的ではある。お経でも真言でも祈祷文でも同じなのだが、それらを一心に(声に出さなくても)唱えていれば集中できるし余計なことを考えないで済む、それによってエゴが消えやすくなるからだ。

祈りの中で用いられる言葉、というのはあまり重要ではない。というか、どんな美辞麗句や神聖な章句を用いていようが、マインドが別のことを考えていたら話にならない。私たちは言葉で祈るのではなく心で祈るのだ。だいたい、神に言葉は通じない。神に言葉は必要ないのであって、本来の私たちもまたそうだったのだ。言葉は神から離れてバラバラにしまった私たちがコミュニケーションをとる必要から生じたツールである。全知全能の神なら私たちが何も言わなくても心の中にあることはみなお見通しのはずではないか。言葉はシンボルであって本質ではないのだし、それどころか言葉はシンボルを表すためのシンボルなのである。たとえば「愛」とか「りんご」という言葉はそれぞれの概念やイメージを表す言葉だが、愛やりんごもまたそれ自体概念やイメージであって本質ではないのだ。

言葉とは、定義により必ず具体的な何かを指し示すものである。ある言葉を見聞きすればそれに反応して「ああ、あれ」というイメージが心に浮かぶはずだ。りんご、といえば(リンゴを知っていればの話だが)リンゴの形や味やにおいが思い出される。愛や真理などという抽象概念であってもその言葉を理解できているからには必ず何かしらの具体的イメージがあなたの心に浮かぶはずなのだ。もちろん、言葉はシンボルでありシンボルに過ぎないので「りんご」といおうが「愛」といおうがそれに呼応して心に浮かぶ概念やイメージは人によって異なる。「私はリンゴが食べたい」という人にリンゴを持っていったら「こんなんじゃないわよ!」と言われるかもしれないし、「私は愛が欲しいんです」という人がどういう経験を求めているのか他の人にはわからない。愛が欲しいと言いながら実は憎しみを求めているのかもしれない。愛と憎しみを混同しているのかもしれない。こういう場合、その人が用いた言葉ではなく心の中にあるものだけが与えられるのだ。

癒しにおいて言葉が有効であるとすれば、その具体的イメージがマインドの状態を変容させる助けになるからだ。たとえば「私は今神の愛と光で満たされています」と言って悪い気持ちがする人はあまりいないだろう。たいていは何がしか平和で豊かな満ち足りた気持ちになるだろう。ただの「愛」なら憎しみや色ボケと混同されるが、「神の愛と光」ならそういうことはなさそうだからだ。

これと同じ事情なのだが、あなたが心の祈りで何か具体的な「もの」を求めたとしてもあなたが求めているのは実はその「もの」自体ではないのであって、あなたはそれが象徴する経験を求めているのである。たとえば「恋人がほしい」「ケッコンしたい」「健康になりたい」「お金がほしい」などそれぞれ「恋人」「ケッコン」「健康」「お金」という「もの」を求めているわけだが、実際には恋人・結婚・健康・お金によってもたらされるであろうあれこれの経験を求めているはずなのだ。お金があったらこうなれる、結婚すればああなれる、と考えるその内容は人によって異なるだろう。が、その人にとって「こうなりたい、こうなれれば幸せに違いない」という状態=経験を象徴するのが恋人だったりケッコンだったりお金だったりするわけだ。つまりこれらの「もの」は象徴=シンボルである。言葉はそれらを表す更なるシンボルなので人によって言い方も様々になりうる。「カレシが欲しい」「ライフパートナーがほしい、家族がほしい」「1億円欲しい」などなどいくらでも変換可能だし、人によって日本語になったり英語になったり中国語になったりもするだろう。

また、たとえば「主の祈り」の中の「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」の「日用の糧」も、その日の食べ物もままならないような状況にある人なら文字通り「食べもの」だろうし、ものすごく忙しい人なら「食事の時間が取れますように」かもしれないし、あるいは食べ物ではなくてお金を思い浮かべる人もいるかもしれない。

結局あなたは何を祈り求めたのか?それらは心に抱いたとおりに叶えられるのである。何によって?それは神から分け与えられたマインドによって、マインドの持つ神と同じ力によって、である。私たちは創造力を誤用して「投影による現実化パワー」だけを持つようになってしまった。ゆえに、私たちが祈り求めたことはそれがどんな間違いであっても間違いのまま叶えられてしまうのである。幻想を求めれば幻想を受け取り、不可能なことを求めればそれがそのまま投影されて現実化され知覚機能によって認識される。つまり、「私は神のひとり子ではない。完全ではない。罪によって穢れています」というのは幻想であり不可能なことなのだが、そういう心のまま祈り願ったことはどんな言葉で何を求めていようともその心の通りに受け取られてしまうことになる。心の祈り、とはあなたの心が「そうだ」と認めることである。ゆえに、どんな言葉で何を祈ろうとも言葉より心の中で求め認めたことだけが受け取られ叶えられるのだ。まあ、いわゆる「引き寄せ」である。

この世のものを求めればこの世の経験がもたらされる。結婚を求めて神の平安がもたらされることはないだろう。「恋人を授けて下さい」「愛する人を与えて下さい」「結婚させて下さい」と、言葉はさまざまだろうが、ここで求められているのが「この世のこと・この世の幸せ」なのだったらあなたのマインドはこの世にとどまり、結果としてこの世の苦痛をも味わうことになるだろう。

一方、神の御言葉は人間界のいかなる象徴をも必要としない。そのまま直接に受け取られ叶えられるものである。神の御言葉とは真理の謂でもあるのだが、真理は言葉で表せない。だからここは真理が投影された言葉だと受け取ればよいと思う。要するに、真理から出たもの・・愛とか平和とか喜びなどなどはそのまま求められそのまま叶えられるのだ。いま求めれば即座に受け取られて叶えられるものなのだ。あなたが豊かさを求めればそれは今ここで即座に与えられる。そしてそれが投影された経験としてあなたは実際に裕福になるかもしれない。が、ただ皮相的に裕福さだけを求めたらこうはいかないのである。平和も然り、それは求めればすぐに与えられその結果としてあなたのいるところにはどこでも常に平和があるようになるだろう。これもまた言葉だけで「あの人と仲良くなれますように」と祈り求めたのではダメだと思う。

「愛」「平和」「喜び」「豊かさ」など、真理につながるあれこれの言葉もまたシンボルなのでそれが意味するところは人によって違うだろう。愛が憎しみと混同された人もいるし、平和と聞いて反射的に戦争を思い浮かべてしまう人もいる。私たちが「自分で」イメージしようとするとこういう危険が生じる。が、聖霊なら安心だ。聖霊はこれらの言葉の意味するところを正確に、かつ絶対確実にとらえてくれるのだ。いかなるイメージも具体的経験も一切飛ばして、直接的に理解できるのだ。そして理解したままに受け取り叶えてくれるのである。

神から遣わされた教師は、言葉の用い方も全て聖霊に委ねるべきである。教え示しかつ癒すというプロセスで言葉を用いないわけにはいかないのだ。心を鎮めて聖霊の声を聴きなさいと言ってもできない人のほうが多いのだから、神から遣わされた教師はそういう人々に対してそれぞれが今の時点で理解でき受け入れられるように話さなくてはならない。そんなこといちいちどうやってできるのか?だからこそ聖霊に委ねるのである。

ワークブックに「私は引き下がって聖霊に先導させよう」とあり、詩篇にも「わが主よ、わがあがない主よ。我が口の言葉、我が心の思いを御心に適わしめたまえ」(文語訳版)という章句があるが、まさにそういう感じだと思う。聖書の中でもキリストが弟子たちに「何を話せばよいかは聖霊が教えてくれる」と言ってきかせている。聖霊に身体(=口)を貸すというか、まあ一種のチャネリングのようなものである。ここでは「聖霊の言葉をきいてそれを話せ」みたいに書いてはあるが、実際に何かの声が聞こえてくるとは限らない。「こう言いなさい」という命令が聞こえてくるとも限らないし、そういうケースは却って少ないように思う。自然に言葉が口をついて出る、というほうが多いのではないか。場合によっては「あれ、私どうしてこんなこと喋ってるんだろう」と自分でも戸惑うような言葉があなたの口から出てくるかもしれない。今の話題や状況には一見全く無関係そうなことを話したりするかもしれない。が、それを恐れてはならない。自分でコントロールしようとしたり、あるいは自分の口から出るあれこれの言葉を「このワタシ」が判断してはならないのだ。それでは聖霊を、神を信じていないことになる。聖霊があなたを介して話すことはあなたが自力で考えてしゃべることなんかよりはるかに賢く正しいに決まっているではないか。

そこに怒りや罪悪感や不安や防御が全く存在せず、感情的にもならず、完全に心が鎮まった状態で自然に発せられた言葉なら聖霊から来たものだと思って信頼しよう。

神から遣わされた教師が実際にどんな言葉を用いて話そうと、それらは神の御言葉に裏打ちされたものであり神の御言葉を象徴するものである。その時、彼らの用いるあれこれの言葉は単なる音や記号ではない。ただのシンボルを超えて神の霊=聖霊の力を与えられたものになる。こうして、神からの分離による副産物=幻想の一部に過ぎなかった「言葉」もまた聖霊によって有効利用されるのだ。

(ここで言われているのはいわゆる「言霊」とは違うことである。言葉そのものに予め力が宿っているのではない)

第295回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 18

18 間違いはどのように正されるのか?

「コース」を学び始めて以来、私たちは日々いろいろな間違いに気づいて正してきたはずだ。厳密に言えば、間違いはいろいろあるように見えても根本的には「自分が神のひとり子ではないという思い込み」のただひとつに集約され、そのただ一つの間違いが完全に正されない限り私たちは真理には至らないのである。間違いには程度の違いもそれを正す難易度の違いも存在しない。

とはいうものの、日常生活においては「うわーっ、これって本当はこうだったんだ!」という、もう驚天動地のような気づきと「あーこれも間違いだったわ、トホホ」みたいなレベルのものがあったり、一度気づけばすっかりわかってもう二度と繰り返さないものもあれば、あ〜またやっちまった、みたいに毎日何度も正さなくてはならないものもある。ここでまた厳密に言えば、「二度と繰り返されない」ようになって初めて本当に正されたということができるのだ。本当に心底から「わかった」のなら、もう同じ間違いは犯さないはずである。それにはやはり「単なる事実」と「自分の判断や解釈によって意味づけされた事実、即ち投影によるでっち上げ」を混同せず、現実と幻想を混同しないようになっていなくてはならない。

前回までに詳しく書かれていたように、相手の間違い(たとえば魔術的な考え)について怒りを覚え、批判や攻撃をしてしまうのは「間違いを現実と取り違える」という間違いを犯した上に、平和と喜びと感謝以外のもの即ち神の御心でない「うそ」を与え受け取ってしまうことになる。それ以上に問題なのは、相手の間違いを正そうとして説得したり場合によっては議論をしてしまったりすることだ。幻想を相手に議論なんかできないはずなのだから、そういうときあなたはもうしっかり相手の間違い=幻想を現実にしてしまっていることになる。「コース」を学習している人が、たとえば「どうしてこれが幻想だと書いてあるのかわかりません、教えてください」というのなら難なく説明できる。が、「コース」なんか全然知らないような大多数の人々をあなたは日々相手にしなくてはならないのだし、どんな人であってもその日出会ったということはお互いに教え学ぶ必要があったのだ。幻想を信じ、その中に救いを求めている人に出会ったならあなたはそれに正しく対処するという学びを与えられたのだ。教えるとは「コース」の教えの正しさを説得してわからせることではない、くれぐれもこれを忘れないように。

幻想を現実と取り違えない限り議論は不可能だ。誰だって幻想を相手に議論なんかしないだろう。批判や議論になったらあなたもまた幻想の世界の住人になってしまう。その中で語られる救いとはいったい何だろう?お前は間違ってる!幻想を捨てるんだよ!と説得してわからせることが救いだろうか?そこに純粋な喜びと平和と感謝があるだろうか?これではまるで救いが「正義のための戦いに勝つこと」みたいになってしまうではないか。だいいち相手の間違いを指摘するにしても、その都度相手の状況に合わせて相手がわかるように説明するのは普通に考えても当たり前の思いやりではないか。そうすれば相手の気づきを促すこともできるだろう。しかし、これは間違っても批判や攻撃ではない。そこに怒りがあったら愛はなく、愛がなければ思いやることもできないからである。指摘するにしてもそこに愛があるかないか、この違いはあまりに大きい。キリストも弟子たちに結構「バカか、お前らは」みたいなことを言っているのだが、その聖書の記述が事実ならばそれはやはり愛から出た言葉だったのだろう。

ただ「コース」を学んでいる状態から一歩も二歩も進んで「神から遣わされた教師」として生きるとすれば、それだけ「出会う人々に救いをもたらす」ことが重要になる。しかし、自分の間違いを正すのはまあ普通にできても、相手の間違いを正してやることについては誤解が多いのではないかと思う。上に書いたように、これは「正しい自分」が「間違っている相手を打ち負かす」ことではないのだ。救いとは解放なのであって、勝ち負けではない。あなたは聖霊に導かれるのであって、聖霊ならそんなアプローチをするわけがない。

忘れないでいただきたい、私たちは聖霊によって語るのだ。というより聖霊が私たちを通して語り、行為するのだ。「コース」のいう「教える」とはいわゆる文字通りの意味ではなく、「私たちは神においてひとつ、神によってつくられたひとり子」「神の御心は永遠に不変であり、私たちはその一部である」という真理をただ見せることなのだ。つまり、神の御心=喜びを教えたければあなた自身が喜びにあふれ、平和を教えたければあなた自身が平和である、そういう姿勢・在り方あるいは波動といってもよい、それによって示すのだ。そういう在り方を見て=受け取って相手のマインドは癒され間違いも正されるのである。極端にいえば、その時聖霊はあなたを通して「もう一つの世界、天国に似た世界」即ち「罪も穢れもない世界」を表現しているのである。

こういう在り方をしていれば、必ず相手は聖霊のほうを向くはずなのだ。本人にその自覚はなくても必ず何かが伝わり受け取られるのだ。別にその場で相手が「私は間違っていました」と認めるわけでもないし、私たちの目的はそれではない。ただ「何となく幸せで楽な気分になった」と感じるだけかもしれない。明日にはまたもとに戻ってしまうかもしれない。が、それでもその瞬間、その人はゆるしゆるされているのである。

どんなものであれ、怒りによって表されるのは「罪は実在するんだ!」ということだ。たいていの場合、怒りは糾弾し断罪するものであり、糾弾し断罪されるのはいつだって罪に決まっているではないか。単なるミスをしただけなのに激怒するのは、その人にとってそれはミスではなく罪に見えるからだ。しかも、そう見えてしまうのは他ならぬ自分自身を罪深いと思っているからなのだ。

罪ある世界、が作り出された瞬間に私たちは「神から離れたバラバラの個体」となり、「身体や時間や空間などあらゆる物理法則に制限されたもの」になってしまう。救い=解放とは全く正反対の状態に陥ってしまうのだ。間違いを正そうとして怒りや批判に訴えれば教えるほうも教わるほうも共に幻想まみれの地獄に堕ちてしまう、と言っても良い。間違いの上塗りをしてしまったようなものである。そこから抜け出すために、改めて「間違い」を正さなくてはならないわけだ。

というわけで、真実から遠ざかってしまったときにはこれで正そう。

「あなたは真理に間違った解釈を与えてしまっただけだ。つまり、あなたは間違っている。が、ミスは罪ではなく、あなたがミスを犯したからって本当の現実はびくともしない。それは変わることなく保たれている。とこしえに世を統べ治めたもう神、その神の法則だけがあなたと世界を支配する。そこにずっとあるのはただ一つ、神の愛だけだ。あなたは神によって、神に似せて創造されたもの、あなたは神の愛のみでできている。ゆえに恐怖は幻想である。」

今更だが、神に遣わされた教師が癒しをもたらすためには自分自身の間違いを全て正していなくてはならない。少なくとも癒しがもたらされるその瞬間には全て正されていなくてはならない。

「ゆるせない!!」という激しい怒りに見舞われるのはもちろん、ほんのちょっと「イラッ」としただけでもうダメなのだ。怒りにもまた程度の差はないからである。これくらいならいいわよね、という例外もないからである。厳しい要求に思えるかもしれないが、端的な事実なんだから仕方ない。誰か・何かに対してほんのちょっと「イラッ」としているうちは癒しの根源である真理から離れているのだから癒しはもたらされない。気づいたら直ちに手放さなくてはならない。イラッと来るのもまた「本当の現実に間違った解釈を加えてしまった」からなのだ。ああ〜またやっちまった、とガックリきつつもやはり聖霊に立ち返り、聖霊に委ねるしかないのだ。いったい今どういう反応をしたらよいのでしょう、と聖霊の判断を仰ぐのだ。より具体的に言えば、心を鎮めマインドを感謝と平和で満たしてみるのである。より一般的な言い方なら単に「冷静になりなさい」でもよい。

こうすれば聖霊があなたの間違いを正し浄化して、まずあなたが癒される。それによって相手もまた癒されることになる。この順序、この構造をよく理解していただきたい。相手の間違いは、それを間違いだと認識した自分自身のマインドにおいてまず正されるのである。

あがないとは、別の言葉で表せば「浄化」=マインドの中の間違いを掃き清めることであり即ち「間違いを正すこと」でもある。癒しをもたらそうとするなら、まずあなたがあなた自身のあがないを受け入れなくてはならないのであり、それだけが神から遣わされた教師の負うべき責任なのである。その責任がまっとうされれば、あなたは定義により「奇跡を為すもの」となる。完全に罪も穢れもない本来の自己を受け入れたとき、あなたはもはや自分を責める理由がなくなる。自分の中にないものは投影されないから他の誰かを責める理由もまた消失するのである。そこにはもはや時間も空間もない、この世のあらゆる物理法則が及ばない領域である。あらゆるものをありのままの完全無欠な姿として見る、歪んだ知覚認識を正すことこそが奇跡であり癒しなのだ。これらもまたあがないと同様、まずあなたのマインドにおいて為されることである。

第294回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 16・17

16 神から遣わされた教師は一日をどう過ごすべきなのか?

いわゆるヴェテラン教師になってしまえば、彼らは聖霊に全幅の信頼を寄せているので安心して全てを聖霊に委ねて日々を過ごすことができる。その日に起きること、出会う人々、全てが聖霊から遣わされたものだと信じて教え学ぶことが自然にできるのだ。その日に学ぶ必要のあることだけが起きる。彼らを必要とし、彼らと同じ目的を持って学ぼうとしている人々が適切なタイミングで寄ってくるのである。彼らは目的をしっかり定めているので、あらゆることをその目的に即したものにできる。その時々でなすべきことは変わるが、常にその目的は一つである。彼らは聖霊によるただ一つの答え・・私たちは神からつくられたとおりのものであり、穢れなき神のひとり子であり、罪は存在しない・・を常に携え、常に聖霊とつながっている。だからその時々で的確な対応ができるのである。そのことがわかっているので、更に自分の前には救いに至る道が用意されているとわかっているのでいつでも安心していられるのである。

いまだそこには至っていない教師の場合はどうしたらいいのだろうか?ただ何となくダラダラしていたら簡単にエゴに流されてしまうかもしれない。それでは教え学ぶという役割を果たせない。理想的にはいつでも「きょう一日を神に捧げます。神に差し出します」という姿勢でいることだ。しかし、そう思っていてもやっぱりきょうもダメでした、なんてことだってあり得るだろう。

ここで紹介されているのは「一日の始まりと終わりをしっかり引き締める」という方法である。教師用マニュアルは本来ワークブックを終了した人のために書かれたものなのだが、ワークブックを行っている最中であれば毎日を「その日のワーク」とともに過ごすことになるので、一見大変そうだが気持ちが緩みにくいのだ。何かもうワークをやるために生きてるんじゃないか、くらいになる。しかしワークも終わってしまうと毎日の規範がなくなってダラケやすくなるのである。ここで紹介されているのはいわばそれを回避するためのもっとも簡単な方法である。まず手始めにこれだけはやってください、というような感じなのだと思う。一言で表せば「一日の始まりと終わりに心を鎮め静寂の中にあって神のことを考える、つまり純粋や喜びや平和や感謝や豊かさなどでマインドを満たす時間を持つ」ということであり、もっと言えば「一日を神に始まって神に終わる」ようにするのである。

やり方は各自の自由で構わない。時間もかなり短くて構わない。長ければよいというものでは全然なくて、要するに「気が散りそうになったらそこで止める」くらいでちょうどよいのである。横たわった姿勢は良くないそうで、スタイルは自由だがとにかく「背筋を伸ばして座る」のが望ましい。まあ、立ったままでも良いのだと思う。

これはたとえばお祈りをしたり、仏壇や神棚に手を合わせたりするというやり方でも構わないのだが、こういうのは一歩間違うと儀式化して偶像になりやすいので注意が必要だ。朝と夜の静寂、というこの方法はもちろん日課として習慣化すべきものだが、かといって単なる日課になって「お祈りをしながら別のことを考える」ようでは全く意味がない。旅行先で仏壇がないからできなかった、というのでも困る。いつでもどこでもどんなときでも心が鎮まるようにしなくてはならないわけである。

まず、朝起きたらなるべくすぐに「神と共にある」時間を持つ。スタートでしくじると一日が台無しになりやすいのだ。家族がいるような人だとあっという間にバタバタしてしまうだろうが、これは本当に1分でも十分な効果があるので安心して頂きたい。1時間も瞑想しろと言っているわけではないのだ。

夜も全く同じことをするのだが、人によっては床に就く直前よりもっと前のほうが時間を取りやすいかもしれない。だったら早めの時間にしても構わない。が、その場合はベッドに横たわる直前に、これまた1分でいいから心を鎮めて神と共にある状態を作ってほしい。朝よりも夕方以降のほうがおちついて長い時間を取れると思うが、これまた長ければ良いというものではないのでやはり「気が散りそうになったらそこが潮時と思ってやめる」ことである。

寝る直前にこういう時間を持つのが大切なのは、マインドを安らぎの状態に導き、あらゆる恐怖を取り除いてから眠るためである。

場所も道具立ても言葉も関係なく、ただ神と共にある・・・つまりマインドが純粋な喜びと感謝と平和に満たされて解放された状態になる、あなたのマインドにおいて「限りなさ」が実現される、これができればあなたはいつでもどこでも安全でいられるようになる。一日のうちで何かあなたのマインドを乱すようなことに出会ったらこの状態を思い出し、この状態に立ち返ればよい。慣れてしまえばそれほど難しいことではない。

今まであなたが恐怖から自分を守るために必要だと思っていたあれこれは全部幻想であり偶像だったのだ。そもそも恐怖じたいが実体のない幻想なんだから、それを守るためのあれこれも幻想であり偶像に違いない。が、あなたはそれらの幻想・・・このパワーが自分を守ってくれる、この場所は自分を守ってくれるなどと思い込んでしまっていて、それらを失うのを怖がるようになった。いろいろな道具やテクニックなどなど、それ自体には何の力も意味もないのにあなたがそれらに力を与えてしまったのだ。それらは、あればあなたの助けになるかもしれないが、なくたって全然困らないものばかりなのである。ここで紹介した方法をやっていれば次第にそれがよくわかってくるだろう。何もなくてもちゃんと守られていることがわかってくるだろう。

あなたがいつどこにいようとも、あなたをもっとも強力にしかも絶対確実に守ってくれるものが常にあなたとともに、あなたの中にいる。あるいはあなたがその中にいる。だからあなたはいつだって安心していられる。ちょっと困ったことがあってもこの存在を思い出せばすぐあなたは守られた状態になれるのだ。どんな問題でも全く同じように対処して解決してくれる存在がいつも一緒なのだ。何のテクニックもいらないし道具もいらない。たった一瞬で守られた状態に立ち返ることができる。あなたは守られている。もともと守られていたのにあなたがそれを忘れてしまったのである。あなたがこの存在を全く知らず、恐怖に震えていた時代から実はあなたは守られていたのだが、あなたが幻想の中にいてそれに気づかず、幻想を現実化してしてしまっていたのだ。これから先もあなたはずっと守られている。何故なら、あなたが気づこうが気づかなかろうが、あなたはそれと「ひとつ」だからだ。

あなたがどんな状態にあっても神や聖霊の眼からみれば「幻想か、現実か」のどちらかしかない。あなたがいつどこにいようが時間も空間も神や聖霊の眼には関係ないのだ。こんなところにいたらものすごく大声を出さないと神さまには聞こえない、なんてことはありえないのだ。こういうことがわかればあなたは常に安全でいられるのである。というか、安全だということがわかるのである。

そうはいってもやっぱり時々は外界で起きるいろいろなことにとらわれたり、マインドが乱されたりすることもあるだろう。それはいわゆる「エゴの誘惑」なのだが、そういうときはどうしたらいいのだろう?

言うまでもなく、聖霊が自分を守ってくれていることを思い出すしかないのである。どんんな状態にあってもとにかくマインドを喜びと感謝と平和で満たすことはできるのだ。そして、これが肝心なのだが「絶対にうまくいく」という確信を手放さないことである。今度ばかりはダメかも、なんてことはあなたの=エゴの判断に過ぎない。あなたが自力で「うまくやろう」とするなら「今度ばかりはダメ」かもしれない。しかし、あなたを守り助けてくれるのは限りない叡智と能力を持った神の一部である聖霊なのだ。聖霊に「もしも」はない。常に確実なのである。

「コース」を学び始めると生きるのが楽になってくる。で、うまく行っているうちはよいのだが、やはりちょっとしたことでつまずいてガーッと元に戻ってしまうようなこともあるのであって、そういう弱気な時に私たちはつい「あれこれのおまじない」みたいなものやテクニックに走りがちなのだ。これらに助けを求めるのは邪道というか外道というか、「コース」は魔術だと言っているが、要するに「幻想に救いを求めてしまう」状態になる。幻想という誘惑に引っかかってしまうのだ。これは良くないことに違いないが、良くないのはそれが罪深いからでも危険だからでも恐ろしいからでもない。「無に等しい」ものゆえ役に立たないからである。良くも悪くもない、ただ「無意味、無益」だからである。「ない」んだから否定も肯定もできない、それくらいのものなのである。こういう魔術的・呪術的なあれこれは、それを現実だと信じてやっている当人のマインドにとっては(自覚はなくても)神の御心に背いた罪であり、罪悪感を増大させる恐ろしいものになるのだが、醒めた目で見ればとにかく「それ自体には何の力もない、何ものでもない」、想像上の玩具に等しい代物なのだ。次章で詳しく述べられるが、ある程度学びが進んで「あれもこれも幻想なんだ」とわかってきた人は、魔術的呪術的なものを目にすると「イカン!ダメだそんなもの!すぐやめろ、罰が当たるぞ」というふうに怒りが湧いたりするのである。が、これは正しい反応の仕方ではない。何故なら「どんなものであっても怒りは正当化されない」からである。

同様に、うっかり弱気になった挙句に何かしらの道具やテクニックに救いを求めてしまう=魔術という幻想に救いを求めてしまうという間違いを自分自身が犯したとしても、罪深いことをしてしまったなんて思って怖がらないでほしい。ただ、間違いを正して元に戻ればそれで済むことなのだ。

神から遣わされた教師は、神の御心以外のいかなるものにも力を与えない。そんなものに惑わされず騙されない。そう決心するのだ。たとえば「神は私とともにある、ゆえに私は何物にも騙されず欺かれることはできないのだ」と言ってみる。もっと短い言葉でもいいし。言葉が必要なければそれでも構わない。とにかくマインドを平和に保ち、ゆるしゆるされて救いをもたらすことだけを目的にする、言い換えれば神のみを見て一日を過ごすのだ。あれがなければ、これをしなければ神と共にいられない!なんてことはありえない。そんなあれこれはさっさと手放してしまいなさい、そうしたってあなたは何も失わないんだから。もともと「存在しなかった」ものをありのままに認める、それがイコール「手放す」ことになるのだ。それだけなのだ。犠牲でも何でもない。なのに手放すのが怖いのは、それらが「効く!効果がある」と思い込んでいるから、ただそれだけなのだ。

犠牲にされていたのは他ならぬ「本来の自己」である。神から離れてバラバラになり本来の自己を置き去りに=犠牲にしたから「どうしよう」と苦しむ羽目になり、それを何とかしようとして幻想に救いを求めたって救われない。むしろ、救いだと思われていたそれらの幻想を捨てることによってこそ救われるのである。

この気づきによってこの世界は天国に似たものとなる。神から遣わされた教師はそのことを、即ち特別な何かをしなくてもこんなに平和で幸せになれるのだ、と実際にやって見せることによって教えるのだ。

「私の思いは常に神の御心と同じものである。」ゆえにあなたはいつも安全で安心していられる。神の御心ではない何かに力を与えてしまったときだけあなたは危険に陥る、というか危険に陥ったと思い込み恐怖や不安や怒りに駆られる。神の御心に依らない救いは全て「魔術・呪術」であり、幻想に過ぎない。

こういうものは実にさまざまな形を取って現れるので、注意していないと惑わされるかもしれない。毎日、ほとんど24時間通して私たちはそれらの真贋を見分けていなくてはならない。幻想だとわかってしまえば、つまり「本当は存在しない無意味なもの」「私たちが意味を付与しない限りそれじたいには何の意味もないもの」とわかってしまえば恐怖も怒りもない、どんな感情も湧かないだろう。これがああなれば、あれがこうなれば救われる!と思うなら、そしてそれらを「何とかしてくれる」方法を見つけようとするなら、あなたは魔術や呪術に血迷ってしまったことになる。神の御心以外の何ものにも動かされないマインドは病むことも倦むこともない。ちょっと間違えてしまってもすぐにそこに立ち返るようにすれば、たちどころに天国の門が開かれ私たちは感謝と喜びに満たされるだろう。

17 神から遣わされた教師は「魔術的な考え」にどう対処すべきか?

これは一応「教師用マニュアル」であり、テキストとワークブックを一通り完了した人を対象としている。これを読むくらいになれば当然「本当の癒し・救い」と「そうではないもの」の原則的な区別はついているはずだ、という前提に立って書かれている。マインドの間違いを正さずに、あるいは赦しや手放しを経ずに外観や現象だけを変える、改善しようとするものは全て「まやかし」である。「コース」はキリスト教の枠組みで書かれているが、別に枠組みなんか何だって構わないのだ。重要なのは本質が貫かれているかどうかだけである。逆に言えば、どんなテクニック・手法であってもそれが単なる便宜=ツールとして用いられるのであれば構わないのだが、一歩間違ってそれらテクニックや手法そのものが「すごい」「価値がある」「奇跡的」と思われてしまえばその時点でそれらは魔術・呪術と化してしまうのだ。ましてや、私たちがそれらの「すごい」テクニックや手法に頼るようになったらもうそのまま偶像崇拝である。そういう意味では、仏壇や神棚に手を合わせるのも教会の礼拝もパンとブドウ酒もお墓参りも先祖供養もパワーストーンも風水も各種ヒーリングも医療もドラッグもお酒も、もちろん各種宗教も、その他もろもろ殆ど全てが魔術・呪術・偶像崇拝になり得る。一応は正しい意図によって作られたものでさえも、それを扱う本人の意識次第では魔術・呪術・偶像崇拝になる。

ここまではまあ理解できていらっしゃると思う。ところが、こうなるとまた別の問題が生じるのだ。というのも、世の中の多くの人々がこれら偶像や魔術・呪術を信じ頼って生きているのであり、神に遣わされた教師はそういう人々を日々少なからず目にすることになるからであり、それが間違いだとわかってしまうからである。そういう時はどうすればよいのだろうか?

ここで何が問題になり得るかというと、私たちはこういう「間違い」を目にして「そんなものダメだ、間違ってる!イカン、やめなさい」と言いたくなる、つまり怒りや攻撃(批判も含めて)が生じることなのだ。

なくなった家族やご先祖が守って下さっていると信じて感謝しつつ仏壇に手を合わせる老人を「そんなものは偶像だ」と言って責める人はあまりいなくても、「神の国に行ける」と信じて自爆テロに走る人々や「救われますよ」と言って怪しげな高額商品を売りつける人々に対しては怒りを感じるのではないだろうか?しかし、程度の差というものはなく、あらゆる怒りは「怒りである」というまさにそのことによって正当化できないのだった。正義のための怒り=義憤だって正当化できない。何故なら怒りとは「あるものを現実だと認めた」からこそ生じる感情だからであり、怒ることによって私たちは幻想を現実と混同してしまうからである。このあたりはテキストでも散々教えられたことだ。

そして、何より恐ろしく?或いは笑うしかないのは、怒りを覚えてしまった瞬間私たちもまた幻想と現実を取り違えるという間違いを犯している、つまり同じ穴のムジナになっているということだ。

さて、これもテキストの復習なのだが、恐怖と罪悪感と怒りは攻撃を媒介としてワンセットになっているのだった。ならば、あなたが何かに対して(いくらそれが義憤だと思えても)怒りを覚えるとき、それが「ちょっとムッとした」レベルであれ、殆ど相手に殴り掛かりたくなるくらいの激しいものであれ、あなたは実は恐怖を覚え且つ罪悪感を生じさせているのだ。これは取りも直さず、現実と幻想を取り違え真実を見失っていることである。真実が見えているからこそ怒るんだ!なんて言い草は通用しない。幻想に対して腹を立てるとすれば、それはその幻想が真実を脅かすくらい強大な力を持っていると認めたことになるではないか。でも、幻想には力なんかないのだ。

となれば、ああ何ということか、相手を助けたいと思い相手のために良かれと思って、間違いを正してあげようと思って「そんなものはイカン!やめろ」というときあなたは「怒りと恐怖と罪悪感」を教え示し、かつ学んでしまうことになるのだ!それらを自分にも相手にも与えていることになるのだ。あたかも「それは呪術だ魔術だ、神の御心に反することだ、罪になる、罰があたりますよ」と言っているようなものである。これじゃあ神から遣わされた教師にならないではないか!

前章にもちょっと出てきたとおり、魔術や呪術的なあれこれはそれ自体何の力も持たない幻想なのだから、つまり現実ではないのだから怒ったり攻撃したりすることなど不可能なはずなのだ。

更に、これは考えればわかることだが人は誰でも「端的な事実」について怒りを覚えることはできない。怒りを覚えるのは自らその事実に「意味を付与」したからこそである。たとえば、きょう何かすごく頭に来ることがあったとして、その出来事を一切の感情も主観も排して文章にしてみると良い。だから何?それがどうしたの?という感じになってしまうだろう。

更に更に、たいていはいわゆる「他者」のマインドの中身などわからないものだ。自爆テロを命じられて行動に赴く若者のマインドが、死の直前の瞬間には完全に純粋な喜びと感謝に満たされていることはありえないのだろうか?そんなことがどうしてあなたにわかるだろうか?きっとこうだったのよ、おかしいんだわ!と考えるのもまた「あなたの判断」に過ぎないではないか。そこまで考えれば、というか考えてもわからないとわかれば、あなたは判断を捨てられるのではないだろうか?

真面目で清い心を持ってお墓参りの相談をしてくる方に対して、私は「そんなものナンセンスです、そこには骨しかありませんよ」なんて言わない。聖霊の導きを得るべくカードを切る。あちこちの聖地に行こうとしている人に対しても「空間など存在しません、どこも同じです」なんて言わない。やはり聖霊の導きを得るべくカードを切る。それが今の段階でその人がもっとも聖霊とつながりやすい方法ならばそれで良いだろうと思うからだ。

神から遣わされた教師は常に平和と感謝と喜びを与え教え、かつ与えられ学ぶのである。それ以外の結果・・つまり怒りや批判や恐怖や罪悪感などがもたらされてしまったらあなたは間違えたのだ。「それはダメだ、間違ってる」と言われたら相手は「自分はとんでもないことをしてたのか」と思って恐怖や罪悪感におののいてしまうかもしれないではないか。これじゃあ神から遣わされた教師どころかサタンの使いである。私たちは救いと解放をもたらすためにここにいるのであり、それらは平和や感謝や喜びに満たされるのと同じことなのに、別のものを与え受け取ってしまうとは。

もちろん、時と場合によってはありのままに間違いを指摘してあげたほうがよりよいこともあり、その判断は都度聖霊によって与えられるのだ。とにかく、魔術・呪術と思われる考え方を目の当たりにしても否定や批判をしないこと、これが何より重要だ。

本質だけをいきなりぶつけられて理解しろと言われてもたいていの人には無理である。それができるのはよほど純粋理性の強い人だけだが、そんな人はめったにいない。となれば、あらゆる幻想が学びのための(暫定的な)ツールになるのと同じように考えて、いろいろな魔術や呪術もまた使いようなのだろうと思う。といっても、もちろん神から遣わされた教師は既にそんなものには力がないとわかってしまっているので、自らは方便としてさえ使うことなんかないはずだ。いまだ学びに至っていない多くの人々に対してはそれらを暫定的な方便として使わせてあげればよいのではないか。少なくとも彼らが罪悪感や懲罰の恐怖からではなく、平和と喜びと感謝をもってそれらを用いることができるように、そしていずれは幻想と知って手放せるように教え示すこともできるのではないか。

さて、本当にすごいのはここからです!魔術的な考えを目の当たりにしてあなたの心には批判や怒りが湧きおこった!これはいったいどういうことなのか。そこで何が起きているのか?

これは二つの方向から説明されている。まず、魔術や呪術という幻想は結局何なのか。それらは神ならぬ力によって私たちを救うものである。これはキリスト教の神とは限らないのだが、とにかく魔術や呪術は「神」と同じように定義される絶対普遍の真理を冒涜するものと位置づけられる。そのネーミングからしてこれは明らかである。当人は神聖な力によって救われようとしているつもりでも、それが現世的な=神ならぬ目的を叶えるためのものだったり、時と場合により与えられたり与えられなかったりと一定しないものだったり、与えられる場合に何らかの犠牲=生贄を必要とされるようなものであれば、それらは魔術や呪術として用いられたことになる。

いずれにしろ、神ならぬ力によって救われようとし、しかもそれが本当に効果的であると信じているのなら、明らかに神以外の何かに神と同じ力を認めていることになる。これは神からの分離であり神に対する冒涜及び反逆に他ならないではないか。これは普通に考えても罪であり、罪悪感の生じないわけがない。それが幻想だとは思い及びもせず、利己的な利益のためでもなく、ただ純粋な信仰と献身をもって接していればまだ良いのだ。それらはある意味「聖霊の化身」として働くかもしれないからである。が、そうではない場合、あなたは神以外のものに神のような力を与えたことになる。言い換えれば神の地位を奪ったのであり、神を敵に回してしまったことになる。あなたは幻想の救い・偶像にしがみついているが、実は孤立無援なのだ。というか、実はもっとも強大にして唯一の力を持つものを不倶戴天の敵にして戦いを挑んだら負けは明らかではないか。そんなものに対して反逆してしまったら死に値する懲罰は明らかではないか。

これは、神から離れてバラバラになったという思い込みを現実だと信じるために投影によって身体を作り出し、その身体を現実のものだと思い、その身体の命こそもっとも尊いと思っている「勘違い」と同じ構造になっている。これまた偶像であり、神ならぬものに神と同じくらいの価値を与えてしまっているからだ。

第293回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 13・14・15

13 「犠牲」の本当の意味は何なのか?

今更だが、この「犠牲」とはvictimではなくsacrificeであって、いわゆる「神聖な目的のために捧げられるもの」のことである。キリスト教に限らず多くの文化の中で「何かを犠牲として捧げないと・・つまり、大切なものを失わないと救いは得られない」という考え方は非常に多く存在する。

が、これまで繰り返されてきたように「犠牲」という言葉や概念じたいが実は全く意味を為さないのである。何故なら、だいたい犠牲として捧げられるのは「実在しないもの、幻想の産物」であるようなものばかりなのであって、いくらあなたが「大切だ」と思っていても「ない」ものは捧げることも失うこともできないんだし、「ない」ものを苦労して捧げたって、たとえ富や名声や地位や名誉や権力や快楽を無理やり諦めたって、それどころか(身体の)生命を差し出したって(悪いけど)意味も価値もないに決まっているからだ。そして、真に価値のあるものはいくら捧げても与えてもなくなるどころかますます豊かに増えるのだから、それを犠牲として差し出すことは不可能だ。ゆえに本当の現実の中には犠牲という概念はありえない。つまり、「この世的なものを差し出すのはそもそも犠牲にさえならない」のであり「真に価値のあるものは犠牲にしようがない」のだ。

とはいえ、これらのものを「自覚なく」うち捨てること、正確に言えば忘れ去ることはできるのであって、幻想を現実と思い込んで大切に守っている私たちはみなそれをやっているのである。これについては後述される。

犠牲という概念を理解して手放すこと、それが幻想なのだとわかって手放すことは大きな学びである。犠牲に何か意味があるとすればこの学びを措いてない。「ない」ものを「ない」とわかって手放すのは解放であって犠牲ではないはずなのだが、解放だからこそ救われるはずなのだが、今のところ「犠牲」という概念には何かしら苦痛が伴っており、まるで「苦痛を味わわないと救われない」と言われているかのようである。こういう思い込みを含めて犠牲にまつわる全てが幻想だとわかるために私たちは学んでいるのだった。

この世で「大切だ」と思われているものは何であれ「身体」「個人」と結びついている。結論から言うと、それらを持っていようがいまいがそこに特別な価値や執着をおいていなければ救いとは何の関係もない。この「身体」「個人」こそがワタシなのだ、と思っていなければ良いだけの話である。よく言われることだが、たとえ禁欲を貫いたって頭の中がセックスの妄想まみれだったら何の意味もない。それは身体の快楽を現実に価値あることだとみなしたうえで無理やり形だけ遠ざかろうとしているに過ぎないからである。だったら無意味だとわかったうえで適当に楽しむほうがまだマシである。お金儲けは悪いことだと考えて清貧にこだわるのもまた同じようなものだ。あるいは、名誉ある地位に就くのはいけないことだ!と思い込んでせっかく推薦されたポストを断って「そういうことをした自分は偉い、大事なものを犠牲にしたんだから」と考えるようでは話にならない。だったら淡々とお受けしたほうがずっと良い。そういうものに対しては否定も肯定もできないはずなのである、だって「無意味」なんだから。そして「無意味」とわかっていればわざわざ苦労して求めることもなく、もし手に入ってしまってもわざわざ捨てることもない。

この世のあれこれを必死で求めて得られたとしても真の意味での幸福も平和もないのだということはテキスト篇で既にしつこく教えられてきたとおりである。そんなことをしてしまうのは私たちが神と一つである本来の自己を忘れ、本来持っているはずの幸福や平和を忘れてしまったからだ。言うなれば、私たちはこの上なく幸福であるはずの本来の自己を「犠牲に」してしまったのである!おまけにこんな犠牲を払っても救われるどころかますます救われなくなるのである。もちろん、本来の自己は忘れられることはあってもなくすことはできないものなので、本当に犠牲にされたわけではないのだが。

求めても得られないとマインドは自らを責めさいなむようになる。こんな自分はダメだ、こんな自分は不幸だと思って苦しむのだ。が、これもテキスト篇で教えられたように、私たちは何が自分を幸せにしてくれるのかわからずにただ求めている。「ない」ところにいくら求めたって何も得られないのは当たり前だ。私たちは自分が何を持っていて何が足りなくて何を求めているのかわからなくなってしまった。つまり、自分が何であるのかわからなくなってしまったのだ。「私」とはそもそも何なのか?それに正しい答えを与えてくれるのは神のみことば・・・聖霊しかない。

この世の快楽を捨てるなら、この世の苦痛も苦悩も同時に捨てることができる。この二つはワンセット・・・両者とも身体性=個別性と結びついたものだからだ。あらゆる苦痛や苦悩を捨てることが「犠牲」だろうか?それは解放に他ならないのではないだろうか?要らなくなったから捨てる、ただそれだけのことなのだ。大切なものを捨てるからこそ犠牲と言えるのであって、不要なものを捨てるなら犠牲ではない。それじたいには何の意味もないあれこれに私たちは勝手に意味を与え、それを得ようとするあまりそしてそれを失いたくないあまり苦しんできたのだ。そこから解放されてもっとずっと良いものを得られるのだから問題ないと思うのだが、それでも抵抗を感じるのはうーん、やっぱり「犠牲という概念・感覚」にまだ現実性があるからだろう。

でも、考えてみて下さい。完全な自由を「犠牲」にして制限や不自由さを得たいと思いますか?完全な健康を「犠牲」にして病気になりたいと思いますか?あらゆるものを手にしている状態を「犠牲」にして、「実はない」あれこれを握りしめていたいですか?

さて、改めて犠牲の本当の意味とは何だろうか?上述されているように、幻想を信じて真実を否定することである。すごく変なものを自分だと思い込んで本来の素晴らしい自己を忘れることである。もっと乱暴かつ端的にいうと「理性を捨てる」ことである。まともに理性が働いていたら、少なくとも幸せを求めたつもりで苦痛を求めるなんてトンチンカンなことはしなくて済むはずだ。

犠牲という概念が私たちの目をくらませているのである。これはいろいろな形で現れる。あれさえあれば幸せになれる!と思い込んでこの世のあれこれを求めて苦しみ、あるものを得るためにあれもこれも犠牲にした、なのにどうして今幸せじゃないんだろうと思ったりする。または、「大切なものを捨てて苦しめば苦しんだだけ救いに近づけるんだ!キリストだって苦しんだじゃないか!」とか。この世のことでさえ、本当に求めているもののために他のあれこれをなげうって頑張るとき、他のあれこれを「犠牲にした」と感じるか、それとも自然に手放せるか。自然に手放せていればその努力は苦しいものではなく楽しいものになる。求めているものが手に入る前からあなたは幸せになれる。しかし、この世的な犠牲の考えに囚われてしまっているとあなたは結果がどうあれ不満と失望を免れないだろう。あれだけやった結果がこれか・・という経験をした方も少なくないと思う。

テキスト篇に出てきたとおり、この世の或いはエゴの箴言は「求めよ、されど見つけるな」なのだった。エゴはあなたに決して本当の満足や幸せを与えてはくれない。それどころか本当の満足や幸せを得ることを妨害する。言ってみればそれらを「犠牲に」するのである。

ときどき「コース」を学んでいて「あれもこれも諦めなきゃならないの?」と思って不安になるとか絶望に陥ったとかいう声を聴く。が、「コース」は別に「諦めろ」と言っているわけではない。単に考え直せと言っているのだ。だいいち、「コース」がもっとも明白に「捨てろ」と言っているのは「苦痛や苦悩」だけなのである。私たちをそれらから解放して自由にしてくれると言っているのである。今一度ハッキリいうが、苦しみはそれがどんなものであっても一切「無意味」で「無駄」なのだ。無駄な苦しみはない、と言う人もいるが苦しみとはそれ自体が無駄なものである。それさえ認めたくない、つまり「いや、私の苦しみには意味があったはずよ!」と思いたい人はそう思いたいんだからしょうがない。これからもどんどん「意味がある(と思える)苦しみ」を味わってください、苦しみと言う犠牲を払って満足しててくださいと言うしかない。しかし、「ああ、あの時これに気付いていたらあんな苦しむ必要なんかなかったんだ!ワタシってバカみたい」と自らの間違いを認めて反省して正してしまえば、その後はもうそんな苦しみを味わわなくて済むのにね、とも思う。

少なくともあなたが神から遣わされた教師であるならば、犠牲の意味を取り違えてはならない。神から遣わされた教師がどうしてこの世のあれこれの価値を本気で信じて求めたりできるだろうか?彼らが求めているのはただゆるしと癒し、そして救いをもたらすことではないだろうか?一人でも多くの人を幻想という地獄から救い出すことではないだろうか?それができていないうちはあなたもまた彼らと同じ地獄にとどまったままになる。

あなたは天国にいるか地獄にいるかのどちらかなのであって、半分だけ天国とかちょっとだけ地獄なんてことはありえない。あるものを犠牲にすればあなたは全てを失うのと同じことになる。少なくともそこに「犠牲」という概念や感覚が残っているならばあなたは地獄にいるのだ。犠牲ではなく単に手放しただけなら何も失われることはない。この違い、わかりますよね。

神のみことば、神の約束は常に例外なく完全なものなのだ。一部だけ叶えられるなんてことはありえない。あれだけは別、なんてこともありえない。例外のないことによって神の約束はこの世ならぬ聖なるもの・・神聖なものなのだ。聖なるものだからこそ、私たちはそれによって守られるのだ。

しかし、あなたが誰かを或いは自分自身を攻撃すればその聖性は否定されてしまう。言い換えればあなたは神を否定し、それによって自分を神から切り離してしまう。が、実際にはそれは不可能だ。何故なら「存在」から切り離されて存在することはできないからである。絶対に不可能なことなのにもかかわらず、あなたは自分が神と一つだとは思えない。あらゆる人と一つであるとも思えない。真理が現実的なものには感じられず、幻想が確固たる現実に思える。つまり、そう信じ込んでいるのである。ちょっとでも疑うことさえ思いつかず、心底信じているのである。ここにおいて真理は「犠牲」になったわけだが、別になくなったのではなくただ忘れられているだけである。

犠牲とは「何かのために大切なものを諦め捨てること」である。いま一度、よくよく考えてみてほしい。大切なものを捨ててまで手に入れたかった、あるいは守りたかった「何か」は、従って「より大切」だったはずではないか?それを手に入れたとしてもあなたはなお「あれもこれも犠牲にした」と言う、これはいったいどういうことか?結局あなたは「何かを犠牲にした」(と思う)ことによって、ただ不幸を選んだだけなのではないか?本当に一番大切なものが得られ、もっとも守りたいものを守り通せて幸せなら「そのためにあれもこれも犠牲にした」などというふうには思わないはずではないか?これがこの世における犠牲の在り方である。何を選んだとしても結局は本当の幸福や喜びなどの真理=神の御心を捨てていることになる。だから不幸になるのは当然なのだ。

冒頭で、真に価値のあるものを自覚なしに忘れ去ることはできると書いたが、それはこういうことなのである。


14 世界はどのように終わるのか?

のっけから結論だが、「始まってもいないものは終わりようがない」のだそうだ。この世界は私たちのマインドの夢なのだ。目が覚めれば夢は終わるが、普通「夢の創始と終焉」なんて言う人はいない。単に寝て起きただけの話であり、夢の中身はただ「あ、夢だった」で終わりである。あると思い込んでいたものが実はなかったとわかる、それだけのことなのだ。

まず安心して頂きたいのだが、世界の終わりは恐ろしいものではない。世界は攻撃されたり破壊されたりするのではない。世界の終わりは幻想の終わり、世界の終わりはあらゆる苦痛や苦悩、悲嘆の終わり、即ち天国なのである。

そもそもこの世界は「神から離れてバラバラになった=神に背いたという罪を犯した(と思い込んだ)私たちが、その罪とそこから派生する恐怖を現実化して維持するため」に、作り上げたものなのだった。何であれ幻想とは、その幻想を維持する必要性や目的がある間だけ維持されるものだ。ならばこの目的の「ウソ」が露呈して津々浦々にあまねく完璧なゆるしが行き渡り全てがあがなわれ浄化され癒されれば、そして「罪のなさ・穢れなさ」が疑う余地のない事実として知られれば、世界はその存在理由を失って消失することになる。罪の終わりが世界の終わり、なのである。

これを「コース」学習の観点から見てみると、罪がある(と思われている)からこそゆるしの必要が生じたのであって、私たちにとって世界の存在理由や目的はいまや「ゆるすこと」になったのだ。世界がなくなれば神から遣わされた教師だって要らなくなる。世界があるからこそ、ゆるしと癒しによって救いをもたらすために彼らの存在が必要とされるのだ。世界があるうちはゆるし続けなくてはならない、が「一点の罪もなく、これ以上ゆるすものが見つからない」ところまで到達すれば、つまりゆるしが完成されればその時点で必然的に世界は消失する。

乱暴な言い方をすれば、私たちの目的は「世界を守り維持する=幻想を守り維持する」から「ゆるしによって世界を終わらせる」に変化したのである。これだといかにも過激に聞こえるかもしれないが、要するに「ゆるしによって天国をもたらす」と同じことなのだ。

そのためにひとり?の優しい救い主が私たちに与えられた。それはもちろん聖霊であり、あらゆる人に聖霊を見るならばあらゆる人が救い主になるということもできる。聖霊による判断を世界のあらゆるものが受け入れればそこで世界は終わる。

これが文字通り世界人口と同じだけの数の人間が、つまり「人類が一人残らずゆるされあがなわれるまで」とか「この地上にたった一つの罪もなくなるまで」というふうに解釈されるなら、世界が終わるまでにはまだ何万年もかかりそうな気がする。時間は幻想だ、とはいうもののこの世の時間に換算すればとんでもなく長い年月が必要とされる気がする。

が、やっぱりそういうことではないのだった。神から遣わされた教師のうちたった一人でも完全にあがないを受け入れれば良い、たったひとつの罪が完全にゆるされればそこで世界全体の救いは完了するのである。

程度も数も身体も全て幻想だということを思い出していただきたい。100個の罪をゆるすのとたったひとつの罪をゆるすのとどこが違うのか?あなたの中のたった一つの間違いをゆるすのと、世界人類全ての間違いをゆるすのとどこが違うのか?確かにそうなのだが、程度や数や身体など「差異」が現実に存在するという思い込みは非常に強力なので、ここをきちんと学ばないと上記の事実は理解されないだろう。「コース」も「こんなこと言っても無意味ですよね、わかるわけないですよね」と言っている。言うなれば、これは幻想を完全に捨てる・・・つまり世界を完全に終わらせる最後の学びなのだ。そこにおいて私たちは本当に「ひとつ」になり、また「ひとつであること」を知る。この学びはこの世界の考えかたとは正反対なのだが、学びであるという点において天国にもないものだ。天国=神の国にあっては学ぶものなど一切ない、全てが直接知られるからである。

この学びが完了すれば思考システムは完全に逆転する。それまでの間は幻想のうちのいくらかはまだ現実らしく感じられる。あらゆる幻想が捨てられる時、それは私たちはこの世界を捨てる用意が完全に整ったときなのだ。一切の制限から解き放たれて時間も空間も何もない無限へと飛翔する用意が整ったときなのだ。

言ってみれば私たちは、とりわけ神から遣わされた教師はこの最終レッスンに到達するために学んでいるのである。そして、そのためにはとにかく目的と方向性をハッキリ定めるのが肝要だ。もちろん当人に「本気のやる気」がないとダメなのだが、本当にやる気があれば絶対にたどり着ける。何故なら神がそれを保証してくれているからだ。聖霊を送ってくれたのはそのためなのだった。そこまで到達する方法はその都度聖霊が示してくれる。あなたはただ聖霊を信頼しマインドを開いてそれに従うだけでよい。どうしたらそうなれるの?なんて自分で考えたってわかるわけないことなのだ。

神ならぬバラバラの無力な人間、それゆえに不可避な争いや悲しみや苦痛などが絶えないこの世界こそ実は地獄なのである。世界の終わりは地獄の終わりでもある。この世を天国に似たものにするのは神から遣わされた教師の役割である。御心が天に為るごとく地にも為させたまえ。彼らは御心を地に為すものである。そんなこと、小さき私にはとてもできませんというのは傲慢の罪だ。真の謙虚さがあるならば、たとえどんなに偉大で大変なことに思えても神の御心なら為されると信じられるはずである。だってそれを為すのは「このワタシ」ではないのだから!御心は為される。だからこそ御心なのだ。そのことに感謝を捧げよう。


15 全ての人がそれぞれ最後の審判を受けるのか?

もちろんです!一人残らず全員が必ず最後に神によって裁かれます。ええーっ、どうしよう、怖い!と思った方はご安心ください。最後の審判って恐ろしい!と思っている人はまだ裁かれないんだそうです。というか裁いてもらえないのです。何故なら、最後の審判はあなたを完全にゆるし解放するもの、つまり救いだからです、というのが答えである。

今迄にも出てきたように、裁き=判断はひとつしかない。それは「あなたが罪も穢れもない神のひとり子だ」というものだった。ここではもうちょっと長い文句になっている。

「あなたは不滅の存在。自由にして何一つ欠けることなく、神の御胸に抱かれてとこしえに平安なあなたは聖なるかな。世界はいまいずこ、そして悲しみはいまいずこ」

こんなのが最後の審判だったらよろこんで受けちゃうんだが、私たちにとって「最後の審判」なるものは秘かに心の中に隠し持っていた罪まで全部暴きだす怖いものなのだ。簡単に言えば「あなたは神に背いたとんでもなく罪深い奴だ」と断罪されるのが怖いのである。だって、本当にそう思ってるんだから。

さて、あなたは上記の「ほんとうの最後の審判」で述べられているのが自分のことだと思えるだろうか?あなたは自分のことをこんなふうに考えられるだろうか?まだ無理でしょうね、と「コース」は言っている。ただ、最終的にはこれこそ真理だとハッキリわかることが目標なのであって、そのために私たちは学んでいるのだ。

「こうである」という信念が完全に確固たるものになればそれは「確信」となる。今までの私たちは「身体は実在する。私たちは身体を持った別々の個人」という信念が「確信」であり、疑いようのない現実だったわけだが、学びが進むにつれいずれは上記の自己認識が「疑いようのない現実」になる。その確信を抱いているとき、私たちは時間の外にいる。言い換えればそれは時間の終わるときであり、だからこそ私たちはただしくも「不滅の存在だ」と言えるのだ。

最後の審判は「この世の終わり」でもある。神による判断を本当に受け入れたとき時間は終わり世界は終わる。最後の審判は「神が下す判断」であって、あなたが自分で判断しているうちは、つまりあなたが自分において判断を手放さないうちは神の判断を受け入れることができない。真に判断できるのは神(およびそれとひとつである聖霊)だけである。神にしかない機能をあなたが横取り?しようとしているうちは神の声も聖霊の導きも聞こえないだろう。心を鎮め、静寂の中にいることを覚えなさい。神の声・・・って神が口を開いて喋るわけじゃありませんよ・・は静寂の中にあるのだ。

あーでもないこーでもない、と意味もなく役にも立たないような考えや感情で自分の聖なるマインドをいっぱいにしてはならない。あなたのマインドは神の御心の一部なのであって、怒りだの悲しみだの落ち込みだの不満だの、そんな程度の低い代物を入れておくべきところではないのだ。そういうときあなたは縛られ不自由さを感じているはずだ。神の判断はあなたをそれらから完全に解放するものである。

裁くな、あなたも裁かれないようにするためである。つまり、あなたが「自分で」あれこれについて判断すれば、それはあなたが自分自身に全く同じものを与えることになってしまうのだ。誰かを批判すればあなたは自分を(そして神を)攻撃したことになるし、世を嘆くなら自分に悲しみを与えることになる。いずれにせよ、自分を「本来の自己とは違うモノ」にしてしまうわけだ、

本来の自己に忠実にかつ公正に判断するならそれは「神が下す裁き」と同じになるはずである。神が私たちに約束したこと、即ち「救いは確実である」ということは絶対に確実なものであり、保証されているものなのだ。誰でも学んでいれば最後には必ずそこに至る。即ち「最後の審判が下される」のである。あなたの役割はその時がなるべく早く訪れるように用意を整えることなのだ。神による約束を胸にたずさえ、それを世界に与えることなのだ。

第292回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 10・11・12

10 どうやって判断を手放すのか

この世における判断基準というものは実に曖昧であり、確固たる絶対的かつ普遍的な基準など存在しない。あることが「良い」のか「悪い」のか、時代や文化や状況によっていくらでも変わってしまう。革命でも起これば昨日まで「正しい」とされていたことが突然きょうから「間違いです」になったりする。一人のひとの中でさえ、同じ行為がある状況では正しい良いことであり、別の状況では悪いことになったりする。そもそもこの世が絶対でも普遍でもないのだから、それどころか「間違い」を投影して作られたような代物なのだからその中ではあらゆることが相対的なのはまあ当然なのである。それをその都度「うまく」判断するのが偉いとか優れているとか思われるわけである。自分が「悪いこと」と決めてしまっている何かを自分がしなくてはならない羽目に陥ったりすればたいていの人は罪悪感に陥るし、またそういう羽目に陥るのを恐れたりもする。良い、と決めたことでさえできないというのは実はかなりおかしいのではないか?何故なら、私たちは何であれ自分にとって「良い」と思われることを選ぶはずだからだ。自分にとっては「良い」けど他の人たちにとっては「悪い」ことだったらどうなるか?ある行為の中に良い部分と悪い部分がある場合、その行為はいったい良いのか悪いのか?などと考えるにつけ、つくづく面倒な世界だなと感じる。相対的な善悪なんかにいったい何の意味があるのか?

そんなわけだから時代も宗教も文化も超えて「いつでもどこでも絶対に信頼できる普遍的な善悪の基準」なんて教えられる人は誰もいないのである。だから、みんなずっとわからずにいるのだ。

さて、「コース」は繰り返し判断を手放せと説いている。少なくとも「このワタシ」が判断するのはダメだと言っている。が、これはより正確に言えば「判断してはいけない」のではなくて「判断など不可能だ」と認識しなさいということなのだ。神から離れてバラバラである個としてのワタシには本当の意味において判断の機能も能力もない、このワタシには何もわからないのだ。できないことをやろうとするから失敗するのだ、どうしたってできないとわかればやろうとは思わなくなるはずである。だいたい、それ以前に「このワタシ」なんてものは実在さえしないのだった。

できないことを正直にできないと認識して手放す、これは非常に誠実かつ正直な姿勢である。そこにはウソ偽りがない。

個としての自分、エゴとしての自分を引っ込めて聖霊の判断に委ねなさい、これは言い換えれば純粋理性を働かせろということでもある。純粋理性というものはエゴがあると働けないのだ。聖霊であれ純粋理性であれ、個人を超えた普遍的なものだ。これらはあなたを通して働くのであって、あなたがこれらを用いることはできない。ゆえに、「あなたが」判断するのではなく、あなたを通して聖霊あるいは純粋理性に判断させよ、というわけである。

判断しちゃいけない、とはそういう意味なのだ。禁止されたとか必要なものを奪われたなどと思わないでほしい。まあ、禁止とか奪われるなどという概念からして既に幻想なのだが。

聖霊があなたを通して判断する場合、それはいつでも一つの基準に基づき一つの結果をもたらす。即ち「神のひとり子には穢れがない、そして罪は存在しない」。これは良し悪しを判定するようなものではなく、ただ端的な事実を表している。

「このワタシ」には何もわからないんだから判断など不可能だ、これまた端的な事実である。何であれ、普通のアタマで考えることには絶対に限界がある。何かをしようとするとき、ありとあらゆる可能性を考慮に入れてその良し悪しを判断するなんて無理に決まっている。自分一人で考えて決めた決断或いは組織として下した判断が、たとえば10年20年の間に自分も含めた多くの人たちの上にどんな影響を及ぼすか、普通に考えてわかることだろうか?更に、その判断を下すに至った状況を正しく認識していると自信を持って断言できるか、つまり「決断を下す前提としての状況判断に間違いはなかった」と断言できるか?まあ、そこまで考えて決めようとする人も少ないと思うが、国家とか会社などは一応そうしているはずである。そして多くは失敗している。あるいは最初から自信なんかなくて「ま、とりあえずこれで行ってみましょうか」である。個人レベルならまずそこまで考えようもしない。もう本当に文字通り「あとさき一切考えず」感情や目先の損得だけで決めてしまっている人がどんなに多いことか!

よく「自分の心に正直に」決めなさいと言われるが、その「自分の心」がエゴだったらどうしようもないのである。そうした結果とんでもない目に遭った人も少なくないはずだ。今まで自分が下した判断において一度も間違いや誤算がなかった、なんて人はいないはずだ。実は間違っていたのにそれに気づかず「私は正しいんだ!」と思い込んでいた、という経験は誰にでもあるはずだ。(ちなみに、「コース」学習は過去の「間違った判断」を正していくものでもあるのだが、その過程で必ず自分の間違いを直視して認める必要が出てくる。ここが苦しいと感じる人も多いらしい。)

いずれにしろ、これほど失敗経験を重ねていれば自分の判断基準が当てにならなそうだということくらいわかるはずなのに、なぜまだ判断し続けようとするのか?それはおそらく「当てにならないこの自分」のほかにもっとずっと頼りになる存在があるのを知らないからである。が、「コース」をここまでなさった方は既に知っているはずだ。全知全能ならぬこの身に正しい判断など100回生まれ変わっても不可能だが、私たちは全知全能であるマインド=聖霊でもあるのだ。無限の叡智を備えた存在でもあるのだ。叡智=知恵のある人は「このワタシ」として判断しようとしないだろう。その無限の存在をして「この自分」の代わりに判断させるだろう。

というわけで、これまた端的な事実だと判断されるのだが「完全なる判断をしてくれるものがあなたと共にいる。それは過去と現在と未来のあらゆることを知るものであり、自らの下した判断があらゆる人々やあらゆる事象に及ぼす影響についても全て知るものである。知覚認識に歪みがないため、それはあらゆる人々に対して完全に公平である」。

こんなに素晴らしくありがたいことがあるだろうか?このワタシの当てにならない判断力を使おうとしなければ何もかも解決するのである。まず私たちは「決めなくては」という重荷から解放される。自分には不可能なこと、しかも失敗を承知の上でしなくてはならないなんてどう考えても不幸な事態ではないか。更に私たちは「心配、気がかり」を抱くことからも解放される。いつでも絶対かつ完全に頼りになる大いなるものに全てを任せてあるのだからもう安心である。これでいいんだろうか、あのほうが良かっただろうか、あれはどうなるんだろうか、などと常に気にかけていなくても良くなるのだ。

あらゆる恐怖、不安、怒り、罪悪感などなど全てあなたの間違った判断の結果である。つまり、病や死や絶望や喪失などあなたに苦悩や苦痛をもたらすものは全て「あなたの」判断の結果なのである。あなたは自分のマインドにおいて間違った判断を下し、それを外界に投影し、更にそれを歪んだ知覚機能によって認識し、そのように映った像を見聞きしてまたもや「良し悪し」という自己流の間違った判断を下しているのだ。実は存在しない幻想の世界と自分を維持するためには、それらをさも現実らしく見せておかなくてはならない。が、その目的がなくなれば苦悩や苦痛をもたらすものは存在意義を失う。すごく簡単に言うと、たとえば今までだったら「これは悲しく苦しいことだ」としか思えなかった何かについて「別にそう感じる必要はないんだな」と思えるようになるのだ。事象そのものに予め意味が与えらえているのではなく、それに何らかの意味を与えて苦しんだり喜んだりするのは自分のマインドの判断だったのだとわかるようになる。今まではどうにもならないと思っていたようなあらゆる苦悩や苦痛の原因が「このワタシの判断」に過ぎなかったのだとわかるようになる。これだけでも十分にすごいことですよ。

このように「自分で判断することを手放す」のは文字通りの解放なのだが、私たちはつい長年の習慣で「無駄な重荷を背負う」ほうを選んでしまう。「このワタシ」か「聖霊=純粋理性」に判断させるか、それを選ぶのはあなた次第であり、その選択が幸不幸を分けるのである。

 


11 世界平和は如何にして可能になるのか

この世界において「平和」は達成可能なのだろうか?そもそもこの世界は「平和」を目的として造られたものではなく、むしろ「分離=差異=不和・対立=争い」を現実化するために作り上げられたのだから、その意味ではこの世界が完全に平和になることはあり得ない。

しかし、同時に次のような事実もある。即ち、身体としてこの世に生まれ、この世で生きている(ように見える)私たちひとりひとりのマインドが世界を作ったのであって、自分のマインドの外側に自分のマインドと無関係に存在する「客観的世界」なるものはあり得ない。世界が如何なるものか、それはマインドが決めているに過ぎない。そしてそのマインドは本来神の御心と同じものなのだった。とすれば、神から離れてバラバラの個になった(と思い込んだ)マインドが作った世界で平和は達成不可能だが、神の御心と同じマインドが映し出す世界には平和しかありえない。何故なら神の御心は完全に平和なのであり。それと一つであるマインドは神の完全な平和を投影するからである。

一般常識として、この世に住む人間は全員それぞれ違った存在で、不和と争いは絶えず、時間と空間があり、人間は生老病死の運命にある。そう信じられているわけである。が、神の御言葉によれば私たちにとって死は存在せず、私たちは復活して再生するようにできている。不和も争いもなく世界は愛すべきところである。

世界を作り出したものの違いがそのまま世界の違いにつながっている。今の私たちの眼から見れば、神が世界を愛してくださっているとはとても思えない。もし神が世界を愛していれば世界はもっとましなものになっていたはずだからだ。しかし、神において一つになった=聖霊として見てみれば、やっぱり世界は「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった」という神の御言葉どおりに愛すべきところになるのである。そして神の御言葉、神が約束して下さったことに不可能はない。

あまりにもキリスト教の信仰ぽくてついていけない、という方のために説明を加えれば、要するに「世界」なんてものは自分のマインドしだいでいかようにも変わるものであり、動かしがたい客観的な存在ではなく完全に自由自在なものなのだ、と考えて頂ければよいと思う。そして、「コース」学習とは、どうせ自由自在なら真に平和で幸福で豊かな世界を現実化しようというものでもあるわけだ。

客観的世界などというものがないのなら、つまりそんなものが実在しないのなら、いわゆる「世界を変える!世界革命!」なんてものも不可能に決まっている。ないものをどうやって変えたり転覆させたりできるだろうか?そうではなくて、まず世界に対するあなたの見方を変える、そうすれば世界はそのようにあるであろう。常にその都度そうなのである。言い換えれば、世界とは「ものの見方・知覚認識の仕方」に他ならないからである。

上述したように、神のみことばと私たちの世界認識とは全く正反対と言っていいくらい違っている。さて、どちらが正しくてどちらが間違っているか?神が間違うというのはありえない。間違うのならそれは神ではない。とすると、やっぱり間違っているのは私たちのほうなのである。

わざわざ言うのも面倒なくらい当たり前のことなのだが、にもかかわらずあまり理解されていないことなのだが、世界は悲惨だと信じる人にとって世界は悲惨である。世界は悲惨だから平和をもたらそう、としても無駄だ。どうしてもそうしたければまずその人のマインドに平和がもたらされなくてはならない。すると、その瞬間から世界は平和になる。神の御心の一部である平和は、その本質上自然に放射され分け与えられ、分け与えられることでますます豊かになる。そうして世界は平和になっていくのだ。平和が達成されないように作り出された世界において平和を達成する、なんて端から不可能に決まっている。が、マインドがその目的を変更すれば、つまり平和だけを目的にすれば事情は一変する。

世界中に存在する(ように見える)ありとあらゆる厄介な問題は、それらが「幻想」という点において全く同じなのであり、従って聖霊はこれらを十羽一絡げにしてひとつの答えを与えてくれる。前項で出てきた「私たちは穢れなき神のひとり子であり、罪は存在しない」とか「私たちは神によってつくられたとおりのものである」などがその答えに当たる。(これらが全く同じひとつのことを表しているのはわかりますね?)

信じていることだけが現実化される、この原理をきちんと学ばないうちはもう出口なしの八方塞がりは免れない。私たちの都合なんかとは無関係に、そして無慈悲に存在する世界内現象や自然現象に翻弄されて、人間とはいかに無力なものなのかと嘆くしかないだろう。こんなところで生きていたってしょうがない、と考えて、死を唯一の出口だと考えて自ら死を選ぶ人も後を絶たないだろうが、その人たちは死もまた世界内現象だということを忘れている。ゆえに、死によってはこの世から解放されないのだ。この世から解放されるためにはマインドの間違いを正して浄化し、ゆるしと癒しを受け入れるしかないのである。

こんな世界を作り上げてしまった哀れな私たちに、神は裁きを与えて下さった・・つまり「神に代わって正しい判断を下してくれる聖霊を送ってくれた」ということである。

心を開いて聖霊を受け入れれば、あるいはあなたの中の聖霊が目覚めれば、あなたは今までと全く違う世界に存在するようになる。平和などどうやってもあり得なかった世界は、今や常に平和なところになっている。あなたのマインドが神の御心と一つになった結果、神の御心が投影された世界が出来したのである。

神の御心とはそれじたいが完全に平和なものである。平和がこの世に降りてくる、とは言い換えればあなたがマインドを開いて神の御心と一つになるということである。わざわざ平和をもたらそう、作り出そうなんて思わなくても、聖霊にこころを委ねてしまえばあなたは自然に神の御心とひとつになり、自動的に平和があなたから流れ出てくるのだ。それこそが本来のあなたの本質だったのだ。それこそが自然な状態だったのだ。

となれば、世界平和は可能なのか?どころではない。平和がない状態なんてあり得るんですか?と聞きたくなるくらいのものだ。幻想、間違いを捨てていくにつれてあなたにとって平和は・・自分一人の平和ではなく、世界の平和は・・ごく自然なものになるだろう。



12 世界を救うためには、神から遣わされた教師がいったい何人くらい必要なのか?

こんなこと考える人がいるんですね・・・。と、この質問にも驚いたが、答えを見てガックリした。至極当然のことなのだが「たったひとりでよい」のである。「コース」いわく、本当に完全無比で、完璧に学びを完了した教師がたったひとりいればそれで十分なのである。

たったひとりで世界を救えるような教師とはどんな「人」(といってよいのかどうか?)なのだろうか?

「彼(女)は、完全に罪を清められ聖別されてあがなわれ、神のひとり子である本来の自己になっている。もともと常にスピリットだったので、もはや彼(女)は自分を身体だとみなしてはおらず、身体の中に自分がいるとさえ認識していない。ゆえに彼(女)は無限の存在であり、限りない存在であるがゆえにその心は神の御心ととこしえに結ばれている。彼(女)は神の裁き=判断に基づいて知覚認識を行う。自分自身の判断というものは既にない。彼(女)は神の御心と一つであり、神の御心にあるものを幻想の中でさまよっているマインドにもたらす。彼(女)は神によって造られたとおりのものゆえ、とこしえに「ひとつ=一なるもの」である。彼(女)はキリストを受け入れ救済されている。」

これは別に「ナザレのイエス」ひとりを示しているわけではなさそうだ、とわかる。ここでいう「キリストを受け入れ」とは、「罪も穢れもないひとりの御子である自己」になったということに他ならない。

とにかくこうして「人の子」は「神のひとり子・神の御子」になるのである。別に外見が変わるとかいうわけではなく、あくまでもマインドが変容するのだ。そしてマインドの中のあらゆる要素が神の愛を反映する。そのマインドは神の御心と一つになったからである、というか元々一つなのだが彼(女)はそのことを事実として受け入れ、受け入れることによって人の子から神の御子になったのだ。彼(女)はもはや神を恐れない。何故なら神から懲罰を受ける理由が既にないからである。彼(女)には罰されるべき罪がないからである。

こういう人がすごくたくさんいるとは思わないが、それでもまさか世界に「たった一人」ということはないだろうと思ったらやっぱりそうで、人体として数えた場合には確かに100人とか1000人くらいはいるのである。が、その人たちにとっては既に自他の区別など消失し、あらゆるものが神において一つの状態になってしまっているのだから、100人いようが1000人いようがそれは「ひとつのマインド」であるのと同じなのだ。一つの目的で結ばれ神と共にある、神の御業は「一つのマインド」である彼らを通して為されている。そういう意味で「ただ一つのマインド=たったひとりでよい」と書かれているのである。実際には多分多ければ多いほど良いだろうなと思う。世界は多くの教師を必要としているからだ。というか、そういう幻想を持っているからだ。今更驚くべきことではないかもしれないが、でもやっぱり驚くかもしれないが、数というのもまた幻想なのである。当たり前ですよね、本来の状態は「ひとつ」しかないんだから。それが分裂して「多」になった(と思い込んだ)のが今の私たちとその世界なのである。とにかく、本質的には「ひとつ」であるところの神の教師はいろいろな姿としてあちこちに現れる。普通の人々にはそれぞれが別の人のように見えるが、実は「ひとつのもの」なのである。

いまだ幻想の中にどっぷり浸かり、更に自分が幻想の中にどっぷり浸かっていることにさえ気づいていない人々にとって、本当の現実とはあまりにも突飛でありとてもじゃないが信じられないものなのだ。教えるためにはその都度相手のレベルに合わせて最もわかりやすいように対応しなくてはならない。自分の中に聖霊だのスピリットだの、そんなものが存在することを知らず、ひたすら外の世界に偶像を求めているような人々に対してわかりやすく教えるためには、いったん一種の偶像を提供する必要がある。巫女さんでも霊媒でもチャネラーでも預言者でもリーディングでも何でもいいのだが、「現実」を正しくかつわかりやすく伝えてくれる人が必要なのだ。言葉や行為によって愛情を持ってわかりやすく示され見せられれば比較的抵抗なく受け入れられるだろう。私たちが身体を神(の教えを伝える)道具として用いる理由がここにある。いきなりどこかから声が聞こえたらどうだろう?幻聴だと思って恐れおののいてしまい病院に駆け込んだ挙句、本当に病名をつけられてしまうことだってあるのだ。恐怖のあるところに愛はなく、愛のない時マインドは閉じている。ならば、相手の恐怖心を煽るようなことをすれば本当の現実=真理は相手に届かなくなる。

神から遣わされた教師は「身体の目的とその用い方」を心得ている。熟練した教師になればなるほど身体は文字通り「神の教えを伝えるための道具」になり、また自分でもそのことを十分に認識できる。自分の身体を通して神が話している。話しているのは「このワタシ」ではない。これは別にトランス状態になっているという意味ではない。トランス状態になったっていいのだが、それとこれとは全く無関係なのだ。エゴに乗っ取られてトランス状態になる人だっている。

こうして伝えられた真実=神のみことばは人々の耳からマインドに入るのだが、それを受け入れるマインドは既に神の御心においてひとつのもの、神の御心につながったものになっている。そのように神のみことばを受け取り受け入れた人がまた新たに神から遣わされた教師になっていく。口から耳に(あるいは書物なら手から目に)つまり身体から身体へ伝えられたように見えるメッセージは、実際には神の御心と一つであるマインドからマインドに伝えられている。というか、神においてひとつにつながったマインドだからこそ正しく受け入れることができるのである。こうして、一つであることが認識され現実化されていく。

何であれ、正しく伝わった・正しく理解されたと感じるとき私たちは一体感を味わうではないか。そして真に正しく伝わり理解されるのは文字通り「真理」だけなのだ。「わたし」が「あなた」に真理を伝えるのではなく、「あなた」が「わたし」によって真理を理解するのではない。そこには既にわたしもあなたもなくて、ただ真理だけがある。真理が自己実現している、というか真理の中にわたしやあなたがいるというか。まあ、そうなってみればわかるだろうと思う。

いずれにしろ、これは「身体の目的とその用い方」を学ぶレッスンなのである。神から遣わされた教師は一見すれば普通に身体を持った人間としてあらわれる。乱暴な言い方をすれば、彼らは個別性や身体性という幻想を共有した「ふり」をしているのだ。実際にはそんなものを信じておらず、外見や現象に惑わされることもない。

学ぶべきことは常にこれである。即ち「あなたがどういう目的で身体を用いるか、それによってあなたの身体の在り方は決定される」。たとえば「他の誰でもないこのワタシ」を主張するために用いようとすれば、その「他の誰でもないこのワタシ」は神において一つではないのだから、ゆえに神に背いた罪を背負っている(と思い込んでいる)のだから当然罪深いものになってしまい、罪深いゆえに懲罰を免れず、身体はそれにふさわしく病んだり傷んだりして苦痛をもたらす道具になる。皮肉なことに「他の誰でもないこのワタシ」として快楽を求めれば却って苦痛を与えられる結果になってしまうわけだ。

反対に、神のみことばを伝えるための道具として用いるならば身体は神聖なものになる。まさしく「神殿」になるわけだ。神聖なものゆえ、それは病んだり傷んだりすることも死ぬこともない。これはわかりにくいだろうと思う。だってイエスキリストだってバプティスマのヨハネだって、その他いろいろ聖人と言われる人たちだって結局は死んだじゃないの?それはそう見えているだけなのである。「コース」ではいわゆる「身体の死」を「用の済んだ身体は静かに動きを止められる」などと表現している。更に、マインドがそれを決めるのだとも書いてある。病気や事故などによって「無念にも」死ぬことなんかありえない、ただマインドが、マインドだけが「もうこれは要らないから捨てましょう」と決めるのだが、そのマインドはもちろん「このワタシ」のマインドではない。「このワタシ」が自分勝手にそんなことを決めるのではない。神から遣わされた教師はどこまでも神の声に忠実なのであり、自分一人では何も判断しないのだ。

じゃあ、やっぱり私たちは神の御心・神の思し召しによって死ぬわけか?病気や事故で死んでも「無念」でなく「神の思し召し」と思えるようになるというだけのことなのか?と読めなくもない箇所である。このあたりはどうにも悩ましいのだが、一つだけ絶対に断言できる。それは「いかなる恐怖も苦痛もない」ということである。だいたいの人は死そのものが怖いのではなくて死にまつわる苦痛や不安が怖いのだから、これだけでも大変結構なことではないだろうか?

といいつつも、この項は読みようによってはやっぱりなかなか悩ましいのである。たったひとりで世界を救えるような、つまり冒頭に挙げたくらいの完璧なマインドであればある意味もう身体である必要なんかないわけだ。さっさと身体じゃない世界に行っちゃってもいいわけなのだが、彼らは敢えてこの世に身体としてとどまって神の教えを伝えるという役割を自ら選んだ人たちだ。身体を粗末に扱うことはないが、それが神の御心なら身体なんていつ捨ててもいいと本気で思っている人たちだ。

彼らは意識を保ちながら夢を見ているようなものなのだ。つまり彼らは夢の中で夢に翻弄されることはないのであり、またいくら「自分を捨てて聖霊に全てを委ねている」とはいってもそこには純粋理性がしっかり働いているのだから常にその時々の判断や選択には自覚的なのである。わけわかんないうちにこうなっちゃいました、などということはない。夢の中にあってなお覚醒した意識を保っていて、それが夢であることを完全にわかっている。目に映る現象に惑わされず、夢と現実を混同しない。彼らが目にする光景の中で、人影はうごめき景色は変化し移りゆき、人は病んで死ぬだろう。だから、何?病み衰えた姿と同様、健康で幸せそうな姿もまた夢の中の人影であるという点で全く同じではないか。不幸な悪夢もあれば幸せな夢もある、がそれらは結局夢である。同じ夢ならせめて天国を映し出すような幸せな夢を、というのが「コース」学習の目的の一つだったはずだが、それは天国そのものではないのだった

しかし、夢を現実だと思い込みさえしなければそれらは夢であるからこそいくらでも変更可能なのである。神から遣わされた教師は、夢を夢と知りつつ尚且つその夢を幸せなものに取り換える役割を果たしていると言っても良いのではないか。

どんな夢が眼前で繰り広げられていようとも、神において一つであること・神において結びついていることを絶対に手放さない。これだけは本当の現実であって夢ではないのだ。

第291回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 6・7・8・9

6 癒しは確実なのか?

当たり前ですね。少なくとも「コース」の言っている真の癒しはいつだって絶対確実なものである。真実に出会えば幻想は消え失せるのが当たり前だからだ。なのに何故「結果が出ない」場合が、つまり現象に変化が見られない場合があるのだろうか?

これは2つに分類できる。一つは「正しく癒しがもたらされたにもかかわらず、結果が現象として現れない」ケース、もう一つは「そもそも正しい癒しが為されなかったために当然結果も出なかった」というケースである。

まず初めのケースについて考えてみよう。神に遣わされた教師が相手を完全なもの、つまり聖霊或いは神のひとり子だと見ることによって自分自身及び病人のマインドの中の間違いを正す、これが癒しなのだった。聖霊の眼から見れば既に間違いは正されている。自分自身においてゆるされあがなわれれば、あらゆるものがゆるされあがなわれる、何故ならここにおいてはあらゆるものが神において一つだから。これが癒しの本義なのだった。神の御心から派生するものは与えれば与えられる、与えたものは必ず受け取られるのだ。しかし、受け取った本人がそのことに気付かない場合もあるのである。受け取ったけど受け入れられない、自分あての宅配便が届いたけどそれに気づかず放置するとか気づいても「なんか怪しいものじゃないか」と恐れて開封しない、とかそんな感じである。

あるいは、テキスト篇にも出てきたが目覚めがあまりにも突然だとショックのあまりおかしくなってしまう危険がある。病人は今までずっと「神から離れてバラバラの自分」を信じて、その「神とも他の誰とも違うこの自分」の維持こそが「生きること」だと信じてきたのである。いきなりその「生きる意味」が実は嘘っぱちだったとされてしまったら、それが奪われてしまったらどうだろう?もちろん、それよりもっと素晴らしい価値や意味が代わりにもたらされるのでもあるが、その前に「今までの意味や価値を奪われる恐怖」があまりに強すぎると癒しは救いではなく脅威になってしまう。何故ならそれは今までの自分を殺すようなものだからだ。ここで無理やり癒しを受け入れさせると病人は本当に混乱して自滅行為に及ぶことさえある。ゆえに、癒しがすぐに受け入れられず結果が出ないのはある意味「安全のため」なのである。

いくら本人が「治りたい、癒されたい」と願い望んでいる「つもり」であっても本当にそうだとは限らないのだ。間違いや幻想を維持しつ病気や症状だけを「真の癒し」によって治すというのは無理な相談なのである。病人自身のこころの準備が十分に整うまで癒しの現象面での効果は留め置かれる。準備が整うのはいつなのか、現象面に反映されるのはいつなのか、それは教師にもわからない。何故ならこういう「神の御わざ」の前では「時間」など全く無意味だからである。従って、たとえいくら「時間が経過」したように見えても癒しの効果は全く薄れないのだ。神(の御心)は創造し続けているのであり、尽きることがない。治るまで定期的に通って施術を受けましょう、投薬しましょう、というのとはここが根本的に違うのだ。

癒しをもたらそうとしたけどダメだった。そのように見えたとしてもそこであなたが与えたものは確実に受け取られ、それによってあなたもますます多くを与えられたのだ。与えればそれだけ増える、豊富になるのが神の法則である。与えたけど結果が出なかったから無駄に終わった、ということは絶対にありえない。これが「この世的な治療」との大きな違いである。

だから、神から遣わされた教師は癒しが現象面においてどんな結果をもたらすかについては全く心配する必要がない。というより心配したり不安に思ったりしては「ならない」のである。これ、本当に効くかしら、癒しはもたらされるのかしら、と不安や疑いの気持ちを抱いていたら癒しは絶対にもたらされない!それ以前に彼らは与えることさえ十分にできないだろう。

というわけで、これが「そもそも正しい癒しがなされない」場合なのである。与えなければ与えられないのだ。与えれば与えるほどますます豊富になるのは神(の御心)から生まれたものだけであり、それらを与えている時私たちは「あらゆるものと神において一つ」になっている。しかし、不安や疑いがあるうちはその「ひとつ」の状態になれないのだ。だから十分に与えられない。癒しの結果を期待しながら、エゴたる自分の思い通りのことが起こるのを期待しながら与える、というのではダメなのだ。あなたはそこに予め条件をつけることで制限を設けてしまった。これは明らかに「尽きることのない無限さ」という神の御心ではないものである。癒しがもたらされるための基本条件から外れてしまうのだ。

たとえば、恋愛などで「相手が自分の気持ちに応えてくれるなら、うまくいくならもうちょっと好きになってもいいかな、もうちょっと優しくしてもいいかな」みたいなことは良くあるが、癒しはこういう駆け引きとは全く無縁のものなのだ。ちょっと考えてみればわかると思うが、結果が出るかどうかを心配しつつあーだこーだとやり続けるのは大変不自由な状態ではないか。マインドは文字通り閉じてしまい、あなたは「自分の期待通りのことが起きるかどうか」という思いにとらわれてしまう。言い換えれば不安や疑いに囚われてしまうのだ。

「神においてひとつ」になっていれば他者が一切存在しないのだから疑いもありえない。疑い不安を抱くことのできる「自分」つまり「神から離れてバラバラの自分」を捨て去っていないと癒しはもたらされないだろう。つまり「必ず癒しはもたらされるのだ」と完全に信頼した状態になければならないのである。「教師のもつ特性」の項で述べられていたように「信頼」は本当に重要なのだ。与えれば受け取られますます与えられて豊富になるのだ、と全面的に信頼していなければ本当の意味で与え合うことなどできない。「コース」のいうシェア(分かち合い)とは、シェアすることによってそれぞれの持ち分が減るどころかますます増えるようなことなのだ。

神から遣わされた教師の役割は「癒しのもたらす結果を気に掛ける」ことではなくて「ただ与える」ことである。神の御心による賜物は実体のない何かではなく、確実に現象面で結果をもたらすだけの実在性を持っている。ゆえに、正しく与えられれば現象面にその結果が反映されないわけがないのである。即座に、かどうかわからないだけだ。

基本に立ち返って考えてみよう。癒しをもたらすのは「あなた」や「わたし」ではなく「聖霊」である。そして聖霊はあらゆる人の中にあって一つのものである。やや正確さを欠くがわかりやすく言えば「わたしの中の聖霊」が「あなたの中の聖霊」に神の御心による賜物を与えているのである。相手にないものを与えている、のではなく既にあるものを更に豊富にするために与え合っているのだ。そして、それによって病人のマインドに光が灯されるのだ。間違いが正され光が灯されたことにあなたが気づいても、当の病人はまだそれを受け入れられないかもしれない。が、必ず結果は現れるのだと心から信頼しよう。これを信頼しないのは「絶対普遍」の神(の御心)を信頼しないのと同じなので、そうすると癒しがもたらされなくなってしまう。

神(の御心)は無限に豊富であり、何一つ欠けることのないものだ。私たちは自分においてそれらを与えることによってますます豊富になる、ますます豊富になることによって完全である、それが神から受け継いだ「創造力」なのだ。

 


7 癒しは何度も繰り返しやるようなものなのか

これは大いに気になるところだと思う。癒しをもたらそうとしてみたのに何も起こらなかったという経験を持つ人は少なくないはずだ。じゃあ、癒しがもたらされるまで何度もしなくちゃならないのか?一度では治らないから何度か通院して下さいね、みたいなことなのだろうか?

真の癒しならそんなことはあり得ない。一度やれば完全な癒しがもたらされるはずであって、癒されたものをまた癒すなんてことは文字通り「ありえない」。真の癒しは繰り返しやるようなものではない。良い悪いの問題ではなく、ただ「そんなことやりようがないでしょ」ということなのだ。

ここでも前回と同様、二つのケースが考えられる。一つ目は「真の癒しがもたらされたが、現象面では明らかな結果が出ていない」場合、これは病人自身にその準備が整うにつれて現象面でも効果が出てくるので繰り返す必要はない。二つ目は「そもそも癒しをもたらすことに失敗した場合」であって、これは癒しがなかったわけだから繰り返すも何もない、次回以降が「初めて」ということになる。従ってどちらの場合も「繰り返しやるものではない」わけだ。

真の癒しとは文字通りの奇跡である。神から遣わされた教師は奇跡を働く者、奇跡の担い手でもあるのだ。もちろん、個人としての彼らが自らの力で奇跡をおこなうのではない。神のひとり子としての部分、つまり個人を捨て去ったところにある聖霊の部分が奇跡をおこなうのである。神から遣わされた教師は完全な信頼を持って「個としての自分」を捨て去り、聖霊に全てを委ねることができる。だからこそ「神から遣わされた教師」なのである。

しかし、やっぱり自分のしたことがうまく行ったかどうか気になるのが人情である。そしてこういう人情とはたいていエゴのものなのだ。うまく行っただろうか、どうして結果が出ないんだろうか、いつ良くなるんだろうか。そんな心配や気がかりに囚われてしまった「教師」はもはや神から遣わされた教師ではなくなっている。彼(女)は既に自分こそが癒しを必要とする「病人」にまで堕ちている。神に対する信頼を欠き、ゆえに神(の御心)による賜物の恩恵を受けられなくなってしまったのだ。

神から遣わされた教師は自分の身体を単なるツールとして、しかし神の御心を与え合うツールとして用いる。自分の身体は神の道具なのだ。そのような姿勢でいれば彼(女)は自らを癒しのためのチャネルにできるのだし、癒しは必ず成功するだろう。そこには何も邪魔するものがないからだ。言い換えれば、エゴとしての自分がないからだ。

もしも本当に聖霊に・・・つまり絶対に失敗するはずのない、絶対的に頼れる大いなる存在に全てを委ねていれば何も心配ないではないか。

癒しがもたらされるその時、病人の心身にどういう変化が起こるかは別として神から遣わされた教師はこの上ない感謝と喜びと平和など、つまりは愛に満たされるはずである。神において一つ。あるいは神の御心と一つになった状態である。変な話、病人のほうに変化がなくても自分自身はますます元気いっぱいになってしまったりするのである。与えれば与えられる、あたえたものはますます豊かになって受け取られるからである。この状態になったかどうか、これは「真の癒しがもたらされたかどうか」を確認する目安になると思う。

せっかくここまでうまくできたのに結果を気にして不安になったりすれば、愛はいっぺんに失われてしまう。不安とは恐怖であり、恐怖は憎しみを生じさせるのだった。見事に「神から離れてバラバラ状態」に逆戻りである。

言うまでもないことだが、奇跡の担い手である神から遣わされた教師は自分自身がまずゆるしとあがないを受け入れているべきなのだ。ゆるされあがなわれ、神において一つである神のひとり子なのだと心底信じ、その事実に信頼をおいていなくてはならないのである。まず自分において神からの賜物を受け取り、かつ受け入れること。本当に受け入れていればそれだけで十分なのだ。わざわざそれを「与えよう」なんて思わなくても、神からの賜物はその性質上自動的に与え合いますます豊かになるようになっているからだ。自分において受け入れればそれは「あらゆる人において受け入れた」のと同じことになる。何故ならこの「神からの賜物を受け入れる自分」とは「個としてのワタシ」なんかではなくて「神のひとり子たる、神においてあらゆるものと一つであるところの私」だからだ。言い換えれば、エゴが消えた状態でなくては神からの賜物を受け入れることなんかできないのだ。そしてエゴが消えた状態だからこそ聖霊が十全に働くことができる、それによって癒しも奇跡ももたらされるのだ。

神からの賜物はやはりその性質上「消える・減る」などということは一切ありえない。また、それは与えられる一方であって取り上げられるようなこともありえない。取り上げられたように感じるとしたらそれはあなたがエゴに転んだだけなのだ。つまりあなたが間違いを犯してしまっただけなのだ。不安や疑いや無力感を覚えたときはいつも「間違っている、幻想の中にいる」に決まっている。そうとわかればすぐに正すことができる。

癒しがうまく行ったのかしら、あの人の具合はどうかしら、まだ症状が消えてないのね、どうしよう、気になるわ。これってちょっと見には愛情のようだが、愛と不安は相いれないことを思い出していただきたい。これは愛のように見えて単なる「神や聖霊に対する信頼の欠如」に過ぎないのだ。愛の対極は恐怖であり、恐怖は憎しみや攻撃につながる。ゆえに、病人の症状があまり変わらないように見えるからといってそれを気にかけ心配し続けるのは一種の憎しみと攻撃・・・神と、神のひとり子であるはずの自分に対する憎しみと攻撃・・・なのである。

もちろん神や聖霊の完全性や絶対性は信じているけど、それを自分がちゃんと受け入れられたかどうか不安なの、という人もいるだろうが、上述したようにその瞬間あなたが愛や感謝や平和や喜びに満たされていればちゃんと受け入れられていたのである。しかし、その後あなたは転んでしまったのだ。

そもそも「不安になる」「疑いを抱く」ことができるのはエゴしかいないではないか。神のひとり子たる本来の自己だったら不安も疑いもあり得ないではないか。疑いや不安を抱くならあなたはエゴに支配されてしまったのだ。常に変わらず完全に信頼しているからこそ、そしてその信頼の対象が絶対的に信頼に足るものだからこそ、神から遣わされた教師による癒しは確実なものになるのだ。癒すのは「この自分」ではない。この自分を通して絶対普遍の力が働くのだ。その時、個としての自分は消え失せている。

こういう不安や疑いの気持ちもいろいろ分類することができる。自分には力がないんじゃないかという恐怖、失敗して非難されたらどうしよう=傷つくことに対する恐怖、失敗して恥をかくことに対する恐怖、そもそも自分には適性がないんじゃないかという恐怖、うまくできなかったら申し訳ないという罪悪感、これはちょっと見には謙虚な姿勢のようだがやっぱり「神と神の御心を否定している」という点において傲慢なのである。しかしこんな分類には何の意味もない。これらは全て「間違い」だという点において全く同じものだからである。従ってどれも全く同じように正当化できないのだ。だいいち、ここに挙げたものはどれも病人のことなんか気遣っていない、気になるのは自分自身のことばかりではないか。普通に考えてもこれって完全にエゴですよね。

こういう間違いに陥っているとき、私たちは神と自分と病人をそれぞれ別のものとみなししてしまっている。自分も病人も神のひとり子だと認識しそこなってしまったのだ。つまり、本当の自己を見失い自分を偽ってしまったことになる。本当のあなたは神によって創造された神のひとり子なのだが、そのことを忘れてしまったのだ。

疑う、とは簡単に言えば「イエスかノーかわからない」ことであって「コース」流に言えば「イエスとノーを同時に求めてしまっている」状態でもある。あなたはいったいどちらを求めているのか?成功したい、でも失敗したらどうしよう。そう思う時あなたは成功と失敗を同時に求めてしまっているのである。ただ一つの方向にだけ目的を定めれば疑うことなど不可能になる。癒しがもたらされることだけを求めるならそこに疑いは生じえない。余計なことを考えずただ癒しだけに集中していれば疑いは生じえない。というより、そこには疑うことのできる「この自分=エゴ」が存在していないのだ。



8 どうしたら難易度を知覚認識しないでいられるのか?

難易度とは要するに「程度の違い」である。神から離れてバラバラである状態を維持するために作り出されたこの世は「違い=差異」がなければ成立しない。これはちょっと考えてもわかることだ。景色の違い、昼と夜の違い、色の違い、光のコントラスト、音のコントラスト、匂いや形状や大きさの違い、それらを知覚認識しなければ私たちは一日だって生活できない。今が何時かもわからず、AさんとBさんの区別も100円玉と1円玉の区別もつかない、テレビやラジオの音声もわからない、触っても形がわからず大きさもわからない、そんな生活が想像できるだろうか?

従ってこの世においては「より大きいもの、より優ったもの、より美しいもの」などという比較が不可欠かつ不可避になる。知覚認識は比較と切っても切り離せないのだ。しかし、比較には厄介な問題がつきまとう。あれとこれとどっちがいいか決められないとか自分は誰かより劣っているのではないか、など心の平和を乱すような羽目に陥ることが多いからだ。身体の知覚器官によって認識している限り平和は得られないし本質も理解できない。その知覚認識はことごとく差異に基づくものであり、差異こそ「神から離れたバラバラの状態」を現実化しておくための幻想に他ならないのだ。あらゆるものが神においてひとつならばそこに差異などあるわけもない。

神から離れてバラバラである個としての自分、とその集合体から成る世界を現実のものにしておくために私たちはいろいろな機能や仕掛けを作り出してきた。自分や世界を維持するために良くも悪くもより重要だと思われるものは、より「現実らしく」感じられる。たとえばこの身体である。

幻想とは「実際にはウソであるものを本当だと思おうとする試み」である。本当=現実であってほしい、そうでなくては困ると思えば思うほどそれは強固な幻想になる。幻想の中で作り上げられたものは変化を免れず永続しない。ゆえに、このような作り上げるという機能は神による創造のパロディみたいなものであって、真の創造ではない。神によって造られたものなら決して変わることなく永続するはずだからだ。

神において一つである本来の状態=真理のほうがずっと良いと思うそうなものなのだが、それはエゴに支配された私たちにとって存在の根底を揺るがすような、つまり今までは確実なものに見えた世界を覆すような脅威になってしまったのだ。真理がなぜ脅威になったのか、その真の理由なんか私たちはとっくに忘れているのだが、とにかく「恐ろしい」ものからは目を逸らしたい。目を逸らしているために、「なかったこと」にするために私たちはその都度更なる幻想を作ってそこに逃げ込むのである。病気になったりするのもその一例だ。そうすれば「神ならぬ、無力な1個人」であるという思い込みがより現実らしくなる。真実=本当の現実よりも幻想のほうがより現実らしく感じられるなら、幻想の「勝ち」のようだが、この勝利もまた幻想なのだった。

とにかく、こういう幻想の世界の中では「わたし」と「あなた」は異なる身体と異なる人生を持った別々の存在であり、別々の利害を持ち、一方が得れば他方は失うようになるのである。

目の前をちょっと見回しただけでも、あるいは目を閉じて触っただけでも良い、形であれ色であれ重さであれあなたはあらゆる「差異」を知覚認識するだろう。しかし、これら「差異」はあなたの周囲に実在しているのではない。それ以前にまずあなたのマインドの中に「差異というものがある」という信念があり、それに従ってあなたが判断した結果なのである。知覚器官が認識するのに先立ってマインドが判断を下している、逆に言えば私たちは自分のマインドが判断したとおりに知覚認識しているのだった。更にその知覚認識されたものについてマインドは意味づけをする。これについてはテキスト篇にも何回か出てきたのでおわかりになると思うが、要するに何かを何かだとして知覚認識し、更に意味を付与し価値判断を行うのはマインドなのであって、その「何か」に予め意味や価値があるわけではないのだ。つまり、マインドが働かない限り目の前に札束があろうが馬鹿でかいダイヤモンドが転がっていようが意味も価値もないわけだし、目の前で火事が起きていてもその意味するところを判断しない限りあなたは恐怖を覚えないのである。

これも前に出てきたことだが、私たちは自分が見たいものだけを見る、見たいものしか見えないのだ。見たくないものばっかり見えるのよ、という人は単に不快でいるのが好きなだけだ。その前に、何かを「好ましい」と判断し別の何かを「イヤだ」と判断しているのはマインドなのだ。

目に限らず、身体の知覚器官は「差異=違い」によってしか認識できない。認識するとは言語でさえも、字の形や組み合わせや音の違いがなければ成立しえないではないか。そして、たとえば漢字を全く知らない人に「愛」という文字を見せても何が何だか全然わからない、おそらく文字として認識することもできないのであって、愛という文字は愛そのものではない。漢字を全く知らなければ「愛」を見て好ましいとも思わないし「苦悩」がイヤだとも思わないはずである。「死」という文字を見て「まあ、素敵な図形」と感じる人もいるかもしれない。

あらゆる意味づけや価値判断はマインドだけが行っているのである。知覚認識なしでは1分も生活できない以上、この世において知覚認識は必要不可欠なものではある。ここにリンゴとミカンがあるとして、あなたにはその区別はつく。が、リンゴのほうが偉いとか高いとか、ミカンのほうが好きだとか身体に良いとか、いや私はグレープフルーツのほうが好きだとか、そのような意味づけや価値判断を保留することくらいは問題なくできるんじゃないだろうか?この人の腕の傷はあの人の脚の傷より大きくて深い、だから何?ってなもんである。あの人の脚の傷のほうが早く治ることだってあり得るではないか。千円稼ぐのは簡単だが一千万円稼ぐのは難しい、というのはまあ常識なのだろうが、それだって結局は常識という名の思い込みである。つまり、マインドがそう決めているだけなのだ。そして、この世の常識や「過去のデータ」に縛られ囚われているうちは奇跡も癒しも不可能なのである。数字やら何やらによって「こういう場合はこうだ」と分類して判断する、それはいかにも「客観的」根拠があるように感じられるかもしれないが、分類も判断も何もかも全てマインドが決めたことではないか。そこには何一つ真に客観的なものなどないではないか。それを「客観的根拠だ」と思っているのもまたマインドではないか。言わでもがなの当たり前なことではあるが、私たちはマインドを離れては何もできないのだ。

ある時代における常識や「客観的根拠に基づいた間違いない判断」が、他の時代では全く通用しないものになってしまうことも少なくないのだ。私たちは常に見たいものしか見ず、その都度この世界や「個としての自分」を維持するのに必要なものを作り上げ続けてきたのである。

繰り返し言われているように、癒しに難易度は存在しない。病や症状がどんなにさまざまあるように見えても、それらは「幻想だ」という点で十羽一絡げにできるのである。幻覚で何が見えるか、は問題じゃない。幻聴で囁きが聞こえるか大声が聞こえるかも問題じゃない。現実を見聞きしているかしていないかだけが問題なのだ。何が恐怖の対象になっているのかも問題じゃない。放射能の恐怖もゴキブリの恐怖も同じなのであって、要はそこに恐怖があって愛がないことだけが問題なのだ。難易度が存在しないのは病に限ったことではなく、普通の常識ではとても不可能だと思えるようなことができてしまう「奇跡」にもまた難易度はない。

難易度が「ある」ということがあなたにとって現実であるかどうか、それが問題なのだ。「ある」と信じていればその通りになるだろう。私はこうなりたいけど、過去のデータによればそんなことができた人は殆どいないからダメだわ、と思えばそうなるだろう。そんなものは全てマインドが決めた幻想だ、と気づけばその幻想は消えるだろう。何故なら幻想はそれが幻想だと暴かれた時点で意味も「現実性」も失うからである。

癒しはまさにそれを行うものだ。幻想の中身は全く関係ない、ただそれらが等しく幻想なのだという事実を明らかにすることによってそれらは消えるしかなくなる。

難易度も程度も実在しないとわかった後でさえ、あなたの眼には「重病人」と「そうでもない人」の区別が映るだろう。が、あなたにとってその区別はもはや意味をなさない。両方とも等しく「実在しない=幻想」だ、とわかっているからだ。

本当の意味での区別はただ一つしかない、即ち「現実か幻想か」あるいは「真実か虚偽か」「聖霊かエゴか」と言っても同じである。

外界の中に見えるもの、知覚認識されるものは全てこの2つに分けられる。もちろん、「あらゆる差異がない」という究極の状態になってしまえばそれさえなくなるのだが、この世にいる以上それはさすがに無理だし、この世で生きている以上私たちにはまだゆるすべきもの、癒すべきものが沢山あるのだ。幻想は区別なく幻想だと見てしまうこと、これによって難易度は克服される。



9 生活面における変化は必要なのか?

まずいきなり結論なのだが、変わる必要があるのはマインドだけである。ただ、マインドが変化すればそれに伴って生活面においてもいろいろな変化が生じることは少なくない。仕事を変えたり住む場所を変えたりすることもあるだろう。あまりにも大きな気づきに襲われてしまい、突如今までの人生を全て捨てて全く別の生き方をするような人も稀にはいる。が、別にそうしなくてはならないわけではない。これはあくまでもマインドにおける変化が反映されたものなのであって、マインドが変わらないままで環境だけをいくら変えたって意味がないのである。それこそある偶像から別の偶像へと移行するだけに過ぎないのだ。従って、たいていの場合は生活面における変化はもっと緩やかなものになる。

いまあなたがどこで何をしていようとも、それは偶然にそうなったのではなくてあなた自身が(無意識にでも)選んだ結果である。学びが進むとともにその選択はエゴではなく聖霊に従って為されることになる。それを「コース」は《救いのための》神のご計画と呼んでいる。

マインドが変わる・・いわゆる「内面的な変化」が起こればそれに伴って外面的な部分も変化するようになる。神から遣わされた新米教師はまずものごとに対する姿勢が変わる。これも教師としての訓練の一部分なのだ。そうすれば必ずそれは生活のいろいろな部分に反映する。

過去において間違った判断・選択をした結果が今のあなたであり、あなたの生活環境なのだ。とすれば、徐々にマインドが正されていく過程で過去の判断や選択の間違いにも気づき。それらを一つずつ正していくような感じになる。たとえば、お金に目がくらんで選んだ相手との結婚生活が最悪だったとか周囲の期待に応えるためだけに選んだ仕事が苦しくて仕方なかったという人などはそれらを手放すかもしれない。普通に考えても、価値観が変わってしまえば生活も変わるものだ。

とりわけ人間関係はかなり変わるだろう。そしてあなたはその変化に気付くだろう。周囲にいる人たちの顔ぶれが同じでもあなたとの関係は変化するはずだ。あなたのマインドが以前とは違うものを投影しているからである。そしてあなたはゆるすようになったからである。もちろん、つきあう人々の顔ぶれが変わってしまうこともある。

マインドにおける変化とは、簡単に言えば今までは「個としての自分=エゴ」が絶大な支配力を持っていたものが政権交代して「神において一つであるところの私=スピリット」が支配的になることを指す。そうするとあなたは段々に聖霊からのメッセージを聴くようになる。ここでは「神の声」と書いてあるが、神自身が声を発することはありえないのでもちろんこれは象徴的表現である。何かいわゆる「お告げ」みたいなものを想像する必要はない。(エゴではない)こころの声に従って動くのだ、とか宇宙に身を任せるなどと考えても差し支えない。エゴである「このワタシ」が考えることなど一つもないのだ。この世では「自分で考えて自分で判断して決める」のが成熟した大人の証みたいに思われているが、既にその「自分」はないのである。自分が取るべき行動についていちいち考えて決めなくて良いのだから、そして絶対に失敗することもないのだから、こんな楽でいいことはないだろうと思うのだが、この「聖霊に従って決める」のはなかなか難しく感じられる。訳の分からない者に身を任せて変なところに連れて行かれちゃうんじゃないかという恐怖や、今までの自分を否定されるような屈辱感、自分以外の何かになんか依存したくないという変なプライドなどが邪魔するのだ。というか、要するにエゴが邪魔をするのだ。しかし、学ぶにつれてだんだんにエゴの邪魔が少なくなり、聖霊のメッセージを受け入れやすくなってくるはずだ。そして、それに従って癒しをもたらすこともより容易くなってくるはずだ。

いずれにしろ、「コース」学習では「判断を手放すこと」が救いの必要条件とされているのである。

第290回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 癒し1・2・3

癒しは如何にして達成されるのか

ごく簡潔に言えば癒しとは「苦痛をもたらす病が幻想であると認め、それを手放すこと」である。この理解なしには癒しなどありえない。


1 病気の目的・・・どうして病気になるのか

私たちはあらゆる経験を(自覚はなくても)自分で選んでいるのだった。ならば当然「病気になる」とか「身体を害する」のもまた自らの選択と決断によるものに違いない。そして、私たちが何かを選ぶのはそれが自分にとって何かしら「良いもの、良いこと」だから選ぶのであって、初めから自分に苦痛を与え尚且つ無意味なものだとわかっていればわざわざ選び取るわけもない。ゆえに、私たちは「病気は自分にとって益がある、苦しくてもそれに勝る何かを得られる」という間違った判断に基づいて、しかもそういう判断を自ら下しているという自覚さえないままに病気になることを選んでいるわけである。

身体が勝手に病気になった、身体に悪いと言われるあれやこれやをしたから病気になった、過去生からのカルマで病気になった、神の御心によって!!病気になった、何でも良いのだがこれらは全て「自分にはどうしようもなかった」と思っているのである。身体に悪いあれこれをしたために病気になったのであれば自己責任と言えるのだろうが、それだって普通は自分のマインド=思考のせいだとは思わないだろう。

そして、病んだ人が神に救いを求める場合の「神」は自分とは別の存在であり、自分の望みを聴いたり聴かなかったり、下手すると罰を下すような当てにならない存在なのである。

では、苦痛をもたらす病気という代償を払ってまでも手にしたい価値とはいったい何なのだろうか?病気になることによって私たちはいったい何を選び取っているのだろうか?

まず私たちは「神のひとり子ではないこと」を選んでいる。神のひとり子ではないんだ!と自ら決めてしまったのである。これは確実だ。ならば必然的に私たちは自分が身体であると選んだことにもなる。つまり自分自身が「完全無欠」ではない「弱いもの」だという選択をしてしまったのである。

まあ簡単に言えばエゴが自らを守るために病気という方法を選択したわけなのだが、この論法に従えば癒し=自らが神の子ではないという選択が間違いだと認めることがエゴにとっては許せない敗北であり、癒しをもたらす強さは脅威に映る。癒しをもたらす力は神から生じるものなのだが、エゴにとってはその「神」こそが病をもたらした張本人になってしまっている。ならば、その神を殺さない限り自分は救われないことになる。癒しをもたらす神を殺してしまったらどうやって癒されるのか!だからエゴ(に支配された私たち)の考え方は完全に狂っていると言われてしまうのだ。

病は私たちの間違いや幻想を守るための防衛手段でもあったことを思い出していただきたい。癒しがもたらされれば今まで守っていたものは失われてしまう。今までの自分や今まで正しいと思っていた信念も否定されてしまう。逆説的なのだが、たとえば今まで「自分=身体」だと信じていたその思い込みが否定されないと身体も癒されないのだ。

癒しがもたらされれば自分の今までの間違いが全て明らかになってしまう。明らかになって大いに結構なのだが、見るのが怖くて見ないようにしてきたものを見ろと言われればやっぱり怖いのだろう。今まで「何かのせい」だと思えていたものが実は全て自分の思考のせいだった!全ての責任は自分にあったのだ!これは明らかに救いなのだが、人によっては大変な恐怖に感じられる。だって癒されたら「この自分」も今まで信じてきたことも全部なくなっちゃうんだから!

というわけで、とんでもないことなのだが「癒しがもたらされたら死んじゃう」とか「癒されるくらいなら死んだほうがマシだ」「癒される前に死んじゃおう」みたいなトンチンカンなことが起こり得るのであり、また実際に日々起こっているのである。そうすれば「神のひとり子ではないこの私」は無事でいられるからだ。その代りに「死んじゃう」のだが!


2 知覚認識を変える

上述したように病はエゴ(に支配された私たち)にとって価値がありまた益もあるものなのだが、逆に「こんなことしてたって何にもならない、無意味だ、要らん」と心底からハッキリ認めることによって病は癒されるのである。まあ、自分が好きで病気になったと思っている人なんか誰もいないだろうが、病気になったということはやっぱり自らそれを選んだのであって自覚はなくても「好きで病気になった」に決まっているのだ。まずここを認めないと先に進めない。間違いはそれが間違いだと気づかない限り正すこともできないのだ。

スピリチュアル系の考え方では、ただ病を忌むべきものだと思って嫌がったり闘ったりするのではなくするのではなく病をありがたいものとして受け入れようというものもある。が、「コース」に即して考えれば「病に意味があり価値がある 」というのはやっぱり間違いなのだし、そもそも病というものが現実に存在していると思うことじたいが間違いなのだ。それどころか病んでいる「身体」を実在と思うことからして既に間違いなのだ。

病むのも、あるいは病気になろうと決めるのも、身体が実在だと思い込むのも全てマインドの機能なのである。病気というのが幻想=間違いだとすると、間違うのもまたそこから癒されるのもやはりマインドであって身体ではないのだ。身体はマインドの間違いを映し出しているのに過ぎない。私たちは自分の中にある何らかの問題・・・それは結局全て「神から離れてバラバラになったという思い込み」に派生するものなのだが・・を解決しようとして、病気という間違った方法で訴えかけているのだ。間違うのはマインドであって身体ではない。

だが、身体として生まれ身体として生きている私たちにとって、自分とは違う身体を持った存在を「他者」だと認識して生きている私たちにとって、更にそういう無数の身体から成り立っているのがこの世界だと思っている私たちにとって上記の事実はなかなか受け入れられないものなのだ。身体の実在を否定することは自分の存在=アイデンティティの否定につながるからである。病んでいるのは身体だ!と思い、誰もが病気=身体を治そうとして身体に対してあれこれやるのである。

前にも出てきたように身体そのものは「何もしない」のであり、身体はあらゆる面でマインドの指令にのみ従うようにできている。ゆえに身体が何か自発的にする、というのはありえないのである。頭の考えや心の思いとは全く無関係に身体が勝手に反応する「本能的」行為や、反射的に動いたり消化したり呼吸したり再生したり分泌したりする現象というのも本来身体に備わった機能だと思われているが、これもまたマインドが「こういうときにはこうするように」と予め指示しプログラミングした結果なのである。脳の指令が身体の各部分に伝わってどうの、と言う意味ではない。脳もまた身体の一部だからである。脳がこうなっているから心や体がこうなるんだ、という学説が多々あるが、これは本質的に何も説明していないに等しい同語反復みたいなものなのだ。

ところで、この項では主に身体的な病についてのみ述べられているようだが、いわゆる「心の病」とか精神的な不具合も全く同じように考えてしまって構わない。何故ならこれらの病や不調も必ず何らかの身体的症状を伴うからである。もちろんその中には「完全に歪んだ知覚認識」も含まれる。知覚器官もまた身体に属するものだからだ。癒しは一切の差別をしない。ゆえにどんな病でも症状でもその種類や程度にかかわりなく同じように癒されるのである。

とにかく、病になろうと決めるのはマインドなのだ。自分が神の子ではなく、苦痛を味わうべきか弱い存在であると証明するために身体を利用しているのだ。この事実を受け入れることから癒しは始まる。受け入れるのはもちろん(あなたの、そして一つの)マインドである。どんな治療を受けようがどんな医者にかかろうが、あなたに癒しをもたらす医者はただあなたのマインドだけなのだ。逆に言えば、マインドがこの事実を受け入れない限り何をやっても治りませんよ、ということになる。

極端に聞こえるだろうが、事実をそのままに言えば癒しには医学も含め何の療法も薬も不要なのである。ただあなた(のマインド)が選び直せばどんな病もどんな症状も「たちどころに」癒される。

ただ、いくら「コース」の常識はこの世の非常識だとは言ってもこの事実をいきなり受け入れるのは無理な人が多いだろう。だから「コース」はどんな医者にかかってもどんな治療法を試しても全く構わないと言っている。それらはあなたが「癒される」という信念を受け入れやすくするための仕掛けみたいなものなのであって、本当はあってもなくても何でも構わないのだ。イワシのアタマ、みたいなものだと思えばよろしい。

病は幻想を現実だと思い込んだ結果生じる(ように見える)ものだった。間違った信念が投影された結果生じる現象なのだった。結局は投影に過ぎないのだから、正しい信念がそれに取って代われば間違った信念による投影は不可避的に消えるはずである。ゆえに、知覚認識機能が正されればどんな病も症状も癒され消える、ということになる。これがいわゆる「奇跡的治癒」と呼ばれるものなのだ。


癒しは如何にして達成されるのか 2

2(前回の続き) 知覚認識を正し変化させるのに必要不可欠なのは「病=身体的症状は全てマインドのものであり、身体じたいは何も関係ない」とハッキリ認めることである。この認識によって失われるものは何か?言うまでもない。今までの自分とこの世界である。「他の誰でもないこのワタシ・個人」としての自分と、その自分の目に映っていた世界、自分の外側に在って自分に影響を及ぼし自分を規定してきた世界である。世界は自分の外側に自分と無関係にただ存在し、自分はそれに対して何もできない、という考えを捨てることになるのだ。自分のマインドこそこの世界を作りだした張本人だと認めることになるのだ。私たちはただ自分が見たいものだけを自分が見たいように見ているという事実を受け入れるわけである。ここに至れば幻想と現実、つまり神から離れたマインドによってでっち上げられたものと神の御心によって本当に創造されたものが混同されなくなる。でっち上げられた幻の世界何て所詮マインドの投影に過ぎない、実体のないものなのだから世界があなたに何かするとか世界があなたを規定するなんてありえないのだし、あなたもまた幻に対しては何もしようがないわけである。何かできるとすれば、まず自分のマインドが変わり、それに応じて映し出される世界を変えることだけなのだ。外側に在る世界だけを変えるなんてことは絶対にできない。それと同様、身体に現れた病やその症状だけを変えることもまたできない相談なのである。

今までは「神から離れてバラバラであり、神とは別のワタシ」が、そういう自分を現実の存在であると思い込むために「それぞれがそれぞれの症状で苦しむ身体」を必要としてきたのだ。

病は罪悪感と同じものである。ゆえに、罪悪感から解放され浄化されたマインドは身体にそれらを投影して病を作り出すこともなくなる。このような浄化や解放がもたらされるためにはまず「身体など実在しない、無意味なものだ」という考えを受け入れる必要があり、いったんこの考えが受け入れられれば苦痛とは永久におさらばだ。

これらは全て端的な因果関係であって、もう見事なくらいに「こうなればこうなる」というつながりがハッキリ見て取れると思う。これを実地に体験しながら学んでいくと最終的には「神を思い出す」ことになる。つまり、神のひとり子である本来の自己を思い出せば必然的に罪悪感と恐怖から解放されるので、あらゆる苦痛も病も悲惨なこともありえなくなるのだ。

私たちは通常、病があるから苦痛があるのだ、悲惨な目に遭うから苦痛があるのだと考えている。が、実はその逆なのである。そもそも苦痛が無意味なら病も何も必要ないはずだ。神の御心のままに正しい知覚認識ができるならこの世は限りなく天国に近いものになる。そこには私たちを苦しめ恐れさせるものが一切ないからだ。


3 神から遣わされた教師の役割

癒されるためには病人が自分自身のマインドにおいて考え方や信念を変えなくてはならないのだった。では、それに対して神から遣わされた教師は何をしたらよいのだろうか?

まず、もっとも肝心なのは「病人を他者と見て、その他者のマインドを変え」ようとしてはならない、ということである。癒しとは、その原理からみて「あらゆるものが神においてひとつ」という「一つのマインド」によって、またその一つのマインドにおいて為されるものである。癒しがもたらされるとき他者などというものはいない。神において一つになっているからこそ癒しがもたらされるのである。

病人が既に自分のマインドを変える決断をしたのならその人は癒され、なおかつ神に遣わされた教師の仲間入りをする。ゆえに教師たちはともに喜び祝福すればよいだけであって、それ以外の役割はない。

しかし、まあこれが大半に違いないのだが、分離という夢に或いは暗闇にどっぷり浸かっている病人に対しての役割のほうがずっと重要だろう。

彼ら病人はなぜ自分が病んだのかわかっていない。身体ではなくマインドが問題なのだと気づいていない。精神的な原因によって病気が引き起こされた、くらいは考えるかもしれないが、そうだとしても精神=マインドを何とかしようとはせず専ら身体を治療しようとするばかりだろう。あるいは、やはり精神=マインドに病の原因を求めるにしても、まさか自分が好き好んで病を選んだとまでは思っていないだろう。病み傷んでいるのは身体だ、と信じているだろう。彼ら病人にとっては「神でもなく他の誰でもないこのワタシ」が「他の人たちとは違う症状」で苦しんでいる、というのが当たり前・・つまり「神からの分離」が疑う余地もないくらい揺るぎない現実なのである。

神から遣わされた教師の役割は、病人の「間違った信念」を無理やり変えさせることではなく、彼ら病人に「本当の現実」を思い出させるための手助けをすることだ。常識ではこうかもしれないけど、そうじゃない選択肢もあるんですよと気づかせてやることだ。

でも、どうやって?言葉で説明するのではない。「私が癒してしんぜよう」という行為によってでもない。もちろん必要に応じて言葉を用いたり、いろいろなヒーリング方法を用いたりするのは全く構わない。が、それらは全てシンボルに過ぎないのであって、それらが癒しをもたらすのではないのだ。それらの向こうにある真実の力=神の御心によって癒しがもたらされるのだ。言葉やさまざまな手法を用いるのは前回にも述べたように「病人が“癒される”という信念を受け入れやすくするため」に過ぎない。

より具体的に言えば、病人自身が「ゆるし」をうけいれなくてはならないのだから、教師たちはその手助けをするわけである。ある。ゆるしは与えれば与えらえるのだった。ゆるせばゆるされるのだった。ならば、まず教師たちが自分のマインドにおいてゆるすこと、つまり自分のマインドにおいて病人を既にゆるされた者=完全な者、健康な者として見なくてはならない。分離の夢にどっぷり浸かっている病人相手にいきなり「さあ、ゆるしなさい」とか「神のひとり子の名においてゆるされよ」とか言ったって普通はダメに決まっている。

神から遣わされた教師は祝福を与えるために来たのであり救いのシンボルなのだ。彼らは病人に対して「既に癒されているのだ」ということを思い出させる役割を持つ。自分たちに与えられたものを与えるのである。つまり、教え実際にやって見せるのである。神の子よ、生命があなたに差し出すものを見なさい。それでもあなたは病を、死を選ぶのか?

ま〜ものすごく簡単に言っちゃえば、例によって「相手を聖霊と見る」のに尽きるのではないか。あるいは「相手を神の聖なるひとり子と見る」のでも同じことだ。これが基本にありさえすれば表面的に行われる癒しの方法は何だって良いのだし、逆にこれがなければ何をどうやっても癒しはもたらされない。何か起きるとすればせいぜい「魔術」だけである。

テキスト篇にも出てきたことだが、あらゆる病気・あらゆる症状はただ「神からの分離を維持する目的のためにでっち上げられた幻想である」という点において全く同じものなのであり、ゆえに全く同じように癒される。病む・傷むというのは神によって造られた本来の自己にはありえないことなのであり、それが現実になっているならあなたは自分を欺き騙しているのである。病んだり傷んだり苦痛を味わったりする「自己」はあなたが勝手にでっち上げた(と思い込んだ)ものに過ぎない。私たちは自分を「作り出したと思う」ことはできても、本当に作り出すことはできないのである!神から造られたままの自分、でいるしかないのであって、これほどありがたいことはないのだ。だって、本来は病も怪我も苦痛もないんだから!というか、実は身体さえないのだった。

幻想は現実ではない。幻想に実体はない。幻想の中でどんなことをしたって本当の現実はびくともしない。病気だ、痛いよ苦しいよ〜といくらリアルに呻いていても、それは幻想なのである。現実が目の前に現れれば幻想は消えるはずだ。神から遣わされた教師は、神から遣わされた教師であることによって神の御心=真理から生じるあれこれ・・愛・平和・感謝・調和などなど・・を全方位的に放射しているのだ。従って、究極的には彼らがそこにいるだけで病人は癒されてしまう、というふうにも言える。何故なら、彼らのマインドは真理だけを映し出すので病人の幻想を強化せず、むしろ病人のマインドにあって本人が気づいていない真理に光を当てるからである。真理があるところに幻想はありえず、幻想ゆえに消え失せることになる。

癒してあげようという誰かの思いが他の誰かを癒すのではない。そこには「別々の存在である複数の人々」がいるのであってこれは分離状態に他ならないからだ。そうではなくて、ただ一つのマインド=ただ一つの思い=神の御心だけがあるのであり、その中には神の御心以外のものはない。その状態を「癒された」と呼ぶわけである。

ということで、神から遣わされた教師が癒しにおいて持つ役割は「どんな人の中にも自分の思いと別のものを見てはならない、そして自分の思いを神の御心と等しいものにする」ことである。

第289回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 特性

神から遣わされた教師が持つ特性について 5 6 7 

5 よろこび

優しさに満たされれば喜びにも満たされる。これは誰でもわかることだろう。何故なら普通の人でも不安や恐怖がない時は優しくなれるのだし、よろこびとは不安や恐怖がない状態を指すからだ。自分が苦しんでいる状態で優しくなれと言われても難しい。苦しみに遭っても優しさを失わない人というのは実は苦しんでなんかいないのである。少なくとも優しさを持っている瞬間は苦しんでいないはずなのだ。「与えれば受け取る」原理に照らして考えれば、優しさを与えた人はそれが自分にも与えられる。ゆえに、優しさに溢れそれを与えられる人は、自分が愛され守られていると感じる。しぜん、感謝の気持ちも溢れてくるというものだ。というより、感謝とよろこびは同じものだと言ってよい。逆に、悲嘆にくれている人は「どうして私がこんなめに遭うのよ!!」という怒りをどこかにぶつけないと気が済まないものである。イヤなことや心配事があるとイライラして他人に当たってしまうこともあるだろう。つまり悲嘆は攻撃に通じるのだ。わかりやすいですね。

さて、神に遣わされた教師は神に全幅の信頼をおいている。神は愛に他ならないので、彼らには愛とその派生物しか与えられない、そのことを完全に信頼している。だからこそ常に平和でよろこびと感謝に満ちた状態でいられるのだ。神の御心に従い且つ導かれ、神から与えられた賜物を人々に与える、そのように生きるのが喜び以外の何かであるはずはない。彼らは(自分の中の、そしてあらゆる人々の中の)キリストに守られている。彼らが自らの役割を果たせばあらゆる人の中にいるキリストが喜び感謝するだろう。この世で身体を持ちつつ救い主の役割を果たす彼らをキリストは必要としているのだ。そして彼らもキリストによる守りと導きを必要としている。こうして救いという目的を共有しつつ生きていくのは何という喜びだろうか!


6 防御しないこと

これは後に出てくる「マインドがオープンであること」とも重なっている。そもそも自分を防御するのはその必要があると認識しているからだ。そこが間違いの始まりである。自分とはいったい何か?神によってつくられた神のひとり子であるならば、そして絶対不変の愛である神の御心の一部ならば、何をわざわざ自分で守ろうとする必要があるというのか?私たちが普段守ろうとしているのは幻想だけなのだ。幻想は真理ではなく実在もしない、つまり「ウソ」ゆえに脆弱なものなので防御を必要とする。

神に遣わされた教師であるような人々は古今東西「死をも恐れぬ」姿勢を貫いてきた。それは自分が身体ではないことを、そして死などないことを彼らが知っていたからだ。どんなとんでもない状況にあってもそれらが「本当は、ない。夢に過ぎない」ことがわかる、あらゆる幻想に対して自分を防御しようとしない、ここまでくれば教師としても上級者であると言える。

ここまで至るのはなかなか大変だ。しかし、少しずつゆっくりとではあるが神から遣わされた教師は幻想に騙されないようになる。そのスピードは彼らの信頼が増していくにつれて速くなる。

自分を防御するのを止めたらどうなるのだろう?そこには危険が待ち受けているのだろうか?そうではないのだ。そこにあるのは完全に守られているという真の安全と平和であり。よろこびである。自分を防御するのを止めればあなたは神(の御心)とひとつになる。


7 気前の良さ・惜しみなく与えること

要するに「どんどんあげちゃう」ことである。では、真の意味での気前の良さ、惜しみなく与えるとはどういうことなのか?この特性はもっともわかりにくいだろうと「コース」は言っている。もちろん、この世的に考えてもケチよりは気前よく惜しみなく与えるのが良いに決まっている。しかし、お金であれモノであれ与えれば自分の手元からはそれだけ失われるのである。この世における気前の良さ・惜しみなさとは「私はいいの、あなたにあげるわ」であって、もちろん自分にとってどうでもいいものを相手に与えるのは単なる廃物処理なのだから「気前良く惜しみなく与える」ことにはならない。自分にとっても大切であるようなものを「私はいいの、あなたにあげる」と与えてしまえばそれは自分の手元からなくなる、これがこの世的あるいは物理的常識である。

ところが、今まで繰り返し教えられてきたように「与えれば受け取る」あるいは「与えればその分ますます増える」というのが真実なのである。言い換えれば「与えればそれだけますます増える」ようなものだけが真実なのであり、真に価値があるのだ。とすればそれは絶対に物質ではない。もちろんお金であれ何であれあらゆる物質は実在しないのであり象徴=シンボルに過ぎないと考えれば、これらを与えることによって愛や感謝や祝福を与えているわけであり、その結果愛や感謝や祝福はますます増えるのである。或いはそれらを象徴する物質さえますます増えていくかもしれないが、これは少なくとも「与えるのと同時に」ではない。

神から遣わされた教師が「気前よく惜しみなく与える」=どんどんあげちゃうのはそれを手放すためでなく、逆にそれを手元に留め尚且つ増やすためなのである。つまり、どんどんあげちゃうのは利他主義なのではなく「自分の利益のため」なのだ。もちろんこの自分とはエゴであるところのワタシではなくて神のひとり子としての、神においてあらゆるものと一つであるところの私である。そこに他者はない、ゆえに「利他的」ということもまたありえないのだ。

となると、彼らにとって価値があり重要なのは「与えればそれだけ自分においても増える」ようなものだけなのであり、それは言うまでもなく神の御心から生じ神の御心と一つであるようなものだけなのである。

あなたが誰かにお金やものをあげるとする。いや、税金や公共料金を払うのでも構わない。それを「あ〜ヤダヤダ、また出費だわ」と思ってやればそこには愛も感謝も祝福もない、ただ手元からお金やものが出て行っただけである。同じことをするのでも愛や感謝や祝福の気持ちでやればあなたは物質ではなく愛や感謝や祝福を与えたのであって、それらは即座にあなたにおいてますます増える。いわゆるスピリチュアルな願望実現の成功哲学などが説いているのはこのことなのである。但し、お金や物質は与えた瞬間には手元から消えるのであり全く同時に増えるわけではない。

一旦はなくしたように見えても実はより増えている、これは神の原理を本当に信頼していないとなかなかできないことだ。普通に考えても、気前よく惜しみなく与えることができるのはそれをやっても自分が困らない、それどころかより豊かになれると信じているからではないか。そういう揺るぎない信頼をマインドに植え付けるのは普通なかなか難しいことなのであって、だからこそ上述したようなスピリチュアル流願望実現法もなかなかうまくいかない人が多いのだと思う。

本当の意味で気前良く惜しみなく与える、これは何かを犠牲にすることでは断じてありえない。たとえ一見は気前よく多くのものを与えたとしてもそこに「それだけ失った、あ〜あ」という気持ちがあるならそれは本当の意味で気前良く惜しみなく与えたことにはならない。

神の御心そのものであるような愛や感謝やよろこびなどは決して尽きることがない、文字通り無尽蔵なのだ。それらは気前良く惜しみなく与えることによってますますしっかりあなたのものになり、しかも増えていく。



神から遣わされた教師が持つ特性について 8 9 10

8 辛抱強さ

基本的に「コース」は、救いに至る学びの道には苦しみなど一切不要だと教えてくれていて実際にその通りなのだが、何せ学習途上の身であればなかなか思うように進まないこともある。即座にもたらされるはずの奇跡や癒しが受け取れない、何も変わっていないじゃないか!と失望することもあるだろう。しかし、絶対にあきらめてはならないのである。

頑張ってもうまくいかないとガッカリしてつい落ち込んだり不安になったり、つまりエゴの誘惑に屈してしまいやすくなる。そこを「ぐっと我慢」というのは神から遣わされた教師のやることでは「ない」のだ。

彼らにとって救いは自明のことである。必ず為される(というか既に為されている)とわかっていることである。結果は明らかなのである。だから自分にハッキリわかる形で結果がもたらされるのを待つのは全然苦にならない。ぐっと我慢、なんかする必要もないわけだ。

まあ、「必ずこうなる」と言われても「じゃあ、いつなの?」とか「3年後って、そんなに待たなきゃならないんですかっ」となる人も少なくはないのだが、神に遣わされた教師ならさすがにそのあたりは既に超越しているのである。もしかしたらダメかもしれない、なんて疑いは抱かないのである。何故ならそれは神を疑うことと同じだからだ。

あらゆる現象が完璧なタイミングで起きている、それはたいていの場合後から振り返ってみてわかることなのだが、完全な信頼があればあれこれの経過の末に結果が目の前にあらわれるのを待つことなくはじめから「これは完璧なのだ」とわかるはずではないか。

過去に起きた(ように見える)あれこれでさえ、聖霊の眼で見直せばその本当の意味がわかる。どんなに悲惨に思えることでも、そこには必ず自分自身及びこの世界のためになる何かがあったのだとわかるようになる。と同時に自分自身が過去においてしてしまったあらゆる選択についても見直し、それらが間違ってはいなかったか自他を傷つけるものではなかったか検討したうえでゆるし浄化するのである。

どんなことにでも必ず自分自身や世界のためになる何かがある、これについては本当に自然にわかるまでは無理やり「意味づけ」などしないほうがよい。それこそ辛抱強く待つ、のである。その「何か」とは個々の現象を分析して出てくるようなものではなく、おそらくはただ一つのものなのではないか。究極的にはただ一つの意味しか存在しないはずなのであり、その事実がいつか本当に「わかる」のは確実なのだから信頼して安心していればよい、ということである。というわけで、神から遣わされた教師にとっての辛抱強さとは信頼と安心に満ちたものなのだ。


9 忠実さ

ここで扱われている忠実さとは「信仰の深さ・強さ」と言い換えても構わない。ただ、信仰というとどうしても偶像的な宗教と結びつけて考えられがちなので、ここでは敢えて忠実さという語を用いることにした。

神から遣わされた教師の務めをどこまでも忠実に果たそうとしているかどうか?神から遣わされた教師にとっては、人生のそして日常生活のあらゆる領域、あらゆる場面が全て等しく「教え学ぶ」実践の場になる。これは大したことないからまあいいや、とかこの人はダメだからいいや、これは大変すぎるから止めとこう、みたいに自分の都合で教えや学びの場を限定してしまえばそれだけ進歩も限定されてしまうことになる。いつでもどこでもどんな時でも忠実に自分の役割を果たすこと、しかもあらゆることについて全く同じ忠実さをもって臨むこと。これがどこまでできているか?

このようにできないのはやはり信頼の欠如のせいである。ある領域、ある問題については神の御心が及ばないと思ってしまっているわけだ。もし彼らが「あらゆる問題は結局ただ一つ=神から離れてバラバラになった、自分は神のひとり子でなくなったという思いこみ・・であり、従ってどんな問題についてもその答えはただ一つしかない」とわかっていたら、つまり神の御心を完全に信頼していたら何についても同じような姿勢を取れるはずなのだ。

ここに出てくる「神の御言葉」とは結局「神の御心」や「神の法則・原理」と同じものである。神が私たちと同じ言葉を使って何か言っている、というのではない。言葉は神であった、と聖書にもあるように、これは真理の別名である。あるいはもっと簡単に「救い」だと考えても良いと思う。神のみことば=御心はあらゆるものをあるべきように正しくしてくれる、この事実を本当に信頼していればいつでもどこでもどんな時でも何に対しても全く同じように神の御心あるいは聖霊に委ねることができる。真の忠実さとはそういうことである。そのつもりでいるんだけど、ではまだ不足なのであって、実際にそうしてみて実感すれば私たちはそれを身に着けたことになる。

いつでもどこでも一貫して同じようであり揺らがない。ならば正直でいられる。神の御心のままであることをいつでもどこでも実践していれば当然そこに恐怖の入る余地はないのでいつも喜びに満ちて優しいこころでいられる。問題はひとつ、答えもひとつ、そしてその答えは必ず与えられるとはっきり確信できているので寛容になれ辛抱強くいられる。神に遣わされた教師の特性はまず「信頼」がその基盤をなしているのだが、後のものはわざわざ分類するのも野暮なくらい重なり合っているのである。

真の意味での忠実さは神のみことばと神のひとり子に対して向けられるものだ、というのはもちろん「本当の自分に対して忠実に」と同じことなのである。本来の自己は神の御心と一つであるところの神のひとり子であり、そこには愛と喜びと平和だけがあり、神の御心によって完全に守られているのであり、従って如何なる恐怖も不安も疑いもない。そういう「自分」に対して忠実であれば当然の帰結として自分を守ろうなんて思いはなくなるのだし、これまた当然いつでも喜びに満ちているしかなくなる。

誰だって不確かなものに対して忠実ではいられない。そして忠実さとは何かしらそれが向けられるべき対象を必要とする。ゆえに、徹頭徹尾、真に忠実であろうと思ったらそれは絶対に確かなもののみに向けられるしかないのである。時空を超えて絶対普遍であり永遠なるものにのみ向けられるしかないのである。逆に言うと、もしあなたが真に忠実であろうとするなら必然的に「絶対普遍のもの」だけが残されることになる。揺らぐことのない忠実さを追求していれば最終的に「絶対普遍のもの」を見出すようになる。そうすればもう揺らぎようがなくなる。絶対普遍で最高の価値があるものを見出し、なおかつ自分がそれと一つであることに気付いてしまったら、わざわざ「忠実であろう」と頑張る必要などなくなる。


10 開かれたこころ

即ちマインドがオープンであること、真空状態みたいなものである。言い換えればエゴが消えた状態であり、そこにこそ聖霊が流れ込み本来の自己であるスピリットが現れるのだ。

エゴがあるとき私たちは神に対してまた聖霊に対してこころを閉ざしている。だから愛は流れ込まず、その結果として恐怖や罪悪感や怒りばかりが残されるのだ。従って心の平和はありえない。私たちがあーだこーだと判断し、その判断に基づいて知覚認識している時私たちはマインドを分断し閉ざしているのであり、(自分の中の)神のひとり子を締め出しているわけだ。心が開いていれば聖霊=神の代弁者が私たちに「あなたたちは穢れなき完全な神のひとり子だ」という正しい判断を下してくれるのである。

開かれたこころだけがゆるしを可能にする。ゆるしとは「過去におけるさまざまな間違った判断」を手放すことに他ならないからである。ゆるせないのは自分の間違った判断にこだわっているからだ。そこに自分を閉じ込めているからだ。

そういうわけで、心が開かれた人々はある意味で既にこの世を捨てている。もちろんいまだに世界は眼前にある。が、それは以前のものとは全く違っている。あらゆるものが全く新しい姿をもってあなたの前に現れるのだ。もはやあなたの世界にはいかなる脅威も恐怖も存在しなくなるからである。あらゆるものがキリスト=救い主に見えるようになる。

私たちの目標はゆるしを完全に達成することだ。私たちの努力が及ぶのはそこまでなのだが、それだけで十分以上、というかまあそれだけでも十分大変なことである。とにかくここまでくればあとはあたかも(この世的な喩えだが)「重力の法則」のごとく自動的に為されてしまうのである。

ここに挙げられた「特性」はどれも当人の決心と努力によって身に着けられるものである。愛や完全性、穢れのなさ、直接に永遠の真理を知る力などは本来誰にでも備わっているもの・・生来の属性であって、努力や決心によって得られるのものではない。これらが自分の中にあると気づき、自分の中にあらわれるのを妨げている「間違った思い込み」を外していくのが「コース」学習なのである。

「コース」に限らず、真の意味での学びとは全て「不要なもの、間違ったもの」を取り除いていく作業であり、それによって世界を変容させるものである。学びと教えはワンセットであることを考えれば、神から遣わされた教師は自ら学んでいることを実際にやって見せて教え、それによってますます学ぶのだ。即ち、ゆるしをもたらし世界を救済するのである。

第288回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 難易度

教えの難易度について

神に遣わされた教師は教えのレベルについて特に定める必要はない。乱暴に言えば「そんなこと予め決めなくてもその都度聖霊が教えてくれますよ」なのだろう。

教え=学びが行われるのは常に人との関係性においてであり、それは親子かもしれないしついさっき知り合ったばかりの人かもしれない。あるいは友人、仕事相手、医師やカウンセラーやヒーラー、文字通りの教師とクライアントや生徒、などなど何でもありなのである。誰もが教師にあるいは生徒になれる可能性を持っている。

教え=学びの関係が実際の生活のなかでどのように作られるかについてみてみよう。

まず第一に「出会いに偶然はない」のである。これはスピリチュアル方面では既に常識であり、むしろそこに「特別な関係」につながるような過剰な意味づけをしようとしている傾向さえあると思う。が、ここで言われているのは「どういう形であれ出会ったからにはそこに教え=学ぶ可能性、聖なる関係を築く可能性がある」ということだ。たとえそれがたった数分の縁だとしても、である。

偶然に見える出会い・・・うっかりぶつかったとかエレベーターの中に居合わせたとかたまたま帰り道が一緒になったとか、まあ下手すると「ロマンスに発展しそう」と思われてしまうかもしれないが、相手は老若男女誰だっていいわけなので誤解なさらぬよう。私たちが求めているのはロマンチックなソウルメイトではなく「救いについて教え学ぶ」関係、教師であり生徒なのである。うっかりぶつかられてもあなたは怒らなかった、エレベーターの中で知らない人と一緒になって微笑みを交わした、帰り道が一緒になった人と思いがけず楽しい話ができた、それだけでも十分なのだ。あなたは間違えなかった!お互いに気持ち良くいることができた。あなたは幸せな世界にいた、幸せな夢を見ていた。あなたは救いを得たのである。

その程度のことで!と言ってはならない。あなたが「解放をもたらそう」と思ってすごいセミナーに参加したとしても、エレベーターで知らない人と微笑み合ったときの「幸せな気持ち」を得られるかどうかわからないではないか。程度の差に惑わされてはいけない。それらは幻想なのである。難しい、あるいは特別なものほどありがたく見えるものだ。しかしどんなに勉強して修行しようが「心からホッとできる幸せな瞬間」がないんだったら全くの無意味である。

前にも書いたが、もちろんいきなり「全ては幻想よ!!」と説くのはダメだ。が、これは教えや学びのレベルという問題ではない。単にそういう用語に慣れているか否か、それだけのことなのだ。相手に通じなかったら、つまり相手が癒されて幸せな気分になるのでなかったら100万語を尽くしても意味がないのであり、それを「相手のレベルが低い」と言うことはできない。エゴまみれで苦しんでいる人に対して「全ては幻想、自分が作り出したもの、相手はあなたの投影です」と言って通じないのは相手のレベルが低いからではない。伝え方・・与え方や教え方を間違えただけである。

状況も読めずにやれ幻想だ、神のひとり子だとがなりたてるほうが余程レベルが低い。まあ、レベルは実在しないんだが。

その時々でもっともふさわしい言葉や行為がある。それは初級・中級・上級などというレベルの問題ではないのだ。聖霊の導きとか神の御心のままにと言うこともできるが、私はこれこそが「思いやり」だと言いたい。専門用語が通じれば自分は楽である。が、通じない人だってたくさんいるんだし、先に書いたように通じないからといってレベルが低いことにはならない。

思いやりがあれば「相手にわかるように」工夫して伝えるだろう。それはあなたの投影よと言いたいところを抑えて初めはただ微笑んで相手を肯定するだけかもしれないし、「大変ねえ」と認めてあげるだけかもしれない。それでマインドがオープンになればよいではないか。あるいは、「自分で考えろ!」と突き放すほうが良い時もあるだろう。どんな言葉、どんな行為が用いられるかはその時々にならないとわからない。が、それぞれがあがないと救いをもたらすための役割を果たしているのである。

エレベーターの中でにっこりするのはそれほど難しくないだろう。その一瞬だけニッコリしあえば後はもうその人とかかわる必要がないからだ。毎日のように顔を突き合わせてウンザリしている誰か、あなたをいつもイライラさせる身近な誰かに対してニッコリするほうがずっと難しいのではないか?そういう意味において、ある程度固定的なまたは近しい関係において教え学ぶのはより「難レベル」だと言える。程度はないと言いながら、にもかかわらずそこに難易度の違いみたいなものが出てきてしまうのはその関係が持続する時間の長さに違いがあるからだ。お互いの間に過去が持ち込まれやすいし、お互いに相手に期待し依存し投影の対象にしやすいからだ。

この「難度2」のレベルの人間関係は職場の人間関係や友人や師弟などなど「一生ついて回ることはないがある程度は続く」ものである。家族や身内も含まれる。ある程度かかわってその間に教え学んで、いずれ離れていく。家族や身内ならいわゆる「死別」の場合もある。正確に言えば「身体どうしが」離れるのであって、これは最初の「偶然に見えるちょっとした出会い」の場合も同じである。身体が離れても関係は終わらない。相手のことをずっと忘れないわ!というのでもなく、どんなものであれ一旦生じた関係は身体どうしが離れ離れになっても必ずいつか聖なるものになるのである。身体として再会するという意味ではないので注意していただきたい。

私たちは誰かとかかわっている間に自分が学べるだけのことをその人から学ぶ。自分に十分な用意ができていなければたくさんは学べない。

難度3のレベル。家族や身内であってもなくても、あまり多くはないが「一生続く教え=学ぶ関係」というものもある。生涯にわたって継続的に学びと教えの機会をお互い最大限に提供しあうわけだから相当「深いご縁なのね」だと思うのだが、別にそれだけ仲が良いとは限らない。それどころか生涯にわたって敵対関係にあるようなケースもあるらしい。それでも続いてしまうというのがすごい。

たいていの関係はどちらかがあまりに多くを学んでしまうとバランスが崩れて続かなくなるものだ。そしてより多く教え学べる他の人との関係が始まる。しかし、この難度3レベルにおいては教えと学びの機会が両者に対して絶妙のバランスを持って与えられている。その時々でもっとも教え学びたいと思う事柄が一致しており、更にそれぞれが与え受け取れるレベルがその時々で一致している。たいていはどこかで「ズレ」が生じるので、身体としての関係は「解散」になってしまうのだが、難度3の関係においてはそういうことがないのだ。

こういう関係にある当事者どうしは全然その自覚がないことが多いらしい。自覚はなくてもそれぞれが相手を「無限に機会を提供する学習パートナー」として選んでいる。しかし、いったんそれを自覚すればもう完璧なレッスンが目の前にあるとわかるのだ。

親子とか、何となく生涯連れ添ってしまった夫婦なんてこんな感じなのかもしれないな、と思わなくもないがただ連れ添っただけではダメなのだろう。

せっかく教え学ぼうと思っても挫折しそうになることはある。せっかく現れた教師=生徒との関係を生かせないこともある。が、難度3をやりおおせようと決心した人々は挫折しそうな教師にとっての救い主になる。教え学び続ける姿を実際に見せてくれるからだ。神に遣わされた教師には必ず助けが与えられるようになっているのである。


神に遣わされた教師が持つ特性について 1

彼らはパッと見には共通するところがなく、やっていることも一見全然関係ないものだったりする。育った環境も能力も個性もそれぞれ違う、ように見える。しかし、根底にある特性は共通しており、しかもそれらは神に遣わされた教師としての役割を果たすにつれてどんどん深まり強化される。それらは神に与えられた特別な天分のようにも思われるが、最終的にはみんなに与えられるものでもある。それはただ(この世の)時間の問題なのだ。神に遣わされた教師は教えつつ学ぶのだが、それでもやっぱり周囲の人々の学びを助け救いをもたらすという点においては一歩先んじている。簡単に言うと「聖なる瞬間を招き入れ聖なる関係を築く」ために必要な資質を、あるいは聖なる関係から生じる資質を一般よりも多く備えているのである。それも一時的に「多く見える」だけであって、誰でもその気になれば同じような特性を備えることはできるのだ。それが学ぶということなのでもある。とりあえず、神に遣わされた教師が持つ特性は以下の通り。


1 信頼

これが全ての基盤にある。これがなかったら教師はその役割を果たすことができない。

学ぶにつれて知覚認識は変化する。自分の中にある神の御心の力に気付くにつれて今まで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなり、奇跡だと思っていたことが当たり前になる。だからこそ神による教師たちはこの世に在っても信頼を失わない。この世はいわゆるこの世のオキテに支配されているところではなく、彼らの中の神の御心の力によって支配されているのだとわかっているからだ。それは彼ら自身が持つ力ではなく、彼らを通して働く神の力である。彼らはそれをこそ信頼するのであって、幻想の世界を維持するためのあれこれをもはや信じることはできなくなる。

「信頼の発達」

いくら神に遣わされた教師だからといって最初から盤石の信頼を抱いていたわけではない。それは次のような段階を経て発達していったのだ。

第一段階 初めに彼らは「解体の時期」を経験する。これが辛いものである必要などないのだが、たいていの場合はつらく苦しい経験になる。何か大切なものを失ったりして自分は価値のない存在なんじゃないか、人生には生きる価値などないんじゃないかと思ったりする。そのきっかけになる経験の程度は関係ない。単なる(といっては失礼だが)失恋であろうが、家族全員をいっぺんに失うのであろうが、当人にとってそれが今までの人生を見直し解体するきっかけになりさえすれば良いのである。いったい今まで私は何をしてきたのだろう、これから何を信じて生きていけばいいのだろうと、今までの自分の見方や価値観に疑問を持ち始める。この時期には環境の変化が伴う場合が多い。環境の変化そのものがきっかけになることもあれば、その経験がきっかけで環境を変えることもある。いずれにせよ、環境の変化は今までの自分を変えるのに役立つ。


第二段階 混乱の第一段階を経てあなたは「見直し整理して立て直す」段階に入る。この時期が少々厄介なのは、今まで大切だと思ってきた価値がもはや自分には不要なのだと認めるのはなかなか難しいことだからだ。新たな自分にとって価値があるものは何かを見極めて選び直す段階なのだが、ここではまだ「これは役に立つ、これはダメ」という判断=区別が為されていることに注意してほしい。つまりここで為される決定は最終的なものでも絶対的なものでもないのである。何故なら本当は「あらゆるもの、あらゆる状況が同じようにあなたの助けになる」はずなのであり、あなたが自分で判断して決めるべきではないからだ。ここで新たに価値を与えられたあれこれは依然として「この世を生きるためのもの」である場合が多いのだ。ある人と別れて別な人を見つけるとか、ある仕事を辞めて別の仕事を始める、それらは確かに大きな変化に違いない。が、それら新しいものの「価値」」とはやっぱりこの世のものなのだ。この段階はそこ止まりである。それ以上のことは喪失や犠牲が怖いのでまだできない。どれを選んだっていいけど結局どれだって同じなんだ、とまでは思えないのだ。


第三段階 価値を見直したあとは実際に「手放す時期」である。これを「大切なものを手放す、諦める」と解釈してしまうと大変な葛藤が生じるであろう。無理やり手放せと言われているわけではないのだ。どちらかというと、今までのこだわりが自然になくなって「あれがないとどうしてもダメ」はずだったことがそう思えなくなるような感じだと捉えてほしい。実際になくなってみても全然平気だったとわかれば今までの心配や恐れは何だったのだろうかと感じるだろう。価値がないものだからこそ手放せるのだし、手放せたということはそれに価値がないとわかったからだ。何かを失ったのではなく大きなものを与えられたのだとわかるだろう。真理のためには自分にとって最も大切なものを犠牲にしなくてはならないのかと思うと恐ろしいかもしれないが、価値があると信じつつ無理に手放してみたところで何にもならないのである。手放した後になってもその価値を信じていたらなおのことだ。あなたには犠牲と喪失の感覚だけが残るだろう。それでは意味がない。だから無理やり手放せと要求されることはありえない。とにかく、第二段階において「価値がない」と判断されたものがここで実際に手放されるのである。


第四段階 今までの自分に疑問を抱いて価値を見直して不要なものを手放して、さあとりあえず落ち着いた、ということでこれは「落ち着く時期」である。ここで神による教師はかなり安らいだ気持ちで休息することができる。そして今までの経験から学んだことが新たな信念として根付いてくるのだ。やりたくないことなんかやめてやりたいことをしなさい!なんてシンプルで容易いことなんだろう!これで全部わかったわ、なんて思ってここがゴールだと勘違いしてしまう人も多いのだが本当の学びはこれからなのであり、あなたはここでちょっと一息いれつつ準備をしているだけなのだ。今まではあなた一人で何とかやってこられた。しかし今後は自分一人の力だけでは無理、どうしても大いなる助けが必要になる。ともに歩む仲間が必要になる。この時期にそれを自分のところに引き寄せておくのである。


第五段階 またも「不安定な時期」が来る。あなたは自分が思っていたほど十分に学べていなかったことに気付く。これでもう何もかも安心だわ!なんてとんでもないことだったと認める羽目になる。今まで学んだことがもはや通用しなくなったように思え、再び価値観を見直す必要が生じてくる。今まで選んだことは何だかんだいってもこの世の価値観という範囲を出なかった。あくまで幻想としてのこの世で生きるにあたっての「良し悪し」が大事だったのであり「あれがよい、これはダメ」と選び直しただけだった。ものすごく大きな変化を成し遂げたつもりだったのが、実は同じ次元のなかで平行移動しただけだったのだ。結局全然変わってないじゃない!と気づいて愕然としたりする。でも、だったらどうすればいい?この段階ではまだ「犠牲」という考えが根強く残っているので「バンバン手放せ」とは思えないのだ。今までは「やる気があれば何でもできる」と思えていたものが挫折する。あれもこれも結局この世の価値に過ぎなかったのだとわかっても、だからといって喜んで手放そうとは思えない。それらに本当に「価値がない」という判断は下せない。ここにおいて初めてあなたは「良しあしを判断しない」ということを覚え、どんな状況にあっても自分が平和と喜びを得ることだけを求めるようになる。

もしかしてこの段階がもっとも大変かもしれない。おかしな言い方だが第一〜第二段階ではまだ「逃げ場」があったのだ。しかしここではもうそれは通用しない。全く次元の違うものを求めない限り救われない。どうしてもそうしなくてはならない!くらいに余程気を引き締めて覚悟してかからないとなかなかここを通過できない。


最終段階 これは文字通り「達成の時期」である。ここにおいてやっと学びが本当に根付いたと言える。あなたはいつでもどんな時でも落ち着いていられるようになった。それは今まで常に自分に正直に学び続けてきたことの結果である。正しい方向の考えがぶれることなく保て、思考システムが完全に転換した結果である。ここに至って初めて真の平和が得られる。この世は天国を映し出すものになり、今ここに天国が開けているのと同じ状態になる。ここまで来たら誰も後戻りすることはない。これ以上のものはないとわかっているからだ。

信頼とは、簡単に言えば「不安を手放す」ことである。これをしちゃったらすごく大変なことになるかもしれない、こんなことして本当に大丈夫かしらと思っていたら先には進めないのだ。神に遣わされた教師は上のような段階を踏んで少しずつ不安や恐怖を手放し、これでいいのだ、大丈夫なのだという信頼を深めていくのである。


神に遣わされた教師が持つ特性について 2 3 4

2 正直さ

神に遣わされた教師が持つ特性はどれも「信頼」がその基盤になっている。揺るぎない信頼さえ得られれば後のものはイヤでもついてくる。正直さもまた然りであって、どこかに不安を残した状態のまま愛や平和や喜びを教え示すことはできないのだ。

正直であるとは心にウソや偽りがない状態だ。この世の基準で考えてもその通りなのだが、ここでは「神に遣わされた教師」の特性として挙げられていることに留意したい。つまり、彼らの場合はあくまでも「聖霊の目的=救いや平和や癒しをもたらすこと=に従って生きている」のであり、その点において正直であるかどうかを問われているわけだ。つまり、たとえば「自分の感情に正直に」怒りをぶつけたり悲嘆にくれたり不安に喘いだり、ということは意味しない。また、たとえば苦しんでいる人に向かって「あなたは間違っているわよ!」と「事実を正直に」??告げることも意味しない。何故ならばこれらは聖霊でもあるところの「本来の自己」に対して正直ではないことだからだ。むしろ、「コース」の教えを学び実践しようと決心したからにはその決意に対して常に正直であることが求められる。

もちろん、誰だってエゴの誘惑に負けて怒りや恐れや不安などに襲われてしまうことがある。そうしたらまずそれを「正直に認めて」、つまり正当化したり誤魔化したりしようとせずに認めてから聖霊に委ねるのだ。正直さとは常にまず自分自身において問われるものである。

正直さとは一貫性のことでもある。心の状態と言動に一貫性があるか、言動には常に一貫性があるか、そういうことだ。自分自身が何かを憎み恐れつつ愛や平和を教え学ぶことはできない。形としては可能だが、このときあなたは文字通り「ウソをついて」いることになる。これは必ず罪悪感と更なる恐怖をもたらすだろう。戦闘的に平和を説いているような人々も珍しくはないのだが、見ただけでその矛盾は明らかである。

但し、神から遣わされた教師の言葉や行為そのもの・・形としてのそれらはやっぱりシンボルに過ぎないので、それが彼らにおいては完全に一貫したごまかしのないものであったとしても、ある人々からはそう見られないこともあり得る。言葉や行為の表面だけを歪んだ知覚機能によって認識されてしまうからだ。これはある程度仕方のないことなのだが、それぞれの状況でその都度もっともふさわしい表現=言動はやはりその都度聖霊によって自然に示されるはずである。自分自身が愛そのものである人は何をしてもしなくても全てが愛の行為になる、これは愛というものがその人において完全に一貫しているからであり、一貫しないものは愛ではないからだ。

一貫性があるということは自分の中にいかなる矛盾もない、いかなる対立的な考えも感情もないことだ。自分の中に矛盾や対立がなければそれらが外界に投影されることもない。ゆえに神から遣わされた教師はどんなものとも対立しないのである。

言うまでもないことだが、自分を誤魔化している時に心の平和はあり得ない。マインドの平和とは自分において完全に正直だからこそ得られるものだ。自分を偽り誤魔化していれば自分の中に矛盾が生まれ対立が生まれる。もっとも根源的な部分では「神のひとり子である自分」を否定し、その本来の自己を偽っていれば自分の中であれ他者に対してであれ争いは避けられない。

神から遣わされた教師が、たとえば「間違いに陥って苦しんでいる人」を見た場合いくらその人が間違ったことをわめいていても何ら「対立の感情」は抱かないのである。彼らを敵視して食ってかかる人々に対してさえもやはり「対立の感情」は抱かないのである。

神から遣わされた教師というのは何だかしょっちゅう困難にあっているようなイメージがあるかもしれないが、彼らにとっては「困難なことに取り組む」事態などないのだ。何故ならそこに絶対の信頼があるからであり、難易度は実在しないからだ。普通は困難を覚えた時点で「これはちょっと無理かも」と自信が揺らいだりするものだが、神から遣わされた教師にはそういうことがないのだ。愛や平和や救いをもたらす、という目的に一致した在り方に対して常に正直であれば、どうしたって自信が揺らぐわけにはいかないのだ。揺らいだりしたら本来の自己を偽ったことになる。ここで言われている完全な正直さとは言い換えれば心底から絶対的に確信しているという状態でもある。

神に遣わされた教師は自分にとって価値のあることがあらゆる人々に或いは世界にとっても、更に神の御心においても価値があるのだと知っている。神の御心と一つである彼らには無限の力が与えられているのだから、どんなことも必ずうまく行くのである。それが神の御心だからだ。


3 寛容さ

私たちはついつい判断を下したくなるものだが、判断とは本来聖霊にのみ正しく備わっている機能である。それを「個」としての自分がやってしまえば私たちは自分を偽ったことになる。わかりにくいかもしれないが、うんと乱暴に言えば身分を偽って証言しましたとか署名しました、みたいな感じだろうか。

聖霊の光によらず勝手に判断を下す。こうだ、と決めつける。その内容にかかわらずそれは「自分を、相手を神のひとり子ではないものだとする」ことに違いない。私たちは見誤るのである。今のこの自分にはわかりっこないようなことを無理やりわかろうとして間違えるのである。なぜここで無理やりわかろうとするのか?それは聖霊を或いは神の御心を信頼していないからである。信頼していれば安心して放っておけるはずではないか。信頼を手放したら学びも何もお終いなんである。判断してしまえば本来の自己に対して正直ではなくなってしまう。聖霊の目的に従って教え学ぶ自分に対して一貫性がなくなってしまう。

良しあしとは判断の結果に過ぎない。判断しなければ良いも悪いも何もない、あらゆるものを同じように受け入れることができる。一旦「ひどい目に遭った、イヤなことだ」とそれこそ「判断」したうえで「それでも受け入れよう」ではダメなのである。人についても同様だ。あなたが判断しなければあらゆる人が等しい存在になる。他者というものがいなくなる。判断したくなったら立ち止まって聖霊に委ねよう。判断してしまっても同じように聖霊に委ねてゆるし手放そう。


4 やさしさ

今までに何度も教えられてきたように、本来「神のひとり子」は傷つけたり傷つけられたりすることなど不可能なのだった。神から遣わされた教師についても同じである。聖霊の教えを実践しようと決意した者がわざわざ誰かを傷つけよう、危害を与えようとすることはまあありえないので、ここでは専ら「傷つけられる、危害を与えられる」側として考えてほしい。自分が相手を傷つけてやろうというのはもちろん、他者から自分が傷つけられた・危害を与えられたと思う=知覚認識するのは「相手を悪者にした」ということになる。要するに自分の中の罪悪感をゆるすどころか他者に投影してしまったわけだ。

そもそも、傷つけられた・危害を与えられたと知覚認識した時点であなたはそのように「判断」してしまったことにもなる。これは先の項で見たとおり本来の自己を偽った状態である。更に「ひどいことをされたんだから怒る。反撃する」なんて日にはもう愛も平和も救いもみんな吹っ飛んでしまって、愛や平和や救いを教え学ぶ身としては欺瞞以外の何ものでもなくなる。

この項の「やさしさ」とは、もっと普通の意味で「相手に教え示すには優しさが必要だ」と捉えてもよいと思う。エゴにまみれて苦しんでいる人に対して「エゴにまみれてるわよ!」と言ったり、結婚したがっている人に対して「特別な相手を求めるのは不幸の始まりだ」と言ったりするのは普通やさしさではないからだ。

私たちは、というか神から遣わされた教師は何かを奪われたり困難な目にあったりしてその試練を乗り越えて強くなる、などと考えられがちだが、それらの経験を「傷つけられひどい目に遭った」ことだと捉えている限り学びも救いも何もありえないのだ。そういう認識の仕方というか判断はむしろ学びを困難にしてしまう。後から振り返って「あの時は苦しかったけど」と思うのであってもそれは当時の自分がそうとしか捉えられなかっただけであり、落ち着いて考えれば別に苦しまなくても良かったのだとわかるはずだ。神(の御心)や聖霊のレッスンは愛と優しさに満ちたものであるのに私たちは一歩間違うとそれが「辛く厳しく犠牲を伴うもの」だと思ってしまう。そんなものならやりたくないわ、と考えたくもなる。だから「危害を与えられる」という考えは学びの邪魔になるのだ。神に遣わされた教師自らが「救いに至るための学びは辛く厳しいものですよ」と思っていたら(それは間違いであって自己欺瞞なのだが!)誰もついてきてくれないだろう。

神に遣わされた教師は徹頭徹尾やさしいのである。あまい、のではない。優しさの中には強さがあり、その強さがあれば救いをもたらすという役割をより果たしやすくなるのだ。

わざわざ地獄の業火で焼かれない限り救われないのだ、と考えるのと「救いはあなたに何の害も及ぼしませんよ」というのとどちらを選ぶだろうか?やさしさのある神の教師はこの点を教え、実際にやって見せるのである。あの人って立派な人だけど苦労ばっかりしてるのよね、辛い目にばっかり遭っているのよね、立派だとは思うけど私にはちょっとできないわ。あの人は特別なのよ、私には無理だわ。このままでいいわ。こんなふうに思われるより、「幸せや平和になるのってこんなに簡単だったのか」と教え実際にやって見せるほうが良いではないか。救われるためにはとんでもない目に遭わなければならないと思ったら救い主としての役割なんて放棄したくなるに決まっている。

神から遣わされた教師のもつ優しさは強さであり、それは愛が持つ無限の強さでもある。もちろんそれは神の御心そのものでもある。邪悪な思いや感情は神の御心ではないことがわかっていれば、神の御心のままにいようと決めた教師にとってそれらを選択するのは一貫性を欠く不正直な行為になる。彼らの思いは神とともにあり、神の御心そのものとなる。

第287回 「奇跡のコース(教師用マニュアル篇)」 ご紹介

教師用マニュアルのご紹介

「奇跡のコース」のテキスト篇を読了しワークブックを完了すると「教師」に認定されるらしい。これは別に「奇跡のコースを教えてもいいですよ」という意味ではなく、あなたがこれからも学びを続けつつ周囲の人々にそれを教え示す役割をも担ったということを明確にするものである。「コース」は「神の教師」つまり「神から遣わされた教師」という呼称を用いているのだが、これまた宣教師とか伝道師という意味ではない。ここで言われている「教師」とは職業を意味するものではなく、ただ心構えとか姿勢をハッキリさせるものだと考えていただきたい。言うまでもないことだが「教師=エライ、優れている」という意味では決してない。どちらかというと「これからはもっと自覚と自負を持ってしっかりしないといけませんよ」みたいなものである。

教師用マニュアルはワークブックの後に置かれているのだが、いつ読んでも構わないと書いてあるのでワークブックに先だってご紹介することにした。何故ならこの教師用マニュアルは非常に面白く、しかも役に立つものだからだ。テキストを読みながら多くの人が疑問に思っただろうというテーマをいくつか扱ってくれているので、「コース」全体を学ぶ上でも助けになる。内容としてはテキスト篇の補足みたいな感じだが、一応テキスト篇を読了し「コース」の教えを日常生活で実践している人、実践することによってそれを周囲に教え示そうとしている人を対象にして書かれている。ゆえに、テキスト篇よりずっと具体的に「こういう時はこうしなさい」「こういう時にこうしてはならない」みたいな書き方もしてくれていて本当に役に立つ。

このブログではテキスト篇と同様、内容を紹介しつつ碧海ユリカが解説を加えるという形を取っている。原書を読まずにこのブログだけをお読みになっても本質的な部分は十分に理解されるようにした。

全部で29章、順番に紹介・解説していきます!お役に立てていただければ嬉しい限りです。


教師用マニュアル 序文

初めにお断りしておくが「コース」を教える先生・教師になるとは「コース」学習をその目的に沿って実践するという自負と自覚を持って日々生きるということであり、「コース」のセミナーやワークショップをやるなどという意味では全くない。別にやっても構わないが「コース」における教師の概念はそういうものではないのだ。

普通は「教師」というと英語教師であれピアノ教師であれ「その特別な領域において知識や経験や技術に優った人」が「そうでない人」を教えるのであって、教師と生徒は全く別々のものである。まともな感性を持った人なら「教えることによって自分もまた学んでいる」のを日々実感しているはずなのだが、そうでなくてもこの世では教師になることができてしまう。そして、教えたり学んだりするのは授業の時間だけであって、それ以外の時間は全然別な自分として過ごすこともできてしまう。

「コース」の教師とは24時間フルタイムの任務なのである。眠っている時でさえそれは続いている。もちろん教えることは学ぶことと全く同じだという認識の上に立っているのである。目の前に生徒がいようがいまいが同じなのだ。どんな時でさえ、たった一人でいるときであっても彼(女)は教え学んでいる。何故なら教えるとは第一義的に「自分自身に対して」為されるものだからだ。そして与えることは受け取ることでもあるからだ。

教えるとは「実際にやって見せる」ことである。「これが正しい現実ですよ」と自分が信じているものがそのまま実演される。「コース」教師と一般の教師との最も大きな違いがここにある。

教えとは言葉によってのみなされるものではない。もちろん言葉を用いることそれじたいには何の問題もないのだが、私たちは「心にもないこと」を言葉にして口にすることもできてしまう。わかってもいないことをさもわかったように、或いは自分がわかっていないという自覚さえなく相手に話すこともできてしまう。たとえば、自分自身は恐怖や不安や憎しみに駆られながら愛や癒しについて語り「教える」ことだってできてしまうのだ。これは明らかに欺瞞なのだがそんな人も実際に少なくないと思う。

これは「自分が本当には信じていないことを教えている」のであり、乱暴に言えばウソをついているのである。あなたは「ウソをついている」のを相手にやって見せ、それによって自分自身もますますそれを身に着けてしまうのである。通常の教えの現場だけを想像しないでいただきたい。人間関係の中で「理解を深めたい」「相手に学んでほしい」と言いつつ結局は相手の罪悪感を煽っているのであれば、やっぱりあなたは「ウソをついている」「誤魔化している」のであり、それを相手に教え自分も身に着けてしまうのだ。

いつだってあなたが実際にやって見せて=教えているのは「自分の在り方」なのだ。「コース」は「これが自分だ、とあなたが信じているものを教える」と言っているが、「在り方」と言ってしまって差し支えないと思う。

本当に愛や平和や喜びを「教え」ようと思ったら、まず自分自身がそう在らなくてはならないのだ。「コース」においては、自分が最も学びたい・身に着けたいと思うことだけしか教えられないのである。

何であれ、与える時には誰か他の人に与えられる前にまず自分自身に与えられる、そういうふうになっている。だからこそあなたは教えることによって学べるのである。そうしているうちに私たちの思考システムがひっくり返ってくるのである。

たとえば、すごく苦しんでいる人を見て「ああ苦しんでいる、気の毒に(あるいはいい気味だ?)」と思うならあなたは「苦しみというものが現実にある」と学んでしまったのだ。苦しんでいるその人はあなたにそれを教えたのだ。その前に自分が「苦しみとは現実だ」と信じた=自分自身に教えてしまった、のである。本人が自分の苦しみをあなたに見せようとしたわけではなくても、もしかすると「うまく隠そうとした」のかもしれなくても、である。

一方で、たとえば何らかの「不幸」に見舞われた人がいて、その人自身は全然苦しんでいなくて平和なマインドでいたとしても、あなたが勝手に「ああ苦しんでいるんだ」と見てしまうこともある。自分の基準で判断してしまっているわけだが、その時あなたはまず自分自身に「不幸、苦しみ」という現実を教え同時にそれをますます学んでしまったことになる。十字架上のキリストを見た人々がこれだった。彼らは教えも学びも取り逃がしたのである。

何であれ、教えるときには自分に対する不信感があるとうまくいかない。こんなこと教えてていいの?と思いつつ教えるというのはかなり苦しいに違いない。私はこれを本当に信じているか?心から誠意を持ってやっているか?自分自身がその状態になれているか?それを常にチェックしなくてはならない。勉強は楽しいよと言いながら実は自分がそう思っていない、というようではダメなのだ。といって卑しくも教師たるもの「勉強なんて楽しくないですよ」と教えるわけにもいかないではないか!自分に対する不信感を抱いたまま教えるなら、それは上述したように「自己不信を抱いている」という在り方を実際にやって見せたことになるのだ。まともな感性を持っている教師なら誰でも「教師としての自分の在り方はこれでいいのか」と常に自分に問うているだろうが、「コース」教師の場合はその問が自分の在り方全体に及ぶのだ。

「コース」の教師になるとは24時間フルタイム営業の「在りかた」の問題なので、それをしつつ普通の意味で教える仕事をすることももちろん大いに可能なのである。むしろ、「コース」教師であるという自覚と自負を持ちそれを自分の基盤にして英語やピアノやお料理を教えるなら、その授業の場は奇跡や癒しの機会にもなるだろう。

今一度、教えるとは「いまの自分の在り方がそのまま出てしまうこと」なのである。本当は苦しいけど我慢してやってるの!というならまさにその「在りかた」が、自分がオープンであればその在り方が実際にやって見せられている。

自覚の有無にかかわらず、自分を誤魔化して生きているとそれは自分自身に対する教えと学びになってますます欺瞞が強化され、ますます本来の自己から乖離していくのだ。

即ち、この世界やこの身体が「現実のものだ」と信じているならあなたはそれを日々教え学んでいることになる。それが現実であることのさまざまな証を自分も見るし人にも見せる。こうして私たちは「この世のオキテ」に従って生まれて生きて苦しんで死ぬのが当たり前だとますます信じるに至ったのである。

そういう世界に遣わされたのが「コースの教師」である。彼らはそこかしこで普通に生きていて普通に仕事をしたり家事をしたりしているように見えるが、実は世界を変え救いをもたらすような素晴らしいことを教え示しているのだ。「コース」が私たちに求めているのはそういうことである。聖書にある「一粒の辛子種」のようなものではないだろうか。

「コース」学習を完璧にマスターしていなくても「コース」教師として生きていくことはできる。というより、完璧にマスターしていないからこそ学ぶのであって、学ぶために教えるのだ。もし完璧にマスターしていたらもはや学ぶ必要はないのだから教える必要も消えてしまう。そうなったら私たちはもう「身体としては」何もする必要がなくなる。それまでは教え学ぶ日々が続く。常に今ここで「完璧であること」を目指し努力するのである。

では、「コース」教師とは何ものであり、どのように選ばれ、何をするのか?どうやって世界を救い自分自身を救うことができるのか?


神から遣わされた教師とは誰のことか?

「神から遣わされ、神のために奉仕する教師」とは一言でいえば「神において一つであることを選んだ人たち」である。身体に規定された個人ではなく、バラバラの魂でもなく、神のひとり子であることを選んだ者である。たとえ未だ神の実在を本当に信じられなくても、とにかくそうであろうと決めればよい。つまり「神のひとり子として生きる」決意と覚悟を固めた者だとも言える。

少なくとも彼らには与えることと受け取ることが同じなのだと認識できた経験があり、その意味において自分にとって良いことは他のあらゆる人たちにとっても良いのだとわかっている。

神から遣わされた教師たちは世界のあちこちにいて人種も宗教も一切関係がない。ここで言われている「神」とは別にキリスト教の神のことではないからだ。そんな限定的な神のことをいっているのではない、というかそもそも限定的なら神ではない。

彼らは何かしら普遍的なものに呼ばれそれに応えたのである。その普遍的な求めに応え、それぞれの場所でそれぞれの人生の中でその普遍的な教えを実践するのが神に遣わされた教師である。その呼び声は普遍的なので時空を超えて常に今ここにあるものだ。聞こえていてもそれに気づかず取り逃す人がいる一方で応える人も常に少しはいたのだし、今もいる。何度も呼ばれてやっと気づく人もいるだろう。それどころか、放っておいたら気づくまでに何回も何十回も生まれ変わらなくてはならない人だっているだろう。学びや救いのためにかかる時間を短縮してあげるのが神に遣わされた教師の役目なのである。もちろん彼ら自身の学びや救いにかかる時間も同じように短縮される。

彼らはそのマインドに灯された小さな光を頼りに働くのだが、その小さな光は実は神の御心の光なので無限のパワーを持っている。ゆえに、どんなに小さく見えてもその働きはこの世の数字に換算すると1000年もの時間を短縮する力を秘めているのだ。

神に遣わされた教師は何かの組織に属しているわけではなく、またそんな必要もない。遠く時空を隔たっていても常に「神においてひとつ」であればそれだけで十分以上なのである。実際には上述したようにそれぞれの場所でそれぞれの人生においてそれぞれの機会を用いて教え学ぶことになる。身体として何をしているか、それもまた一切関係ないのである。神の教師になるんだ!だったら今の仕事を辞めてヒーラーにならなきゃ!なんて考える必要などないのだ。身体としてやっているあれこれの根底あるいは向こう側にある本質的な教え、これに普遍性があることだけが重要なのだ。

その本質的な教えの中心テーマとは「神のひとり子には罪も穢れもなく、その穢れなさの中にこそ救いがあるのだ」というものである。これは如何ようにも教えられる。言葉や行為によって、あるいはそれらによらず、どこでもどんな時でも自分がそういう在り方をしてさえいれば自然に教えられる。わざわざ「さあ、教えてあげますよ」というのとは違うのだ。

その呼び声に応えた瞬間、その人は生まれ変わる。今までのあなたは死んだ。そこまで自覚していなくてもそういうことになる。その直前まであなたは犯罪者だったかもしれないし、みんなにバカにされていたかもしれない。しかし、そんなことはもう全然関係ないのである。それらは全て「身体としてやっていたあれこれ」であって普遍的本質には何ら関係がないからだ。呼び声に応えた瞬間、あなたは一人の救い主なのだ。

普遍的な教えを世にもたらすやり方にもいろいろあって、たとえば仏教には仏教の修行や奉仕や教育の方法がある。しかし、やり方は千差万別でも目指すべきところはただ一つ「早く救いがもたらされるようにする」ことだ。あと何回生まれ変わったら救われますよ、と言われてもウンザリしてしまうのではないか?「来む世もかくや苦しかるべき」では頑張る気もなくなってしまうのではないか?だったら今生はどうでもいいや、と投げやりになってしまうのではないか?何でもそうだが「すごく時間がかかって苦労する」と思うとやる気がなくなるものである。だからこそ多くの人が「救いや解放なんか無理よ」と諦めてきたのだ。とんでもない「犠牲」を払わないと救われないなら今のままでいいや、と思ってきたのだ。

しかし、ここには全く別のやり方・・つまり時間もお金もかからず特別な修行も必要なく誰でもやろうと思えば日常生活の中で普通にできてしまうやり方があるとしたらどうだろう?それを学びつつ教えるのが「神に遣わされた教師」であり、とりわけ「コースの教師」なのである。

救いは神の御心であり、神の御心は普遍であって時空を超えている。時間は一切関係ない。ならばそれが今ここで為されたとしても何ら不思議はないのではないか?

変な話「いくら時間がかかっても構わない!頑張るぞ」と本気で覚悟を決めてしまえばあっと言う間にできてしまったりすることもある。が、これはたいていの人には無理な相談なのだ。

神に遣わされた教師、「コース」の教師たるもの「時間は関係ない、そのつもりになれば今ここで癒しも救いも為されるのだ、何故ならそれが神の御心だからだ」ということを肝に銘じておくべきである。それらは時を超えてなされるのであり、それらが為されるときには「時間」が消えている。神に遣わされた教師はこのことを示す任務を持っているのだ。


誰が彼らの生徒なのか?

今まで見てきたように、私たちは教師であると同時に生徒でもある。普遍的な真理や救いについて学ぼう!と決意したその時から、出会うあらゆる人が・・・実際にかかわりを持っているかどうかにかかわらず・・あなたにとって教師になり同時にあなたには彼らに教える機会が与えられるのだ。

私たちはその時々の学びのためにもっともふさわしい人に出会い、もっともふさわしい人を選ぶようにできている。一般論としてはたとえそれが「あなたに面倒ばかりかける大変な人」のように見えても、あなたにとっては学びのために必要な相手だったのだと言うこともできる。しかしこれだけでは時間がかかり過ぎる!一緒になって間違いに陥ってしまう危険もある。自覚と自負を持った「神による教師」「コースの教師」を選べば学びはもっとずっと楽に進むはずである。

その場合であっても「コース」教師であるあなたから学ぼうとする生徒たちはみな、他の誰かよりもあなたから学ぶほうがわかりやすいからあなたを選んだのだ。選んだという自覚はなくても何らかのきっかけであなたと引き合い縁ができたのならそれは選んだのと同じことである。10年前や3年前には絶対に縁ができなかったような人々と出会って大きな影響を与え合った、というような例は珍しくない。

そして、教師が「是非あの人(たちに)教えたい」と思って生徒を選ぶのはちょっと無理なのである。そう思うのは自由だが、それに囚われてはならないのだ。こういうことはある意味「ご縁」なのであって、自分自身の(エゴの)思いでどうこうできるものではないからだ。その時々でもっとも必要な人々とお互いに引き寄せあうのだと考えてほしい。この世には「時間」というものがある。その時間という観点からすると「教え学びあう準備がまだできていない」人々も必ずいるわけで、そういう人々に無理やり教えることはできないのだ。教えと学びは相互作用なので、教える側が自分の役割を果たすためには学ぶ側にそれなりの準備ができていないとならない。広い意味では「ただ在る」だけで教え示していることになるわけだったが、それが文字通りの意味での「教え」に昇華するためには受け取る側のマインドがそれなりに開かれていないとならないのだ。

学びたいと言いつつもあれこれの悩みでグチャグチャになっている人に向かって「全ては幻だ!あなたは神の子だ!」と説いても全く意味をなさないだろう。やはりそこは段階を踏んで「時間をかけて」ということになるわけだが、そして後で振り返って「あの真っ暗闇からここに至るまで3年かかったなあ」とか思ったりもするわけだが、それはあくまでわざわざ「この世の時間に換算すれば」の話なのである。教え学び気づく、そして間違いが正されるというそのことじたいはこの世の時間の外にあるのだ。そこではこの世の時間が意味をなさないのだ。

それこそこの世の時間軸に即して(つまり幻想の中で)考えれば、私たちが創造されたのも神から離れてバラバラという間違いを犯して世界を作り出したのも「太古の昔」ということになる。が、それは常に今ここで起こっているのである。常に今ここで私たちは「(幻である)この世界の住人か神のひとり子か」という選択をし続けている。この世の住人であることを選べばそれに付随して私たちには「過去」ができ、歴史ができる。にもかかわらず私たちはどこまでいっても神のひとり子であっって、そうでなくなることはありえない。ただそれを忘れてしまうだけである。既に知っていること、学んだこと、わかっていることを私たちは忘れているので、それが今改めて目の前に示されると何だか全く新しい、とても新鮮な考えのように感じてしまうのだ。新鮮なのはまあ当然であって、真理とは常にもっとも新鮮でもっとも古いものなのである。

とにかく、私たちがとんだ勘違いをして「神から離れた」と思い込んでしまったその瞬間に私たちは「やっぱり神の御心のままでした」という救いを得てしまっているのだ。太古の昔に人間は神から離れ、ずっと先の未来にゆるしと救いを得て神のもとに戻る、というのはこの世の幻想に過ぎない。時間そのものが幻想なのだ。間違いが正されあがないを得るのは一見「3年前のあの日」だったり「来年のこの日」だったりするように思えても、常に「今ここ」なのだ。私たちは毎瞬「幻想か現実」のどちらかを選んでいるのだった。ついさっきまでずーっと間違いばかりを選んできたものが、今また間違いを選んだ、が今度はすぐに正された。正してくれるものは常に今ここにあったのだ。それをあなたは初めて受け取ることができた。これを繰り返しているうちに、救いとは自分自身の選択に他ならないのだとわかってくる。それが「選択」であるといつ気づくか、あなたはいつ選び直すのか、それはあなたの自由なのだ。

「コース」学習は「いつ始めても良い」ことになっているが、その一方で「自分勝手なやり方でやってはいけない、初めから順番通り飛ばさずに最後までやらなくてはならない」ともハッキリ言われている。他のやり方で目覚めることだって可能なわけだが、「コース」をやると決めたからには「コース」のやり方に従わなくてはならない。そして、ただ「コース」を読み始めただけではまだ本当の学びにはなっていないのだ。その教えを「本気で受け入れるか」どうか、それもまた自分が決めるしかないのである。受け入れればそれはあなたの身につく。するとあなたは「ああ、本当はこれが当たり前だったんだ」とわかってくるようになる。

私たちが思い出すこともできないような太古の昔のある瞬間、私たちはその瞬間を何万年もの時間をかけて多くの身体として何度も何度も繰り返し生きてきた。たった一瞬の記憶が手を換え品を変えて常に「いま」として再生されているのだ。はるか昔のそのある瞬間に私たちは救われることをも選んだはずなのだ。そして自分が救い救われるために教え学ぶべき相手をもそこで選んだはずなのだ。これを「過去生での約束」みたいな感じでとらえるのは「コース」の意図することではないのだろうが、救い救われることが神の御心として必定の「約束」なのであれば、それをもたらすべき相手もまた「必然の存在」だと考えるのが妥当だろう。神の御心はいつどこでもあらゆるものの中で同じように働いているのだが、この世の私たちからすると「時間をかけて取り計らったこと」のように見えるのだ。

言うまでもないことだが、神に遣わされた教師と生徒との関係は聖なる目的を共にする「聖なる関係」であって、この世の「特別な関係」ではないし何らの拘束もなく固定したものでもない。その都度、それがほんの短い時間に過ぎなくても救いや癒しを教え学ぶという目的をともにしているどうしがそれぞれの役割を果たすのだ。この世の時間にすればただすれ違っただけのような相手であってもお互いに「学び教える」姿勢と自覚があれば、それは太古の昔に約束された必然の存在だったのだ。

聖なる目的を持つところには必ず聖霊の助けがある。聖霊の力を受け入れれば受け入れるほど「与えることと受け取ること」が同じものとして同時になされるようになり、お互いの間にある(ように見えた)あらゆる差異は消えてなくなる。相手が男だろうが女だろうが何だろうが、お互いの宗教や政治信条がどうだろうが全く関係ない。そのような「この世のあれこれ、お互いを分け隔てるあれこれ」はそこには一切ないのである。

「コース」の教えを学び実践した者は(それが完璧とは言えなくても)神に遣わされた教師になる。さあ、今度は教えるぞ!と思って立場を変える、という意味ではなく、本当に学んだらイヤでも「実際にやって見せる」ようになるからである。より学び身に着けるためには「実際にやって見せる」しかないからである。そして、与えることは受け取ることだとわかるからである。あなたが与えればあなた自身も受け取り、誰かがあなたに与えたものをあなたが受けとれば、あなただけでなくその人自身もまた受け取るのだ。それこそが「教える」ことなのである。

第286回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 254・255

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 254

第31章 その9

これも普通の常識で考えるとおかしく聞こえるかもしれないが、自分自身をゆるし救える人はあらゆる人を救えるのであり、目の前の誰かをゆるし救える人はあらゆる人を救っているのである。「コース」の論理に即して考えればどうしてもそうなる。ゆるしや救いがもたらされているところにおいては「あらゆるものが神において一つ」になってしまっているからである。

出会う人全て、というのは文字通り「全て」なのであって、それはあなたがテレビで見かけるだけの人かもしれないし、道ですれ違っただけの見知らぬ人かもしれない。それどころか過去生で会ったきり今生では出会っていない人や、まだ見たこともない人や生まれてもいない人など、とにかく「出会う人全て」があなたを救う聖なる存在としてあなたの前に現れ(てい)るのである。ゆるしや癒しは存在するもの全てに及ぶのだ。例外はない!

当たり前のことだが、自分自身は地獄に留まりながらひとを救うなんてことはできない相談だ。救うことも救われることもできない、地獄にいるとはつまりそういうことだ。しかし、ありがたいことにあなたは自分の選択ひとつで!今ここで瞬時に!地獄から抜け出せるのである。もう何でもいいから感謝と平和でマインドを満たし、一瞬でも深い安心感に浸れればあなたはもう地獄にはいない。

誰かを聖なるもの=聖霊だと見ているとき、あなたは聖なる目で見ているのである。でなければ相手を聖霊と見ることはできないからだ。誰かの中に聖霊を見ているあなたも聖霊になっている。そして両方が同時にゆるされ救われている。あなたのマインドが罪も穢れもないものなら、罪や穢れはあなたの目に映らない。エゴであれ何であれ私たち(のマインド)は「見たいものだけを見る」ようにできているからだ。視界に何が映るか、は知覚認識に先立ってマインドの中で決められてしまっているからだ。何を見ても素晴らしくありがたく見える!何を見ても救い主に見える!みたいな感じだと思っていただいても構わない。普通に考えればとんでもなく悲惨な光景も罪悪感や恐怖なしに見れば、あるいは「このワタシ」なるものを外して見れば全く違った姿に映るものなのだ。感謝、畏敬、神聖さ、そのようなものがありのままに映されるのではないか。

ところが、せっかく「ありのままに映し出される」光景が見えても次の瞬間には地獄に逆戻りしちゃったりするのである。ひどいことが起きているのに焦ったり不安になったり悲しんだり苦しんだりしないのはおかしいんじゃないか、とか思ってしまうからなのだろう。これまたエゴの誘惑なんである!せっかく「本来の自己」が出てきたというのにあなたはまた「神から離れてバラバラになった無力なワタシ」になりたいと思ってしまったのだ。なりたいと思った、そうなんです。これは自分自身がそう望んで選ばない限りそうならないものなのだ。あなた以外の誰も、何もあなたに代わってその選択をするものはいないのだ。

このあたりの「誘惑」は結構しぶとく強力である。特に「望んで決めたはずなのに奇跡がもたらされていない」ように見える時などは要注意だ。やっぱりダメなんだ、とか思ってすぐ逆戻りしてしまう(このあたりについてはテキスト篇終了後に掲載予定の「教師用マニュアル」で詳しく解説されている)。

エゴの誘惑はいろいろな形を取って現れるが、結局どれも「神のひとり子でいたくない」何か別のものになりたいという(ほんとうには実現不可能な)願望であることには変わりない。何らかの邪悪な考えや感情が自分に向けられようが他者に向けられようが同じことなのだ。何かについて「イヤだ!」と思うのは「コース」に言わせると「憎しみを持って見る」のと同じなのだ。愛を持って見るか、憎しみを持って見るか。もちろん、憎しみは恐怖や罪悪感と置き換え可能である。それらと自分が一体化するときには、一体化とはいえ私たちは分離を強化していることになる。神から、そして神のひとり子であることからますます離れてしまうのだ。

とにかく、誘惑とは「本来の自分とは別のものになりたい」「神から離れ、苦しんで死すべき運命の何かになりたい」という馬鹿げた願望であり、あなた自身の願望に過ぎないのだ。これをくれぐれも忘れないようにしたい。でないと、あたかもあなた以外の強力な何かが無理やりあなたを誘惑して地獄に引きずり込んでいるなどと考えてしまう危険が生じる。そういうことはないんです。選択肢はいつものようにただ2つだけ、天国か地獄か、聖霊かエゴか、愛か恐怖か、間違いか真実か。この2つだけである。

救い主のヴィジョン・・無垢な目でありのままの姿を見る、つまり「聖霊として見る」とは言い換えれば「今ここにあって今ここだけを見る」ことでもある。そこには過去の記憶や情報が一切介在しないのだ。あなたの目の前にいる誰かは今初めて出会った未知の存在なのである。どういう人なのかさっぱりわからない、判断できない、私は知らない、とこれはエゴ的に見れば恐怖や不安につながるのだろうが、聖霊に委ねていれば「ここにあるこれは何なのだろう」に対する答えは常に愛と平和と感謝しかないのである。こうして私たちは過去の一切から解放され浄化されるのだ。まあ、この世的=普通に考えても先入観や前例に惑わされないほうが的確な判断ができるものだが、ここで言われているのはもちろんそれ以上のことなのであって、何ものにもとらわれずただ聖霊に委ねて「これは何?」と尋ねていればそこにはキリストの顔が現れ、尋ねたあなたのほうもまた自分の中のキリストが目覚めるようになる。誰かを聖霊だと見ればその時は自分も聖霊になっている、それと全く同じことである。

私たちは「世の光」なのである。世を照らすために神から遣わされた光なのである。その光を覆い隠してはならないのだ。それでは自分の役割を果たせず、結局のところ自分自身が一番苦しむ羽目になるだけだ。あらゆる人が救い主である。しかし、実際にゆるしや癒しなどによって救いをもたらさない限りそれは救い主になっていないことになる。どんな天分に恵まれていてもそれを一切表に出さず用いもしないような人を私たちは天才とは呼ばないし、そもそもその存在すら認識できない、それと同じである。ゆるしや癒しがなされて初めて救い主は救い主として顕現できるのだ。それが私たちひとりひとりに与えられた役割であり使命なのだ。神のひとり子を解放する、これが私たちひとりひとりのマインドにおいてなされるべきことなのであり、神の御心でもあるのだ。

あらゆる「エゴの誘惑」は私たちに教えているのは、「死すべき身体として生まれ、身体に支配されて限界の中で生きる」ということである。誰も身体という限界を超えることができない。でも「超えたい」という願望は常にあって、それが科学技術の進歩をもたらしてきたのだろう。が、たとえば電気が止まってしまえば全部パア、になったりすることを考えれば結局は一人のひとが自力でできることにはどうしたって限界がある。何がどれほど進歩しようが人間である以上最後には死ぬ、という事実にも変わりがない。

そこまで考えなくても、エゴの誘惑はどれも何らかの限界を自分に課しているものである。あれができない、これがない、得られないなどと思うから苦しむのではないか。そう思った時点で既に誘惑に負けているのだ。だから今一度選びましょう、あなたは世の救い主でありたいのか、それともみんなを道連れにして地獄に留まっていたいのか?キリストにそう聞かれたらどうしますか?キリストの来臨は将来のいつかに起きることではなく、キリストは既にここにいてあなたにこう問うているのである。

まあ、ここまで「コース」をお読みになった方なら「地獄に留まりたいです」とは言わないだろうが、救い主になんてとてもじゃないけどなれないわと思う人もいるかもしれない。しかし、安心していただきたい。救い主であるのは「身体としてのこのワタシ」なのではなく、あなたの中のキリストなのである。或いは、救い主であることを選択すればキリスト・聖霊が強大な力を与えてくれると思っても良い。身体かスピリットか、地獄か天国か。

身体である限り私たちはどうしたって「かよわき存在、はかない存在」なのであり、常に心身の弱さが足を引っ張るだろう。自力で弱さを克服する!なんて考えなくても良いのである。自分の弱さを聖霊に委ねれば代わりに強さが与えられる、というのだ。これはちょっとわかりにくいかもしれないが、たとえば自分の弱さを自分で何とかしようとするから私たちは妙な防御や保身や攻撃をするのであって、そういう姑息なことを一切しないで神に、或いは聖霊や宇宙に全てを委ねれば却って大きな力が与えられる、そういう感じなのである。

主の祈りにも出てくる「われらを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」の「試み」、要するに誘惑に負けないかどうか試されるようなことを言うのだが、これは過去に学びそこなった教えを再び学ぶこと、そして今度こそは正しい選択をするための課題みたいなものである。ここで以前の間違った選択とそれに伴う苦痛から解放されるわけだ。このような試みは神が与えているのではない。身体として生きているからこそそういう目にあうのだ。私たちがそれを「学び直すチャンス」と捉えて生かせばよいのだが、そうでなければ単なる苦い経験であり地獄に過ぎない。神がそんなどちらに転ぶかわからないような不確実なものを与えるわけがないのだ。

その「試み」がどのようなものであっても私たちが正しい選択をすれば後はキリストが全面的に助けてくれる。正しく選択したのにちょっとしか癒されなかった、なんてことはないはずなのだ。私たちが本当にハッキリと聖霊や愛のほうを選べばそれに呼応してあらゆる苦悩や惨めさがすっかり癒されるのである。というか、本来あるべき自然な状態に戻れるのである。

このような「試み」は人生で一度二度あるかないかという大事件なのではなくて、もう本当に日々何度となく遭遇しているはずのものだ。私たちは瞬間ごとに選択しているという事実を思い出してほしい。けさはついムカッと来てしまったけど今度は気をつけようとか、学習途上の私たちには一日中試みの連続なのである。

神もキリストも聖霊もスピリットもみな「ひとつ」なのだが、ここでは「キリストがあなたの中の大いなる力である」というふうになっている。キリストは神のひとり子の総称であり、私たちはみな神のひとり子なのだから、そして神のひとり子は神とひとつなのだから、神のひとり子である以上は神と同じ力が備わっているはずなのだ。

前にも書いたが、たとえ私たちがどんなにおかしな自己像を抱えていても本来の自己はびくともしないで常にここにある。神のひとり子である「わたし」は神とひとつであり、ひとつであることによって神そのものでもあるのだ。と、ここまでは「コース」も言っていないのだが、どうしてもそういうことになるのだ。もはや、神のひとり子とか神だなんて言うこともできない、そう認識することさえできないくらいに「ひとつ」なのである。これは本当に想像を絶することである。概念では絶対に捉えられないことである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 255

第31章 その10

エゴの誘惑を恐れることはない。恐れるとき、それは実体のある現実のものになってしまうのだ。いくらそれが現実らしく強大なものに思えても下手に抵抗してはならない。抵抗するのはそれが現実だと思っている証拠であり、抵抗すればするほどますます現実化されてしまうのだ。必死で否定しようとするのも抵抗と同じなのである。邪悪な考えが出てきた時に「ダメダメッこんなこと考えちゃ!」と頑張ってもやっぱりダメだったという経験のある人も多いだろうと思う。それよりは「ああ、間違えちゃった。選び直そう」と決心して深呼吸でもして感謝と平和でマインドを満たすようにしてみればそのほうが余程早いのだ。選び直せば、たとえば今までモノクロでどんよりしていた世界が突然鮮やかに輝く色彩豊かなものに変化したりもするのである。そうすればますます感謝せずにいられなくなる。この時あなたはこの世の救い主に、世を照らす光になっているのだ。身体としての偽りのあなたが消えてあなたの中のキリストが姿を現したのだ。あなたの思いが神の御心とひとつになって「為された」のだ。

誘惑をうまく退けるには感謝と平和でマインドを満たす以外にもこういう方法がある。誘惑に負けそうになったらこう言いなさい。

「私は神につくられたとおりのものである。神の子に苦しみはありえない。そして、私は神の子なのだ」

確かにこれは効果がある。神に造られたとおりの、神と一つのものだったらこんなバカなこと考えるわけないわよね、みたいな気分になれる。何というか「正気に戻る」ような感じになるのだ。ガックリ来ていたものが神の力で満たされ、今まで簡単に恐怖や苦悩に陥っていたのと同じくらい当たり前に奇跡や癒しがもたらされるようになる。あなたが「神と一つ、神においてひとつ」になれば、というかこの「本来の姿」を思い出せば、真理であるところのあなたを阻むものは何一つなくなるからである。

あなたは神に造られたとおりのものである、そしてあらゆるものが神においてひとつである、ならば全ては神につくられたとおりのものである。神の子であるあなたにはあらゆるものがそのように映る。どこかに病や苦悩や弱さや喪失が見えるならあなたは誘惑に負けているのだ。神の子なんかでいたくない!という誘惑に負けているのだ。いや、どうしたってそう見えるのよと言いたい人も少なくないだろうが、これはもう「そう見えなくなるまで、そう思えなくなるまでやってください」と言うしかない。だってそう見えるのは誰でもないあなた自身の責任であり選択に違いないからだ。他の誰か・何かのせいではないからだ。奇跡は極めて自然なものであり日常的にもたらされている、とはいえそれを「現実のものだと知覚認識できる」までにはやっぱりそれなりの努力が必要だったりするのである。今まであまりに長いこと間違った選択ばかりしてきてそれに慣れすぎているからだ。正しい選択をしてもそのことが不安で仕方なくなったり、なんて笑えないようなケースも多々あるのだ。

あなたはどう在りたいか?それがそのまま他者に映し出されているのである。あなたが傷つきやすく無力で罪深いものである限り、他者もまた悩み苦しんだり罪を犯したりするような存在に映るだろう。そうである限りあなたは救いもせず救われることもないだろう。

神の平和をもたらす力は私たちの中にある。正確に言えば、私たちの中のキリストにある。そして正しい選択をしさえすれば私たちの中のキリストが現れて無限の力を発揮してくれるのだ。キリスト=神の子である私たちは、それぞれの中のキリストを通して一つになるというふうにも言える。こういうことは結局比喩的表現や象徴によってしか表せないので、「コース」の字句通りにイメージしてしまうと却ってそれに囚われ、皮肉なことにそれが一つの「偶像」になる場合がある。ある状態が達成されたその瞬間には、私たちは「ああ達成された。これこそがあの状態なんだわ」とはあまり思わない。そんなことさえ思わないくらいに「ひとつに溶け合って」いるからである。その瞬間のことを後から思い出して「こういう感じだった」と表現しようとしても、その経験そのものを全く正確に表すことなどできないとわかるだろう。そういうわけもあって、古今東西覚醒した人はあまり語らなかったのであろう。語りようがなかったからである。

キリストが私たちに求めているのはほんの小さなことだけだと言っている。そしてキリストはそのお返しに限りなく大きなもの、即ち神の平和とそれをもたらす力を与えてくれると言っているのだが、「ほんの小さなこと」というのは「ゆるしや癒しによって解放されること」なのだ。これが果たしてほんの小さなことなんだろうか?と思う人は少なくないだろう。しかし、全財産も家族も捨てろとか10億円稼いで寄付しろとかとんでもない危険な場所に奉仕に行け、なんてことに比べれば、ゆるしや癒しによって解放されるのは「今ここで決心しさえすれば今ここで誰でもできる、しかも道具もテクニックもお金もなしに時間もかからず誰にでもできる」のだからやっぱり「ほんの小さなこと」と言えるはずである。更に「神の平和とそれをもたらす力」と言われてもそれがそんなにすごいことなのかピンとこないのではないか。しかし、これこそが限りのない奇跡をもたらす力なのである。恐怖とはかなさの絶えないこの世でさまよっているあらゆる人々をキリストの眼で見る、すると彼らの中のキリストもまた目を覚ますのである。

「私の声、私の言葉を恐れるな」とここでキリストは言っている。が、キリストは私たちの中にいるのである。あらゆる人のマインドの中に、あなたのマインドの中にいるのである。となれば、キリストの声や言葉がどこか天空から降りてくるのをじっと待つのではなく、毎日の普通の生活の中でそれらはいくらでも見つけることができるわけだ。それらを受け入れようという姿勢で過ごせばどこにでも見つけることができるものなのだ。私たちがそれを見逃し聞き逃すのはやっぱり「怖い」からである。自覚はなくても怖いのだ。この世界とこの自分が崩れてしまうのが怖いのだ。しかしそれでは救いにならないではないか。そもそも救いを求めているなら、まずはこの世界とこの自分を何とかしなくてはならないのである。それを恐れつつ救いを求めているとは、救いの何たるかを知らないからなのだが、知らなくても全く構わない。今よりはずっと楽に幸せになるのだとだけ思って求めればそれで良いと思う。じじつ、そうなのだから。

神の平和を与えるとは、言い換えればあらゆる苦痛を取り去って愛すべきものだけが見えるようなヴィジョンを与えてくれることでもある。このようなヴィジョンは、あなたに与えられるときは同時にあらゆる人にも与えられていることになるのだ。これはわかりづらいと思う。あの人がキリストのヴィジョンで見ているからといって、私にはそんなもの見えないじゃない!そう思うだろうが、キリストのヴィジョンというものじたいが「ひとつであること」の投影なので、たとえばあなたがキリストのヴィジョンを得ているその時にはもう誰がどう、とかそんなことは一切消え失せているのである。かといって「ああ、今まさにあらゆる人がこのヴィジョンで見ているんだわ」と「認識」することもない。そういう認識すらできないくらい「ひとつ」になってしまっている。あなたの目に映るあらゆる人が同じヴィジョンを与えられている、強いて言うならそうとしか考えられない事態がただあるだけなのだ。だからこそ奇跡がもたらされるのである。

うっかりしていたらまた地獄に真っ逆さま、というような瞬間に今のあなたはこれまでと違う選択ができる。地獄を選びたい誘惑に気づけばそれを避けることもできる。その方法は既に教えられている。

学習途上の私たちのマインドは分裂しており、しょっちゅうエゴがのさばってくるものだ。が、常に自分の中のキリストとともにキリストに従って(これはもちろん「聖霊」と置き換えても良いし、ワークブックでは「神とともに」となったりしているのだし、いっそ宇宙でも真我でも何でもよいのだ)選択すべく努めていればその後のことは考えなくて良いのである。

神がそのひとり子であるキリストに与えたものは全て私たちにも与えられている。というかそもそも私たちも神のひとり子なのだが、学びの達成レベルという点から見れば「悩める今のワタシ」というマインドレベルよりキリストというマインドレベルのほうが進んでいるのであり、まあそういうふうに捉えておいて構わないのではないか。従来のキリスト教のように「神→キリスト→私たち」と捉えても困らないのならそれでも構わない。が、「コース」の語りかたはその時々で変わるので混乱してしまうかもしれないので、キリストとは「神のひとり子の総称」だと捉えておいてほしい。キリストが神から受け取ったものを私たちに与えてくれる、それは言い換えれば私たちが自分の中のキリストに目覚めることでもある。いずれにせよ、エゴであるままの状態で神から直接受け取ることはできないのだ。これは「幻想・虚構の世界」から天国に直接至ることはできずその前に一旦「本当の世界」と呼ばれる段階を経る必要があることとパラレルになっている、そう考えられる。夢から一気に本当の現実に目覚めるのはちょっと無理なので、同じ夢でも「真実を映している幸せな夢」にまず移行する。その「本当の世界」「真実を移す幸せな夢」の部分にいるのが聖霊であり、聖霊でもあるところのキリストなのだ。本当に「神においてひとつ」になってしまったら、聖霊もキリストも神さえもない、認識しようがないのである。

限りない愛と平和と喜びに満たされるのは神の御心であり、神の御心は必ず為されるのであり、それどころか既になされてしまっている。だから私たちは感謝してよいはずなのだ。キリストはここで神に感謝を捧げている。何故ならキリストには「既になされた神の御心」が見えているからだ。

キリストは神とともにある。時の始まる前から永遠にあり続ける。私たちの旅はそこから始まりそこで終わる。そもそも旅をする必要なんかなかったのだと気づいて旅は終わる。旅路の途中で何があったか、そんなことは全てどうでもよくなり跡形もなく消えてなくなる。旅そのものが既に夢だったのである。目が覚めれば夢は消えてなくなる。

御心を為させたまえ、しかもすっかり完全に。そうすればあらゆる被造物は神の存在に気づき、神こそが自分たちの唯一の源泉だと知るだろう。神において、神と同じように創造されたあらゆるものが神と同じ光を放つだろう。私たちは本来あるべきところに、魂の故郷に帰りついたのだ。神の御心の中で、神の御心によって私たちは「ひとつ」である。

父と子と聖霊に栄光あれ、初めにあり今あり世々限りなくあるなり、アーメン


奇跡のコース「テキスト篇」は今回を持って完了いたしました。長いことお付き合いありがとうございました。来週からは「奇跡のコース・教師用マニュアル」の連載を始めます。引き続きよろしくお願いいたします。

第285回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 252・253

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 252

第31章 その8

本当の世界は「肉」ではなくて「霊」の世界である。が、今のあなたにはそう見えなくても気にすることはない。無理やりそう見ようとして、その見方を身につけようとして特別なことをあれこれやるのは本末転倒である。しかし、多くの人が「そんな世界を見るためには何かよほど特別なワークを受けないとダメだろう」などと思ってしまうのだ。あらゆるワークやテクニックは、マインドの中の間違いを取り去るのに役立つことはあるがそれ以上のものではない。この「コース」でさえも例外ではない。ちゃんと序文にそう書いてある!

身体は幻想であって実在しないのだから、本当は身体なんか見えないでただ光だけが見えるのである、などと「コース」は時々語っているがそれは別に「身体を見るべきではない、光だけを見るべきである」と言っているわけではないのだ。身体の幻想性に気づけば自然に見方が変わるよ、というのをそういう比喩で表しているだけであって、身体の代わりに光を見ろ!見なさい!と言っているのではないのだ。そそっかしく考えてそこだけを達成しようとするとおかしなことになるので注意してほしい。

ある判断、そしてそれに伴う知覚認識をしてしまうマインド、そういう曇りのあるマインドのままでいくら何をしてもダメなのであって、その曇りを取り去るにはやっぱり日々のゆるしによって間違いを正していくのが実のところ最も早くて確実だったりするのである。もちろん、「コース」の365日ワークブックは非常に助けになるのだが、これも実際になさった方はおわかりのように別段特別なことを要求するようなものではない。

あなたの思い・意志は本来神の御心の一部である。それがエゴ的マインドに妨げられることなくその本分を発揮していればあなたはもっとも自然な状態でいられる。つまり本来の自己=神のひとり子でいられるのである。

ここには「主の祈り」の最初の部分が出てくる。「(天にまします我らの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ、御国を来らせたまえ)、御心が天に為るごとく地にもなさせたまえ・・・・・」、もともとの「主の祈り」ではこの「御心」とはもちろん「神のみこころ」のことであり私たちが神さまに対してそう祈っているわけであって、あなたや私の思いのことではないのだが、「コース」に即して考えれば御心=マインド=私たち、の思い・意志なのである。つまり、「あなたの思いが天にも地にも為されるように」と神が言っているのであって、しかもそれは神の御心と同じなのだから為されるに決まっている、いや既に為されてしまっている!ということになるのだ。今の私たちにはわからなくても、そう思えなくても、いつどこで何をしていても、たとえ今の自分が地獄にいると思っていても、本来の自己は神の御心と一つの状態であり続けているのである。御心がなされますように、それは「為されて」いるのであってそれと共にあなたの知覚認識機能も正しいものになる。祈りが聴き届けられるとはそういうことでもあるのだ。即ち、真実が投影され知覚認識されることである。救いが為されるときにはあらゆる間違いや幻想は消えてなくなるのだが、そうすれば自動的に真実だけが残る。真実は変化したりなくなったりしないものであり、それは変化したりなくなったりしないということによって真実なのである。そこが幻想や間違いと違うところだ。

あらゆる概念や像は変化する。それらはこの世のものだからである。この世に在る以上、私たちは何であれ概念なしに、つまり知覚認識せずに理解することはできないのだ。というより知覚認識できないもの、判断しようがないものをこそ私たちは「理解できない!」と「認識」するのである。たとえば、神を信じている人も信じていない人もそれぞれに「神」の概念を持ち、その概念について「信じる、信じない」と言っているだけではないか。そして、自分自身に対する知覚認識はそのまま世界に対する知覚認識になる。傷つきやすい(と思っている)人にとってこの世は残酷で危険なところになる。他者は危険な存在になる。慈悲深い人にとって、もちろんその慈悲深さがゆるしをもたらすような真実のものであるならば、この世はそして他者は優しいものに映る。神のひとり子として在るものにとって、この世界は限りなく楽しく幸せなところ、もちろん永遠にではないがしばらく滞在して十分楽しめるところになる。

神の御心は愛であって、絶対に不変なものである。そしてそれは「為されますように」というあなたの祈りによって天にも地にもなされるのだ。今のあなたにはわからなくても常に為されているのだ。ゆるしや救いや解放を求める「あなたの思い」も神の御心と同じように今ここで「為される」=実現するのだ。これは方法なんかではない。テクニックではない。端的な事実なのである。私たちのマインドはあまりに曇って歪んでいるので、その端的な事実を認めることができなくなってしまっただけなのだ。

救いがもたらされるまでは、或いは救いに気付くまでは、学びが続く。学びが続いている間中、私たちの知覚認識や概念は変化し続ける。というより、私たちはそれらの変化をこそ学びと呼んでいるのである。

この世には「良い」と「悪い」がある。そして、何が良いのか悪いのかという「線引き」や判断は人により場合により異なっている(から絶対不変ではなく相対かつ幻想なのだった)。学びが進むにつれてこの判断がまず変わってくる。今まではとにかく「悪い」としか思えなかったことが別にどうってことなくなったり、それどころか「良いこと、恵み」のように見えたりもするのだ。いきなり「良い、悪い」を超越しましょう、なんていってもたいていは無理だろう。だから「コース」は、というか聖霊はこの世の「善悪」という二元的価値観をも救いや学びのために有効活用する。とりあえずの「方便」として使うのである。即ち、普通に考えれば「罪深い=悪い」「無垢・ゆるす=良い」と感じることができる私たちの感性を利用するのである。

「悪い」ことが起きれば(起きたように「見えれ」ば)他者を責めたり怒ったり落ち込んだりするに決まっているのであって、その時あなたは「不幸で惨め」な自己像及び「ひどい世界、不公平な世界」という世界観を抱いている。

自分の中にないものは他者の中にも見えない。他者の中に見えるものは自分の中にもある。特にあなたが他者の何かを批判・非難したいとき、それは絶対確実に自分の中にありそのうえであなたはそのことを認めたくないのだ。「攻撃されている」と感じている以上、それは取りも直さず自分の中に攻撃性や怒りや罪悪感があること以外の何ものでもないのだが、それも認めたくないのだ。恐怖についても同様である。何かを恐れるのはあなたの中に罪悪感=罪深さという「邪悪な考え」があるからだ。これらを認めないのは当人の自由だが、その代償は大きい。

自分の中に邪悪な考えがある、このことをちゃんと認めていないとそれらは自覚のないままに外界に投影され、あなたに恐怖を抱かせる何かとなってあなたの前に現れてしまうのだ。爆弾を引き出しの中に押し込んだまま放っていたら勝手に爆発して痛い目にあうようなものである。

良く言われることだが、いわゆる心のきれいな人とか本当に優しい人というのは他者の中に当人自身でさえ気づいていないような美点を見出すものである。見出してあげようとして探したりするのではなく、もう最初からそういうふうに映ってしまうのだ。(ちなみに、前にも書いたが「良い人だと思っていたのに違ったわ!」とか思って裏切られたと感じるのはそもそもエゴ的な利害という視点で見ていたから、或いはやはりエゴ的に理想化して見ていたからである。彼は良い人なのか悪い人なのかわからない!というのもやはりエゴ的な良し悪しの判断に無理やりあてはめようとするから生じる混乱である)。

そのように無垢なる視点から知覚認識された美点は、相手が何をしようがしなかろうがそんなことで消えてなくなるようなものではない。この世のものとしてうごめいている「身体」に全く関係なく、いつもそこにあるものだ。相手の中に間違いは見えても、それがその人自身なのではなく単なる間違い・ゴミみたいなものである。あなたはそのゴミに邪魔されることなく相手の本来の姿が見えるのだ。

しつこく言うが、あの人はゆるせるけどこの人はゆるせない、とか私は救われるけどあの人たちはダメよ、なんてことはもう絶対にありえないのだ!誰かを神のひとり子、聖霊だと見ない限りあなたは救われない、のではない。誰かを神のひとり子、聖霊だと見ているあなたは救われているのだ!これらは同じことではない。その違いがわかりますね?

学習途上の私たちにとって、誰かの中に「良くないもの、間違い」が見えてしまうのは仕方ない。見えなくしよう、見なかったことにしよう、と力んでみても意味がない。しかし、それを「おかしい!ゆるせん!」と批判し非難するのではなく、「ああ自分にそういうところがあるんだな」とか「攻撃したくなった自分に気付けた」ので「それを見せてくれてありがたいな」と感謝することはできる。もしかしたらこの私も自分では知らないところでこうして誰かの役に立っているのかもしれない、と思えばそのことにも感謝できる。この自分をあなたの学びに役立ててくれてありがたい、と思えるではないか。

こういうことは身体や身体の動きに全く関係なく生じるのである。誰かが親切にもあなたに席を譲ってくれれば嬉しくありがたいのは当たり前だ。しかし、「私がこんなに荷物を抱えてよろよろしているのに席を譲ってくれない、ひどい奴だ!ひどい奴に違いない」と思うのではなく、いや一瞬はそう思ってしまっても「こんなことで怒りを覚えて攻撃的になってしまう自分に気付かせてくれてありがたい」と思えればよいのである。そうして感謝の気持ちになっている時、既に「ひどい奴」は消えてしまっている。心から有り難いと感じているとき、その「ひどい奴」は「ありがたい人、良い人」になっている。

ひどい人だからひどいことをする、性根が腐っているから、エゴの塊だからひどいことをするんだ!と私たちは普通そう考える。でも「ひどいこと」として見ているのは、そう判断しているのはあなたなんですよ。極端な例だが、邪魔だ気に食わないという理由で誰かを殺してしまう人もいる。この場合邪魔で気に食わないのは「身体」としての相手である。でなかったら身体を抹殺して消してしまえとは思わないはずだからだ。当たり前のことだが、エゴにとらわれていればいるほど身体性=他者性が強まるのである。他者がいなければ攻撃はあり得ず、身体は他者性=分離の象徴だからである。

いっぽうで、地獄に仏みたいな感じであなたを助けてくれる人が現れたらその人がどんな風体であれあなたの目には後光が差して見えるかもしれない。もちろんその人の身体がまったく見えなくなるわけではないのだが、少なくとも自分と相手とを分断する壁のようではなくなる。身体は単に(その人の)スピリットの周囲を取り巻く影のような感じになる。「ひとつであること」を邪魔するようなものではなくなるのだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 253

第31章 その8

「人間」として生きているところの私たちはたいてい、というか必ず「他人には言わないし見せないような部分」や「自分でもよくわからないどうしようもない部分」を抱えていたりする。そういう混乱した自己像を持っている。しかし、少なくとも自分においてそれを隠すのを止めれば、つまり否定したり抑圧したりせずに「自分にはこういうところがあるんだ、私はこうなんだ」とそのまま認めて受け入れてしまえば、たとえ他者の中の訳の分からない部分を目の当たりにしてもかなり冷静でいられるものである。自分の中の「罪深さ」をしっかり見ることによってそれが「罪ではなく間違いだ」「私は学習途上にあってまだ間違っているのだ」とわかっていれば、他者の中のあれこれもまた同じように認識することができる。即ち「この人は罪びとなんじゃなくて間違っているだけだ、私と同じなんだ」と認識できれば怒りや恐怖は激減する。これは救いに至る学びの中の一つの段階である。

それができずに混乱を混乱のまま放置していると、あなたは他者によって混乱させられ容易に騙され傷つけられるようになるだろう。マインドの中の「邪悪な考え」が思いもかけない形で投影され現実化した結果である。

自分がもうどうしようもないくらいグチャグチャになっているとき、たまたま出会ったりすれ違ったりした人のおかげで心が洗われ晴れやかになった、癒されたという経験があなたにもあるかもしれない。このときあなたは「ゆるされた」のである。或いは「ゆるした」のである。どちらにしても解放され浄化されたのだ。あなたが自分に対して抱いていた自己像も「どうしようもない私」から浄化されたものに変わったのだ。誰か・何かに心から感謝できたのなら、あなたは「感謝に満たされた平和な私」になったのだ。あなたの中にあった(はずの)邪悪な考えがそれぞれ分析されて解決されたわけではないことに注目してほしい。それらは「何でもない、何の作用ももたらさない」ものになることによってその無意味性や虚構性があらわになったのだ。浄化とはそういうことでもある。

分裂したマインドによる判断に基づいて身体の知覚器官が認識したもの、それがその都度あなたの「世界」である。聖霊の知覚認識によるならば、全く別の世界が既に今ここにあるのだ。

あなたの前には二つの世界があって、学習途上のあなたはその2つを行ったり来たりしている。しかし、その二つの中に同時にいることはできないし、その二つが合体することもない。それぞれの世界があなたの自己像を反映しており、あなたの自己像を反映して他者がつくられる。ゆるしゆるされるあなた、にとってあらゆる他者がゆるしゆるされる存在となり、そこにはもはや分離がない。もちろん、AさんをAさん、BさんをBさんだと知覚認識することはできるが、それは便宜上の区別に過ぎなくなる。何であれ相手はあなたの自己像の投影なのだから、自己像が浄化されていればあらゆる人が浄化された存在に見えるはずなのだ。いや、完全に浄化はされなくても、少なくとも「救いがたい罪びと、恐ろしい敵」などには見えなくなるはずなのだ。

誰だって、いつなんどきどこに危険が潜んでいるかわからない世界で信用できない人々に囲まれて生きるより、安心と信頼に身を委ねて生きるほうが良いに決まっているではないか。そして、この深い安心と信頼こそが奇跡をもたらすのである。そんな日々を送りたいならば、あなたはそれにふさわしい存在になろうと決めればよい。ゆるそう、浄化しようと決心していれば、そういう「自分」になっていれば、同じような人々があなたの前にあらわれる。そしてあなたはゆるしゆるされるのである。言い尽くされていることだが「自分が変われば世界が変わる」のだ。

前から言われているとおり、ゆるし(や癒し)こそがこの世における私たちの役割である。私たちにその自覚が全くなくても、自分の本来の役割=本分を十分に尽くしていない限り私たちは本当に生きているという実感や喜びを得られないのだ。大して不自由なく毎日を生きていても何か満たされず虚しい、という人は少なくないがその根本的な原因はこのあたりにある。ゆるし浄化するという役割を果たす、これなら別に環境を変えたりしなくても今すぐここで何の準備も資金もなしに始められることだ。

この章では「自己像の変化・変容」という切り口が用いられているのだが、自己像を変えよう!変えなくては!などと力むよりも初心に戻って「人を見たら聖霊と思え」「何があってもまずは感謝と平和でマインドを満たす」ことだけをしつこく続けるほうがずっと良いだろうと思う。そうしていれば自己像はそれに伴って自然に変化するからだ。何であれ、聖霊に委ねてしまうほうがずっと早くて楽で確実なのである。要はあなたがその都度何を選ぶか、それだけのことだ。エゴか聖霊か、恐怖か愛か。ここでは「救いのために必要とされる存在」になるか、救いにとっての敵になるか、という表現が使われている。

今いちど、概念やイメージは本当の現実ではない。それらはどこまでいっても仮象であり虚構である。私たちの理解を助けることもあるが、心の目を曇らせることもある。たとえば、天使の姿をとって聖霊があらわれた場合、そこで重要なのは聖霊の導きなのであって天使の姿ではない。天使というイメージや概念にとらわれてしまえばせっかくの聖霊の導きをあなたは取り逃がすだろう。天使だろうがネコだろうがカバだろうが、何だっていいのである。大切なのはいつだって形ではなく本質だからだ。形=イメージや概念にとらわれている限り、あなたは本質を見通すことができない。これはこの世レベルの現象においてさえもあてはまることだと思う。

真理の光がもたらされれば何もかもハッキリ見えるのだ。暗がりの中にいれば何だって想像できてしまうし、それらがまるで現実であるかのように思えてしまう。そしてその想像の源になっているのは恐怖と罪悪感なのだ。何故ならそれらがなければあなたは暗がりの中にいるわけがないからである。真理の光がもたらされてハッキリ見える・・・これこそが聖霊による知覚認識であり、心の眼で見るとかヴィジョンとか言われるものである。これがあなたを解放する。あなただけではなく、あなたとともにあらゆる人々をも一緒に解放する。解放されたあなたは「あらゆるものと一つ」だからである。

この世での、いやこの宇宙での自分の役割について考えてみてほしい。私たちひとりひとりが、それぞれの(別個に見える)人生において全く同じ役割を任されているのである。それぞれがどこでどんな活動をしていようとも、その本質としての役割はひとつなのだ。比喩的な言い方をすれば愛と真理と生命の神が私たちひとりひとりを信頼してその役割を任せてくれた、というふうにもなる。

私たちはわざわざ「特別な人、特別な関係」を求めるべきではない、これは前にさんざん見てきたことである。にもかかわらず、身体として存在してしまっている私たちの周囲にはどうしたって物理的な意味において「特別な」かかわりの人々がいる。まずは、それらの人々に対して役割を果たすことだ。世のため人のためにああしようか、こうしようか、今生における私の役割は何?なんて考える前にあなたの鏡になってくれている身近な人たちのことを考えよう。実際、こちらのほうが難しく感じるかもしれない。が、やっぱり避けて通れるものではないのだ。あなたの歪んだ自己像が投影されたその相手を見てあなたは怒りをおぼえたり傷ついたりする、そういう共犯関係はもうやめよう。あらゆる判断を保留してただ聖霊として誰かを見てみる。そうすれば最終的にはあらゆる人に「キリストの顔」が見えるようになる、「コース」はそう言っているのだが、これは別に聖画に描かれているようなキリストの顔が出てくるというわけではない。当たり前だが念のため。要するに「神のひとり子」というか、無垢で神々しい姿なのであり、それはあなたの中の聖霊が投影された結果なのである。

キリストの顔に覆いがかかっている、これは言い換えれば愛を忘れて誰かを「他者・身体」だと見ているのと同じことだ。本当の現実を見ていないのと同じことだ。神と救いを恐れ罪や恐怖を愛しているのと同じことだ。どれも結局は「神から離れてみんなバラバラ」という間違いを表している。更に「神とも他の誰とも違うこのワタシ」という自己像を抱えてしまえば身体性や他者性は決定的になる。そのうえ、あの人はこうだ、この人はああだ、などと判断批判することによって私たちの「分離」はますます強化される。自分もそうなのだ、という自戒と気づきをこめてやるのならまだ良いのだが、そうではない場合あなたは自覚なしに罪を重ねていることになりそれに伴って懲罰の恐怖も増していってしまう。しかし、誰か何かを批判する時たいていは「このワタシはあの人たちとは違うわよ」と思っているものではないか。つい判断批判したくなるのは一種の「エゴの誘惑」であって、それに流されるかどうかは当人の自由選択なのだが、選んでしまった場合の代償はとてつもなく大きい。誰かを判断批判して一瞬はいい気分になれるかもしれないが、束の間の偽りの快楽と引き換えにあなたは本当の平和と喜びを捨ててしまうのだ。

このような判断批判の能力とはあなた(のエゴ)にとって一種の武器になる。が、それと同時に自分をも傷つける凶器になる。目の前の誰か・何かはあなたの救い主にもなれるのに、あなたは判断批判という剣でその可能性を叩き切ってしまうのだ。そしてその剣は返す刀であなた自身にまで向けられてしまうのだ。

エゴの誘惑!それは本来の自己を忘れて何か別のものになりたい、つまり愛と平和と喜びにあふれた神のひとり子であるのを止めて苦痛と惨めさに浸りたい、地獄に居たい!ということに他ならない。怒り、不安、落ち込み、恐怖などなどは全て「エゴの誘惑」なのだと思って差し支えない。一般的には傲慢や強欲や虚栄心や欺瞞、怠慢などが「悪魔の誘惑」だとされているが、こういう「いかにも悪魔的」なあれこれには限らないのだ。しかも、これは自分自身にも限定されない。たとえあなた自身はそこそこに平和であっても、誰かが「ひどい奴だ、気の毒で惨めだ、不幸だ、救われない」という姿であなたの目に映ってしまえばあなたはエゴの誘惑に流されていることになる。なぜならあらゆる他者はあなたの鏡だからである。

もちろん、普通の意味で「悲嘆にくれている」姿の人が「喜びにあふれている」姿に「見える」わけがない。ここで言われているのはそういうことではない。悲嘆に暮れていようが、暴れていようがそんな姿を「本当の現実」と混同するな、と言われているのである。別にその人が心の中では平和で笑っているということでもない。心の底から悲嘆に暮れているのであったとしても、本当の彼(女)はそれを超えてゆるしゆるされている存在なのだ。仮象であるところの現象に惑わされてはいけないのである。

第284回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 250・251

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 250

第31章 その6

この世には「他者」がいる。そして自己とは他者の存在に対して規定されるものである。これは当たり前のことであって異論はないはずだ。この世においては自己なしの他者も他者なしの自己もありえないからである。この両者はやはり絶対矛盾的自己同一の関係にある。そして、自分を「神から離れてバラバラになった、神とは別の何か」だと思っている限り恐怖と罪悪感と攻撃性は免れず、更にはそれを他者に投影することも免れない。だが、それがあまりにむき出しになると「玉砕、全部パア」になって元も子もなくなるので、とりあえず仮面の下に押し隠す。押し隠すだけであって、なくなるわけではない。エゴ=個である以上常に、そしていつまでも私たちはあらゆる他者を仮想敵或いは「私を攻撃する罪深い存在」だとみなすことになるのである。

実は心に抱いている邪悪さを隠さなくてはならない、これはこれであまり楽しくないことである。さらけ出したら身の破滅に決まっている、それはわかっているのだが、そうなるのは自分のせいじゃない!エゴはそう考える。つまり、自分の本当の感情・・・「神のひとり子」たる本来の自己ではなく「エゴの本性」をむき出しにできないのはアンタのせいだ!アンタの罪だ!ゆるせない!になるのである。エゴの本性をむき出しにすることなんか本当の意味では自由でも何でもないのだが、とりあえず「抑え込む・抑圧する」のは感覚的な不自由さをもたらすものだ。あなたが不自由さを感じている原因は、本当はそんなところにはないのだが、エゴにはそれがわからないのだ。だから、「抑圧された怒りや感情を相手にぶつけましょう」なんてことが解放や自由さをもたらすもののように思われている。

要するに・・・自分がそして相手が実際に何をするかしないか、なんて一切関係なく、ただ存在しているそのことだけによって、つまり「自分とは別の何かとして存在している」というそのことだけによって、あなたは相手を罪深いものとして糾弾し、返す刀で自分自身をも糾弾するのである。投影とはそういうことだ。この「相手」は目の前の「個人」に限らない。政治家、組織、国家、権力など、「他者」であれば何でもいいのである。それが「とりあえずいい人としてうまくやっていく」という仮面=自己像の裏で行われている。そういう無数の仮面=自己像がうごめいて成り立っているのがこの世界だ。神から離れてしまったこの自分を現実のものだと思い込むために作り出された世界、それを現実のものとしてうまく維持していくために獲得された仮面=自己像。その下にあるものを見たくない、見るのが怖いと思えば思うほどますます闇は深くなる。目を開いてしっかり見るのだ!そうすればこれもまた「実は、なかった」のだとわかる。ここにおいて初めて危険のない形であなたは仮面を外せるのである。

自分とは、世界とは、幸せとは、安全とは何か?これらの概念は成長するにつれて獲得されるものであって生来のものではない。しかも個人差があり、一人の人生の中でも変化するものなのだから、どう考えても「真に実在」するものではない、つまり神によって与えられたものではない。幻想の世界が現実であるという前提のもとで、この世のあれこれに遭遇しつつ考え出され身に着けられた、いわば「偶像」である。神という概念さえも偶像である。この世には何と無数の神がいることか!

あらゆる概念は「この世のこと」についての「この世における」各人の信念=思い込みである。あの世とか神とか聖霊など、一見は「この世ではないこと」についての概念でさえ、この世の側から見て作られ語られている以上はやはり「この世のもの」である。たとえば18次元のことをいくら語ろうが、それがこの3次元における認識である以上3次元という枠を超えられないのと同じようなものである。この世で生きることによってこの世の経験をもとに獲得された概念である以上、それらは真理を表すことなどありえないのだ。

本当の自分探し、なるものもそれが「この世に生きる個人としてのこのワタシ」を意味するものである以上、全く「無意味」な概念形成の試みにしかならない。うんと悪く言えばバカバカしい自慰行為だとしか思えない。それをしたところで、せいぜい自分をよりうまく誤魔化せるようになるのが関の山である。仮面をちょっと修正したり交換したりしてみるようなものであって、仮面をかぶっていることには変わりないのだし、その裏にある恐怖や罪悪感や攻撃性は手つかずのままである。

聖霊に委ねれば、これら全ての不毛な自己像は解体され消去され、その代りに本来の自己を思い出すことができる。この方法以外で自己像という仮面を脱ぎ捨てるのはあまりに恐ろしいことに違いない。何しろ抑圧し隠していたドロドロがいっぺんに出てきてしまうのだから!あるいは、ただ「何もない、空っぽ」つまり「生まれたばかりの赤ん坊と同じような状態」になってしまうのだから!

正しく学ぶとは今までの間違った学びを捨てることである。それは時として不安や抵抗をもたらすこともあるが、何も失うものはない。捨てるとは、全く違ったものとして再生することでもあるのだ。あなたは空っぽにもドロドロにもならない。あなたの自己像が正されるにつれて他者とのかかわりもまた大きく変わってくるのである。

投影の原理は変わらないが、投影されるべきものが変わるのだ。あなたの目に映る誰かはあなたが作り出したものであり、誰かの目に映るあなたはその誰かが作り出したものであり、更にそれをあなた自身が知覚認識するのである。

あなたの運命は自分の意志とは無関係に誰か他者によって翻弄されているのだろうか?そんな力を持つ者がいるのだろうか?あなたの運命を決めるのはあなたのマインド以外の何かなのだろうか?神?それはあなた(のマインド)とは違う他者なのだろうか?

他者あっての自己、或いは神あっての自我、これらはその構造じたいに制限的自己規定が含まれてしまっている。常に他者とどう向き合うか、が当人の思考や行動の規範になるからである。でないと「この世」では「たがが外れて狂った人」になってしまうのだ。

でも、考えてみれば、いや考えるまでもなく、あらゆる人が「他者あっての自己規定」で動いているのっておかしくないですか?あなたにとっての他者もその人自身にとっては自己なんだし、その人から見ればあなたは他者ですよね。いったい何が何に対して何しているのか?何をしたことにもなっていないんじゃないか?という気がする。もちろん、エゴのままで他者の存在を忘れれば単なる傍若無人で身の破滅を招くだけだから、普通に考えれば一種のマナーとして「他人のことも考えましょう」になるのだが、マナーはそれこそ「生まれたままでは動物と変わらない人間が成長するにつれて学び身に着けていくもの」に他ならない。その学びを解体したからといってそれが聖霊によるものならば傍若無人な野蛮人にはなりようがない。何故なら、聖霊によって思い出されるところの「本来の自己」は神においてみな一つなのであって、神には愛しかないのだから、つまり敵も恐怖も攻撃も何もないはずだからである。無理やり自分を抑えて手なずけている不自由さはなく、限りない自由がある、にもかかわらずそこには神による自然の秩序が保たれるのだ。自分の(マインド)の中に恐怖や罪悪感や攻撃がなければそれを他者に投影する必要もない。

実は、エゴとしての自分が本当に見たくないもの、見るのが怖いものはエゴの本性たるドロドロなんかではない。その更に奥にある「本来の自己」こそエゴがもっとも恐れているものだ。エゴの本性がむき出しになれば社会的或いは身体的には破滅かもしれないが、エゴは生き延びる。しかし「神においてひとつ」である本来の自己が目覚めればエゴは自然消滅し、それに伴って「この世界」もまた消滅してしまうのだ。ゆえに、エゴたる私たちはそこに至らないような範囲であれやこれやの「自分探し」を続けるのである。

少し話を戻そう。私たちはこの人生において経験するいろいろなことが「誰か、何かのせい」であって自分にどうしようもないことだと考えがちである。人間関係においても「私はちゃんとしているのに相手がダメなんだ、相手が変わらない限りこの関係も変わらないし私は幸せになれない」と思ってしまったりする。言うまでもなくこれは相手に罪を着せていることになる。或いは、自分が誰かに期待される通りの人間であるように振る舞う人がいる。それは不自由なことに違いないので心の底には怒りと糾弾がある。そしていつか爆発して「もうやってられない!私はあなたの思っているような人間じゃないのよ!」というような反乱を起こしたりする。これはこれで一つの段階であり、ここから本当の気づきや学びへの道が開けることもあるのだが、今度は「罪悪感を投影する相手、攻撃の対象」としてその他者に執着してしまったり、人によっては結局相手を替えて同じことを延々繰り返したりもする。つまり、本来の自己を回復するのに「他者の期待通りに振る舞うのをやめる」だけでは不十分なのである。

学びが少し進んでくると、まず自分が変われば相手も変わり関係性も変わるということがわかってくる。何もかも相手のせいにすることはなくなってくる。どんな関係であれ、それは「自分と相手」との共同作品であり自分と相手は一種の共犯関係にあることに気付く。相手は自分の鏡なのだと思えるようになるわけだ。それはそれで正しいのだが、やはり十分ではない。鏡ならばそこに映るこの「ワタシ」という自己像はどんなものなのか?相手によって、状況によってコロコロ変わるようなものなのか?それがいちいち「本当の自分」なんてことがあるだろうか?今度は「何もかも自分の投影、自分のせい」だと思えば、誰かの罪も世界の不幸もみんなあなたのせいになってしまい、罪悪感にまみれた無力な自己像が生まれるだけではないか?今までは「相手のせい」と思って他者を糾弾していたその対象が自分自身に、わが身の不幸を嘆く被害者がわが身を責めさいなむ加害者に変わっただけではないか?ま、自己像とは自分がそのつど自分の意志で選べるようなものであるとわかっただけでも収穫ではあるのだが、好きに選んで取り換えられるようなものならどれも真実在ではない。

そもそも、相手という鏡に映る自己像はどこから来るのか、とか「相手という鏡に映った自己像」を見て何らかの判断や認識を行っている自分とはいったいどの自分なのか、などこの周辺の問題を数え上げたらキリがないのである。

そして、ここが決定的なところなのだが、たとえば「相手が意地悪だ」と見えたとして、それを「私はひどいことをされている」と認識しようが「そう見えるということは私が意地悪なんだ」「自分が引き寄せたんだ」と思おうが、まず最初に「意地悪だ」と見えたこと・・・つまりそう判断し知覚認識したのはいったいどの「自分」なのか?その判断はどこから来るものであり、本当に正しいものなのだろうか?


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」251

第31章 その7

個人としての「この自分」というものがどこかにちゃんとある、と誰もが思い込んできた。「ワタシって何?」とは古来多くの人々が探求し続けてきた問である。が、その本当の答えは概念を与えることも言葉で説明することもできないものだ。私とは何か、その答えはたとえば「!!!」で表されるような、言語を絶した気づきなのである。他者なしの自己なんてこの世的には、つまり概念としてはあり得ないものなのだ。だから言語を絶している。その自己は言語なんかが発生する以前から存在するものなのである。私とは何か、この問いに正しい答えが与えられれば救われる!と思う人は少なくない。誰だって確固たる自己というものがあれば安心できるはずだからである。しかし、それは概念によって捉えられるような何かではありえない。あらゆる自己像を捨て去ってこそわかるようなものなのだ。

認識主体としての自己、これが問題なのだ。要するに「自分」だと思っているマインドのことなのだが、ああ何と「本来の状態」においては認識そのものが「ない」のではなかったか!まあとにかくマインドはそれ自身の中にあるものを投影し知覚認識するのだった。そしてそのマインドこそがあれこれの自己像を獲得するのでもある。そうやって獲得されたあれこれの自己像、そのどれもが本物ではなさそうだと気づくときがくる。こうだと思ってたけど本当はああだったわ、いやそう思ったけど実はやっぱりこうだった、あれもこれも本当の自分みたいだけど矛盾するのよね。そんなことを繰り返していれば誰だって「何やってるんだろう、結局何なんだろう」と思うわけである。これって何かおかしいんじゃないのか?と疑い始めるのだ。

簡単に言えば、混乱したマインドはそれ自身を投影して混乱した世界を作り出す。同時に混乱した自己像を作り出すのである。認識主体としてのマインドが歪み混乱していたらそれが映し出すものも当然混乱し歪んだものになるに決まっているではないか。これはいわゆるサイキック・霊視などの領域においてもあてはまる原理である。とにかく、自らが混乱していたことにさえ気づかなかったマインドが「いや、これは自分が混乱しているのかもしれない」と気づく、これは大きなことである。

ここで再び、他者とは自分が作り出したものに過ぎないことを思い出してほしい。即ち、人であれ組織や社会、世界であれ、あらゆる他者は自分自身でもあるのだ。となると、他者とのかかわりとは自分自身とのかかわりに他ならない。意地悪な誰かを相手にしているあなたは、自分自身の中の意地悪な部分を相手にしているに過ぎない。邪悪な世界が目に映るならあなたは邪悪なものの実在を信じていることになる。あなたが傷つくのはあなたのマインドのなかに「傷つけ傷つけられる」という考えが現実のものとしてあるからだ、言い換えれば「神のひとり子を殺そう」という願望があるからだ。私たちはそうやってマインドの歪みに気付き、気づくたびにゆるして浄化していくしかないのである。

どんなものであれ自己像は、それが像であり認識されうる概念である以上はこの世のものなので、学びが進むに従って変化する。そして他者との関係もまた変化する。想像もしないようなことが起きてしまって「ワタシっていったい何だったの?」などと混乱するときもあるかもしれない。しかし、立ち止まらずに進んでいれば必ずやマインドの平和が得られるようになっているのだ。この世でうまく生きていくために無理やり身につけた「この自分」というものがどんどん落ちていく。あなたの目の前には相変わらずいろいろな人が登場して、中には明らかにあなたを責め傷つけようとする人もいるかもしれない。が、あなたのなかにそれを現実化する考えがなければあなたには何も起こらないのだ。あなたは誰かの間違いを現実化する共犯者にはならないで済むのである。極端な例だがキリストの磔を思い出していただきたい。

あなたの周囲の人々が、あるいは組織や国家があなたにどんなイメージをかぶせようともそれは「あなた」ではない。あなたはそれに合わせる必要もないし、またわざわざ反抗する必要もない。それらのイメージは先方の都合でいくらでも変わり得るのだからいちいち本気で合わせていたらとてもじゃないが生きていけない。本当の自分はそんなところにあるわけもないのだから気にしなくていいのである。まあ言ってみればイメージなんかどうにでもなるようなものなのだ。それがわかると人間関係が格段に楽になる。表層的な部分なんか本当の自己には何の関係もないと思えば却って楽にどうにでもできるからである。たまに「楽しくないのにどうしてニコニコしないといけないんですかっ」という人がいるが、これはかなりどうしようもない。そういう人に限って誰かがムスッとしていると「何よあれ!感じ悪い」といって怒ったりするものだ。マナーとして「ふりをする」のは、表層的な自分とは関係なく本来の自己が存在することを、あるいはいわゆる「個としての本当のワタシ」なんて存在しないことを理解していれば却って全く抵抗なしにできるものなのだ。

ついでだが、「本当のワタシをわかってちょうだい」というのもたいていは「個としての自分の考えや感情に同意してくれ」に過ぎないのであって、言うまでもなくそんなものに本当もヘッタクレもないのである。

このあたりの「本当の自分を知る」教えについては、いわゆるデカルト的・方法的懐疑と通じるものを感じる。イメージを全て捨て去ったところに本質が現れる。いわゆる「本当のワタシ」なんてどこにもない!のだが「ない」ことによって「本来の自己が今ここにある」、そういう構造になっている。これは実際にそうなってみないとわかりにくいと思う。とにかく、イメージとは偶像であり、偶像とは幻想である。それを捨て去らないと真実が入る余地がないわけだ。すごくありていな言い方をすれば、自分というものに対するこだわりがなくなれば人は自由になれるのである。

何だか古典的な哲学の文章みたいだが、世の人が恐れているのは以下のことだそうだ。

「私は自分が何ものであるかを知らない。ゆえに自分がどこにいるのか、何をしているのかも知らない。世界や自分自身をどう見るべきかもわからない」

無知の知、でしょうか?なるほど自分が何ものかわからなければ、その何ものかわからない何かがやっていることだってわかるわけがないのである。まずそこを自覚しましょう。救いや解放が始まるのはまさにそこからなのである。そこを自覚すれば、つまり自分に対してわかっていると思い込んでいることを全て一旦棚上げにすれば、その空間(もちろん物理的な意味ではないが)に本来の自己はおのずから姿を現すのである。

肉か霊か?さて、これまた今更だがあなたは身体=肉を見るかスピリット=霊が認識できるかのどちらかなのであって、身体の実在を信じつつスピリットを感じることはできないのだしスピリットの実在を感じれば身体は実在のものに感じられなくなる。これはもちろん「現実か幻想か」「エゴか聖霊か」「恐怖か愛か」などの選択と同じものである。そして自分が身体なのかスピリットなのか、を選ぶことでもある。誰かの魂=スピリットがあなたを憎んで攻撃してます、などというのは間違いなく幻想且つエゴの世界であって、ここにおいて本来の意味におけるスピリットは認識されていない。また、これも言うまでもないのだが、身体の中にスピリットがあって両方とも実在です、なんてことは金輪際ありえない。時間も空間も個体性もないところのスピリットが身体なんかに閉じ込められるはずがないからだ。私がスピリットを選んだところであの人この人の「肉体」は依然としてあるじゃないか?と思うかもしれないが、それらはもはや癒され祝福されるべきものとして存在する(ように見える)だけになる。傷ついたり病んだり死んだりするためのものではなくなるのだ。

身体が実在する世界は、神から離れてバラバラになった個によって成立する世界である。神から離れてしまったのだから神の属性であるところの「絶対不変・完全さ・普遍的な愛や喜び」は当然ありえず、生老病死や四苦八苦の世界である。一瞬先は闇、昨日の敵は今日の友で明日はまた敵になるかもしれない。あらゆるものが一定ではない、常に変化し続ける世界である。身体もマインドもさっきと今とでは違っているくらいなのだ。こんな世界に生きて、確実なものなど死以外には何もない世界に生きていったい何をあてにしたらよいというのか?そういうところで何か確実に信じられるもの、あてにできるもの、本当に価値のあるものを求めようとするから失望したり苦しんだりする羽目になるのだ。

救いとは、これら全てからの解放である。言い換えれば「当てにならない幻想の世界」からの解放である。

「コース」では(そしてこのブログでも)言葉のトリックとして「救いがもたらされる」「救いがなされる、与えられる」などという表現も使われてはいるのだが、今一度確認しておきたい。まず、救いや解放とは「今のあなた」が努力やテクニックによって成し遂げるような何かではない!むしろ「今のあなた」を捨て去ることによって自然に生じる状態なのだ。更に、救いとは正確に言えば誰か・何かによって「為される・与えられる」ものでもない。便宜上、神や聖霊によって与えられたり為されたりするかのように書かれてはいるが、同時に「救いは既になされてしまっている」とも書かれていることに留意していただきたい。既に為されてしまっている!というよりそもそも救いなど最初から必要なかったのだとわかる、これこそが救いなのでもある。私たちがそれに気づくかどうかだけなのだ。気づきとは、別の言い方をすれば一種の選択でもある。どっちにしようかな、こっちかな、さあ選ぼうという通常の自覚がない状態でなされるのでそれが選択だとは思われにくいのだが、気づきとは紛れもない選択なのである。幻想ではなく現実を選ぶかどうか、それだけなのだ。

本当の自己が知りたい、本当の真実が知りたい、救われたい、解放されたい、と思う人はさまざまな努力をする。身体じゃない世界、あらゆるものが身体としては見えない世界を「見たい」と思い、どうしたらそうなれるの?と思う。ところが、私たちはそんなこと考える必要がないのである!というより、考えるべきではないのである。何故ならそれは「今の私たち」が考えてわかるようなことではないからであって、考えるだけ無駄なのだ。前にも書いたと思うが「3次元にいながら18次元のことを考える」ようなことはどうしたって限界がある。この世にどっぷり浸かったままで「天国とはどんなところなのか知りたい」と思っていくら考えたり調べたりしても無意味なのと同じことだ。わかるわけがない!それがわかるならあなたは既にこの世を超えているはずだ!だからそんなことにエネルギーを浪費せず、やっぱりただ聖霊に委ねる練習をしたほうが余程早くて確実なのである。

第283回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 248・249

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 248

第31章 その4

何だかんだいっても結局私たちはマインドなのであって(たとえあなたがそう思えなくても!)、あらゆる現象はそして世界はマインドの投影なのである。即ち、マインドが「真である」と信じていることだけを私たちは経験するのだ。そうであって良かった、と喜びなさいと「コース」は言っている。平和で幸せになりたいなら信じる内容を変えるだけで済むからだ。信じたことが実現します、という凡百の願望実現テクニックがうまくいかないのはそれをやっているのがエゴだから、罪悪感や恐怖をそのままにしているからだ、というのは既に述べた。

何を信じるか?その内容を「変える」ことができるのは、この世においては変化が可能だからである。本来、変化はありえないのだった。あらゆるものが神において絶対不変なのだった。神から離れてバラバラになったと言う間違いの副産物として「変化」という概念・現象も生じたわけなのだが、聖霊に従えばそれもまた学びのためのツールとして有効利用できるのである。そのためにはマインドがオープンになっていなくてはならない。前にも言われたことだが、自分の中に何かを隠し持っている・抑圧している状態だとマインドはオープンになれない。これくらいしょうがないわよね、いいわよね、みんなやってることだものね、などといくらあなたが思ったところでマインドの原理は変えられない、例外はないのだ。そういう場合にはとにかくとりあえずあれこれの思いは脇においてマインドを感謝と平和で満たす、これを繰り返すしかないと思う。

身体は何もしない。あなたを傷つけることもできないし、守ることもできない。あなたを傷つけたり守ったりするのは常にマインドなのだ。身体はマインドの邪魔をすることもできない。そして、自分を守ろうとしてマインドを身体に閉じ込めるならあなたは却って傷つくことになるだろう。閉じ込めれば閉じ込めるほど「危険な他者がいる」という思い込みが強くなるのであり、その思い込みは原理に従って投影されてしまうからである。身体から自分を解放しなさいと「コース」は言っている。自分が身体から解放されればあらゆる人が身体から解放された姿であなたの目に映る。逆もまた真である。言い換えれば、自分と外界=他者とを隔てていた壁あるいは隙間がなくなるのだ。

この壁があるうちは、同じ相手がその時々のエゴの損得勘定によって「敵」になったり「友人、恋人」になったりする。また、誰かを「特別な相手」と思い込めばあなたはその人を身体に閉じ込め、同様に自分自身も身体に閉じ込めることになる。特別、というからには「他の誰でもない、個としてのその人」を求めているに違いないからだ。それって要するに身体ってことですよね。私はあの人の精神を、魂を愛しているんです!と言いたいかもしれないが、もしそれが本当に普遍的なものならばもはや「その人の」精神・魂などとは言えなくなるはずだからである。ある人が本当に全方位的な愛を放射していても、あなたはその人を「個人」として、つまり「身体」として見てしまう。だからこそ個人崇拝ということが可能になるのだ。

偉大な誰かであれ何であれ、この世にはさまざまな「救い」が用意されているように見える。それらもまた全て結局はあなたをこの世に縛り付けておくためにツールに過ぎないのであり、救いというより気休めと言ったほうが正しいかもしれない。あれやこれをやっていればイヤなこと、厄介ごとを忘れられる、そうだとしても厄介ごとは厄介ごととして手つかずのままなのである。見ないふり、と浄化・ゆるしとは違うのだ。だいたい、なにかが「心配事、厄介ごと」に見えているのはあなたのマインドがそう判断・認識しているからに過ぎないではないか。そんなもの、本当はないんだと気づくことと「本当にあるけどとりあえず自分には関係ないからいい」と思うこととは明らかに違うだろう。これでは「この世にあってこの世を超える」ことにならないのである。

以前から繰り返し言われているように、この世のあれこれは結局本当の救いにならずあなたに真の幸せをもたらすものではないのだった。そこまではわかりますね?しかし、なるべく苦労なく生きていきたいと思うのが人の常なのであって、普通の人は選択が可能な状況にある限りできるだけ楽な道を選ぼうとするものだ。それは通常「生き方」と言われるものである。結婚すべきか一人でいるか?離婚すべきか?子供を持つか持たないか?どこに住むか?などなど、身体として生きていく以上そういう選択はどうしても避けられないものである。もっともそんな選択肢さえないような時代や状況というのもあるわけで、「コース」が素晴らしいのはそれがそういうところにいる人々にも全く同じように通用する教えだからである。巷に溢れる「生き方探し」の本なんて所詮「先進国である程度以上の生活が保証されている人々」にしか通用しないものばかりだ。

常軌のような「生き方の選択」は、結局「死ぬまでの間を身体としてどう過ごすか」を決めるものであって、要するにその程度のものでしかない。どれも幻想内のつまり夢の中のことなのである。それがわかったうえで選ぶのと、そこに真の幸せを求めて選ぶのとでは天と地ほどにも違うのだ。それがわかったうえで選ぶ人にとって、その選択は全く自然で無理がないものになる。身体をもっとも生かせる形が自然に与えられると言っても良い。それがたとえ他の人々からは「変わってる、勇気ある」選択に見えたとしても当人にとっては選んだ覚えもないくらい自然で無理のないものだったりする。

死ぬまでの間を身体としてどう過ごすか?このことに自覚的でない人は「どうやったって結局最後は死ぬのだ」という認識すら持てずにいたりするものだ。「コース」による死の定義はさて措いて、通常の意味での死を考えてみよう。身体として誕生した以上、死は絶対に確実であり、しかも死は生とワンセット・・絶対矛盾的自己同一・・になっているので常に生の裏側に死があるわけだ。そのことに正しく気づけばたいていの人は肝が据わり覚悟ができるので十全に生きられるようになっている。普通はこれだけでも十分なのだ。しかし、そのことに「正しくなく」気づいてしまうとたいていの人が絶望に陥り、発狂したり自ら死を選んだりする。何をやっても結局同じ、どうせ死ぬんでしょ!と自暴自棄になったりする。そんな虚しいこの世から逃げるには狂うか死ぬかしかない!と思うのである。甘いです。そういうマインドでは死んだって狂ったって駄目なんです。それは逃げ場になりません。どこにも逃げ場はないんです。往生際悪くそれでもまだ逃げようと考えるからおかしいことになるんです。せっかく大きな解放につながる気づきの手前まで来たのに!

これって要するに神=存在から逃げたい、逃げられると思っているのと同じことなのである。そんなの不可能に決まっている!観念して腹を括りなさい、なのである。

この世にどっぷり浸かったままどう生きようが「ゴール」は同じ、結局死ぬのである。いつどこでどうやって死ぬか、くらいの違いしかない。しかし、現代においてはそんなことさえ、つまり「いつどこでどうやって死ぬか」なんてことさえもがすごく重大な事柄のように考えられてしまっている。それすら「好きに選べる」ことが何だか素晴らしいものだとされている。生まれたからには死ぬのだ、という骨格は無視されてどうでもいいような

枝葉に注意が逸らされてしまっている。

どう生きようが最後は必ず死ぬ、とかこの世の全ては虚しいという「気づき」は絶望をもたらすかもしれないが、よく考えてみて下さい。「本当に」絶望してしまえば解放されるんですよ。希望があって尚且つそれが叶えられそうもないと思うから自暴自棄になるのであって、どこにも希望を持ちようがないなら絶望もありえない、そしてどこにも逃げ場がないと知るなら、それこそが解放になるのだ。この世に救いはないと知るなら救いを求めることもなくなるのだから当然絶望もない。なのに多くの人が「この世に救いはないならあの世で何とか」あるいは「霊的な次元で何とか」などと考えてスピリチュアルとは名ばかりの宗教まがいのものに走り、結局「この世のパラレル」みたいなものを保持してしまっている。エゴを延命させてしまっている。

この世に救いがないと気づいて絶望して死や狂気に逃げ込む人はいったい何から逃げようとしているのか?言うまでもない、上述した通り「存在=神」からである。本来の自己から逃げてエゴを守ろうとしているのだ。どうやっても本来の自己はなくなることができない、存在から逃れることはできない、とここまでわかれば明るく絶望できるのに!実際、多くの人が「これ以上失うものはない」という経験を境に変容しているのだ。

もちろん「コース」は「絶望しないで事実を正しく認めなさい」と言ってくれているのだが、まあ要するに悪あがきはやめましょうと言うことに変わりはない。ここまできたら大きな学びまであと一歩なのだ。

救われるためにあれでダメだったからこれを、などと延々と繰り返していたって仕方がない。「コース」をやったけどダメだったから別の何かを、という人々だって少なくないと思うが、それは「コース」の落ち度ではなく理解できなかった当人の落ち度であると私は断言できる。

幻想の中でいくら選択したところで無意味なのである。選択するという行為が本当に意味を持ち力を発揮できるのは唯一「現実か幻想か」「真理か虚構か」という選択においてだけなのだ。ここで「本当の現実」を選べばあなたは地に足が付き肝が据わり覚悟が決まる。たいていのことに煩わされず常に平和でいられるようになる。理性が正しく働くようになるので間違った判断に流されることもなくなる。言い換えれば常に聖霊の導きを得られるようになるわけだ。言うまでもないことだが、この世にどっぷり浸かったままで真理や本当の現実を選ぶことは不可能である。自分を身体と同一視し、恐怖や罪悪感を抱き、他者を非難し、特別なものを求めているマインドが真理や現実を選べるわけがない。というかそういうものを保持している時点でマインドは幻想や虚構のほうを選んでしまっている。

真の幸福は真理とともにあり、そうでないものを幸福とは呼べない。せいぜいが一時の気晴らしや気休めに過ぎない。気晴らしや気休めが悪いというのではない。ただ、それを真の幸福と混同するわけにはいかないのだ。ま、混同したって別に構わないのだが、その場合は代償として幻滅や絶望や不幸を味わうことになる。

このことが認められていないと「コース」は学べない、というか「コース」学習がものすごく困難になってしまう。忌憚ない心で素直に読めばもう「当たり前のこと、明らかなこと」しか書いてないのだが、抵抗が激しいと全く理解できない難解な書物になるか「わかるけどできない」で終わってしまうかどちらかだ。そして「わかるけどできない」のは実はわかってないからなのだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 249

第31章 その5

本当の選択肢は常に一つしかない。すなわち「真理か虚構か」「現実か幻想か」あるいはそのヴァリエーションとして「聖霊かエゴか」「愛か恐怖か」などとも言えるが、全部同じものである。それ以外の選択は、実は全然選択なんかじゃないのだ。少なくとも本質的な意味では選択と言えない代物である。もちろん普通に生きていれば日々どちらを選ぶかなんて場面には事欠かないわけだが、所詮その程度のものだと思って処理したほうがずっと簡単だし、結果としても救いや癒しをもたらすという「私たちの使命」によりいっそう沿ったものになるはずだ。あなたの目的がきちんと定まっていれば何をどう選んだってその目的に沿った結果が得られるに決まっているからだ。

逆に、エゴ=身体と自分を同一視したうえで、つまり「神との分離を維持すること」を目的としたうえで何を選択したとしてもそれは結局「自分自身を騙し欺く別のやり方」を選んだに過ぎない。あなたは依然として本来の自己から逃げようとしているからである。正反対に見えるような二つの選択肢があってもそれが「この世のもの」である限りどちらも幻想だという点において同じなのであり、そういう選択に何か意味があると考えること自体が間違いなのだ。エゴ=身体と自分とを同一視するのが間違いなのと全く同じことである。どちらを選んだって不毛に決まっている。それどころか更なる混乱と絶望をもたらす結果になるだけだろう。目的を定めるのはこれほどまでに重要なことなのである。

損得勘定とは普通に考えても「どちらかが得すればどちらかが損する」ものだが、そしてこの世では与えればそれだけ失うものだが、それはもちろんエゴ=身体にとってのみ意味を持つことである。救われたいから、エゴを捨てたいから私は常に損するほうを選びます、というのではダメなのだ。聖霊として動いた結果あなたのほうが物資的に「得」したように見えることもあるのであって、要するにそんなことはどうでもいいというか本質とは何の関係もないのである。「常に損するほうを選ぼうとする」のならあなたはこの世の損得という構造を意味あるものと信じその中にドップリ浸かっていることになる。まともな考えに基づいて書かれた成功ハウツー本には「自分のほうが得しようと思ったりしなくても自分の中にある豊かさが反映して自然に、言ってみればまあ結果的には得することになってしまう」みたいな感じの教えがあったりするが、そうなるためには「この世的な目」で見ていてはダメなのである。誤解しないでいただきたいが、「コース」は別に物質的な豊かさを拒絶しろとは言っていないのであって、それを本質と勘違いするなと言っているだけなのだ。そしてあなたが得したことによって相手が損するというわけでもない。物質的なものであれ愛(もどき)であれ、損得が「ある」と考えることじたいが既に間違っているのである。

神はその御心から創造されたものと常にともにある、というのを「コース」は「神は自ら考えたものを見捨てることはない」と表現している。要するに「神によって創造された神のひとり子である私たちは神とひとつである」のと同じことだ。私たちが真に平和で幸福になるためにはこの事実を思い出せばよいのだが、この世の如何なるものも私たちをそこに導いてはくれない。この世界や身体が、そして個人としての存在が保持されることがこの世の目的であるからには、この世のあらゆるものはその目的に沿った結果をもたらすに決まっているのである。言い換えればこの世が提供するあれこれは全て「本来の自己」あるいは神から遠ざかるためのものなのだ。どうしたって真の平和や幸せが得られるわけもない。あなたがもし「本当の自分を見つけて幸せになりたい」と思っているならこの世を超えなければならない。何も難しいことではない。だって「今ここ」にもうあるんだから。わざわざどこかに行って何かをしなくても特別な誰かと出会わなくても今すぐここでできることなんだから。

神は私たちを見放さないし、私たちはどうやっても神から離れることはできない。この事実を認められれば、つまりどこにも逃げ場がないとわかれば逃げようとする必要もなくなるのである。今ここで神において一つ、という事実を受け入れることができるのだ。受け入れたいのにできないのよ!と思っている方はもう一度初めから「コース」を(またはこのブログを)お読み下さい。その事実を受け入れることを自分がどれほど恐れているかわかるだろう。

私たちはずっとここにいたのであり、これからもずっとここにいるのであってどこにも行く必要はない。というかどこにも行くことはできない。学びは旅に喩えられるが、学ぶにつれて「自分は旅をしていたつもりだが、そうじゃなかった。ずっとここにいたのだ。旅をしていると思い込んでいたのだ」ということに気付くだろう。

私たちはいかに馬鹿げた考えを信じ込みそれを経験してきたことか!あなたの狂気をゆるしなさいと「コース」は言っているが、当然のことながらこれは狂気から抜け出しなさいという意味である。幻想を現実だと思い込んでそれを次々に追求したって本来の自己からますます離れるばかりで救いからも幸福からもますます遠ざかるだけなのだ。それをゆるしなさい、とは要するに「もうやめていいんですよ」ということである。今までどんなにさまよって神から遠く離れてしまったように思えても、ありがたいことに神は私たちを見放さないし、そもそも私たちは神から離れたことなんかないのだ。離れたいと思ったところで不可能なのだ!それを可能だと思ってしまったところが間違いの元だったのだ。

さて、神から離れてバラバラの個になった(と思い込んだ)私たちは、神のひとり子であるという本来の自己を忘れた。そして神ならぬバラバラの個としての「自分」にふさわしい世界を作り出し、それを保つために即ち間違い・幻想を本当の現実・真実だと思い込み続けるために途方もないエネルギーを注ぎこんできた。自分が神のひとり子だとわかってしまったらこの世界は成立しなくなる。それでは困る!というわけである。

しかし、おおもとが間違っていれば至る所に無理や矛盾が生じるのは当然なのであって、あらゆる人が「神のひとり子ではないバラバラの個」である自分をそのまま打ち出していたらそれはそれでこの世界は文字通りの地獄になり、さっさと破滅してしまうだろう。とんでもないカオス状態があり、あらゆる人がお互いに「敵」でもあるような場所になればそれこそ血で血を洗うような争いが絶えず、それこそ人類総玉砕である。普通の意味での「人類滅亡」がとっくに起きていただろう。そうなってしまえば元も子もないので、エゴとしては「苦しみながらも身体を持った個としての人類が存続する世界」は保持しておきたいのである。

すると、ここで一つのトリックが必要になる。私たちは「神から離れてみんなバラバラ、それぞれが恐怖と罪悪感と攻撃性を持っている」という自己像をむき出しにするわけにいかないのである。自分のマインドにある恐怖や罪悪感や攻撃性をあからさまに他者に投影するわけにはいかない、というか投影してない「ふりをする」ようにしていないとマズイのである。

簡単に言うと、この世に生きる私たちはとりあえず「私は人畜無害ないい人ですよ、あなたもそうですよね?」というふりをする。人はそういう「ふり」を身につけて生まれてくるわけではない。生まれたばかりの赤ん坊が栄養だけを与えられ野に放り出されていたらいわゆる「普通の人間」にはならないだろう。他者とのかかわりの中でそういう「ふり」「在り方」を覚え身につけていくのである。これが一般的に社会化されるとか成熟するとかいうことなのである。エゴの本性を隠して(というか、隠す・誤魔化すということ自体が既にエゴの本性である)、エゴによって作り出されたこの世界を何とか維持していくための「自己像」を身に着けていくのである。

言うまでもなく、神から離れて作り出されたこの世界に神はなく、従ってこの世界はどこまでも邪悪になることができ、それと同時にはかないものでもある。そのことを嘆き悲しみつつも何とかケナゲにやっていく、というのがもっとも一般的な「自己像」なのである。もちろん、世界が邪悪なんだから自分だって邪悪でいて何が悪い!という自己像の人もいるに違いない。しかし、そういう人たちだって邪悪に「うまく生きていく」ためにはそれなりの仮面を必要とする。たとえば邪悪な仲間たちの中においては「自分はあなたたちの仲間なんですよ」と思わせるような自分でいなくてはならない。それがどんなところであれ、自分が生きていこうとする場所においては、それにふさわしい「自己像」を持っていなくてはならないのである。

このような仮面=自己像が剥がれて本来のエゴの邪悪さがむき出しになることを私たちは死ぬほど恐れる。それは「この自分」の、そして世界の破滅につながるからだ。自分が「まじめに」やっているにもかかわらず理不尽なひどい目にあったりすれば、もちろんそれは相手が悪い、世界が悪い、神が悪いから、ということになる。そういう「敵」に対抗するために自分だってちょっとは攻撃したって悪くないわよね!悪い人なんてたくさんいるんだから、その中でやっていくためにはこれくらいのことをしたっていいわよね!と私たちは怒りや攻撃を正当化する。正当防衛なんだからいいじゃないか、正直者は馬鹿を見るのよ、無垢な人ほど傷ついて損するのよ。そう考えるのである。それでいてやっぱり「私は間違ってない、当然のことしかしていない、私は悪くない」という自己像を持ち続ける。これは普通に考えても十分な自己欺瞞である。

しかし、個=エゴとして生きていく際に生じるより根源的な欺瞞はあらゆる「他者」に対して実は「あなた本当は私の敵ですよね?あなたが私を不幸にするんですよね?私のことなんかイヤなんでしょ?ホントは私を非難しているんでしょ?」と思っている部分を見ずに覆い隠していることである。何のことはない、実際には自分自身が自分についてそう思っているだけなのだが、エゴ=個である以上それは他者に投影されると決まっているのだ。

もちろん、誰だって自分が内心でそんなことを考えているとは思いたくない、認めたくない。だからこそそこを見ない(ふり)で覆い隠すわけである。が、覆い隠せば覆い隠すほど抑圧され、いつかどこかで暴発するものだ。それがいわゆる被害妄想みたいな「狂気」になる。つくづく、間違いはそれが間違いだと気づいて認めない限り正すこともできない、のである。

第282回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 246・247

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 246

第31章 その3

目の前の、或いは心の中の相手(人でも組織でも国家でも世界でも)がどう見えているか?ちょっと立ち止まってこう考えなさいと「コース」は言っている。要するに投影の原理である。

「私がこの兄弟姉妹に与えているのは、私自身が求めている答えなのだ。私が彼(女)についてわかっていることは、私自身についてのことでもあるのだ」

これは日常生活で実践するとものすごくパワフルな助けになるので、是非お勧めしたい。誰かに何かを話すとき、それがあたかも自分自身に向けられた言葉であると感じてみるのだ。あなたはもっとこうしたほうがいいわよ、などと自分が言うのを自分自身に向けられたものだとして受け止めてみるのだ。誰かについて何か思う時、それが自分のことでもあると受け止めてみるのだ。それが無理でもせめて「私はそうならないようにすごく気を付けよう」と肝に銘じることくらいならできると思う。

もう一つ、これが非常に大切なことなのだが、常に立ち止まって「私には何もわかっていない、私は何も知らないのだ」と自覚する。わかっていると思い込む、わかったつもりになる、これほど危険なことはないのである。こうなってしまうと学びも気づきも不可能だ。

そして、どんな人についても、彼らがどれほど自分とは違うように思えても、「この人(たち)も私と同じなんだ、私はこの人(たち)と同じなんだ」と認めること。神において一つなのはもちろんであるが、たとえばあなたがある人を見て「間違ってる、バカだ」と思ったのなら「そう思う私も同じように間違っていてバカなんだ」と考えるべきなのである。つまり「学びの途上にあるという点ではあの人も私も同じなんだ、程度の差なんか関係ないんだ」ということでもある。スピリチュアルに勤しむ人々はここでつまずきやすいのでくれぐれも注意していただきたい。

それどころか、あなたがエゴに転んだその分だけ相手も後退するのである。ここは非常にわかりづらい、理解しづらいところだと思うのだが奇跡がもたらされる原理に通じるところでもある。あらゆるものはまず自分(のマインド)において正されるのだ。

別に具体的に、というか身体どうしとして一緒に何かをしろというのではない。ただ、相手に対して怒りや批判・非難の気持ちを抱くかわりに「一緒に頑張りましょうね」と思っていれば良いのだ。それくらいならできると思う。

ここで、ちょっと補足。あなたが停滞すれば相手の歩みもまた遅れてしまう、とは要するに停滞したあなたの目には相手がダメな人に映ってしまうということでもある。そして、ある人が目覚めているか、とんでもなく深い智慧を持っているかなどということはいわゆる「凡人」には絶対にわからない!のだし、逆に目覚めた人や深い智慧を持った人は自他の批判や非難などしないものである。こいつはわかっとらんな、ということは見えてもだからといって分け隔てもせずダメとも思わず批判も非難もしないのである。そして、目覚めたり深い智慧が出てきたりすれば、今までダメな人だと思っていた誰かの中にも聖霊が見え、その人もまた学んでいることが見えるようになるものである。更に、そのようなものとして接し扱ったりすることによって相手の学びがますます進むこともある。

いまどういうふうに映っていようとも、私たちはみな同じ目的に向かって歩んでいるという点において同等である。当人がそのように自覚していなくても、全くトンチンカンな方向に走っているように見えても、やっぱり誰もが本来の自己を回復しようとしているに違いないのだ。ただ「途上にある」という点において同等だ、という理解は日常生活においても非常な助けになる。

私たちは神のひとり子なのだから、キリストは等しく私たちの中にあり私たち自身がキリストである。そして、キリストはあらゆるものに対して同じように呼びかけている。キリストの呼びかけは一つ、そして私たちの応答もまた一つなのだ。即ち、愛である。

新たな学びのために古い学びを捨てる、それは自然なものとして行われるのであって、無理やり何かを捨てようとか否定しようなどという「闘い」によってなされるものではない。形ではなく考えが問題になっているからだ。お金にこだわるのは良くない!と思って全財産を処分して「私はお金を捨てたの、大切なものを捨てたの、すごいでしょう」と言うならトホホなのである。変な話、お金に関する罪悪感やこだわりが邪魔していたために全然稼げなかった人ならば、そういう余計な学びをなくしてからのほうが「自然に稼げる」ようになったりもするのである。もちろんお金に限らない。人間関係でも健康でも同じことなのだ。

今までひどいことばかり考えていた、罰当たりなことばかりやっていたと気づいても自分を責めさいなむ必要はない。そんなことをしても何にもならない、自己憐憫は何も生み出さない。ただ「間違っていた、愚かだった」と真摯に受け止め認めればよいのである。あなたに必要なのは懲罰ではなくゆるしと解放なのだ。求め方が間違っていた、そのことに気付けば間違いは正される。そして感謝と平和と喜びに満たされたマインドとして在ればあなたは周囲の人にもそれらを与え教えることができる。何より、「私が本当に求めていたのはこれだったのだ」という気づきと理解、これこそが学びのキモなのだ。

あなたの周囲のあれこれ、あなたの周囲の人々がどんなふうに見えてもそれに振り回されないようにしよう。あらゆる現象、外観をゆるすとはそういうことでもある。それは相手を甘やかすこととは全く違う。場合によってはむしろ厳しく見える接し方をするかもしれない。慈善と慈悲とは違うのである。慈善はわかりやすい。が、慈悲は一見厳しく冷たく突き放すように映ることもあるのだ。

何かの現象があなたにとって恐ろしいもの、憎むべきものに映るならそれは「いにしえの、間違った学習の結果」なのである。神から離れてしまった私たちは罪深く無力だ、神が与える懲罰の前には為す術もない、という学びの結果なのである。

または、誰かが平和と喜び以外の状態にあるように見えるなら、その人は本来の自分を見失っているのであり、それを現実にしてしまえばあなたもまた本来の自分を失うことになる。実際に怪我をしている、病気をしているなど「見てわかるような苦しみ」に遭っているようであってもそういう見かけ・現象に目をくらまされてはならないのだ。初めの頃に出てきた「黄金律」を思い出してほしい。自分がしてほしいことを相手にしてあげる、自分が与えてほしいものを相手に与える。そうしている限り、私たちは「ともに歩んでいる」ことになる。時によりどちらかが先んじどちらかが遅れているように見えることもある。が、それすら単なる知覚認識に過ぎないのだ。10年も前から学び続けている人もきょう初めて新しい考えに触れた人も「途上にある」という点においては同等なのである。「奇跡のコース」にも「教師」という概念があるくらいだから、先に学んだ人が教える立場にあっても不思議ではない。が、私たちは教えることによって教えられ、相手から学ぶようになっているのである。形の上では師弟関係であってもそれはあくまで形だけのことであって、本質は同じように教え学んでいるのだ。私たちの学びの目的は「あらゆるものが神において一つである」と知ることなのだから、どちらが先だの後だのなんて気にすること自体目的から外れているわけである。

たった一人では学べない、これは繰り返し言われてきたことだ。それは「身体としての人間が近くにいるかどうか」という問題じゃない。パートナーや家族や仲間を作れということじゃない。たとえば救いや解放を求めつつ誰かを批判・非難したり優越感や劣等感に浸っていたりするなら、あなたは閉じていることになる。あなたは「一人きり」で学ぼうとしている、つまり聖霊の導きを締め出し拒絶してしまったことになる。それが本当の意味での「一人きり」なのだ。もちろん、日常の人間関係はワークの場として非常に有効である。どんな関係であれ、とにかく誰かとのかかわりや接点の中で私たちは自分のマインドの状態を検証できる、つまり「コース」を読んで学んだことが本当に身についているかどうか確かめることができる。そして、教え学び与え受け取るという経験も実際にできるのだ。そのような経験をもたらしてくれる人なら、つまりどんな人でも、あなたは「ともに学んでいる」のである。そういう心づもりで人と接するようにするだけでもかなり新鮮な経験ができるはずなのだ。

私にあるものはあなたにも彼(女)にもある。私が宇宙ならあなたも彼(女)も宇宙である。ともにそうなのだ、という理解がない限りあなたは正しく学んでいないことになる。マインドは閉じ、バラバラの状態にあることになる。あなたは目隠しをしてしまっているので聖霊の光は見えない。目隠しした状態でどうして正しい道を歩めるだろうか?道じたいはいつでも明るく照らされているのである。後はあなたが目隠しを取ればよいだけだ。

さて、これも以前のおさらいみたいなことなのだが、「恐怖と罪悪感と攻撃はワンセット」「罪悪感の強い人は攻撃性が強い」「攻撃的な人ほど罪悪感が強い」のだった。自分を責めさいなむ人ほど攻撃的だ、とはまあ当たり前の事実なのであって、攻撃の対象が自分か他者かという違いなど問題にならないのである。そこに攻撃があるかないか、それだけが問題なのだ。よく言われるのが、「私には攻撃性なんかありません!相手が先にやったんです」みたいなことだが、相手が先にやったと「思った」=知覚認識したのはあなたですよね。そうやって攻撃を現実のものにしてしまったのはあなたですよね。それを「攻撃性、攻撃的」だと言っているんです。だいたい、自責の念や罪悪感を抑圧し隠し持っている人(つまり自覚のない人)ほど、常に不平不満が絶えず誰かを批判・非難したがるものである。

相手に罪深さを見るあなた自身が、自分を罪深いと(秘かに)思っているのだ。ピンとこないかもしれないが、とりあえずそういうものだと考えておいてほしい。とにかく「相手の中に見えるものは自分の中にある」、これをまず認めないと学びは大幅に遅れてしまう。あなたが誰かを憎むのはその人が罪深いからじゃない。あなた自身が罪深いから、そしてそれを外部に投影し転嫁するから憎むのである。自分を罪深いと思っている人が自分自身を憎み攻撃するのはまだわかりやすい。しかし、そういう人に限って自覚のないままに他者を攻撃していたりするものなのだ。当人だけが気づかない、ただ「そういうつもりはない」という理屈によって正当化してしまう。

あなたがたとえ心の中でだけでも誰かのことを批判・非難し、彼(女)を「あれは間違っている、悪いことをしているんだ」と思えば思うほどあなたは自分自身の罪深さを認めていることになるわけだ。あんな人には罰が当たって然るべきだと考えるなら、そう思うあなたこそが懲罰を望み且つ恐れていることになるわけだ。

こういう消息を「なるほど、耳が痛いがその通りかも」と潔く認められればもう本当に画期的にかつ劇的にあなたは平和で幸せなマインドになれるのだ。それって逆なんじゃないの?と思う方も実際にやってみればわかる!何しろ「間違いはそれが間違いだと認めない限り正すこともできない」のだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 247

第31章 その3

ある行為が罪かどうか決めるのはマインドである。神の御心にないものは罪だと言う人もいるだろうが、少なくともそれを罪だと決めるのは神ではない。神は判断せず断罪もしないからだ。一般的に人を殺すのは罪である。が、人を殺しても罪にはならない時代や状況もあったことを考えると、何かが罪だったりそうじゃなかったりするのを決めるのはやっぱりマインドに他ならないとわかる。犯罪とは法で定められているわけだが、その法律じたいがそもそも人為的に作られ、時に応じて変更されるようなもの・・・つまり何の普遍性も持たないことは明白なのである。

もちろん、だからといって「じゃあ悪いことをしても構わないわけね」というのではない。悪いことをする、悪いことができると考える、そのこと自体が既に神から離れ神に背くという「罪」に値する、とあなたのマインドがわかっているからだ。自覚はなくてもあなたのマインドがそう信じているからだ。自分が信じていることは自分において実現されるのだから、結局あなたはロクな目に遭わないわけである。

誰かがあなたの頼みを跳ねつけあなたを突き放したとする。あなたは「ひどいことをされた」と感じるかもしれない、つまり相手があなたに対して「罪を犯した」と思うかもしれない。しかし、やっぱり見かけ=現象に騙されてはならないのである。もしかしたらそれは愛の行為だったのかもしれないのだ。テキストの初めのほうに出てきたことなのだが、慈善と慈悲は違うものであり、慈善はあくまで「行為」でありそれ故に「この世のもの」である。売名目的で多額の寄付をすることだって私たちにはできてしまう。つまり、愛がなくてもエゴの思惑だけで慈善行為はできてしまうのだ。あなたの頼みごとを心よく引き受ける人に愛があるとは限らない、もしかしたら単にそれがその人自身の利益になるという理由で、更にはあなたに恩を売りあなたを支配しようという目的で引き受けているのかもしれない。逆に、誰かがあなたの望みをきいてくれなかったとしてもその人に愛がないとは限らない。そうするのがあなたのためにならないとわかっていたから断った、そして自分が断ればあなたが怒り恨みを持つだろうことさえ覚悟していたとしたらそれはあなたに対する愛ゆえであり、それが慈悲なのである。慈悲は時として「冷淡」に見えるものだが、それはエゴ的に見ているからである。慈悲こそが奇跡をもたらすのだ。

これを逆から見るとどうなるか?あなたが聖霊と一つであり、聖霊によって知覚認識するならば、あなたはあらゆる人のあらゆる行為を「慈悲」として受け取ることができるのだ。あらゆることが奇跡をもたらしてくれるものになるのだ。たとえ、相手が本当に悪意を持っていたとしてもあなたにそれは作用しない。あなたが受け取るのは愛と奇跡だけである。何故ならあなたが愛を与えたからだ。相手を聖霊として見る、とはそういうことだ。

ところで、罪を作り出し罪を信じるのはマインドだが、実際に罪を「犯す」のは身体である。このあたりのことについては以前にも述べられておりこのブログでも解説したのだが、補足の意味も含めて繰り返しておく。

身体はマインドの指示に従って動くだけであって、身体そのものに意志はなく身体だけでは何もしないのだった。そしてマインドは罪深いことを考えるのはできても実際に罪を犯すことはできないのだった。となると実際に罪を犯すのは常に身体だということになる。そんなつもりはなかったのに殺しちゃったんです、などということもあるが、その場合だってマインドが「攻撃」を信じ「攻撃」を現実にしているのは明らかなのであって、身体はそれに従って動いただけである。空振りに終わろうが実際に相手が死に至ろうが、マインドが「罪悪感、恐怖、攻撃」を現実のものだとしていたことには変わりない。望んだ覚えはないのに病気になった、というのもまずマインドが「攻撃」を信じ「攻撃」を現実にしたからこそ身体がそれに従って自ら「病気」という攻撃を身体に与えたわけだ。

実際の行為に及ばなければマインドが何を考えても「罪」にはならないのか?聖書には「心の中で姦淫したら実際にやったのと同じことだ」と書いてあるではないか?

キリストのこの言葉は偽善者を戒めるためのものだったのだが、これはある意味その言葉通りなのだ。何故なら心の中で自他を問わず攻撃してしまった時点であなたのマインドはそれを「罪だ」とわかっているはずだからである。法的な犯罪「行為」にはならなくても、マインドにとってそれは「神に背いた罪」或いは「本来の自己を偽り欺いた罪」であることに間違いないのだ。何であれいわゆる「悪い考え」を心に抱くことじたいが神によって断罪されているのではなくて、要はあなたがそれを自覚はなくても自分のマインドにおいて「罪」だと認定してしまっているのが問題なのだ。

だいたい、それがたとえ自分自身に向けられるものであったとしても、攻撃するとか傷つけるというようなことは身体が介在するに決まっているのだ。それらは「みんなバラバラの個」であり「自分を傷つけうる他者が存在する」という思い込みが前提になっているからであり、あなたの身体でなく心が傷ついたのであってもそれは誰かの「思い」ではなく「行為」や「現象」が「原因」に決まっているからだ。ああ、私は間違っているんじゃないかしらと考えて落ち込み苦しむのも一種の攻撃だが、このように自分のマインドの中だけで行われているようなものでもそれが攻撃である以上やっぱりその根っこには身体=他者があるのだ。でなければそもそも「攻撃」「恐怖」などという概念を持つこともなかったはずだからである。

前にも書いたことだが、いくらとんでもない考えを抱いたり人に話したりしたとしてもそれが「絶対に実現不可能」とされるようなものであれば「アタマおかしいんじゃない?」と思われることはあっても罪深いとは思われないのである。実際にやってもやらなくても実現可能であるような「悪いこと」を考えれば「罪深い」とされ、罪悪感に陥るのである。

くどくど書いてしまったが、要するに罪と身体とは不可分のものであるとだけわかっておいていただきたい。つまり、何であれあなたが「罪である」と思われるようなことを考えている時あなたは神のひとり子ではない「身体」になっているのである。そう思っておいていただきたい。

一般的に言って罪とは「行為の結果」である。そして行為するのは身体である。罪じたいは目的にならない。罪なる行為は「私たちがバラバラで罪深い存在である」という思い込みを保持するための手段でしかない。罪を犯すべき身体があり、身体が自分であり、あるいは身体の中にマインドが不自由な状態で閉じ込められている、それが私たちの不幸なのではない。何故ならそれは事実ではないからだ。私たちの不幸はそれが事実であると信じ込んでいるところにある。それが事実であって自分にはどうしようもないと信じ込んでいることこそが私たちの不幸なのである。

目的を抱けるのはマインドだけであって、それがどんなものであっても身体はその目的に従って動くようにできている。先に書いたように「攻撃」もそうだし、「慈善行為」だって「売名」という目的に従って「多額の寄付をする」と動きを身体が行ったものである。

心の中で悪いことを考えても実際にやらなければ誰にもバレない、そう思えるのは心が身体の中に閉じ込められていると信じているからだ。それは好都合なことだろうか?心=マインドが身体の中に閉じ込められているのならマインドがいくら良いことを考えても相手には伝わらないはずである。つまり奇跡はもたらされないことになってしまう。どうせバレないんだから正さなくたっていいわよね、と思っていればまさにそのことによってあなたは奇跡を受け取れなくなってしまうのだ。心の中が丸見えになっても何一つ恥ずかしいことがないようにしておきなさい、なんて古臭い修身のようだがマインドをオープンにするとは結局そういうことなのだ。誰かに対してだけではなく、自分自身に対して隠し事や誤魔化しがあればあなたはマインドを開くことができないのである。

身体に閉じ込められたマインドは不自由に決まっている。マインドの思いは身体に阻まれて行き場を失ってしまう。身体はまるでマインドを閉じ込める牢獄のようなものになる。マインドが囚人なら、看守は誰か?当然のことだが看守もまたマインドなのである。私たちのマインドは分裂してしまっていて互いに敵対する部分もあるからだが、よりわかりやすく言えば看守を務めているのはエゴである。エゴが消えればもうあなたを幽閉する看守はいない、あなたは自由だ、そしてそもそも牢獄になんか初めからいなかったのだということもわかる。

あるいは、身体は牢獄であると同時に看守であるとも言える。当然ながら看守は囚人の言うことなんか聞いてくれず、むしろ囚人を自分の思い通りにするだろう。しかし、「看守は囚人の言うことをきかず、囚人を自分の思い通りにする」と決めて看守に命じたのはそもそも囚人であるはずのマインドなのだ!看守には自分の意志などない、それはまるでロボットみたいなものなのだ。何で私たちはわざわざこんなことをしているのか?といえばそれは「自分たちが罪深いと思っているから」に違いない。しかし、こんなことをしているせいでますますマインドが閉じて身体の横行を許してしまえば、普通に考えても私たちはますます罪を重ねてしまうことにならないだろうか?盗むつもりはなかったんですけど手が勝手に、とか怒鳴るつもりはなかったんですけど口が勝手になど、そんな「つもり」はなかったが身体が勝手に動いてしまったという厄介な事態を繰り返すだけにならないだろうか?一時の感情に乗っ取られ押し流されて思わず言ったりやったりしてしまった、なんてことは誰にでも覚えがあるだろうが、ネガティブな感情というものは必ず「攻撃」と関連がある、即ち身体的なものだと決まっているのだ。あなたは身体と同化していた、あるいは身体に乗っ取られていたのであり、結局「神から離れ本来の自己からも離れていた」ことになる。

ところで、自分を身体と思い込んでいるものは何か?身体と自分を同一視しているものは何か?いうまでもない、マインドである!自分が罪深いと信じているマインドはこのようにしてその罪深さを維持しているのである。あまりに罪深い自分は死ぬしかない!と思って本当に死んでしまう人も少なからずいるわけだが、死んだってつまり身体がなくなっても罪は消えない。自分を罪深いと信じ、それを身体に押し付けたマインドは残るからである。「コース」の論理に従えばそもそも罪深くなかったら死ぬ必要もない、というか死ねない。

とにかく、かくのごとくマインドは自ら望んで!!マインド自身を身体の中に閉じ込めている。「危険な他者」と自分とを分け隔てておく要塞として身体を利用しているつもり、その一方で「危険な他者が存在する」と信じるマインドが投影された身体は脆弱で、身体であることによって常に病や負傷や争いなどの危険にさらされるという皮肉なことになっている。そしてマインドはそれに対して為す術がない、何故なら身体はマインドの思い通りにならない「他者」になってしまっているから!そんな次第なのである。

第281回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 244・245

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 244

31章 その1

ついに「コース」テキスト篇も最終章になってしまった。救いってすごくシンプルでしょう簡単でしょう、それがうまくいかないのはあなたのやる気が足りないからです、本当にそうしたいと思っていないからです、と「コース」は言っている。確かに奇跡も救いも構造としては腰が抜けるほどシンプルである。それが今の私たちにはどうにもやりづらく難しいものに映ってしまうのはやはり「従来の常識とは全く相いれない、全く正反対」のものだからだろう。「コース」もそこのところは認めてくれている。が、それと同時に「コース=救いに至る道を学ぶのが難しいとは言わせませんよ」とも言っている。やりづらいのはそれが難解で厳しいからではないんですと言っているのだ。

難解で厳しくて複雑で、というならこの世界を「現実」のものとして成立させてきた私たちのほうがよっぽど難解で厳しくて複雑なことをやりおおせてきたと言える。何しろ、間違いを「正しいもの」として、幻想や妄想を「現実」として、つまり「ウソが本当であるふりをし続けて」きたのである。1足す1は2に間違いないのだが、もしもそれが3だったり5だったりにしておこうと思ったらメチャクチャに複雑なことをしてしかも途中でしっかり間違えるように仕組んでおいて、などという手順を踏まないとならない。あるいは、自分の正体を隠して全く別の人間として別の世界で生きていこうとするのはものすごく大変なことに違いない。そのためにどれほどの努力や苦労や犠牲が必要とされるだろうか?しかも、「苦しい現実を忘れるために楽しい夢に逃げ込む」のならまだわかるが、私たちがしでかしたのはそれとは全く正反対のこと、何一つ欠けることのない完全な幸福と喜びと平和の状態からわざわざ「辛く苦しい”現実”」に逃げ込み、あろうことか更に苦労してそれを維持しようとしてきたのである。ウソの世界を現実にしておくためにはいろいろな仕掛けが必要だし、ウソを現実=真実と信じるためにはかなり無理をしていなくてはならないではないか。

私たちはそういうことをずーっと、こう言って良いなら人類規模でやってきたのである。そもそもの初めはやっぱり「私は神のひとり子ではない。私は神とは違い、みんなとも違う個体である」という間違った思い込みを「真実・現実」にしてしまったことである。こんなにとんでもない大変なことを「学んで身につけた」あなたたちが、救いに至るための学びを難しいなんて言ってはいけません、「コース」はそう告げている。更に、その「神のひとり子ではない。バラバラの個体」という思い込みを現実にするために「身体」が作り出されたわけだが、身体にまつわるあれこれは当然上記の思い込みをますます現実らしく見せるようにできているのである。更に厄介なことに、与えることは受け取ることであり学ぶことは教えることでもあるという原理が存在する。私たちは誰でも学んで身につけたことを「当たり前」のようにやって日々生活しているのであり、それは「当たり前の現実」として周囲に示される。そういうことをみながお互いにやっていれば誰もその虚構性を疑わないで済んでしまうのだ。

「コース」曰く、学んで覚えて身につけるという私たちの「学習能力」にはとんでもないパワーがあるそうだ。ウソを真実にしてしまったりありもしないものを現実にしてしまったりするくらいなのだから、まあその通りなのだろう。何しろ世界や身体を作り出してしまったのだし、それを手放してしまったら世界はなくなるくらいなのだから!

とにかく、私たちは「本当ではないこと」を学んで身につけてしまったために「本当のこと」が覆い隠されて見えなくなったのだ。これ以上ないくらい単純で明瞭なことが見えない、それが却って「難しいこと、ありえないこと」であるようになってしまったのだ。そういう今までの常識あるいは思考システムを解体することこそが「コース学習」であるとも言える。

前にも出てきたことだが、そもそも「学び・学習」とはやはり私たちが作り出した概念であり能力である。ミもフタもない言い方をすればまあ「間違いの副産物」みたいなものである。本来の状態つまり神において一つのままであれば真理は直接知られ、あるいは自分がそのまま真理であるようなものなので、私たちは何も認識することができず認識する必要もない。知らないことが何一つなく、あらゆるものが既に自分のものとして(というか自分と一つのものとして)あるのだから何かをわざわざ学んで身につける必要もないのである。即ち、学習(能力)とは、ウソを本当にしておく或いは幻想を現実のようにしておくという必要に迫られて作り出され発達してきたのだ。たとえば言語がなくても、言語を介する以上に完全なコミュニケーションが可能であれば言語を覚える必要など誰も持たないだろう。もっと言ってしまえば、何であれ「必要がある」という状態そのものが既に「ありのままで完璧」ではないことを示しているのだ。本来の状態=天国にあれば、「必要」とされることなど何一つないのである。

そして、私たちが勝手に作り出してしまったものでも正しい目的のために有効利用してくれる聖霊は、やっぱり学習能力も同じように役立ててくれるのだ。というか、聖霊に従っていればイヤでも正しい目的或いは神の御心に適ったことが学習されるようになる。

「神のひとり子は罪深い、もう神のひとり子ではないのだ」という、まともに考えれば絶対にあり得るはずのない思い込みを現実にしておくために学んでいれば学習の結果もそれを反映するものになる。やっぱりお金が必要だ!美しい身体でないと価値ある存在だと思ってもらえない!とか、私が神の一つのものなんかであるわけがない!私はこんなにも無力だ!などという「現実」がますます強固なものになるわけだ。一方、聖霊に従って学ぶならその学習の結果も正反対のものになる。即ち、自分は神のひとり子でありあらゆるものが一つである、ゆえにあらゆるものが神のひとり子である、という考えが現実として経験されるようになる。言い換えれば、真の幸せと平和と喜びを目的にした学びなら当然のように真の幸せと平和と喜びという結果をもたらすのである。

この世における私たちの学びは全て罪悪感や恐怖を現実のものにしておくためのものである。つまり、それが目的になっているのだ。世界平和、人類平和を指向するのは結構なことだが、人々の恐怖心に訴えるようなやり方をしていたのでは意味がない。平和のために○○に反対しましょう!○○はこれこれこんなふうに、これほど恐ろしいものなんです!その恐ろしさを知りましょう!そう叫んで○○撲滅に成功したところで「恐怖が現実のものである」という思い込みはますます強固に保たれてしまう。それに呼応して新たな恐怖の原因がまたぞろ出てくる、という終わりのない繰り返しになるのだ、というか実際にそうなってきたのだ。自分にとって危害をもたらすようなものを現実にしてきたオノレのバカさ加減だけを知れば済むことだったのだ!そうすれば自動的に恐ろしいものは「なくなる」はずではないか。

真理は学ぶことができない。学ばれるようなものではない。が、私たちが本当にマインドを開いて聖霊に委ねれば、真理から派生するようなあれこれを経験するようになる。あなたが生きて住んでいる環境は昨日までと同じものかもしれないが、見かたや捉え方が変わる=知覚経験が変わることによって世界が一変するのである。マインドの中のエゴの騒音やアジ演説にかき消されて今までは聞き逃し見逃していただけで、聖霊のメッセージは至るところにあったのだ、と気づくだろう。あらゆる人、あらゆる事物が神=聖霊の愛をもたらしてくれるようになるだろう。何気ない日常の光景の中に、昨日まではとんでもない争いや苦しみに見えていた事柄の中にさえも聖霊のメッセージを聴くことができるだろう。要するに知覚認識機能が正されれば自動的に、イヤでも世界は一変するのである。

神の御心を代弁する聖霊の声は小さいので注意していないと聞き逃します、とも言われるが。別に聖霊の声が小さいのではなくてエゴの声がバカでかすぎるのである。何故ならエゴの目的は聖霊の声に気付かせないことだからだ。マインドを鎮めればエゴも小さくなるので。その分聖霊の声が聞き取りやすくなるわけである。聖霊の声がちょっと聞えちゃったときに恐ろしくなって耳をふさぎ、エゴの声だけに集中しようとするケースも少なくない。聖霊の声は今までの学びを全て覆すことに、即ち今までの自分(と思っていたもの)を全て否定することにつながるからだ。

どんなものであれ、あらゆるものに聖霊が宿っている、というのはまるで事物に魂があるように聞こえてしまうかもしれない。そうではなくて、あなたが聖霊=神のひとり子であれば、あなたが見るもの全てが聖霊になるのだ、ということである。そういう意味においてあらゆるものに「宇宙の意志」あるいは「普遍的意志」「普遍的なこころ」が宿り働いている。ああしたい、こうしたいと(エゴ的に)望んでいるわけではない。ただ「神の御心のままに存在する」という意志=心なのである。「コース」の表現に即して言えば、それこそが「生きる」ということであり、あらゆるものが「生きる」意志を与えられ且つ保っているのである。まず自分がそのような状態(のマインド)になっていないとこのことが見えない、わからない。あなたが神の御心のままに存在する神のひとり子だと自らを認めたとき、もっと簡単に言えばマインドを感謝と平和で満たした時、あなたは聖霊の呼び声にあるいは宇宙的普遍的な心に応えたことになるのである。あなたが罪のない無垢な状態にあるときだけ、あなたは神の愛に応えていることになる。神の愛を与えられ受け取るとはそういうことに決まっているではないか!自分自身が神の愛だったら罪深さなどありえないに決まっているではないか!当たり前すぎてガックリくるくらいにシンプルな事実である。何かを恐れつつ生きている限り、神は愛でも救いでもなく恐怖の権化になる。どこまで行っても愛と恐怖とは相いれない、共存しえないことをお忘れなく。

神が「罪深い私たちに懲罰を与える」ような恐怖の権化になるのもやっぱり学習の成果?に他ならないのである。何故なら神とは元来そんなものでありうるはずがないからだ。私たちが「そういうものである」とわざわざ規定し直しそれを頭に叩き込まない限り、神が愛以外の何かであることは不可能だからだ。

今更言うまでもないが、間違った学びを落とすために必要な学びとは情報を知識としてため込むようなものではなく、むしろそれらをも落とすことである。そして真の理性をして働かしめることである。即ち、純粋理性=聖霊に委ねて生きることである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 245

第31章 その2

恐怖と憎しみとは同根、本質的に同じものである。憎しみとは恐怖から生み出されるのであり、恐怖の変形に過ぎない。あなたは自分が憎んでいるものを恐れ、恐れているものを憎んでいる。あなたが神を恐れているならあなたは神を憎んでいることになる!それは普通に考えても背徳であり罪深いことなので当然ながら罪悪感は強化され、それに伴って恐怖もますます強くなる。

どんな形の恐怖や憎悪にまみれていても、その向こうには常に必ず神=聖霊の愛がありあなたにささやきかけてくれているのだ。それをキャッチするにはやはりマインドを開かなくてはならない。恐怖や憎悪でマインドを閉じていたのではダメなのだ。すなわち、ゆるしが必要なのである。言い換えればマインドを感謝と平和で満たすことが必要なのである。聖霊が理解できるような言語で応えなさい、と「コース」は言っているが、要するにこういうことなのだ。ゆるせばゆるすほど、感謝と平和を与えれば与えるほど、聖霊はハッキリ現れるだろう。そして「神は愛なり」だとあなたに教えてくれるだろう。カミハアイナリ?ピンとこないかもしれない。しかし神が愛であり、あなたが神のひとり子であるなら、あなたは愛なのだ!あなたが愛ならばあなたの経験するあらゆることが、出会うあらゆる人々が愛なのだ!そのことがわかるようになるだろう。愛に満ちた幸せな世界、愛に満ちた幸せな人生!それこそがあなたのもっとも望んでいたものではなかったのか?お金や地位や名誉やパートナーやその他いろいろなものを求めていたのも結局はそのためではなかったのか!

またまたしつこく繰り返すが、何らか苦しみや災難や不調和を経験しているならあなたはそれらを「望んで」いるのである。自覚はなくてもそうなのだ。というより、この際ハッキリ自覚なさっていただきたい。どんなことが起きているように見えたとしても、その中で「あなた」が知覚経験していること、「あなた」が感じていることは全て「あなた」が選んだ、あなたがそう欲した結果なのだとまず認めよう。そして、その時あなたは自分自身を欺いている、自己欺瞞に陥っている。「神のひとり子」である本来の自分を忘れ「苦しむ個人・人間」に自分を仕立てあげてしまっている。神のひとり子以外のものになりたい!幻想を現実にしたい!間違いを真実にしたい!という誘惑に負けてしまっている、とも言える。いわゆる悪魔の誘惑ってこういうことだったんですね、って感じである。

本当はどうなりたいのか?何が欲しいのか?それをよく考えてみればよいのだ。あなたは本当に「それ」を望んでいるだろうか?今・・・「いま」ですよ、今それが得られていないならあなたはそれを望まなかったのだ。自分を欺き、何か別のものを求めてしまっていたのだ。ただ喜びと平和を求めなさい、というよりあなたは実は常にそれらを求めているはずである。そして、世界は喜びと平和に満ちている!何故ならあなたがそれらを求め、求めたから与えられ、受け取ったものはまた与えられるからである。あなたが喜びと平和を与えた世界から、あなたは喜びと平和を与えられるのだ。言い換えれば、あなたがマインドを喜びと平和で満たしている限り、世界はあなたに喜びと平和を与えるものになるのである。

いわゆる「他人」についても同じことが言える。以前にも書いたことだが、誰かを聖霊だと見るのはたとえばその人を「まるで初めて会う人のように」見ることでもある。その人に関する今までの知識や過去の記憶を全て脇にどけて見ることである。その人に関する今までの「学習記録」も、自分がその人に抱いていたイメージも全て棚上げして見ることである。そして、平和と喜びだけを「目的」に定め、そのうえで相手を見る。そうすればお互いに全く新鮮な存在として生まれ変わることができるのだ。あなたは相手に新たな生を与え、それによってあなたも新たな生を与えられるのだ。

もっとも、実際にそういう見方をした場合、今までの目くらましが全部剥がれ落ちるので「この人ってこんなんだっけ?」「こんな人のどこが良かったんだろう」みたいになることも少なくないと思う。そういう「新たな」判断や知覚経験にも抵抗せず、そこからまたゆるし始めればよいのだ。ここでその「新たな知覚経験・判断」にとらわれてしまっては意味がない。たとえば、今まで自分のエゴだけでいっぱいになって何も見えていなかった人がちょっと理性を取り戻せば、いわゆる「相手の内在論理」がわかるようになる。それは単なる理解の一助にすればよいのであって、その内在論理を新たな批判・攻撃材料にしてしまうのでは結局何も進んでいないことになるのだ。いいとか悪いとかそういう「判断」を一切保留にしておくことがどうしても重要なのである。

いずれにしろ、過去に学んだあれこれを棚上げして捨てる作業が極まれば「罪悪感と恐怖と憎しみ」を捨てることにつながる。神から離れてバラバラの私たち、という「学び」を捨てることにつながっていく。

私は相手に関する先入観を捨てて新鮮に見ているのに、相手がそうしてくれないから関係が好転しない、などと思わないでほしい。何故ならそう考えてしまうということ自体が、そう見えてしまうマインド自体が既にアウトだからだ。あなたはまたしても「相手のせい、自分以外の何かのせい」にしてしまった!だから、「相手がどう見えているか」なんてことは意に介さないでただ続けていれば良いのである。

今迄の間違った学び、古びた教えはただ消えればよいのである。新たな教えや学びが古いものに打ち克つのではない。そこには一切の対立がないのだ。ましてや「折衷」など最もありえない。

ファンタジーには必ずと言っていいほど「善と悪」の対立がつきものである。善が悪と戦って勝利する、真理が虚偽と戦って勝利する、そういう構造自体が既に幻想なのだ。虚偽が真理に戦いを挑むのはどうぞご勝手に、なのだが、真理はそんなものには一切反応しない。だって絶対不変なんだから!真理は負けることがない、という以前に戦うことがないのである。エゴに負けるのは真理ではなくあなたのマインドだけだ。あなたに戦うべき敵があるとすればそれはあなたが作り出したものに決まっている。敵という概念じたいが幻想の中にしかないからだ。あなたが傷つくとすればそれは幻想の中においてのみであって、真のあなたが傷つくことはあり得ない。夢の中で切り付けられて深手を負っても目覚めればあなたは無傷のままである。

前にも出てきたことだが、幻想の中でいくら選択し直したって何にもならないのである。一つの偶像を捨てて別の偶像に走っても結局同じようなことになるのだ。そんなものは選択と呼べない!それこそ脳梗塞の代わりに心筋梗塞、みたいなものであって、病の代わりに健康を選ばない限り何の意味もない。

そもそも、究極的なことを言えば自由な選択など実は「ありえない」のである。私たちが自由に選べる、選択の自由があるのは良いことだ、という考えそのものが既に幻想なのだ。真理か虚偽か、聖霊かエゴか、愛か恐怖か。私たちは日々毎瞬そういう選択をして生きているのだと散々教えられてきたわけだが、本当にわかっていればこんなの選択する余地さえないことではないか。わざわざ選ぶまでもないことではないか。愛と恐怖が目の前にあって、それらを正しく見ることができる人だったら「選択の自由」があったとしてもためらうことなく愛を選ぶに決まっているではないか。

たとえば、先になる者でいるか後に続く者でいるか、それぞれにメリットデメリットがあるはずである。私たちは往々にしてそれらの「いいとこ取り」をしようとするのだが、そうしてしまうと結局はどちらにおいても用をなさなかったり、常に足場が不安定だったりという結果になる。同じように、ある人について友人でもあり同時に敵でもあるという状態、仲良くしておいて隙あらば出し抜こうとか出し抜かれないように警戒していようとか、これまたこの世では珍しくもない。友人どころか夫婦や家族においてさえ大いにありうることである。しかも、それが普通に愛とか呼ばれたりしているのだ。和尚なら「あなたたちが愛だと思っているものは搾取の手段に過ぎない」と言うだろう。

あなたが相手に期待している役割を相手が果たしてくれなかったり、あなたの気にっている役割を相手が奪い取ろうとしたりすればその「愛もどき」は簡単に憎しみに変わる。相手は友人と敵との間を行ったり来たりする。そして、完全に「用なし」とか「有害無益」な存在だと判断されればただ憎まれ攻撃される。場合によっては万死に値すると判断される。

あなたはその都度、自覚はなくても「自由に選択」しているのだ。今のところ私はこうしたいから相手にはこうしていてほしい、そう「自由に」考えて役割を選び相手に押し付けているのだ。しかし、相手もやっぱり同じことをしているのである。お互い「自由に」選択しあっているのである。これが混乱と争いをもたらさないはずがない。

しかし、よく考えてみればというか考えるまでもなく先に行く者は後から来るものがいなければ先には立てないのだし、先の者がいなければ後に続く者というのもまた存在しない。相手は人だとは限らない、組織でも世界でも何でも良い。とにかく一方の利益がもう一方の損失になるかもしれない、という構造そのものが問題なのだ。その構造の中にはまっていればどんな選択をしたところで混乱と争いは免れない。意味のある唯一の選択は、その構造から抜け出すことを措いてない。

他者(なんかないのだが!)との関係において何らかの役割を押し付け合っているとき、あなたも相手も「生きた」存在ではなくなっている。たとえば、社会的には上司と部下の関係にあってそれなりの作法に則って接すべき相手であっても、その本質に愛とゆるしがあれば、お互いの解放のために役に立ちたいという気持ちがあれば、社会的な役割は何の妨げにもならないだろう。

ここでまた投影の原理が出てくる。あなたが相手の中に見るものはあなたの中にあるのだ。相手があなたに求めているように思えるものがあなた自身の中にあるのだ。相手が苦しんで見えたり、或いはあなたを苦しめたがっているように見えたりするならあなたは自分が苦しみたがっているのだ。苦しみ・・・怒りや罪悪感や憎悪は全て「愛を求める叫び」なのだった。ならば相手もあなたも愛とゆるしを求めているのである。だったら与えればよい。つまり、例によってまずは自分のマインドを感謝と平和で満たせばよい。

第280回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 242・243

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 242

30章 その9

奇跡による癒しとは文字通り「奇跡」であるので、一切の区別なく一様にもたらされるものである。しかし、この世的現実においては「さすがにこれはダメだろう」「あの人には起こったが私はダメだった」などというのが普通だったりする。これは奇跡による癒しの力に限界があるからではなく、受け手である私たちの側が勝手に限界を設けてしまっているためだ。

原理原則からすれば奇跡による癒しにできないことは何もないのである。ならば、たとえば失われた歯や脚や腕を元に戻すなどというものだって可能なはずではないか。身体は幻想であり実在しない。ゆえに身体はいくらでも変化しうるものである。だからこそ奇跡や癒しが可能になるのだ。本当の現実は絶対不変なのだから一切変化することはないし、また変化する必要もない。そのままで完全無欠なのだから癒しも奇跡も必要ない。逆に言えば、癒しや奇跡が必要なのは歪んだ知覚認識による像=現象だけなのである。

腹痛が一瞬で治ったとか一晩で3キロ痩せたとか一か月でハゲがフサフサに!とか手遅れと言われた癌が消えた、などというのなら「普通はあり得ないけど時々耳にする」くらいのレベルのことだと思われているだろう。しかし、「常識からいってさすがにこれはないだろう」というものもいくらかはある、と私たちは信じている。「コース」によればこれは「どうやっても赦されない罪と言うものがある、どうしても正せない間違いというものがある」とか「この世界=人間は神よりも力がある。神は私たちを完全に救うことはできないくらい無力な存在である」などと信じるのと同じことなのである。ということは、これまでの「コース」の教えに従えば「神に対する冒涜だ」となってしまう。

更に厄介なことには、「奇跡による癒しにだって限界がある」という思いそのものがあらゆる奇跡や癒しを拒んでしまう結果につながったりするのである。これは、真理に間違いが一つでも混じったらそれは既に真理ではない、のと同じ道理によるものだ。程度の差も例外もない、これはもう徹底して「ない」のだ。そのことを受け入れられないのは私たちがこの世の常識に縛られているからであり、現象にとらわれているからである。今の自分の目に見える現象こそが「変えることのできない本当の現実」だと思っているからである。

変えられないものもあるよ、というとき私たちは諦めているのだろうか?自分が望まないあれこれの現象を「変えられない」と思うのは、何と実は「変えたくない、残しておきたい」と望んでいるのに他ならないのだそうだ。言い換えればそれらの「望ましくないこと、苦しみをもたらすもの」を「絶対不変の存在」として、つまり特別な偶像として保ち続けたいと思っているわけである。全く罪のない無垢な存在なんかになれるわけない、と思っているとすればあなたは「いくつかの罪は残しておきたい」と望んでいることになるのだ。言われてみれば確かにその通りである。悲観的・厭世的とはたとえば「良いこと、嬉しいことは儚いが、苦しみは絶えない」というような考え方だが、これはもう「苦しい世界」という偶像を後生大事に守っているのと同じことなのだった。

見かけ、外観、現象に惑わされるな!傷が深かろうが浅かろうが関係ない、それは症状=現象なのであり、現象であることによって等しく「実在しない」のであり、ゆえに「奇跡的癒しによって等しく消え失せる」のである。

余談だが、恋愛などで「相手の気持ちをこちらに向ける」ような奇跡はなかなか難しいと思われたり、場合によっては「相手の自由意志を無視していることなのでやってはいけない」と言われたりしている。これがなかなか難しいとすれば、その理由は至極簡単で「そう望むのはエゴだけだから、そしてエゴに奇跡は不可能だから」である。そのほかにも、たとえば自分の人種や性別などを変えたいというのはだいたいにおいてエゴ的な願望であるため、原理としては可能であってもやっぱりダメなのではないかと思われる。奇跡的な癒しは現象や外観を変化させてしまうものだが、それはマインドの歪みを正した結果なのであって、歪んだ願望をそのまま叶えるものではないのである。このあたりは非常に逆説的なところだ。

「コース」曰く「もたらされるのが当たり前」の奇跡が滅多に起こらないのは多分私たちが「さすがに無理なものもある」という限界を設けてしまっている、言い換えればある意味でえり好みしてしまっているせいである。原則として、奇跡はあらゆる病を癒すことができるか、全く何もできないかのどちらかしかないのだ。というか、あらゆる病を等しく癒すことができるからこそ奇跡なのである。

ゆるしも愛も真理もその本質からして全的なもの、全方位的なものであるはずだ。ここだけは避けて通る、などということは不可能であり、もしもそんなことがあったらその時点でゆるしも愛も真理も全然ない状態になる。ちょっとだけある、というのは不可能なものだからだ。

とにかくここでは「じゃあ、これはどうなの、あれはどうなるの」などと考えたりしないでとりあえずでも何でも「奇跡による癒しはあらゆるものに等しく作用する」とだけ覚えておけば良い。今の自分にはわからなくても本当はこうなのだ、と思っていれば十分である。

まずはあらゆる人をありのままの姿として見るように、即ち神に造られたままの完全な姿として、何一つ欠けるもののない完全な姿として、あるいは聖霊として見るようにすることだ。それこそが正しいゆるしなのである。ものすごくおかしいことに聴こえるかもしれないが、たとえば誰かを病人だと見てそのうえで「治してあげたい、癒したい」と思ってもダメで、本当に癒したかったらまずその人を完全に健康で幸せなものとして見るのである。まずは自分の知覚認識を正すこと、自分のマインドにおいてゆるし癒すこと、ここが肝要なのだ。

更に、誰かを完全なものとして見てしまえばそこにはもうゆるすものがなくなっている、言い換えれば既にゆるされたものだけが見える。欠けているところもおかしいところも何もなくなっている。病人を癒したイエスキリストには相手が瞬時に完全な姿として映ったに違いない。そして、しつこく繰り返しているように誰かを神のひとり子として見ているあなたもまた神のひとり子に戻っている。ゆるしたあなたはゆるされている。そのゆるされて完全無欠であるところのあなたこそが本来のあなたなのである。ということで

「ありがたいことに、神はそのひとり子を自らに似せて完璧なものとして御造りになった。あらゆるものは一つなので、私も私が出会う全ての人も同じように神の栄光に包まれている」と、これこそが真実なのだった。

神の御心より強力なものなど何もない、これは非常に喜ばしいことなのだ。何故ならこの世のどんな悪でも、そして何かの幻想を現実化してしまいたいという私たちのよこしまな願望も神の御心の前にはひとたまりもないからである。これ以上の救いがあるだろうか?

真実を変えることのできるものなど何もない。ただそれは歪んで見えるだけ、私たちのマインドが歪んでいるからそう見えるだけなのだ。真実を本当に歪めてしまうような間違いを犯すことは誰にもできない。自分であれ他の誰かについてであれ「ひどい人だ」とか「苦しんでいる、気の毒だ」と思ってしまうならあなたはゆるしていないのだ。目の前の誰であってもみなあなたの救い主になる、というのを思い出してほしい。ひどい人や苦しんでいる気の毒な人にそんな力があるだろうか?あなたを癒し解放する力があるだろうか?あなたの歪んだ思いによってその力を奪ってしまってはならないのだ。

さて、世界が実在しない幻想であるならそんなものには何の意味もないはずである。神は世界を作っていないのだから、神から与えられた意味など何もないのだ。この世界、この人生は、それ自体としては何の意味も持っていない。それらに意味を与えるのはそれらを作り出した私たちのマインドを措いてない。しかし、それも聖霊によるのでない限り確固たる意味など与えられるわけもないのだ。

私たちはしょっちゅう勘違いをしてしまうが、世界の中に私たちがあるのではなく私たち(のマインド)の中に世界があるのである。そして、私たちはその都度自分の勝手な都合や判断・解釈によって世界のありようを決めてしまっているのだ。昨日まで世界は真っ暗闇だ呪われろ!と思っていたのに、たまたま今日嬉しいことがあったために一気にバラ色になる、そして明日はまたわからない。ある出来事がこの間までは不運をあらわすものだったが、今になってみると自分にとって利益をもたらすありがたいものだとわかった。救い主に見えた人が単なる頭のおかしい独裁者だった。仕事がキャンセルになってガッカリしたがそのおかげで出会った人と「運命の恋」に落ち「キャンセルには意味があったんだわ!」と感動する、しかしその人とかかわったためにとんでもない苦労をしょい込むことになった。などなど、世界や物事についての意味づけは状況次第でコロコロ変わるのだ。だからこそ世界や人生は混沌として不確定なものだ、ということにもなる。

「コース」の言い方を借りれば、こんなことになるのは私たちが目的をコロコロ変えてしまうからなのだ。平和を目的とすれば平和になり、不安を目的にすれば不安になる。私は不安を目的にした覚えなんかない!と言ってみたところで、今のあなたが不安ならあなたは不安を目的にしてしまっていたのだ。これは認めなくてはならない。

聖霊に委ねていない限り、私たちの知覚認識は常に一定していない。人によってあるいは状況によって変わってしまうものである。以前は「運命の人、完璧なソウルメイト」だと信じていた誰かも時が経てば「ワタシを支配する人、私を不幸にする人」になる。それもこれも結局はその時々のあなたの判断に過ぎなかったのだ。ある一つの出来事が、そんな当てにならない判断や解釈によって如何ようにも意味づけされるのならここで言えることはただひとつ。その出来事そのものはそれ自体無意味だったのだ、ということだ。無意味で空っぽだからこそ、個々人の勝手な判断や解釈でどうにでも意味を与えられ、しかもコロコロ変更できるのだ。物事の意味が状況次第でどんどん更新されていく、これはごく普通のことに思われるが、「コース」から見れば「だからこそ幻想なのだ」という明らかな証左になるわけだ。

まあ、学習途上の私たちにおいては、たとえばちょっとしたことにも気づきを促すような大きな「意味」があるのを見逃さないのが大事だったりもするわけだが、往々にしてそれは見逃されがちである。更に「間違った意味づけ」をされてしまいがちである。そして、手前みそだがリーディングとはそういう場合の助けとして利用できるものなのだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 243

30章 その10

聖霊によって有効活用されるならば、世界にはただ一つの目的とただ一つの意味しかなくなる。それは常に変わらないのであり、従って私たちの知覚認識も常に安定したものになる。時と場合によって見え方や捉え方が違う、なんてことはなくなるのだ。エゴのままで、つまり不幸で惨めなままで固定されてしまったらたまらないが、聖霊によるものならば私たちはいつも感謝と平和と喜びに満ちていられるのである。

あらゆる出来事が愛と平和をもたらすもの、愛と平和を映し出すものになる、と言われると「じゃあ、どんなに悲惨で恐ろしい災害や事件でもそうなのか」と思われるだろう。おそらく初めのうちはそれらの中に愛や平和を見出すのが難しいと思う。しかし、次第に見つかるようになってくる。無理やり「良いところを見よう、見つけよう」というのでなく、自然に見出せるようになってくる。そしてついにはもう初めから「悲惨で恐ろしい」とは映らなくなるのだ。そこに至るまでは何か「イヤだ、ひどい」と感じるたびにゆるし正していく必要がある。

一つの目的しかなければ全ての意味は自動的にそこに集約されるようになっているのである。といってわかりにくければ、マインドが(自覚はなくても)志向していることが常に現実に反映されるということである。一日の或いは一週間のうちに経験することがそれぞれ違う意味を持っている、なんてこれまた普通のことのようだが「コース」に言わせればただの混乱状態なのである。混沌の中に意味は見いだせない。混沌は混沌でしかないのだ。これは私たちの目的がコロコロ変化して一定しないことを表している。目的が一定しなければどこにも行きつかないのだし、知覚認識もまた不安定かつ不確定なものにならざるを得ない。目的が一定しないとは、言い換えれば判断の基準が一定していないことでもあるからだ。

繰り返しになるが、何であれ出来事そのものには意味がない。予め意味を付与されているような出来事など一切ないのである。それが恐ろしいことに映るのなら、あなたが「恐怖を目的とした世界或いは人生」という脚本を書いてしまったからに過ぎない。恐怖の原因は出来そのものに宿っているのではなく、あなたのマインドに宿っているだけなのだ。

目的をただ一つに定めてしまえば、どんな状況にあろうがどんなことに遭遇しようがいちいち「これはどういうことだろう」などと判断する必要がなくなる。どういうことか、なんてもう決まってしまっているのだから考えるまでもないのだし、知覚器官にもそのように映ることになる。そうすることによってあなたは判断・解釈の罠に陥らずに済むようになる。

あらゆるもの、あらゆる現象がただ一つの目的に沿っていて一つの意味しかないのであれば、そしてその目的が聖霊によるものであれば、神の御心と合致すること以外は経験できなくなるわけだ。もちろん、犠牲という概念はなくなる。犠牲とは「得る」と「失う」など、対立した概念がともに現実であると信じるところから生じる考えである。浄化された世界にはもはや対立する概念などというものはないのだから、そこに犠牲が入り込む余地もない。更に、犠牲とは自分にとって価値のある何かを失うことを意味する。もしもあなたが何か(自分にとっては)重要な話をしているのにそれを取るに足りないことだと判断されたりしたら、「私は意味のない存在なのか」と感じてしまうだろう。そういう見地から言えば犠牲とは「意味を奪われる」ことでもあるのだ。

また、何であれ「さっぱり意味がわからない」と感じるとき私たちは不安になったりするではないか。あの出来事はこういうふうに見えた、この出来事はそれとは違うふうに見えた、いったいどういうこと?などと思ったりするではないか。これも「コース」に言わせると知覚認識の基準が一定していないために物事がそれぞれ違ったふうに見えてしまうからなのである。どれもこれも全く同じことを意味している、とわかっていれば何も困ることはないはずだ。

ある現象、ある言葉が人により状況によって違う意味を持つならば、まともなコミュニケーションなど不可能に決まっている。これは誰しもが味わうことなのではないか。この世のコミュニケーションにおいては言葉その他の「シンボル」を用いることが不可欠なのだが、これらはシンボルと言うだけあって「本質そのもの」ではないのだ。だからこそ常に誤解や齟齬の危険が伴う。多くの人がそのことにさえ自覚的でないのだ。

当然のことながら、あらゆる人々が一つの目的と一つの意味だけを共有していればコミュニケーションは完璧かつ自在なものになる。逆に、もしもあなたがあらゆる事象について全て「自分なりの」意味づけだけを行っていれば、普通それは狂人と呼ばれる。極端な話だが、たとえば誰もが「リンゴ」と思っている物体のことを「私は鉛筆と呼ぶわ」などとやっていればコミュニケーションは不可能だ。

少し話が逸れるが、たとえば何を見ても何を経験しても全てが「不幸で惨め」という目的に沿って一貫していれば、そういう「一つの目的と意味」が定められていれば混乱状態はなくなるのだろうか?あるいは、そのような目的と意味を共有する人どうしなら完璧で自在なコミュニケーションが可能なのだろうか?

これはやっぱりダメなのだ。一つの目的と意味とはあくまで聖霊によるものでなければそれこそ意味をなさないのだ。何故なら「不幸で惨め」とはこれまた文字通り「人生なんか、世界なんか意味がない」と信じている状態に他ならないからだ。初めから「意味」を放棄しているようなものなのである。しかも、そもそも不幸で惨めとは「みんなバラバラ」という分離状態から生じるものであり、バラバラなのだから共有などできるわけもないのだ。よくあるでしょう、お互いに「そうよねえ、そうよねえ」とうなずきあっているけどお互いに相手の話なんか全然わかってない、見事に一方通行どうしになっているような会話、あんな感じなのだと思う。

あらゆるシンボルを聖霊の導きのもとに用いることにしよう!とあなたが決めて実行したところで、他の人たちはそうじゃないのだとしたらコミュニケーションはどうなるのか?という疑問も出てくるだろう。しかし、聖霊に従って相手に向き合う時には自動的に相手もまた聖霊になっているのではないか。そういうものだったではないか。これまた「そうなってみないとわからない」ことではあるのだが、聖霊に従っているときあなたはもはや身体としての、あるいは自分とは違う個体=他者としての相手に向き合っているのではないのだ。ゆえに、相手がどういう状態に見えようともお互いの中の聖霊どうしとしてはちゃんとしたコミュニケーションができているというふうになる。お互いに「本来の自己」として関わっているようになる。別の言い方をすれば、聖霊は最高の媒介者であり通訳なのである。ここで「私たちの共通言語」と言われているのはもちろん英語とか日本語とかそういう意味では全くなくて、要するに「ゆるし」のことなのである。

さて、前にも出てきたことだが外観=現象とは本質ではなく実在しない、ゆえに常に変化するものである。卑近な喩えだが、久しぶりに会う知人の外見が前とは全然違っていても中身が変わっていなければそれほど戸惑うことはないが、外見が同じようでも中身がすっかり変わっていたらこちらも接し方を変えざるを得なくなる、などということを考えればわかると思う。

とはいうものの、今の私たちは「現実とは変化するものだ」と思ってしまっている。本当の現実は形でもなく現象でもないので変わりようがないのだが、私たちは形や現象を現実だと思ってしまっているのである。久しぶりに訪れた場所が以前とは全く変わってしまっていたという場合、昔のそこも今のそこも同じように現実だと思うのである。

現象や外観はあくまでも「現象や外観」に過ぎず本質ではない、それらの向こうにある本質は「常に完全」であり変わることがない。奇跡はこのことを示すものなのだ。歪んだ外観を取り去ってその向こうにある完全な本質を、そしてそれが映し出された外観を・・・たとえば「完全な健康」「完全な自由」「何一つ欠けるもののない状態」などを私たちに示すものである。

つまり、目に見えている外観や現象はどれも偶像なのである。その中で「容易く変化する偶像」と「滅多に或いは全然変化しない偶像」を私たちがいわゆる常識によって勝手に区別しているだけなのだ。実際のところ、偶像はどれも等しく偶像なのであって、だからこそどれも変化するものなのである。いくら奇跡だってさすがにここまでは無理よねえ、というのは前にも言ったが「限界を設けている」のであって、奇跡の力を拒んでいるのに等しいことなのだ。ここは誤解されやすいので「コース」もしつこく繰り返しているのだろう。「こういうことが起きたら素晴らしいけどさすがに奇跡でもそれは無理だろう」と思うのは「奇跡の力が及ばない偶像=幻想を残しておきたい」という願望なのである!幻想が混じった現実などというものはもちろん本当の現実ではないので、そう望むときあなたは「本当の現実を見たくない」と思っていることになる。だから本当の現実は見られない、奇跡はもたらされないし、たとえもたらされていても受け取れないことになるのだ。常識や過去の経験を一切無視して「何でもアリなのだ」くらいに考えていないとダメですよ、ということである。でないと「絶対に変わらないものもこの世にはある」という信念が現実化される。限界・制限というような「幻想」の世界にとどまり続けることになるのだ。何のことはない、自ら望んで偶像に支配されるだけではないか。

だから自分の側で「あれは多分ダメだろう。これは変わってほしくない。あそこだけ変わってくれればいい」などと勝手に取捨選択してはならないのである。そうした時点であなたは限界を設け、限界を信じてしまったのだ。無限の力を否定してしまったのだ。だったら無限の力からくる奇跡を受け取れるわけもないではないか!

変わりゆくものがある限り奇跡はもたらされ続ける。そして歪んだ像を幸せで喜びに満ちた形に、恐怖のない形に変容させる。奇跡は常にそこにあるのだ。

誰かを責めたり誰かのために苦しんだり、誰かを気の毒なものとして見たりするのは相手の中の「完璧なキリスト」を否定することだ。相手の中にキリストを見る、それはあなたのなかのキリストが見ているのである。ともに本来の完全な姿になっているのである。

だから、常に「神のひとり子としてのありのままのその人」だけを見るようにしなさい、そうでないものが見えてしまうのはあなたがそれを見たがっているという「誘惑」なのだと思いなさい。それに負けそうになっても恐怖や罪悪感を抱かず、ただ静かに聖霊に委ねて、つまり感謝と平和でマインドを満たしてしまいなさい。恐怖や罪悪感を抱いてしまったら偶像に力を与えることになるのだ。自分に見えたものが現実だと思うから恐怖や罪悪感が生じるのである。ただ「間違えた」だけだったらそんな感情は出てこないだろう。

癒されない苦しみはない、変化しない現象はない。相手がすっかり癒されて「神のひとり子」という姿に見えるとき、あなたもまた同じようになっているはずなのだ。

第279回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 240・241

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 240

30章 その7

何であれ正しく理解するにはまず理性が正しく働いていなくてはならないのだが、その理性が正しく働くためには自分の心情を、あるいは「このワタシ、及びこのワタシの思いや好みや利害諸々」をいったん全て棚上げしなくてはならない。これを「コース」的に言うと、まず「ゆるし」がなされないと「理解」も不可能だ、となる。とにかく、マインドがそういう状態にならないと「あらゆるものをありのままに」見ることなんかできないのだ。幻想や偶像の無意味さもわからないのだ。

それどころか、この世においては理解という言葉そのものが誤解されているに等しい。もしかして「共感・同意する」とか「思い通りになる」ことだと思われているのではないか?人間関係を例にとってみると、理解しあいたいと思ったら相手を説得したり心情に訴えてワアワア言ったり、まあどう見ても一種の攻撃に他ならない。わかってほしいのおおお!なんて思ってたらまず間違いなく理解されないし、理解もできません。攻撃している時あるいは攻撃されている(と思っている)時、あなたのマインドは必ず武装している、つまり閉じているのであってオープンになっていない。ゆえに理解は不可能である。

ちょっと考えてみていただきたい。罪悪感と恐怖、この2つの因子が存在しなければあなたのマインドも世の中もどれだけスッキリすることか!

ものすごくしつこいと知りつつ、やっぱり重要なので繰り返されている。誰だって苦しみたくなんかないはずだ、なのに苦しんでいるのならあなたは自分で苦しみを「求めた」ことになるのである。求めた覚えなんかない!と思うのは単にあなたの自覚がないというだけの話である。あなたのマインドがあまりにも歪んでしまっているからわからないのだ。「コース」学習が多少なりとも進んでくると、このあたりに自覚が持てるようになってくる。「慣れた不幸」のほうにうっかり傾きかけても「いや、これは違う」とわかるようになってくる。手放し=ゆるし、によって私たちは自分が作り出した罪や恐怖から自由になることができる。

希望を持ちましょう、というときのその「希望」の裏には大抵「失望」が潜んでいるものだ。この世にはそんな程度の希望しかないのである。だって希望されるものが偶像だったりするんだから!しかし、本当の世界における「希望」は、もうわざわざ「希望」と言うのもどうか、と思うくらい絶対確実なものなのだ。何故なら既に実現されてしまっているからである。いや、そこまで行かなくても私たちは十分に希望を持つことができる。ゆるせば、浄化すれば解放されるとハッキリわかってしまえばどんなことがあった(ように見えた)としても平気なのではないか。いつでもどこでも何とかなる、とわかることは大いなる希望ではないか。

とにかく「本当の世界」においては、偶像や幻想がまだ「ある」ことはあるのだがそれらを偶像・幻想として正しく知覚認識することができ、そのように認識することによってそれらの支配から解放されることもできるのだ。罪や恐怖はもはや目的と意味を失っている。それは神の御心ではないからだ。私たちは「分離、バラバラな個であること」を、苦しむことをもう望んではいないからだ。そして、そういう「本当の世界」もまた一つの夢であって、いくら天国のようであっても天国ではない。究極の状態であるところの天国にはゆるしも奇跡も癒しも認識もない。それらは全く必要とされないからである。本当に真理を(直接)知るとき、あなたは「真理を知ったわ」なんて思わない。何故ならあなたは真理そのものになってしまっているからである。そうなればもう認識はできない。同様に、前にも書いたが「私は神と一つになったわ」なんて思うならあなたはまだ神を知らない。本当に一つになってしまえばまさしくあなた=神なのである。わざわざ「一つになった」などと認識するわけもない。天国とはそのような境地を示すものだ。準備ができれば神によってそこに導かれる、とは即ち「神の御心と自分の意志とが完全に一致する、それどころか見分けがつかないくらい一つになる」ことでもある。

ほんとうにひとつになっている、これをこの世的な表現であらわせば「あらゆる人が手に手をとって結ばれている。あらゆる人がキリストに見える」というふうになる。これまたこの世的身体的な認識に即してあらわせば、の話なのだが「まず、キリストが出現して私たちを導き、然る後に神を思い出し神のもとに帰る」というふうであるらしい。キリストは聖霊でもあることを考えればその通りだろう。私たちは日々聖霊=キリストに助けを求めマインドを委ねているわけで、そうしてゆるしを重ねていった結果が「神を思い出す」ことにつながるのだろう。「コース」は、神の愛を受け入れる前に「ゆるしと救い」をもたらすキリストの愛を受け入れるのだと言っている。ま、キリストも神も「ひとつ」なのだが、あくまで私たちの認識レベルから見ればそういうふうになる、ということだ。

キリストが愛を持って私たちの手を取ってくれているのならもう何も怖いものなどありはしない、はずなのだ。たいていはピンとこないだろうが、少なくとも「この世の誰よりも頼りになる絶対的な存在」には違いないのだ。私たちの多くは「この人についていけば絶対間違いない!」という誰かを求めているのではないだろうか?そんな人は滅多にこの世にはいないのだからさっさとキリストに委ねればよいのだが、素晴らしいことに私たちさえ心を開けばあらゆる人がキリストになるのである。あらゆる人が聖霊であり救い主になるのである。そういう意味合いにおいても私たちは決して「助けもなくたった一人で」救いの道を歩むことなどない、とわかるのだ。全ては私たちの決意とやる気次第、キリストはいつでもあなたを導き、くびきから解き放つ用意ができている。用意ができていないのはいつだって私たちのほうなのだ。私たちがキリストに感謝するのは当然のようだが、私たちの用意ができたことをキリストも感謝するのであり、その感謝は私たちの理解を超えている。これまた言い換えれば、そこにはキリスト=聖霊=スピリットとしての限りない感謝と喜びがあるのである。今の私たち、個体としての私たちには想像も及ばないような深い感謝と喜びはスピリットとしての私たちにも感じられるはずである。

だから、さあこの世を捨てなさい!と「コース」は言っているが、これはただ「この世のものに価値があると信じて求めるのを止めなさい」ということだ。犠牲を払ったり諦めたりする必要はない。無理やり捨てる、というならそれは間違っている。何故ならあなたはまだその価値を信じていて、信じているのにまるで「そうしなくてはならない」から手放すというのでは完全にエゴの領域になっているからだ。何であれ強制したり、強制されたと感じたりするのは全てエゴである。まだ捨てられない、というならそれはそれで放っておいて日々ワークを続ければ良いだけの話である。

とにかく、この世で幸せや満足をもたらしてくれる(ように見える)あれこれなんて結局は虚しいものばかりなのだ。得れば得たで必ず喪失の恐怖がつきまとう。誰かが幸せになれば別の誰かが不幸になるとか、あれのためにこれを犠牲にするとか、たいていは何らかの代償を必要とするものばかりだ。本来、喜びには何の努力も代償も要らないのである。そうなりたいと思えば今ここでいきなり手ぶらで!無料で!眉一本動かさずになれてしまうようなものなのだ。過去の経験を振り返って「だってあの時はああだったじゃない、だからやっぱりダメなのよ」なんて思ってはならない。その時はまだそうだった、というだけの話ではないか。今の、これからのあなたは違うのだ。過去のあれこれだって今のあなたが正しく知覚認識すれば全然違った経験として捉えることができるかもしれない。間違っていたからああなったのだ、と素直にわかるかもしれない。それでもまだ偶像に引っ張られそうになったらこれを考えなさい。

「今までずっと、偶像がもたらしたものは罪悪感だけだったではないか。偶像を求めて得られるのは罪悪感だけ、しかもそこには常に苦痛があったではないか。おまけに苦痛を味わったのはあなた一人にとどまらなかったではないか」

自分ひとりだけが苦しんだ!なんて思うのは間違っているのだ。そう思うのは取りも直さずあなたが「神と離れてバラバラの個」であり「分離」を信じ求めているからだ。自覚はなくてもあなたは必ず誰かを巻き込んでしまっている。たとえ相手に直接何か攻撃をしかけたりしていなくても、である。何故なら他者とはあなたのマインドの中にしか存在しないからであり、あなたは自分のマインドにおいて誰かを神のひとり子ではなくしてしまったからである。あなたが神のひとり子ではないとき、他の誰もがやはり神のひとり子ではなくなる、投影の原理からすればそういうことになるではないか。このあたりはわかりにくいかもしれないが、たとえばあなたがクヨクヨ、ダラダラしていたら誰かの上にもたらされたかもしれない奇跡がもたらされなくなる、とかあなたが苦しむことで相手の間違いを現実化及び強化してしまうような状況を考えてみてほしい。

あらゆる人と一つではないなら、あなたには依然として「他者=仮想敵」がいることになり、これまた自覚はなくてもあなたにとって神は「他者」であり最大の仮想敵であることになる。ゆるしや癒しという共通の目的を持つ人々はそれによって結ばれ、神の御心に気付くようになるばかりか、神の御心こそ自分たちの心だという事実を永遠に忘れないのである。

以前にも出てきたことだが、あらゆる怒りは正当化され得ない。あんなことがあったんだから怒って当たり前よ、というのは人の心情だが、心情に過ぎない。怒りが正当化されない、これはつまり私たちにはどんな場合であれ怒る理由など全くないはずだと言っているのである。怒りを抑えるのとは全然違うことなので注意していただきたい。

たとえば、誰かが明らかに悪意を持ってあなたの足を踏んだとする。踏まれたことに気付かないのなら全く問題ないだろう。踏まれたことには気づいたが「うっかりしたんだろう」と思って済ませるのならこれも問題ない。あなたは間違いを犯さなかったのだ。しかし、私たちの多くはたとえ相手に悪意がなくても「何て事するのよ、痛いじゃない!」と怒ったりするのではないか。ましてや悪意を持って故意にやったとわかったらこれはもう「怒って当然よ!」になるのではないか。

ここで言われているのは、「あなたは私の足を踏んだ、私を痛めつけた」と認識したうえで「それでもまあ許してあげましょう」ではダメだ、ということだ。たとえ相手が明らかに悪意を持って攻撃してきたとしても、あなたにそれがわかったとしても、「この人は攻撃しているつもりなんだな」で終わらないとダメなのだ。あなたは「攻撃された」のではない。相手があなたに向かって攻撃しているつもりになっている、あなたはただそれを見ているだけなのだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 241

30章 その8

正しいゆるしについての復習。前回の例を使ってもう一度見てみよう。誰かに足を踏まれた、それに気づきさえもしないのだったらゆるしは必要ない。気づいたけれど別に全然気にならないで済んでしまえばこれもまたゆるしは必要ない。あなたは攻撃されたわけではないからだ。「攻撃された」という知覚経験をしなかったからだ。問題は、足を踏まれて「ムカッ」とした場合である。明らかに故意にやっていたとか、相手が謝りもしないどころかついでにあなたを突き飛ばしたりした日には「ひどい目に遭った、ひどい奴だ」と思うだろう。これにはゆるしが必要になる。何故ならあなたは自分が攻撃されたと思ってしまったからだ。間違った知覚認識をしてしまったのだから、それを浄化する必要があるわけだ。つまり、「別に何もされていない、何も起きていない」というふうに修正するのであり、それによって(あるいはこちらのほうが先行するかもしれないが)あなたは平和と感謝に満たされることができるのである。

ひどいことをされたけど許してやる、というのがダメなのは前回にも書いたが、同様に「ゆるしたくないけど、「コース」を学んでいるんだし、しょうがないから赦そう」でもダメなのだ。何故ならこれでは攻撃と変わりないからだ。あなたの心が平和や感謝に満たされることがないからだ。何一つ欠けることのない平和と喜びに満たされるのは神のひとり子たる私たちの生得の権利みたいなものである。ゆるしを拒絶すればあなたはその権利を犠牲にしたことになるのだ。「私は平和と喜びに満たされていたいけど、あの人があんなことをしたから、あんな災害に見舞われたのだから無理だ」などというのは「コース」にあっては一切通用しない。あんなことをされた、あんな目に遭ったということ自体が既にあなたの知覚認識=判断の結果に過ぎないからである。そこをこそ正さなくてはならない、と「コース」は言っているのだ。

このあたりは実に逆説的な構造になっているため、「コース」も「起こっていないこと、していないことについてゆるすのだ」なんて言っている。より乱暴にかつ簡単に言い換えれば「何も起きていない、されていない」という知覚認識=判断に置き換えるのだというふうになるだろう。なかなか難しいことかもしれないが、だからこそ自力で何とかしようとせずに聖霊に委ねなさい、になるのである。即ち、あーだこーだと考えるよりも前にまずマインドをさっさと感謝と平和で満たしてしまうのだ。攻撃などされていない、それどころかむしろ良いことをしてもらったときに感じる状態になってしまうのだ。このほうがずっと手っ取り早いと思う。そして、この状態こそが「本当の世界」であり「幸せな夢」なのだ。

このように、正しいゆるしとは本当の世界や幸せな夢に至るための手段なのである。ゆるすというのがどうしても難しいというか抵抗があるならば、ちょっと外道かもしれないが「情けはひとのためならず」を考えてほしい。あんな相手を、あんな状況をゆるすなんてとんでもないわ!と思うならあなたには平和や感謝や喜びが得られなくなってしまうのだ。相手が謝って何とかしてくれるのを待っていたらそれだけで一生が終わってしまうかもしれない。相手の利益のためにゆるそうとは思えなくても自分が幸せになるためならゆるそうとは思えるのではないか。出発点としてはこれでも十分ではないかと思う。

ゆるしとは「間違いを正すこと」に他ならない。ゆるしゆるされる対象は常にあなたの間違った判断や知覚認識なのであって、つまりは現実ではなく幻想=勘違い・思い違いなのである。だからこそゆるしが可能になる。もしもそれが「本当の現実」だったら、たとえば攻撃や被害が「実際に起こったこと」だったらそれらをゆるすことはできない。だが、私たちはだいたい常に思い込み=幻想=自分が知覚経験した現象のみを「実際に起こった本当の現実」だと思っているわけで、だからこそ「ゆるせないわよ」になるのだ。どんなに苦しく辛い経験であっても、苦しく辛いからこそ!なおいっそう「あれが現実ではないなんてありえない、認めたくない。確かにあったことなんだ!忘れまじ!」としがみつくのである。苦しくて辛いんだったらさっさとゆるして手放しちゃえばいいのに、できないのではなく「やりたくない」のである。そうして自分の正しさ=正当性を証明しようとしているのだ。本当の自己も幸せも喜びも犠牲にしてまでそんなことをする価値があるのだろうか?

恐怖と攻撃と罪悪感は常にワンセット、みつどもえの関係にある。どれか一つが正当化されれば他の2つもやはり正当化されざるを得ない。ゆえに、あなたが攻撃(した、された)を正当化するのであれば、あなたは必然的に恐怖と罪悪感から逃れることができなくなる。恐怖も不安もなく生きていたいのなら「間違いを正当化」なんてさっさと止めることだ(まあ、こういう場合当人はそれが間違いだと思っていないのだろうが)。

イヤなことはさっさと忘れてヘラヘラ楽しくやろうよ〜とも違うのである。これがいわゆる「現実逃避」なのは、この場合恐怖や罪悪感はゆるされも浄化されもせず判断が正されることもなく、ただ「表面的に忘れて」いや正確には「忘れたふりをして」誤魔化しているだけだからだ。恐怖も罪悪感も抑圧されたまましっかり保持されている。それを見ないで済むようにエゴ的な快楽に逃げ込んでいるだけなのだ。抑圧と手放し(=浄化)とは正反対のものではないか。見ないふりをするのではなく、しっかり見るのだ!そうすればそこには「恐れ攻撃すべきものなど何もなかった」ことがわかる。幽霊の正体が枯れ尾花だとわかるまでしっかり見るのだ。

要するに、マインドが感謝と平和で満たされることがゆるしの必須条件だとも言えるわけである。そして、現象に惑わされないこと!現象を本当の現実だと思わないこと!そう見えてしまう自分のほうがおかしいのだと自覚すること。これらは何回繰り返しても足りないくらい重要である。

ゆるせていない状態にあるとき私たちは苦しみや不自由を味わうのであり、少なくとも平和と喜びはないはずである。幸せを求めるならゆるそう、本来私たちは幸せであるべきなのだし、そう考えればゆるしこそ当たり前に正当なことではないか。好ましくない幻想に好ましい幻想を覆いかぶせて誤魔化すのではなく、本当の現実と置き換えるのである。初めのうちこそ違和感があるかもしれないが、どう考えても普通は幻想より本当の現実のほうが強力に決まっているので、次第にゆるしを為さないでいることに不快を覚えるようになるものなのだ。

この世的な意味での許しとは「悪いことをしたけど勘弁してやる」だけであって、ひどいことは実際に起こったのだしそれによって被害を受けた人々も実際にいるのが前提である。国家レベルの罪は外交上の取引材料として使われる。これらはスピリチュアルな意味のゆるしではない。この世は罪=神に背いた罪という考えを基盤として作り出されたものなので、ゆるしたところで罪が消えるわけもないのだった。罪が消えればこの世もまた消え失せるようなもんなのである。

ちなみに「私は何も悪いことをした覚えなんかないのにどうしてこんな目に遭うの?」という人もいるだろうが、その原因を求めて過去生なんか探ろうとせずに「いわゆる悪いことはしなかったかもしれないが、間違いや思い違いはしているはずだ」と考えてみてほしい。あなたには他者が、身体が現実のものとして存在しているか。世界は、人生は思い通りにならず苦しいものだと思ってはいないか。もしイエスならあなたは間違っていたのだ。悪いこと=罪ではないが間違いを現実だと思い込んでしまっていたのだ。それもまた正してゆるして浄化すればよいのである。

とにかく、ゆるしはそれが本物でない限り何の価値もなく何も良い作用をもたらさない。もしも神がこの世の人間と同じような存在であるならば、神の赦しとはいったい何だというのだろうか?お前は悪いことをしたけどまあ勘弁してやろうとでもカミサマが言うのだろうか?勘弁してくれない場合だってあるかもしれない、天罰が下るかもしれない、そう思えば神は恐れるべきものになってしまうではないか。神の赦しとは間違っても「権力者が恩赦を与えてくれる」ようなものではないのだ。それどころか神は赦しもしない!赦すべきものなど神の目には映らないからだ。神の目にはあらゆるものが神自身と同じく完璧であるからだ。

余計なことかもしれないが、「私はゆるしているからカミサマだって私をゆるしてくれるわ」と思うのも間違いである。神と自分とが別物になってしまっているからだ。だいたい、これではまるで神と取引をしているようではないか!先に挙げた「恐怖と罪悪感と攻撃はワンセット」を思い出してほしい。自分や誰かを責めさいなむ人は必然的に神を恐れていることになるのだ。(時々「神は赦してもオレは許さんぞ!」という人がいる。すごい)

第278回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 238・239

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 238

30章 その5

私たちはなぜ自らを不完全な存在だと信じるに至ったのか。言うまでもなく、永遠不変にして完全無欠の神から離れてバラバラの個になった(と思い込んだ)からである。神の御心に背くという罪を犯した(と思い込んだ)からである。従って、ゆるされ解放されて自分が罪なき身なのだとわかればそれはそのまま自分が完全な存在だという理解にもつながることになる。ゆるされ解放されない限り何をどんなに得たとしても完全にはなれない。それどころか真の平和や幸せも得られないのだ。

本来の自己が完全な存在であるからには、私たちは完全に「なる」必要さえない。既に完成してしまっているからだ。世間の常識では「不完全なものに手を加えて完成させる」のが当たり前だが、「コース」の常識では「不完全なものが完全になることはあり得ない」のである。幻想が現実になることはなく、間違いが真理になることはないのと同じことなのだ。神ではないものがどんなに頑張ってあれこれやっても神にはなれない、と言えば少しはわかりやすいだろうか。

いずれにしろあなたが意志によって望んだことは聴き届けられるのである。求めれば必ず与えられるというのはもう絶対の原理なのだが、この原理は正しく理解されていないようである。実際に多くの人が間違いを求めて間違いを与えられてしまっている。更にたいていの場合は形に捉われてしまっているので、自分が「本当は」何を求めたのかさえわかっていないのだ。ゆえに幸せを求めたつもりで不幸を求めてしまい、見事に不幸が与えられたりするという喜悲劇が後を絶たないわけである。

神は私たちの求めには必ず応えるものなのだが、というか神と私たちはそもそも一つなのだが、今更ながら神には「形」とか「個別」という概念がないのだ。だから神に向かって「あれがほしい、これをこうして」などと具体的個別的なものを求めたって無駄なのである。

神の御心は何か特定の形に収まるようなものではないと前にも書いたが、たとえば神の愛は「ある」か「ない」かのどちらかなのであって、「ある」ならばあなたが経験するあらゆるものが神の愛を表すようになるのだし、「ない」ならばたとえ何もかも得ているようでもあなたはやはりどこか満たされず空虚なままである。(もっとも、神の愛が「ない」なんてことはあり得ないのだが、これはあくまであなたのマインドにおいてそれが経験されているかどうかということを指している)

非常に逆説的なことだが、神の御心あるいは聖霊と一つになってまず愛と平和と完全さを得てしまったほうが具体的個別的なあれこれも自然に引き寄せられてきたりするのだ。いきなり偶像=形だけを求めるのは大抵失敗に終わる。(「スピリチュアルコラム」の「引き寄せ」をご参照くださいませ)

さて、何であれ真理であるような「考え」は、私たちが独自に思いついたりすることはできないのである。すごい発見をしちゃったわ!と思うことはあるが、それはあくまであなたというマインドにおいて想起されたのであって、あなたが独自に思いついたわけではないのだ。今まで気づかなかっただけでそれらはずっとそこにあったのだ。この先忘れてしまうこともあるかもしれないが、なくなることはない。たとえばある日突然誰に教えられるでもなく「私は身体じゃないんだ!」と気づいたとする。これはあなたの思いつきではない。あなたオリジナルの考えではない。あなたは単に「実はもともと知っていた」ことを思い出しただけなのだ。あの人でもなくこの人でもない「あなた」のマインドにおいて想起されたものではあっても、あなたの所有物でも発見物でもない。これは「ただひとつのマインド」のものであり、従ってあらゆる人のものである。そして、こういうことを想起しているとき、もはや考えている主体は「あなた」ではなくなっている。想起するのは「思い出す」ことに似ているが、いわゆる「過去を思い出す」のとは全然違う。これもまた「そうなってみれば」わかること、実感されることである。

このように、神の御心=真理とは時の始まる前からずっと変わらずそこにあるものであり、もっとも古いと同時に常に新鮮なものである。あなたの中に神の御心があるといっても神の御心の中にあなたがあると言っても同じことだ。内も外もないからである。

というわけで、あなたは神の御心から生じたひとつの「考え」である。神の御心もそこから派生するあらゆるものも永遠不変なので、神の御心から「あなた」という考えがなくなることはあり得ない。これはまあ普通にわかりやすく言えば「神さまはいつでもあなたのことを考えて下さっています」というふうになってしまうのだろうが、これは正確ではない。神(の御心)も含めたあらゆるものが「考え」なのである。神が「考え」たものは何であれそのまま実在するのだ。ちょうど私たちが「考え」たものが投影という形で現実化されるのと同じように、である。神が考えている以上「あなた」は絶対に存在するのであり、存在しなくなることはありえない。そして、神が考えなくなることもありえない。神の考えは絶対不変だからである。考えたり考えなかったりひっこめたりするなんてことはできないのだ。

「コース」はいろいろな比喩表現を用いるのだが、そのために却ってわかりづらくなったり誤読されたりする可能性が出てくる。「コース」いわく、あなたは神(の国)という夜空の高みに、常に変わらず燦然と輝いている星である。生まれもせず死ぬこともない、時が始まる前からその星はあったのであり、いつまでもあり続ける。空がある限りあなたという星は輝き続け、そして空がなくなることはありえない。しかし、その星は曇った眼には見えない。神ではない偶像を信じている人々には見えない。天国=神の国に在るものだけがその星の存在を知る。たとえこの身体はこの地上にあっても、あなたがゆるされ解放されて神において一つになればそれがわかる。この世が、そしてこの物理宇宙がどうであれその星は全く影響を受けずに同じ輝きを保つのだ。

神の御心の中のあなた、つまり「神に造られたままのあなた」、これこそがあなたの本当の現実なのである。この世のどんなものにも影響されずいつでも絶対に安全を保っている。

そんなものがいったいどこにあるの?といえば、もちろん「今ここ」にあり「今ここ」にしかないのである。本当のあなたの現実が「あなた」という存在と別にあるわけもないではないか。しかしやっぱり、あなたはそれに気づかない。何故ならあなたは自分が作り上げた別の「現実」を信じているからである。そちらを選んでいる限りにおいて本来の「本当の現実」は経験されない。「あなた」が神の御心の一部である以上、あなたが気づいていようがなかろうが、「あなた(のマインド)」の中に全てがあり、あなた(のマインド)が全てなのである。普通に考えてみてもよい、自分の「こころ」=マインドの広大無辺さ、天井なしというか底なしというか、これはちょっと、いやかなりクラクラするようなものではないだろうか!それは、あなた(のエゴ)が余計な邪魔をしない限り、どうしたって「存在そのもの」=神につながるもの、神と一つであるところの「無限さ」を備えているに違いない。神の御心は創造するものであり、ゆえに創造し続けるのであり、そのことにおいて永遠不変かつ無限なのである。ならば、神の御心の一部である私たち(のマインド)もまた創造し続けることにおいて永遠不変かつ無限なのだ。特定の形や考えに限定されることはありえない。ということは、偶像を信じている以上、あなたは創造することなど到底不可能なのである。

そもそも偶像とは「神の代用品」としてでっち上げられたものだが、代用品にしてもあまりにお粗末であって初めからあなたを完全には満足させず幸せにもしないようになっている。この世がそういうところとして作り出されたものである以上、これは当然と言うか致し方ないことだ。しかし、あなたは望みをかけている。それらが自分を幸せにし守ってくれるのだと、そして自分を裏切ることはないのだと信じようとしている。とはいっても、所詮お粗末な代用品だけのことはあって、それらは当然のようにあなたをしばしば裏切り、思い通りの働きはしてくれない。「これが私を守ってくれるのよ、宝物よ」と思って大切にしていた玩具が壊れて突然火を噴いたらガックリくるだろうし、怒るかもしれないし、恐怖に襲われるかもしれない。気を取り直して他の玩具を手に入れてみても所詮「玩具」であることには変わらない。結局は同じようになるだろう。

玩具があなたを裏切ったのではなく、あなたが選ぶものを間違えたのだ。間違ったものに期待し望みをかけてしまっていたのだ。偶像とはそれが何であれ(人でもモノでも地位でも主義主張でも思想でも何でも)そんな玩具に等しいようなものなのだ。

あなたは自分を守りたいと思っている。が、何度も言われているように真理は攻撃され得ない、守る必要のないものだ。そして、実はあなた自身そのことをよく知っていたはずなのだ。いくら真理を攻撃したくても、いや実際に攻撃しているつもりでもそれは不可能なことなので、代わりに偶像を攻撃しているのである。そういう意味合いにおいてもやはり偶像とは代用品なのだった。あなたが日々攻撃しているあれこれ、あなたを攻撃しているように見えるあれこれは真理ではなく全て偶像であるはずだ。いくら「いや、これは実際にあるんだ!あったことなんだ!」と思い込んだところで、それらはやっぱりあなた(のマインド)が作り出したものに過ぎない。

神から離れた(と思い込んだ)私たちは、神と自分との間にある(と思える)隙間を偶像あるいは幻想で埋めているのである。実際には隙間などなく、幻想も偶像も実在しないのだが、私たちが作り出した虚構世界を「現実」だと思い込み尚且つそれを維持するためにはどうしてもそれらが必要なのだ。

自分で神から離れたくせにそれでも守られていたい、安全でいたいと望む私たちは、そのために必要なあれこれを考える。あれがなければ、これがあればうまくいくわ!などと思って頑張ったり不安になったりするのである。しかし、そもそも「守られ安全でいるために必要なあれこれ」は絶対なのか?一般的にそう信じられてはいても、絶対確実間違いなし!なんてことはあり得ないはずである。所詮この世のモノなんてみんな偶像なんだから!


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 239

30章 その6

そもそも偶像は私たちが作り出したものなのだから、本当は私たちが偶像を支配して然るべきである。しかし、実際には私たちが偶像に支配されてしまっている。それもまた私たち自身が偶像にそういう支配力を与えてしまったからに他ならない。ここのところを十分に考え理解しておく必要がある。

身体についての考察でも触れられていたが、偶像であれ幻想であれ「否定して拒絶すべき」ものではないのだ。というより、およそ何かを否定し拒絶するからには予めその何かが実在するのだと信じていることになってしまう。「バカバカしい」とわかっていればわざわざ否定したり拒絶したりする必要もないからだ。偶像や幻想は「実在しない」のであり、そんなものなら本来は別に興味をひかないはずだ。しかし、「興味を持つな」というのは文法的には成立しても実質的には不可能なことである。だからみんな「コース」は難しいと思ってしまうのだろう。ゆえに、乱暴且つ簡単に言うならば、私たちは偶像や幻想を「所詮それくらいなものだ」とわかったうえで扱うのが良いわけだ。そうすれば「あれがないと生きていけない、これがないと惨めだ、こうなったらどうしよう、あれさえあれば幸せだ」などと切実な思いをせずに生きていけるようになる。

何か予想外のことが起きても、所詮この世のことである。そもそも予想外のことが起きるように作られているんだから仕方がないのだ。いちいち本気でビビったり喜んだり怒ったりしてどうする?まあ、これが「達観」とか言われるものですね。しかし、本当に達観した人はいかにも悟りきって難しい顔をして退屈そうにしてなんかいなくて、たいていいつも安心して上機嫌でいることが多いようである。つまり、一見はとっても普通なのだ。

この世界も、この世界を支配しているいろいろな法則も常識もみな私たちが作り出したものである。本当の現実は神による法則のみに従っているのであって、幻想の中の法則や常識には一切関係がない。例外もない。私たちが自分で作り出した「非現実的な」法則や常識が実体を表すとき、つまりその非現実性を顕にするとき、それが奇跡と呼ばれるのだ。奇跡は「ないものはない、ないものは如何なる作用も及ぼさない」ことを示すものだからである。言ってみれば奇跡とは「この世の法則や常識の例外」みたいなものだが、例外や個人差があるというまさにその点においてこの世のあれこれなんか当てにできないものだとわかるのだ。当てにならないんだから、完璧な安全や安心も得られないに決まっている。本当の安全や安心は本当の現実の中にしかないのだ。そこは何もかも一定していて個人差や例外がないからである。こうすれば絶対にこうなる、と予めハッキリ保証されているからである。

この世のあれこれを偶像視して慈しんだりやはり偶像視して攻撃したりするのはどちらもナンセンスだ。というよりこの世のあれこれがそもそもナンセンス=無意味なのである。それじたいには何の意味もない。従ってわざわざ否定したり拒絶したりする必要もない。ただ「その程度のものなのだ」とわかっておくこと、そのうえで楽しむ=味わうというのはアリだと思う。はかないものや移ろいゆくものを、そのまま「はかなく移ろいゆくもの」として味わうというのはもともと日本人には得意だったはずなんだし。

今更のようなことなのだが、「外観に騙されるな」と「コース」は言っている。外観、つまり何かがあなたの目や耳などの知覚器官にどう映るか、自分の知覚経験=現象に騙されるなと言っているわけである。これは基本中の基本なのだ。言い換えれば私たちは自分の知覚認識機能に騙されてしまっている、一種の自己欺瞞に陥ってしまっているのである。まあ歪んでいるのだから当たり前といえば当たり前なのだが、まずはそのことを自覚していないとダメなのだ。これを認めないことにはどうしても前に進めない。歪んだ知覚認識機能が捉えた像=現象を現実だと思い込んでしまえば本当の現実なんて見えるわけもない。

繰り返しになるが、自分のマインドが勝手に投影した像を「現実」だと思い込んで怖がったり怒ったり攻撃したりするなんて狂人以外の何ものでもないではないか。いくら今の(あるいは過去の)あなたにとって「間違いない現実」と映っているとしても、」それはやっぱり「今の私にはそのように映っている」だけなのだ。それ以上の判断や解釈をしてはならない。そんなことをしたら間違いの上塗りになるだけだ。

そして、怖がったり怒ったり攻撃したりしたその瞬間、私たちは自分が作り出した幻を「現実」に、自分にとっての「現実」にしてしまっているわけだ。現実だと思わなかったら誰が本気で怖がったり怒ったり攻撃したりするだろう?まあ、こうして「コース」を学んでいたって時々は一瞬「カーッ」とくるくらいのことはある。しかし、すぐに「しまった、間違えた」と気づくことができればその場で正してゆるし、浄化して手放せるのだ。目の前の現象=現実(に見えること)を否定したり拒絶したりするのではなく、それに対する自分の解釈や判断を無理やり変える(別の幻想に置き換える)のでもなく、状況を打開する対策を考えようとするのでもなく、ただ自分のマインドを感謝と平和で満たすのである。不安や恐怖や怒りを感謝と平和で置き換えるのである。簡単にできることなのだ。あまりにもシンプルなので却って難しく感じるくらいなことなのだ。対策を考えるにしてもまずはマインドを平和にしてからでないとうまくいかないはずだ。

愛から派生する感情即ち感謝と平和がないのならあなたは「間違えている」のである。幻想を現実だと思い込んでしまっているのである。妄想世界の住人になってしまっているのである。この事実=原則をどうか忘れないでいただきたい。

騙されたいと望んでいるマインドだけが騙される。言い換えれば、自分は神から離れてバラバラの個なのだと思いたいマインドだけが、それに相応した現実を経験する。本当の現実を見たくないと望んでいるマインドだけが、本当の現実を覆い隠すような「現象」を現実と思い込むのだ。まあ、そもそも私たちは「自分が神のひとり子ではなくバラバラの個だ」と思った時点で既に自分を欺いているわけなのだが!そこからはもう悪循環である。

具体的に何がどうなるかなど考えず、ただ「私は本当の現実だけを求めるのだ」と決める。偶像なんかに支配されないわよ!と宣言する。本当はこれだけで十分なのだ。何故なら偶像を作り出したのもそれに力を与えて自分を支配させてしまったのもみんなあなたのマインドだから、あなたのマインドがそれを止めようと決めさえすれば済むことだからだ。

すると、不思議なことがわかる。あなたは偶像を「捨てた」のではなく、そんなものは初めから「なかった」のだと気づく。ちょうど、ゆるしてしまえば「ゆるすものなど初めからなかった」と気づくように、である。ゆるすべきものなんか本当は「ない」、しかしゆるし続けていかないとその「ない」ことに気付けない。そこから抜けて初めて「何だ、あれは自分が作り出していただけのものだったんだわ」ということがわかる。その一方で「あれは自分が作り出しているだけのものだ」と気づかない限り解放されない、とも言える。ここが面白くも悩ましいところなのだ。例によって「気づきなさい」「わかりなさい」というのは文法的にはアリでも実質的には不可能な事態である。立ち上がりなさい、座りなさいなどというのとはわけが違うのだ。気づきたい!と思って苦しむ、大いにありそうなことだが何だかおかしくないですか?苦しむのではなく、聖霊に委ねるというのが一番簡単な方法なのだから、例によって感謝と平和、なのである。

神あるいは本来の自己と今のあなたとの間にある(ように見える)隙間、ここにあなたは恐怖でできた玩具を詰め込んでしまったのだ。その代りにゆるしを置いてみる。するとこの世は不確かで恐ろしいところではなくなり、次第に隙間そのものが「実はなかった」ことに気付くだろう。ゆるすことがあるうちはまだ夢の中なのだが、それらをゆるし続けていればあなたは「幸せな夢」を見ていられる。分離という夢が「全てはひとつ」という夢にとって代わるのだ。そしてついには目覚めることになる。

本当の世界、本当の現実、幸せな夢。これらはみな同じものである。本来のあなたの意志、あなたの思いが為されるようにしさえすればいつでもどこでも経験できるものだ。とはいっても普通は「本当の私の意志なんてわかりません」なのだろうと思う。本当の自分の意志を為すつもりでやっぱり偶像や幻想を求めてしまうこともあるだろう。私が考えるに、ここは「本質的なものを直接求めろ」というふうに捉えてよいのではないか。あなたが「これがほしい、こうなりたい」とあれこれを求めるのは、より幸せになるためにそれらが必要だと考えているからに相違ない。だったら、そんなあれこれを全部飛ばしていきなり「平和と幸せと喜び」そのものを求めて、しかもそれらを得てしまったって良いではないか!そのほうがずっと早くて簡単ではないか。それらが専ら「心=マインドの状態」だということさえわかっていれば、というかわからないわけがないのだが、誰にでも今すぐできることではないか。恐怖や不安や怒りなどが湧き起こるたびにマインドを感謝と平和で満たす、これだけをしょっちゅう心がけて実行していれば知覚認識の仕方がかなり変わってくると思う。

繰り返すまでもないのだが、救いとは本来の自分=神のひとり子に立ち帰ることである。新しい自分とか生まれ変わるなどというのは私たちの認識のトリックなのであって、別に神が私たちを作り直すわけでもないし、文字通り一度死んで転生するわけでもない。ただ「気づく」ことなのだ。そして「本当の世界」とはやはり文字通りの空間的なものではなく、あくまでマインドの状態の謂なのである。マインドが神の御心と合致していれば投影される世界もまた神の御心に沿ったものになり、あなたは「本当の世界」の住人になる、と言う仕組みなのだ。まさかとは思うが、くれぐれも「本当の世界を求めて旅に出る」なんてことにならないように。それは「今ここ」以外のどこかにあるようなものではないのだ。

そのうえで、本当の世界とは「あらゆるものがありのままにあるところ」だと言っても良い。ありのままにある、とは神によって造られたとおりになのであり、幻想や偶像を現実と混同せずに知覚認識できることである。そういうマインドが、まあある意味で「作り出す、映し出す」世界が「本当の世界」なのだ。

第277回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 236・237

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 236

30章 その3

この章の一番初めに「自分ひとりでは決めない」というのは「誰かに相談して決める」のではなく「聖霊とともに、聖霊に委ねる」ことなのだと書いた。しかし、より正確を期すならば、私たちはいかなる場合も「自分ひとりで判断する」ことなどできっこないのである。これまた、例によっていつでも「エゴか聖霊か」あるいは「偶像か神か」のどちらかと共に、どちらかに従って判断し決めているはずだからだ。そして、通常ほとんどあらゆる判断がエゴや偶像に従ってなされている。ゆえに、いかなる判断であってもどこかに恐怖や不安がつきまとうことになるのだ。

とにかく、この世において私たちは常に何らかの判断・認識あるいは選択をしていなくてはならず、いかなる種類の判断や認識や選択を全く「しない」でいることはできず、しかもそれは常に「エゴ=偶像」か「聖霊=神」のどちらかに従って、もっと言えば「キリストに従うか反抗するか」のどちらかの形でなされるものなのである。「コース」学習とは、これらの判断・認識・選択を常に「聖霊=神」に従って行うようになるためのものでもある。エゴ=偶像による判断・認識は既に習慣として私たちのマインドに根付いてしまっている。これを次第に取り除いて代わりに新しい習慣を根付かせるのが先の実践練習の目的なのである。

しかし、学習者の中には「聖霊に従う」ということを何らか「自分の意志に反して無理やり聖霊の言うことを聴かなくてはならない」などと捉えてしまう人もいると思う。これはもう疑いなくエゴの発想なのだが、今までの常識や習慣を全否定するわけだから初めはある程度抵抗があっても仕方ないのかもしれない。が、これでは全然「委ねた」ことになっていないのである。

自分ひとりでは決めません、これは「無理やりそうしろ」という強制ではなくて端的な事実の表明である。何故ならどちらにしても私たちはエゴか聖霊をその都度「助言者」として選んでしまっているからだ。今の私たちは無意識にかつ無自覚にいつもエゴを選んでしまっているのでそちらのほうが「自然」に感じるのだが、意識的に自覚を持って聖霊を選ぶことが習慣化すればそれは次第に無意識且つ無自覚になされるようになり、それが自然な状態になる。そして、これは本当の意味において「自然」なことなのであり、エゴに従うよりもずっと楽なのだとわかるようになる。

きょうはどんな日になるかしら、明日は?そんなの、私たちがその都度エゴか聖霊のどちらを選んでいるかによって決まるだけのものなのだ。良い日にしたいのなら聖霊に従って判断・認識すればよいだけの話である。だって何が起きるかわからないじゃない!と思うかもしれない。が、私たちは何かが起きる前に「エゴか聖霊」を予め選択してしまっているのである。選択の自由はここにのみある。たとえばエゴを選択してしまってそのうえで「平和と喜びを感じることが起こってほしい」というのは無理なのだ。起こることは予め決まっている、そういわれると運命論みたいに聞こえてしまうがそういうことではない。世界を作り出しているのはあなた自身(のマインド)だということを思い出していただきたい。その「世界の作り手」が決めたとおりに世界は在り、動くのだ。マインドの中にあるものが外に投影されるのだった。つまり、あなたは無意識にかつ無自覚に「起こること」を決めてしまった!もちろん、時間は幻想なのでいったん決めてしまったことでも取り消してゆるし浄化し、マインドを正しい方向に持っていけば「世界」も「起こること」も変わってくる。何しろこの世は幻想なのだからいくらでも変化しうるのである。これが間違いに陥りやすい私たちにとっては却って救いになっている。

私たちが判断を下す際に頼りにしているエゴあるいは聖霊、これらの同意がなければマインドの中の思いは形にならない。外部に投影されて知覚認識される「現実経験」にはならないのだ。あなたは自分ひとりだけでは「世界」を作り出せない。判断に先だってあなたが選び、あなたの「考え」に同意するものとの共同作業なのである。それがエゴならばあなたの目に映る世界もあなたの経験も悲惨なものになるだろう。聖霊ならば平和と喜びに満ちたものになるだろう。

そして、あなたが選んだ「助言者」があなたの世界を治めるものになるのだ。エゴを選べば世界はエゴに支配されたものになり、聖霊を選べば世界は神の国を映し出すものになる。

世界を変えるために、あるいはきょう一日を幸せに過ごすために誰か特定の、或いは沢山の人たちがあなたに同意し協力する必要などない。というかそもそも「特定の誰か」「たくさんの人たち」なんか「いない」のだった。あらゆるものは「神において一つ」なのだった。あなたと聖霊、その二つが同意しあえばよいのである、と「コース」は言うがこれも正確を期すならば「二つ」ではない。あなたと聖霊とは「ひとつ」であり別々のものではありえないからだ。自分の中の聖霊、あるいは聖霊の中にいる自分、聖霊であるところの自分、その状態であれば必要十分なのである。幸せになるとか平和と喜びに満たされるとか、何も難しいことではない。それどころかこれほどシンプルで簡単なこともない。誰でも、いつでもどこでもどんなときでも、誰かと一緒でも一人でも、何の道具もテクニックもなくできてしまうことなのだ。

そういう意味で、「自分ひとりで判断しなければきょうは私が望むような日になるだろう」というのもまた端的な事実の表明だとわかる。

あなたが経験するものを、あなたは世界に捧げているのだとも言える。別にスピリチュアルな意味ではなくこれまた端的にそうなのだ。何故なら、世界はあなた(のマインド)が作り出すものだからである。あなたが経験するものはあなたの世界であり、あなたが作り出した世界をあなたは経験しているのだ。与えたものを受け取っているのだ。

さて、前にも出てきたと思うが「自由意志」というのは厄介な言葉なのである。自由意志ならば何をどう望んでもいいわけか、と思ってしまうからだ。現に私たちは神から与えられたこの自由意志を「誤用」して自らを制限だらけの不自由な存在にしてしまったではないか。自由意志によって不自由になった、なんて笑えないのだが事実である。しかも不自由になってしまったのだから、今度は「自由になりたい、幸せになりたい」と思ってもできない、思い通りに意のままにならないという有様である。

本来、自由意志とは神の御心と同じものである。つまり「なにものにも制限されない、無限である」ということだ。聖霊に「従う」という表現もまた悩ましいというか、こう書くのが一番わかりやすいだろうと思う反面何だか「自分の意志に反することでも命令に従う」みたいに聞えちゃったらイヤだなとも思う。何故なら聖霊の「考え」は神の御心と同じであり、それは私たち本来の「意志」=思いでもあるからだ。聖霊に従っているとき私たちはもっとも自由なのだ、自由意志が作用しているのだ、という何だか逆説的な感じになってしまうがご容赦いただきたい。

念のために復習しておくと、エゴにとっての「自由」とは「神からどんどん離れていく」ことなのだ。結果、私たちはどんどんバラバラになっていく。バラバラになった分「神のひとり子」たるあらゆる要素や属性も忘れられていく。当然の帰結として不幸で惨めな状態になる。そうやって得られた自由もかなり限定的なものに過ぎない。幸せになりたいから自由を求めたはずなのに、何だかおかしなことになってしまう。

どんどん離れて自由になれるのは神からではなくて偶像からである。偶像は私たちを縛り付けるものだからだ。偶像から離れればその分神に近づくことになる。

聖霊は神と一つであり、聖霊と私たちとは神において一つである。まあ私たちはほんらい聖霊と同じものだと言ってしまっても良いのだが、とにかく聖霊こそが「神のひとり子」たる本来の且つ自然な私たちとつながっているのだと思ったほうがわかりやすければそれで構わない。要するに「聖霊に従う」とは「本当の自分に正直に生きる」のと同じことなのだ。「本当の自分に正直に生きる」と言う時の「本当の自分」はたいていの場合エゴの一つに過ぎないのだが、この場合は「真我」や「ハイヤーセルフ」みたいなものだと思っていただければ良い。ある意味では「無我」「没我」である。何故なら聖霊(真我、ハイヤーセルフ)が働いている時に「エゴとしてのこの自分」は消えているからだ。

更に、当たり前のことなのだが私たちは本来神の(御心の)一部である。神の御心によってなされる、と言う場合その一部である私たち(のマインド)はそれに同意しているに違いないのである。というか、どうしたって同意していることになる。そもそも逆らうことなんかできるわけもないのだった。逆らえないなんて不自由じゃないの?と思うのはこの世の人である。無尽蔵の愛と平和と喜びと無制限の自由が保証されているところで誰が好き好んでそれに逆らって不自由さを求めるだろうか?ま、それでも私たちは求めてしまったわけでその結果が今のこの有様だったりするのだが、いつも言われているように「逆らうと思うことはできるが実際に逆らうことはできない」のである。ならば、私たちは実は今までも今もこれからもずっと「無尽蔵の愛と平和と喜びと無制限の自由を保証された」存在だ、というわけだ。

とにかく、私たちが神の御心の一部である以上、神の創造は私たちの意志でもあったということになる。イヤでも認めたくなくてもどうしてもそういうことになる。そして神の御心が限りなく自由なのであれば私たちのこころもまた同じはずである。ものすごく乱暴にいえばこういうふうになる。「その気になれば何だってできる、但し神の御心に適うものならば」。ゆえに、常識ではありえないような「癒しの奇跡」も可能になるのである。

本来の自己、自然なままの自分が望み意志することこそ、私たちが「本当に望み求めること」であるはずだ。これに異論はないと思う。しかし、エゴは私たちを騙して(!)私たちが本当には求めていないあれこれを求めさせてしまう。ゆえに、分裂したマインド或いはエゴであるところの私たちが意志するものは、神の御心の一部である本来の意志に反したものなのである。

あなたの思うところを為せ。そうすれば自由になるだろう。これをエゴ的に解釈してしまうともう本当にとんでもないことになる。言うまでもないがこれは普通の意味合いでの「やりたい放題」のことでは断じてないのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 237

第30章 その4

私たちの意志は神の御心の一部であり、ゆえに神の御心と同じものである。そこには限りない広がりだけがある。

怒りや苦痛や憎しみなどがあるときには誰でも不自由な感じ、縛られた感じがすると思う。縛り付けるというのは神の御心ではない。つまりそういう感情を抱きそれに囚われているときあなたは神の御心に(そして聖霊に)背いているのであり、ひいてはあなた自身の本来の意志に背いているのである。これは非常に不自然なことであり、だからこそ窮屈で苦しく不自由さを覚えるのだ。

神の御心に従わなくちゃならないなんて不自由だわ、そう思うのはもちろんエゴである。しかしこれも単なる習慣に過ぎないのだ。コツが呑み込めて来れば、そして慣れてくればエゴに従うほうが余程不自由だとわかるようになる。

神が自らと同じようにあなたを創造し、創造されたあなたは神と同じ力や資質によってあらゆるものを創造する。分裂したマインドは「実在しないものをでっち上げる」だけだが、神の御心を通して知覚認識されたものはあなたの「被造物」だと言えるのだ。あなたは制限だらけの不自由な世界を作り出した、でっち上げたのだが、あなた本来の意志によるならば自由で豊かな世界を創造することもできるのである。

「コース」は「この地上のあらゆる人々があなたの判断次第で自由になれる」などと言っている。まさか!あの人やこの人のことは何とかできるけど、世界中のあらゆる人々に対して何かするなんて無理だ、と思うかもしれない。しかし、神の御心と一つであるようなマインドには「あらゆるものが一つ」だとわかっているのである。ならばそこから漏れるようなものは何一つないはずではないか。

たとえば世界中が幸せで平和なのにあなただけが不幸だなんてことは絶対にありえない。また、あなただけを除け者にして地上に天国の光がもたらされることも絶対にありえない。別にあなたを励まそうとか慰めようとかいう目的で言っているのではない。これは心情ではなく論理によってそうなっているからである。どこまでいってもあなたが望んだとおりに世界は在る、そういうことなのだ。誰かがあなたの代わりに認識するなんてできない相談なのである。

癒しとは「ただひとつのマインド」によって「ただ一つのマインド」においてのみなされるのだった。一見は「誰かが誰かを癒している」ようであっても、真の癒しならそこには一つのマインドしかないはずなのだ。どちらがどちらを、なんてものではないのである。同じことをここで「コース」は、「相手があなたの意志をシェアして、あなたとともに心を決める」などと書いているが、「さあ、私と一緒に癒されましょう、いいですね」と同意を求めるなんて話ではないのである。あなたが相手を聖霊だと見ればそれで万事OKなのだ。

攻撃しているように見えるものは全て「愛と助けを求めて」いるのだ、と以前書かれていた。あなたが怒りを覚えるようなものも全て、あなたの祝福によって自由になるのを待っているだけなのである。あなたにとっての怒りや憎しみや恐怖の対象はいろいろあるかもしれない。しかし、それは結局自分及び神に向けられていることになってしまうのだった。あなたが愛以外のもので自分や誰かを縛り付ければ、それは神を縛り付けることになる。もちろん神は何によっても縛り付けられるようなものではない。神をどこかに閉じ込めて遠ざけるのはあくまであなたのマインドにおいて、のみなのだが、神を閉じ込め遠ざけておいて神の御心も何もあったものではない。あなたは大いなる力の源泉を、そして聖霊の導きをも拒絶してしまうことになる。自分のマインドにおいて神を解き放って初めて私たちは本当の意味で自由になれるのであり、私たちが自由になることによってあらゆる人が、そして世界が自由になるのだ。この感じはやっぱり「そうなってみないとわからない」ことなので、「うそ〜」と思っても気にしないで先に進んでいただきたい。

さて、欲をかくと何も得られないとか「二兎を追うものは一兎をも得ず」などと一般的に言われるが、「別にすごいことを望んでいるわけじゃないんです、これだけが得られれば私はもうそれで満足なんです」などと思っている人も少なくない。こんなささやかな望みなら望んだって欲深いことにはならないだろう、これくらいならカミサマだって叶えてくれるだろう、そう考えるのである。

しかし!これこそ偶像を求めてしまっている証拠なのである。「これさえあれば他には何もいらない」と思う時、それが神の愛だったり真理だったりするだろうか?たいていはもっと個別的かつ具体的な何かではないだろうか?つまり何らかの「形」を求めてしまってはいないだろうか?あの仕事を得られれば、この病気さえ治れば、結婚さえできれば、子供さえできれば、痩せることさえできれば、倒産の危機さえ乗り越えられれば、原発さえなくなれば、などなど何でもいいのだが結局みんな「人によって違う個人的な内容」である。「これさえあれば」ではなく「あれさえなければ、あの人さえいなければ幸せなのに」というヴァージョンもある。スピリチュアル系も含めた願望実現のハウツー本にもだいたい「具体的にイメージして求めなさい」と書いてあるものだが、「コース」は全然違う。

別にそうしたっていいけど、そして求めたものを実際に得られるかもしれないけど、それが偶像である限りにおいてあなたは決してそこで満足できないだろう。次々に別のものを求め続けるだろう。どこまで行っても完全な幸福も満足も得られないだろう。特定の形を求めれば必ずそうなってしまうのである。これさえあれば!と求めている時、あなたは他のあれこれを犠牲にしていることになるからだ。

もっと基本的なところを見れば、そもそも「これさえあれば幸せなのに」と思うまさにそのことが「今の自分には欠けているものがある、今の自分は不完全なのだ」と認識している証左になっている。つまり、特定の何かを求めることにおいて「私は神のひとり子ではありません」と認め宣言しているようなものなのだ。あなたが不幸で惨めだったり不満だらけだったりするのはあれやこれが得られないからではなくて、ただ神のひとり子であることを忘れたからである。限りなく平和で幸せな状態を捨てたからである。

既に全てを与えられ持ってしまっている者がその事実に気付かず、自分は不完全で不幸だと思い込み、完全さに近づいて幸せになるためにわざわざ無意味なものを求めて失敗する。ミもフタもない言いかたをすればそういうことだ。

私たちは、本当は偶像なんか求めてないのである。あまりにもマインドが曇って訳がわからなくなっているから「間違って」それが必要だと思い込んでいるだけで、ホントはそんなもの要らないのである。本当は上に挙げたような「特定の形」なんか求めてないのである、というか求めたって仕方ないのである。私たちは真に平和で幸せになりたいのだが、そのために「自分に欠けているもの」、何か特定の形をしたものが得られれば良いのだという間違った考えを信じているだけなのである。愛に満たされるためには愛してくれる誰かが必要だとか、自分が価値ある存在だと思うためには自分の価値を認めてくれる誰かが必要だとか、そんなものはみんな大間違いだ。ただ愛を求めればよいのに、わざわざ恋愛の相手だのパートナーだのソウルメイトだの、或いは特定のあの人この人を求めるからダメなのだ。ただ豊かさを求めればよいのに、わざわざお金とか家とかあの仕事この仕事を求めるからダメなのだ。そして、愛も豊かさも既に私たちには与えられてしまっている!正確に言えば求めることなんかできないし求める必要もないわけだが、まあ敢えてわかりやすく表現するなら「求めれば即、与えられる」というふうになる。ああ、ややこしい。

とにかく、神の御心でもあるところの真の愛や平和などというものはあまりにも大きく限りがないために特定の形なんかに収まるわけがないのである。いつでもどこでもどんなときにでもふんだんにあるのであって、あれがなければこれがなければ感じられないなんてことはあり得ないのだ。偶像つまり特定の形を求めてしまえば、あなたは無限の愛をそこに限定してしまうことになる。つまり本来持っているよりずっと少ないものを求めている、言い換えれば自分の財産を捨てていることになる。これでは満足できるわけもないではないか。これは、神の御心と同じはずのあなたの意志であるわけがないではないか。神の御心は無限だが私にはこれだけあればいいんです、なんて謙虚のように思うかもしれないが実際にはその正反対の傲慢である。

完全無欠とは文字通り完全にして何一つ欠けるものがないという状態だ。そして尚且つ不変なのであれば、もしもそれが変化するとしたら「完全ではなくなること、何かが欠けること」にしかならないではないか。私たちがやらかしてしまった(と思い込んでいる)のはこれなのである。

言うまでもなく、定義により神は完全無欠である。そして神の一部として神と同じように創造された私たちもまた完全無欠なはずである。つまり、私たちの意志は完全さを希求するようにできているわけである。不完全だから完全さを求めるのではなくて、それが自然な状態だから保とうとするのだ。この欲求は分裂したマインドにも受け継がれている。だからこそ私たちは完全に「なろう」として、神から離れてしまったことによって失われた(と思い込んでいる)完全性を取り戻そうとして、見当違いにもあれこれの偶像を求めてしまっているというわけだ。しかし偶像は幻想なのだから、いくら求めてもそしてたとえ得られてもあなたは完全無欠にはなれない。それどころかますますそこから離れてしまうのだ。だから「見当違い」なのである。求めるのが「悪い」と言っているのではない。偶像はあくまで偶像でしかないのだとわかっておくべきである、そういっているのだ。

偶像を偶像だと思わないで本気で求めていると、そこに目がくらんでしまう。これは実際よくあることなのだが、本当に知覚認識機能がますます歪んでしまうのだ。文字通りの意味で「狂ってしまう」人もいる。別の言い方をすれば、偶像を偶像だと思わず本気で求めている限りあなたは間違ったまま・・「私は神のひとり子ではありません、私は不完全な存在です」という思い込み・・でいられる、つまり偶像はあなたを間違いにとどまらせるためにあると言ってもよいのである。

第276回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 234・235

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 234

第29章 その8

夢は、夢を見ている当人にとってのみ現実のように感じられる。どんなに馬鹿げているものであってもこれ以上ないくらい確固たる現実に思われる。しかし、冷静に考えれば夢を現実と混同するなど、よほど頭がおかしいか幼稚かのどちらかである。そして今(まで)の私たちは狂っていて幼稚なのだった。もうそこから抜け出しなさいと「コース」は言っている。神に背いた罪という恐怖と絶望という夢の中で作り出されたものは何であれ恐怖と絶望を投影することになる。偶像を信じ崇拝するとは恐怖や絶望を崇拝しているのと同じことなのである。

その夢の中で私たちは神のひとり子ではなく、造物主になっている。何故なら自分が他者を、世界を作り出しているからだ。しかも幼稚なのでロクな知恵もなくやっている。だからいつまでたっても完全な幸せも平和も得られないのである。せめて聖霊の知恵を持ってやることだ。そうすれば少なくとも「正しい判断」ができる。何があなたを傷つけ、何があなたを癒すのか正しく区別することができる。だから、「自分の」判断は保留にして聖霊に委ねなさいと言っているのである。

同じ夢でも神の御心に直結したものなら「本当の世界」になるのだった。本当の世界は、幻想のこの世界で当たり前とされているあらゆる法則から自由なのである。たとえあなたがわかっていなくても本当の世界の法則はちゃんと生きているのだ。

本当の世界はまだ夢の続きなので、そこには身体があり人影があり、知覚認識機能がある。しかし、それらはあなたを傷つけるものではない。神に背いた罪深い自分、という「偶像」を外界に投影する必要がなくなれば、いかなるものもあなたにとって恐怖や攻撃の対象にはならない。従って、恐怖や罪悪感から救い出してくれるあれこれ、を求める必要もなくなる。誰に対しても「こうであってほしい」というエゴ的な願望を押し付けなくなる。従って、失望したり怒ったり傷ついたりすることもなくなる。簡単に言えば、不満も恐怖もなく安心して平和に過ごせるようになるのである。この世のあらゆる問題は自分のエゴの思いを投影することから生じている。それをしなくなればイヤでも世界は変わるのだ。

同じ夢でもその目的が違うのだ。今までの夢は「神から離れてバラバラの個である」という状態を保持することが目的だった。これからの夢は「真の平和と喜び」が目的である。ゆえに、あらゆる思いや判断が、そしてそれに伴う知覚経験がその目的に即したものになるのである。前にも出てきたことだが、初めに目的をちゃんと定めるというのは本当に本当にすごいことなのだ。こんなシンプルなことで済むのか!とびっくりするくらいすごいことなのだ。

本当の世界はという夢は「ゆるしの夢」でもある。解放の夢といっても良いと思う。この夢の中で私たちは本来の自己を思い出していく。それはあまりに素晴らしいものなのでどんどん先に進みたくなる。つまり目覚めたくなるというわけだ。本来の自己、それは身体も時間も空間も他者も、私たちを制限するものは何もない状態である。これを「コース」は天国の歌と表している。歌と言ってももちろん耳で聴くようなものではない。これは私たちにとって限りなく馴染みのあるもの、時が始まる前からずっと知っていたものだと気づくだろう。

再び偶像について。恐怖を感じている状態とは「コース」に言わせるとただ「きゃあ、怖いよう、どうしよう」いうものに限らない。あなたが深い満足を感じられないとき、確実に助けが来るのだと信じられないとき、自分が天国にいるという落ち着いた確かさを感じていないとき、それは全て恐怖を感じているのと同じ状態であるらしい。そして、そういうときにあなたはまさに偶像を作ってしまっているのである。つまり「神のひとり子ではないワタシ」を作り出してしまっているのである。これが第一の偶像であることは先に述べたとおりである。こういう状態で、つまり自分を神のひとり子ではなくしてしまっている状態で「普通に」救いを求めたらそれは絶対に更なる偶像になる。そこであなたは本来の自己を裏切っているという罪を犯してしまった(と思い込んでいる)からだ。叶わないかもしれない願望、希望を持ちつつも裏切られるかもしれないという恐怖が底にある。常に恐怖と不安がつきまとってしまうだろう。だから恐怖の状態にあるときにはすぐに聖霊に委ねてしまうことが大切なのである。委ねよう、という気持ちだけはどうしても必要だ。何故ならそこまでは聖霊の力も及ばないからである。

恐怖とは、煎じ詰めれば結局「自分は神から離れたバラバラのものである」という判断の結果に過ぎないのだ。日常的な恐怖も全てここに端を発するあれこれの判断の結果である。あなたが「怖い」と判断するから怖い、そういうことなのだ。

夢の中で救いを求めるのはもうやめよう。そんなことをしたって何にもならないのだ。過去の経験だの知識だのに基づいて判断するのももうやめよう。そんなことをしていたら恐怖の夢から抜け出せなくなってしまう。私たちは今までと全く違うやり方でこの世界から、あらゆる苦痛から解放されるのである。

第30章 その1

「コース」のテキストも終わりに近づいてきた。今まで学んだことだけでも十分以上なのだが、より早く効果を上げるためにはとにかく「やる気」が重要である。やる気はあるけどできないんです、なんてありえない。厳しいようだがそれはやっぱりやる気が足りないのである。日々の小さなことでも丁寧に取り組んでみてほしい。積み重ねれば確実に大きな結果となって現れるのは間違いない。この章ではより具体的な方法が紹介されているのだが、実践してみなくてはどうにもならない。そういう考えもあるのね〜では不十分なのだ。これらがあなたにとって生きるためのルールというか「常識」になるまで頑張って続けてみてほしい。大変シンプルでどんなことにでも応用できるものばかりである。しかし、無理やりやるのはいけないと「コース」も言っている。どうしてもできない!という場合ももちろんあるだろう。そういう時のための対策も書いてくれてはいるが、どうしても無理な場合は「きょうはダメだった、また頑張ろう」で構わないのである。

まず第一はこれだ。あなたはきょう一日をどんな日にしたいですか?もちろん嬉しいことがあって幸せな気分で平和に過ごしたいに決まっているでしょう。だったら、

「きょう、私はどんなことも自分一人では決めないようにする」

自分一人では決めない、というのは誰かにお伺いを立てたり相談したりするのではない。エゴである「このワタシ」が決めるのではなく聖霊に従って決めるという意味である。

これまでもたびたび出てきたが、私たちはあらゆることをおそらく「自分ひとりで」つまりエゴによって、ということは歪んだ知覚認識機能によって判断して生きている。全ての感情もまた判断の結果である。初めに判断ミスをして、しかもミスをしたことに気付かないでいればそれに続く判断もまた間違いにならざるを得ない。そして多くの人がこのあたりの消息に全く無自覚なのである。少しでも自覚できれば「間違えた」とわかったところでそれを正しゆるして浄化することができるのである。

「嬉しいことがあって幸せな気分で過ごせる」日、と書いたがじゃあその「嬉しいこと」って何ですか?何かを「嬉しいことだ」と判断するのは知覚認識機能ですよね。もしもそれが歪んでいたらどうなるか?聖霊の目から見れば「嬉しい」ようなことであっても歪んだエゴの目には「ひどいこと、つまらないこと」に映るかもしれないではないか!だからこそ「自分ひとりでは決めない」ことが肝要なのである。

たとえば、期待していたメールが来なかった。上司に怒鳴られた、などということがあれば大抵の人は無自覚につまり「自動的に」落ち込むか怒るか不安になるか、という反応をするだろう。そのような感情が湧いてくるだろう。これらを「ひどいこと、イヤなこと」と判断したために、それにふさわしい感情が「反応」として湧き起こるのである。普通、知覚認識とそれに伴う反応=感情との間にはそういう「規則性」がある。

前にもしつこく出てきたことだが、何であれ平和と喜び以外の感情が湧き起こったのならあなたは「間違えた」のである。間違った判断を下したために、そしてそれに気づかなかったために平和と喜び以外の感情に見舞われる羽目になったのだ。

何か「問題だ、困った」と思うようなことが起きたとする。そしてあなたはおそらく「不安、落ち込み、怒り」などという反応をするだろう。しかし、こういう反応が問題を解決してくれるだろうか?それどころか却って問題を大きく見せ、深みにはまるだけではないだろうか?つまり「問題だ」と思ったというその「判断」じたいが間違っていたのである。それに対して自覚もなく更に「間違った」反応をしてしまったのである。おかしく聞こえるかもしれないが、「問題だ」と思ったとしてもだからといって不安や怒りを覚える必要など実は「ない」のである。「問題だ」と思っても、なおかつ心の平和を保つことだって可能なのである。「問題だわっ」と思ったところでそれ以上は「自分ひとりで決めず」聖霊に委ねればよいのである。つまり例によって感謝と平和でマインドを満たすのだ。そうすれば

問題だと思ったことも別に問題に見えなくなったりする。

自分ひとりでは決めない、判断しないというのは「いま自分に起きているのはどういうことか、自分はどういう状況におかれているのか」についても適用されるのである。でないとおかしいことになってしまう。「ひどいこと」が起きていると判断したうえで「平和でいよう、感謝しよう、喜ぼう」としたらどうなるか?ひどい目にあっているのに感謝して喜べだなんて、あんまりじゃないの!そう感じるのが当然なのだ。「コース」が教えているのはもちろんそんなことではない。

問題が起きた、これは厄介だ、などということが起き(たように感じ)てしまったら、まずはその判断を一旦引っ込めて保留にしておき、その日何度でもそれを思い返して考えてみてほしい。あなたはきょう一日をどんな日にしたいのか?どんな気持ちで過ごしたいのか、どんな経験をしたいのか?そしてこう言いなさい。

「自分ひとりで決めないでいれば、きょうは私が望むような日になるだろう」あるいは、

「自分ひとりで決めないでいれば、愛や平和や癒しがきょう私に与えられるだろう。」


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 235

第30章 その2

きょう一日をどんな日にしたいか、というとき「こういうことが起きてほしい」と誰もが思うだろうし、「コース」もそのように書いてはいるのだが、たとえば「誰かがこういうことをしてくれる」とか「道で100万円拾う」とか「運命の相手と出会う」とか、何でもいいのだろうか?ここはちょっと疑問なのだ。このような身体的個人的なものだとおそらく大抵はうまくいかないはずだからである。従って、これらのワーク実践に当たってはやはりせいぜい「嬉しいことが起きる」くらいに留めておいたほうがとりあえずは安全だと思う。

とにかく前回の二つのプロセスを練習してみることだ。うまくできるようになるにつれ、何が起きても少し時間が経てば「問題じゃなかった」ということがわかり、平和と喜びが戻ってくる。あるいは「平和でいる」という目的を最初に定めてしまえば何があっても平和と喜びになる、というワークも一緒に実践できていることになる。何があってもそれを「問題だ」と決めつけず保留にしておけば、あるいはちょっと決めつけてしまったとしても即座に引っ込めて保留にしておけば良いのだ。反応しない!何故なら自分に何が起きているのかあなたには「わからない」のだから、反応しようがないではないか。

しかし、慣れないとなかなかうまくいかないだろうと思う。起きてほしくないことが起こってしまった(と思った)とき、いつもの癖で反射的に「ひどいことだ!」と判断し、その結果落ち込んだり怒ったり不安になったりし、そして「ああ、いったいどうしよう、どうしたらいいんだろう、どういうことなんだろう」と悩むに至る。ここまでやってしまった人は次のように言いなさい。

「何も質問はありません、判断すべきことが何だったのか忘れてしまいました」

この段階に至っては、あなたの目はもはや曇りに曇ってしまっていて本当の問題は何だったのかさえわからなくなっているのである。問題が何かわからなければ何を質問していいか、どんな答えがほしいのかもわからないに決まっている。それを認めるのである。それによって今までの失敗をチャラにすることができるのだ。上記の言葉はやっぱり「聖霊に委ねた」という意味である。自分ひとりでどうこうしようという気持ちを手放したことになるからだ。

あまりにもエゴにはまってしまっているときは自分が求めているものさえわからなくなっている。というか、わかっているつもりでわかっていない状態になっている。誰だっておそらく喜びや幸せや安心を求めているはずなのに、その手段であるような日常のあれこれが「自分の思い通りに運ぶ」かどうかだけを気にしてしまっている。そして、どうしたらそれらがうまくいくかばかりを考え、その方法を教えてもらうのが「答えを与えられる」ことだと思ってしまっている。そうなれば「嬉しい日」が得られるだろうと思ってしまっている。これが大間違いなのだ。自分が本当に求めているものがわからない限り、求めれば求めるほど「嬉しい日」は遠ざかっていくのである。

これはリーディングの現場においてもある程度はその通りであって、「どうしたらいいでしょう」の答えとしてこちらが提示する対策もまず当人が自分の考え方や見方を変えない限りはできない、というか「やりようがない」場合もあったりする。滅多にないことだが時には「魔法のような答え・対策」を求めてしまっている人もある。

まず、判断=見方や捉え方を変えなくちゃね、気持ちを落ち着けて下さいね、と言われても「私が求めてる答えはそんなんじゃないんですっ」と怒りたくなる方もいるかもしれない。「コース」のこの部分も「素晴らしく嬉しい日にしたいからやってみたのに、何よこれ!」と思われるかもしれない。

ここまでやってもまだダメなとき、何もかも手放すことができずイヤな気分から解放されないときは、これ。

「少なくとも、今の気分が気に入らないことだけは判断できる」

これは簡単でわかりやすい。そして、これ。

「自分が間違っちゃったんでしょうね、そうならいいんだけど」

あなたが今までに下した判断が正しくて尚且つイヤな気分に襲われているのならもう救いはない。しかし、間違えた結果イヤな気分になっているのだったら間違いを正せば済むことだ。そうすればイヤな気分の原因は取り除かれてしまう。だからせめてここだけは頑張っていただきたい。自分の正当性にこだわっている限り絶対に聖霊の導きも、平和も幸せも得られない。無理やり平和な気持ちになれと言われてもできないが、このように「平和じゃないのは気に入らない。これはきっと私が間違えたからなんだわ」と考えることならできるだろう。

素敵な日にしたかったのに、それを打ち砕くようなひどいことが起きた!と思うのが既に「判断」しかも「間違った判断」なのである。私たちはここでつまずく。ひどいことが起きたのなら落ち込んだり怒ったりするのは「当たり前」だ。そして、その「ひどいこと」にどう対処しようかと考え、答えを求めるのも「当たり前」だ。しかし、例によって「この世の常識はコースの非常識」なのである。解放されるとは今まで当たり前だと思っていたことが実はそうじゃなかったのだと気づくことでもあるのだ。今までの自分つまりエゴとしての自分の正しさを証明できればあなたは幸せになれると思うかもしれない。が、実際にはその真反対なのである。せめて「間違っているのかもしれない」くらいまでは自ら(無理やりではダメ、新たな怒りが湧くだけである)認めていただかないとその先に行かれない。

この「私の判断は間違っていたのだろう」と認めるのは理性の働きである。その程度の理性でもマインドを開くのには大きな助けになる。だったら誠意を持ってこう言うこともできるだろう。

「私はこのことを別のやり方で見てみたい」

自分なりのやり方、エゴとしての知覚認識で失敗したのだからそれ以外のやり方や見方があれば今度はうまく行くだろう。

ひどい(と思えるような)ことが起きた場合、まずあなたは大抵「これはひどいことなのだ、私が望んだことではない、私の望むことが起きるほうが正しいのだ」と考えるはずである。相手が「悪かった、あなたは正しい、自分が間違っていました」と認めてくれれば自分の問題は解決すると思ってしまう。そういうことが起きれば気分も良くなって「素敵な日、嬉しい日」になるのだと思ってしまう。

言うまでもなくこれは間違いである。繰り返しになるが。初めにあなたが「ひどいことだ」と判断した、そこで既に間違えたのだ。何かが起きても自分ひとりで判断しないで聖霊に委ねれば、それは別にひどいことでも何でもないのだと「判断」できたはずなのだ。というか、別に何てことなく通り過ぎてしまって心の平和を乱されることもなかったはずなのだ。

前にも出てきたが、目的と手段は本来ひとつのものであり、少なくとも一貫性がなくてはならない。平和や喜びを求めるなら闘ってはならないのである。なのに私たちはそれらを求めて、というか求めているつもりで別の何かを求めて闘い苦しんでしまっている。だからうまくいくわけがなかったのである。助けが、答えがほしいならまっすぐにそれを求めればよいのだが、正しさや解釈にこだわっているから訳がわからなくなってしまうのだ。

そして、最後はこれである。これは、やりたくない気持ちをなくしマインドを少しでもオープンにしようとするためのものである。

「これを見るための別な方法がきっとある。求めることによって私はいったい何を失うというのだろう?そんなことが可能なのだろうか」

本来は求めれば得られるのが当たり前なのだ。これも「この世の非常識」かもしれないが、とにかくそうなのである。感謝を求めれば感謝が得られ、平和を求めれば平和が得られる。もちろんこれは「本来」の話なので、求めるものも得られるものも幻想の何かではなく「実在するもの」つまり神の御心に派生するものだけである。ものすごく簡単に言えば、今ここで感謝したいと思えばすぐに感謝で満たされるし、平和になりたいと思えばやっぱりすぐに平和で満たされることができる、というわけだ。

もう、イヤになるほどシンプルなのだが、たとえば「私は苦痛から救われたい」つまり「平和がほしい」と求めれば、つまりそうなろうと思えばそうなれるということなのである。「答えが得られた」とはそういうことなのだ。

こんなにシンプルなことなのである!幸せな日を得るほうが不幸で惨めな日を得るよりもずっとたやすいのだ。もう、これはやってみればわかるとしか言えない。誰だって幸せなほうが良いに決まっている、良いほうをより求めるに決まっている、求めれば得られるに決まっている、簡単じゃないですか!難しく思えるとしたら単に馴染んでいないことだから、慣れていないからである。もちろん、慣れてきてもなおつまずくことはある。毎日、何回もあるだろう。しかしそのたびに手放しゆるしてすぐに平和と感謝が戻ってくれば「きょうはひどい日だった」なんて思わなくなる。「いいことなんか何もなかった」なんてありえなくなる。基本は「自分勝手に判断しない」これだけである。これは日々のたゆまぬ努力というか練習を必要とするが、全然苦しいものではない。むしろ楽しい。何故なら結果が「平和でハッピー」だとわかっているから、そして必ずそうなるからである。

この練習を続けて、こういうやり方・見方が自分の習慣あるいは常識として根付いてしまえば最終的には「判断」という夢の世界を完全に消し去ることができる。今までは「エゴの思い通りではないこと=悪いこと、ひどいこと」とほぼ自動的に判断し、これまた条件反射のようにそれらにふさわしい感情が湧いてくる、というのが一つの「決まり事」あるいは「判断と感情が生じる規則性」みたいなものだったわけだが、ここであなたは新しい決まり事・規則を自分に与えているのだ。

とりあえずは、自分に「起きている」ように見えるあれこれについて「これは良いこと、悪いこと」などという判断をしないようにする。万一、反射的にやってしまっても後戻りして撤回保留する。どちらにしても最終的には「平和と感謝」でマインドを満たす。これを日々繰り返してみよう。

第275回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 232・233

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 232

第29章 その6

今更だが、身体もまた偶像である。偶像とは定義により神の代用品であり神ではないものなのだから、身体は神ではない。従って永遠でもなく普遍でもなく死すべき存在である。というか、「コース」曰く、身体にはもともと生なんかないのだ。身体そのものは「生きて」さえいないのだ。「コース」の論理に従えば、真に生きているものが死ぬことはありえない。生の中に死が含まれているような両義的な存在を「コース」は認めていない。とすると、死ぬようなものは最初から生きてなんかいない、ということになる!生きているように見えるけど、身体の生命こそ「いのち」だと思われているけれど、それってせいぜいが「生のパロディ」みたいなものなのだ。

話は少しそれるが、「死の必然」を完全に受け入れてしまった者は死を超え、従って恐怖も不安も超える。死を現在の生に完全に組み込んでしまう、するとあなたは身体ではなくなり、生が際立つ。死はいつかどこかに待ち受けている恐るべきものでも望まれるべきものでもなくなるのだ。「コース」の考え方とは異なるが、日本人にはこちらのほうが馴染みやすいような気がする。

何であれ「本当はあるとわかっている恐ろしいものを見ないふりして生きる」ことほど苦しく厄介なものはない。死でも罪でも同じことだ。しかし、しっかり見てしまえばそんなものは「ない」とわかる。偶像に目を奪われ、幻想に目をくらまされているとそれがわからない。真理が目の前にあっても見ることができないのだ。言い換えれば偶像も幻想も(同じことだが)真理を見させないためのエゴの武器みたいなものである。ある偶像がダメならまた別なものを探す、この繰り返しに陥ってはならないのだ。繰り返すが「求めてはいけない、求めるべきではない」と言っているのではない。求めても無意味で無駄だと言っているのである。それをわかったうえで暇つぶしにやってみるのであれば別に良いのではないか、という気もする。もっとも、本当に無意味で無駄だとわかってしまえば「求めなさい」と言われたってできるものではない。求めるふりくらいはできるが、本気で求めることはできない。そういうものです。

外側のあれこれ、たとえば「理想の社会を求める」とか平和運動とか反戦とか反原発とか、そういうものでさえそれに先立って「神の子であるという自覚」がなければやっぱり立派な偶像なのである。今の社会はああでこうで問題だらけだ!何とかしなくては!と思った時点で「コース」的にはもうアウトなのだ。そこには幸福を阻む「欠落」が見え、戦うべき「敵」が存在してしまっているからだ。そう思えてしまう自分の知覚認識機能をまず何とかしなくてはならないのだ。自分の外側の何かが平和や幸せを与えてくれると思う人は不可避的に自分の外側に「正すべきもの、敵」がいる、と思い込んでいるのである。自分のマインドの間違いは棚に上げて、不幸や不満の原因を全て社会だの政府だの何だののせいにしているあらゆる運動はどうしたって「偶像崇拝」なのだ。

あなたが「これが悪い、これのせいだ」「ああしたからこうなった」と思うあれこれは必ず過去に起因するものである。当たり前ですね。今の政府が最悪だとして、その政府はちょっと前にできたものだろうし、その政策も今までになされたものだろうし、この世では幸不幸のあらゆる原因は過去にあると決まっているのである。しかし、今ここに生きると決めた私たちにとってもはやそれら「過去」は何の意味も持たないのではないか。それを外して考えればあなたが今「正当にも求めている」と思っているあれこれもまた無意味なのではないか。

私たちの、つまり聖霊による目的は過去とは何の関係もなくただ「今ここで」解放され平和で幸せでいようというものだ。理由も何もないのである。強いて理由があるとすれば「私たちはそのように作られているから、神のひとり子だから」であろう。このように書き表すと「過去において作られた」と読まれてしまいがちだが、神の創造は時間を超越しているのである。

例によってまずは目的を正しく定め直せばよいのである。世界であれ身体であれ、私たちのマインドが間違いによって作り出してしまったものを有効利用するために新たな目的を与えればよいのだ。そうすれば投影の原理によってそれらはそのようになるであろう。あなたを支配したり幸せにしたり、そのような影響力のあるものはあなた自身を措いてないのだ。あなたの外側にはないのだ。あなたが苦しんだり悩んだり怒ったりしているとして、それらの原因はあなた(のマインド)以外にはないのだ。あるように見えるとしたらそれらは全てあなたが作り出し、なおかつ力を与えた「偶像」なのである。あるいは、自分のマインドが外界に投影したものを現実だと思い込んでいるのである。思い通りにならないことばかり、現実がそんなふうに感じられるならあなたは「思い通りにならない」という考えを投影したのである。どんな辛い経験でもそれはあなたが自覚せずに望んだことなのだ。逆に言えば、いま苦しく辛いなら「私はそれを望んだのだ、間違えた、失敗した」と気づき自覚できるではないか。これを是非日々の実践としていただきたい。

私たちのマインドは眠りこけているも同然で、夢を確固たる現実だと信じ切って何生も過ごしてきた。怖かったり苦しかったりするのはそれが夢だからなのだが、夢ははかない希望もまた見せてくれたりする。それに私たちは「本当の現実」=天国の素晴らしさを知らない、というか忘れ果ててしまっている。だから、そんなわけのわからない、あるかどうかも定かでないような天国なんかと引き換えに夢を捨ててしまうことを恐れる。目覚めてしまうことを恐れる。言い換えれば偶像を捨てることを恐れるのだ。これをそのまま裏返せば神を恐れていることになる。目覚めて偶像が捨てられればそこにあるのは神(の御心)だけだからだ。

偶像を捨てて目覚めれば私たちは今までの現実を、今まで現実だと思っていたものを失うだろう。だから私たちは救いを恐れるのである(求めているつもりでも!)。しかし、そんな現実もどきなんか初めから「なかった」のだ。目覚めたときにはそのことも同時にわかるようになっている。これもまた幻想だったのか、偶像だったのかと気づいて驚くことはあるが、偶像や幻想を捨てるとき解放感はあっても喪失感はないのである。そうなってみればわかることだ。

救いとは、私たちがどこまでいっても生けるものであること、死はないことを明らかにするものである。罪も、従って恐怖もないことを明らかにするものである。だからこその「救い」なのだ。あまりにも長いことエゴにやられてきてしまっていると「楽になる」ということがどういうものかさえわからなくなる場合が少なくない。だからあまり「ああなるのか、こうなるのか」などと考えないほうが良いと思う。とにかく私たちは神の代用品を求めては挫折し失望する、という繰り返しから解放されるのだ。本物がここにあると、いやそれどころか自分自身こそがその本物なのであるとわかった日にはもはや何かを求めることが「できなく」なるはずだ。忘れることはある。しかし、忘れていたことに気付けばよい。そのときあなたは思い出すことができている。それだけの話なのだ。

さて、先ほども少し書いたことだが、偶像はあらゆる形を取って現れる。あらゆるものが偶像になりうると言っても良い。変な話、この「コース」さえも偶像になりうる。だから「いったいどれが偶像なのか、偶像でないものは何なのか」見分けにくかったりするのである。お金でも洋服でも、それが「単なるツール」なのか偶像なのかは人によって異なるのだ。そういう意味でも形に惑わされてはならない。また、偶像という言葉から何らか物質的なものや形あるものばかりを想起してしまうかもしれないが、あらゆる権利や主義主張や思想や運動もまた偶像になりうる。キリスト教や仏教も、座禅も瞑想も偶像になりうる。それらが「自分とは別のもの、自分の外側にあるもの」で「これができれば幸せ、これがないと不幸、これがあると不幸」みたいに感じられるものは全て偶像になっていると思えば良い。

たとえば戦争は偶像である。従って反戦運動も偶像である。それどころか国家もまた偶像である。いわゆる「正義」は偶像である。私たちを連帯させたり対立させたりするあらゆるものが偶像なのだ。

こんなふうに挙げていったらキリがないが、もっと身近なところでは恋愛やその相手は殆ど全て偶像である。いつかは来る(と思われている)「死」も偶像である。時間軸上の過去も未来も偶像である。偶像という言葉はそのまま「幻想」に置き換えて構わないのだ。偶像が神の代用品なら幻想は現実の代用品であり、神こそが現実だからである。

偶像を求めるのはそれがあなたを何らかの意味で「幸せに」してくれると思えるからだ。ならば、その偶像を得ていない(あるいは失うことを恐れている)あなたは幸せではない、そういうことになる。少なくとも真の幸せという状態ではない。真の幸せは「あれがあったりこれがなかったり」などという状況とは全く無関係に、そう望めばいつでもどこでも常に「今ここで」即座に得られるものだからだ。いま、ここで、即座に、ですよ!

とにかく、今のこの「ワタシ」は完全に幸せではない!足りないものがある!という考えに囚われ、その原因や救いを自分以外のところに求める、これが間違っているわけだ。当たり前のことだが、あらゆるものを持っていて完全で何一つ欠けることのない存在が「自分の外側に」何かを求めてしまう、というのはそのせっかくの完全無欠性を捨てることに他ならないではないか。私たちが「神から離れてバラバラに」なったとはそういう事態なのである。自分の外側(なんてないのだが、本当は!)ばかり見てマインドの中を見ずにいればあなたは真の幸せからどんどん遠ざかってしまうだろう。

偶像とは「神でないもの、神の代用品」なのだから当然神に反していることになる。神とキリストとは一つだから、偶像はキリストにも反している。ということらしいが、ここで「コース」は「偶像とは反キリストである」と、まあ当たり前なのだが、そう言っている。本来はあらゆる人がキリストである。しかし、私たちは自らが作り出した偶像を「その人そのもの」だと思い込んでいるためにその人本来の姿が見えない。本来の姿でなく、間違ったイメージや印象を抱いて「こういう人だ」と思い込んでしまう。見えたり触れたりするものを現実だと思い込んでしまう。そのように「思い込みたい」のである。本当の現実より自分が作り出した幻想のほうを現実だと思い込みたいのである。その自覚されない「願望」が偶像を生み出す。マインドはあらゆる考えを投影するからだ。

そういう意味において、偶像とはキリストの顔にかけられたヴェールのようなものだと「コース」は言っている。太陽を覆う雲のようなものだと思っても良い。雲は太陽を隠すことはできても消し去ることはできないのだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 233

第29章 その7

私たちは自らが作り出した偶像を現実だと思い込んでいて、本当の現実が見えない。だから世の中には自分とは別の「他者」というものが普通に存在して、自分の思い通りにならないことをやっているように見える。全てが神において一つである、ということが見えなくなっている。逆に言えば、それを見たくないために次から次へと偶像を作り出しているような感じでもある。

しかし、偶像=幻想とは真実が見えればたちまち消え失せてしまうようなもの、その程度のものなのだ。どんなに強固に見えても本当の現実を変える力など全く持っていないものなのだ。神こそが、神においてひとつである私たちこそが本当の現実である。それに気づくときもはや幻想=偶像の入る余地はない。あらゆるところに神があるのであって偶像はどこにもない。幻想や偶像とはあれもダメ、これもダメというふうにタブー視して「捨てる」のではなく、ただ「偶像なんだ」とわかればそれで済むことなのだ。それらは依然として「ある」ように見えるかもしれない。しかし、あなたの中でそれらは確実に力を失うのである。ま〜簡単に言えばいろんなものに振り回されたりしなくなる、ってことですね。そう思っていただいてもとりあえずは構わない。

偶像は「実在しない」のである。だからこそ偶像だと言われるわけだが、とにかく偶像とは「それを信じる者にとってだけ影響力を及ぼすもの」なのだ。信じることによって力を与えてしまうのである。そこらじゅうに偶像が溢れていてもあなたがそれを信じていなければあなたには何の影響もない、ということだ。

そして、奇跡とは「偶像を信じることをやめ、それによって偶像の影響力から解放される」ためのものである。たとえば病は偶像に決まっているのだから、奇跡によってその影響力がなくなればあなたは癒されてしまうわけである。奇跡は真理という太陽を覆っていた雲を払うものである。私たちの目を開かせ、歪んだ知覚認識機能を正すものである。外界を変えるものではないのだが、結果として外界も変わる。外界が変わったのではなくあなたの知覚機能が変わったのだ。そして、真理ならば何も「信じる」必要はない。実はウソ、ならば信じないと現実らしくならないのであって、本当の現実ならわざわざ信じなくても、イヤでもただ「そのようにある」ものなのだ。ところが、今(まで)の私たちにとっての「現実」は、本当は幻想なのにもかかわらず「わざわざ信じなくてもイヤでもそこにある」ようなものに見えている!思い込んだり信じたりしているという自覚がないからだ。

そもそも「神から離れてバラバラの個」という考え自体がとんでもないものなのだ。時間にも空間にも限定されないような「限りない」世界に生きているのに、わざわざ「限りあるもの」ばかりを作り出し、それが現実だと信じるようになってしまった私たちはまさに「さかさまの世界」にあり「さかさまの思考システム」に従っている。本当は「神から離れてバラバラの個」であるとか、永遠不変でなくなるなどということこそ「不可能」なのに、その不可能が当たり前のように「現実化」してしまっているのがこの世界なのである。でもやっぱり所詮不可能なんだからどうしたって無理がある。この世で生きていくのが大変なのはそのためでもあるのだ。不可能なことを現実として維持するためには大変な苦労が必要とされるからだ。

そして、もちろん身体もまた偶像である。私たちはその偶像を現実・本物だと思い込み、時間や空間の中に閉じ込められつつ喜びや幸福を求めて苦しみ、やがて死んでいく。それが「当たり前」だと信じられている。

私たちはそれぞれの人生でそれぞれにいろいろな偶像を求める。自分をより良くし、自分を救ってくれそうなものを自分以外のところに求める。そしてそれは飽くことがない。何かが手に入ったからそれでおしまいと言うことがない。次から次に求めるのである。救いのために苦痛が必要だと信じていれば、苦痛でさえも「より多く」求められたりする。

お金持ちになったけど今一つ幸せじゃない、愛がないからだわなどと考えて「特別なパートナー」を欲しがったり、個人的な欲望はほぼ満たしたから次は社会改革だ!とばかりに何かの運動に参加したりするのは珍しいことじゃない。だが、根本的に間違っているのだ。前にも書いたが、真の幸せや喜びとはどんな時でも常に「いま、ここで、即座に」得られるものなのだ。そして、わざわざ「もっと多く」などと望まなくてもそれはイヤでも広がり伝播していくものであり、あなたの在るところに奇跡や癒しをもたらすものなのだ。

神の子というのは「ひとり」に決まっている。言葉を用いる便宜上「あらゆる人が神のひとり子である」と書かざるを得ないが、神のひとり子が沢山いるというわけじゃない。ひとりしかいないのなら、対立もなければ比較もないはずである。

自分の中に天国があるとわかれば、或いは自分がいるところが天国なのだとわかっていれば、誰がわざわざそれ以外のものを求めるだろうか?天国以外の何かを求めるということは天国が損なわれること、つまり地獄に落ちてしまうということである。

全てが神においてひとつ、であるならば命あるあらゆるものがひとつであり、それらは神の(御心の)一部でありまたあなた自身でもある。あなたはそれ以上でもそれ以下でもない。これが「ありのままの本当の自分」というものであり、「ありのままで完全だ」とはこういうことなのである。神に造られたままであれば完全でないわけがない。

さて、偶像に支配され囚われている人というのは100%絶対に自ら好んでそうしているのである。いくら認めたくなくても、そんなつもりはない!そんなはずはないと思いたくてもこれは否定しようのない事実である。まずここを認めないことには先に進めない。

私たちは自らを「神のひとり子ではない」ものだと思い込み、つまり不完全で必滅なものだと思い込み、そこから何とか救われようとして偶像を求めるようになった。自分で作り出した夢の中で苦しみ、その同じ夢の中で救われようとしているわけだが、これは普通に考えても不可能なことである。夢の中での苦しみを終わらせたかったら目を覚ますしかないではないか。

神から離れてバラバラの個になった私たちは、直接知の代わりに知覚認識機能というものを作り出した。そして知覚認識に先だって判断や解釈があるのだった。これは以前かなりしつこくやったのでおわかりだと思う。判断や知覚認識機能とは「夢の世界」においてのみ必要とされ存在するものだった。

判断とは基本的に「区別する」という働きを持つ。聖霊によって有効な使われ方をすることも可能だが、たいていはこの「バラバラの個」から成り立つ世界を維持するために使われてしまう。間違い、歪んだ判断は連鎖する。たとえば「私にはあれが足りない」と思うのは、神の子が完全無欠であることを考えれば間違った判断である。そして「これがあれば幸せになれる」と思うのもまた間違った判断であり、「これ」なるものが偶像として求められるようになる。出発点が間違っていれば、あるいは目的(幻想の世界を保持すること)が間違っていれば、そこから生じそこに至るためのあらゆるものが間違いになる。時間がない!と思うのは、時間も幻想=偶像なら「ない」も幻想=偶像なのでやはり間違っていることになるのだが、この場合は時間が偶像として求められるようになる。よほど聖霊によってうまく使われない限り、判断や解釈というのは危険なものなのである。いろいろな感情・・・たとえば落ち込んだり怒ったり悲しんだり怖がったりするのも全て「判断の結果」として生じるものである。

だったら、判断しなければいいんじゃないの?ということである。少なくとも判断保留にすることくらいは誰でもできるだろう。どんなことがあってもすぐに心を反応させないで、とにかく聖霊に委ねてしまうのだ。つまり、とりあえず感謝と平和でマインドを満たしてしまうのだ。頭が痛い!きっと病気だわ!と思えばあなたは身体という偶像を崇拝してしまっており、そこから更に病気という偶像まで作り出すことになる。頭が痛い、と感じてもとりあえず感謝と平和、くらいはできると思う。それで奇跡がもたらされて本当に治ってしまうかもしれないし、結局病院にいくことになったとしてもパニくって駆け込むよりはよほどよい展開になるはずだ。

ところで、今更だが数ある偶像の中でもっとも根本的なもの、偶像の基本形は何だろうか?言うまでもなく「神から離れてバラバラの個であるワタシ」「神のひとり子ではないワタシ」である。身体をはじめとするあらゆる制限も全てここから始まっている。そして「神から離れてバラバラの個であるワタシ」など実在しないので、そのような自分として存在する人生も世界も幻想、夢なのである。バラバラの個であることによって他者が作り出されたわけだが、これもまた偶像である。

この「神から離れてバラバラの個」になった(と思い込んだ)ことによって私たちは神に対する反逆という罪を背負い懲罰の恐怖にとりつかれるようになった。つまり、個である夢を見ている間は不可避的にこの罪と懲罰の恐怖がつきまとうのである。当然、そこから逃げ出したい、救われたいと考える。そして、私たちは自分をそれらの罪と恐怖から救ってくれそうな偶像を求めるわけである。

何のことはない、自分が作り出した恐怖に対抗するためにこれまた自分が偶像を作り出しているのである。たとえば、孤独というのは(これも判断に過ぎないのだが!)神から離れてバラバラだと思い込んでいるからこそ生じる状態であり、当然ながら幻想である。しかし、私たちは幻想であるところの孤独から救われたいために偶像である他者を求めたりするのである。もう、こんなことばっかりなのだ。

まるで、小さい子供がおもちゃを「わるもの」に見立てて、本当にそれが自分を攻撃し痛めつける力があると思い込み、更に別のおもちゃを「スーパーマン」に見立ててそれが自分を救ってくれるものだと思い込んでしまっているようなものである。同じおもちゃがその時々の気分で別の役割を持たされたりもする。私たちが本気でやっているあれこれも結局はこれと同じことなのだ。

自分で自分を勝手に貶めておいて、それをまた自分で救い出そうとする。貶めるのを止めればよいだけなのに、そうはしないで何か「力がありそうなもの」をでっち上げてそこに望みをかけるのだ。そのたびに私たちは判断を下している。繰り返すが、出発点が間違っていればその後の判断は全て誤りである、というか全て思い込みに過ぎない。何度も繰り返すことになるが、私たちは自分の思い込みを外界に投影して現実を作っているのである。

第274回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 230・231

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 230

第29章 その4

前回の続きだが、怒りとはやっぱり「他者が自分の思い通りになってくれない」ゆえに湧き起こるものである。これまた実にバカバカしいのであって、そもそも他者とは自分のマインドが投影によって作り出したものに過ぎないのだ。しかも、他者とは定義により「自分とは違う、自分の思い通りにならないもの」なのである。それが思い通りにならないからと言って怒るなんて、何だか笑うしかないような光景ではないか。人間関係だけではない。世間が悪い、政治が悪い、社会が悪い、運命が悪い。どれも「他者」であり、どれも同じなのだ。こんな目に遭えば怒るのは当然よ!と正当化したくたって無理なのだ。何故ならそれらは初めから「思い通りにならない」ものとして作り出されたのだから。怒りを正当化したくなったら上記のことを思い出していただきたい。

聖霊によらない夢である限りにおいて、どんな夢も一皮むけばみな同じ、その核にあるのは恐怖なのだった。あなたの望みが叶うか叶わないか、そこで夢の良し悪しが決まるだけなのだった。良し悪しなんかどうでもいい、そんなことは問題じゃない。要は、あなたが夢=幻想を望んでいるかどうか、それだけなのだが、実はこれって「愛ではなく恐怖を望んでいるかどうか」と同じことなんですね。恐怖がイヤならあらゆる夢を捨て去る覚悟をしなくてはならないわけである。ここでつまずく人も少なくないだろう。自分の望みを諦めなくちゃいけないのか?犠牲を払わなくちゃいけないのか?しかし、そのあたりの事情についてはこれまでに何度も述べてきたのでここでは割愛する。あなたは何も諦める必要がないし、何も犠牲にしなくて良い。

あれもこれも幻想なんだから求めては「いけない」、と否定するのは良くないのである。否定すればするほど、「ない」はずのものが実体や現実味を帯びてしまうのだ。求めてはいけない、のではなくて「求めたって無駄ですよ、そんなことで幸せにはなれませんよ、恐怖から解放されませんよ」というだけの話なのである。

聖霊による「幸せな夢」も、やっぱりまだ真実ではなく夢の領域にあることには違いない。が、それは単に知覚認識の域を出ていないという意味であって、夢だからといって「間違い」ではないのだ。また、一見はいろいろな外観をとって現れるが材料はみな同じ、という点においてもエゴ的な夢と変わらない。ただ、当然のことながら材料が全然違うのである。聖霊による夢は、恐怖ではなく愛からできている。ゆえに、そこには抑圧も怒りも攻撃もない。自分の思い通りにならない他者もいない。というか、他者を思い通りにしようなどという自分が既にいないのだ。

エゴ的な夢と見たところの外観は変わらないかもしれない、しかしその材料が全く違うというのは、要するにあなたの知覚認識経験が全く違うものになるということである。結局、夢(あるいは、私たちにとっての現実)の外観なんてどうでもよいのであって、自分にとって嬉しく幸せで感謝すべき経験になるか腹立たしく恐ろしく忌むべき経験になるか、だけが問題なのだ。それは煎じ詰めれば、いや単純に考えても専ら知覚認識の問題でしかないではないか。聖霊による夢=本当の世界を生きるとは、やはり聖霊によるところの正しい知覚認識、真理を反映するような知覚認識の仕方を身につけることに他ならない。

神の御心から派生したもの以外は真の意味において分かち合うことができない。「コース」は、幻想やエゴ的な夢はシェアできないと言っている。集団規模での幻想というのも確かにたくさんあるのだが(集合無意識なども含めて)、いかなる幻想であってもその出発点が「(神からの)分離・分裂」であることを考えればシェアという概念とは根本的に相いれないことがわかると思う。方向が全く逆なのだ。そういう意味において「コース」は幻想、悪夢や恐怖などはシェアできないと言っているのである。

とにかく、あなたがさまざまな他者に対して秘かに、或いは堂々と?望んでいる自分勝手な役割、そんなものが初めからなければ怒りも恐怖も失望も何もありえないではないか。恋愛などは通常「この人は私を幸せにしてくれる、この人とつきあえば幸せになれる」と思うところから出発する。あなたが相手にそういう役割を負わせてしまうのである。だからちょっとでも「幸せじゃない」ことが出てくると失望したり怒ったりするわけだ。それだけではない。自分の不幸を国家や自然災害のせいにして怒ったり悲しんだりするのは、国家や自然が自分の利害と一致しているべきだと考えているからなのだ。「こうあるべきだ、こうあってほしい、なのにそうなっていない、ひどい」と考えることじたいが間違っているのである。それどころか「コース」によれば、そもそも「他者」なるものが全て自分の作り出した幻なのである。

知覚認識を正すことに先んじて「目的をしっかり定めること」が求められていたのを思い出していただきたい。それは「平和と幸せ」だったはずである。あらゆることがそこに向かっているのであれば、何が或いは誰がどうしようがあなたは常に平和と幸せだけを知覚認識経験することになる。そして、それが聖霊による幸せな夢でありほんとうの世界なのだ。

今まではあなたを傷つけ怒らせてきた誰かはもはや敵ではなく、あなたにゆるしや解放をもたらす兄弟姉妹、あなたとひとつであるところの聖霊となって夢に登場する。あなたの助けを求めるものとして、あなたにそのチャンスを与えてくれる者として登場する。夢の目的が「癒し、解放する」という新たな役割を与え、聖霊によって新たな役割を与えられた夢だけが真にシェアされうるのである。そこには必ず聖霊の、つまり神の愛がある。私たちの夢はその愛を与え合う場に変容するのだ。

私たちのマインドは、というかそもそもマインドはひとつなのだが、神の御心の一部であり神と一つである。本来の私たちが住まう場所つまり天国もマインドの中にあるはずだ。まあ、住まうも何もないのだが・・ここでいう「天国」とは空間的なものではなく、ひとつの状態を示すものだからだ。わかりやすく言えば、私たちのマインドには神から造られたままの部分、どうやっても変わることのない、時間も場所も関係なく何ものにも影響されないところがある、というふうになる。生まれもせず死にもしないもの、それが本来の私たちなのであり、聖霊とそして神とひとつなのである。

聖霊は「出会う人全てを神のひとり子=キリストだと見て、その人を夢から覚まさせ幸せにする」という役割を私たちに与えている。誰もが、どこまでもあなたと同じ神のひとり子であり永遠に不滅の存在である。あなたの中にあり、あなたとひとつであるところの神の平和はあらゆる人の中にある。あなたが完全なる平和をもって相手を見るとき、相手もまた完全に平和なのである。何故なら、その部分こそはあらゆる人において「ひとつ」だから、どこにも何も違いがないものだからである。マインドのその部分は「神においてひとつ」なのだから、あなたがそこに立脚している限りあなたが見るもの全てが同じように「神においてひとつ」になるしかないのだ。投影の原理から考えてもそうなるしかない。あなたの目の前に、あるいは心の中にいる誰もが神の御心をあらわす存在になる。誰かのことを「自分とは違う他者」だと見てしまったら、そして批判したり心配したり苦しんだりしてしまったら、あなたは自分も相手も「ひとつであり全てであるもの」から排除することになってしまうのだ。私たちは本来「神と同じように完全に」造られているはずなのだから、あなたがその状態を経験したいのなら誰かを排除するわけにはいかないのだ。

あなたが見るもの、出会う人全てに神の栄光が輝いているはずなのだ、というか聖霊の知覚認識に従うならそのようであるはずなのだ。

ゆるしの先にある状態がどれほど素晴らしいものなのかわかりさえすれば、誰だって幻想なんかにしがみつこうとするわけがないのだ。しかし、今の私たちにはそれがわからない。だからつい「いつものクセ」が出てしまうし、それに屈して流されてしまうこともある。が、普通に考えても「まわり中が敵」であるような世界や人生より「まわり中が救い主」であるほうがずっと好ましいのではないか。そして、ありがたいことにこれは私たちにとって自然な状態なのである。今はただ馴染がないだけだ。

自分の死であれ、誰か身近な人の死であれ、死というものは私たちにとって究極の分離と攻撃を意味している。別々に生まれて別々に死ぬ。自分が身体であり身体が実在だと信じている以上はどうしてもそうなる。しかし、それもまた夢の一部なのだ。そして、この世のあらゆるものが変化するのであれば、私たちの夢・世界もまたいかようにも変化する。この世において永遠不変なものを求めることはできないが、その代り苦しみもまた永遠不変ではないと断言できるのである。従って「何もかも変わってしまうのね」と嘆く必要はない。更に、私たちはゆるしによってその世界から解放され、永遠の命と変わることのない平和を得ることができるのだ。

ということで、さあ、あなたは兄弟姉妹をゆるす気持ちがどれくらいあるか?止むことのない闘いと惨めさと苦痛の代わりに永遠の平和を求める気持ちがどれくらいあるか?この2つは全く同じことを問うているのである。ゆるしこそが平和をもたらすのだ。真の平和がもたらされるとき、バラバラの状態はなくなっている。他者が存在せず「あらゆるものがひとつ」なのだから、危険も破壊も罪も死も、狂気も殺戮も、悲しみも喪失も存在しない。私たちが解放される際にこれらのものは全て失われる。このうちのどれかを失うのがイヤだから解放なんかされたくない、と思うだろうか?ひとつでも惜しいものがあるだろうか?


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 231

第29章 その5

私たちが知っている(と思っている)宇宙、太陽系などのいわゆる物理宇宙もやっぱり幻想の産物なのだった。何故ならこれらは全て変化するからである。時間と空間に支配されているからである。私たちの身体の寿命とは比べものにならないにしてもやっぱり始まりと終わりがあることには変わらない。永遠に存在しているかのように見える太陽さえも同じなのだ。このように、宇宙も自然も含めて私たちが知っていると思っているものは全て変化するのである。季節の移り変わり、潮の満ち引き、地球の自転と公転、あらゆる生物が生まれては死に、花が咲いては枯れ、葉が散った樹にも春になればまた新芽が出る。その繰り返しである。ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。あらゆるものが変化するのである。

しかし、この変化という「幻想」もまた私たちにとって有効活用できるのだ。学びとはマインドの在り方が変化することでもあるからだ。その中で永遠に変わらないものがある。神及び神に派生するものは生まれもせず、従って死ぬこともなく永遠不変なのである。本当の私たち、神のひとり子である本来の自己は時間の支配を受けない。いつ生まれてどんな人生を送っていつ死ぬか、運命は予め決められているというひともいるが、そうだとしてもそれを決めているのは神ではない。生年月日によって運命がわかるというひともいるが、生年月日って身体が生まれるときですよね。そして身体は実在しない、投影の産物でしたよね。つまり、そういう「運命」など、神から離れてバラバラになった私たちのマインドが恐怖や罪悪感によって勝手に決めているに過ぎないのであり、私たちはそこから解放されることができるのである。

本来の私たちは神と同じものであり、永遠不変である。ゆえに死ぬことはない、というか死ぬことができないのだ。なくなることがありえないのだ。

あなたはゆるしによって変化する、変容するのだと思うかもしれない。が、本来の自己は決して変化しない。ゆるしは時間からの解放でもあるのだ。究極のゆるしは私たちを「変化」からも解放する。この場合「変化しなくなる」というのは学びが止まってしまうという意味ではなく、もはや学ぶべきことが何もなくなる、学びが完了するという意味である。

何であれ、私たちは自分が定めた目的(そんなもの定めた覚えなんかないとしても!)に沿って知覚経験する。私たちが作り出した幻想が自分を苦しめるものになるか、あるいは学びや解放のためのツールになるか、それも目的しだいなのだった。変化についてもまた然りであって、マインドや知覚認識機能の歪みを正して今までの苦しい世界から解放されるためのツールとして用いることができる。当たり前だが、ゆるし癒されれば世界は文字通り「一変する」のである。間違いを正し、呪縛された状態から解放されるのも「変化」だ。従って、変わることができる、というのは今の私たちにとっては恩恵である。

身体が実在する、即ち生まれたものは死ぬのが当たり前の世界なら、ある意味私たちは「死ぬために生きている」ことになる。しかし、身体ではない本来の私たちはどこまで行っても「生」なのだ。生の目的は死ではありえない。生の目的は生であり続けること、それが際限なくどんどん拡大されていくこと、つまり創造である。それが生の本性であり、神が私たちに与えた役割なのだ。私たちはゆるしゆるされることによって、完全に自覚を持ってこの役割を果たすことができる。ゆるすものがなくなったときに時間もその役目を終える。何故ならそこにはもはや「過去」がないからである。

この世に在ってこの世を超えた生き方をする。そうすればこの世はあなたにとって平和で幸せなものになるだろう。何もかもあなた(のマインド)の選択と決断しだいなのである。身体や世界の役割と目的を聖霊に従うものに改めればよいだけだ。あなたはあらゆるものを自分が見たいように見ている、だからどういうふうにでも変えることができるのだ。

この段階はあまり長くは続かないと「コース」は言っている。何故ならここまでくれば時空を超えた領域に至るのはそれこそ時間の問題だからだ。

そういうわけで、またしても繰り返しになるが「自分の外側に求めてはならない」。いや、別に求めたっていいのだが、そうするとあなたは必ず失望することになる。いつまでたっても本当の幸せや平和や安心を得ることができなくなる。これさえあれば幸せだと思って頑張って手に入れても、それで苦労の全てが終わるわけではない。スピリチュアルなものでさえ、自分の外側の何かから与えてもらえるのだと思って次々にいろんなことをやる人もいる。宗教を渡り歩く人もいる。今度こそピッタリのパートナーを、と求め続ける人もいる。が、やっぱりこれではダメなのだ。もしもそこそこに素晴らしいものが手に入ったとして、それであなたは一生何の悩みも苦しみも心配もなく生きていけると思いますか?次々に新しい問題が出てくるだけかもしれないではないか。

救いや解放も、神や愛や真理でさえも、それが自分の外側にあると思っている限り得ることができない。求めた分だけ余計に苦しむ羽目になるのだ。考えるまでもないことだが、何も求めなければ失望はない、本当に希望がないとわかれば絶望もない。最悪なのは「不毛な努力」である。あなたは今まで間違った努力をしてきた、間違いを信じて不毛な努力を続けてきた。まずはこれを喜んで認めよう。いや、私は間違ってなんかいない!とこだわるのは自由だが、それでどうするつもりですか?

ここまで「コース」をお読みになった方なら既にお分かりの通り、救いも癒しも解放も神も愛も真理も全部自分の中にある。いや、それらの中にあなたがあると言ってもいい。どちらでも同じことなのだ。しかも、これらは隠されているわけではなく常に今ここで光り輝いている。あなたの目が曇っていさえしなければわざわざ探す必要もない、ただ「見ればわかる」くらいの明らかさでそこにあるものなのだ。

このことがわからなくなっているのは、やはり「自分を神から引き離してバラバラの個になり身体を作り出した」こと、そしてそれこそが現実だと信じているからである。もう初めから「真に大切なものが欠落している」状態を作り出してしまったのである。本来の自分だの、本当の幸せや真理だの、そういうあれこれが「いつか、どこかで」見つかるようなものだと思ってしまうのだ。確かにこれらはエゴである今のこのワタシの中には存在しない。だからといって外側にもまた存在しない。というか本来は「外側」などありえないのだが、身体を基準にしてしまえばあらゆるものが自分の外側に、自分と別に存在するように思えてしまうのだ。

「コース」であれ何であれ、真理に触れる内容の教えは全て「身体=エゴ」として読まれるべきではない。そんなふうに読まれてしまっては混乱が深まるばかりなのだ。「あなたはそのままで完璧だ」「あなたにはあらゆるものが与えられている」などというのもエゴ=身体としてのあなたに読まれれば確かに「ウソでしょ〜」に決まっている。

全ては「私は神の子ではない」という思い違いのなせる技なのだ。神の子でなければどうっやったって完璧な幸せも平和もありえないのだが、自分を神の子でないままにしておいて、もっと乱暴に言えば神の子を殺しておいて幸せや平和を求めようとするから必然的に失敗するのだ。というか初めから破たんしているのだ。あらゆる偶像は神の子を殺すという役割を持っている。

そして、そういう世界では「死」だけが必然である。身体である者は必ず死ぬからだ。つまり、ここで何らか「絶対的なもの」を求めようとするなら、それは取りも直さず「死を求める」ことになる、そうならざるを得なくなるのだ。死だけがあなたを裏切らない、絶対確実なものだからだ。その一方であなたは死を恐れている!

もちろん、神の子が死ぬことなどありえない。従って「神の子を殺した」というのもまた幻想に過ぎない。なのにあなたは殺し続ける、次々に新しい偶像を見つけ出しそのたびに神の子を抹殺し続けている。だから神の子として本当の愛も平和も得られないのである。

美貌や健康や「豊かな生活」など、身体にとって良いことを目的にすればするほど私たちは死に近づいているのだそうだ。美しくなったり健康になったり或いは豊かな生活を送ること自体は別に悪いわけでも何でもない。しかし、それらは目的たりえないのである!それらを「目的」にした時点であなたは身体を現実のものだと思い込み、また自分が身体であると思い込んだことになる。身体ならば必ず死ぬに決まっているではないか!あれが足りない、これがなくて困る、そういうのはたいてい「身体まわりのこと」と相場が決まっている。愛や平和でさえも同じことである。身体を主役にした愛や平和なんて憎しみや争いと裏腹ではないか。病気の存在を現実のものだと信じつつ健康を求めるのだって同じこと、どれもコインの表側だけを求めているようなものである。

何を措いてもまずマインドなのだ。マインドが正しい目的に即して動けば身体はそれについてくる。マインドが苦しいとき、あなたは苦しみを現実のものにしてしまっている。間違いを現実にしてしまっている。だからまずそれが「間違っている」のだと認めるのだ。どんな状況にあってもあなたがそうしようと思いさえすればマインドは平和で愛に満ちていられる、そうでないときあなたは「間違って」いるのだ。くれぐれもそれを忘れないでいただきたい。

恐れずに自分の内側をじっくり見る。そうすれば何一つ欠けるものがないことがわかるだろう。常に何かが欠けている、だから苦しいんだという「思い込み」を捨てることができるだろう。そうすれば本当の生が戻ってくる。死とワンセットになった生ではなく、真実の生が戻ってくる。

第273回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 228・229

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 228

第29章 その2

多くの人が「もっと自由になりたい、完全な自由があったらどんなにいいだろう」と思っている。しかし、私たちは既に自由なのである。ただ、そのことに気付かず自分で自分を不自由にしてしまっているだけなのだ。あれがなくならないと、これが手に入らないと自由にはなれない!と思っているなら、そう思っているまさにそのことが不自由なのである。苦痛から解放されれば自由になる、たいていの人はそう考える。しかし、「コース」によればこれは全く逆なのであって、既に自由であると気づくことによって苦痛から解放されるのだ。次から次に生じるさまざまな苦痛をまるでモグラ叩きのように退治した結果として自由が得られるというなら、私たちは一生かかっても何回生まれ変わっても自由にはなれないだろう。これは困難かつ達成不可能な方法である。「コース」のやり方に従えばほんの一瞬で苦痛から解放されてしまうのだ。もちろんある意味での努力は必要だが、何一つ犠牲にする必要はない。救われ解放されるために努力する途上で何かを犠牲にしているように感じるならあなたは間違っているのだ。犠牲にしている、そう感じること自体が既に間違っている証拠である。何かが実際に失われ犠牲になっているわけではなく、あなたがただそう感じてしまっているだけなのだ。実はとんでもなく多くの良い結果がもたらされているのに、あなたにはそれが見えないだけなのだ。

癒しをもたらすものはたとえば愛や感謝である。それを受け入れれば結果として必ず癒されるしかない。奇跡がもたらされるのは必然である。一般的に奇跡とは、たとえば空から突然宝石が降ってきた、というような不思議な現象だと考えられがちだが、そこには奇跡がもたらされるための原因が絶対に存在するのだ。たとえあなたが気づかなくても、誰も気づかなくても原因があるところには必ず奇跡がもたらされる。結果であるところの奇跡さえ見えず気づかない、という場合も少なくない。マインドが曇っていると目の前の奇跡に気付くことさえできないのだ。それくらい、人は「見たいものしか見ない」ものなのである。

エゴによって罪や苦痛から解放されることは絶対にありえない。何故ならエゴは罪や苦痛を現実のものとして維持するための機能だからである。つまり、この考え方からするとたとえば「今のこの苦しみが解放をもたらすのよ」なんてことはありえないわけだ。そもそも苦痛からの解放のために苦しむなんておかしくないですか?幸せになるために何かを「犠牲に」する、というのがおかしいのと同じ道理である。

罪も罪悪感も恐怖も苦痛も憎しみも、ついでに身体も何もかもが幻想であり「本当は実在しない」のならば、つまり「ない」のであれば、それらからの「解放」っていったい何なんですか?「無」からどうやって解放されるんですか?ただ「そんなものは実はない、と知れ」ば良いだけではないか。目覚めたら消える夢なのだとわかればよいだけではないか。それらを人生の道連れのように抱えて生きるなんてバカバカしいのではないだろうか?

愛あるところに恐怖はなく、恐怖のあるところに愛はない。これは恐怖を「憎しみ、苦痛、罪悪感」などと、愛を「平和、真の喜び」などと置き換えても全く同じことになる。恐怖や苦痛があるうちは愛を得られないのだったらまず恐怖や苦痛を何とかしなくては!と考えて、その恐怖や苦痛を現実のものとしてそれらを解放するためにあれこれのワークに励んでも今一つ成果が上がらない、これは「聖霊に委ねていない」からである。

ちょっとおさらい。恐怖があるうちは聖霊も働きようがないのであった、というか聖霊の導きを受け取れないのであった。で、その恐怖を何とかするためには聖霊に委ねてしまえばよいのであった。慣れないうちはこの「委ねる」ことに抵抗が生じるのだが、ここだけはどうしても頑張って努力しなくてはならない。すなわち、とりあえずでも何でも感謝でマインドを満たすのである。あなたの意志で「そうしよう」と思えばいつでもできることであり、とんでもなくシンプルなことなのだ。

例によって「神(聖霊)かエゴか」なのである。神を迎え入れるかエゴにしがみつくか。いや、わざわざ迎え入れるまでもなく神は既にここにいる。それに気付けないのはあなたがまだエゴにしがみついているからだ。

私たちがあらゆる人々の助けになれるよう、神と出会うことを神は待っている、などと言われるとまるで自分とは別の誰か(何か)がどこかで待ってくれているように聞こえてしまうかもしれない。そうではなくて、私たちの中にある本来の自分が自由に動きたがっているのだと思ってほしい。エゴに阻まれることなく本来の力を発揮したがっているのだと考えてほしい。そして、あなたに感謝の気持ちと平和がなければ「神を歓迎していない」「神のための場所をあけていない」ことになるのだ。これも言い方を換えれば「エゴに阻まれて聖霊の導きが得られない」というふうになる。くれぐれも、聖霊の導きを得て無限のパワーを発揮し、癒しや奇跡をもたらすのはエゴではなくスピリットの部分なのである。スピリットの部分が神と出会う、というよりそもそも神とひとつであり、神そのものでもあるわけだ。そこにおいてこそ私たちは神からのあらゆる賜物を受け取っているのである。逆に言うと、それらの賜物に気づけば・・・つまりエゴたるこの自分にはとても為し得ないようなことが起きているのを知覚経験すれば、そこに聖霊あるいは神がいるのだと気づくこともできるという具合になっている。

「コース」のいう「生ける神」とはいわゆる「生き神様」とは違う。生き神さまというのはたいてい人間=「身体を持った神」だが、神は身体を持っていないのである。もっとも「死んだ神」なんてニーチェじゃあるまいし、いるわけがない。というかそんなものを神と呼べるわけもない。形容矛盾である。生ける神とは要するに偶像ではない「本物の神、真実の神」の別名に過ぎない。

そもそもの誤解は、私たちが生命を専ら身体と結びつけていることにある。身体=生命体、つまり生命とは身体が存在することだと思っているわけだ。だから身体がなければ「生命がない、死んでいる」になってしまう。これが大きな間違いなのだ。

身体は生命であり、なおかついずれは死ぬものである。誰もが常識としてそう信じている。しかしこの世の常識は「コース」の非常識である。生と死の両方を体現している、というそのこと自体が「コース」からすれば「ありえない矛盾」なのである。死ぬようなものなら本当の生命とは言えない、というわけである。

あらゆるものは変化していつかは消滅する、この世はそういうふうにできている。しかし、神は定義により変化もせず消滅もしない。ゆえに、当然のことだが神はこの世のものではない。更に私たちは神のひとり子であり神と同質である。ならばやっぱり私たちも本来は変化もせず消滅もしない、つまりこの世のものではないはずなのである。

このあたりが矛盾し混乱してしまっているように感じるのは、私たちが自分を身体だと思っているからであり、身体を生命だと思っているからである。言い換えれば自分が人間=人体だと思っているからである。

この世のあらゆるものは変化する。そして「あらゆるものが変化する」という思い込みだけが唯一不変なのである。だからこの世はその通りのものとして現実化されている。全てが変化し移りゆくならその中での「安定」っていったい何なのだろうか?状況や環境や考え方さえも変わっていく中で安定を求めるなら、その都度マインドが安定しているというふうにしかならないではないか。安定は外的状況にあるのではなく、あくまでマインドの問題だということがここからもわかるだろう。外的状況を安定させようと四苦八苦してマインドが不安定になってしまったら元も子もないではないか。

私たちは身体が変化するものだと信じている。成長したり老いたり病んだり傷んだり、痩せたり太ったり歯がなくなったりシワをとったり、好むと好まざるにかかわらず身体は変化する、ように見える。が、実は身体は変化しないそうである。もちろん、生まれたままの姿で100年も生きるような人は普通いないので、これはとりあえず「身体は実は存在しない。存在しないという状態で居続けるのだから変化はない」というふうに考えても良かろうかと思う。ここで「コース」が言っているのは「身体そのものが変化するのではなくて、変化という現象を信じる私たちのマインドが投影されているだけだ」「身体は、変化という願望あるいは夢を現実化するための手段として使われているだけだ」ということである。私たちは身体にそういう役割を背負わせてしまっているのだ。

そしてあらゆる手段が聖霊によって有効に活用されるなら、身体は癒しや奇跡をもたらすことにも用いられる。だから病が治ったり、昨日までドンヨリしていた人が輝いて見えたりもするわけだ。

繰り返すが、要は身体をどういう目的で用いるか、どういう役割を負わせるかに尽きるのである。言い換えればあなたが何を現実だと思っているか、どういう現実を望んでいるか、それが身体によって表されるのである。

これまた繰り返しになるが、たとえば病は「健康体が変化したもの」なのだから、病むということはあなたが「変化することを現実と思い、本来の姿ではいたくないと望んでいる」結果なのだ。身体が「実は、ない」とわかっていれば、そしてそういう現実を信じ望んでいれば、「ない」ものが病んだりするわけもないので病気はありえない。そういうことになる。あるいは、身体に限らずあなたが本来の自己にはないようなことを現実だと思ってしまえば(恐怖、不安、怒り、憎しみなどなど)それは自分を「みんなバラバラの個」だと思い望んでいるのと同じなのだから、従って自分=身体だと思い望んでいるのと同じなのだから、やっぱり身体は病んだり傷んだりしてしまうのだ。

身体が「実在する」と信じるのは神を否定するのと同じことなのである。ちょっと極端に聞えるかもしれないが、「コース」に即して考えれば「神に造られたもの、神から派生した者だけが実在である」のだから、それ以外のものを実在だと考えるのは「神の否定」になってしまうのだ。ゆえに、身体は「実はない」のだと認めないことにはどうしようもないのである。病という「犠牲」を払った(と思い込んだ)ところで、神が救ったり助けたりしてくれるわけがない。何故ならそう思い込んだというそのこと自体が神の否定だからである。自分が否定しておいて救われるも何もないではないか。

更に極端に聞こえるかもしれないが、身体が実在すると信じることは神の否定にとどまらず「神を敵に回す」事態でさえあるのだ。あなたは本当の神を否定して、それとは別に「自前の神」を作り出してしまった。これは本当の神と相反するもの、共存不能なものである。自前の神があるうちは本当の神は出てこられない。本当の神が出てきてしまったら自前の神は消滅する。ならば身体という「自前の神」を後生大事にしている間、本当の神はその敵に他ならないではないか。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 229

第29章 その3

身体が実在だと信じる、とは言い換えれば自分たちが「バラバラの個、それぞれが違うもの」だと信じることである。言うまでもなくこれは「全てが神においてひとつ」とは相反する。そして「バラバラの個」であれば当然そこには「敵にもなりうる他者」が常に存在してしまうことになる。攻撃の可能性が常にあることになる。ゆえに、身体が実在だと信じれば攻撃は不可避である。即ち病や負傷など、身体は常に攻撃の恐怖にさらされるわけである。

考えるまでもなく、「ない」ものは攻撃され得ない。宙を殴っているようなものである。

しかし、私たちは身体が実在すると信じこんできたのだ。身体が傷めば辛くて不自由だとか、トシだからあれもこれもできないとか、頑張りたいのに身体が言うことをきかない(!)とか、いろいろな面で身体によって制限されるのが当たり前だと思い込んできたのだ。自分を「他人とは違う個体」にしておくために、そうやって「個=エゴ」を守るために作り出した身体だったはずなのに、身体はまるで苦痛の種のようになってしまった。そうして思い通りにならない身体をあなたは憎むようになる。身体はあなた自身にとって「他者」になってしまったのだ。それもこれも、最初にあなたが自分を「バラバラの個」だと思い込み、それを現実化させるための身体の実在性を信じたからに他ならない。初期設定ミス、みたいなものである。

身体は「ない」のである。ゆえにあなたは身体を愛したり憎んだりすることはできない。「ない」ものは愛や憎悪の対象になりえないからである。エゴが消えるときには自動的に身体もなくなっている。もちろん文字通り消滅して誰の目にも見えなくなっているという意味ではない。身体本来の「無意味性」があらわになっているということだ。そして、それによって本来の神が完全な姿で立ち現れ、あなたを病や死から解放するのである。

あなたが誰かを他者=身体として見ないとき、即ち「神のひとり子」「聖霊」として見るとき、その人は救い主になっている。あなたとは違う身体、そしてあなたと同じように死すべき身体に閉じ込められた他者ではない。

このように、私たちは出会うあらゆる人々を救い主にしなくてはならないのである。その人自身が自分を身体だと思い込んでいてエゴにどっぷり浸かっていようが何だろうが、まずこちらが見方を変えなくてはならないのである。というか真の姿を見てやらないとならないのである。救いは同時に起こる。或いは「与えるものが受け取られる」のだ。救うものが救われ、救われるものが救うのだ。つまり、誰かのことを「自分を救ってくれる救い主」だと見ない限りあなた自身もまた救われないのだ。この人がどうやって私を救ってくれるっていうのよ!と思うかもしれないが、それはまさしくエゴ的な発想であり見方である。これまたシンプルなことであって、要するにマインドを感謝と平和で満たしてその人を見ればよいだけの話なのである。これなら誰だってできるでしょう?

あなたが受け取ればその人はあなたに「与えた」ことになるわけだが、これってもはやどちらがどちらに、なんてものはなくなっているのである。これもまた言葉の限界であって、「与える」といえばそこには与える主体と与えられる対象が別個に存在するかのようにどうしても聞こえてしまう。本当の意味で与え受け取るとき、そこにはもはや自他の区別などない、あなたも相手も神において「ひとつ」になってしまっているのである。

神もそのひとり子も与えることによって創造し、そうすればするほどますます増大し、そのことにおいて常に不変であり完全である。何度も繰り返されていることだが、ここが基本なのだ。日々の生活の中で小さな(程度の違いはないのだが!)実践を重ねているうちに段々このことが実感としてわかってくると思う。

あなたが否定しようが忘れようが、あらゆるところに神は在る。存在しないものは「ない」からである。「有る」との比較によって「無い」のではなく、単に「無い」=絶対無というものの不可能性を今一度よく考えてみてほしい。(余談だが「無の境地」というのは「無我」=つまり身体性やエゴが消滅した状態であって「無」ではなく、それこそ「神においてひとつ」と同じ状態を表す言葉である)

エゴには何一つまともなことができない、これを思い出していただきたい。エゴたる自分のままでは与えることも救うことも救われることも目覚めることも、何一つ!できないのである。目覚めや気づきは自力本願か他力本願か?スピリットの自力なら「神とひとつ」なのだから何でもできるが、エゴの自力なんて何もしないよりまだひどい。さっさと聖霊に委ねなさい、なのである。聖霊はエゴから見れば他力であり、スピリットから見れば自力になる。とにかくエゴのままで目覚めることはできないが、聖霊に委ねればそれができる。光がもたらされれば闇は消える。聖霊に委ねればエゴは消える。誰かに対して感謝や平和以外の気持ちを抱くとき、あなたはその人を身体だと見ていることになる。誰かの言動について云々したり、あるいは「あの人は苦しんでいる、病気である」と見たりしてしまうとき、あなたはその人の幻想=間違いを自分のマインドにおいて現実化し強化してしまっている。その時、そうしているあなた自身もまた幻想から解放されないのである。

逆に言えば、誰かを救い主だと見るならあなたもまた救われることになる。投影の原理を思い出していただきたい。誰かをゆるせばその人もまたあなたをゆるし、あなたを幻想から解放することになるのだ。ここはエゴのアタマや心情で考えると絶対に理解できないところである。しかし、神の御心であるようなものを与え受け取るとき、私たちは神においてひとつになっている。私たちの間にあった(と思い込んでいた)隙間のようなものは消え失せる。私たちを分け隔てていた身体は既に意味をなさなくなる。身体の代わりに神々しい光が見える、と「コース」は言っている。

私たちは愛によって創造されたのであり、私たちが愛を創造したのではない。愛を創造することなどできない。しかし私たちは愛を与えあい、増やしていくことならできる。ゆるすとはそういうことでもあるのだ。誰かを聖霊だと見れば、あるいは感謝と平和に満たされたマインドで見れば、それだけで愛を与え受け取り増やすことになるのである。

このあたり、以前にも書いたことがあると思うが、誤解を招きやすいので改めて説明しておこう。個人=身体としての誰かがやはり個人=身体としてのあなたに何か素敵なことをしてくれて救ってくれる、という意味だとは思わないでいただきたい。多くの人々がここでつまずくのである。せっかく自分は相手を聖霊だと見てゆるしたのに相手は全然変わらない、何もしてくれなかったじゃないの!「コース」なんかダメだわ!そんなふうに感じてしまうのだ。これがなぜ間違いなのか、ここまで学んできた方ならわかりますね?「全然変わっていない。何もしてくれてない」と思っているのは誰(何)だろうか?そういう知覚認識をしているのはあなたのエゴに他ならないではないか。ここでもまた投影の原理を思い出していただきたい。そのようにしか知覚認識できないあなたこそが「全然変わってない」のである。相手を聖霊だ救い主だと見る、これがちゃんとできたときには変わったとか変わってないとかそんなこと全然問題にもならなくなるはずである。そんな次元ではなくなるのだ。

神のひとり子・救い主キリストはあらゆる人の中にあり、あらゆる人が神のひとり子・救い主キリストなのである。そして神とひとつであり神においてひとつなのである。ならば救い救われるチャンスは、解放し解放されるチャンスはもう至る所に尽きることなく存在しているわけだ。これはかなりすごいことではないか。愛と感謝を持って相手を見ればあなた自身もますます大きな愛と感謝に満たされる。その時にきらめく光があなたを、そして相手を夢から覚まさせるのだ。

さて、夜寝ている時に見る夢であれ白昼の現実だと思い込まれている夢であれ、夢には2種類ある。聖霊によるものとよらないもの、この2つである。言うまでもないことだが、私たちは通常「聖霊によらない、神から離れた個としての夢」を現実だと思って生きているわけだ。まず、こちらについて見てみよう。

このような夢はもちろん全て幻想である。その基盤には「私たちは神から離れてバラバラの個である」という思い込みがあり、それは神に対する反逆と冒涜という罪、更にそこからくる懲罰に対する恐怖を生じる。ゆえに、聖霊によらない夢はそれが「良い夢」だろうが「悪夢」だろうが全て恐怖から成っている。外観はさまざまだが材料は同じなのだ。

夢は幻想であり、幻想は真実ではない。どんな幻想も「真実ではない」という点においてみな同じなのである。だからこそ奇跡は、程度も種類も一切関係なくどんな幻想でも同じように消去することができるのだ。ゆえに、あなたが真に目覚めたいならば「この夢はイヤだけど、あの夢は残しておきたい」なんてことは不可能なのだ。俗っぽい喩えで恐縮だが「貧乏はイヤだ、お金持ちで素敵な人と結婚したい」とか「孤独はイヤだ、スピリチュアルに素晴らしい特別なパートナーと巡り合いたい」など、これらはみな「好きな幻想だけは残しておきたい」といっているわけである。残しておきたい夢がある限り、イヤな夢からも解放されない。奇跡はもたらされず目覚めることもできない。

さて、ものすごく端的に言えば攻撃とは「当然そうなるべきだ、そうなってほしいと思っていることが達成されない」状態である。当然メールの返事が来るべきだ、きてほしいと思っているのに来ないとき、あなたは「ひどい目にあっている」=極端に言えば「攻撃された」と感じる。あなたの願望は抑圧される。お金が、恋人が、配偶者が、地、あるいは誰かからの理解や謝罪がほしいのに得られないなどという場合も同様である。望む結果が得られないとき、あなたが他者(人、組織、世界、運命などなど)に求めている役割が果たされなかったときに「攻撃されている」と感じるのである。それが怒りになれば今度はあなたが相手を攻撃する側になる。たとえ心の中で相手を非難しているだけであっても、である。

このように見てみれば、それがいかにおかしいことかよくわかるだろう。自分が勝手に他者に役割を割り振っておいて、それが果たされないからといって怒ったり悲しんだり苦しんだりするなんて何だかおかしくないですか?だいたい、「果たされていない」と思っているのはあなたのマインドであり、それはあなたのマインドがそのように知覚認識しているに過ぎないのではないですか?夜に見る夢も同様だが、夢の主題はだいたい抑圧と攻撃なのであり、それらは恐怖から生じているのだ。そして、その恐怖の源は「神から離れてバラバラになった(と思い込んだ)」こと、言い換えれば「本来の自己を否定し忘れ果てた」ことにある。

一方で、自分が他者に与えた役割がちゃんと果たされている(ように思える)ときは「良い夢、素敵な夢」なのである。夢や幻想の良し悪しは単にそれが「自分の思い通りになっているかどうか」だけで決まる。その程度のものなのだ。何だかバカバカしくないですか?

第272回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 226・227

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 226

第28章 その7

身体はマインドの指令にただ機械的に従っているだけであって、マインドの考えや思いを知ることはない。そもそも身体は分裂したマインドが投影されたものなのだから指示に従うも何もないのだが。怒りで顔が赤くなっても悲しみで白髪が増えても、それらは身体の意志ではない。身体が勝手に反応してしまうということはあるが、それもまたマインドが「身体は私の意志とは無関係なことをするものだ」という指示を与えたからであり、勝手に反応されたその内容も分裂したどれかのマインドが投影したものに決まっている。もともと身体は「神から離れてみんなバラバラ」というマインドの考えが投影され現実化されたものであり、分離を象徴するものだった。言い換えれば「神ではないこのワタシ」を表すものである。ゆえに、それぞれが異なり別々に存在し、地上のあらゆる物理法則によって制限を受けている。自分の自由にならないという点においても身体は制限を象徴している。というより、そもそも無限の存在である神のひとり子に対してマインドが「制限の象徴」たる身体を作り出したのである。

自分のことを身体だと思っている私たち、自分と身体と同一視している私たちはそれゆえに身体を愛しているはずである。多くの人が自分なりの方法で身体を大切にしていると思う。しかし、その一方で私たちは身体を憎んでもいるのである。だいいち、本当に愛していたら自分の罪を身体に投影して病気になったりすることがあるだろうか?病や痛みという形で身体を攻撃したりするだろうか?思い通りになってくれなくてイライラするのは憎んでいるのとどこが違うのか?

もっと根本的で決定的な理由がある。身体は分離の象徴、言い換えれば罪の象徴だ。そして私たちのあらゆる恐怖や苦しみはその罪から生じている。ならば罪の象徴である身体を、更には私たちにさまざまな制限を与えるところの身体を憎まないはずがあろうか?もちろん、自覚はなくても、である。

本来の神のひとり子ならば限りなく永遠不変の存在であるはずの私たちだが、自分を身体と同一視してしまうとあらゆる制限に支配されることになる。もっともこれは私たちが身体を「自らに制限を与える」目的で用いてしまっているためなのだ。自分=身体なら、身体がなければ自分もまたなくなってしまう。こうして私たちそれぞれが身体に閉じ込められて別々に存在し、身体によって在り方を制限されている。

これは私たちが互いの合意のもとに立てた「秘密の誓い」だと「コース」は言うのだが、大切なものから切り離された感覚、求めるものに届かない感覚、それが不自由さや惨めさをもたらさないわけがない。ゆえにマインドの奥底には怒りがある。その怒りが身体にぶつけられた結果が病なのである。誰も気づいてはいないが、病とは「私は、自分を制限するために身体を用いています」というしるしなのである。

病気や不調な時には、身体が攻撃されているというより痛む身体によって自分が攻撃されているような気がするものである。そして攻撃はそこに他者がいなければありえないし、攻撃と怒りはワンセットである。だからこそ以前にも見たように病気の人は「私はあなたから攻撃されてるんだ、この状態は現実なんだ、だからあなたもいつかこうなるよ。だってあなたも身体なんだから」と周囲に訴えていることになるわけだ。神から離れてバラバラになるとは、ひとりひとりが身体に閉じ込められ、他の存在物から切り離され、その中であらゆる制限を受けて不自由な思いをするのと同じことである。この状態はまさに病と地続きではないか。それにしても何という矛盾した事態なのだろうか。だって、今のこの自分は失いたくない、でも病気にはなりたくないとみんな思っているわけでしょう?そんなこと絶対に不可能なのに!そんな「秘密の誓い」なんか破ってもいいんじゃないの?と思う。

もちろん、破っていいのだ。むしろ破るべきなのだ。何故なら私たちは神との間にもっとずっと大きな約束を交わしているからである。神によって神のひとり子として創造されたということは、私たちが神と同じように完璧であり、永遠に神とひとつであり神においてひとつであることに合意したのである。神の御心が自分の意志になったのである。でなければ私たちは存在していないはずだからだ。おかしな秘密の誓いなんか無視してこちらを信じればよいのだ。目の前の相手がどんな悲惨な状態にあろうが、相手を聖霊だと見れば「私たちは別々じゃなくて一つのマインドなのですよ」と相手に教え示すことになる。そうすれば「身体によって閉じ込められ制限を受ける」という合意は崩れてなくなり、ともに癒されるようになる。

神はそれ自体で完璧な存在だから何も要求することがない。神は私たちに何も要求していない。本来、神と同じである私たちもまた何ひとつ欠けるものはないのだから、何かをわざわざ要求することもないはずなのだ。自分には何か足りないものがある、欠けているものがある、そう感じるからこそ私たちは求めるのだ。そのような不足感や欠落感は全て「神から離れた」(と思い込んだ)ゆえに生じたのではなかったか。

神が私たちと約束を交わした、というとまるで神と私たちとが別物であるかのように聞こえてしまうが、神はどこまでいっても一つである。私たちを創造してもなお一つである。ゆえにその約束は何というか「神がそう決めた」と言ったほうが正確なのだろう。その神の御心もまたどこまで行っても一つであり永遠に不変なのだから「決めたことを変更する」なんてありえない。つまり、この約束は私たちの側で忘れてしまっても永遠に効力を失わないのである。ありがたいことだ。

何一つ欠けるもののない、完全で永遠である本来の自己、これを否定すれば病は免れない。しかも、これは真の治癒力の源泉である神をも否定することになるのだから、癒しも得られなくなってしまう。繰り返しになるが、癒されるとは「神から離れてバラバラになった」分離という思い込みを正すことに他ならない。「神においてひとつ」であるという事実を思い出すことに他ならない。ひとつになる、その時にもはや他者はいない。関係ない人など誰もいない。とすると、私とあなただけがこっそり癒されたなんてこともまたありえないわけだ!癒されるとき私たちは「ひとつのマインド」になっているはずだからである。目の前の誰かを癒しているように思えても、ある人を聖霊と見るときはイヤでもあらゆる人を聖霊と見てしまっていることになるからだ。

あらゆるものと一つであるか、完全にバラバラか。私たちの選択肢はそのどちらかしかないのだ。あの人たちとは一つになってもいいけど、神とは一つになってもいいけど、この人たちとはできないわ。そう考えることはできるが、これはありえない事態なのである。無理やりそうしようと思えばあなたはまるであちらとこちらを繋ぐ(ように見える)細い藁にしがみついている有様になる。結局のところ不安定で危険なままなのである。危なっかしいことこの上ない。そんなところにいて身を守ろうとしていくらあれこれやってみても無駄に決まっている。溶けそうな氷の上にものすごく頑丈な家を建てて完璧なセキュリティシステムを施したって何にもならないのと同じである。

身体は「実在しない」というくらいだから私たちを守ってくれる力など全くない。しかし、聖霊の目的に沿って用いれば私たちが本来の住処に戻るための道具にはなるのだ。そして、そのように用いられている身体は病むことがない。そのような目的のために使おうと決めれば身体は癒される。今までに見てきたように、病は神からの分離という夢を極端な形で現実にして見せているものであり、聖霊の目的とは全く相反しているからである。

身体を癒しや救いのために用いようと決めれば、身体はマインドのその指示に従うため病むことができなくなる。というか、本来は実在せずそれ自体では何もできないのだから、身体には病むこともできないはずなのだ。その代り健康になることもできない。病も健康も結局はマインドにしかないわけである。ついでにいうと、病の種類も症状も一切関係ない。身体を病ませるか病ませないか、選択肢はこれだけなのだ。

本当のこと=真理は直接知られない限り理解されることもないのだった。ならば、それを直接知ることができない私たちはとりあえず「そうなのだ」と信じるしかない。信じるだけでも十分なのであう。何故なら本気で信じること=思い込むことにはそれを現実にしようというパワーがあるからだ。そういう意味において、病気になるのは神や真理を信じていない証拠だとも言えるのである。不信心だから病気になった、信仰がないから病気になったと言われれば何だかちょっとおかしな感じがするのだが、先祖供養や新興宗教の話ではないのである。私たちは確固たる、完全に信頼できるものに自分の基盤をおかなくてはならない。当てにならないものを信頼してそれを基盤にしようとすればどうしても無理が生じるのだが、私たちがしてきたのはこれなのである。身体だの世界だのそこから派生するあれこれだの、つまりは幻想に過ぎないものを現実だと信じてしまったわけだ。神ではなく、神から離れてバラバラだという考えを信念として持ち続け、そこに基盤をおいていたのである。

神から離れてバラバラ、ということじたいがそもそも「絶対的に安全なところから離れた」のを意味するのは明白であり、そこを基盤にするなんて「危険なところにわざわざ家を建てる」ようなものである。まず自分の身を危険にさらしておいて、そのままの状態を保ちつつ安全を求めるなんてどう考えてもおかしいとしか思えない。

私たちの本当の住処は、というか私たち本来の姿はスピリットであり聖霊である。そうあるときには必ず誰か相手のこともスピリットであり聖霊だと見ているに違いないのだ。即ち、相手の中に完全な健康や幸福や罪のなさを見ているとき、相手を神のひとり子だと見ている時に私たちもまた本来の姿に戻っていることになる。

神において一つである以上、そして神とともにあり神の一部である以上、私たちはいつ何時でも完全に守られ何一つ失うことがない。たとえ嵐が吹き荒れようともこの世界で何が起き(ているように見え)ようとも、本来の私たちはびくともしないのだ。私たちは神から片時も離れないからであり、神ほど絶対確実に安全なものはないからである。この地点に立脚すれば、身体を「ありのまま」に見ることができる。即ち「実在しない」ものだが、神の子を解放するための道具として用いられるだけの価値があるものであり、聖なる目的のために「少しの間」役立てることができるものだ。言うまでもなく身体はいつかなくなるからである。「コース」はそれを身体の死とは言わない。身体は「ない」のであり、ないものは生まれたり死んだりすることもできないからである。そして「コース」において死という語は「神のひとり子でなくなること」を意味しており、聖霊とともに聖なる目的のために用いられるようになった身体に死はないからである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 227

第29章 その1

もはや言うまでもないことなのだが、神が「ない」ことは絶対にありえない。それは存在そのものが「ない」というのと同じことであり、とにかくここに「在る」からには神があるいは真理や「存在」が在るということだ。いつでもどこでもどんなときにも神は「在る」。その正しい存在を私たちが忘れてしまうことはあるが、忘れられたからといってなくなるわけではない。神を忘れているときの私たちは(今までずっとそうだったのだが!)「自分が存在することを忘れている」うえに「ありもしないものを実在しているように見ている」状態なのである。

もしも神が「いなくなることもある」ようなものだったら、私たちはいったい何を信じ何を当てにして生きていけばよいのか?それは苦しく不安に決まっているのだが、今までの私たちはそうして生きてきたのだ。だから常に苦痛や不安や恐怖があったのだ。神は絶対普遍の愛であり、神が「ない」とは愛が「ない」のと同じことである。だからこそ、神の存在が常に確実ではない私たちにとって愛とは「あったりなかったり」する不確実で当てにならないもの、それゆえ時には私たちを苦しめるようなものになってしまったのだ。

程度の違いはあっても(この世においては「程度」というものがあるからだ)、愛が得られないとき私たちには憎しみがある。愛が与えられるはずなのに、それを求め期待していたのに得られない、そういうときには落胆だけでなく必ず何かに対して、他者であれ自分自身であれ、憎しみを抱いているはずなのだ。ところで愛と恐怖は相反するものなのだった。愛がないところには必ず恐怖があるのだった。ならば憎しみと恐怖は切っても切れない関係にあることになる。

愛が得られないとき私たちは憎む。愛しているつもりでも憎んでいる。その気持ちが強いほど愛が強いのだと勘違いする。エゴにおいて愛と呼ばれるものは往々にして単なる憎しみだったりするのである。愛が得られないのは苦しいことであり、私たちは通常自分を苦しめるようなものを憎むか、或いは恐れる。

神が当てにならないのだったら愛も当てにならない。そんなものと一つになってしまって裏切られたらどうするのだ?逃げ場がないではないか!そのように考える私たちはちゃんと「逃げ道」を確保しておく。それが神と(あるいは本来一つであるような兄弟姉妹と)の間におかれた隙間なのである。よく注意してこの隙間を保っていなくてはならない、でないと騙されて何もかも失ってしまうかもしれない!エゴに支配された私たちにはそう思えるのだ。ひとつになることを恐れるとは言うまでもなく愛を恐れているのと同じであり、更には神を恐れているのと同じなのである。本当の愛を知らないままにそれを恐れ、愛だと思い込んでいるのは実は憎しみだったりするわけだ。

隙間を保ったままで、お互いの利害が一致するときだけおつきあいしましょう。これが私たちの取り決めである。お互いが別個の存在であることは前提として了解済みである。ひとつになるなんて危険すぎる!ひとつになればエゴは消えてしまうからである。しかし、こんな心配は全く要らないのだ。エゴのままでひとつになればそりゃあ多くを失うだろうが、幸いエゴのままでひとつになることは絶対に不可能なのである。ついでに、エゴのままで本当の愛は絶対に得られない。一皮むけば憎しみになり、憎しみと裏腹であるようなものが愛であるものか。

私たち(のマインド)の間におかれた「隙間」、これは身体と身体との間にある空間的距離のことではないのだ。もちろん、身体はこの「隙間」を象徴するような役割をしている。そもそもそういう目的で作り出されたものだからだ。実はマインドどうしは離れてなどいないのであり、ただ私たちが「別々の個体なんですよ」という幻想の隙間を作り出したために離れているように感じられるだけなのだ。身体がそれを象徴している。一緒にいようと思ったら身体を近づければいいのだし、イヤになったら身体を離せばいい。単純に言えばそういうことである。こんな人と一緒にいたら危険だわ、イヤだわと思う人なら身体を遠ざければあなたは安全でいられるわけだ。ものすごく普通のことですよね。スピリチュアル系の人々でさえ「悪い(低い)エネルギーの人には近づくな」と言っている。確かにエゴが強いうえ影響を受けやすい人にとっては、とりあえずの処置としては「あり」だと思う。

しかし、ここに大きな落とし穴があるのだ。つまり、実はマインドどうしを分け隔てる隙間など本当は「ない」のである。身体は実は「ない」ものだった。ゆえにどれだけ身体を遠ざけようがマインドどうしは全然遠ざからないはずなのであって、身体の位置関係など意味をなさないのだ。じゃあ、どんなに遠く離れても悪いエネルギーを受けちゃうの?ブルブル。まあそうだと言えばそうなのだが、悪いエネルギーであるからにはエゴに決まっているので、こちらもエゴでない限りそんなもの受けようがないのである。受けて染まるどころか聖霊なら相手を癒してしまうだろう。どちらにしろエゴなら「ひとつになる」ことはできないはずだ。

「隙間なくひとつ」になるのはエゴどうしではない。それをエゴの視点で考えるから怖くのだ。このあたりの記述はそれを踏まえて読まないとかなりとんでもない誤解を生じると思う。

さて、私たちは身体によってお互いの間の隙間を確保している、つもりでいる。身体にそういう役割と力を与えてしまったのだ。私たちは自分自身を支配するような力を身体に与えてしまい、その結果身体の言いなりになっている。疲れているからあれができない、これを食べると病気になる、あれがないと生きていけない。それらは全て「身体の要求」であって、マインドの思いとは相反しているようにも見られる。本当はこうしたいんだけど、身体がねえ。これ以上は身体が限界だから無理よ。病気だからできないの。前回までにも見たように、私たちは自分自身を制限するために身体を用いてしまっているのである。身体の声に耳を傾けて無理をするな、というのはある時点までは理に適っているようだが、実際にそんなものを超えて神の仕事をしている人々も存在するのだ。そういう人たちが生まれつき丈夫で体力に恵まれているわけではない。おそらくある時点で身体の用い方を変えてしまった、つまり聖なる目的のためにのみ用いるようになったのだろう。

分離や制限という目的のために身体を用いようとすればもちろん身体はそれに従う。自分が都合のいい場合だけ愛のようなことに耽り、危なくなるとサッと身を引いて安全圏に逃げ込む。場合によってはこの安全圏が病気や狂気だったりするわけだ。いずれにしろ、エゴが危険になるとどこかに逃げこんで、ますます分離を確かなものにしようとするのである。しかし、エゴの保全は愛からの逃亡に決まっているのだから、そして愛でないところには恐怖しかないに決まっているのだから、何のことはない、どこに逃げようとも逃げ込んだ先は恐怖に決まっている。そういうことになる。全然救われない。ひきこもりが救われないのと同じようなものである。

そういう人たちだって本当は愛や平和や健康を望んでいる「はず」であり「つもり」であるに違いないのだが、本当の愛が何たるかを知らないためにこんなトンチンカンなことになってしまったのだ。

ものすごく単純に言ってしまえば、エゴのままで生きていくのはそれだけで非常に危険なことなのだ。何故なら、エゴが生じた世というかシステムじたいが初めから「神と離れてバラバラ」の危険なところとして作り出されたものだからである。危険な目に遭わずに生きていこう、人とかかわろうと思ったらエゴではなくスピリットで、つまり「神においてひとつ」という本来の姿でいるしかないのだ。

エゴのままでいればどんな相手もエゴに見えるに決まっている。当然、あなたと誰かとの利害や目的はふつう一致しない。それとひとつになってやっていこうとすれば、これまた当然あなたは自分を犠牲にすることになる。それを愛だと思い込んだりすることはできる。しかし、自分たちが別々の身体である限り、身体の中にマインド=本当の自分が閉じ込められているのだと考える限り、あなたは「自分自身」までなくすことはしないで済むわけだ。「自分自身」をすっかり相手に取り込まれ、相手の一部になってしまう事態は避けられる。身体は一種の防波堤のような役割を与えられているのである。

愛は何も犠牲にすることはない。強いて言えば愛は恐怖を犠牲にするのだが、恐怖が消えれば嬉しいはずなので普通これを「犠牲」とは呼ばない。健康になるために病気が犠牲になったとは誰も思わないだろうが、それと同じことである。しかし、恐怖の代償は愛である。マインドの中に恐怖が入り込めば愛は消える、というか忘れ去られる。

こんな目に遭ってそれでも愛を失うな、なんて無理よ!そう思うのはエゴである。その前に「こんな目に遭った」と思うのがもうエゴである。エゴであるという時点で既に愛は不可能になっているのだが、とにかくどんなときでも愛を失わないでいられるのはエゴではなく聖霊と一つであるところのマインドだけだ。もしあなたがエゴであり続ければ、こういう時にも愛(だったのか?そもそも!)を持続するのは非常に屈辱的か犠牲的か危険か、そのどれかにしかならないだろう。たとえ持続するにしても、愛のように見えたものはもはや憎しみと化してしまうだろう。だったら神はどうなるのか?あなたは神に信をおいていたのではなかったのか?愛を保てなければ神への信仰もまた保てない、その程度のものだということになってしまうのだ。神といって語弊があるなら宇宙でも真理でも「源泉」でも何でもいいが、絶対普遍なものに信をおかずにいったい何を信じ頼りにしていかれるというのか?

要するにここで私たちのエゴが、あるいは神から離れてバラバラになった(ように見える)「ワタシ」が危機にさらされているのである。本来の自己が現れれば今までの「ワタシ」は消えるのだ。神と出会うのは今までの「ワタシ」ではなく本来の自己だけである。これを恐れる人は少なくない。そういう人々は何が何でも身体を実在するものだと思い続け、そして自分と神とを分け隔ててくれる防波堤のようなものに仕立てあげてしまう。そうするのも各人の自由と言えばその通りなのだが、そのうえで健康や癒しを求めるとしたらそれは不可能である。

身体が大切だから、身体の価値を信じるから健康を求めるのではうまくいかないのだ。身体は放っておいてただその目的だけを変える、そうすれば身体はイヤでも健康になるのである。

第271回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 224・225

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 224

第28章 その5

私たちが「神においてひとつ」の状態に戻るために神が用意してくれた架け橋とは要するにまず聖霊のことである。今までにもサンザン言われてきたことだが、いくら聖霊に無限の力があっても肝心の私たちのマインドが余計なガラクタでいっぱいになって聖霊を受け入れる余地がないのではどうしようもない。だから私たちはまず聖霊に委ねる、即ちマインドを感謝と平和で満たす。すると聖霊が働いて奇跡がもたらされる。神を忘れていたマインドが神を思い出す。すると感謝と平和と喜びはますます強くなり、今までの間違った知覚経験が正される、つまり私たちは癒されるのである。

だから、奇跡と幸せな夢という金銀の財宝を持ってこの世を生きなさいと「コース」は言っている。黄金色をした石ころやすぐに溶けてしまう雪などを財宝だと勘違いしてはならない、と言っている。私たちは尽きることのない愛をふんだんに与えられ、それをまた与えることによって更に多くを受け取ることになる。

しかし、一つの奇跡はまだ最終ゴールではない。奇跡によって癒された私たちの前には神のもとに戻るための架け橋が、これまた予め神によって用意されている。「コース」はそう表現しているが、これは単に「邪魔なものがなくなればあなたは確実に神のもとに戻れますよ」と言っているのである。

その架け橋はいったいどこにかかっているのか。どことどこを結ぶものなのか?それはあなたと神、あるいはあなたと兄弟姉妹の間に「あるように見える」隙間を結ぶものである。そんな隙間は前回に見たとおり「あるといえばあるが、実はない」ような代物なのだが、しかし私たちの世界及びそこで起きる全てがこの隙間の中にあるわけだ。そこにこそあらゆる病や苦痛の種がある。そこにおいて、一つであるはずのマインドがバラバラに分断され、永遠は時間という幻想を与えられ分断されてしまったのである。

隙間にあるような世界を現実だと思っているうちは、私たちはひとつになれない。夢や幻想の中では私たちはひとつになれない!当たり前なのだ。何故ならその隙間こそが私たちを分け隔てているものだからである。同じ幻想を信じ、夢を共有することはできる。しかし、これはひとつになることではないのだ。むしろ、ますます分離が促進されてしまう。これまた当然のことだが、そもそも幻想や夢は「ひとつである」事実を否定するものだからである。

このところ「おさらい」ばかりしているようで気が引けるが、「コース」はそういう語りかたをしているのでご容赦いただきたい。

まず、あなたが「現実」だと思ってきた(思っている)世界はじつは現実ではなく「夢」である。あなたは自分が夢を見ていることに気付いておらず、ただその中の登場人物として自分の夢に翻弄されている。そして、あなたが現実に「他人・他者」と思っている彼や彼女も実は存在しない!あなたが知覚認識している彼らの姿は、実はあなたのマインドが作り出したものである。本当の彼らではない。つまり、彼らもまたあなたの夢の登場人物であり、あなたの意志とは違う、そしてあなたにはわからない彼ら個人の意志や心を持っているように「見える」。あなたと関係あることないこと取り混ぜてそれぞれがいろいろな経験をしているように「見える」。あなたが勝手にそのように見ているのである。

こういうことはお互い様なのであって、あなたもまた誰かの夢の中でその人が勝手に作り出した姿として知覚認識され、その人が勝手に決めた役割を演じているわけだ。

じゃあ、各人の夢の中のあなたや彼や彼女っていったい何なのかというと、やっぱり「何でもない」のである。完全にアイデンティティを失った状態なのだ。ミもフタもない言い方をすれば、要するに自分の幻想の世界を現実らしく見せておくのに役立つものなら何でもいいわけで(=自分の罪悪感を投影できれば、ってことですね)、もう誰だって何だっていいのである。あなたは各人の夢の中で各人の都合に合わせて適当な役を割り振られているだけだ。こちらだって同じことをしているんだから文句は言えない。

問題は、ある人が現実だと思っているその夢をあなたまで現実だと思って反応してしまうことである。たとえば、ある人が病気で苦しんでいるとする、これはその人の夢である。しかし、そこであなたが「まあ、病気なの!ひどいわね、かわいそうにねえ」と思ってしまえばあなたは相手の夢に、つまり相手の間違いに加担したことになる。ひとつになったのではない、ということは先に述べた。単に合意して加担したのである。間違いを共有して強化したのである。癒しとは完全に逆行している。新聞やテレビを見て「景気が悪い、ああ世の中真っ暗だ」と思ってしまえばやっぱりあなたは報道機関という他者が伝える間違いに合意して加担したことになる。

このようにして、多くの幻想が多くの人々によって合意され共有されている。私たちは、本当はないはずの「隙間」の中で別々の夢を見ているのだが、互いの夢に合意して加担することによって事態はますます混乱をきたしてしまっている。これでは隙間が埋まるどころか、幻想が強化されることによってますます堅固なものになってしまう。

ここでもう一度思い出してほしい。あなたの目に映る世界はあなたが作り出したのである。誰が何と言おうともあなたが合意しなければ、それはあなたの世界においては現実ではなくなるのだ。

そして、誰かが現実だと思っている事柄にあなたが合意して加担しなければ、その人の間違いは現実化されなくなる。言い換えれば、目の前の誰かがどういう状態にあってもあなたがその人を聖霊だと、あるいは完全なる神のひとり子だと見てしまえば、その人は癒されるのだ。言葉で「あなたはそう思っているだろうけど、それは間違いよ、幻想よ、ウソなのよ」と言っても多分ダメだろうと思う。そうではなくて、ただ聖霊だと「見る」のである。本当にそう見られればその後に続くあなたの言動は聖霊によって自然に決まる。

誰かがあなたを殴った、中傷した、侮辱した。そこであなたが怒ったり憎んだり悲しんだり反撃したり、あるいは「わかってもらおう」と自分の事情を説明しようとしたりすれば、あなたはやはり相手の間違いに加担したことになる。相手の夢の中の役割を演じてしまったことになる。キリストが「右頬を打たれたら左頬も差し出せ」と言ったのはもしかするとこういう消息を示唆しているのかもしれない。

自分であれ誰であれ、幸せな夢の中の愛に満ちた登場人物になるなら良いのだが、誰かの苦痛と恐怖に満ちた夢の中に入ってはならないのだ。誰かの罪悪感を投影されて、それを現実にしてはならないのだ。そんなことをしたらあなたは自分の罪悪感も強化してしまうだろう。そしてそれをまた他の誰かに投影しなくてはならなくなるだろう。

そしてこれも当たり前のようなことだが、現実の中にしかあなたの本当のアイデンティティはないのである。現実の中にしか本当のあなたも、本当の兄弟姉妹もいないのである。私は神のひとり子だけど、あの人は違うわなんてことはありえない。あなたは自分が信じている自分の姿を外界に投影して他者を作り出しているからだ。

誰かの悪夢に加担しない、これこそがあなたのあがないになる。それによってあなたの罪も誰かの罪も一緒に消えるからだ。罪を現実だと信じたために生じた(ように見える)分離はここにおいて癒され、私たちはひとつになる。もはや病や苦痛や恐怖の温床になっていた隙間はない。

ワタシは現実を見ているけどあの人は見てないの!そう感じる人は多いと思う。しかし!あの人は現実を見ていない、と思っているのは「あなた」ですよね。それは「あなた」の知覚認識によるものですよね。あなたがちゃんと現実を見ているなら、本当の彼(女)の姿も見えているはずであり、その本当の彼(女)の目に映ったあなたも本来の姿になっているはずではないですか?あなたは今の自分の苦しみを「あの人が現実を見ていないから」と言って他者のせいにしている、他者に自分の罪を投影しているだけではないですか?思い出していただきたい、相手を聖霊だと見るときには自分自身もまた聖霊になっているのである。

あなたの目には相手がどういう状態に映ろうと、とにかく相手を聖霊だと見てしまうのだ。そうしていれば必ずそこに現実があらわれる。隙間がなくなり、マインドは一つになる。聖霊にはこんな隙間など見えない。見えないから癒せるのだ。そして聖霊はあらゆる人のマインドの中にある。というか、あらゆる人のマインドが実は聖霊なのであり、もともとは神において一つなのである。聖霊にとって、お互いの身体はお互いを分け隔てる壁ではない。分かつものがなくなれば私たちは自動的に「ひとつ」である。分かつ必要がなくなれば病や恐怖の原因もなくなったことになる。

だから、誰かの夢に加担せず本来のその人の姿だけを見なさいと「コース」は言っている。夢と、その夢を見ている人をごっちゃにしてはいけない。夢と、その夢を見ている自分とをごっちゃにしてはいけない。隙間の中にあるものは全て幻想であり、一見は全く関係のない別々な形を取ってはいても幻想であるという点においてはどれも同じなのである。言い換えれば、自分たちがバラバラの個人であり自分の外側に世界があり自分の思い通りにならない身体がある、と思っている限り、あなたと神或いは誰かとの間には隙間があることになる。

私たちは丸ごと一つにして完全であるマインドを粉々にし、そのバラバラになった欠片を「わたし」や「あなた」だと思い込んできた。聖霊によって完全な形に回復された姿を私たちが見る、見て「これが本当のことだったのか」とわかる、それが奇跡なのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 225

第28章 その6

誰かを聖霊だと見るときあなたもまた聖霊になっている。そしてバラバラの2つに見えたマインドは一つになる。当たり前のことだが、そのときあなたは神において一つになっているのであり、また神と一つになってもいるのだ。あの人やこの人を差し置いて自分ひとりだけで「神と一つ」になんかなれる道理はないのである。

とにかく、神を見出してしまったらあなたはもはや余計なことを一切しないで済むようになる。この世のあれこれを求めて苦労する必要はなくなる。恐怖や苦しみを求める必要もなくなる。わざわざ病んだりする必要もなくなる。ものすごく基本的な原理なのだが、本気で健康を望み求めていれば病気になることはないのである!なかなか認められないことだが、人は自分にとって「価値がある」と信じるものだけを望み、そして望んだことは投影作用によって現実化するようになっているのだ。病でも苦痛でも恐怖でも、それらは全てあなたが望んだことだった。神とは違うバラバラの個人でいるのは自分にとって良いことだ、それを止めるのは自分自身を失うことだ、大切なものを犠牲にすることだと思い込んでしまっていたのだ。つまりエゴと自分を同一視してしまっていたわけである。

ああどうしよう、ダメだ、できない、届かない、無理だ、苦しいなどと思うこと、あなたが求めて得られないものとあなたとの間にある遠さ、それは全てもともと「自分自身と神との間にある越えられない遠さ」のせいなのだ。しかし、実際にはそんなもの「なかった」のであり、「ない」と認めるときに奇跡がもたらされる。逆に言えば、奇跡によって「なかった」ことがわかる。どちらから言っても同じことなのだ。

いずれにしろ、私たちは大いに安心してよいのだ。何故なら病の種があるところにこそ癒しの奇跡がもたらされることになっているのだから。

さて、誰でも病気や怪我をしたら不自由な思いをしますよね。痛くて辛くて苦しくてあれもできない、これもできない、自由を奪われてしまった気分になりますよね。即ち、病とは「制限」に他ならないのである。

上述したような「越えられない遠さ」がここにもある。苦痛のなさや自由に動けること、つまり「健康」とあなたとの間にある距離、「どうしても手が届かない」その遠さ。これこそが、あなたと神或いは兄弟姉妹との間にできた(ように見える)隙間の「距離」なのだ。マインドが一つになればその隙間はなくなり、私たちは自らが全てであり何も失ってはいないこと、ゆえに苦しむ理由がないことがわかる。そして癒されるのである。

とにかく、私たちは「分離」によって「良きもの」から離れ「悪いもの」を取り込んでしまった。神から離れ罪を取り込んでしまった。これが端的に表れたのが病なのである。

あなたが現に病気その他の問題で苦しんでいるとすれば、あなたはそれらと「ひとつ」になってしまっている。つまり「悪夢」と一つになってしまっており、「ひとつ」になることでますます分離を深めてしまっている。悪夢と一つになるということは、例の「隙間」がバッチリ存在してしまっていることを意味するのだ。

このあたりは少々わかりにくいかもしれない。たとえばお腹が痛くて辛いとすると、あなたは「分離という罪」なる悪夢と一つになっており、だからこそその「辛さ」がリアルに感じられるということなのだ。辛いと思えば思うほど、あなたはその悪夢に力を与えてますますそれを現実化してしまうことになる。

痛むのは「お腹」であって、本来の私には痛みも辛さもあり得ない。そしてお腹の痛みを感じているのは実はマインドなのであって、癒されるべきはやはりマインドなのである。

身体の声に耳を傾けるという人なら、どこかが痛むときその個所に対して愛情をこめて耳を傾けるのかもしれない。しかし、その「愛情をこめて耳を傾ける」ことに本当に集中していればむしろ痛みは忘れられていくはずである。なぜなら、まず対象化しなければ耳を傾けることはできないのであり、対象化するとは「ひとつになっていない」ことに他ならないからである。つまり、この時あなたは痛みと一つではなくなっているわけだ。

更には、痛みや苦痛・恐怖その他の「分離という罪」を発端とするさまざまな感情がなくなればそこには必ず愛が現れる。以前にも書かれていたように、私たちには「愛か恐怖か」の2つの選択肢しかないからだ。一方があるときにはもう一方は「ない」あるいは「出てこられない」からだ。あなたは常にどちらか一方だけを望んでいるはずなのだ。

当然ながら愛は癒しの力を無限に持っている。恐怖その他が消えて愛が現れればこれまた当然ながら私たちは癒されることになる。

ゆるしとは手放しである。それならどこかが痛い時にそれをゆるせば痛みを手放せることになるわけだ。そんなこと言われてもなかなかねえ。しかし、痛みはどうしようもなくても「辛い、苦しい」という気持ちくらいは手放すことができるはずである。痛みがあるときでもマインドを感謝と平和で満たすことくらいはちょっと頑張ればできるはずである。そうすればあなたはもはや「悪夢」と自分を一緒くたにしていないわけである。

誰かが病で苦しんでいる時も、その姿を「現実だ」と見てしまえばあなたはその人の悪夢を共有し、それに加担したことになってしまう。自分もまた同じ悪夢を見ていることになってしまうのだ。あなたはその夢の一部になり、それどころかその悪夢と自分を一緒くたにすることになる。本来の自己は否定され忘れ去られる。

何かを恐れているとき、私たちは「恐怖」という悪夢と自分を一つにしてしまっている。夢を見ていることさえ忘れ、夢と一つになってしまっている。恐れているものが何であれ、そのとき私たちが本当に恐れているのは実は神であり神のひとり子である本来の自己なのだ。本来の自己が怖いから攻撃する。それは外界に投影されて何か別の「怖いもの」として知覚認識され、あなたは「恐怖」という知覚経験をすることになる。

全く同じひとつのことをいろいろな表現であらわしているからわかりづらくなるのだが、あなたが何を怖がるのであれ、その本当の対象は常に神および神のひとり子たる本来の自己なのだ。これらがあらわれれば今までの自分を全て失うことになるからだ。少なくともエゴは消滅するからだ。しかし、言うまでもなく神も本来の自己もありがたいものではあっても恐れるようなものではない。ならば、私たちには何であれ恐れる理由がないということになる。やや極端に聞こえるだろうが原理から言えばそういうことになってしまう。

しかし!私たちは常に「愛か恐怖」あるいは「聖霊=本来の自己かエゴ=幻想」のどちらかでしかない。エゴ=神から離れてバラバラの個人=身体であれば病や苦痛は免れないが、本来の自己であれば病も苦痛もありえない。本来の自己=神のひとり子は神とひとつなのであり、神は病気も苦痛も作ってはいないからだ。しかも、神から離れてバラバラであるとは、自覚がなくても神を敵に回したことになる(だからこそ罪悪感と恐怖がつきまとう)。神ならぬ個人として存在する以上、私たちには不可避的に敵の存在が必要になってしまう!それが自分とは別の誰か・何かであったり自分の身体であったりするわけだ。自分の身体が敵になった状態、それが病だとも言える。

真理と幻想を隔てているのは「小さな隙間」だと「コース」は言うが、これは即ち「分離や罪という考え」のことだと捉えて差し支えない。もちろんそんな考えは間違いに決まっている。しかし、そこにこそ身体を持った個人としての私たちのアイデンティティが、そしてこの世界が、全人類史が「ある」わけだから、そこが揺らげば私たちの(世界の)存在基盤が揺らぐことになる。だから私たちは「分離」を大切にしてしまうのだ。分離を信じている限り、本来の自己は隠されてしまって見えなくなる。

個人の身体によって構成されたこの世界、私たちの目に見えるこの世界は結局「実際にはない」その隙間を基盤として作られたものだ。「ない」ものは基盤にできないし、「ない」ところから何も作れるわけがないので「この世界は存在しない」。そんなことは誰も信じられないし信じたくない。だから誰もが本当のことを見ないようにしている。本当のことを見ないためにウソばかり見えるようにしておくのだ。世界の成立基盤が実は「ない」なんて!このワタシが存在しないなんて! 一歩間違ったら文字通りの発狂ものだ。でもねえ、狂ったって死んだって逃げ場なんかないんですよ。だいたいどこに逃げ込むつもりなんですか?逃げたつもりが却って恐怖にまみれたところにはまってしまってもいいんですか。

怖がらずに隙間をしっかり見てみなさい、そうすればそこには怖いものなど何もないことがわかる。罪なく無垢であるような本来の自分の姿が見える。

ここで再び、「身体はない、ないのだからそれ自体では何もできない」という記述が延々と出てくる。身体がやっていると考えられていることは全てマインドがしているのであり、身体を通してマインドが感じたり判断したりしているのだ。身体がやっている、と思っているのはマインドである。身体がのどこそこが痛いと感じているのはマインドである。マインドが歪んだ思考システムに立脚していれば、歪んだ情報だけが身体の知覚器官を通して伝えられてくるという仕組みになっている。身体の知覚器官を通して伝わってくることは全て「本当は存在しないこの世界が現実である」と思い込むための、まあ言ってみればマインドがでっち上げた偽証みたいなものなのだ。

そして、私たちはその世界、自らが勝手に作り上げたその世界の中で囚人のようになっている。分離や罪と言う考えから生じたあれこれの幻想に絡めとられて自由を失ってしまっている。身体に閉じ込められたマインドは身体に支配され自由を失っている。実は、マインドこそが身体を動かしているというのに!まさにあべこべの状態である。

一方で、神によって創造されたものは神と同じように創造する。そして神の御心によるものだけが現実なのだ。

第270回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 222・223

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 222

第28章 その3

神による創造とは、自らをそのまま与えそれが初めの完璧さと純粋さを保ったままで際限なく拡大されていくようなものである。拡大といっても別にサイズや規模の問題ではない。初めから無限なものはどこまで行っても無限なのだ。神の御心と一つであるマインドは一点の曇りもなく純粋であり、遮られたり汚れたり傷ついたりすることはない。ならばその純粋さは身体のものではない。しかし身体はマインドの反映である。マインドがその本来の無限の純粋さに気付いた時、マインドはもはや自らの汚れや傷を外界につまり身体に投影する必要がなくなる。これが癒しである。マインドは身体の中に閉じ込められ「ここが痛いから辛い、あそこが病んでいるから苦しい」などと身体に支配されるような無力なものではないのだ。

病んだり傷ついたりしているのはいつだって「他でもないこのワタシ」である。どんな大規模災害だろうが伝染病だろうが、負傷したり病んだりするのは「個々の身体」である。病が発症するのはそれぞれの身体においてである。しかし、彼や彼女とは別の「このワタシ」などというものは実は「ない」。ならば、病んだり傷ついたりしている(ように見える)ものはいったい何なのか、あるいは誰なのか?神から離れてみんなバラバラという幻想を現実にしておくための個々の身体が実在せず、実在するのはただ一つのマインドだけであり、しかもそのマインドは神の御心と一つであるような完全に純粋なものなのであれば、どこに病の原因があるだろう?あるいは、病が「私は神のひとり子ではありません」と思い込んだために生じたものであり、私たちが神のひとり子でなくなることはありえないのならば、どこに病の原因があるのだろう?

癒しをもたらすものは私たちが創造されたところの源である。あらゆる存在の源泉である。つまり全ての源であり全ての原因となるものだ。その原因からもたらされる結果はただ一つしかない。簡単に言えば愛は愛だけを生み出すのである。神の御心が愛であればそれによって創造された私たちは愛である。それ以外のものは「ない」。原因がなければ結果はない。私たちは自らの罪を「原因」にしてその「結果」である世界や身体や他者を作り出したが、そもそも「罪」はなかったのだ。

私たちは眠りこけて夢の中で生きている。そして自分が眠っていることに気付いていない。だから夢が現実そのものに感じられる。奇跡は私たちの目を覚ますものではなく、まず私たちが眠っていることに気付かせる。そして今までの世界も自他の経験も全て「あなた自身の」夢であると気づかせる。あなたは自分自身に見せたい夢を見ているのである。もっと幸せな夢にしたくないだろうか?ああなったらいいな、こうなったらいいな、と自分であれこれ考えて実現させる、というのが一般的な願望実現のやり方なのだが「コース」は違う。今の自分が考えたものでは所詮エゴの見る夢の域を出ないのだ。だから新しい夢を自分がまた作ろうなどと思わないでただ聖霊に委ねればよいのである。奇跡とは古い夢が聖霊によって新たな夢に交換されることでもある。そこにはもはや敵はいない、攻撃もなく恐怖もない、あなたは何の犠牲にもならず誰を犠牲にすることもない。

これはゆるしの夢である。そう、ゆるしはまだ夢の領域なのだ。本当に目覚めればもはやゆるしなど完全に不要になる。ゆるすものもゆるされるものもないからだ。だから「ゆるしゆるされた夢」は本当の世界であり「境界」でもある。

この世界では通常、何が起きるかわからない。老後の計画とかそんなものを考えている人も少なくないのだろうが、自分や自分を取り巻く環境がどうなるのか実はさっぱりわからないのだから(普通は「とりあえず今の状態が続く、きょうと同じ明日が来ると仮定して」生きているはずである、でなかったら何もできなくなるからだ)、何の計画も立てようがない。偶然はない、と言っている人だって事故や災害に遭う時は偶発的にそうなるのだ。世界の中に確固たる「原因」があるのなら「結果」も見えるはずであって、それなら「今こうだから確実に将来はこうなる」と普通に考えればわかるはずだ。それが全然できていないのだから、やっぱりこの世界は私たちが夜に見る夢と同じで「意味も脈絡もなく次に何がくるのかわからない」不確実なものではないか。

しかもこの世界で起きるあれこれにはたいてい「例外」がある。こうすれば絶対にこうなる、というものがあまりない。これをすれば病気になる、あれをやれば病気が治る、とんなものはいくらでも見聞きできるが「そうならない人もいる」のでは絶対確実とは言えない。これは誰にとっても頼りないことなので、多くの人が「こうだからこうなった」という原因を、或いは因果関係を見出そうとして躍起になる。切れば血が出る、それはほぼ確実なことだが、あなたは何故切られたのか?何かのお告げか、前世の因縁か、浄化か、誰かの呪いか、それとも単に「そういう星回り」だったからか?

しかし、この世界を現実だと信じて生きている限り何がどうわかったところで大した意味も違いもないのである。少なくとも「原因と結果が別物で、しかも結果が出るまでに時間差があり個人差もある」というだけで十分に不確実なのだ。原因と結果は「ひとつ」であり、原因があるところにはたちどころに結果があるはずというのが本来の在り方なのである。これもまた「コース」の常識は私たちの非常識、のひとつだろう。

もう一度おさらいだが、私たちは自覚していなくてもあらゆることを「選んで」いる。あなたが知覚経験することは全てあなたの願望の結果である。そんなつもりはない、と思ってもそうなんだから仕方ない。記憶も含めて全てそうなのである。その意味において、あなたのあらゆる願望はもれなく実現してしまっているのだ!「望んだからそうなった」、単純な因果関係である。

ではなぜ「怖いこと、いやなこと」を望むのか?もうご存知の通り「神の御心に背くという罰を犯したため、その懲罰を恐れているから」である。そしてやはりご存じのとおり「そんなことはしてなかった」のである。奇跡はあなたにそのことを示してくれる。

しかし、その前にもう一度重要なポイントを復習しておかなければならないようだ。通常、私たちが「原因」だと思っているものごとはみんな「間違った思考の結果」なのだった。病気だから辛い、貧乏だから苦しい、などというとき病気や貧乏は原因ではなく「間違った思考の結果」なのだった。もっと言えば「他者=自分以外の何か=カミサマ、運命、世界、身体、災害、災難、他人などなど、が自分に影響を与える」というのがもう間違いなのである。あなたの身体が病んだり負傷したりすればあなたは苦しむ。そのとき苦しむのは心=マインドである。つまり「身体がマインドに影響を与えている、身体が原因でありマインドが結果である」ということになる。それもまた間違いだ。

このように、私たちの世界では原因と結果とが入れ違ってしまっている。原因を作るのは常に自分のマインドしかないのに、そして結果もまた自分のマインドが知覚認識しているに過ぎないのに、更に他者であるようなあれこれも実はマインドが作り出したものに過ぎないのに、それがわからなくなってしまっている。これは投影作用のせいなのだが、何でそんなふうに投影してしまうのかと言えばこれはもう「神からの分離」のせいに決まっているのである。自分とは別物の、自分には制御不能な「他者」ができてしまったこと、全てはここから始まったのだ。あなたが作り出した幻があなた自身を支配するようになった。こうして原因と結果がひっくり返り因果関係が混乱したところで神からの分離は完成したのである。

身体は神からの分離の象徴である。身体は他ならぬ自分自身をあらわすものであり、にもかかわらず自分の思い通りにならない。ゆえに私たちは身体を愛し身体を憎む。自分自身に関してだけではなく、他者についても同様である。身体であるその人を愛したり憎んだり、また愛されたり憎まれたりするわけだ。私たちの目に映る他者の身体は、私たちが背き裏切った神を象徴している。神の御心に背いた私たちは神の報復を恐れ、憎み、その一方で焦がれている。その思いがそのまま他者に投影されるのだ。「自分にはどうにもならない」、この考えは実は身体性そのものだ。そしてこれはあなたが見ている世界や人生という「夢」が自分のものではない、そう思い込んでいることを示すものでもある。

原因と結果がここまでメチャクチャに入れ替わっていることがわからなければ確かに「自分にはどうにもならない」だろう。奇跡はまずここをキッチリ整理するのである。本当の原因が私たちのマインドにあり、だから結果は自分の選択次第でどうにでもなるのだということを明白にするものだ。

奇跡がもたらす「新たな夢」の中にはまだ身体があり、私たちは個人として存在する。しかし、そこにはもはや恐怖がない。従って病もない。

奇跡は普通、「考えられないようなことが予想もしないときにおこる」という現象である。先に仕組みが全部わかっている人はあまりいないと思う。ここでは特に「身体の癒し」を中心に語られているようだが、これも「絶対に治らないと言われていた病気が突然なくなってしまった」みたいな形で起きる。つまり、ここでは「本来あなたが望む結果が先に見せられて」いるのである。「なかった」という結果をハッキリ目にすることによって「原因=罪」もなかったのだとわかるようになっているわけだ。別に病気や障害でなくても構わない。たとえば「明日までに必要なお金がない」などというときに「予想もしない形でお金が入ってくる」のも奇跡と言われるだろう。それまでの心配、恐怖、不安などはここで一掃される。そんな苦痛を味わう「必要はなかった」のだとわかる。

このとき、病気が治った「から」、お金が入った「から」救われた、苦痛がなくなったと思うだけだったらあなたは学んでいないことになる。原因(と思っていたもの)がなくなった、のではなくそんな原因は最初からなかったのだとわかること、これが肝要なのだ。

これは引き寄せの極意でもあると思う。あなたが苦しんでいる時、その原因(と思えるもの)が何であれ、そんなものをどうこうしようとは一切考えずただ苦しむのを止めてみる。そして感謝して喜んでしまう。これが「結果」であり新たな「原因」となる。あなたの苦痛の原因だと思っていたあれこれは「なくなって」しまったことになる。そして、そのようにすれば本当に「なくなって」しまう、即ち病気でもお金の苦労でも家族のトラブルでも本当に「なくなって」しまうのだ。

だったら今までの苦しみは何だったの?はい、無意味で不要なものだったんです、だって苦しむ原因なんか本当はなかったんだから。そういうことである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 223

第28章 その4

ものすごくうれしいことがあったときにはそれこそ「世の中はバラ色、みんな良い人」に見えるものだ。ついさっきまでは憎み恨んでいたような相手までハグしたくなってしまう。何もかもゆるせてしまう、そんな気分になるものだ。その瞬間、あなたには解放の喜びに満たされている。恐怖も苦痛も憎しみもない、ただ平和と喜びがある。それこそが「奇跡のもたらす幸せな夢」なのである。これこそが本来の状態なのだと思えば良いのに、たいていの人はそれだって「嬉しいことがあったからそうなった」と自分以外の何かのせいに、しかも自分にはどうにもならないもののせいにしてしまっているのである。これではダメなのだ。何故ならこれだと「じゃあ、また何かイヤなことがあったら苦しむわけよね」になってしまう。相変わらずあなたの世界は「自分にはどうにもならないもの」のままであり、あなたは世界や運命に翻弄されている。

何故身体を癒すことができるのか?まず身体は実在しないものなので如何ようにも変えられるからである。そして身体が「病んだり傷ついたりする」原因そのものが実は「ない」からである。というか、「身体は病んだり傷ついたりするものだ」と思っているマインドこそが病み傷ついているのであって、身体はそのマインドが投影された結果であり、言うなればマインドは加害者、身体は被害者ってなもんなのである。だったらマインドが健康になればいいんでしょ!なのだが、実はマインドは神の御心の一部なのでこれ以上ないくらい健康に決まっているのである。病んだり傷ついたりしたと「思う」ことはできても、本当に病み傷つくことはできないのである。ホントは何もしてないのに罪悪感を勝手に身体に投影して病気を作ってるなんてバカバカしいと思いませんか?自分の罪を身体に押し付けて、それで楽になるならともかくますます苦しむなんてバカバカしいと思いませんか?そこまで気づければあなたは奇跡によって学んだことになる。

しつこいようだが、あなたが経験する出来事や感情はすべてあなた自身に責任がある。どんな夢を選ぶかは自分次第なのである。その前に「これは全て夢だ。夢を見ているのは他でもないこのワタシなのだ」ということに気付かなくてはならない。でないとやっぱり「自分にはどうにもならない」ことになってしまうからだ。あなたはいかなる意味においても被害者ではない。苦しんでいるとすれば自分が自分に対して「加害者」になってしまっているだけだ。そのことが本当にハッキリわかるだけでも奇跡なんですよ!もうとんでもない解放感を味わえること確実なのである。

このように、奇跡はそこらじゅうに溢れている。奇跡に程度はないんだから「こんなちょっとしたものくらいじゃあね」なんて思わなくて良い。毎日、それこそちょっとした不安や不快感のある時に試してみてください。難しいことはわからなくても構わないので、とにかく「不安になる必要はどこにもない」→「感謝と平和でマインドを満たしてしまう」これだけをやってみて下さい。マインドのどこかで「こんなことして本当に効くのかしら〜」と思いながらやるのではやっぱり効きません。何故なら感謝と平和でマインドが「満たされて」ないからです。異質な思考が紛れ込んでいるからです。とにかく、小さなことでも日々続けているうちにあなたは徐々に「神から離れた状態」から「神においてひとつ」の状態に戻ることができるのである。

しかしまあ、そんなに先のことは今考える必要はない。というか考えたってわかるわけがないのだ。今の私たちには「正しい方向性を定めて、そこからぶれない」ことだけで十分だし、それだってせいいっぱいだと思う。そうよね、奇跡なんてとんでもないわ!と思うかもしれないが、「コース」はさすがに「奇跡のコース」だけあって「奇跡のことだけを考えろ」と言っているのだ。何故なら奇跡はゴールではないからだ。奇跡は間違いを正していく過程で日常的にもたらされるものだし、またそうでなくてはならないからだ。

奇跡をもたらすためのポイントとして「間違いに力を与えない」というものがある。ものすごく乱暴に言えば「世の中の常識を信じない」ということになるだろうか?だって、奇跡ってそもそも常識では考えられない現象でしょう?常識のほうを支持していたら奇跡を見逃してしまうではないですか!

間違いに力を与えない、これは以前にも出てきたことだが繰り返しておく。例えば誰かがいきなりあなたを殴ったからといってその人のことを「ひどい奴だ」と思ったり怒ったり恨んだりしてしまったら、あなたは相手の間違いに同意してそれに力を与えたことになる。自分や身内の誰か病気になったからといって嘆き苦しんだらやはり間違いに力を与えたことになる。災害に遭った人を見て「ああかわいそうだ、不幸なことだ」と思ってもやはり間違いに力を与えたことになる。「コース」は、ここでは同じことを「夢を強化してしまう」と表現している。

常識とは、それが本当に正しいかどうかは別として、不特定多数の人々に支持され信じ込まれている考えのことである。時代や社会によって変化するような「常識」もあるが、「生まれたら年取って死ぬ」とか「身体は病んだり傷ついたりするものだ」とか、それこそ「私たちは別々の身体と心を持った個人である」みたいなものはおそらく古今東西どこでも変わらない大常識だろう。

しかし!みんながそうだと思っているからと言ってそれが正しいとは限らないのだ。集合無意識と呼ばれているものがあるのだが、これは大多数の人が合意し共有している夢だとも言える。みんながそう思っていても自分だけが合意しなければ奇跡は起きるのか?といえば実はそうなのである。何故なら、あなたの知覚経験は全てあなたのマインドが投影したものに過ぎないからだ。そして、そのあなたのマインドは自覚なしに「この世の常識」を信じ込んでいるからだ。

逆に考えれば、誰が見ても病気、という人に対してあなたが聖霊の知覚認識で「完全な存在である神の子だ」と見ることができればその人は癒されてしまうというわけである。あなたがまず聖霊に委ねる、するとあなたのマインドは聖霊と一つになり(というかもともと一つなのだが)、そして聖霊は相手のマインドにも宿っているわけだから両者のマインドは聖霊において一つになる。一つになれるようなマインドは病むことがない。病とは「別々のマインド=別々の身体」を象徴するものだからだ。ゆえにその人は癒されることになる。

自分たちが「別々の心を持った別々の身体」だという考え=夢に同意してしまえば癒しはもたらされない。病も苦痛もますます強化されてしまうかもしれない。いくら「まあかわいそうに、何とかしてあげたいわ」と親身に思ったとしても、である。

前にも出てきたことだが、恐怖は苦痛は個人的なものなのだ。何かの災難に遭って国中があるいは地域全体が苦しんでいると思われる場合であっても、やはりそうなのだ。それが一体感をもたらすことはないだろう。一緒に苦しんであげるのが癒しだ、と言う人もいるだろうが、誰かが苦しんでいるからといってあなたも苦しみのあまり寝込んでしまったら何にもならない。誰かが破産したからといって自分も一緒に破産したのでは何にもならない。病人どうしが苦しみによって一体感をいだく、なんてこともないような気がする。なぜなら自分たちが病気だと思っている限りにおいて、「神においてひとつであること」は忘れられてしまっていることになるからだ。病気という現象自体が「他の人とは違う、特別・個別であること」のあらわれだからだ。別に病人じゃなくても「私たちはみんな年取っていずれ死ぬのよ」という思いによってみんなが「ひとつである感覚」になれるだろうか?

もっとも、余命を宣告されたり肉親を失ったりして嘆いている人の前で、あら元気そうじゃないのガハハと笑えばよいというわけじゃない。具体的に何をするのか、それはその都度聖霊によって示されるはずである。苦しんでいる人々を見て「何とかしたい!」という思いに駆られ、役に立とうとか励まそうなどと必死で働いているときのあなたは苦しんではいないはずなのである。役に立とう、励まそうという前向きな思いでいっぱいになっていればそこに苦しみが入る余地はなく、更にはその役に立とう、励まそうなどという思いさえ消えてマインドは我を忘れた「一意専心」のような状態になる。そういうときにも奇跡はもたらされる。他者というものがある、自分は神と別物である、その思い込みの中で病も苦痛も肥え太っていくのである。ひとつになれるのは「神においてひとつである」マインドだけである。当たり前だがもともと「ひとつ」だからだ。そして「ひとつ」であることによって癒されるのだ。

奇跡は私たちに素晴らしいものを与えたり見せたりしてくれるが、それらは奇跡が自ら作ったのではない。聖なる瞬間にあってマインドが一つになったら自然にもたらされてしまう現象を私たちが「奇跡」と呼んでいるだけである。言い換えれば、自分と神あるいは他者との間にある隙間がなくなったときに当然の結果としてもたらされる現象が奇跡と呼ばれるのだ。

この隙間は私たちを別々の身体を持った個人にしておくもの、私たちが「神から離れてバラバラの個体」である世界を保持していくためのものである。そこにこそ、あらゆる苦痛や病の原因があるのだ。いや、むしろそこに隙間があるという思い込みの中にそれらの原因があるのだ。そして、言うまでもなく私たちの世界もこの隙間の中にある(ように見える)。

身体があるから痛いのだ、身体があるから病気になるのだ、これまた当たり前のように思えることだが、苦痛の原因は身体ではない。身体を作り出したところの「神からの分離」こそが苦痛の真の原因である。身体は分離の結果として作り出されたものに過ぎない。

私たちを神から、或いは互いに分かつところの隙間、そこから世界やあらゆる人生が生じたように見えるところの隙間、その中には実は「何にもない」のである。というより正確に言えばそんな隙間など初めから「ない」のである。もっとも、そのことがわかってしまったら「コース」学習など全く不要になるのだが。

「コース」学習を必要とする私たち、それだけでも十分に大変だと思ってしまう私たちにとってはまだその隙間が十分以上にリアルなものなのである。が、この隙間は以前にも出てきた喩えを用いれば「大海の中のさざ波」どうしの間にある海水のようなものなのだ。あるといえばあるし、ないといえばない、基本的には「ない」。大きな波が来ればあっという間に消えてしまうようなものだ。いつからいつまであったのか、それさえハッキリしないくらいである。

これと全く同じように、分裂した個々のマインドは大海の中のさざ波のようなのものであり、あっという間に簡単に一つになれてしまうのだ。そうなれば、その隙間の中にあったはずのあれこれ・・・世界も他者も病も一緒に消えてしまう。これが癒しであり奇跡なのである。

第269回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 220・221

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 220

第28章 その1

のっけから衝撃的な記述である。私たちの間違いは実はとっくの昔に正されてしまっていた、とは以前にも出てきたのだが、ということは!実は「この世界はとっくに終わっている」のである。えええ〜??だったら今の私たちはいったい何なの?

もう一度おさらいしよう。時間軸上の時間ではない「あるとき」に、私たちのマインドに一瞬とんでもなくバカげた思いつきが浮かんだ。「神なしで、みんなバラバラの個体としてやっていくのはどうかしら?」

言うまでもなく妄想である。考えることはできても実際には不可能なことだからだ。しかしその瞬間に私たちのマインドはこの妄想を外界に投影し、それを知覚認識したためにあたかもそれは現実の出来事のようになった。その一瞬のうちに全人類史が、いやそれどころか全宇宙史があると言ってよい。過去だけではなく「これから起きること」である未来も全て含まれている。時間が幻想であるならば瞬きするくらいのあっという間も何万年も「実在しない」という点において同じである。時間の長さなど関係ない、というか「ない」のだ。

そして、実はそのバカげた妄想は思いついたその次の瞬間には聖霊によって・・あるいはマインドの中のまともな部分、神とひとつであるような部分によって「な〜に言ってるの、そんなことあるわけないでしょ」と正されてしまった。罪が世界を作り出したのであれば、それが罪ではないとわかった以上、世界も既にない。つまり、一瞬だけ生じたように思えた「世界」はここで終わったのである。

しかし、バラバラになったマインドはエゴを生み出し、エゴはあれこれ巧妙な手口を使って私たちに現実を見させないようにしている。私たちが現実を見てしまったらエゴは消滅せざるを得ないからだ。そういうわけで、バラバラになったマインドであるところの私たちはその一瞬の記憶を反芻し続けている。記憶を反芻してマインドの中で追体験しているだけなのに、それが「今まさに、新たに目の前で起きている現実」に見えてしまうのだ。

自分の過去の記憶を反芻し、いままさに自分がそれを経験しているのだと思い込んでいるような人、とっくに死んだ人々がいま自分の目の前にいるかのように振る舞い、しかも会話をする人。これは間違いなく「精神を病んだ人」と認定されるだろう。だから「コース」は私たちが「狂っている」のだと繰り返し指摘するわけだ。

じゃあ、私たちの未来ももう決まってしまっているの?ある意味ではそうである。しかし、それらは全て私たちのマインドが作り出した幻想に過ぎず、幻想なのだからいくらでも変わりうる。その意味では「未来は決まっていない」と言えるのだし、私たちが常に「今ここ」で神のひとり子として生きることができれば未来は完全にオープンなものになる。

ところで、過去は「ない」のだった。個人史上であれ世界史上であれ過去に起きた(ように見える)あれこれは全て「マインドが作り出した妄想の投影」に過ぎないのだった。過去がないのなら私たちの記憶とはいったい何なのだろう?

「コース」の言い方を借りれば、私たちの記憶とはまず「過去形で知覚認識すること」なのだそうだ。まあ確かにその通りではある。過去に起きた(ように見える)あれこれを、今の自分が思い出すという形で知覚認識しているのだ。「あの日はお天気が良かった」、あなたがそう記憶していても実際のその日の天気は曇りだったりするではないか。今の目の前で起きている(ように見える)事象の知覚経験と同じく、記憶もまた「自分がそう見たいように見ている」というマインドの判断の結果なのである。

考えるだに、全くバカバカしいことこの上なくてガックリする。過去のある時点において為された知覚認識が既に十分歪んでいるのに、それを更に歪めた形にして何度も繰り返し認識し直しているなんて!まあ、私たちの記憶なんかそれくらい当てにならないものだと思っていて間違いないのである。

このあたりの記述がわかりにくいとすればその理由の一つは「本来、時系列であらわせないものを無理やり時系列であらわしている」あるいは「本来、時間を超越していることを無理やり時制を用いて(文法的にそうせざるを得ないのだ)あらわしている」からである。更にもう一つの理由は、いつものことだが私たちの常識を完全に覆すものだからである。何故なら「コース」は「記憶とは私たちが作り出した単なる技能、機能に過ぎず時間軸とは全く関係がない。」と言っているからである。

私たちにとって「記憶」といえば過去についてのものに決まっている。思い出したり覚えていたりするのは過去のあれこれに決まっている。しかし、このように記憶と過去とを結び付けるのもまた私たちの間違いの為せる技なのだそうだ。記憶・想起という能力もまた聖霊はうまく活用してくれるのだが、今のところ私たちはそれを肝心なことには用いず、間違いを現実化するためにのみ用いてしまっているのである。だって個人的なものであれ何であれ「過去の出来事」なんかみんな「夢まぼろし」であり、実は「なかった」のだから!

癒しや奇跡は何か特別なことをするわけではない。これらはむしろ私たちが「何もしない」こと、言い換えれば「エゴを放棄する」ことによる当然の結果としてもたらされるものだ。今まで知り覚えていたあれこれを一瞬でも全て放棄すれば、そのとき私たちの記憶作用は過去とのつながりを失う。私たちが「神から離れてみんなバラバラ」という今までの目的を全て捨ててしまえば、記憶や想起は手つかずのまま単なる機能・技能として聖霊に委ねられる。そして聖霊の目的に従い「本来の姿」を思い出すために用いられることになる。この「本来の姿」とは過去のものではなく今ここにある私たちのことなのだ。「ずっと昔、いにしえにはこうであった」姿を思い出すわけではない。本来の姿は時間など超越しているからであり、しいて言えば「今ここ」としかあらわしようがないのである。

これは別に「記憶喪失になれ」と言っているわけではない。しかし、実際にやってみた方はおわかりだと思うが、いわゆる聖なる瞬間においては本当に過去のあれこれが全部消えてしまい、ただ「今ここ」だけになっている。「過去の経験が蓄積されてできたもの」が人間だと思っている人にとって、「今ここ」だけに在るなどとんでもなく恐ろしいことに違いないだろう。

とにかく、記憶は本来「過去とは何の関連もないもの」なのである。以前「コース」は、学ぶとは思い出すことなのだと言っていた。それは私たちの感覚からすると「ずっと昔には知っていた、それこそ父母未生以前には知っていた真理を思い出す」のように、まるで遠い遠い過去を思い出すことに聴こえてしまうが、これは実は時間軸とは何の関係もないのである。まあそれもやってみればわかる。わかった、ユーレカ!というとき「わかられた」そのことは別に過去とは何の関係もないと「わかる」はずなのだ。にもかかわらずそれは「思い出す」感覚に非常に似ているのである。

かなり乱暴を承知で言えば、思い出すというのは「マインドの中にある何かを引っ張り出してくる」ようなものである。「幻想として時間軸上にあるさまざまな出来事」が現実としてマインドの中にあればそれが引き出されて追認識される。しかし、もともとマインドの中にある神と一つであるような部分もまた引っ張り出されることがある。それを「コース」は「現在の記憶」などと言いあらわしている。

過去を覚えている・思い出すのはそれが現実だと思っているからである。その意味において私たちの記憶作用はやはり「幻想を現実化する」「自分自身を罪あるものにしておく」ためのものに成り果てている。過去というものが実在する、そう考えることじたいが既に間違いなのに、それを現在にまで持ち込んでしまっているのである。しかも、そうして記憶されるものは個人であれ集合体であれ「身体」が経験したあれこれなのだ。意識という貯蔵庫の中に個人を超えた人類すべての経験の記憶が蓄えられているのだと言う人もいる。しかもしかも、現在に影響を及ぼすとされるものはたいてい当人にとって「苦しく恐ろしい出来事」と相場が決まっている。頭ではわかっているつもりでも身体に記憶が染みついて消えない、と言う人がいるが、身体は分裂したマインドが投影されたものなのである。

そういうわけで、私たちの記憶作用は現在が過去によって乗っ取られるために用いられていると言ってもよいくらいだ。そういう目的がなくなれば記憶作用は全く別の使われ方をするはずなのである。

繰り返しになるが、時間は実在しない。実在しないのだから本当には何の作用もない。時とともに変化する、のは別に時間のせいではない。幻想の産物ならば必ず変化するに決まっているからである。この世のあらゆるものは変化する。その変化の仕方や経過をあらわしているのが時間なのだと考えてもよいかもしれない。日付や時刻などの暦、こんなのはもう考えるまでもなくひとつの「目盛」に過ぎない。時間は何もしない。何も蓄えず何も奪わない。時間が何かしらの作用をするように見えるのは、それが他のあれこれの幻想と共に用いられているからだ。成長し年を取るというのもまたその一つである。身体という幻想に時間という幻想が組み合わされたわけである。

現在を作っているのは過去である、とか「現在の原因は過去にある」などというのは普通の考え方である。しかし、やっぱり大間違いなのだ。前にも書かれていたように、私たちが「原因」だと思っているものは全て「結果としてあらわれたもの」なのだった。この経験の原因はあの経験だ、というとき「あの経験」はやはり何かの結果もたらされたものなのであって本当の原因にはならない。この経験の原因があの経験だと思えてしまう、まさにその「間違った考え方」こそが本当の原因だったりするわけだ。

そして、もしも過去が現在を作っているのならそこには「過去の記憶」がなくてはならない、そういうことになる。もし過去の出来事を一切(潜在意識においても)覚えていないのだったら、過去のあれこれが現在に影響するわけがないからである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 221

第28章 その2

この世において通常、変化とは時間の経過とセットで知覚認識される。太陽が沈めば「ああ、夜か」となるのだが、これはその前に太陽が昇っていた「朝昼」があったからこそわかる変化であって、ずっと暗いままだったら別に変化にはならない。このように、変化とは過去との対比によってのみ知覚認識されるものである。つまり対比されるべき過去があって、更にそれを記憶していない限り変化を知覚認識することはできないのだ。おかしな話だが、自己啓発か何かをやって「私は変わった、変わった!」と騒いでいる人に限ってあまり変化していないことが多い。本当に変化というか変容した人は対比されるべき過去を既に超越してしまっているので、自分が「前と比べて変わった」というような意識がないのだ。

話が逸れたが、とにかく「記憶によって過去を現在に持ち込まない限り変化は知覚認識され得ない」のなら、過去を持ち込まなければ変化はないと言うこともできるわけである。聖なる瞬間であるような「今ここ」には一切の過去が持ち込まれていない。ゆえに「今ここ」は常に不変で、なおかつ常に新しい。過去が「いまはもう終わっていて、ない」ものならば、それが記憶さえされなければ現在を作る原因にはならないわけである。

ならば「今までこんなに頑張ってきたから今の私があるのよ!」という場合はどうなるのかと思うが、頑張り学んで正されたマインドはその都度新しく「今ここ」を経験しているのである。あれこれ頑張った過去の記憶が今のあなたを作っているわけではないのだ。

ついさっき誰かに怒鳴られたことであれ、遠い昔の人類の集合無意識であれ過去の記憶は「記憶」に過ぎない。間違いを覚えこんで今ここで再生するほどバカバカしいことはない。怒り、憎しみ、不安、恐怖などの原因は間違いなく「過去」にあり、それも遡れば「神と離れてバラバラになろう」と思いついてしまった瞬間にあるのだ。しかし、それらはみんな「既にない」のである。にもかかわらず「ある」ように見えるのは「神と離れてバラバラでいる」という目的を捨てていないから、あらゆることがその目的を達成する手段として用いられてしまっているからだ。憎しみ・怒り・恐怖、そのような思い・感情に襲われたら「これをもたらした原因はもうないのだ」と自分に言い聞かせて感謝しよう。そして聖なる瞬間を招き入れよう。そうすれば聖霊が「新たな目的」とともに「新たな原因と結果」を持ってきてくれる。あなたは過去のあれこれからゆるされ解放されるのだ。聖霊がもたらす原因と結果は両方とも「今ここ」にある。「いま」解放され癒されればその結果は「今ここで」もたらされるのだ。

そもそも唯一の「原因」とは神(の御心)に他ならないのであり、それがもたらす結果が「創造された私たち」なのだった。その原因の深遠さは時を超えている。無理やり言葉であらわすなら「時の初めよりもっと前」などということになる。すなわち言語も知覚認識もないところのものである。文字通り言語を絶するものである。新しいものであると同時に最も古い。そんな言い方でしか表現できないものである。いずれにせよ、それは聖霊がもたらすからといって別に新規なものではなく私たちのマインドの中にその創造の初めからずっと変わらずにあったものなのである。

個人としての、あるいは個人の集合体の一員としての「あなた」が覚えているようなあれこれは「なかった」のだ。それらは全てマインドが投影したものであり、過去の思い違いを現実だと思い込んでしまったために生じた(ように見える)ものであり、実際には「なかった」のだ。いくら写真や映像で記録されていようが、そういう装置や技術じたいが「幻想を現実だと信じ込むため」に作られたものなのだから何も証拠にもなりはしない。

唯一の原因は時などに一切関係なく常に今ここに完璧な形で存在し、その結果としての私たちもまた同様なのである。奇跡はこれを私たちに思い出させてくれる。私たちのマインドはそれを覚えているからだ。過去の出来事としてではなく、また将来そうなるだろうというものでもない。覚えている、という言い方には既に過去が含まれてしまっているからわかりにくくなるのだが、その第一原因も結果も常に「今ここ」にだけある、そういうものなのだ。罪とか過去などというあれこれから解放されれば、「私はずっとこうだったのだ」という真実の姿がわかるのである。

私たちは何故恐れるのか?恐れるとは元を正せば「神を恐れている」ことに他ならないのだ。なぜ神を恐れるのか?それは自分を罪あるものだと思い込んだからであり、神はそれをゆるさない、絶対に罰を与えるだろうと思い込んだからである。怒り、罰を与えるものだという裁定を神に対して下してしまったからである。被造物が創造主をどうこうする、なんてできるわけもないのに、そういう決めつけをしてしまった。そして、神を「怒り罰を与えるもの」にすることによってその結果である自分たちも「生まれて死ぬ無力なもの」にしてしまった。私たちの記憶の中の過去の出来事は結局みんなこのことを裏付けるものばかりなのである。特に影響が大きいようなネガティブな記憶はどれも「神に対する恐怖」のヴァリエーションである。

しかし、実際の神はそんなものではない。神には「奪う」という概念さえない。つまり私たちの恐怖には根拠がなかったのだ。過去のあれこれを一瞬でもすっかり忘れてただ聖霊に身を任せれば奇跡がもたらされる。何もせず何も考えず、ただ一つの真の原因だけがよみがえりその結果が生じるに任せればよいのである。

奇跡は、一瞬でも完全にからっぽになりあらゆる活動を止めたマインドにもたらされる。活動を止めるのと「眠る」のとは違う。たとえ眠っていても夢を見たりしていればマインドは忙しい。あるマインドが(とはいっても結局は一つのマインドしかないのだが、さざ波のようなものだと考えていただきたい)癒されればそれは同じ静けさを持った他のマインドと分かち合われ、癒しの奇跡はその本質として際限なく拡大していく。これらのマインドは「何もせず、からっぽで鎮まっている」ことにおいて共通している。このとき私たちのマインドはその静寂の中で神を思い出している、即ち神と一つになっているのだ。いったん思い出されてしまえばその後も完全に忘れ去られてしまうようなものではない。その感覚(と言ってもよいのかどうか)は私たちによって記憶されるのだ。

私たちが聖霊に捧げた一瞬、その聖なる瞬間は感謝に満ちている。私たちが感謝の気持ちでマインドを満たすとき、それは神の御心である。聖霊も神も一緒に感謝しているのと同じことになる。神の御心が為されているのだ。神を思い出すところにはまるで宝物のようなあらゆる恵みが与えられる。

記憶をなくすわけではないが、記憶が浄化されるようなものである。そこには既に恐怖の影がないからである。私たちはもはや恐怖を思い出すことはない。代わりに「恐怖はなかった」ことを思い出す。私たち個人の、そして人類の全ての記憶がいまだ生じていないところに、なおかつ常に今ここに真の愛がある。

原因がなければ結果もない。罪という原因がなければそこから生じた結果であるところの身体も世界もない。おそらく人類もなかっただろう。ただひとつにして全てである神の御心が自らを拡大して創造したマインド、これが真の原因であり結果なのである。それ以外には何もない。そして!この場合、原因と結果とは一つなのである。当たり前だが「すべては一つ」なのだった。ならば原因と結果が別物であるわけもないのだった。

結果であるところの「本来の私たち」は、在るがままにあればそれで十二分なのだし、在るがままに在るしかないのである。そうしていれば神の御心によって、神と同じ創造をしていることになる。私たちが為すべきことなど本当は何もない。為すべきことがあるとすればそれは自然に為されてしまっているのだ。このあたりの消息を「和尚」は「doer ではなくbeingであれ」と表現している。私たちは余計なことをしてありもしない「原因」を作ってはその結果である出来事に一喜一憂しているだけなのだった。

さて、「一切の過去がなく、過去の記憶もない」となればいったい私たちは何を失うことになるのだろうか?失うようなものなら初めからなかったのだ、これは今までにも繰り返し言われている。その上おかしく聞こえるかもしれないが、もはやここに至っては「失った」という記憶さえないんですよ!なくしたことを忘れている時あなたはそれをなくしたと「知覚認識」できますか?その喪失を嘆いたり、将来また同じことがあるんじゃないかと心配したりできますか?

たとえ今までのことをぜーんぶ忘れちゃったとしても神と一体感が得られれば天国にいるのと同じ、もう想像もできないくらい幸せなのだ。だったらいいじゃないですか。だいたい覚醒して記憶喪失になる人はあまりいないと思うし、別に心配するようなことではない。

神の御心は私たちを手放さず見放さない。私たちがありもしない幻想の世界に行こうとするのを留めてくれるものである。幻想のこの世界と本当の現実とをつなぐ架け橋、それは(おそらく聖霊でありスピリットなのだろうが)神によってつくられた絶対確実に安心できるものなのだ。だからそれを渡るのを怖がらないでほしい。渡った先には今までの世では経験できなかったような平和と幸せが溢れているのだから。

ところで、原因がなければ結果はないのと同時に、結果がなければ原因もない。というかあることが「原因」とされるためにはその「結果」がなくてはならないのだ。勉強しなかったから試験に落ちた。試験に落ちたという「結果」があるからこそ「勉強不足」は原因と認識されるわけである。子供は親から生まれる。子供のいない人を親とは呼ばない。子供という「結果」を得て初めて人は「親」になれるのである。神も同様で、神のひとり子がいるからこそ「父なる神」と呼べるのである。結果なしの原因はありえない。結果が原因を原因たらしめている。結果があるからこそ因果関係が成立するのである。

父なる神が自らに似せてひとり子を創造したことによって、そのひとり子も父なる神と同じ創造ができる。創造されたものが創造していく、というこの終わりなき円環は閉じているのではなくて開いている。その始まりとは時間軸上の一点ではない。全てが一つであるからには初めも終わりも一つである。神の御心において始まった全ては神の御心に戻ってくる。ならば始まりも終わりもないのと同じである。

第268回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 218・219

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 218

第27章 その7

貧困であれ病気であれ人間関係であれ、私たちが知覚経験する事象は全て「結果」として生じたものである。私たちはそれらがを自分を苦しめる「原因」だと考えてしまいがちだが、そこが間違いなのだ。ゆえにそれらの事象そのものを何とかして苦痛をなくそう、問題を解決しようとしても無駄なのだった。事象の向こうを見なくてはならない。

では、事象の向こうにある本当の原因とは何か?これも繰り返しになるのだが、「他者が存在するという思い込み」である。言い換えれば「一つであるところの神から離れてバラバラになった」あるいは「私は神のひとり子ではない」という思い込みである。

私たちは、自覚していなくてもこれを「罪だ」と思っているのだった。まともに罪悪感を抱く人なら「私はダメだ、」と落ち込み自分を責め、ありとあらゆる苦痛によって自分を罰することにより救われようとするだろう。そうでない人なら罪を他者に転化するだろう。いわゆる「犯人捜し」のようなものである。こんなひどいことが起きるからには何か・誰か悪い奴がいるはずだ!「このワタシ」が苦痛の原因を作った覚えがないからには、何か・誰かであるはずだ!それが誰か他人であるとは限らない。過去(過去生も含めて)の経験かもしれない。自分ではどうにもならない「ダメなワタシ」かもしれない。どちらにしても「いまのこのワタシ」にはどうにもできないようなものに決まっている、それだけは確かなのだ。

これはまるで玉ねぎの皮むきのようになる。いま自分が苦しいのはこの病気のせいだ、これは10年前のあの経験がトラウマになったせいで起きたものだ、その10年前の経験は過去生のあの経験が原因になって起きたものだ。じゃあ過去生のその経験の原因は何?その経験の原因になったことの経験の原因は何?

自分の苦痛や世界の悲惨さについてその原因を探る=犯人捜しをする際に盲点となるのが「自分の罪悪感」である。誰もがそこを見ない。犯人探しは「犯人が必ずいる」ことを前提としており、犯人がいなくては困るのである。この苦痛や悲惨さをもたらした「悪」がなくては困る、それはもしかしたら「このワタシ」かもしれないが、とにかく「悪」の存在がなくては説明がつかない。罪作りな悪いものがどこかにいてほしい!と希求する、まさにそのことがよりいっそう罪悪感を強化してしまうではないか。

幻想が幻想たるゆえんは、それが「幻想だ」と気づかれていない点であり、それを作り出したのが他でもないこの自分だなんて思いもよらないという点である。何のことはない、実は自分が勝手に作り出したあれこれに自分が翻弄されているだけなのだ。

自分が見ている夢の中で苦しんでいるのだったら目覚めれば済む。しかし、あなたではない何か・誰かの夢の中で気まぐれなシナリオをあてがわれて、たまには大事にしてもらえるが大抵は取るに足りないもののように扱われて弄ばれているのだったら、あなたに為す術はないと思ってしまうだろう。自分がその構成員ではあるが自分とは別のものである「世界」が見る夢の登場人物だとしても同じことだ。更に取るに足らないエキストラのようなものとして扱われるだけになるだろう。

あなたは世界の、或いは誰かの夢の中の登場人物になってしまってもいるのである。あなたが傷つき苦しめば、あなたは世界や誰かの悲惨な夢を現実化するのに一役買ったことになる。世界や誰かの苦しみに加担したことになる。あなたが苦しめばあなたは「苦しみに満ちた世界」を現実化する役割を果たしていることになる。

逆にあなたがまず自分において癒され解放すれば、あなたを登場人物としている誰かの夢もまた癒すことができるのだ。少し前にも出てきたが、あなたが自分の苦しむ姿をさらせば世界はますます苦痛にまみれたところになってしまうし、他の人々の罪悪案を煽ることにもなってしまう。そして、自分において癒されるためにはまず全てはあなた自身の夢であると知ることだ。あなたのマインドが全てを引き起こしている張本人だと知ることだ。いきなり目覚める必要はない。まずは「神から離れてバラバラ」からくる罪と恐怖を映し出す夢を抜けて、神の国=真実を映し出す幸せな夢を見ればよい。それが「本当の世界」であり「境界」なのである。

多くの人が死を「身体を抜けて神のもとに召される」ことだと思っている、というより思いたがっている。本当にそう信じられているのなら誰が死を恐れるだろうか!病気になっても「ああ、死ねる、神のもとに行かれる」と喜べるなら誰が治療をして生き延びようとするだろうか?そういう人はあまり多くないだろう。

なお「コース」では「身体は実在しない」が前提になっているので、死という言葉はいわゆる身体の死を意味しない。「ない」ものは死ぬこともできないのだ。「コース」において、生とは「神による永遠の生命」を意味し、死とは「神の子でなくなること、あるいは神の子であるのを忘れること」を意味している。だからこそ生が平和で死が苦しみだと、死は断じて救いではないと言えるわけである。

それに対して「身体」の実在を前提にするならば、「生まれたものは死ぬ」に決まっているのだから「生は死の原因である」になってしまう。生まれたからにはいつかは死ななくてはならない。生あるいは誕生と死はセットになっている。生きているからには常にその裏側に死があることになる。生と死は絶対矛盾的自己同一の関係にある。

そういうわけで、私たちは「コース」に即して「生か死か」を選ばなくてはならない。これは言い換えれば例によって「聖霊かエゴか」「現実か幻想か」ということになるのだが、私たちは通常エゴや幻想の中であれやこれやを選ぼうとしてしまっているのである。本当の原因がわからないうちは結果どうしを比べてあれかこれか、というふうになってしまうのだ。多種多様な「分離の夢」つまり幻想の中でどれがもっともマシか、という選択になる。まるで心筋梗塞と脳梗塞とどっちがマシか、みたいなものである。これでは何も変わらない。

「世界」という壮大な、私たち一人ひとりにはどうにもならないような夢であっても結局私たちのマインドが作り出したものなのだ。夢の始まりを考えてみてほしい。そもそも、私たちが「神から離れてバラバラになってみようかな」という妄想を秘かにちょっと抱いた、そこから全てが始まった(ように見える)のだ。その妄想の中でできてしまった(ように見える)あなたと神の間の裂け目、あるいは本来ひとつであるはずの「誰か」との裂け目、更にあなたと「外界」「世界」との裂け目、それが夢と現実との間に立ちはだかる裂け目なのである。壮大に思える宇宙も世界もあなたのその妄想の中にある。その妄想を現実だと思っている限り、どうやってもあなたは壮大な世界には太刀打ちできない。

裂け目があるということ=他者ができてしまったということ、これが苦痛の本当の始まりである。自分とは違う何か、人であれ自然であれ世界であれ、あなたとは違う考えや利害を持った何か、それが「存在する」という思い込み!これがあらゆる苦痛の本当の原因である。存在は存在し、存在しないものは「ない」。存在しないで存在することはできない。ゆえに存在の外側というものは「ない」。にもかかわらず、私たちは自分が「存在」であることを忘れた!

「他者が存在する」という思い込みが全ての始まりであるのなら、それを終わらせるのはその思い込みが生じたところ=自分のマインドにしかない。しかも、マインドの中のエゴの部分にはできないことだ。

私たちがふと、そして秘かに抱いてしまった妄想は「神に対する反逆」かつ「自分自身に対する攻撃」に他ならないので、私たちが自覚できる以上に恐ろしいものなのだ。あまりに恐ろしいのでマインドの奥深くに押し込めてしまって「なかったこと」にする、だから言われてもピンとこない人が多いと思う。むしろ、慣れ親しんだ妄想を捨てることが怖いと感じるようになってしまっている。だから無理やり覚醒させるのはあまり良いことではないのだ。

にもかかわらず、実は私たちはその恐怖の瞬間の只中に凍りついたままなのだ。とんでもないことを思いついて「ゲッ、どうしよう!!」と恐れおののいている瞬間に「ねえ、ちょっと!」と肩でも叩かれたら飛び上がってしまうだろう。場合によってはショック死するかもしれない。ゆえに、覚醒せずに眠っているのは同じでもまず悪夢から楽しい夢に乗り換えるのが聖霊の方法なのである。楽しい夢から起こされて怒る人もいるだろうが、この場合は夢の中で既に「目覚めた先はもっと素晴らしい」とわかっているのである。

全ては自分自身が見ている夢なのだ、それがわかれば後は聖霊に委ねて楽しい夢を見させてもらえばよいだけだ。あなたは依然として眠りについたままである。というのは、これはまだ直接知ではなく知覚認識の次元であって、完全な覚醒には至っていないからだ。しかし、あなたの夢にはもはや他者はいない、残酷で悲惨なこともない、罪も恐怖もなく、かつては敵であった人々はいま友人になっている。あなたの寝顔には安らかな微笑が浮かんでいる。

同じ知覚認識の段階にあっても「良い夢を見る」とは、要するに「あらゆる人を聖霊と見る」ことに他ならない。それに尽きている。歪んだ知覚器官にどう映ろうとも、相手が本来持っているあらゆる美質、親切さや思いやり、そういうものに感謝する。いまのあなたにはそれらが見えなくても、である。たとえ今までのあなたの夢の中で誰かがとても「完全なる無垢な存在」には見えなかったとしても、それでもやっぱり彼(女)はあなたと同じ神のひとり子に違いないのだ。彼(女)をどう見るか?それは取りも直さず「エゴか聖霊か」「幻想か現実か」という選択なのである。そして、あなたが苦痛を覚えた瞬間に・・つまり苦痛を選んだ瞬間にあなたはまた悪い夢に逆戻りしてしまうのだ。

さて、言うまでもないが、私たちの世界・人生という夢の構成要員は「身体」である。人体に限らず動植物でも恐竜でも、やっぱり「身体」がどう動いていたかということが中心になっている。「人間」と言われてサルから進化したところの「人体」を思い浮かべる方もたくさんいると思うし、壮大な人類史・世界史の主役も、ひとりひとりの人生の主役も(転生も含めて)やはりこの身体を持った人間、人体であるところの人間である。(そもそも身体がなければ誰が誰とも判別できないのだから、そういう意味においてはいわゆる「霊」でさえ「霊体」と言ってよいのではないか。)近頃流行りの「人にやさしく」の「ヒト」とはやっぱり身体のことではないか?

世界も、人類ひとりひとりの人生も「身体を持った個人や個人の集団」が何を考えどう動いてきたかが知覚器官に映し出されたものなのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 219

第27章 その8

幻想の世界、すなわちあらゆる夢の構成要素は「身体」である。「コース」はこの身体としての人間についてかなりミもフタもない、容赦ない語り方をしている。誰か別の身体(両親ですね)から外側の世界に生まれ落ち、ちょっと生きたら死んで塵になって、やっぱり同じように死んで塵になった身体と一緒に埋葬される。塵どうしが混じり合って「ひとつになる」ことならあるだろうが、それだって「神においてひとつ」とは全く次元が違うのだ。その短い人生の間に身体は別の身体たちを求める。友人になったり敵になったり或いは雇って自分の満足のために働かせたり、より弱い身体たちを征服したり、一緒に夢を見られるような「特別な身体たち」を求めたり、ことによるとより強力な身体に支配されて奴隷として苦しめられたりする。

身体はそれ自身が安全でいられるかどうかを基準に考え行動する。身体にとって危険なものは避けようとし、心地よく過ごせるほうに流されていく。身体にとって快楽と苦痛とは全く違うものであり、身体はその両者の区別を自らに教え込む。身体はそれ自体が自律的な実在だと思われている。つまり、あなたの意志とは「無関係に」、身体が勝手に呼吸したり心臓が動いたり新陳代謝が行われたりするものだと思われている。

身体はその満足のために「ちっぽけな金属片と紙切れ」を用いる。これらもまた身体によって「価値のある実在物」と考えられているものであり、身体はそれを得るためにどうでもいいような無意味なことをやり(労働ってことです)、やっぱりどうでもいいような無意味で不必要なもののために「金属片と紙切れ」を放り投げる(消費するってことです)。

こうやって有史以来、身体は夢から夢へと渡り歩いてきた。どこの、誰の夢であってもその主役が「身体」であることには変わりがなかった。ある意味において、歴史を作ってきたのは精神だとも言えるのだが、その精神でさえ身体と何ら変わるところのない「分裂したマインド」=エゴだったりするのである。正しく理性によって真理を見ようとし、実際に真理を知った人々の名も歴史に刻まれていたりはするのだが、彼らが「身体を主体とするような人類史」を揺るがせたとも思えない。社会革命は多々あったが、本当の意味での意識革命は未だに起きていない。本当に起きていたら人類などとっくに消滅しているはずなのだ。

身体を主役とするような夢がなぜ止まないか?これは「幻想を維持しようとするのはなぜか」と同じ質問である。答えはもうお分かりだと思う。「神から離れてバラバラの個である」という思い込みを現実化させておくためだ。歴史を作るのは、あらゆる現象を生じさせるのは、互いに影響を与え合うのは、生きて死ぬのは、殺し合うのは、愛し合うのは、すべて「身体であるところの人間だ」という思い込みを捨てさせないためだ。身体は結果ではなく原因なのだと思わせておくためだ。あなたは身体に支配されて動く=生きてあれこれ感じて動いて最後は死ぬものであり、あなたが身体を作り支配しているのではないと思わせておくためだ。

もちろん、これは間違っている。身体は自然にできたものでもなく神に与えられたものでもなく、マインドが作り出した幻である。それがわからないうちは夢の中でうごめく人影を本物だと思っていちいち本気で相手をしてしまうことだろう。全ては自分が作り出した夢だとわかれば、夢の中のいかなる事象もあなたに何ら作用を及ぼしていないのだとわかる。

いまのあなたの状態は何が原因で引き起こされたものなのか?!不景気で仕事が減ってお金がなくて苦しい、病気だから苦しいし痛いし不安で仕方がない、放射能の影響はどうなるのか心配、彼(女)が私につらく当たるから苦しい、この中で苦痛や不安の「原因」のように見えているあれこれは実は全然「原因」なんかじゃない!だからそれらを何とかしようとして頑張ったところで何にもならない、癒しももたらされない!本当の原因はあなたのマインドなのだ。たとえばあなたがどんな状態にあったとしても「今すぐここで」平和と感謝に満たされることはできる。できるんです、やろうと思えば!「お金がないから。お腹が痛いから、仕事が決まらないから、ああだからこうだから、できない」なんてことはないんです!そう思っているならあなたは「自分以外の何か=他者が原因で、自分の状態はその結果である」と信じていることになる。しかし、実際には「何がどうなっていようとも、マインドは常に今ここで感謝と平和に満たされることができる」のだ。いかなる影響も蒙らずに、やろうと思えばいつでもすぐにできるのだ。「夢=幻想の始まり」なんか思い出せなくてもいいから、せめてここだけにでも気づいていただきたい。それがわかれば私たちはいつでもどこでもどんなときでも「聖なる瞬間」を招き入れることができる。おそらくは地震や津波の只中にあっても、今まさにギロチンの刃が落ちてくるその瞬間にさえも。

眠りこけている私たちに、夢の始まり=神と自分自身に対する攻撃なんか思い出せない。身体なんてなかった頃のことも、即ち「神の国、真理」も思い出せない。当たり前だ。あなたは毎晩「眠りについた瞬間」のことなんか覚えていられますか?

ふとした瞬間に秘かに抱いたバカバカしい思いつきが、あっという間にとんでもなく深刻な事態を現実に引き起こしてしまったかのように見えている。ただそれだけのことなのだ。全てはマインドの中で「思われた」だけなのだ。しかし、厄介なことに私たちのマインドは投影作用を持っているためにその「考え」が外側のスクリーンに映し出されてしまったのだ。それがわかったら私たちは大笑いするだろう。あるいはヘナヘナとくずおれるだろう。今までいったい何だったの?膨大な時間を無駄にしてた?いや、あなたは絶対にそうは感じない。ここに至っては時間などもはや何の意味も持たない、そのこともハッキリわかるからである。

ありえないようなバカバカしい、しかしあまりにも恐ろしいことを思いついたために罪悪感におののく私たちは、その罪を他者に押し付けた。しかし依然として罪悪感だけは手放せずに残ってしまうので、「罪のために裁かれる」のはこの自分自身のままである。しかるに世界は、他者はあなたにとって残酷なものになる。罪を押し付けられたものは報復してくるからだ。

というわけで、この世界は「自分がやったことが自分に返ってくる」という真実を私たちに見せつけている。いわゆる因果応報ですね。しかし、因果応報であって報復してくるのは他者ではない。運命でも神でもない。原因も結果も全て自分のマインドの中にしかない。事象だけを見てはならない。事象を「作り出した」ところのマインドの思い込みを見るのだ。原因がなくなればそれによってもたらされたかに見えるあれこれも全て消えてしまうはずだ。全部勘違いでした、で終わってしまう。これはかなり笑える事態である。

私たちはみな結果であるところの事象を原因だと思い込んで右往左往するが、聖霊にはた本当の原因しか見えない。聖霊の判断によればその「原因」はただのバカげた思い込みにしか過ぎないものなのだ。

救いの極意はこれである!!「あなたの上に起こることは、どんな事象や症状であっても全てあなた自身が自分に対してやっているのである。たとえ相手が本当に悪い奴であなたに対してひどいことをしているように見えたとしても、やっぱりあなたに起きることはあなた自身が自分に対してやっているのだ。あなたがどんな苦痛や苦悩を感じるとしても、それらはやっぱりあなた自身が自分に与えたものである。これは夢だ、とわかってしまえばその中のいかなるものもあなたには作用を及ぼさない。」

この教えさえ学べればあなたはどんな種類の苦痛からも解放されるだろう。だって「自分さえしっかりしていればどんなものにも影響されないでいられる」とわかっちゃうんだから!しかも、例によって「例外はない」のである。アウシュビッツのガス室でさえ例外ではないのである。「コース」の教えは限りなくユニヴァーサルなのである。

だから、あなたのあらゆる悲しみ・苦しみを聖霊に委ねてしまいなさい!というのは言葉を換えれば「どんなに苦しい時でもとりあえず平和と感謝でマインドを満たしなさい」になる。苦しい時にそんなことできるわけないじゃない!と思うかもしれないが、できるのである。不謹慎じゃないか、と思うのもまたエゴなのだ。だからエゴには奇跡がもたらせない。奇跡とは「これをやったのは私です、だからこれは私が取り消します」という言明を反映する現象なのである。

どんな悲しみ、苦しみでも、小さなことでも大きなことでも、自分自身についてのことでも誰か他の人(たち)のことでも、世界全体のことでも、全て聖霊に委ねましょう。それらは聖霊の目には「全く同じもの」に映り、全く同じように簡単に癒し去ることができるのだ。見た目に誤魔化されてはいけない。例外を作ってはいけない。そんなことをしたら救いの極意を知らないままになってしまう。この世のあれこれの事象は全て「救いはない、あるいは死ぬほど難しいものだ」と証明しているかのようだ。そんなものに騙されてはいけない。

こういうことに気付いたら世界はどれほど違ったものになるだろう!あなたは自分の罪を外の世界に押し付けて自分の罪悪感だけを募らせてしまったが、そんなことを知っているのはあなたを措いてないのである。たとえて言えば、あなたは自分が何か大きなミスをしでかしたと思い込んでそれを誰かに押し付けた。相手が真相を知ったら仕返しされると思ってビクビクし、その態度がおかしいので本当に相手から攻撃される。会社に自分の罪がばれたらどうなるかと思うと怖くて夜も眠れない。しかし、実はあなたは何のミスもしていなかった。それがわかればあらゆる不安や恐怖から解放される。なあんだ、私の勘違いだったわ、ごめんね。

自分が罪を犯したという思いを一人でこっそり抱え込んでいる、自分だけで抱え込んでいられると思うまさにそのことが「みんなバラバラの個人」だという思い込みを象徴している。自分たちは身体であり、身体の中に心が隠されていて外からは見えないという思い込みを象徴している。

あなたが無垢なら他の人たちもみな無垢なのであり、あなたが罪深いなら他の人たちもみんな罪深いのだ。あなたが苦しんでいるのなら世界は苦しいところであり、あなたが解放されれば世界は解放される。投影作用とはそういうことだ。さあ、あなたはどちらを選びますか?あなたひとりがこっそり癒されることなんかできないのです。

第266回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 214・215

碧海ユリカとのコース」 214

第27章 その3

前回の続き、間違いを正すことについて。聖霊が間違いを正す機能は「その場にいるひと全てに」同じように働くのである、もちろん受け手のほうの問題はあるだろうが、聖霊の側から見れば「あの人は大いに間違っているか読む「奇跡らその分たくさん正し、この人はそれほどでもないから少しだけ」などということはない。何故なら、間違いは「あるか、ないか」だけが問題なのであり、「ある」ならそこに程度の差などないのである。少なくとも聖霊の目には同じように映るのだ。あなたの目から見れば「自分より相手のほうがずっと間違っている」ようであっても間違っていることには変わりないのである。聖書には「あなたは他人の目に入った塵は見えるのに、自分の目の中の丸太が見えない」と書いてある。

癒しと同様に間違いを正すこともまた「同時に、同じように為される」のだ。私は正される必要なんかないわ!と思っていても聖霊はちゃんと働いてしまうのである。じゃなかったらあなたは「自分が間違っていることにさえ気づかないまま取り残され」てしまうではないか!聖霊はそんなことをしない、できないのでご安心を。あなたが聖霊と一つのマインドであることに気付いた時、つまり自分が神の御心の一部であると気づいたときには間違いを正すことが自分の役割なのだとわかる。しかし、それまではとにかく「委ねる」ようにしてほしい。

さて、「力」とは何だろうか?「コース」によれば力とは原義的に「強い」ものに決まっているのであって「弱い、弱められた力」なんてものは「恐ろしい愛」と同様に形容矛盾であるらしい。「黒い白馬」みたいなもので、白い馬を無理やり黒く塗ればとりあえず黒くは見えるが、その本質が白馬であることには変わりない。力も、それを無理やり抑えこんで「使用制限」をかければあたかも「弱まった」かのように見えるだけであって、その本質はやはり「強さ」なのである。この力が抑え込まれたり歪められたりせずに本来の性質を発揮するところに「創造」があるのだ。

この世界には矛盾が平気で存在する。そもそも矛盾などという概念や言葉すら存在しえないのが本来の状態=神の国なのである。あらゆるものが一つであって他者がいないのだから当然だ(しかし、皮肉なことに真理や神のことを無理やり言葉であらわそうとすると絶対に矛盾的な表現にならざるを得ない!)。愛は愛であるはずなのに、この世ではそこに平気で憎しみや不安が混じるのだし、真実は一つであるはずなのに「状況によっていろいろある」のが普通とされるし、ある人々には素晴らしいとされるものが別の人々には「恐ろしいもの」とされる。こういう当たり前に見えることが実は全部「おかしい、狂っている、ありえない」になるのが「コース」の教えである。「コース」の常識はこの世の非常識なのだ。

私たちは「シンボル」の世界に生きている。いうまでもなく言語はシンボルである。そしてこの身体は「誰一人同じものがいない、個であることをあらわす分離のシンボル」だ。それ自体として意味があるようなものは何一つなく、あらゆる事物・事象が「何か別のこと」を象徴するシンボルになっている。というか、知覚認識されるものは、知覚認識できるというまさにそのことにおいて全てシンボルである。本来の状態においてはあらゆるものが一つであり何もかもが直接知られるだけなので、わざわざそれを象徴するシンボルなど不要である。真理は目に見えたりするものではない。知覚認識できるものではない。ただ知られるだけのものである。しかし、この世では「とりあえず」私たちにわかる形であらわされるようになっている。それは「正しい知覚認識機能」によってもたらされるのであり、知覚認識機能を正す手段がゆるしなのである。

私たちの目に映り心の中に描かれる誰かの姿は本当のものではなく、私たちのマインドの内容をそのまま映し出す「シンボル」である。私たちはありのままに人を見ていない。つまり「神のひとり子」として見ていないのであって、自分の思い込みが投影されたその影を見てあーだこーだやっているだけである。これは結局「何も見ていないのと同じ」であり、私たちは誰かを相手に何かを一生懸命やっているようでいて実際には「幻を相手に、何もしていない空虚な時間」を送っているに過ぎない。精神を病んだ人が何もないところに向かって一生懸命話したり怒ったりするのを見かけることがあるが、それと同じようなものである。

さて、神とは存在そのものであり、神のひとり子であるとは「存在している」ことの別名だ。神のひとり子ではないのなら「存在していない」ことになる。が、とりあえず私たちはここにこうして「存在」している。そしてそれが「神のひとり子」ではないのなら、私たちは「存在しないで存在している」とか「生きている死人」(生ける屍、だと少しニュアンスが違う)みたいな、つまり「黒い白馬」みたいな矛盾存在になってしまう。そんなものはありえない!のだが、先に述べたように私たちは平気で「両立しえない矛盾概念を平気で両立する」ことをやってのけている。これはどういうことを意味するか?

愛と憎しみが一緒にあることはありえない。お互いがお互いを否定しあって結局そこには「わけのわからないもの、理解不能で無意味なもの」しか残らない。あなたのマインドが何かでグチャグチャになっているとき、自分では「一生懸命考えている」つもりであっても実は「グチャグチャ=無意味で無内容で理解不能なものでいっぱいになっている」だけであり、要は「何もしていないに等しい」状態なのだ。何も見ていないに等しい状態なのだ。下手な考え休むに似たり、とはよく言ったものだ。それにさえ気づけばそこにはポッカリと穴があいているのがわかるだろう。聖霊はその空っぽな部分に愛や平和など「神の御心と一つであるもの、意味あるもの」つまり真に存在するものを注ぎ込むのである。

といっても実はとっくに私たちのマインドそれらで満たされているのだが、いやそれどころか私たちのマインドは神の御心そのものなのだが、それは知覚認識されえないものなので今の私たちにはわからないのだ。だから聖霊は私たちにもわかるような、つまり知覚認識可能であるようなシンボルを与えてくれる。そうすれば私たちにとって出会う人々全てが、そしてこの世のあらゆる光景が全く違うものになるというわけだ。

私たちは何と無駄な事柄に無駄な時間とエネルギーを注いできたことか!まずそれを認めよう。私はこんなに真剣なのよ!この苦しみには絶対に意味がある!人生に無駄なんかないのよ!と思いたいかもしれないが、とにかくまずは捨てましょう。意味ある有意義なものにしたいならまずそのこだわりを捨てましょう。でないと前に進めないのです。

無駄なことに注いできた時間は無駄に費やされたのではなく、ただ「なかった」のだ。「邯鄲」ではないが、夢の中で10年の時が経過していても目覚めたら10分しか経ってなかった、みたいなこともあるでしょう?

実際、いまの私たちがいきなりシンボルなしの即ち知覚認識なしの世界に行くことは難しい。が、身体や言語を始め、あらゆるシンボルが学びのための道具として有効利用できるのだった。聖霊が私たちに与えるシンボルは神の御心が映し出されたものである。両立しえない二つの概念がごちゃごちゃになっているような無意味なものではない。愛、平和、正義、などなど、それぞれが対立概念なく矛盾なく一貫した意味を持っている。ここにおいて私たちは初めて「意味ある世界」を生きることができるのである。正確に言うと「意味の半分」である。意味「そのもの」はシンボルで表せるようなものじゃない。知覚認識されうるようなものじゃない。神は「あ、神さまだ」と認識されるようなものじゃない。おかしな話だが、本来の状態に戻った時には神という概念さえなくなるのだ。「ひとつ」とはそういうことである。直接知られるとはそういうことである。ただ「在り在り在る」のみ、である。そこにはもはやゆるしも存在しない。存在する意味も余地もなくなるのである。だってゆるすものもゆるされるものもないんだから!そこには何ものにも妨げられない純粋な「無限の力」があり、ただ創造する。そこにはもはや選択というものがありえない。

あるものを選べばそれ以外のものを捨てることになる。私たちはこれを恐れている。しかし、本来私たちには選ぶものなど何もないのだ、選択のしようがないのだ。だって「あらゆるものが一つ」なんだから!今ここで、恐れずにただ一つの方向だけを選んでみよう。そうすればその瞬間だけでも私たちは無限の力に触れることができる。奇跡がもたらされるのはその時だ。

以前、「あらゆる問題は実は結局同じものなので、たった一つの解決方法で済む」というのが出てきたが、ここでまたレヴューされている。ただ一つの究極の解決=答えを得るためにはとにかく一旦立ち止まって「空っぽ」にならなくてはダメなのだ。どうしたらよいだろう、これをどう捉えたらよいだろう、という「問題」を前にして「ああでもない、こうでもない、ああするとこうなるし、こうするとああなるかもしれないし云々」とやっているうちはダメなのだ。立ち止まって頭を、というかマインドを切り替える。

願望実現の本などには「既に問題が解決された気持ちになれ」と書いてあったりするが、実際その通りなのである。ああだこうだと考えずにただ平和で豊かで感謝に満ちた状態になってしまいなさい。あなたが求めていたのはまさにそれだったのではないですか?だったら今すぐここで得られちゃいますよね。といってもたいていの人がここで「それじゃ全然何も変わらないじゃない、きいっ」とか言って元に戻ってしまうのだが・・

たとえば「お金がなくて今月の家賃が払えない、どうしよう」と言う場合、たいていの人が「どこかからお金を工面して振り込むのが解決だ」としか考えない。でも、今のその問題ってそもそもあなたの欠乏感や不足感などが投影された結果なんじゃないですか?だったら先に豊かさや平和や感謝を自分のマインドにおいて実現してしまえば今度はそれが投影されるんじゃないですか?願望実現系が言いたいのはそういうことだ。そして「何も変わらないじゃない!」と言う人は本気でやってない。というか豊かさや感謝だけでマインドを満たさず、そうする端からどこかで「どうなるかしら、何か起きるかしら」と期待=不安を抱いてしまっているのだ。だから何も変わらない、ように見える。

聖霊に解決できない問題はない、これを忘れないでいただきたい。何故なら神の御心は「既になされてしまっている」からである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 215

第27章 その4

あらゆる問題は、いつどこでどんなふうに、ではなく「今ここで」既に解決されてしまっている。そして、その解決はまずあなたのマインドにおいてなされるのだ。今までのような状態のマインドでは不可能なことだった。従ってまずは自分のマインドを何とかする必要がある。マインドを変える、のではない。エゴではない部分を使うのだ。神の御心あるいは聖霊と一つであるような部分を使うのだ。聖霊に委ねるとはそういうことである。そして「感謝と平和と豊かさでマインドを満たす」とき、既にそのマインドはエゴではなくなっている。聖なる瞬間とはそういう時である。答えはそこでしか見つからない!

絶対に答えが見つからないところでいくら答えを、あるいは解決方法を見つけようとしても無駄である。当たり前のことだが、私たちがいつもやっているのはこれなのだ。あーでもない、こーでもない云々をするのは分裂したマインド=エゴであり、いくら探したってそんなところには答えなんか初めからない、どこにもない。

この世においては、一つの問いに対していくつもの答えがありうるのは普通のことだ。だが、いくつもの答えがありうるような問いっていったい何を問うたことになるのだろうか?しかも、そこで得られた答えもまた十分ではなく更に新たな問いが生まれることになったりする。これが延々と続く悪無限になり、本当の解決など永遠に得られない。問いそのものが「本当の問い」ではないからだ。この世における問いとは煎じ詰めれば全て「この幻想とあの幻想と、どちらがより真実か?どちらがよりマシか?」というものだ。幻想は幻想であって十羽一絡げなのである。それらは幻想であるというまさにそのことによって私たちを幸せにも平和にもしない。苦痛から解放することもしない。とりあえずその中からどれかを選んだとしても絶対に長続きしない。状況が変わればまた問題が起きるに決まっているからだ。

この幻想とあの幻想とではどちらがマシか?というのは言い換えれば「この罪とあの罪とではどちらがマシか?」と同じなのである。この世的には殺人と窃盗では「窃盗のほうがマシ、軽い」と思われるだろうが、本質を見ればどちらも罪だという点において変わらないのである。私たちはこうして「よりマシな、より好ましい」と思われる罪を次から次に選んでいるので、罪悪感の輪から逃れられないのだ。そして、私たちの問題はどれも結局「罪と罰」の思い込みから来ていることを考え合わせれば、罪を選んでいる間は問題がなくなることもありえない、そういうことになってしまう。

この世における問いはどれも無意味で不毛でバカバカしいのだ。たとえば「神はあるか」「放射能は危険か」「脳死は人の死か」などなど例を挙げたらキリがない。これらはどれも問いに対してさまざまな議論があり、明確な答えが存在しない。どれも「この幻想は正しいか」と問うているのである。幻想が正しいわけはない。だからまともな答えなんか出るわけがないのだ。

「神はあるか」と問う人はその時点で予め何かしら神について自分なりの概念を抱いており、そういうものが本当にあるのかと問うているのである。そうでなければ問いを立てることさえできなかったはずだからだ。脳死にしても放射能にしても同様で、初めからそれぞれが自分の見解や立場に囚われているうえでの議論である。「イエス」と答える人はそれを裏付ける根拠になるような「データ」を持ち出して「だから危険なんだ、人の死なんだ」と言うだろうが、「ノー」の人だって同じことをするだろう。それぞれが自分の判断の正しさを裏付ける(ように見える)データや仮説だけ集めてワアワア言っていたって何にもならないではないか?更には「神はあるか」と問いながら実際には「ある」と既に決めていてそこに答えを持っていくべく論を進めるようなケースも多々ある。ほしい答えが予め決まっている問い、これは問いでも何でもなくただのプロパガンダだと「コース」は言っている。確かにプロパガンダは殆ど問の形を取っている。

そして、ここでもまた主役は「身体」とその身体が生きていくための「環境・世界」なのである。「私たちはこうすべきだ、それが私たちの(身体の)平和と幸福をもたらすのだから!」そう思われることがその都度「答え」になる。それに反対する人々も全く同じ理由で反対しているだけである。即ち「私たちはそんなことをすべきではない。それは私たちの(身体)の平和と幸福をもたらさないのだから!」。

誰もその問いの本質を疑おうとしない。どれもこれも結局ただ「自分が満足したい、安心したい、正しいと思いたい」、そのための答えがほしい。あるいは「私(たち)は何かを失ってしまうのか?得られないのか?」不安だから、安心したいから問うている、それだけなのではないか?本質が見えてしまえば「ああ、バカバカしい」になるに決まっているのだが、誰だって自分がバカバカしいことを真剣にやっているとは思いたくないではないか。放射能も脳も、人間が考えるような神もみな「実在しない」のだと言ってしまってはおしまいなのだろうが、少なくとも「これを問うことは結局何を言っていることになるのか」という視点さえ抜けているのである。

要するに、誰もがこの世界・この身体の「実在」を信じて疑わない。身体の知覚器官で認識したものを「事実だ」と思って疑わない。そのうえで平和だの幸福だのを求め、それらはどうやったら手に入るのか?あれとこれとどっちが良いか?と問うているわけである。その中で答えを得ても先に述べたように本当の解決にはならないのであって、また遠からず同じような問題にぶつかるのは目に見えている。

真面目な問いとは、「本当にわからないこと」について立てるものである。本当に答えを知らないからこそ問うものである。これなら学びの助けになる。真面目に心から答えを求めているときはマインドがオープンになっているので、本当の意味での安心や気づきをもたらす答えが得られる。

日常生活でもよく経験することだが、マインドがグチャグチャになっている人には何を言っても全く通じない。本人は聴いているつもりなのだろうが、実は全く聴いていなくて何度も同じことを尋ねてくる。つまり自分が安心できるまで問うのをやめないのであり、たとえ安心できるような答えを相手が与えてくれてもちゃんと聴いていない、入っていかないのだ。期待と不安で引き裂かれているので、良い答えを聞いても不安になり悪い答えを聞けば更に不安になる。こういう時に言葉は無力だ。とにかく即座に相手を聖霊だと見て、聖なる瞬間を招き入れるしか方法はないと思う。恐怖やら不安やら、わけのわからないグチャグチャ状態から一旦抜けないと、そもそも「自分が何を聞きたいのか、どうなりたいのか」さえ見えてこないのだ。

あなた自身がそういうグチャグチャ状態にあるときにも、まずそこから一旦抜けないと聖霊のメッセージなど全く受け取れない。そこから抜け出してマインドがオープンになっていれば聖霊のメッセージは必ず届けられる。しかも、今ここで即座に、である。メッセージ=答えがどういう形で来るかはわからない。ただ「必ず来る」と信じてマインドを平和と感謝で満たし続けていただきたい。ちょっとやってみて何もなかったからまた逆戻り、なんてことにならないように。

聖霊からの答えはありとあらゆるところに用意されているのだが、それでも私たちは気づかなかったりする。それはあなたの問いに対して「普通に」答えたものではないことが多いからだ。会社を辞めるべきか?離婚すべきか?これからどうしたらよいのか?それらに対して「続けなさい、やめなさい、こうしなさい」と言われればわかりやすいのだが、そういう形を取っているとは限らない。私たちは「どうすべきか」つまり「身体をどちらの方向に行かせるか、どう動けばよいのか」という結論がほしくて焦ってしまう。だからそういう「身体的な指示」がないと「何も起こらなかった」と思ってしまうのである

私たちには「今までとは全く違う視点」が与えられることが多い。つまり、自分が立てた問いは間違っていた、無意味だった、あれはこう尋ねるべきだった、ということがわかったりする。「そんなことを訊く前にまずこうしたほうがいいんじゃないですか?」みたいな感じだと思う。まずその部分を何とかしないと、どう動いたところで何にもならないからだ。

卑近なたとえでいうと、挫折感と焦燥感と欠乏感にまみれたまま「婚活」だの「就活」だのをしてもうまくいかないに決まっているのだが、そういう人に限ってとにかく動き回る。そして「いつ決まりますか!?どんなところですか、どういう人ですか?」としか訊かなかったりする。そんなことを訊く前にいまの挫折感と焦燥感と欠乏感を何とかしないと、何をしたってうまくいかないだろうに・・。

この手の人に「こうすると良いですよ」と言っても「そんなことをしても意味がない!そんなことをするのは時間の無駄だ!」と思われることが多い。それをしないと始まらない、実はそれがもっとも確実な早道であるということが「見えない」のである。

私たちの問いは煎じ詰めれば「私は何かを失うのか、得られないのか」だったりする。

第267回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 216・217

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 216

第27章 その5

世界はあなたの外側にあるのではなく、あなたが作り出したものである。だったらあなたが癒されれば世界もまた癒され、世界を癒そうと思ったらまず自分が癒されるしかないはずだ。何か・誰かを癒したいならまず自分が「マインドにおいて」癒されなくてはならない。誰だって自分にないものを与えることはできないのである。だからまず自分が癒しを受け入れることだ。そうすれば癒しの奇跡はその本性によってひとりでに広がっていく。わざわざ「この人を、この地域を癒そう」なんて思う必要はない、というか奇跡には「個別・特殊」がないのだからあなたがその対象を特定することはできない。

あなたが癒されれば世界も癒され、あなたの目に映る世界は平和で喜びに満ちたところになる。そう見えないのならあなたは癒されていないのだ。自分の知覚器官が認識する像はあなたの信念=思い込みを表している。

健康さとは知覚認識されて初めてわかるものである。病み衰えて生気のない姿を見て「まあ、この人は健康なんだわ」と思う人はいないだろうし、昨日までは確かに病んでいたはずの人が今日は元気で颯爽としていれば、そして「検査したら異常なしになっていた」などという証拠が見られれば「ああ、本当に健康なのだ」とわかるのである。つまり、本当にその人が癒されたかどうかは「見ればわかる」ようになっているのだ。

前にも出てきたが、癒されるために必要なのはただ純粋に「癒しだけを求める」ことだ。そこに癒しをおそれる気持ちが・・・つまり何であれ不安や不信が少しでも混じっていたら癒しはもたらされない、というか受け取れない。とはいっても、癒されるためにあれもこれも手放さなくちゃならない!と思ったらたいていの人はガックリくるだろう。そんなことしていたら一生かかってしまう!

でも安心していただきたい。私たちに求められているのは「ほんの一瞬でいいからあらゆる不安や不信を、つまり攻撃を完全に手放しなさい」ということだけなのである。永久に手放すのは無理でも、一瞬でよいのなら誰にでもできるのではないか?その一瞬こそが「聖なる瞬間」なのだ。一瞬なんかで治るわけないわよ!と思っているのならそれも信念なので、そういう人にとって癒しは「ゆっくり段階を踏んで」顕現するように見えるのかもしれない。しかし、奇跡とは基本的に時間を超越しているものであり、だからこそ奇跡と呼ばれるのではないか?

聖なる瞬間において、マインドの状態が転換されればそれはそのまま世界の転換になる。あなたは対立と争いの世界から平和と喜びという新しい世界に生まれ変わったのである。これは一瞬にしてなされることだ。聖なる瞬間が与えてくれる祝福を恐れずに受け取るならばあなたは、そして世界は一瞬にして癒されてしまう。そんなステキなものをどうして恐れるのか?おそらくあなたは「今までの自分や今までの世界を失うのが怖い」のだ。それがどんなに悲惨なものだったとしても、である。今までの自分の夢や理想まで一緒に奪われてしまうような気がするからだ。しかし、繰り返して言うが「あなたは何も失わない。癒されてみればそれがわかる」のだから何も恐れる必要はない。

自分さえその気になれば死にかけた世界を癒すことができるのに、ビビッて手をこまねいて何もしないでいるなんてあんまりではないか?全てはあなたのマインドにおいてできることなのに、というかそこでしかできないことなのに!あなたが癒しを受け入れさえすれば、死にかけた世界に新しい生命を与えることができるのだ。あらゆる苦痛は癒された。攻撃するものもされるものもない、非難するもののされるものもない、ただ祝福と感謝だけがそこにある。神の御心があらゆるものに反映された世界である。

いったんこうなると面白いことが起きる。たとえあなたが愛や平和を忘れかけたとしてもあたりを見回せば、ああ何と世の中は愛と平和と喜びに満ちていることか!と思えるのである。世界はそういうところになる。かつては敵でもあった人々が今は聖なる友達に見えるようになる。あなたはあらゆるところに愛と平和と喜びを見出せるようになる。

さて、私たちが抱えている問題は見かけや形は違っても本質においてはどれも同じなのだった。つまり「そんなもの、ない」という点において同じなのである。だから癒しはどんな問題でも同じように処理してしまうのだ。「そんなもの、なかった」とわかるようにしてしまうのだ。

エゴのものであれ聖霊のものであれ、学びとは「なるほど、これとこれがつながってこうなるのね」ということを覚えながら先に進んでいくようなものなのだが、あなたには見えている「違い」が聖霊には見えない。従って、あなたにはちょっと見当もつかないような形で学びが与えられることもある。「コース」の、というか真理に至る学びは自分が考えたとおりに進むものではなく、導かれて進むものだ。全然関係ないように見えたことが一気につながったり、自分とは無関係に思えた問題まで一緒に解決してしまったりすることがある。しかし、そういう「不思議なこと」が起きたように感じても怖がる必要はない。それが不思議に思えるのは今のあなたの感覚がまだ間違っているからであって、あなたの中の聖霊から見れば当たり前のことが起きているだけなのだ。神の法則、神の原理が正しい形でこの世に反映されているだけなのだ。それは今の私たちには想像も予測もつかないものなのだから、あれこれ考えず安心して聖霊に任せよう。何といっても今の私たちの「間違ったマインド」より聖霊のほうがずっと頼りになるのは間違いないからだ。慣れてくれば次第にそれらの法則の本来の働きかたが良く見えるようになる。通常の世界ではそれら神の法則が歪んだ形で使われたり、働きを制限されてしまっている。私たちはそれが「普通で正常」だと思って生きてきたので、それらの本来の働きが見えるとビックリしてしまうだけだ。

慣れてくれば私たちは至るところでその法則が働くのを見るだろう。いろいろなものが同時に癒されるのがわかるだろう。みんなが個々にそれぞれ別の問題を抱えているように見えたものが、実はそうではなかった。誰のどんな問題も実は同じだった。そしてそれらは同じ一つの答えによって一緒に解決するものだった。これがわかるだけでも世の中の光景は信じられないくらいシンプルになってしまう。

あなた一人に与えられたように見える癒しであっても、それはとんでもない力を持っている。それは今のあなたには理解できないし、理解する必要もない。聖なる瞬間、攻撃なしの純粋な愛がもたらす効果は測り知れないのだ。それはあなたが気づかなくてもあなたの中にあり、あなたと共にある。だからあなたは至るところでその効果を目にするだろう。至る所で感謝の気持ちに満たされるだろう。それだけでも十分以上にすごいことだが、本当の現実=本来の状態の素晴らしさには到底及ばない。私たちは神(の御心)とひとつである。愛も感謝も私たちのマインドだけに生じるわけはなく、それは神の御心そのものなのだ。「コース」は「神はあなたに感謝する」と言っているが、これだと何だか神と私たちが別物であるかのように聞こえてしまう感じがする。感謝は神の御心である、単にそういうことだと捉えて良いのではないか。

再び身体について。言うまでもないが、痛みがあるとき私たちは身体の存在を強く感じる。ゆえに痛みは「身体が実在する」という思い込みを強く訴え示すものだと言える。身体はないって書いてあるけどやっぱりあるわよ、だって痛いんだもん。誰でもそう感じると思う。痛みとは「ねえ、こっちを向いてちょうだい」とあなたの注意を強く惹こうとする訴えである。

痛みを「身体からのメッセージだ」と捉えて「身体の声に耳を傾けろ」と言う人もいる。「コース」に即して考えれば身体はマインドが投影されたものなので、身体の声とはマインドの声に他ならないのだが。しかし、少なくとも「痛い、痛い、辛い、何とかして」とだけ思っていたら何のメッセージも受け取れないだろう。殊に、聖霊からの声は聞こえなくなるだろう。

痛みと快楽(この場合は主に身体的快楽だろうが)とは正反対のもののようでいて実はコインの表裏のような関係にある。両方ともそれを感じる主体は身体器官であり、「身体が現実のものである」「身体をリアルに感じる」ためのもの、それを目的にするものだからだ。しかし、実際には身体は実在しない。それを現実にしようとするのは要するに「間違いを真実にする」「ウソをホントにする」ようなものである。ゆえに、痛みも快楽も「絶対に達成不可能な目的を達成しようとする無意味で虚しい試み」に過ぎないことになる。これらは両方とも私たちに「ほら、あなたは身体なんだよ。だから痛いんだよ、だから快いんだよ」と伝えている。だが、当然のことながら私たちは快楽だけを得ることはできないのだ。快楽を得たいならその代償として痛みも味わわなくてはならない。何故ならこの2つはセットになっているからだ。痛みをリアルに感じることができる身体だけが快楽もリアルに感じられるのだ。つまり、身体的快楽を求めている人々は気づかないまま同時に痛みをも求めていることになるのである。

このあたり、「ええっ?」と思う人もいるだろうからわかりやすくするためにごく乱暴に言ってしまおう。足をマッサージされれば気持ちがよいが、踏まれたりつねられたりしたら痛いですよね。感じているのは同じ「足」ですね。頭を指圧されれば気持ちが良いが、殴られたら痛いですよね。これも感じているのは同じ「頭」ですね。どちらも「身体感覚」がリアルであるという点において同じではないか。整体などでは「イタ気持ちいい」なんていうことも普通にあるではないか。実はどちらも同じ「身体感覚」であり、その時々で場所が違ったり感じ方が違ったりするだけであって「幻想を現実化」しているという点においては、つまり「ただの間違いを罪という現実に」しているという点においては全く同じなのである。身体は「分離の象徴」であり、私たちが神から離れてバラバラになった・神の御心に逆らったという罪(ではないのだが)を象徴するものである。それをリアルに感じたいというのは、もうこれは「私たちは神の子ではありません、罪深いんです」と宣言しているに等しいではないか。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 217

第27章 その6

あなたは身体に支配されているのではない。あなたのマインドが身体を何らかの目的のために用いているのである。それでなければ身体そのものは「何でもない、何もしない」ただの物質に過ぎず、より正確に言えば実在さえしない。

しかし、今までのところ私たちは「神から離れてバラバラの個である」という思い込みを確固たる現実にするために身体を用いてきた。ゆえに「私たちは身体である」一方で「身体は自分の思い通りにならないものであり、私たちはまるで身体に支配されている」というような矛盾的な事態が生じた。身体は「それぞれが全く交流のない分裂した複数のマインド」のあらわれでもあるのだ。

私たちは身体の器官を使って知覚認識を行っている。身体は、身体の器官を通して私たちが知覚経験することを現実であると私たちに信じ込ませるための非常に精巧な装置である。目に見え、耳で聴こえ、手で触れたからといってそれが「真実である」とは言えない。いくら痛みがあり、快感があるからといってそれが身体の実在性を証明することにはならない。何であれ「これは真実だ」と思ったり言ったりしたからといって幻想が真実に変わることはない。真実は私たちが作るものではないのだ、しかし、私たちがあらゆるものに真実だけを見ようと決めるならば、身体は真実を表すこともできるのである。前にも出てきたように、身体の役割は私たちの目的に従って決まるものだからである。

だいたい、神のひとり子であり神の一部でもあるような(つまりは神そのものでもあるような!)私たちが身体に支配されるなんてことがありうるだろうか?身体の命令に従う=身体の感覚を「真実だ」とすることなどできるだろうか?本当はその逆なのに!

奇跡とは、この世に在ってこの世を超える現象であるのと同様に身体に在って身体を超えることでもある。それは身体に対してもたらされるように見えるかもしれない。しかし、奇跡が教え示しているのは「身体は実在しないんですよ、だからこんなに簡単に変わっちゃうんですよ」みたいなことである。それは普通に考えれば「ありえない、非常識」なことだろうが、何と言っても「コース」の常識はこの世の非常識なのだ。奇跡によって身体は「死ぬべき運命」をあらわすものから本当の生命をあらわすものに変えられる。

先にも出てきたように、痛みも快楽も実は同じように「罪」である。別に「身体的快楽に溺れるのは悪いことです」という意味ではない。身体が実在しその身体こそが「自分」だと思い込むことが「神に逆らい神から離れてしまった」という罪を表しているだけである。そこを勘違いしないでいただきたい。

(ところで、何か気持ちいいことをした場合に「身体が喜んでいる」という言い方をする人があるが、その場合身体が喜んでいると思っているものは何なのだろうか?心だろうか?とすると、そういう人々にとって身体と心は《あるいは身体と自分とは》別物なのだろうか?にもかかわらず身体はリアルなのだろうか?)

だからこそ、神は(というか聖霊は)痛みも快楽も同じように癒すと書かれているのである。普通に考えれば快楽を癒す必要なんかないだろう。むしろ「癒された結果、痛みがなくなって快感が生じる」くらいに思うはずだ。ここは単純に「身体的快楽には何の価値もないとわかれば、それを求め執着することがなくなる。そして身体的快楽とセットであるところの痛みを求めることもなくなる」という意味だと捉えてよいと思う。何となく薬物やアルコールの依存症患者を思い浮かべるとわかりやすい気がする。

いずれにせよ、奇跡は私たちにとって「罪」即ち「幻想」であるようなもの全てを区別なく同じように癒すのである。それらはどれも私たちを苦しめるものであり、また聖霊の目にはどれも全く同じように「罪とそれに伴う恐怖」として映るからだ。病気やけがの痛みと貧困の苦しみと恋の悩みと、あらゆる身体的快楽は全て「罪と恐怖が姿を変えたもの」に過ぎないのである。どんな形を取っていようともそれらはみな「癒しを求める叫び」であり「悲惨なこの世界から救われたいという叫び」なのだった。恐怖を駆逐するのは愛である。ならば奇跡は愛のあかしだと言える。

一般的に恐怖の極限は死なのである。それに対して奇跡は生命をもたらすものだ。文字通りの意味で「キリストの復活」はそのような奇跡であった。ここで「コース」は、奇跡によって死にゆく人は生き、死者は起き上がり、痛みは消えてしまうのだと言っている。しかし、一方で死は救いでもあるとされている。だからこそ苦痛から逃れようとして自ら死を選ぶ人が絶えないのだ。「身体がなくなれば苦痛も消える」と思っているのである。ということは、逆に言えば彼らの苦痛はみな「身体であることから生じた」のであり、少なくともそうだと信じているから「死ねば=身体をなくせば楽になる」とも信じられるわけである。しかし、そんなふうに死んだって「身体が実在しそれが苦しみをもたらす」という思い込みは消えない。

ところで、今更言うまでもないのだがこの世の物理的な法則は全て「神から離れてバラバラの個であり、身体である」からこそ存在しうるのである。身体じゃなかったら重力もへったくれもないではないか。ゆえに、この世のものではない奇跡はそんな諸法則には全く左右されないのだ。言い方を変えれば、それら諸法則が如何に無力であるか、更にはそれらの諸法則を生み出したところの幻想が如何に間違いであるか、それらをハッキリ示すものが奇跡なのである。奇跡のパワーは神の力そのものなのだ。

私たちの罪から作られたこの世界の法則ではなく、奇跡こそが真実だと思えるようなあれこれを経験できるようになりなさいと「コース」は言っている。確かに、奇跡が日常的にもたらされるようになればそれは既に「奇跡だ!」と驚くような特別なものではなく「当たり前の」ことになるだろう。

私たちは癒されなくてはならないのである。癒されることによって世界を癒し解放して救う、これが私たちの役割だからだ。自分が癒されれば知覚認識機能が正される。マインドが神の御心と一致するようになれば、それが投影されるようになる。世界が癒され解放されて救われるとはそういうことなのだ。罪から生じるものではなく、愛から生じるものが投影される。罪の象徴ではなく、愛が象徴するもの(たとえばゆるしなど)を私たちは経験するようになる。身体はそれに奉仕する道具として使われるようになる。

私たちの世界は、人生は、自分自身のマインドが見ている夢である。その中で経験することがどんなにリアルであるように感じたとしても、結局は全て夢の中の出来事である。夢を見ているその当人が「これは夢なのだ」と気づかないだけだ。その夢を作ったのが自分だということに気付かない。

またしても繰り返しになるが、何であれ私たちの苦しみは「自分以外の何か」によってもたらされるのだと思われている。私たちの力も責任も及ばない何か・誰かからの攻撃によって私たちは苦しめられる。しかし、苦しんでいるのが自分である以上、私たちは自分で自分を攻撃していることになるのだ。それがわからない限り私たちは運命に対して無力であり続けざるを得ない。

「コース」をここまで学んだら、さすがに「自分が経験することは全て自分に責任がある」くらいはおわかりになるだろうと思う。私たちはまず自分の「問題」をありのままに見てみなくてはならない。どうしてこうなったのか?をこの世レベルで或いはエゴレベルで普通に考えるとかなり複雑なことになってしまう。過去生やら何代も前のご先祖まで遡って因縁だの何だのと取り組まなくてはならないこともある。しかし、「コース」がありがたくも素晴らしいのは、そんな面倒なことは一切必要ないシンプルなやり方を教えてくれているからなのだ。自分を傷つけ苦しめている「問題」が簡単になくせるとわかれば、誰だってそれを試してみたくなるだろう。

「私が苦しむのは誰か・何かのせいだ」とは、言い換えれば「私は何もしてないのにアンタのせいでこうなった」である。大昔の日本ならそれほどでもなかったのかもしれないが、きょうび自然災害による苦しみや不便でさえ「誰か・何か」のせいにされる。アンタ、に当たるのは過去生の自分かもしれないし神かもしれない。いえ、全部自分が悪いのよと思って落ち込むような人もいるだろうが、それだって「このダメなワタシ、劣っているワタシ、不運なワタシ」なのであって、要するに「他の人たちとは違う個であるこのワタシ」のことである。そして「どう頑張っていいのかわからない」と思うのであれば、やっぱり「自分にはどうにもならない」と考えていることになってしまう。

当たり前のことだが、攻撃には対象が必要である。攻撃が自分自身に向けられるか自分以外のものに向けられるか、それだけの違いがある。そして「自分以外のもの」は全て自分自身のマインドの投影なのであれば、あらゆる攻撃は結局自分自身にのみ向けられることになる。

私たちはいずれにしろこの世界の中で「自分の役割」を演じているのだ。自分は悪くないのに犠牲になって苦しむのなら、あなたは世界が悲惨なところであると証明するのに一役買っていることになる。

このあたりも以前の繰り返しになるのでかいつまんで書いておく。そもそも苦痛だの何だの、そういうものは全て「自分自身にはどうにもならないものがある」つまり「自分の意にならないもの、自分とは別の意志を持ったもの、自分とは違う何か」が存在するというのが大前提になっている。神も運命も身体も「自分とは別の意志を持ったもの」とされてしまっている。自分しかなくて、自分の身体が実在しないもので、ただ一人しかない自分のマインドの投影だったらどうなりますか?そしてその自分が永遠不変で完璧な神の一部だったらどうなりますか?あなたが他人とか世界とか宇宙とか思っているものが全て自分のマインドだったらどうなりますか?

そうなのだ。いい加減しつこいが、この世界の存在理由は「自分とは別のもの=他者がいる」のだと証明することなのである。

第266回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 214・215

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 214

第27章 その3

前回の続き、間違いを正すことについて。聖霊が間違いを正す機能は「その場にいるひと全てに」同じように働くのである、もちろん受け手のほうの問題はあるだろうが、聖霊の側から見れば「あの人は大いに間違っているからその分たくさん正し、この人はそれほどでもないから少しだけ」などということはない。何故なら、間違いは「あるか、ないか」だけが問題なのであり、「ある」ならそこに程度の差などないのである。少なくとも聖霊の目には同じように映るのだ。あなたの目から見れば「自分より相手のほうがずっと間違っている」ようであっても間違っていることには変わりないのである。聖書には「あなたは他人の目に入った塵は見えるのに、自分の目の中の丸太が見えない」と書いてある。

癒しと同様に間違いを正すこともまた「同時に、同じように為される」のだ。私は正される必要なんかないわ!と思っていても聖霊はちゃんと働いてしまうのである。じゃなかったらあなたは「自分が間違っていることにさえ気づかないまま取り残され」てしまうではないか!聖霊はそんなことをしない、できないのでご安心を。あなたが聖霊と一つのマインドであることに気付いた時、つまり自分が神の御心の一部であると気づいたときには間違いを正すことが自分の役割なのだとわかる。しかし、それまではとにかく「委ねる」ようにしてほしい。

さて、「力」とは何だろうか?「コース」によれば力とは原義的に「強い」ものに決まっているのであって「弱い、弱められた力」なんてものは「恐ろしい愛」と同様に形容矛盾であるらしい。「黒い白馬」みたいなもので、白い馬を無理やり黒く塗ればとりあえず黒くは見えるが、その本質が白馬であることには変わりない。力も、それを無理やり抑えこんで「使用制限」をかければあたかも「弱まった」かのように見えるだけであって、その本質はやはり「強さ」なのである。この力が抑え込まれたり歪められたりせずに本来の性質を発揮するところに「創造」があるのだ。

この世界には矛盾が平気で存在する。そもそも矛盾などという概念や言葉すら存在しえないのが本来の状態=神の国なのである。あらゆるものが一つであって他者がいないのだから当然だ(しかし、皮肉なことに真理や神のことを無理やり言葉であらわそうとすると絶対に矛盾的な表現にならざるを得ない!)。愛は愛であるはずなのに、この世ではそこに平気で憎しみや不安が混じるのだし、真実は一つであるはずなのに「状況によっていろいろある」のが普通とされるし、ある人々には素晴らしいとされるものが別の人々には「恐ろしいもの」とされる。こういう当たり前に見えることが実は全部「おかしい、狂っている、ありえない」になるのが「コース」の教えである。「コース」の常識はこの世の非常識なのだ。

私たちは「シンボル」の世界に生きている。いうまでもなく言語はシンボルである。そしてこの身体は「誰一人同じものがいない、個であることをあらわす分離のシンボル」だ。それ自体として意味があるようなものは何一つなく、あらゆる事物・事象が「何か別のこと」を象徴するシンボルになっている。というか、知覚認識されるものは、知覚認識できるというまさにそのことにおいて全てシンボルである。本来の状態においてはあらゆるものが一つであり何もかもが直接知られるだけなので、わざわざそれを象徴するシンボルなど不要である。真理は目に見えたりするものではない。知覚認識できるものではない。ただ知られるだけのものである。しかし、この世では「とりあえず」私たちにわかる形であらわされるようになっている。それは「正しい知覚認識機能」によってもたらされるのであり、知覚認識機能を正す手段がゆるしなのである。

私たちの目に映り心の中に描かれる誰かの姿は本当のものではなく、私たちのマインドの内容をそのまま映し出す「シンボル」である。私たちはありのままに人を見ていない。つまり「神のひとり子」として見ていないのであって、自分の思い込みが投影されたその影を見てあーだこーだやっているだけである。これは結局「何も見ていないのと同じ」であり、私たちは誰かを相手に何かを一生懸命やっているようでいて実際には「幻を相手に、何もしていない空虚な時間」を送っているに過ぎない。精神を病んだ人が何もないところに向かって一生懸命話したり怒ったりするのを見かけることがあるが、それと同じようなものである。

さて、神とは存在そのものであり、神のひとり子であるとは「存在している」ことの別名だ。神のひとり子ではないのなら「存在していない」ことになる。が、とりあえず私たちはここにこうして「存在」している。そしてそれが「神のひとり子」ではないのなら、私たちは「存在しないで存在している」とか「生きている死人」(生ける屍、だと少しニュアンスが違う)みたいな、つまり「黒い白馬」みたいな矛盾存在になってしまう。そんなものはありえない!のだが、先に述べたように私たちは平気で「両立しえない矛盾概念を平気で両立する」ことをやってのけている。これはどういうことを意味するか?

愛と憎しみが一緒にあることはありえない。お互いがお互いを否定しあって結局そこには「わけのわからないもの、理解不能で無意味なもの」しか残らない。あなたのマインドが何かでグチャグチャになっているとき、自分では「一生懸命考えている」つもりであっても実は「グチャグチャ=無意味で無内容で理解不能なものでいっぱいになっている」だけであり、要は「何もしていないに等しい」状態なのだ。何も見ていないに等しい状態なのだ。下手な考え休むに似たり、とはよく言ったものだ。それにさえ気づけばそこにはポッカリと穴があいているのがわかるだろう。聖霊はその空っぽな部分に愛や平和など「神の御心と一つであるもの、意味あるもの」つまり真に存在するものを注ぎ込むのである。

といっても実はとっくに私たちのマインドそれらで満たされているのだが、いやそれどころか私たちのマインドは神の御心そのものなのだが、それは知覚認識されえないものなので今の私たちにはわからないのだ。だから聖霊は私たちにもわかるような、つまり知覚認識可能であるようなシンボルを与えてくれる。そうすれば私たちにとって出会う人々全てが、そしてこの世のあらゆる光景が全く違うものになるというわけだ。

私たちは何と無駄な事柄に無駄な時間とエネルギーを注いできたことか!まずそれを認めよう。私はこんなに真剣なのよ!この苦しみには絶対に意味がある!人生に無駄なんかないのよ!と思いたいかもしれないが、とにかくまずは捨てましょう。意味ある有意義なものにしたいならまずそのこだわりを捨てましょう。でないと前に進めないのです。

無駄なことに注いできた時間は無駄に費やされたのではなく、ただ「なかった」のだ。「邯鄲」ではないが、夢の中で10年の時が経過していても目覚めたら10分しか経ってなかった、みたいなこともあるでしょう?

実際、いまの私たちがいきなりシンボルなしの即ち知覚認識なしの世界に行くことは難しい。が、身体や言語を始め、あらゆるシンボルが学びのための道具として有効利用できるのだった。聖霊が私たちに与えるシンボルは神の御心が映し出されたものである。両立しえない二つの概念がごちゃごちゃになっているような無意味なものではない。愛、平和、正義、などなど、それぞれが対立概念なく矛盾なく一貫した意味を持っている。ここにおいて私たちは初めて「意味ある世界」を生きることができるのである。正確に言うと「意味の半分」である。意味「そのもの」はシンボルで表せるようなものじゃない。知覚認識されうるようなものじゃない。神は「あ、神さまだ」と認識されるようなものじゃない。おかしな話だが、本来の状態に戻った時には神という概念さえなくなるのだ。「ひとつ」とはそういうことである。直接知られるとはそういうことである。ただ「在り在り在る」のみ、である。そこにはもはやゆるしも存在しない。存在する意味も余地もなくなるのである。だってゆるすものもゆるされるものもないんだから!そこには何ものにも妨げられない純粋な「無限の力」があり、ただ創造する。そこにはもはや選択というものがありえない。

あるものを選べばそれ以外のものを捨てることになる。私たちはこれを恐れている。しかし、本来私たちには選ぶものなど何もないのだ、選択のしようがないのだ。だって「あらゆるものが一つ」なんだから!今ここで、恐れずにただ一つの方向だけを選んでみよう。そうすればその瞬間だけでも私たちは無限の力に触れることができる。奇跡がもたらされるのはその時だ。

以前、「あらゆる問題は実は結局同じものなので、たった一つの解決方法で済む」というのが出てきたが、ここでまたレヴューされている。ただ一つの究極の解決=答えを得るためにはとにかく一旦立ち止まって「空っぽ」にならなくてはダメなのだ。どうしたらよいだろう、これをどう捉えたらよいだろう、という「問題」を前にして「ああでもない、こうでもない、ああするとこうなるし、こうするとああなるかもしれないし云々」とやっているうちはダメなのだ。立ち止まって頭を、というかマインドを切り替える。

願望実現の本などには「既に問題が解決された気持ちになれ」と書いてあったりするが、実際その通りなのである。ああだこうだと考えずにただ平和で豊かで感謝に満ちた状態になってしまいなさい。あなたが求めていたのはまさにそれだったのではないですか?だったら今すぐここで得られちゃいますよね。といってもたいていの人がここで「それじゃ全然何も変わらないじゃない、きいっ」とか言って元に戻ってしまうのだが・・

たとえば「お金がなくて今月の家賃が払えない、どうしよう」と言う場合、たいていの人が「どこかからお金を工面して振り込むのが解決だ」としか考えない。でも、今のその問題ってそもそもあなたの欠乏感や不足感などが投影された結果なんじゃないですか?だったら先に豊かさや平和や感謝を自分のマインドにおいて実現してしまえば今度はそれが投影されるんじゃないですか?願望実現系が言いたいのはそういうことだ。そして「何も変わらないじゃない!」と言う人は本気でやってない。というか豊かさや感謝だけでマインドを満たさず、そうする端からどこかで「どうなるかしら、何か起きるかしら」と期待=不安を抱いてしまっているのだ。だから何も変わらない、ように見える。

聖霊に解決できない問題はない、これを忘れないでいただきたい。何故なら神の御心は「既になされてしまっている」からである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 215

第27章 その4

あらゆる問題は、いつどこでどんなふうに、ではなく「今ここで」既に解決されてしまっている。そして、その解決はまずあなたのマインドにおいてなされるのだ。今までのような状態のマインドでは不可能なことだった。従ってまずは自分のマインドを何とかする必要がある。マインドを変える、のではない。エゴではない部分を使うのだ。神の御心あるいは聖霊と一つであるような部分を使うのだ。聖霊に委ねるとはそういうことである。そして「感謝と平和と豊かさでマインドを満たす」とき、既にそのマインドはエゴではなくなっている。聖なる瞬間とはそういう時である。答えはそこでしか見つからない!

絶対に答えが見つからないところでいくら答えを、あるいは解決方法を見つけようとしても無駄である。当たり前のことだが、私たちがいつもやっているのはこれなのだ。あーでもない、こーでもない云々をするのは分裂したマインド=エゴであり、いくら探したってそんなところには答えなんか初めからない、どこにもない。

この世においては、一つの問いに対していくつもの答えがありうるのは普通のことだ。だが、いくつもの答えがありうるような問いっていったい何を問うたことになるのだろうか?しかも、そこで得られた答えもまた十分ではなく更に新たな問いが生まれることになったりする。これが延々と続く悪無限になり、本当の解決など永遠に得られない。問いそのものが「本当の問い」ではないからだ。この世における問いとは煎じ詰めれば全て「この幻想とあの幻想と、どちらがより真実か?どちらがよりマシか?」というものだ。幻想は幻想であって十羽一絡げなのである。それらは幻想であるというまさにそのことによって私たちを幸せにも平和にもしない。苦痛から解放することもしない。とりあえずその中からどれかを選んだとしても絶対に長続きしない。状況が変わればまた問題が起きるに決まっているからだ。

この幻想とあの幻想とではどちらがマシか?というのは言い換えれば「この罪とあの罪とではどちらがマシか?」と同じなのである。この世的には殺人と窃盗では「窃盗のほうがマシ、軽い」と思われるだろうが、本質を見ればどちらも罪だという点において変わらないのである。私たちはこうして「よりマシな、より好ましい」と思われる罪を次から次に選んでいるので、罪悪感の輪から逃れられないのだ。そして、私たちの問題はどれも結局「罪と罰」の思い込みから来ていることを考え合わせれば、罪を選んでいる間は問題がなくなることもありえない、そういうことになってしまう。

この世における問いはどれも無意味で不毛でバカバカしいのだ。たとえば「神はあるか」「放射能は危険か」「脳死は人の死か」などなど例を挙げたらキリがない。これらはどれも問いに対してさまざまな議論があり、明確な答えが存在しない。どれも「この幻想は正しいか」と問うているのである。幻想が正しいわけはない。だからまともな答えなんか出るわけがないのだ。

「神はあるか」と問う人はその時点で予め何かしら神について自分なりの概念を抱いており、そういうものが本当にあるのかと問うているのである。そうでなければ問いを立てることさえできなかったはずだからだ。脳死にしても放射能にしても同様で、初めからそれぞれが自分の見解や立場に囚われているうえでの議論である。「イエス」と答える人はそれを裏付ける根拠になるような「データ」を持ち出して「だから危険なんだ、人の死なんだ」と言うだろうが、「ノー」の人だって同じことをするだろう。それぞれが自分の判断の正しさを裏付ける(ように見える)データや仮説だけ集めてワアワア言っていたって何にもならないではないか?更には「神はあるか」と問いながら実際には「ある」と既に決めていてそこに答えを持っていくべく論を進めるようなケースも多々ある。ほしい答えが予め決まっている問い、これは問いでも何でもなくただのプロパガンダだと「コース」は言っている。確かにプロパガンダは殆ど問の形を取っている。

そして、ここでもまた主役は「身体」とその身体が生きていくための「環境・世界」なのである。「私たちはこうすべきだ、それが私たちの(身体の)平和と幸福をもたらすのだから!」そう思われることがその都度「答え」になる。それに反対する人々も全く同じ理由で反対しているだけである。即ち「私たちはそんなことをすべきではない。それは私たちの(身体)の平和と幸福をもたらさないのだから!」。

誰もその問いの本質を疑おうとしない。どれもこれも結局ただ「自分が満足したい、安心したい、正しいと思いたい」、そのための答えがほしい。あるいは「私(たち)は何かを失ってしまうのか?得られないのか?」不安だから、安心したいから問うている、それだけなのではないか?本質が見えてしまえば「ああ、バカバカしい」になるに決まっているのだが、誰だって自分がバカバカしいことを真剣にやっているとは思いたくないではないか。放射能も脳も、人間が考えるような神もみな「実在しない」のだと言ってしまってはおしまいなのだろうが、少なくとも「これを問うことは結局何を言っていることになるのか」という視点さえ抜けているのである。

要するに、誰もがこの世界・この身体の「実在」を信じて疑わない。身体の知覚器官で認識したものを「事実だ」と思って疑わない。そのうえで平和だの幸福だのを求め、それらはどうやったら手に入るのか?あれとこれとどっちが良いか?と問うているわけである。その中で答えを得ても先に述べたように本当の解決にはならないのであって、また遠からず同じような問題にぶつかるのは目に見えている。

真面目な問いとは、「本当にわからないこと」について立てるものである。本当に答えを知らないからこそ問うものである。これなら学びの助けになる。真面目に心から答えを求めているときはマインドがオープンになっているので、本当の意味での安心や気づきをもたらす答えが得られる。

日常生活でもよく経験することだが、マインドがグチャグチャになっている人には何を言っても全く通じない。本人は聴いているつもりなのだろうが、実は全く聴いていなくて何度も同じことを尋ねてくる。つまり自分が安心できるまで問うのをやめないのであり、たとえ安心できるような答えを相手が与えてくれてもちゃんと聴いていない、入っていかないのだ。期待と不安で引き裂かれているので、良い答えを聞いても不安になり悪い答えを聞けば更に不安になる。こういう時に言葉は無力だ。とにかく即座に相手を聖霊だと見て、聖なる瞬間を招き入れるしか方法はないと思う。恐怖やら不安やら、わけのわからないグチャグチャ状態から一旦抜けないと、そもそも「自分が何を聞きたいのか、どうなりたいのか」さえ見えてこないのだ。

あなた自身がそういうグチャグチャ状態にあるときにも、まずそこから一旦抜けないと聖霊のメッセージなど全く受け取れない。そこから抜け出してマインドがオープンになっていれば聖霊のメッセージは必ず届けられる。しかも、今ここで即座に、である。メッセージ=答えがどういう形で来るかはわからない。ただ「必ず来る」と信じてマインドを平和と感謝で満たし続けていただきたい。ちょっとやってみて何もなかったからまた逆戻り、なんてことにならないように。

聖霊からの答えはありとあらゆるところに用意されているのだが、それでも私たちは気づかなかったりする。それはあなたの問いに対して「普通に」答えたものではないことが多いからだ。会社を辞めるべきか?離婚すべきか?これからどうしたらよいのか?それらに対して「続けなさい、やめなさい、こうしなさい」と言われればわかりやすいのだが、そういう形を取っているとは限らない。私たちは「どうすべきか」つまり「身体をどちらの方向に行かせるか、どう動けばよいのか」という結論がほしくて焦ってしまう。だからそういう「身体的な指示」がないと「何も起こらなかった」と思ってしまうのである

私たちには「今までとは全く違う視点」が与えられることが多い。つまり、自分が立てた問いは間違っていた、無意味だった、あれはこう尋ねるべきだった、ということがわかったりする。「そんなことを訊く前にまずこうしたほうがいいんじゃないですか?」みたいな感じだと思う。まずその部分を何とかしないと、どう動いたところで何にもならないからだ。

卑近なたとえでいうと、挫折感と焦燥感と欠乏感にまみれたまま「婚活」だの「就活」だのをしてもうまくいかないに決まっているのだが、そういう人に限ってとにかく動き回る。そして「いつ決まりますか!?どんなところですか、どういう人ですか?」としか訊かなかったりする。そんなことを訊く前にいまの挫折感と焦燥感と欠乏感を何とかしないと、何をしたってうまくいかないだろうに・・。

この手の人に「こうすると良いですよ」と言っても「そんなことをしても意味がない!そんなことをするのは時間の無駄だ!」と思われることが多い。それをしないと始まらない、実はそれがもっとも確実な早道であるということが「見えない」のである。

私たちの問いは煎じ詰めれば「私は何かを失うのか、得られないのか」だったりする。

第265回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 212・213

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 212

第27章 その2

この世界や人生をどのようなものにするか、それは身体の捉え方扱い方によって決まる。身体を素敵に見せようとしてあれこれやったり身体のことをあれこれ心配したり気にかけたりするのは、自分=身体と見ていることの証左である。すると必然的に「私は傷つきやすく人生は短くはかなく、何をしたってしなくたっていずれは死ぬべき存在なのだ」という思いこみが現実化されることになる。「この身体」は生まれて死ぬものである。しかし本来の自己は生まれもせず死にもしない。不生不死である。ゆえにこの身体は本来の自己ではない。ここまでは誰でもわかると思う。そして、私たちは「みんなバラバラで別々の存在だ」という間違った思い込みを現実にするための、「私たちはみな違う」ことを見せ合い確認し合うための道具として、本来は「何でもない」ところの身体を使ってきたのである。間違った思い込みを現実化すれば、罪や懲罰としてのあがないや報復としての攻撃も正当化されるのだからそれが病となってあらわれる、のであった。どんな種類、どんな症状でも構わない。とにかく「間違いが形となって表にあらわれた」のには変わりないのだ。

また、「どうせはかなく短い人生なんだ、せいぜい楽しもうよ」という考え方もある。この世で喜びや楽しみとされるものは全て幻想の産物であり、どれもいずれは変化したり消えたりしてしまうものである。はかなく虚しいものであっても、どうせ死んじゃうんだから一時楽しんだっていいじゃない、死んだらおしまいなんだから。この別ヴァージョンが「あれもこれもできないうちに死んじゃうなんてイヤ!」というものである。そういう考え方の人にとって、死は一種の清算を意味する。まだ幸せになってないままで死ぬのは悲しい、楽しいことができないままで死ぬなんて悔しい、たとえあまり良いことじゃなくても人生短いんだから楽しまなくちゃ損だ、死んだらお仕舞なんだから。だって悪いことしたって死ねば済むんでしょ。

こういう考え方が別に罰当たりなのではない。ただ、罪や死を「現実のもの」と捉えている点において、また楽しむのも苦しむのも死ぬのもその主体が身体であると思っている点において間違っているのである。更に、無垢なものも罪あるものも「全く同じように生きて死ぬ」と思っている点においても間違っている。なぜなら無垢なものは身体ではないから、即ち傷つくことも死ぬこともないからである。

こういう間違った思い込みを持ったままでいると身体はそれを現実化する道具になる。つまり、本人にはそのつもりがなくても身体は「罪や罰や攻撃」のための道具になってしまうのだ。私たちの目的が「バラバラの個であること」である限り、身体はその目的に沿った手段と化す。その代り、私たちが聖霊の目的に従うならば身体はそれに沿ったものになるはずだ。

聖霊は身体を何か別のものに変えるわけではない。身体のありようはマインドの指令に従うものであり、それがない限り身体は意味もなく生きても死んでもいない、何でもない、良くも悪くもない、愛でも恐怖でもないようなものなのだ。聖霊はまず私たちにふさわしくないあらゆる意味づけを身体から取り除いて、身体をゼロ状態に戻し、その空っぽになったところに改めて聖霊の目的に沿った意味づけを与えるのである。乱暴に言えば毒薬の入ったグラスの中身を一回空っぽにして洗ってから栄養があって美味しい果実酒を入れる、みたいな感じだろうか。こうして身体は「神のひとり子」であることを映し出し且つ周囲に示し、それによって自他ともに癒され解放されるような道具となる。何だか矛盾するようだが「永遠の生」を象徴するものにまでなるらしい。別にその人が「不老不死」になるわけじゃないだろうが、とにかくあなたがそこにいるのを見た人がそれだけで癒され救われ解放されるようになるのだと思っていてほしい。

前にも書かれていたことだが、癒し癒されるのはマインドしかないとしても私たちは通常「身体」として動いているわけだし、初めから自分がマインドだとわかっているような人ならそもそも癒される必要なんかないはずだ。マインドがマインドを癒すにしてもとりあえず「身体」=個人として出会っていないと始まらない、というこの世の事情がある。聖霊の目的に従うならば身体は癒されるばかりか、癒しのための道具になるのだ。罪はない、従って攻撃もない、傷つくこともない。あなたの身体はそういう認識を現実化させるためのあかしになり「見て下さい、あなたのおかげで私は生きているのです」と兄弟姉妹に伝えるものになる。

私の身体を聖なる目的のためにお使いください、と聖霊に委ねるだけでも十分なのだが、その際のコツとして「私は今までこの身体を間違った目的に使ってきてしまいました。しかし、これをどう使えばよいのか私にはさっぱりわかりません。だからあなたに全てを委ねます」というふうにするのが良いらしい。聖霊の目的に従おう!と思ったのはいいが、そのあと「自分流に」ああしよう、こうしようとするのはやっぱり間違いの域を抜けない危険が高いからだ。じゃあ具体的にどうしたらいいの?聖霊に委ねても何のメッセージも来なかったらどうしたらいいの?と思うかもしれないが、とにかくマインドを感謝と平和で満たし「人を見たら聖霊と思え」を実践すれば聖霊はあなたが気づかないうちに働いてくれるはずなのだ。 

繰り返しになるが(「コース」は大変しつこいのである!)病んだ身体は「告発者」である。私は何も悪いことなんかしてないのにこうなった、アンタはどうして何でもないんだ、不公平だ。私は自分の罪深さをこうやってあがなっているんだ、アンタだって同じはずなのにどうしてアンタは何でもないんだ?とか。病人どうしになると「相憐れん」だり互いを比較したり、いずれにしろ「病んで死ぬ苦痛と不幸」という現実は強化されてしまう。ああ、あなたみたいな人がご病気で私なんかが丈夫でいるなんて申し訳ないわ、「許してね」なんて考えたり言ったりするのがトンチンカンなのは明白だが、まあ何てかわいそう、と思って施しをしたって無意味どころか逆効果であることも先に述べた。

更にすごいことが書いてある。病人は無慈悲なうえに不信感の塊なんだそうだ。まあ確かに「本当に治るんだろうか。どうなっちゃうんだろうか」などと不安が絶えないのは「こうしていれば大丈夫」だと信じられない、常に不信感があるからに違いない。しかし、「コース」はそれも「あらゆる神の子に向けられた不信感」であると言っている。ということはつまり神さえも信じられない状態だというわけだ!

誰か(何か・・環境でも食べ物でも)のせいでこうなった、攻撃されたんだ、気を付けないとまたやられる!そう思って食事から何から神経質に管理している人は少なくないはずだ。ちょっと待って、その野菜って無農薬?放射能が入ってるんじゃないの?だったら困るから食べないわ。身の回りには体に害になるものがたくさんあるのに全然公表されてない!私たちは騙されてるのよ!などなど、これが不信感でなくて何だろう?平和と信頼はどうなったのだろう?それらはやっぱり「自分以外の何か」から与えられるようなものなのか?それとも自分のマインドの中にしかないものなのか?身体に悪いものという何かが存在する、これは「私は傷つきやすく攻撃にさらされやすい」という思い込みと同じだ。

そして、例によって「例外はない」のである。一見全く違うような事象が実は全く同じことを表しているのである。環境についての正しい情報を開示しない政府を批判攻撃しておいて、目の前のあの人この人を聖霊と見るなんてことは絶対に不可能なのだ!

ゆるしと癒しとはワンセットである。人であれ食べ物であれ環境であれ「悪いもの、私たちを傷つけるものがある」と信じている状態で、つまり敵を温存したままの状態でいかなるゆるしができようか?でも、そういうあれこれに対する恐れと怒りと批判攻撃を手放すのは実際にはかなり難しく感じるのではないだろうか?ゆるしについても改めておさらいが出てきている。ゆるしは憐みではない。「あなたはひどいことをしました、でも私はあなたと違って慈悲深く優れているのでゆるしてあげます」ではダメなのだ。ここでゆるしている主体はあなたのエゴである。エゴにゆるしなど絶対に不可能だ!なぜならゆるしゆるされたらエゴは存続できないからである。ゆるしの主体は「このワタシ」ではない。聖霊と一つであり、つまり神の御心と一つであるところのマインドだ。極端な話に聞こえるかもしれないが、いわゆる「有害物質」と言われるものでさえゆるして癒して解放すれば私たちに害を及ぼすことはない、そういう道理になる(これはハワイの「ホ・オポノポノ」で同じようなことを言っている)。ああ、例外はないのである。

病んだ身体で居続けるのは言い換えれば「自他を含めた神の子全てを断罪し続け、ゆるさないでいる」というアピールである、そういうことになってしまう。ひえ〜。でもやっぱりそうなのだ。真にゆるしゆるされた者が病んだり苦しんだりするのは不可能だからである。誰を、何を見ても「ひどい、頭にくる、かわいそう、怖い」などなど「罪と懲罰と攻撃」の兆候が一切目に入らなければあなたはゆるしゆるされたのだ。たとえ一瞬そう見え感じてしまってもすぐに聖霊に委ねてゆるせばよい。この状態において癒しがもたらされる。罪と懲罰と報復の痕跡はきれいさっぱり消えてしまう。そんなもの実は「最初からなかった」ことが示される。癒しとはそういうものだ。相手を気の毒がり同情しながら癒すなんてことは金輪際ありえない、不可能なのである。

逆に言えば、ゆるしたつもりでも癒しがもたらされないならそのゆるしは偽物だった、ということになる。あなたはゆるしていなかったのだ。さあ、ゆるしましたよ、と思っても相変わらず苦しいままだったらそんなもの誰が信じるか?ほーら、やっぱりウソじゃないの、という思い込みが強化されて終わるだけではないか?より正確に言うならば、ゆるしや癒しは「常にもたらされている」にもかかわらず、あなたはそれを現実化できなかった。それを現実のものとして受け入れる代わりに何か別のもの・・間違いや幻想をより強い現実として受け入れてしまったのだ。

癒しとは、罪だと思い込んでいたあらゆる考えとその結果である現象・症状が跡形もなく消えることである。なーんだ、ウソだったのかとわかることである。またもや「コース」はすごいことを言っている。あなたのゆるしを本物にするために、さあ怖がらずに癒されましょう。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 213

第27章 その3

最初に、今更なのだが「ゆるし」について確認しておきたい。ゆるしとはもちろん過去を手放すことであり解放である。通常の意味において許すとは「やっちゃった悪いことについて」なされるものだが、「コース」では「悪いことをしちゃったと思っているのは単なる勘違い、本当はやってない」のだから、ゆるしは「やってもいないことをやったと思って怒ったり苦しんだりするのを止める」という意味になる。だから「コース」では時々「彼が“しなかった”ことについてゆるす」という言い方をしている。しなかったんだから赦すも何もないだろうと思うかもしれないが、そういう言い方になっている。

さて、病み衰え傷ついた身体は、そのマインドが癒されていないことの証左である。そもそも身体はマインドが投影されたものなのだからマインドに何の問題もなければその「問題のない」状態が身体にも反映するはずなのだった。マインドに問題がない、とはつまりマインドが間違った思い込みを信じていないということである。本当だと信じたことはマインドの外(なんかないのだが、本当は)に投影されて現実のごとくに映る。私たちの世界では、身体どうしが知覚認識しあっている。お互い、目に見えたり聞こえたり触れたりするわけだ。あなたが「本当だ、現実だ」と思いこみ信じていることが、あなた及びあらゆる人の身体と身体を通した行為によって示されるのである。元気な人を見て「いい気なもんだよ、フン、こっちは病気なのにさ」と思う人も、病気の人を見て「いい気味だわ」と思う人もまあいるだろうが、あなたが神の愛と光で満たされていればそれはあなたの身体に反映すする。これには相当歪んだ人でさえ何らかの影響を受けずにはいられないはずなのだ。すごく落ち込んでいたんだけどあの人に会ったら気分が良くなったとか、具合が悪かったのにこの人に会ったら何となく治っちゃった、なんてことは誰にでも覚えがあるのではなかろうか?

前回までにも繰り返されてきたことだが、病み傷ついた身体は誰であれ目の前の人を告発している。そういうつもりはなくても「あんたのせいだ」と言っているのと変わらないのだった(いわゆる霊障の場合は「あの人の霊のせいだ」とハッキリ思っているようである)。ところが愛と光に満ちた身体はあらゆる人に「あなたは何も悪くありません。あなたは神の子なんですよ」と告げるものなのだ。だから、身体の具合が多少悪くても気にせずマインドを感謝と平和でいっぱいにして出会う人すべてを聖霊だと思って見てみよう。会社のイヤな上司であれ、立ち寄ったコンビニの店員であれ、同じようにやってみよう。これがあなたにも相手にも奇跡的な癒しをもたらすことになるのである。

奇跡とはこの上なく公平なものなので、立ち会う人すべてに全く同じようにもたらされる。誰かが誰かに「やってあげる」などという一方的なものではない。あなたが癒されれば相手もまたゆるされ癒される。誰かを解放すればあなたもまた解放される。あなたが誰かを本当に完全なものとして、つまり聖霊として見ればその結果あなたは癒され彼(女)も癒される。どうやっても打つ手なし、不可能だと思われている事柄でさえ解決されてしまう。死でさえも「ない」ことにできる。だからこそ「奇跡」だと呼ばれるわけである。(余談だが、死はないと言っているところにはまだ死がある。神と一つである本来の状態においては死という概念さえない、ゆえに死という言葉もない。)幻想あるいは妄想と真実と、本当に力があるのはどちらだろうか?私たちが力を与えさえしなければ幻想や妄想にはなんの力もない、というより前に消えてしまう。一方で真実は私たちがどうしようがしまいが関係なく、それが真実であるというそのことによって強力なのである。しかも本来そちらのほうがずっと自然なのだ。自然は人工物によって損なわれ滅びるように見えても結局は自然の力のほうが強い、というのはこの世においてさえ明らかではないか。だから、難攻不落に見えるようなものに対しても自信を持ってやってみよう。目の前のあるいは心の中の誰かに罪悪感を抱かせるようなことをしてはならない。考えてもならない。ともに癒されようと決めてあとは聖霊に委ねるのだ。そのあとは何とかしたい、癒したい、治したいという気持ちさえ捨てることがポイントである。そう思うのはエゴだからだ。聖霊の目には全てが既に癒されゆるされているように見えるものだからである。

この世の原理からすると、誰かが救われるためには他の誰かが犠牲にならなくてはならない。正義は悪に勝つのだ!とはそういうことである。悪だとされてしまった側が犠牲になるわけだ。あなたが病気になってくれないと私が健康になれない、なんて考える人はいないだろうが、敵が負ければこちらは勝てる、救われる!と思う人は多い。実はどっちも同じことなんですよ。

苦しんで罪をあがなう、苦しんで浄化するという考え方はスピリチュアル系にも結構ある。しかし「コース」的観点から言えばこの考え方は決定的に間違っている。罪や苦しみが現実のものとされているのはもちろんなのだが、この考え方には「あなたは苦しんで浄化されるけど、他の人たちはどうなるんですか」がスッポリ抜け落ちているからである。全てが一つ、ではなくなってしまっているからである。

病気その他で苦しんでいる人は、自分のその苦しみを「病気のせいだ、貧乏のせいだ」などと自分(のマインド)以外の何かに転化できてしまっている。自分以外の何か、これには(あなたにそのつもりがなくても)あらゆる人が含まれてしまうことも前に述べた。いいずれにしろ、自分の苦しみを自分以外の何かのせいにできるのならあなた自身には何の責任もないことになる。単なる不幸な犠牲者だということになる。少なくとも自分は悪者ではないと思うことができる。そんなことをしたって苦痛が消えるわけではないのに!

あるいは、実は(ではないのだが、本当は)誰かに対する憎しみが原因で病気になったのに「不摂生だったから、体質だから」と思えればあなたは「誰かを憎むような悪い人」にならなくて済む。この場合はどちらかというと「病気は自分のせい」だと思っているわけだが、やはり苦痛の原因が病気だと思っていることには変わりがない。そして、自分自身を誤魔化していることにも変わりはない。

犠牲者であるからには自分に犠牲を課したものがいるわけだ。それが何であれ、全ては一つなのだからあなたの攻撃の対象はあらゆるものに、神にさえも及ぶ。そして、誰だって犠牲者なんかになりたくないはずである一方、犠牲を払えば救われるという思い込みを強く持っている。そういうこと全てひっくるめて、あなたは自分のマインドの中に隠れている罪深さを見るのが怖いのだ。苦痛の本当の原因になっている(と思い込んでいる)あれこれを見るのが怖いのだ、だからそれを誤魔化す手段としての病を手放せず、癒しを恐れるのである。

ところで、「自分が何であるか」は自分の役割によって決定される。そして私たちのこの世での役割はとりあえず「ゆるすこと」である。そうすれば後は聖霊がやってくれる、即ち私たちの間違いを正し浄化してくれるのだった。この「正して浄化する」のは聖霊の役割であって私たちの役割ではない。というか今の私たちにはそんなことできるわけがない。そこまで「自分が」やろうとすれば必ず失敗する。だから何でも聖霊に委ねろと言われているのである。

分裂したマインド(即ちエゴ)のままで「相手の間違いを正してやろう」とすればこれはもう文字通り「ちょっとあなた、それ間違ってるわよ、直しなさいよ」みたいになってしまう。アンタはおかしい、バカだ、とか要するに「より優れている私が劣っているあなたを正してやる」みたいになる。「ゆるし」において「あなたは悪いことをしたけどゆるしてあげるわ」になったらマズイのと同じことである。これではまるであなたが相手を裁く神のごとくになってしまうではないか。私とあなたは同じでひとつ、ではなくなってしまう、つまり分離がより強化されて癒しどころではなくなってしまうではないか。

思い出していただきたい。相手の中に間違いが見えるならそれは自分の中に同じ間違いがあるからだ。だからこそ外界に投影されて知覚認識できるのだ。まずそのことに気付かなくてはならない。相手の間違いを正す前にまず自分において正さなくてはならないのである。

相手の中にだけ間違いが見える、それが見えた私は優れていて正しいのだ。だから指摘して正してあげましょう。そう思ってしまったらそれはエゴに他ならない。あなたと私は別々のもの、と思うこと自体が既に間違いである。更にエゴにはゆるしが不可能であるうえ、エゴのあるところで聖霊は働けない。

相手の中に間違いが見えてしまった。ならばそれは私の中にもあるのだから、まずゆるそう、そして聖霊に委ねて正そう。つまり例によって「批判を捨てて感謝でマインドを満たす」のである。あとは聖霊がその都度適切な行動に導いてくれる。その結果であればたとえ「いい加減にしろバカヤロー」といって相手をひっぱたくことになっても構わないわけだ。それがもっとも適切で愛に満ちた表現である場合だってありうるからだ。いずれにしろ、あなたは相手と共に正され癒されるのである。というよりまず正されるべきは相手ではなくて自分のマインドなのだ。ここにおいて、あなたはゆるしと正しとは同じものであることがわかる。つまり、あなたの役割と聖霊の役割とは結局同じものであるとわかるのである。あなたと聖霊とはひとつのものとして一緒に働くのである。もともと「神においてひとつ」なのであるから当然と言えば当然なのであるが!

よくあるケースなのだが、たとえば「この自分」がいくら必死で口を極めて言葉を尽くして相手を説得しようとしても全然聞く耳を持たれないことが多いのである。それは「このワタシ」が「ワタシとは別の人間であるアナタ」に対してやっているから、即ちエゴがやっているからだ。感謝もゆるしもせず聖霊にも委ねずに、何と無謀にも聖霊にしかできないことをやろうとしているからだ。うまくいかなくて当たり前ではないか!その逆に、特別何かをしようとしたわけでもないのに何だか相手がわかってくれちゃった、納得してくれちゃったということもあるだろう。あなたのエゴが一瞬消えていたその間隙に聖霊が働いてくれたのである。

聖霊とあなたとは一つであり、同じ目的に向かって一緒に働くのである。聖霊が「あらゆるものは神においてひとつです」を志向しているのにあなたが「分離=アンタは私と違ってわかってないようだから正してやる」になってしまってはどうしようもないのである。だからあなたはとにかく批判や非難や「わかってちょうだい、どうしてわかってくれないの?」という気持ちを捨てて=ゆるして、ただマインドを感謝と平和で満たしていればよい。

第264回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 210・211

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 210

第26章 その8

「良い」ものは、それが本当に「良い」ものならばいつでもどこでも「良い」ものであるはずである。また、与えたものを受け取るという原理も本質的には「与えるのと受け取るのは同じことなので同時に起こる」のであるから、その観点からみれば「いま良いことをしたのならいま良い結果がもたらされる」はずなのだ。

にもかかわらず、「いま良いことをしてもすぐにはそれが返ってこなくて当たり前、それどころか初めは状況が却って悪くなるように見えることもある」と思っている。これはまず第一に私たちの判断能力の問題だ。目の前の事象が良いことなのか悪いことなのかさえ判別できない。そして、例によってなのだが正しく知覚認識することができないという理由もある。少なくとも聖霊の目には「悪いこと」など一つも映らない。あなたの目が曇り、欺かれているだけなのである。

そもそも、良い・悪いということじたいが判断ではないか。そして、正しい目的を定めてそこから脇道にそれないようにしていればあらゆるものがその目的に沿って知覚認識されるのではないか。だったら何があっても平和と幸せと感謝をもたらすものとして知覚認識されるしかないではないか。いずれ良いようになるのだったら、別に「いずれ」なんて言わずに今の時点で「これは良いものだ、うれしいな」と思ってしまってもいいではないか。どうして将来まで待たなきゃならないんですか?

「こんなひどいことが起きてしまって、今はその意味が理解できないけれどいつかわかるでしょう」、この考え方もこの世では普通のことである(東日本大震災の後、「どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか」と子供に訊かれたローマ法王は実際そのように答えていた、まあそう言うしかなかっただろう。私だってリーディングの現場では同じことを言う)。

しかし!ここが「コース」はすごい、素晴らしい。初めに目的を定めてしまえばあらゆることが「愛と平和と解放をもたらす」という意味を予め与えられるわけである。意味が理解できないなんてことはありえない、だって初めから決まっているんだから!

「この出来事、この経験の中であれは確かに愛と平和を感じさせてくれたけど 、これはどこが愛と平和なんだかわかりません」という人は本質がわかってない。Whatもwhyもhowもない、そんな理由付けを求めるのは全部エゴだ。これは、うんと平たく言えば「どんなことがあっても愛と平和と感謝の気持ちを手放さないようにしよう」と決心することなのである。そして、そうすればそうなる!

「今はまだそうなってないけど、今はまだわからないけど、いつか明らかになる」というのは「最後の審判」と同じ構造だ。いまはひどい目にあっているけど私は良いことをしてるんだからいつか天国に行けるはずよ!そうですか。でも、天国も地獄も今ここにしかないのです。そしてあなたはいま地獄にいる。「いま」天国にいることもできるのにそれを犠牲にする、その犠牲を払うことによってさらに良い天国に行かれるとでも思っているのか?聖霊はいかなる犠牲も求めていないのだ。

「いまを犠牲にすれば将来良いことがある」あるいは「いま悪いことをしたり考えたりすれば将来悪いことが起きる」、これが幻想であることは間違いなく、しかもその幻想は私たちのマインドに結構しっかり貼りついている。タイムラグがあるという幻想は「いま間違えてもすぐに正せば悪いふうにはならない」つまり取り返しや変更が可能であるという形で有効利用できる。しかし、前回も書いたように「本当に良いこと」は分離感が強ければ強いほど現実化されるまでに時間がかかるのだ。あるいは分離感が強いほど「いまは良いことに見えない」というふうになるのだ。この分離感は罪悪感と言い換えても良い。そして、この分離感をなくす(減らす)ためには「人を見たら聖霊と思え」「まず愛と平和と解放という目的を定めよ」なのだった。

私たちには既に全てが与えられている。が、それは「この世的な全て」ではない、幻想ではない、神と一つであるような全てが与えられているのだ。あなたにいまお金がなくてもあなたには限りない豊かさが与えられているのだから、いまここで「豊かさ」を感じたってよいのだ。というより今ここで豊かにならないとおかしいのだ。そんなことしたってお金はないままなんでしょ、と言われるかもしれないが、まずマインドが豊かになればそれが投影されることもあるのだからとにかくやってみてほしい。ゆるしや癒しや解放がなかなか来ないのは何か意味があるんだわ!なんて思わないでいただきたい。残念ながらそんなことには何の意味もないのだ。あなたのやりかたが不十分だから受け取れない、それだけのことなのである。もちろん、あるとき突然いっぺんに目覚めちゃうのは危険でもあると「コース」は言っているのだが、そういうことは滅多に起こらないので安心してほしい。

さて「コース」第26章10節、ここは「救いと神の国の素晴らしさを、象徴表現を駆使して歌い上げている」ような部分である。私たちはついに目覚めて神を思い出し、かくして神とそのひとり子は天国に再び住まう!みたいな感じである。詩か絵か音楽のようなものだと思って読んだほうがよいと思う。文字通り読んだのでは「臨死体験した人が語るあちらの世界」と変わらない。

ミもフタもないが簡単にまとめると、あらゆる人を聖霊だと見て常に愛と平和と解放だけを感じるようにしていれば私たちは「本来の自己」を思い出す。(これは「神の記憶」とか「キリストの顔」などという表現になっている)そうすれば過去からのあらゆる憎しみはゆるされ浄化されて何もかもが愛に満たされ完璧な姿になり、神の国が戻ってくる。本来の自己があらわれれば実在しないものは無に帰る。あらゆるものが、神とその被造物であるひとり子が喜びに満たされる。この地上でもっとも聖なる場所とは、いにしえからの憎しみが浄化されていま愛に満ちているところである。しかし、神の国はそれよりも更に聖なるものであり、どこもかしこも同じように聖性に満たされている(当たり前だ)。ゆるされた私たちは世を照らしあらゆるものをゆるして歩く。こうして私たちはすっかり元の姿に戻るのだ。そこにおいて聖霊の目的は達成される。

ところで、「コース」(に限らないが)は、「あらゆるものが一つであること」をとんでもないくらい繰り返し語っているし、私もまたしつこく繰り返しているのだが、この「ひとつである」ということは実はもう本当に言語道断なすごいことなのだ。特に「あらゆるものが一つ」とか「全てでありひとつである」なんて、この世においては想像することさえできない事態である。絶対に言葉では表せない。何故ならこれは言語が生まれる以前の状態だからだ。余計なことだが、一応何となく覚えておいていただきたい。

「コース」に戻ります。「例外はない」ことの復習です。これだけは特別よ、こんな目にあったら苦しんだり怒ったりするのは「当然」だわ!とそう思いたいのは人情だが、真理に心情は一切通用しない。この世でなら正当防衛は認められるが「コース」はそんなもの初めから却下である。情状酌量なんて一切認められない。「こんな目に遭ったら攻撃したって落ち込んだって当たり前」、そう思ってしまったら私たちは怒りや攻撃を正当化することになる。つまり間違い・幻想を現実化することになる。「あれとこれでは事情が違う」なんてことはありえないのだ。どんなに違うように思えても怒りは怒り、恐怖は恐怖であり幻想は幻想である。正しい攻撃、正当な怒り、なんてものはない。どれも、何も違わないのだ。これを認めるのは結構大変なのかもしれないが、しかしここはどうしても曲げられないところだ。例外をひとつでも認めてしまったらもうアウトなのである。神の御心が一つではないことになるからだ。それはありえない!ちょっとだけだろうが何だろうが「幻想を現実と信じる」部分が残っている限り、聖霊も本来の自己もあらわれてはくれない、というかあなたのほうで見えなくしてしまうのである。

「こんなことって不公平だ、不当だ」、誰でもそう感じることはあると思う。しかし「コース」に言わせればそれだけで私たちはもう地獄にいることになるそうだ。ま〜それはそうだ、天国=神の国は公平で公正に決まってるんだから、自分が不公平で不当な目に遭ってると思うのは自ら地獄宣言しているようなものである。だから、自分が不公平で不当な目に遭っていると思ってはならないのだ。そう思いたくなったら「これはエゴの誘惑だ」として退けなさいと「コース」は言っている。でないと私たちは聖霊の目的を見失い、そこから道を踏み外してしまう。一方で自分が不公平で不当な目に遭っていると思いながら誰かを聖霊だと見ることは絶対にできないのだ。

前にも出てきたが、この世の正義とは「正義でないもの」との対比によってのみ成立する概念である。そこがもう過ちなのである!たとえば、あなたが実際に誰かから「不当な暴力」を受けているとしよう。「私は不当な目に遭っている」とあなたは感じる。このとき、「あなたが正義で相手が不正であり、相手があなたを不当な目に遭わせている」のではない、のだ!!「私は不当な目に遭っている」とあなたが判断し感じ認識しているまさにそのことが不当で不公平なのである!あなたは神から「正当に」与えられたものを受け取っていないからである。限りない愛と平和に満たされている神のひとり子である事実を不当にも認めず拒否しているからである!おまけに、やっぱり同じ神のひとり子である誰かを「ひどい人だ」と断罪することで、他ならぬ自分自身を断罪しているのである。なぜなら全ては一つであり、他者に対して思うことは全て自分に跳ね返ってくるからだ。つまり、与えれば受け取るという例の原理である。「神のひとり子」という本来のアイデンティティを誰かから奪えば自分もまたそれを失うことになる。

あなたを不当で不公平な目に遭わせるものがあるとしたら、それはあなた自身を措いてない。どんなことが起こってい(るように見え)ようとも、「ひどい、不当だ、不公平だ」と思えばあなたは自分自身を不当で不公平な目に遭わせたのだ。何があっても愛と平和でいようと思えばいることもできるのに、本当は常にそれしかありえないのに、あなたはそうしなかった。自分に与えられたものを「不当に」無視し、相手にも「公平に」与えられているものを勝手に剥奪し、エゴの罠に落ちた。「いや、いくら何でもこんな目に遭ったら話は別よ」は通じない。例外はないのである。例外を作るのもあなた自身を措いてない。真理は例外なんか知らない。どうしても愛と平和になれないことだってあるだろう。が、それでも自分を正当化しないでほしい。今これができない自分は間違っているのだと、それだけは認めてほしい。

他人であれ組織であれ他者に対して「私の正しさを認めてほしい、わかってほしい」と思うのは紛れもない攻撃である。認めたくない人も多いだろうがこれは「報復や仕返しによって自分の正しさ・無垢さを得よう」としているだけなのだ。

学びはゲームではない。真理はゲームではない。勝ち負けではないのだ。と言っても「いえ、私は別に勝ちたいんじゃないんです、ただわかってほしいだけなんです」とおっしゃる方もいる。自分を誤魔化すのは止めましょう。それ、同じことなんですよ。

私の気持ちをわかってちょうだい!が「マインドをオープンにしてシェア」のことだと誤解している人は少なくないと思う。もしあなたが誰かとの関係で惨めさを味わっていたとしても、その誰かがあなたを惨めにしたのではない。あなたは自分で勝手に惨めになった。勝手に自分をみじめな者にしておいてその責任を相手に投影しているだけである。自分で家に火をつけておいて「あの人が放火しました」と言っているのと同じではないか!

どんな小さなことでもこれをやってしまったらその影響力は測り知れない。他者も世界もあなたにとって脅威になってしまうのだ。その代り、聖霊に委ねればこの世に在ってもあなたは公平さと愛だけを経験するようになるだろう。誘惑に負けそうになったらこう言いなさい。

「これをやってしまったら私は父なる神とそのひとり子の存在を否定することになるのだ。不正や不当を見るよりは父なる神とそのひとり子を知るほうがよいではないか。不正や不当は神なる光によって駆逐されるであろう。」


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 211

第27章 その1

自分が正しく潔白であることを示すために私たちは他者を、あるいは自分自身すらも攻撃する。つまり、何らかの理由で自分が苦しんでいるとき私たちはその責任を他者あるいは「自分の中の何か」に押し付けてしまうのである。これはまあ投影なのだがその押し付け方にもいろいろあって、今回扱うのは「ほらほら見て、私はこんなにひどい目に遭ってるの、かわいそうなの」とアピールして相手(って誰でもいいのだが)の罪悪感を喚起するというやり方である。たとえあなたにその「つもり」なんかなくても無自覚にやっていることなのだ。何と衝撃的なことに、これこそが病を引き起こすメカニズムでもあるのだ!

病その他の障害や苦しみにあっている人を見て「ああ、気の毒に」と何だか申し訳ないような気持ちになった経験がある方も少なくないのではないか?これは紛れもなく罪悪感である。別にあなたのせいで相手が苦しんでいるわけではないのに、苦しむ姿を相手にさらすのはそういう作用があるわけだ。もちろん、だからといって「病人や障碍者は家から出るな」なんて言っているわけではない。その全く正反対で「あなたたちは癒され健康で幸せな姿になることができるのだし、またそうでなくてはならないのだ」と言ってくれているのである。

逆に言えば、どんなに病み衰えて苦しんでいる(ような)人に出会っても私たちは相手をそのように見てはならないということなのだ。それは相手の、そして自分の「間違い、歪んだ知覚認識」のせいなのだから、それをすばやく正して相手を完全に平和で健康な姿と見るようにする。これがうまく受け取られた場合に「奇跡的癒し」がもたらされるのである。

まず「自分が相手に罪悪感を押し付ける」パターンについてみてみよう。相手に罪悪感を押し付ける理由はただ一つ、そうすれば自分は悪者にならずに済むからだ。正しく潔癖な存在でいられると思うからだ。しかし、そんなことで実際の苦しみが消えるわけではない。だったらそんなことのために苦痛という犠牲を払うなんてあまりに割に合わないではないか?だから私たちは狂っているのだと「コース」に言われてしまうのである。

どのような種類の苦しみであろうと、自分が「苦しむ」ことに同意しなければ、つまり苦しもうと望まなければ苦しむことはできない。まずこれを認めていただきたい。苦しみたいわけなんかないじゃない!と思うならその苦痛は「自分以外の何か」からもたらされているわけであって、あなたにはどうにもならないことになる。しかし、自分以外の何かなど「ない」。いくらあるように思えてもそれらは全てあなたが作り出した幻である。

というわけで、何かに悩み苦しんでいるとき、何かを奪われ不当に扱われているとき、何かが不足しているときはあなたがそれらを「望み同意した」のであるから、「あの人のせいで。社会のせいで、会社のせいで、政治のせいで、戦争のせいでこうなった」などと他者を責めたり非難したりしてはならないのである。神の子に「攻撃という罪」を着せてはならないのである。

誰かが苦しんでいる姿を見せつけられるといたたまれない気持ち、何だか申し訳ないような気持ちになることが多いと先に書いたのだが、多くの場合、見せつけている当人にもまた同じ画像が見えていたりするわけだ。頭に包帯をグルグル巻きにした人、あるいは災害で財産も家族も亡くしたひとが目の前に来れば私たちは「ああ、不幸なことだ、地獄だ」と思ったり、上に書いたように何となく申し訳ないような気持ち=罪悪感に囚われる。そして「こういうことは現実なのだ、世界や人生はこういうものなのだ」との思い込みが強化される。

だが、気の毒であるはずの相手が何だかすごく元気で幸せそうにしていれば、それに釣り込まれて相手の「不幸な姿」はもう目に映らなくなる。あるいは、そういう相手を目の前にしても不幸な姿ではなく完全な神のひとり子の姿だけを見てやれば、その知覚認識は相手にも作用する。

まあ、実践においてはいろいろなケースがあって、自分がこんなに気の毒な境遇なのだと何が何でもアピールしたがる人もいれば、不幸であるはずなのに幸せそうにしているのを見て「おかしい、不謹慎だ、バカだ」と思う人もいる。が、ここではそのようなレベルの差を一切無視して「自分がどうすべきか」だけに絞って論が進められている。

私たちの信念=思い込みは、それが外界に投影され、投影されたその像を知覚認識することによって強化され確信に変わるようになっている。「コース」にならって言えば。この知覚認識された像が信念や思い込みの正当性を示す証拠・証人の役割を果たしているわけだ。身体は実在しない?そんなわけはない、だって触われるじゃないか、見えるじゃないか。病気は幻想だ?そんなわけはない、げんに私の家族は癌で亡くなった。あらゆるものが一つ?そんなわけはない、だって戦争が起きているじゃないか。こんな例を挙げていたらキリがない。こうして私たちの思い込みはどんどん確固たる現実になっていく。

あなたが病気や身体の障害や貧困で苦しんでいるのは、実際には(いや、本当は思い込みなのだが)夫や妻のせいかもしれないし、過去に両親から受けた傷のせいかもしれない、戦争や災害のせいかもしれない、過去生でかかわった誰かや何かのせいかもしれない。しかし、あなたが苦しむ姿を見せつけられ、罪悪感を抱かせられるのはその原因になったとされる人々だけではない。あなた以外の全ての他者である!これってそれこそかなり不公平で不当なことじゃないですか?無関係な人たちにまで罪を着せようとするなんて!だから「コース」は、「病人は無慈悲だ」とまで言っている。私たちにとって病と死は一続きである。病人は「見なさい、私はあなたのせいで死ぬんだ」というメッセージを送っているのだそうだ!ひえ〜。

本人にはそこまでのつもりはなくても、もし自分が病気だとか苦しんでいるという自覚・認識があるのなら、つまり他人であれ天災であれ病原菌であれ自分以外の何かによって「攻撃されて不当な目に遭って苦しんでいる」と思っているのなら、それはどうしたって「私は悪くない、罪はワタシ以外のところにある」ということになる。するとその「思い込み」=考えは神の子全体に及び、あらゆるところに向けられてしまうのだ。苦しむ姿を見せつけることによってあらゆるものが攻撃の対象になり、またあらゆるものが「あなたをこんな目に遭わせた加害者」の役割を負わせられる。

しかし、あらゆるものは一つであり、自分以外のものなんか「ない」んだから、いくら「ワタシは悪くない、悪いのは○○だ」と思いたくてもあなたが自分以外の何かに押し付けたつもりの罪は自分にも及んでしまう。解放されたいから押し付けたのに却って悪化するなんて、さすがエゴのやることは全て私たちを不幸にするわけだ。

かくして、苦しむ姿を見せつけ周囲にその苦痛を認めさせることによって、あなたの苦痛は「ほんものである」という承認・証人を得てますます確固たる現実になるわけである。

これとはまったく逆のことが為されれば癒しがもたらされる。つまり、いまのあなたがどういう状況にあろうとも「苦痛に満ちた姿」を見せつけないでいることもできるのだ。聖霊は全く違うあなたの姿を与えてくれる。それはやはりとりあえず「身体」であることには変わらない。本当の自己は身体ではなく目で見ることさえできないのだが、身体はそれを「映し出す」ことならできる。とにかくここでは身体を救いのための道具として使うよりないのである。

つまり、聖霊によって身体は「私たちは傷つくことも苦しむことも不可能なのだ」という真理をあらわすものになる。もはや身体は罪悪感を喚起させる攻撃や告発のための道具ではない。逆に、罪のないこと無垢であることを思い出させるための道具になったのだ。たとえいまのあなたの身体にどこか不具合がある(ように見える)としても、である。あなたの傷が全て癒され罪なき無垢な姿になっているのを見た人は、自分もまたゆるされ癒されたと感じて愛と感謝と喜びに満たされる。あなたも私も何の罪も犯していないんですよ、だから過去の出来事は何の影響力もないんですよ、と合意しあうことになる。すると本当に病や傷が癒され治ってしまうような奇跡がもたらされたりするのである。だから、たとえどんな状況にあるように見えても誰かを「何てかわいそうに、気の毒な人だ」なんて思ってはならないのだ。それでは「罪→懲罰」「罪→報復」という攻撃が正当化され現実化され、要するに誰にも癒しが起こらなくなるからだ。

大変な状況にある人々を「完璧」と見てしまったら助けやサポートの必要もなくなってしまうのではないか?避難民や最貧国の病人に必要な物資を送ることもできなくなるのではないか?そう思う人もいるかもしれない。もちろん、そういう慈善行為は「この世においてのみ有効なもの」だと「コース」もどこかで言っていた。しかし同じことをするのでも相手を不完全で気の毒で不幸な人だと見る必要はないのではないか。単に「ご不便で大変でしょうから」で十分なのではないか。完全な姿に見てあげれば相手が癒されるのだったら、そのほうが余程助けになるのではないか。あれもこれも亡くしてしまってかわいそう、辛いでしょう大変でしょう、でも応援しますよ頑張ってね、なんて言うよりも「あなたは実は何もなくしてなんかないんですよ」と(まさかそのまま言葉にするわけにはいかないが)わからせてあげるほうがずっと励ましになるのではないか。

悲惨なことや苦痛が起きるのは、この世界が「そういうふうに作られて」いるからである。つまり、この世界は罪と罪悪感と懲罰(としてのあがない)や死という「間違い・幻想」を現実化するために作り出されたものだからである。そしてこの世界がますます確固たる現実に見えるような「あかし」としての事象が手を変え品を変え至るところで常に起こっている。その「あかし」を見て「ああ、これが現実なのだ」と私たちは思うのだ。人生ははかない、確実に安心できるものなんて一つもない、そう思うのである。が、それもまた私たちの選択でしかないことを忘れないでほしい。そうではない人生や世界を選ぶことも私たちには可能なのだし、またそうするのが自然なのである。

第263回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 208・209

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 208

第26章 その6

ところで「神の御心」とは何だろうか!そんなこと、言葉でしかも簡単にいえるわけもないと思うのだが、ここで言われているのは「神のひとり子にあらゆるものを与える」ということである。あらゆるものとは神にある即ち真理であるような「あらゆるもの」に決まっている。神のひとり子はひとつであり全てであり、あらゆるものを与えられ、何一つ欠けることはありえない、これが今言われている「神の御心」である。

この「与えられている」つまり「何かを持っている、何かがある」というのがこの世の事情とは全く違っている。たとえば「私には平和がある、感謝がある」というとき「私は平和そのもの、感謝そのものになっている」のでもあるのだ。私の中の一部が感謝や平和を味わっているだけだ、という状態なのではない。あらゆる意味において分離・分裂がないのである。あなたが平和を与えるなら、あなたはあなた自身を与えることになる。これが神の創造なのだ。このときあなたはもはや自分が平和だという認識ができなくなっている!とはいってもこれはこの世ではありえないことなので、今はあまり考えなくて良いと思う。

神の御心として在る、これに勝る幸せはない、ということが普通なかなかわからない。だってお金とか海外のリゾートに豪邸とか素敵なパートナーとか、そういうのも捨てがたいじゃない?あ〜そういうの欲しいわ〜と思うのは自由だが、これも「コース」に言わせると「あまりにもちっぽけで、本来のあなたたちには全然ふさわしくない」のだそうだ。そして、この世のあれこれはいくら求めて得られたとしても結局は私たちを幸せにはしない。それどころか恐怖や不安の種になってしまったりする。国家も含めた集団であれ個人であれ、「個別に求める」とは要するに「別々であること、特別であること」を願っているのであり、もっと極端に言えば何と疎外感や喪失感や孤独感を求めているのと同じことになるからである。個別を選べば「神とひとつである一体感、完全性」を捨てることになるからだ。幸せになりたいと頭では思っているつもりでも実はそれと正反対のことをしていた!それどころか、幸せや平和とは未来のいつかどこかで手に入るものだと思っていた!自分がそう望みさえすれば誰にでも今ここで手に入るものであり、また常に今ここにしかないものなのだ、と気づくだけでもあなたの世界は大きく変わるだろう。

あえて乱暴な言い方をすれば、病とは「神のひとり子である完全な自己」でいたくない!と願った結果なのである。それ以前に、日々の怒りや悲しみや不安や批判が自分にとって「現実的=リアル」なものになっているなら、あなたは「神のひとり子でいたくない」と願い、しかもそれを現実化させてしまったのである。それらが現実に思えるならその地続きである病もまた現実になるしかないのだ。

「神のひとり子でいたくない」、そんなことは元から不可能なのであって、不可能なことを可能だと思って願うのは「間違い・勘違い」だ。自分たちが「別々の個体」であると確かに感じられるのは、「神に逆らうという罪を犯した」と信じているからである。そんな覚えはなくてもそうなんだから仕方ないが、幸いなことに「罪を犯した」とは私たちの勘違いである。この勘違いがなければこの身体も世界も何もなかったのだ!と、つまり再び乱暴に言えば、人類も世界もたった一つの勘違いから生まれたのだ、というこれもまた「勘違い」であり実際には「生まれたように見えている」だけであって実はただの妄想・夢だった、というわけなのである。

しかし、そうしてとりあえず「できて」しまった世界だの身体だのをいきなり消去することはできないし、またそこだけ取り出して破壊したところで何にもならない。それを生み出したところのおおもとのマインドが正されない限りこんな試みは無意味である。逆に、どうせできてしまったものならうまく使おうというのが「コース」の教えなのだ。罪と犠牲の世界に生きるのを止めて罪なき愛の世界に生きるようにする。私たちは、自分ではどうすることもできないようなあれこれに囲まれて生きているのではない。それらは全て自分のマインドが作り出したものなのだから、自分のマインドにおいて解体・消去することができる。原因がなくなればその結果もまたなくなるのだ。これもまたこの世においては非常識だとされるだろう。この世では「原因はとっくになくなったのに結果だけが残っている」ようなことはたくさんあるからだ。しかしこれは端的に「認識ミス」である。原因と結果は常に「同時に」、そして「いまここに」ある、これをまず正しく認めよう。過去の経験が尾をひいて今の苦しみの原因になっている、というのならあなたは過去を現在に持ち込んでしまったのだ。ひっきりなしに「再生ボタン」を押し続けているのだ。過去の経験という材料を「いま」のあなたが自分を苦しめる材料として用いているのである。しかも、その「原因となったように思える過去の経験」も単にそのとき「苦痛をもたらすもの」と判断してしまったのに過ぎない。それは判断ミスだったのだ。

神の御心は「真実であること、正しいことだけがなされるように」というものであり、マインドで生じたあらゆるものはマインドにおいてどんどん増幅し放射されていく。厄介なことにこれが誤用されてしまった。なぜならこのマインドの原理は「間違った考え」にも作用するからである。そして更に厄介なことに私たちは「だまされたい、欺かれたい」という願望を抱くこともできるからである。かくして「間違った考え」は放射され投影されて現実化してしまった。というか現実として知覚認識されるようになってしまった。私たちは自分の願望通りに騙されて、ウソを現実と思い込んで生きるようになった。しかしどこまでいってもウソが現実になることはない。ウソがウソだとわかればもう騙されない、これが「癒し」である。

本当の癒しは、原因と結果の両方に対して同時に作用する。表面的な症状や現象だけを癒そうとするのは本当の癒しではない。その原因になっている部分は手つかずのままになるからである。すると、一つの症状は消えてもまた別のものが出てきてしまう。原因がなくならない限り、その「結果」は手を変え品を変え形を変えてあらわれるのだ。罪深さ、という原因がなくならないかぎり「犠牲」を求める気持ちは続く。その犠牲の大きさは関係ない。これくらいの犠牲で済むならまあいいわ、ではまだダメなのだ。規模に関係なくそれが「損失、喪失、犠牲」だというふうに認識されているうちはダメなのだ。それらはみな「神のひとり子」にはありえないものだからである。たった10円でも「犠牲にした、損した、なくした」と感じるならあなたは神のひとり子でいたくないと望んだことになる。この程度(はないのであるが)のことであっても考えの本質としては病気や災害と地続きである。見かけや程度は違っても結局は同じ穴のムジナじゃないか!というくらいのことなら、ちょと慣れてくればすぐに、嫌でもわかってしまうようになる。

神のひとり子でいたくない、つまり「神から離れたバラバラの個」でありたい、これが私たちの願望であり目的だったのだ。この願望・目的を達成するために私たちは次々に幻想を作り出しそれを守ってきた。ウソをウソで塗り固めてきたのだ。

だからまずはその願望と目的を変えてしまえばよいのだ。そうすれば自然に奇跡がもたらされ、世界の様相は一変する。私たちは奇跡によって癒される。それがいつどこでどんなふうにもたらされるのであっても本質は同じである。何故ならそれは神の御心であって、神の御心は常に一つしかないからである。

奇跡によってあなたは「いにしえの自分の名前」を思い出す、と「コース」は言っているがこれはもちろん象徴的な表現であって、別に「私は本当は○○ティウスと呼ばれていたんだわ」なんてことじゃない。それは名なき名前、あらゆる名づけが起こる前の、言語が生じる以前の、真理そのものであったところのあなたの姿である。「神とひとつだ」ということさえ認識できないほどに神と一つであったあなたの姿である。そこではもはや神も神のひとり子も認識されることはない。ただ「あるようにある」のだ。ここでは単に「神のひとり子」のことだと思っていただいて差し支えない。

いずれにしろ、とにかくここで私たちがやるべきはやっぱり「人を見たら聖霊と思え」なのである。相手を批判したくなったり、傷つけられたと感じたり或いは傷つくのを恐れたりしたときは「これは傷つけたい願望なのだ」と認めよう。それがどんなに正当なものに思えたとしても、だ。なかなかうまく行かなくてもガッカリしないでほしい。救いとはそういう人のためにこそあるものだからだ。苦しんでいる人のためにこそ救いはある、これを忘れないでほしい。

ゆるせば、ゆるされる。私たちにはその無限の力がある。それを使うことこそ神の御心なのであり、それゆえに自然なことなのだ。それを使わないで「別の方法でやります」というのは傲慢であるうえに不可能だ。

平和のうちに住まう、これもまた神の御心である。バラバラの個であるうちは互いの利害が相反するように見えてしまうので、あの人が平和でもこっちは違うとか、この人が平和になったら自分は困る、なんてことも十分ありうる(ように見える)。が、それは本当の平和ではないのだ。あるいは「私は平和でいたいのに、相手が暴れるんです」というのもまた現象に囚われている証拠になってしまう。エゴの目からどう見えようとも、聖霊の目には相手の中の聖霊しか映らないのだ。

誰だって本当は平和になりたいと望んでいるはずだ。そこになら利害の対立はないはずだ。そして、そもそも私たちは神のひとり子であり、それは神において「ひとつ」であり、あらゆる人がまったく同じものを同じように与えられているはずだ。あなたに平和をもたらすその全く同じ力があらゆる人に平和をもたらすのである。

奇跡とは「何かを変える」ことではない。病んでいたものが治ればそれは「変化」であるように映るが、本質は変化ではない。汚れた鏡を拭くようなものであり、ただあるべき本当の姿が見えるようになっただけなのだ。それでも私たちには「まあ、すっかり変わっちゃったわ」と認識されるのである。ここにおいて私たち神の被造物はあらゆる勘違いから解放され、元通り神だけを求める自然な姿に戻るのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 209

第26章 その7

私たちの世界には時間と空間が存在することになっているが、これらはどちらも幻想であり、ゆえに幻想であるという点において同じものであり、更にはどちらも「違い・隔たり」を表すという点において同じものである。比較対照してみると、時間のほうがより「隔たり」が大きいのだ。はるかかなたの恒星との距離は「光年」で表されるのを考えてもわかるだろう。空間移動はそれこそ時間をかければたいていは可能だが、時間移動はできないことになっている。いわゆる「遠隔ヒーリング」なども空間的な距離は関係ないことを示している。

ところが、時間となるとやっぱり問題なのだ。たとえば、これまたいわゆる「願望達成」なども願ってから達成するまでにある程度以上の時間がかかって当たりまえ、何でも始めてから効果が出るまで時間がかかって当たりまえだと思われている。従って「コース」が教えるゆるしや癒しや救いや解放などにも当然時間がかかると思われている。

しかし、本当はそうではないのだ。これらは全て「瞬時に」なされるものである。げんに、私たちのこの身体・世界などは「間違った思い込み」がその都度瞬時に現実化した・しているからこそ切れ目なく現実にあるように見えているのである。

聖霊として見れば「全ては一つ」なので、自他はなく従って自分と誰かとの間に隔たりはなくなる。が、自らを身体であると思っている限り、常に自分と誰かとの間には空間的な隔たりがある(ように見える)。この「対象との距離・隔たり」があなたにとって大きければ大きいほど癒しやゆるしや解放の実現には時間がかかることになるのだ。物理的というよりも心理的な距離がそのまま時間となってあらわれてしまうわけである。たとえ、すぐ目の前にいる人でも、それどころかべったり抱き合っている人でも相手に不信感を抱いていたり怒りや不安があったりすれば心理的な距離は大きいものになる。これは人間関係=人に対するゆるしや癒し、に限らない。何であれ自分が望んでいる(つもりの)平和や幸せと自分との間に隔たりがあればあるほど、それが「所要時間」として投影されてしまうのだ。要するに、分離感が強ければ強いほど「一体感をもたらすものの実現」には時間がかかってしまう。それに比べて「分離=幻想=怒り、苦痛、不安などなど」をもたらすものに関しては分離感が強ければ強いほど「瞬時に」投影され実現される、という情けない事実もある。

簡単に言いましょう。自分のマインドがオープンになっていれば、とにかくまず平和・安心・感謝で満たされていれば分離感はなくなる、少なくともそれだけ少なくなる。そうすればあなたが望んだ平和や幸せや癒しやゆるしも早く現実化されるようになる。そういうことだ。

それでも私たちは「自分を守りたい」という気持ちをなかなか捨てきれない。というかそもそもこれは「守ろうとしなくてはならないくらいの危険が潜んでいる、他者は危険である」、他者との間には利害の対立がありうるという思い込み、つまりは「神から離れてみんなバラバラ」という思い込みのせいなのだが!だから、せっかく相手を赦そう、聖霊だと見てみようなんて思いながらもまだ「いや、ヤッパリ油断は禁物だわ」とどこかで自分を守ってしまう。どこかで鎧を捨てきれない、マインドを開ききれない。だからそれだけ時間もエネルギーも余計にかかることになってしまうのに!

癒しやゆるしや解放がもたらされるには、まず「マインドをオープンに」して「手放す」のが肝要だ、これは「コース」でなくてもスピリチュアル系の教えには必ず出てくるものだ。わかっちゃいるけど怖い、不安だ、そう感じる理由の一つは先にも書いたように「相手を聖霊だと見てオープンになっている間に相手が襲いかかってきたらどうするんだ?」みたいなこと、あるいは「明け渡して手放したってどうせすぐには実現しないんでしょ?すごく時間がかかるかもしれないんでしょ?その間にイヤなことがあったらどうするの?手放して無防備になってたら自分を守れなくて何もかも失っちゃうかもしれないんでしょ?」というものである。おかしな喩えだが、ちょうど「100倍になって戻ってきますよ」なんていう投資話に有り金全部突っ込んじゃうようなものである。100倍になって戻ってくる前に病気になったりしてお金が入用になったらどうなるの?なかなか戻ってこなかったらどうするの?普通はそう考えて有り金全部は突っ込まないものだ。「用心のために」少しは、あるいはかなり残しておくだろう。この世的には極めて常識的で賢明なやり方である。

しかし、癒しや解放などという事柄についてはそういうわけにいかない。それこそ「全部手放す」にならないとダメなのだ。この世的に考えれば恐ろしいに決まっている。だからみんな怖がるのだ。でも、大丈夫です。やってみればわかります。だいいち、マインドがオープンになっていたほうが「ひどいめ」には遭いにくく、感情に流されずその都度冷静に状況を把握できるのです。エゴのままで無防備、なのではなく「エゴが消えた状態」になるのです。あなたを不幸にするのは全てエゴの仕業なのだということを思い出していただきたい。

あなたは「時間」を怖がっている。時間がかかるということを恐れ、またその時間のあいだに何かが起きるのではないかと恐れている。

繰り返していうが、ゆるしや癒しや解放などは「求めたら瞬時に得られる」ものなのだ。なぜなら初めからここにあるからである!あなたはただ気づいて受け取ればよいだけだ。時間がかかる(ように見える)としたら、それはあなたがなかなか「気づき受け取る」ことができないからだ。そしてそれはあなたのマインドがオープンになっていないからだ。

不安や恐怖というのは通常「未来に関する」ものである。こうなったらどうしよう、ならなかったらどうしよう、そう考えて・・・つまり「想像して」不安になるのである。そのように考えてしまう原因、あるいはその根拠になるようなものは常に「過去」にある。来年大地震がくると言われた、大地震が来たらああなってこうなる(ということをあなたは今までの地震被害に関する記録で知っている、つまり過去の情報だ)、ああこわい!年取ったらどうなるんだろう、仕事がなくなったらどうなるんだろう、何でも同じことである。すべて、未来に関することを「いま」考えて不安になっている。ところで未来とは未だ来らぬもの、いまは「ない」ものなのだった。いまのあなたのマインドの中にしかないものなのだった。来年の今頃のあなたがどうなっているか、ではなくその頃のあなたが「どういう考え方・感じ方をしているか」はわからないではないか!(リーディングではわかります、余計なことですが)。ある事柄について「今の自分」ならこう考えこう感じる、としても同じ事柄について来年や10年後の自分がどう考え感じるか、「いまの」あなたにわかりますか?

ここは私がリーディングの現場でもよく遭遇し不思議に感じる点なのだ。いま現在の自分の考え方や情報だけで未来のことをとらえようとする人がいかに多いことか。そんなの、普通に考えたってありえないじゃないですか?犬が西向きゃ尾は東、くらいに明らかな論理なんですけどねえ。

閑話休題。ものすごく平たく言えば何でも「実際にそうなってみなきゃわからない」のである。だから余計なことを考えずに「コース」学習の実践をしていれば良いのだ。やってれば解放され、解放されれば今よりハッピーになるに決まっているんだから安心ではないか。ところが「これをやってエゴがなくなってしまったら結婚もできなくなるんですか?」みたいな方もいらっしゃる。特別な関係は邪悪だと書かれてもいるからだ。ま〜そりゃあ目覚めた結果、結婚しない方向を選ぶかもしれない。しかしそのときあなたは「平和で幸せ」なんですよ。そもそも「平和で幸せ」になりたいから、結婚すればそれらが手に入ると思ったからこそ結婚を望んでいたわけでしょう。別に結婚しなくても得られちゃったらそれでいいじゃないですか。だいいち、「目覚めて解放された自分」がどう考えどう感じるか、いまのあなたにわかるわけないでしょう。少なくともそんなこと今考えたって仕方ないでしょう?

とにかく!いまのあなたの状態はいまのあなたに原因があるのだ。原因と作用=結果は同時にあるものなのだから「間違った」という原因が「不安」という結果をもたらしているのだ。つまり、いま「将来が不安」なのだとしたら「いま」のあなたのマインドの中に「幻想を信じている」という原因があるのだ。将来や過去のことでクヨクヨするのは常に「いま」なのであって、そのクヨクヨの原因は「いまの自分のマインド」なのだ。地震が来たらどうしよう!と「いま」心配したとして、実際に起きたときあなたが何を思い何を感じるか「いま」のあなたにはわからないのだ。私がゆるしたら、聖霊だと見たらこの人はどうするだろう、どうなるだろう、ああなってほしい、こうなってほしい、などと考えるのもまたマインドがオープンになっていない証拠なのである。

これでは奇跡がもたらされない。奇跡とは常に「今ここ」で、オープンなマインドだけが受け取れるものだからである。罪や恐怖などの幻想が消えた間隙にもたらされるものだからである。

奇跡もゆるしも癒しも解放も「いつかもたらされる」のではなく「常にいまここ」にあるものだ。ただ、多くの人々はそれに気づいて受け取るのに一生どころか何生もかかってしまっているだけだ。それを劇的に短縮しようというのが「コース」学習なのである。

災い転じて福となる、とか人間万事塞翁が馬などという言い伝えがある。これは見た目と本質が違う、あらゆるものは変化するという「この世」の道理であって本来の真実ではない。いま起きていることは不幸なことに思えるかもしれないけど本当は良いことだったのだといつかわかりますよとか、今苦しい目にあっておけば将来は良くなるとか、そういうのも全部同じで「この世」の道理ではあっても真実ではない。確かにこの世においてはそういうことが実際によく起こるのだし、またこれらは励ましや慰めとしては有効かもしれない。その反面、一歩間違うと「苦痛を正当化する」考え方になってしまう危険もある。

いずれにしろ、この世の常識は「コース」の非常識なのだ。一見悪いことが実は良いことだった、とか悪いことが良いことに「変わる」なんてことはありえない!そう思えるならそれは単にあなたの知覚認識機能が歪んでいて、最初に正しい認識ができなかったからである。

第262回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 206・207

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 207

第26章 その5

「癒しはいかにして可能になるのか?癒しの法則についての復習」

あらゆる病は「分離」から生じる。つまり、もとを正せば私たちが「神から離れてバラバラになった」という考えを現実だと思い込んでいるところから生じるのである。ま、神の御心と一つでありその一部でもあるという「本来のあり方」なら病など起こりようがない。たった一瞬でも完全にこの思い込みを手放せれば病は去ってしまう、つまり癒しがもたらされるのである。マインドの異常が正されるからである。

罪と病は原因と結果のようなものである。簡単に言えば罪深い者が懲罰や贖罪として病を求めてしまったわけだ。求めた覚えなんかない!と誰もが思うだろうが、身体的な不具合として知覚認識できる以上あなたは確かに求めたのだ。何故なら知覚認識とは願望の現実化に他ならないからである。普通の人は思いつきもしないことだが、マインドの中ではちゃんとそういう因果が起きている。だから「罪はないのだ」とわかれば病気の原因が消えることになるのである。

問題は、罪も幻想なら懲罰や贖罪もまた幻想である「はず」なのに、幻想を現実だと平気で思えてしまう私たちのこの世界では病気もまた「存在する」ことだ。それは実は病んだマインドの投影に過ぎないのに「身体(あるいは分裂した心)の不調」として現実化する。

投影は実にさまざまな形をとってあらわれるので、種々雑多の病があるように見える。が、それはそう見えるだけであってそれぞれの「違い」など本当はないのである。だからどんな病気、どんな症状に対しても癒しは一つで済む。ただマインドの間違いを正せばよいだけだからである。

癒しは聖霊によってもたらされるものだが、聖霊とは神の御心の一部でもある。ゆえに癒しはあらゆる病に対する神からの答えだと言ってよい。それは本質としては永遠不変であるにもかかわらず、この世という時空間において働き、どこの誰でもどんな状態でもそれが必要なところにもたらされるものだ。罪を信じる者、病んでいる者は全てこれによって正され癒される。特別な人だけのものなんかじゃない、そういうごく普通の者たちのためにこそ癒しがあるのだ。

さて、「コース」が再三語っていることだが「考えはその源から離れない」、つまりあらゆる考えはマインドの中で生じるものであってマインドの外に出ることはありえない。これは普通に考えてもその通りだと納得できるだろう。私が何かを考えたとして、その考えが私の心から外に出て勝手に何かするなどありえないし、ありうるなんて考えたらそれこそ狂人である。しかし、この世の私たちがしていることはまさにそれなのだ!マインドの中で生じた考え、恐怖も含めたあらゆる願望、それらは外界に投影されて「心の外にあるもの」のように見えている。病もまた然りであって、身体のあちこちに異常だの不具合だのが起きるのはマインドの中のおかしな考え=罪が外に出たかのように知覚認識されているのだ。

前に何度も出てきたが、投影=知覚認識とはそういうことなのだ。内側のものが外側にあるように見える。この世で身体としてある限りこれなくしては生活できないのだが、せめてその機能が正されていれば私たちは神の御心に一致して生きることができる。すなわちあらゆる苦痛や恐怖から解放されるのだ。

言い換えれば、外側に見えるあれこれなど全て投影された幻に過ぎないのだからその部分をいくら変えよう、癒そうとしたって無駄なのである。それが生じた源はマインドにある。だからどんな病であっても癒すべきところは身体ではなくマインドだ、ということになる。

先にも書いたが、どんな幻想もそれが幻想だという点において全く同じように無意味である。あの幻想がこの幻想より高尚だとか価値がある、なんてことはありえないのだが、これもまたこの世では「非常識」な考えになる。貧乏よりお金持ちがいいとか、通りすがりの恋より特別なソウルメイトがいいとか、ちょっとしたお化粧の失敗で一日クヨクヨするより世界の貧困問題で心を痛めるほうが高尚だ、なんてことはないのである。病気もまた同じであって、程度というものはない。この病は単なる不摂生だがあの病は霊障だから特別だ、なんてことも実はない。そういうふうに捉えている限り「ただ一つの絶対確実な問題解決方法」を適用することはできない。

私たちがそういうふうに序列づけをするのは、これはもう「単なる好み」に過ぎないのである。好みは自由だが、真理は個人の好みでどうにかなるようなものではない。あなたの気に入ろうが気に入るまいが真理は真理として絶対普遍なのである。何が言いたいかというと「これはあれとは違う!これはあんなものよりずっと大変なんだ」なんていうのはあなたがそう思いたいだけであって真実ではない、ということだ。

私たちが罪だと思っているものは、それがどんなに重大で深刻に思えても単なる「間違い・勘違い」に過ぎない。つまり正せば癒され解放されてしまうようなものなのだ。神の御心はひとつに決まっていてそこには罪も間違いもないのだが、もしもゆるされない罪などというものがあるとしたらこの世に、ではない全宇宙のなかに神の御心とは違うものがある、ということになる。「コース」では存在=神だと言っている以上、神の御心でないものがあるとすればそれは「存在しないもの」=無である。これはいわゆる東洋的な意味での「無」ではない。東洋的な意味の「無」とは、投影なき直接知の世界の謂であってそこには認識不能な真理が充満している。存在なき「無」とは文字通り「ない」のである。無いものはないのである。

私たちに苦しみを与えるのも神の御心だ、というときの「神」とはそれこそマインドが投影した偶像に過ぎないことは以前述べたとおりである。

私たち(あるいはエゴ)は勝手に「現実」を作り出し、それが幻ではない本当の現実なのだと信じるためにあらゆる手段を講じてきた。病や苦痛もその一つである。実際にここに腫瘍がある、傷がある、痛みがある、耳が聞こえない、だから現実に決まっている!と感じられるのである。それがいわゆる精神疾患であっても同じことである。それらの疾病が「現実じゃない」と考えるのは現実逃避に過ぎないのではないか?と思う人もいるだろう。エゴレベルで考えれば確かにそうで、それなら単に「見ないふり」をしているだけだ。あなたはマインドのどこかで「違う、やっぱりこれは現実だ」と信じているのである。

腫瘍や傷があろうがどんな症状が出ていようが痛みがあろうが、それは現実ではない!それが現実だと感じられるならあなたは欺かれている、だまされているのである。誰に?「このワタシ」だと思っているものに、分裂したマインドに、あるいは歪んだ知覚認識機能にだまされているのである。だから身体や病などにフォーカスしないで、ただマインドを正すことを願って聖霊に全てを委ねる。つまり理由なく感謝の気持ちでいればよいわけだ。感謝の理由を見つけようとすると「こんなに苦しいのに何に感謝すればいいの?」というふうになってしまうからである。

私たちは欺かれ騙されている、それはそもそも自分を「神とは違う、他の誰とも違う、このワタシ」だと信じた時点で既に欺かれ騙されたのだ。いや、正確に言えば私たちはそれを望んだのだ。ウソを信じたいと望みそれを現実のごとくにしてしまったのだ。身体というちっぽけなものに閉じ込められ、ある決まった時空間にしかいられない、そんなものが本来の自己であるものか。

ひとりひとりが別の個人である、だからこそ「私は病気だがあの人は健康だ」なんてことがありうる(ように見える)わけである。そのように知覚認識することで自他の違いはますます顕著になる。当たり前だが、身体はひとりひとり違うものだ。ゆえに身体に価値をおけばそれだけ「違い」に価値をおくことになり、「違っていたい、別々でいたい」と望むことにもなるのである。

望むこと、願望こそが知覚認識を決定する。以前「コース」は、願望ではダメだ、意志しなさいと言っていたが、ここでは「今のところ願望で構いません、ただ神の御心と一致する願望を持ちなさい」となっている。「コース」のいう意志=willとは神の御心と同じものを指すので、一つの方向性しか持つことができない。一方、願望とはもう何でもありの世界であって、その中から私たちは常にどれかを選んで知覚認識しているわけだ。選択の余地があるならそれは意志ではなく願望だ、ということらしい。

そして「あらゆる人とひとつでありたい」と願うことこそがゆるしなのだと「コース」は言っている。私たちを分け隔てている壁を取り払うとは、そのまま真理に対する幻想という壁を取り払うことにつながる。ゆえに幻想であるところの過去の影響も全て取り払われる。「以前、こんなひどい目にあいました」という知覚認識は正される。これだけでも世界がすっかり変わるくらい平和で幸せになれるのだが、神の国はそんなものとは比較にもならないくらいすごいものであるらしい。本当に本来の姿に戻ってしまえば愛と真理以外のすべてが消え失せ、それが愛と真理であると認識できるところの「ワタシ」もなくなる。本当にひとつである、とは実はそういうことなのだ。「ひとつである」と感じたり言えたりしてしまうなら、つまり認識できてしまうなら、実はまだ「ひとつ」ではない。しかし「コース」はとりあえずそこまで要求していない。

ゆるしが願望なら救いもまた願望である。これは「正しいものが正しくあってほしい」という、あるいは正義を為さしめたいという願望だ。言い換えれば「間違ったことを真実だと思わないで済むように」なりたいという願望でもある。救いとは幻想を現実だと思い込むことからの解放に他ならないからである。そして、当たり前だが「こんな世界・こんな現実より神の国のほうがいいわ!」と願うことである。これは幻想より真実のほうがよいと言ったのと同じことになる。「私は確かに愛や平和や幸せを望んでいる!どんなものかわからないけど、全てが一つであるような状態を望んでいる!だって今の状態よりはマシに決まっているんだから。」ここにおいてあなたの願望は神の御心と同じ方向を持ったのである。そして実際に「あ、ひとつなんだ」と感じる・・つまり認識される。奇跡はそういうところにもたらされるのだ。(余計なことだが、本当に一つになり切ってしまったらもう「ひとつである」という認識はできない)

第261回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 204・205

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 204

第26章 その2

この世は神の国ではない。にもかかわらず私たちが「愛と平和、癒しと解放」というような目的を持って生きるならこの世にあっても神の国を経験できる。決して損なわれたり失われたりすることのない、限りない愛と幸せを経験できる。目の前の或いは心の中のあらゆる人に聖性を見るとき、それがたった一瞬であってもあなたは永遠の中にいるのである。

さて、私たちは「一つであること」即ち本当の自己やその聖性を「犠牲にして」この世界を作ったと書いたが、またしても例によってこれは「これらを自分において犠牲にすることはできるが、だからといってそれらがなくなる」わけではないのだった。とんでもなく素晴らしいものを捨ててしまった、と思い込んでいるだけで、その素晴らしいものは実は手つかずのままずっとここにある、そういう感じだと思ってほしい。それに気づかせてくれるのが聖霊の役割であり、その気づきを受け入れるのが個人としての私たちの役割なのだ。聖霊の働きはあらゆるものに平等に作用するのだが、それを受け取る側の私たちはとりあえず「それぞれ別のマインドを持った個人」だという厄介な事情がある。この状況下においてはたとえば「私のかわりにあなたが気づいてね」なんてことは不可能なのだ。

誰かを他者として見るとき、たとえば怒りや批判や悲しみをもって誰かのことを考えるとき、私たちは自分のそして相手の、更にはあらゆる人の聖性を犠牲にしてしまっているのだ。罪及びそこから派生する怒りや攻撃や恐怖、などにとらわれているとき、そうなるたびごとに私たちはそれらを現実にするのと引き換えに本当の現実を捨ててしまっていることになる。犠牲とはそういうことだ。あなたの目にはどう映っても、その誰かの聖性は決して失われることがない。あなたがいくら「あいつはひどい人だ、悪い人だ」と思ったからといってその人が本当に「ひどい、悪い」人になることはない。それはあなたの歪んだ知覚認識に過ぎない。あなたのマインドの投影に過ぎない。そして「間違い」に過ぎないのだ。

こういう状態は継続性があるように見えても実は一瞬一瞬の選択によって生じている。1分前に怒りが湧き起こってもすぐに気づいてゆるせば、今のあなたはもう生まれ変わっている。永遠不変というのはそれだけ古びているのではなくて、常に「今生まれたのと同じくらい新しい」のだ。そこには過去が一切ないからである。限りない感謝でマインドを満たすとき、そこに過去の痕跡はなくなる。そういうふうになっている。つまり感謝の気持ちで満たされ聖霊に全てを委ねるたびにあなたは生まれ変わっているのである。

既にここまで「コース」を学んできた方にとっては当たり前のことかもしれないが、それでも少しは衝撃的な記述が出てきた。この世界の、或いはあなたの抱える問題は全てたった一つの方法で解決できる、というものである。世界にもあなたにもいろいろな問題=厄介ごとがある。戦争、貧困、人間関係、キャリア、お金などなど数え上げたらキリがない。しかし、これらは全く別個の形を取っているように見えるだけで結局は「ただ一つの問題」だ、と「コース」は述べている。即ち「喪失と犠牲」について恐れ嘆き苦しむことである。もっと端的に言えば「平和と幸せが得られない」というふうにもなる。そして、自分にないもの或いは自分が失いそうなものを自分以外の誰かは持っているというのがまた問題なのだ。誰も持っていないものを自分もまた持っていないのなら別に問題はない。たとえば私たちは空を飛ぶことができないが、空を飛べないからといって本気で悩んだり苦しんだりする人はいない。自分以外のみんなも同じようにできないことだとわかっているからだ。となると私たちを苦しめるのは一種の不公平感だということもわかってくる。じじつ、比較ということを止めるだけで多くの悩みは消え失せる。

とにかく、聖霊の目にはあらゆる問題が全く同じ一つのものとして認識される。ある程度学びが進んでくればこれは割と簡単にわかるようになる。問題が一つなのだからそれに対応する解決策も一つしかないはずだ。たとえば世の中には種々の病気があり、それぞれに対応する治療法があるのが当たり前だと思われているが、これもまた「治療法はひとつしかない、一つで済む」ことになる。これってすごく便利だと思いませんか?

そして、あらゆる問題が結局はただ一つなのだとわからない限りは一難去ってまた一難、一つの問題が解決したように見えてもまた別のものが出てくることになる。問題が本当に解決してしまったら二度と再び起こることはない、というのが本当のところなのである。

まず、私たちが問題だと「思って」いるものをその表面的な現象に騙されずによく見てみよう。すると自分が結局何を「困った、イヤだ」と考えているのかがわかってくる。更に、問題とは自分がそれを「問題だ」=厄介だ、困ったと思うから問題になるのであって、そう思うかどうかは自分次第なのである。これがわかるだけでも今のあなたの悩みの半分くらいは消えてしまうだろう。要するにこれもまた知覚認識の領域なのだ。ならば、その知覚認識が変わってしまえば今まで問題だと思っていたものは問題ではなくなるではないか。もはやそれは問題=厄介ごと、困ったことには見えなくなるのである。おまけに、「程度」というのも本来はない、つまり幻想だったことを思い出してほしい。問題に大小も重要度の違いもない、高尚も低俗もないのである。ヘアカットに失敗して苦しむのも、国の将来を憂いて苦しむのも聖霊の目には同じように映る。別に神がかった話ではないのだ。わざわざ聖霊と言わなくても、理性を正しく用いて普通の筋道で考えればやっぱりそうなるからである。

あらゆる問題の根源はただ一つに還元できる。即ち「失う、ということが可能である」という思い込みである。更に、誰かが失えば他の誰かが得る、という思い込みである。この思い込みが現実化されたところにのみ、不公平さや攻撃や報復が存在する。

しかし、もはや言うまでもなかろうがこの思い込みは「間違い」である。失うということじたいが本当には不可能なのだった。失うようなものならそもそも初めから「存在していない」のだった。本当の現実の中では何一つ失われないが、幻想は何一つ同じ姿にとどまることはなく、やがては失われるものだからである。

ここまで言われればもうこの先はおわかりだろう。あらゆる問題の解決とは要するにこの間違った思い込みを正すことである。私たちは何も失わない、これを認めることである。とはいえ、こう認めることが単なる現実逃避にしか見えないのが「この世界」なのでもある。身体レベル、エゴレベルで見れば確かにそうなってしまう。これが思い込みで間違いだと認めたら何だか無責任な人でなしになってしまいそうな気がしたりする。が、これもやっぱりエゴの抵抗なのである。私たちの見え方・捉え方にはどうしても限界があるのでわからないのだ。しかし、神にはいかなる限界もない。そして本来の私たちもまたそうだったはずなのだ。

あらゆる問題は「間違い」あるいは「間違いの結果」である。間違いはただ正せばよいのであって、別に悩むほどのことじゃない。もっとも「間違いを正せないので困っているんです、それが問題なんです」というのもあるかと思うが、これは間違いが正されたことを以前の間違った知覚認識で確認しようとして、即ち聖霊のわざをエゴの目で確かめようとして当然のごとく失敗している、という場合が多いようだ。せっかくうまく行ったんだからそのままでいればよかったものを、安心しようという欲をかいてわざわざエゴに戻ってしまう感じである。

神のひとり子は苦しんだり傷つけられたりするものではない。もしそうなっていればそれは愛と正義がなされていないのだ。神のひとり子のあるべき姿ではない。聖霊はそのように判断して愛と正義をおこなうのである。

あらゆる問題をひとつの「間違い」として聖霊に委ねて正す、と簡単そうに言われてもなかなか難しいものである。まあエゴの抵抗だと言ってしまえばそれまでだが、どうしても「自分流の解決」にこだわりたい場合があるからだ。委ねたことで「失う」のが怖い、という本末転倒な人も少なくない。自分がいかに何も失っていないか、それはそうなってみないとわからないのだ。だから安心していただきたい。

複数の問題を抱えていても、聖霊の目には要するに「ひとつの問題がある=間違っている」としか映らない。個々に検討、なんてことはありえないのである。ゆえに、たとえばあなたが「これだけは自分の望みどおりにしたい、こうなってほしい」などと思ったりすれば他の全てを手放したとしても依然として間違いの中にあり不自由なままである。例外はない!のだ。あらゆる人をゆるしてもただ一人ゆるせない人がいるなら全くゆるしていないのと同じだ、という厳しいようだが正しい事実がある。出会う人全てが素晴らしく見えますが自分自身のことは嫌いです、なんていうのもこれに当てはまる。

そういうものが一つでも残っているうちはまだ自分の考え方や知覚認識が間違っているのだ、とこれだけは認めてほしい。いくら何でも「コース」だって初めから完璧に実践しろと要求しているわけではなく、私たちは少しずつしかできないかもしれない。が、少なくとも「私は正しいんだ!」と思わず、間違いが残っていることだけは認める勇気が必要だ。

神の前にはいかなる問題もない。そして聖霊に解決できない問題もない。たとえあなたの目には「どうしても解決できない、望みなし」「こんな不正は絶対にゆるされないっ」と映ったとしても、だ。地球規模で起きているように見える問題も、まずは私たちが正しいマインドにならない限りどうにもできないだろう。一つの問題が解決したように見えてもまた別の問題が出てくるだろう。人類の歴史とはそういうものだったではないか。

「あれだけはゆるせないっ」「これだけは譲れない」と思うのはあなたの目には正義であっても神の前では不正なのである。そして、今のあなたには「どうしたってゆるせないわよ」と思えることが3日後、あるいは3年後にはすっかり変わってしまうかもしれないではないか。私たちの認識とはその程度のものなのである。

世界や他者相手のことに限らない。たとえば病気などについても自分が健康を失ったのを嘆くのではなく健康な人を羨むのでもなく、そして病気になってよかったと思えることを無理やり数え上げるのでもなく、ただ感謝と平和と幸せで今このときのマインドを満たせばよい。そして自分とあらゆる人に聖性を見るようにすればよい。知覚認識が正されていくうちにいつのまにか快方に向かうことも少なくないのである。

今一度、私たちそれぞれの「個別の役割」を思い出してほしい。それぞれの人生のそれぞれの場面においてなされる聖なる瞬間は全てあなたにしかないものであって、しかもあなたを超えている普遍的なものなのだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」205

第26章 その3

ずっと以前に「自分にしてほしいことを他の人に為せ、自分がこう見てほしいと思うように他の人を見よ」というようなことが出てきた。あなたの目にはそれがどんなに正義だと映っても他の誰かに苦しみを要求すれば結局どこかで自分に跳ね返ってくる。どんなに良いことだと思っても「まあ、こんなにひどい目にあってかわいそうに」などと、他の誰かの苦しみ=間違いに共感・同化してしまうのも同じようなものだ。要するにこれでは奇跡がもたらされなくなってしまう。誰の上にも等しく神の正義がなされる、これが奇跡なのである。奇跡は聖霊によってなされるのだが、それにはまずあなたがマインドをオープンにして聖霊に委ねる=与えることが必要なのである。

さて、結局あなたは苦痛がほしいのか?手放したいのか?あるいは少しだけ苦痛を残しておきたいのか?これはもうあなた次第なのだ。あなたには選択の自由があるのだが、それがなかなか見えないだけなのだ。しかし、全ては選択次第だとわかるだけでも相当楽になるのではないだろうか。

とにかく、問題は問題でなくなることによって解決される。それだけではなく、今までは犠牲だの苦しみだのに思えたものが浄化されて普遍的な愛と祝福に変容するのである。

神には不正も不平等もありえないのだが、神の正義を恐れるひとは少なくない。それによって自分が裁かれ罰を受けると考えるからである。しかし、神は愛であり真理であり、それをそのまま全て私たちに与えている。私たちは神が与えただけのものを受け取っているはずなのであり、また同じだけのものを与えることができる。それこそが正義なのだ。

何もかもが本来の姿であるような天国=神の国と私たちが作り出した幻想のこの世界との間に「本当の世界」がある、と前に書かれていたが、同じものがここでは「境界」と名付けられている。もちろんこれは場所をあらわしているわけではなく、マインドの状態あるいは覚醒の段階を表しているものだ。言い換えればこの世であってこの世でない状態のことである。「本当の世界」というと「そうではない世界」が実在するように聞こえたり、境界というとその両方に実在する世界があるように聞こえたりするが、いまの私たちにはとりあえず認識が不可欠なので、そして認識とは何であれとりあえずのものに過ぎないのでまあ仕方がない。

私たちのマインドの中身、世界のあれこれは複雑にからみあっている。表向きはああ見えても中身はこうだ、とか潜在意識ではああだが顕在意識ではこうだ、とか探し出したらきりがない。しかし、神においては複雑なものは何もない。あらゆるものが一つであってこれ以上ないくらい明らかに知られているのだから単純そのものなのだ、複雑になどなりようがない。

一方、この世には対立するものや相反するものが存在する(ように見える)。だからこそ選択ということが可能になるのであり、その意味において選択とはこの世のものである。しかし、本当に意味のある選択とはたったひとつしかない。即ち「真実か幻想か」「本当に存在するものか本当はないものか」あるいは「私たちに幸せをもたらすものか苦痛をもたらすものか」である。わかってしまえば選択の余地もないくらい明らかなことなのである。ところで、ふつう私たちは幻想の中で幻想どうしを、間違いどうしを比べて選択しているわけだ。どれも「間違い」という点においては同じものなのだから何を選ぼうが結局同じなのだが、問題は今の私たちに「何が真実で何が幻想か」さえわからなくなっていることである。この区別がわかるようになるのも「コース」学習の目的の一つなのだ。

「幻想の世界は無意味であり実在しない」これは端的な事実である。同様に「私もあなたも彼(女)も、完全に無垢で聖なる存在でありひとつのものである」などというのもまた端的な事実である。しかし、学びの段階においてはこれが事実であるのがわからない。ゆえに私たちはそれをいちいち「選び取る」ことをしなくてはならないのだ。おかしな言い方だが、学び初めにはエゴがどっかり居座っているために幻想=実在しないことが「見れはわかる明らかな事実、あるにきまってる、そうにきまってる」ことにしか思えない。ところが、学びが進んでくるにつれて「見ればわかる明らかな事実」の内容が今までとは全く違ってくるのである。あるいは、今までは「どう捉えていいものか全くわからなかったこと」も「考えるまでもない、見ればわかる明らかなこと」になったりする。知覚認識機能が正されてくるのである。そしてついにはあらゆる幻想が幻想として映るようになる。

そうなれば私たちは何の迷いもなく苦もなくごく当たり前のこととして真実のほうを選べるのだ。「本当の世界」=境界とはこの地点を示しており、私たちが本当に救われるのもあまたこの時点においてなのである。

今まで現実だと思っていたあらゆる幻想は別に破壊されたりするわけではない。ただ幻想であって実在しないとハッキリわかるだけなのだ。そこはまだ本物の天国ではなくそのちょっと手前である。何故ならそこはまだ認識の世界であって直接知の世界ではないからだ。

但し既にその認識機能は正されている。ゆえに私たちは天国と地獄の違いがハッキリ見えるようになっている。

本来の状態=天国においては何も選択する必要がない、というかあらゆるものが一つなのだから選択など不可能である。一方、この世においては何もかもが複雑でありしかも私たちの知覚認識機能は歪んでしまっているために何かを選択するのが非常に難しくなっている。良いものと悪いものの区別もつかない、とは先ほど書いたとおりだが、それ以外にも私たちは常に思考や投影の「結果」だけをみて選択しようとしているのだ。その思考や投影が生まれたところ、つまりマインドの思考システムや目的が本当の問題なのに、そこにこそ唯一の二者択一があるのに、それがわからない。投影の結果である事物や現象どうしを比べて云々したってどうしようもないのである。全然違うように見える二つの幻想の間で迷うのは、それらが自分にもたらすものが実はあまり違わないからである。要するにこの世における「迷い」はどんなに深刻に見えても結局は本質的でないのだ。

真実と幻想のどちらを取るかという選択もまた学習途上にある私たちには難しい。頭では「これは幻想だ」とわかっている「つもり」であっても、自分にとってのその価値を捨てられない、つまり本当にはわかっていないからである。幻想を捨てるのが犠牲を払うように感じてしまうからである。が、「コース」の教えに従って学び実践していくうちにそれらを捨てるのがより容易くなるはずだ。捨てたとしても犠牲などとは感じなくなるはずだ。

この世において神の正義を為そうと思うなら私たちはゆるすしかない。ゆるしは、神の正義をこの世において実践することでもあるのだ。

当たり前のことだが、実は何の罪もない人を攻撃したりするのは明らかに不正である。実は何の罪もないのに落ち込んだりするのも同様だ。それを手放しゆるすのは正義に他ならないではないか。ゆるすべきものが残っているうちは毎日何回でも何十回でもゆるしつづけることになる。そのうちあらゆるものに聖性が見えるようになれば私たちは既にゆるされた状態になる。そして、そもそもゆるされる必要など初めからなかったことをようやく知ることになるのである。この世での私たちの役割がゆるしだとすれば、天国=本来の状態におけるそれは神と同じような創造なのだ。「コース」の言う創造とは、罪を信じているマインドには絶対にできないわざなのである。たとえそれが一瞬であっても聖なる瞬間にスピリットとして存在すれば、今まで忘れられていたあらゆる聖性や真理があなたのもとに戻り、あらゆるものが一つであるという喜びに満たされる。そしてそれはあなたから放射されることによってますます増幅されるのだ。神によって造られたあらゆるものがその創造の源に愛と感謝と祝福を捧げる、これが天国のありようである。

こういうことを私たちに見せてくれるものを「奇跡」と呼ぶこともできる。奇跡によって実は今までもっとも恐れていた神や真理や愛を素晴らしいものだと心から認めることができる。恐怖は消え愛だけが残る。現象としてはある日あそこで一つの奇跡が、また別の日に別のところで別の奇跡が起きているように見えるのだが、どんな奇跡も実はひとつなのである。現象としては、即ち私たちの知覚器官には個別のように映ってもその本質・内容は一つなのだ。そういう意味において奇跡もまた「境界」のものであると言えるのではないか。

初めはごく小さなものにしか見えない真理の光は、私たちがそれに感謝と祝福を与えることによってどんどん大きくなっていく。私たちの出会うあらゆるものがひとつひとつそれに新たな光を加える。私たちはその光とともに歩み、私たち自身がその光でもある。

罪あるいは罪という考えは、天国に至る道筋にそして私たちと兄弟姉妹の間に立ちはだかる壁のようなものなのだ。それはとてつもなく大きく感じられるが、実は非常に小さいものである。何故ならそれは「本当は実在しない」からである。「コース」の言い方を借りれば、あらゆる奇跡は実は同じものであるということがわからない人にとってだけその壁はとてつもなく大きく感じられるそうである。

「コース」の教えはこの壁・障害物を取り除くのに役立つものだ。およそ教えというものは天国に至るためのものと地獄に至るためのものとの2種類しか存在しない。その中間というものはない。聖霊に従うかエゴに従うか、と同じことである。当たり前だが方向性とガイドとは一貫性がなくてはならないのだし、また実際に一貫性がある。幸せを求めているつもりでエゴに従ってしまうなら、本当は幸せを求めていなかったことになる。

時間とは永遠に対する障害物である。時間の実在を信じているうちは永遠など経験できないのだろうが、一瞬でも時間を完全に忘れているとき私たちは永遠の中にいるとも言える。大きな悲しみや苦しみを「時が癒す」という言い方があるが、これは正確ではない。悲しみや苦しみがだんだん忘れられていくのはそれらが実在しない=幻想だからである。じゃあ、喜びや嬉しさが時とともに消えてしまうのは何故なのかといえば、私たちの世界においては何でも「時と共に過ぎ去る」ことになっているからである。悲しみや苦しみなどについては「過ぎ去る」という性質が望ましい方向に働いているように思えるだけだ。

時間もまた幻想に過ぎないとはいえ学びのために有効利用できるものである。ただ幻想にまみれて徒に時を過ごすなんてバカバカしい。時間を気にして生きるのではなく、同じ時間なら学びのために使おうと決心して毎日を過ごせばよいのだと思う。

第260回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 202・203

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 202

第25章 その6

この世において「正義を為す」とはだいたい「闘う」ことである。不当な目に遭っている(と思い込んだ)者が、言うなれば逆襲して勝利する、つまり報復するような感じがある。正義を為すには闘うべき「悪」がある、そして勝利するからこそより価値がある、と思われてもいる。そして、罪深きものは懲罰を受けて罪を償うことが正義だとされている。自分の罪深さを棚上げにして他人を血祭りにあげ束の間の解放感を味わうことはあるが、結局は「いつか来る懲罰」を恐れ続けるのである。

いずれにしろ、罪ある世界には犠牲者や生贄が不可欠なのだ。キリストもまた「罪深い私たちの身代わりになって殺された」と思われているくらいである。何の犠牲にもならずに一生を終えても最後には「死ぬ」という代償を払うようになっている。

このような犠牲や生贄という考えは私たちの日常的な人間関係にも蔓延している。私を傷つけたんだからあなたはもっと苦しむべきよ!などというものもそうである。

こういう「正義」は、本当は完全に間違っている、というより狂っている。「コース」はそう断じている。本来の状態には悪がなく、また勝敗も犠牲もないのだった。正しいものは正しいことによってどこまでも正しい、それだけだ。罪とか悪などがまずあって、それに打ち勝つのが正義だというのはこの世だけの話なのである。このあたりは以前にも出てきたことなのだが、正義を為すには生贄が必要だというのもこの世だけの道理である。それが自分とは全く関係ない者でも構わない。私たちがワイドショーや新聞で「悪い奴がやっつけれらる」のを見てスッキリするのはそういうことだ。「悪い奴」=生贄は何でも構わない。昨日までヒーローだった人が今日は悪い奴として生贄になっていても構わないのである。ただ、誰だって自分が生贄にはなりたくないのだし、もしそうなってしまった場合には「正義を貫く」とかいって報復を誓うわけである。

既によくおわかりだと思うが、この世の正義にあって「全てがひとつ、みんな同じ」はありえない。不正あってこその正義なのだから、そこには当然「他者」があるはずなのである。また、愛と正義とは相いれないものだと思われがちでもある。正義のために厳しく闘おうとしているのに情けをかけて許してしまうなんてダメじゃないか!甘い!と考えるからである。

聖霊の正義とは至ってシンプルだ。やってもいないことを罪だと思い込んでいる人々に等しく「それは罪じゃないんですよ」と教えて解放するのである。やってもいない罪によって裁かれている人をゆるし、懲罰を止めさせるのは正義だ、これはよくわかると思う。

が、問題は罪の有無である。本当に罪深いならそれに見合う償いを受け入れなくてはならない、これは正義であり公正である。しかし、罪がないなら償いも懲罰も必要ない、これもまた正義であり公正である。そして聖霊の正義とは、まず「あなたには罪などない」とわからせることなのだ。

これは素晴らしくありがたいことのはずなのに、私たちにはなかなか受け入れられない。単に「信じられない」というだけではない。これは「この世界は実在しないんですよ」と言っているのと同じことなので、受け入れてしまったら信じていた世界がなくなるという恐怖が生じるのだ。また、これを受け入れてしまったらもう他者を批判することも自分が落ち込むことも「できなく」なる、そうする理由がなくなってしまうのだ。素晴らしいことじゃないか!と思っても良いはずだが、やっぱりエゴにとっては具合が悪いわけである。

聖霊こそが、真に公正で愛のある審判なのだ。聖霊は、本来の私たちにふさわしいものを与え、私たちに「無罪」を言い渡す・・つまり無垢な存在であると告げるのである。愛と報復とは相いれないのだが、正義と報復が同じものだと思っていれば愛と正義も相いれないものになってしまう。しかし、本当は愛と正義とは同じものなのだ。

このあたり、結構抽象的に書いてあるのでうんとわかりやすく言ってしまうと、たとえばマインドを感謝で満たせば私たちはそのまま愛と平和に満たされることになる。そこには既に罪などなく、言い知れない幸せと喜びだけがある。これらこそが「本来の私たちにふさわしいもの」なのだ。聖霊に委ねる=マインドを感謝で満たしてみればそういう状態に、即ち本当の正義がなされた状態になるのであり、それは神を喜ばせることでもある。

自分がわかってないからといって、本来自分のものであるはずの聖性が誰か他の人に渡ってしまうなどということはありえない。もともと自分にあるものはどこまでいっても自分のものだ。減ったりなくなったりすることはない。これが正義なのである。

こういう類の正義をこの世の中で見つけるのは難しい、というかほぼ不可能だと言ってよい。だから今の私たちに知覚認識できるこの世界の出来事の中に正義を見出そうとする必要はない。何故なら、この世界はそもそも「神から離れたという罪がまかり通った」=正義を失った(と思い込んだ)ところから生じたものだからだ。

みんなが別々の個体であるようなところに神の正義はありえない。というより、神の正義を忘れたからこそみんなが別々の個体であるような世界ができちゃったのである。

間違いを正す、とは結局「愛を持って正義をなす」のと同じことなのだ。目には目を、では間違いに間違いを上塗りするだけになってしまう。

聖霊の裁きはあらゆる人に平等かつ公正になされるものなので、聖霊のほうで「あの人にはこうしよう、この人にはああしよう」などと判断することはない。誰でも同じ、それを求めれば誰にでもその瞬間に与えられるのである。その人が今まで何をしてきたか、どういう生き方をしてきたか、などは一切関係ない。とんでもない極悪人みたいな人がある時突然目覚めてしまうことだってある。時間軸上だけで言えば、普通に良き市民として生きてきた人よりも「もと極悪人」のほうが早く解放されてしまうことだってある。これも、この世の私たちの感覚からすれば「不公平」に映るのかもしれない。が、聖霊の知覚認識には過去が一切持ち込まれないことを思い出してほしい。だからこその愛と公正なのである。

そして、いったんこの真理に目覚めてしまった人はこの世にあってこの世を超え、あらゆる人に対して聖霊と同じような愛と正義を差し出すようになり、それによってますますその愛と正義は強化される。

裁くな、あなたもまた裁かれないようにするためである、とはまさに報復による正義を求めれば結局自分がしっぺ返しを食らって苦しむ羽目になるということでもある。どんなものであれ、攻撃は罪悪感を増幅するのだ。

この世で起きているように見えるあらゆる出来事を、身体を持った個人として見るならばそこに正義など見えるわけがない。しかし、聖霊の目で見るならば全く違ったものになる。乱暴に言えばそれらのものが「本当の現実」には見えなくなり、本当の現実は何が起きているように見えても一切影響を受けずただ在り続けているのがわかるのだ。個人としてのマインドには絶対に理解できないようなことでも、神の御心と一つである本来のマインドになら理解できる。それが個人において或いは個人を通してなされることこそ、私たちの個別の役割なのである。

どうして私だけが!あの人はこんな目にあってないのに!ひどい、不公平だわ!と感じるときにはたいてい羨望ややっかみによる怒りがあるものだ。しかし、本来の私たちにはあらゆるものが与えられてしまっているのだから、誰かを羨んだり不公平さを嘆いたりする理由などないわけである。そういう気持ちになったときには「本来の自分を忘れているのだ」と思ってとにかく何も理由がなくてもただ感謝でマインドを満たしてみよう。

当たり前のことだが、「私は正しい、あなたは間違っている」というのは個別性のあらわれである。そこに公正さはない。いくら「私は正義だ」と思ってみても、あなた以外の人たちが正義でないならあなたもまた正義ではないのだ。自分が正しいのなら、それと全く同じ資格においてあらゆる人が正しい、これは感情を全く排して普通に考えればわかる事実なのである。認めたくないことかもしれないが、勇気を出して認めていただきたい。でないと前に進めないのだ。

あなたは、形から見れば個人として個別の人生を生きるのでもあるが、その中で個を超えるような普遍、かつ真実であるものを経験する。身体に在って身体を超え、永遠の生を感じることができる。罪と報復=攻撃、という図式から抜けることもできる。そのような自由と解放を得ることもまた私たちの生得権なのである。

罪ではないにしろこんなに間違いを重ねてきちゃったんだから私なんかもうだめよ、と思う人もいるかもしれないが、自惚れてはいけない。あなたの間違いなんか神と一つである聖霊にとっては簡単に正してしまえるようなものなのだ。絶対に無理よ!と思うなら、あなたは間違いではなく罪を犯したと思い込んでいることになる。それもまた間違い、勘違いなのだ。

私たちに罪はなく、罪だと思っていたものは実は間違いに過ぎず、それだって本当にはやっていない、ただ「勘違い」だった、という事実を受け入れることがなぜそんなに難しいのか?解放されたいんです、楽になりたいんです、と思っている「つもり」の人々が変なところで変に頑固になったりするのだ。解放されたいはずなのに抵抗する。しかもそのことに自分では気づいていない。

これは、解放されるというのが本当にとんでもなく言語道断な事態であることを端的に示している。ただ楽になれればいいと思っただけなのに、今まで信じてきた全てを失うなんてイヤだ!そんなのは怖い!というわけである。何故なら、本当に罪から解放されるというのは文字通り「ただ一つの幻想も残っていない」という状態なのであって、他は要らないけどこれだけは残したい、これだけは信じていたいなどというのも不可能になるからだ。真理が隈なく明かされるというのはそういうことなのだ。知らないものは怖い、と思う人は多い。

しかし、そうなってみなくてはわからないのだからとにかく前に進もう。誰だって少しは抵抗がある。そして抵抗がある分だけ受け取るものは少なくなる。もうどうなってもいいから全部見せて下さい、与えてください、というある種の勇気・・やけくそでも何でも良いと思う・・があればそれだけ多く受け取るようになる。私たちは見たいものだけを見る、見たくないものは見ようとしない、そういうふうになっているからだ。でないと、私たちはまるで無罪を宣告されているにもかかわらず自分の意志で!牢獄から出ずにいるようなありさまになってしまう。

間違いを手放す覚悟とは正義を与える勇気でもあり、与えれば与えるほど多くを受け取る。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 203

第25章 その7

聖霊による正義の行い方、あるいは救いや解放における最も重要な特徴とは「誰も何も失わない、勝ち負けがない」ことである。誰も犠牲を払わないで済むわけだ。

このあたりはわかりづらく、また誤解を生じる危険もあると思うのでローバ心から補足しておきたい。

何も失わない、というのは「コース」の教えに則して考えれば「失うようなものならそれは初めからなかったのだ」からである。たとえばあなたは100万円を支払ったり落としたり盗まれたりするかもしれない。誰かとの関係が壊れるかもしれない。火事で家が焼けるかもしれない。親しい誰かが死ぬかもしれない。にもかかわらず「何も失っていない」のである。これはそうなってみればどういうことだかハッキリわかるのであって、また「どういうことだかわかる」というそのこと自体がまさに解放され救われたことを表しているのだ。

更に、じゃあスポーツや囲碁将棋などの試合や裁判はどうなるのか?必ず勝者と敗者があるではないか?スポーツも囲碁将棋も裁判も悪いことなのか?などという疑問も生じるかと思う。

まず、これらはやはり他のあれこれと同様「幻想としてのこの世界」の中の仮の「形」に過ぎない。しかし、これらの「形」を有効に用いて「神の御心であるような真理を経験する」つまり身体に在って身体を超えこの世に在ってこの世を超えるための手段として用いることはできるのだ。これもまた本当にそれを経験した人ならわかることだと思う。

私たちは、別にスポーツでも囲碁将棋でも裁判でもないのにあらゆることに「勝ち負け」の概念を持ち込み、大したことじゃないのに「喪失感」に囚われてしまったりする。問題にすべきはそういうことなのだ。私たちはそう思い込むことで自分に懲罰を与えているのだ。失って落ち込んだり負けたり、これは罪深い自分に対する懲罰なのである。この図式を根底から覆すのが救い・解放なのだ。

凶悪犯だろうが修道士だろうが、過去生も含めた一切に過去にかかわりなく、誰もがそう望めば今ここで同じように与えられる、これが聖霊の正義であり、奇跡もまたその一つのあらわれである。奇跡とは特別の人にしか起こらない何かではない。程度も何もない。しかし、ある人たちにしか起こらず程度の違いがあるように見えるのは、私たちがエゴ的な目で見ているからだ。知覚認識機能が歪んでいるからだ。

同様に、誰かが他の人に比べてより多くを得たり失ったりしているように見えるなら、それは知覚認識機能が歪んでいるせいである。つまり正義が為されていることが見えないわけだ。自分も含めて「気の毒な人」がいる、とそのように見えるのは「罪深さに対する懲罰や犠牲」という思い込みがマインドに残っていることをあらわしている。こんな目にあったんだから落ち込んだり恨んだり怒ったりしても当たり前だわ、となると攻撃(←これらは攻撃に他ならない!)が正当化されてしまう。これでは救いにも解放にもならない。逆に言えば、落ち込みや恨みや怒りを手放したくないと思っているうちは聖霊の正義を、また救いや解放を受け入れられないわけなのだ。

何かを失ったように見えても実は何も失っていない、これと同じように何かが問題だと思っていたけど実はそれは問題なんかじゃなかった、そういう気づきや理解こそが解放なのである。これは日常生活の中でも普通に使えることなのだが、悩もうと思えばそれこそ悩みはいくらでも見つかる。不満だっていくらでも見つかる。しかし、それって本当に「問題=厄介ごと」なんですか?悩むようなことじゃないんじゃないの?ちょっと視点を変えればむしろチャンスなんじゃないの?目隠しを取らないから見えないだけなんじゃないの?

聖霊による奇跡はいつでもどこでもどんなときでも誰にでももたらされる。それこそ戦火の中でさえ、アウシュビッツのガス室においてさえもたらされる。それが真に公正・平等ということだ。

救いや解放はエゴによっては絶対にもたらされない。エゴと同化しているところの「このワタシ」がいくら頑張っても絶対にもたらされない。といって、自分とは別の「大きな何か」によってありがたくも与えられるのではない。端的に言えば「余計なもの」を捨てたところにもたらされる、自分とは何者なのかという誤解も含めて「間違い」を正したところにもたらされる。それはエゴと同化した「このワタシ」には不可能なことだ。あらゆる問題を本当に解決できるのもやはり「このワタシ」ではない。

程度の大小や種類にかかわらず問題が解決するのは、より正確に言えば問題が消えてしまうのは「奇跡」だと言える。先にも述べたとおり、奇跡はその本質上あらゆる人に等しくもたらされるものだ。あらゆる人が奇跡にふさわしい。現象だけを見れば「あの人には奇跡が起きたのに私には起きなかった」と映ることもあるだろう。が、そのように見てはならない。誰かに奇跡がもたらされたなら、あなたもまたそのことに感謝したって良いではないか。それがあなたにとっての奇跡になるかもしれないのだ。神の法則・原理から見ればこの地上の誰かの上に奇跡がもたらされるたびに、それはあらゆる人々の上にももたらされていることになる。それが見えないからといって不公平だと嘆いてはならない。不公平だと見ることじたい、あなたのマインドの投影なのだ。それを現実にしてはならない。その考えや感情を手放すことがゆるしなのである。そしてゆるしこそが癒しや奇跡をもたらすのだ。

たとえば「奇跡だわ」と思うようなことが自分の身に起きると多くの人が「自分は特別なんだ」と考えてしまいがちであるが、これは間違いだ。奇跡と特別さとは相いれない、というか特別さ或いは個別性などないんだ!とわかる知覚認識こそが奇跡を受け入れるのである。あなたの身に起きたことなら誰の身にも起こりうる。逆に言えば、誰かの身に起きたことならあなたにも起きるのだ。

ここで「コース」はまた「自分のマインドに問題を抱え込み隠し持っていてはならない」と言っている。隠しているつもりはなくても、とにかく何か考えや感情を手放せずに抱え込んでいるなら同じことになる。手放したいのにできない、と言う人は多いがこれは本気でやろうとしていないからである。手放したいと言いながら手放す勇気がない、怖がってしまうのである。しかし、いまここでそう決めればすぐに「聖霊に委ねる」ことはできるのだ。宇宙に任せる、でも何でも良い。あるいは例によって「何でもいいから感謝の気持ちでマインドを満たす」でもよい。誰かあるいは何かの力を借りても構わない。が、とにかくここだけは頑張らなくてはならないのだ。奇跡をもたらしたいなら尚のことである。

奇跡とはこの世ではないものをこの世において実現させる手段である。この地上にもたらされる奇跡は、現象としてはそれぞれ異なっているように見える。その時々で現れ方が違うのである。しかし、内容的にはどれも同じであって要するに「癒しと解放」なのだ。どんな人の上にも全く同じように癒しと解放がもたらされる。それは普遍的なものであり、「神のものはあらゆる人の中にあり、あらゆる人がそれにふさわしい」のだ。

第26章 その1

罪には犠牲と攻撃がつきものだ。この世界も身体も「神から離れてバラバラになった」という私たちの罪が現実化されたものなので、そこには不可避的に犠牲が伴うことになる。この世界、この現実は「ひとつであること」を捨て去った、つまりそれを犠牲にしたところに成立する(ように見える)ものである。あらゆるものがそれぞれバラバラであり異物である。何かを所有することはできても完全に「ひとつ」になることはできない。人間にしたって身体と身体に閉じ込められたような卑小な自我が全てになっており、そこに個としてのアイデンティティがある。それが崩壊したら病気や障害だとされる。一体感を得たところで何もかもが同じあるいは一緒になることはありえない。

アイデンティティの混乱や崩壊というなら、そもそも神から離れてバラバラになったと思い込んだ時点で私たちの本来のアイデンティティは混乱し崩壊しているのだ。それを取り戻すのが救いや解放なのであり、そのための「コース」学習なのである。

私たちの本来の自己は身体などに閉じ込められるようなものではない。今までの私たちの想像も及ばないくらい広大かつ偉大なものなのだが、その部分つまりスピリットの部分は忘れ去られている。言い換えれば犠牲にされている。

身体は失われるものであり、犠牲にすることもできるものである。命を賭けてとか命を犠牲にして、などというのは全て「身体」の謂である。それ以外の「命」はなくすことも犠牲にすることもできないものだからだ。つまり、犠牲という概念は身体に深く結びついているのである。自分を身体だと限定していれば当然の帰結として自分以外のあらゆるものも身体=物質だと限定して見ることになる。自分の価値が失われたと思って嘆き苦しむのも「他の誰でもないこの自分」に起きたことだと考えるからであって、その苦しみのあまり死んでしまおうとするのは「身体に限定された自分」をなくせば済むと考えるからである。

身体は物質なのでもちろん限定的だが、私たちが身体だと思っているものは実は「肉体意識」なのであって身体そのものではない。ゆえに身体が失われても肉体意識だけが残ってしまう。そしてこの肉体意識こそが「限定・制限」という考えなのである。

またしてもここに戻ってくるか、と思われるだろうが例によって「相手を身体だと見るときには自分のことも身体だと見ている」のであり、「相手も自分も神から切り離された小さな存在」「いずれは死すべき無力な存在」つまり「本来の自己を犠牲にした状態」が現実になってしまっている。本来の自己、あるいは誰かの本来の姿というのは身体の知覚器官によっては認識できないものである。ありていに言えば「目には見えない」のだ。しかしそれは「エゴに支配された身体の目」では見えないだけであって、聖霊の知覚認識に従えばちゃんと見えるものでもある。乱暴に言えば、目を開けて生きるか目を閉じて生きるか、みたいな感じである。自分が作り上げた幻想の世界の中で、目隠しをしたままウロウロして一生を終える必要はない。この世界そのものは幻想に過ぎない無意味なものだが、私たちがちゃんと目を開けて見るなら世界は作り変えられる。そうして初めて意味のあるものになるのだ。

第259回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 200・201

碧海ユリカと読む「奇跡のコース 200

第25章 その4

この世にあってこの世を超えること。とりあえず別々の身体を持ちつつも「全ては神においてひとつである」を体現して生きること。自分の心が神の御心と一つであること。こえらにおいてこの世のあらゆるものが神の恩寵になり、あなたは愛や癒しや祝福だけを与え続けるようになる。あなたの目に映るものすべてに、あなたを通して神の恩寵が与えられる。

さて、ここまでお読みいただいた方にはもう言うまでもないことだが、愛と喜びに満ちて平和で幸せになりたかったら「ちゃんと目を開け」なのである。暗がりにいないで明るいところに出てきなさい!なのである。当たり前のことである。

しかし、悲しいかな私たちは暗闇に慣れすぎてしまっている。映画館から急に戸外に出ると目がチカチカするのと同じようなもので、暗いところのほうが楽になってしまっている。あるいは、ものごとをハッキリ見るのがこわい、ぼんやり見えるほうが安心できるなどと思ったりしている。エゴの世界に関して言えばおそらくその通りで、いろいろなことを知れば知るほど、はっきり見えれば見えるほどますます恐怖や不安が募るであろう。

ところが、本当にちゃんと目を開けて明るいところでしっかり見れば全く逆の光景が見えるのである。今まで恐怖だ、不安だと思っていたものが実際にはそうじゃなかったとわかる。いろいろなことが明らかになり「何だ、こうだったのか」と感じる。つまり、今までよりはずっと平和で幸せになれるのである。これはもちろん人間関係全般についてもあてはまることだ。

孤独で寂しい人、というのは果たすべき役割のない人のことであると「コース」は言っている。「全く必要とされないことほど孤独で寂しいものはない」と言い換えればよくわかると思う。しかし、あらゆる人がこの世においてとんでもなくすごい役割を担っているのである。どんな人であっても、とにかくこの世に存在してしまった以上、その人でなければ果たせないような大きな役割を担っているのだ。だから、やるべきことがないとか居場所がないなんて人はこの世にひとりもいないはずなのである。

ここで「個別」ということについてもう一度考えてみたい。この世において私たちはみな、ある特定の時代に特定の場所で特定の両親から生まれた、というふうになっている。更に長じるにつれて、どこか特定の場所で特定の人々とかかわるようになる。それぞれ別の性質や才能を持っている。とりあえず身体は一つしかないので、近しい関係であれ通りすがりであれ一生のうちに出会う人の数は限られている。こういうことはみな「個別さ」の為せるわざ、あらわれなのである。Generalに対してのspecialという概念だと考えていただきたい。

ということは、私たちが救いや解放という役割を果たすにあたって、常に「いつ、どこで、どういう状況で、誰と」などの「個別条件」がどうしても不可欠になるのである。何か他人にはない特別な才能や能力を使うというような意味に限定して考えないでいただきたい。ごくごく平凡に生活している市井の人も、この世においては「他の誰とも違う個人」であり、「他の誰とも違うその人だけの人生や経験」があるではないか。たとえばあなたが今朝スターバックスで知り合いとお喋りしたのであれば、20XX年X月X日X時ごろに東京のスターバックスXX店で○○さんとお喋りしたのは世界中で、そして歴史上であなたひとりだけしかいない、ということになる。そのときあなたとXXさんがお互いに励まし合ったりして元気になれたりしたのだったら、XXさんを批判的な目で見たり憐れんだりするのでなくXXさんの中にキリストを見てあげたのなら、あなたはあなたにしかできない役割を果たしたことになる。その役割じたいは神から与えられた聖なるもの、普遍的なものであるにもかかわらず、それが実現されるのはいつでも「ある日ある時あるところで」なのがこの世のコトワリなのだ。そして、それはその都度常に「今ここ」なのでもある。

このようにして、私たちは誰のものでもない自分だけの人生の日々の中で愛を与え受け取るという形で「個別性を生かす」ことができるのだ。というか、もう普通にやっていればイヤでもそういうことになってしまうのだし、そうなるしかないのだ。

神から離れてみんなバラバラの個、という状態を望んだために私たちはまさにその状態で生きている(ように見える)わけだが、それをいきなり捨てなくてもむしろ聖霊の目的に即して活かすことができる。そういう中で私たちは自らが「個ではない、普遍的なひとつのもの」だという経験をするのだ。私たちを傷つけるはずだった「個」という幻想が、使い方によっては真理を垣間見させる手段になる。

友人だろうが家族だろうが単なる知り合いだろうが同じことである。私たちが出会う人、つまり今生でご縁がある全ての人々に対してゆるしと癒しを与え受け取り、愛と平和と感謝に満たされる、これが私たち全員に与えられた役割なのであり、そのつど「あなたにしかできない」という形を取っているのである。あなた個人の憎しみや罪深さは、ゆるされることによっていまのあなたにしか味わえない愛や恩寵に変容する。平たく言えば、普遍性が個において現象している、そんな感じである。

何かあるたびにその都度ゆるしていく。これを日常の習慣にするのだ。幸か不幸か、ゆるすべきことは毎日イヤというほどたくさんあるはずなので、チャンスには事欠かない。そうやっているうちに私たちは「この世にあってこの世を超える」ようになるだろう。なぜならばゆるしとはこの世の、つまり幻想や間違った価値観の解体に他ならないからである。

そして、先にも述べたようにこれらは「ある日ある時あるところで、他でもないあなたが」という特定の形を取ってなされることであるにもかかわらず、その現場においてあなたは時も場所も身体も個人も超える、そういう経験をすることになる。個において普遍を経験し、個を超えるわけである。

学び始めたばかりの人にとっては、こういうことはまさに「何かに導かれて」としか思えないような形でなされることが多い。それぞれがもっともわかりやすく受け入れやすい形を取ってあらわれる。が、それらが実は「形に過ぎない」のだと言うことも徐々にわかってくるだろう。たまたまある特定の人物ややり方によって大きな気づきがもたらされたからといって、その人物ややり方にこだわりしがみついてしまったらあなたは本質を逃すことになる。特別なものを求めるというエゴの罠に落ちてしまうのだ。学びが進んで慣れてくると、あらゆるものが「とりあえずの手段であり、形に過ぎない」とハッキリわかるようになる。そして、聖霊に導かれるというよりは自ら選んでいる感覚が生じる。ここにおいては既に神の御心と自分の意志がかなり一致しているので、自分が意志したことがそのまま神の御心=聖霊の導きを反映するものになるからである。

話が元に戻るが、罪というものがなぜそこまで恐ろしいかと言うと「いったん犯してしまったが最後、死をもってさえ償えないもの」それこそ「永遠不変」なものだとされているからである。死をもってしても償えないからこそ私たちは何度も死に何度も生まれ、を繰り返しているのではないか。一回死ねば償えるようなものなら、制限だらけのこの世でわざわざ身体としての人生を繰り返す必要などないはずだ。

とにかく、この世界は「罪」をその基盤としている。そこで「神」と言われているものは全て人間が作り出した偶像に過ぎず、私たちの「狂った考え」が投影されたものに過ぎない。かくして、ここでは造物主も被造物もともに「狂ってる」わけである。

一方で、今ここで私たちが自分の基盤を「罪」ではなく「愛」に変えてみれば、世界は今ここで瞬時に変容する。逆にいえば、これがない限りどんな革命が起ころうが科学が信じられない進歩を遂げようが、世界は変わらない。依然として苦痛の絶えないところ、いずれは死すべき人間も含めてすべてが変わりゆくところ、に変わりないのである。私たちの罪深さはあれこれ形を変えて投影され続けるからである。

愛はもちろん永遠不変のものだが、この世を現実だと思っている私たちにとっては罪こそが永遠不変のものになっているのだ。そういわれてもピンとこないかもしれない。しかし、「人生に苦しみはつきもの、災難はいつ来るかわからない、苦あれば楽あり、人間は生まれて死ぬものだ」などというものが「当たり前の常識」つまり永遠不変の常識だと考えているならば、神の常識ではなく「この世の常識」を本当の現実だと思っているならば、やっぱりあなたは愛ではなく罪こそが永遠不変だと思っていることになるのである。まずはそれを認めよう。

聖霊の知覚認識に従って「この世に在ってこの世を超える」生き方をしよう、と思うなら日常生活において「何かを失った」「ガッカリした」と感じる機会をうまく活用してほしい。ひと呼吸おいてみたときに、あなたは何も失っていないと思えるか。何も変わっていないじゃないかと思えるか。人間関係において「私ばっかり損してる」などという勝ち負けでなく「両方が得をした」と思えるか。思えなければすぐにゆるし、癒すのだ。具体的にはたとえばただ感謝してしまうのだ。ところが、そのように「思える」だけでは実はまだ足りなくて、これが進んで来れば「思える」どころか「そのようにしか見えない、感じられない」というふうになる。知覚認識機能が正されるのである。

日々の知覚経験は人の数だけあるものだが、それぞれがそれぞれの機会をとらえて「あ、何も失ってないじゃないか」「こういうことだったのか!」などの気づきを得る、つまり「今まで当たり前だと思っていたことが全然当たり前じゃなかった、それどころか狂っていた」とわかる。きっかけは人それぞれだが、気づきの内容は同じである。

今までは「あ〜あガッカリ」というふうにしか見えなかった現象が、愛を持ってみれば全然違うものになってしまう。これは奇跡と言ってもよいのだが、正確にはあなたが違う選択をした結果なのである。より正確にはあなたのなかの「まとも」な部分即ち純粋理性が働いて選択したのだ。今までは「そんなの自分で選べるようなことじゃないでしょ、こうに決まっているでしょ」という具合に、そこに選択の余地=自由があることさえ見えなかったのだ。選択の余地などないことが「当たり前の常識」だったのだ。実際、自分で自分の感情を選んでいることにほとんどの人が気づいていない。

まあ平たく言えば、何があってもあまりショックを受けたりガッカリしたりしないで済むようになるんです!


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 201

第25章 その5

今までは当たり前だと思い込んでいたこと、自分ではどうにもならないと思い込んでいたこと、それが「思い込み」であることさえわからず「厳然たる現実」にしか見えなかったことが、捉え方や見方をちょっと(いや、実は大いに)変えただけで全然違うものになる。変えられないと思い込んでいたものが実は変えられる、全ては自分の選択次第なのだとわかるだけでもすごいことだ。とんでもない解放感を味わえる。文字通り世界が変わる。

私たちの中にちゃんと存在しているスピリットの部分、神とひとつである部分が聖霊とつながっているのだった(というか、そもそもそれらはみな一つなのだが)。その部分が個体である私たちを突き動かして「今までとは違う」とらえかた、見方をさせてくれるのだと考えても良い。そこは神の御心と一致した部分なのである。

それだけではなく、この部分が私たちを導き突き動かして、愛と平和と解放をもたらすきっかけが得られるようなところに赴かせるのだ。そして、常にそういう選択だけをしようという目的と決心が強固になれば、いつでもどこでもどんな時でもそういう経験しかしないようになる。そうでないときは「間違えた」とわかるようになる。間違えたとわかればそれを正す、手放すこともできるのだからすぐに「愛と平和と解放」を反映した経験が戻ってくる。

学びが進むにつれて、このような「今までとは違う、別の見方・捉え方」が、だんだん本来のものだったのだとわかってくる。選択の自由があった、というのはもはや意味をなさなくなる。どちらを選ぶのも自由だからといって、自分にとって喜びをもたらす経験が簡単に選べる時に何でわざわざ苦しいほうを選んだりするだろうか?今まで何てバカなことをしていたのだろうか?

神の御心は絶対であり不変なものだった。そしてそれが本来の自己であり私たちの自然な姿なのだった。不自然な状態で苦しむより自然に生きたほうが楽で幸せなのは当たり前ではないか。これがどんどん実感されてくるのである。つまり「自然に・あるがままに」とはこういうことだったのか!とわかるようになる。あまりにも楽なので、人によっては「こんなで良いのでしょうか」と不安になることもあるくらいだ。

とにかく、これが進んでくるにつれて嫌でも周囲の人々も巻き込まれてくるようになる。あなたの周囲には、実際の知り合いであれテレビなどで見かけるだけの人であれ既に亡くなった人であれ、罪深い人や批判に値する人、あるいはあなたを申し訳ない気持ちにさせるような人がいなくなってくる。あらゆる人が神のひとり子にしか見えなくなってくる。たとえその人が今どんなことをしていようとも、過去にあなたにどんなことをした(ように見えた)としても、である。こんな素晴らしいことがあるだろうか。もちろんエゴの抵抗がある。エゴにとっては「罪のないこと」つまり自他に対する批判や非難をしないでいるのが苦しくて不安なのだ。自分が消え失せてしまうからである。だからこそあなたも「こんな見方をしていたら自分がなくなってしまいそうで、人でなしになってしまいそうで怖い」などと感じるかもしれない。もちろん、そんなものは無視してよい。苦痛と喜びを、天国と地獄を間違えてはならないからである。

とにかく、あなたの「在り方」が変容することによって周囲の人々も多かれ少なかれ影響を受けるだろう。その度合いや形は、やはりこの世のことゆえ、「人によりさまざま」であるものの、内容は同じである。すなわち「罪は存在せず愛だけがある。もっとも頼みになるのは神の愛だけであり、それは今ここで無尽蔵に与えられている」というものだ。ひらたく言えば「限りない平和と喜びを感じられる」のである。

得る人がいれば失う人がいる、100万円誰かにあげてしまえばあなたの預金通帳から100万円減ることになる、これがこの世の「常識」である。物理的な世界ではそうなるに決まっている。しかし私たちは目に見えないものについてさえもこの「法則」を当てはめてしまっている。愛情(ではないのだが、本当は!)や思いやりでさえ秤にかけている有様だ。和尚は「愛でさえも取引されるようになってしまった」と言っているが、取引されるようなものは愛じゃないのだ。愛と呼ばれているだけで、全然違う別のロクでもない何かだ。

この「与えれば失う」とか「勝たなければ負ける」「生存競争」「幸せになるためには苦しまなくてはならない」などという「この世の原理」のおおもとにあるのが実は「罪という考え」なのだ。罪、という概念は定義により「懲罰か償い」と必ずセットになっている。

ところで、先ほど挙げた「和尚」は「マインドのするあらゆることに自覚的でありなさい」みたいなことを言っている。十字架上のキリストのセリフではないが「彼らは何をしているのかわからずにいるのです」とは、私たち全員にあてはまるものなのだ。それくらい私たちは無自覚に生きている。マインドの妄想を野放しにし、ちょっと見ればこれ以上ないくらいハッキリわかるようなものなのに見ないふりを決め込んで、しかも自分が見ないふりをしていることにさえ気づかない。「コース」の教えには「あらゆることに自覚的でありなさい」が存分に含まれている。そうすれば「どうして私がこんな目に?」などという煩悶も消え失せるだろう。こうだったからこうなったのだ、と、もうイヤになるくらいクッキリハッキリ見えてしまうのだ。

そういう意味においても「罪」という考えがどれだけこの世界を芝居し、自分に影響を与え自分の考えや行動の原理になっているのかをわかっておくのは賢明だろうと思う。

罪と言う考えがある以上、懲罰を与え償いを受け入れるべき「神」があることになってしまう。別に一神教文化に限らない。「祟り」とか「バチがあたる」とか「雨が降ってくれるように生贄を捧げる」なんていうのも基本は全部「懲罰と償い」の対象があると思えばこそである。

言うまでもなくそんなのは神でも何でもない、単なる偶像である。しかも狂った偶像である。救いという概念もあるにはあるのだが、救われるためには何らかのとんでもない代償を払わなくてはならないことになっているのだ。「コース」のいう「解放」とは全然違うものなのである。

「コース」の教える救いとは、そのために誰も何も失ったり犠牲になったりする必要がない、私たちには何かを失うことなどできないというものである。まずは救いの概念を変えなくてはならない、狂気を抜けて正気に戻らなくてはならないのだ。

誰かが愛と平和を得れば他の人たちもそれに与るのだし、誰かに愛や平和を与えれば自分にとってもますます増える。救いや解放も同じで、あなたが救われればあなたの目の前あるいは心の中の誰かも救われ、あなたがその人をゆるして解放すればあなたもその人によって救われ解放される、という具合である。

私たちの中には純粋理性がある。真理という揺るぎない岩がある。ここに立脚して見てみれば「この世の常識」こそおかしいのだ、と言うことがわかる。そして、わかるというそのことが救いであり解放になるのだ。個として生きているように見える私たちの中の普遍、あるいは神と一つである部分、ゆえにあらゆる人ともつながっている部分、救いや解放という役割を果たさせるのはここなのである。

宗教はもちろん、全てが一つであると標榜しているはずのスピリチュアル信奉者でさえも、自分と神(あるいは宇宙でも何でも)が別物だと思ってしまっている「この苦しみは神の御心だわ」なんていうのはもちろん論外、苦しむのは神の御心ではなくそれどころか神の御心に逆らうことだからである。その他、神は私に何をさせたいのか、とか宇宙が私に望んでいることがわからない、とか。自分の心と同じなんだからわからないわけがないではないか。あなたは愛や平和や癒しや解放を望んでいるのではないか?それこそが神のあるいは宇宙の御心に決まっているではないか!神と自分とは別物だ、というこの「狂った考え」に陥らないよう、よくよく注意していただきたい。また、その延長上にある「他人と自分とは違う考えを持っている」というのもまた同様に狂っているのである。エゴレベルで見ればそれぞれ違うに決まっているが、本来の自己というレベルで見れば一つしかないのだし、それは神の御心と同じに決まっているのだ。本当はみんな愛や平和や癒しや解放を望んでいるはずである。そして、これが失敗することはありえない!何故ならこれは絶対確実である神の御心だからだ。誰でも必ず得られる、というより既に与えられてしまっているからだ。

ずっと前に「心に何かを隠し持っていてはいけない、自分を誤魔化してはいけない、そうしてしまうと聖霊はあなたを助けられない」と書いたことがあるが、これは先に触れた「あらゆることに自覚的であれ」とほぼ同じ事態を示している。何か困ったことになっている時、いや私は正しいのよ!間違っていないのよ!仕方ないのよ!と思ってしまえば「あ、そう、よかったね。じゃあ好きにすればぁ?」で終わりである。まず自分で認めて聖霊に委ねる、という姿勢が求められるのだ。このとき、多少の抵抗を感じても構わないらしい。完全に喜んで差し出すことができるくらいなら聖霊の助けはもはや必要ないわけだ。

しかし、少なくともそれらの「困ったこと」を自分ひとりで抱えているよりも聖霊に渡すほうが自分にとってもより良いだろうとか、そうしたところで誰も困る人はいないのだ、くらいの理解は必要であるらしい。もちろん、聖霊にそれらを渡してもあなたが何かを失って困ることは絶対にありえない、これだけはわかっておいてほしい。

当たり前のようなことだが、既に救われ解放された人にしかできないような難しいことを「コース」は要求していない。そんなことができるくらいならとっくに救われているはずだからである。ほんの少しだけ聖霊を信じて委ねてみようという気持ちだけで十分だ、と言われると何だかホッとする。ものすごいことをしなくても、時間やお金をかけなくても、これだけなら誰でも今ここですぐにできることではないか。逆に、何かものすごいことをしなくては救われない、それが今の自分にはできないからまだ救われない、などと思うならあなたは自分の意志で救いを引き延ばしていることになる。

また、救いについて何もかもわかっている必要もない。わかっているつもり、というのは非常にマズイのだし、だいたいわからないからこそ救いを求めるのではないか。救われる、解放されるとは「本当のことがわかる」のと同じことなのである。

第258回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 198・199

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 198

第25章 その2

本来の愛や平和や真理はいかなる状況においても、いかなるものによっても何の影響も受けない。永遠に不変であるのだが、不変だといっても古びることがなく常に新しい。時間の支配下にはないからだ。私たちが握りしめておくことはできないが、常に今ここに尽きることなくあるのだから別に握りしめる必要などないわけだ。

私たちは本当の愛や平和や真理を求めているつもりで実は意味のない「形」を求めてしまっている。形にこだわってしまっている。だから自分がこだわる「形」がそこに見えない限り、目の前にふんだんにある愛や幸せが見えないのだ。というか、それらはわざわざ求めたりしなくても常に今ここで自分の目の前にあるいは自分の中にあるものだ。変化し移りゆく「形」つまりまるで死の装飾を施されたゴテゴテの額縁に目がくらんでしまっている。むしろそんなものがあるために、実は既に目の前にある幸せや喜びが見えなくなっているだけかもしれないのに!

誰かを見るときにも同じことが言える。自分とは違う人、イヤな人、苦手な人、私を苦しめる人、というのは全てあなたが作り出した「形」「額縁」なのだ。そこに目をごまかされなければ私たちはその向こうに相手の真実の姿を見る。それは私たち自身と同じ、神とひとつであるような神のひとり子である。キリストのヴィジョンによってキリストを見るのだ。どんなに闇が深く見えても、闇など実在しない。ただ私たちが自分の目をふさいでしまっただけなのだ。ゆえに、どんなに深い闇の中にも常にあなたを闇から救い出すものがある。あらゆる人が救い主なのだ。このことについては既に散々教えられてきたはずである。誰かとの関係が泥沼に落ち込んでどうしようもない苦痛に陥った場合でさえ、その人はあなたにとっての救い主になりうる。そのように相手を見ることができたとき私たちは苦しみから、全ての幻想から解放される。実際に目の前にいる人だろうが、既に亡くなってあなたの心の中にだけいる人だろうが同じことだ。

自分が作り出した暗闇を払いのけてみればよい。そのためには過去からのあらゆる情報を手放すことだ。記憶から消せとは言わない、ただちょっと脇においてみてほしい。

たとえ相手がドップリ暗闇に浸かっていようがエゴまみれであろうがそんなことは関係ない。あなたのほうでそれを共有しなければよいだけの話なのだ。この人ダメじゃん!で批判して終わってしまったり、あるいは「何とかしてあげよう」と思ってそのエゴや暗闇と格闘したのではダメなのだ。たとえ一見は何もしていないようであってもあなたが相手の本当の姿を見るのなら、それは双方が気づかないところで必ず双方に光をもたらすものなのである。(もちろん、一方あるいは双方が気づく場合もある!)

こういうことがほんの一瞬でもできたとき、私たちは言い知れない愛と平和と感謝に包まれる。それらは神が常に私たちに与えているものなのだが、ともに感じることによってますます増大・強化される。神の創造とは愛の同義語である。こういう愛や平和や感謝に包まれるとき、私たちは神と共に創造していることになる。神を喜ばせることはそっくりそのまま私たちにとっての喜びでもあるのだ。何故なら私たちの意志は神の御心と同じものだからであり、何であれ神によって造られた、神と一つであるようなものに感謝と祝福を感じることは神そのものに感謝と祝福を捧げることに他ならないからである。

こういう状態にあれば暗闇など見えるわけがない。消える、というより最初からなかったのだとわかる。わざわざ自分で作り出した、と思い込んだだけだったのだ。それを取り除けてみれば神の愛と祝福はあらゆる人にあまねく降り注いでいるのがわかる。自分にだけは来ないとかあの人には少なく、なんてことはありえないのだ。

また、こういう状態にあるときこそ私たちは「ゆるし」ているのである。更に、ゆるしなど最初から必要なかったのだとわかるのである。この解放感たるや、ちょっと言葉では表せないものだ。

やってみてほしい。一切の判断を脇にどけてただ平和な気持ちでここにいること。目の前のあるいは心の中の相手があなたに何をしようとも、そのマインドの姿勢を崩さないこと。感謝の気持ちを手放さないこと。ほんの少しの勇気があれば誰にでも今すぐここでできる。一円もかからず眉ひとつ動かす必要さえない。私たちは与えることができる、何故なら限りなく与えられているからだ。そして与えれば与えるほどますます豊かになるのである。

神の御心と私たちの意志が同じなら、当然私とあなたの意志も同じ、はずである。私たちはみな一つの目的だけを持っているのだ。エゴならこんなことはあり得ない。この真理をエゴ的にとらえてしまうととんでもないことになる。この世の損得勘定の話なら私とあなたの利害が常に同じわけがないではないか。

だから、間違いに陥らないよう常に注意しなくてはならない。相手の間違いにひきずられずに尊敬を持って対することができれば、私たちは自分自身も相手も尊重していられるのだ。こんなひと尊敬できないわよ!と思うならあなたは相手を「自分とは違う個人」だと見ていることになり、自分自身を「神から分離したバラバラのものだ」と見ていることになる。エゴどうしの話ではないのだ!エゴとしての自分がエゴとしての相手を尊敬したって何にもならないのである。そこを間違えないでいただきたい。

私たちの知覚認識機能は全て投影作用なのだが、これは前にも見たとおり神による創造行為のパロディみたいなものなのだ。そこにあるもの・・・愛や真理など・・が自らを与えそれによってますます増大するという神の法則が歪められて適用されたと言っても良い。しつこく書くが、「現実だと思いたいものが現実になる、そのように経験される」「あなたの知覚認識するものは全てあなたが望んだことである」、これを今一度確認していただきたい。

直接知は文字通り「そのまま知られる」ものなので、そこにはいかなる判断も解釈も入る余地はない。しかし知覚認識は判断や解釈の結果である。私たちはいつでもその都度「これをどう見るか」という選択を自分に課しているのだ。無意識・無自覚にやっているこの選択を自覚的にやるのも「コース」実践のうちである。私たちが世界だと思っているものもやはり投影の結果である。自分が神から離れたバラバラの個人だと思っていれば世界もその信念を正当化するようなものとしてあなたの前に立ち現れる。すなわち善と悪があり、何もかもが変化し、自分の内外には常に敵があり、罪と恐怖と攻撃が当たり前のものになる。なぜなら個として生きることを選択すればその個を保持することが目的になり、自分以外の他者はすべて個としての自分を脅かすかもしれない存在にならざるを得ないからである。

しかし、聖霊の目で見る者(あるいはスピリットとして生きる者)にとって世界はまるで違った様相をあらわすのだ。知覚認識に先立つ判断の基準が「ひとつであること、愛や平和を得ること」になっているのだから、何もかもがそれらを正当化するものとして立ち現れる。これは個の場合と同じ道理である。が、聖霊の知覚認識をもってすれば私たちは「この世に在ってこの世を超える」ことになり、この世のあれこれに煩わされることなく逆にどんなことでも救いや解放のチャンスとして活用できるようになる。エゴだったら「怒って当然よ!」と思えたことが聖霊なら「愛と感謝を与え受け取るチャンス」になる。無理やりそうするのではなく、本当にそのようにしか見えない、思えないようになるのだ。

ここでちょっと注意していただきたいのだが、たとえばあなたに暴力をふるうような人に対して「この人は本当は良い人で私を愛しているのよ」と思い込むようなことではないのだ。それはエゴレベルで無理やり正当化したに過ぎない。このあたりの違いは説明しづらいのだが、とにかく苦しみを抑圧して無理やり正当化というのはダメなのだ。

いずれにしろ、この世はゆるしと解放のチャンスに満ちている。ゆるし、癒し、愛や感謝を与えれば与えるほど私たちはますます解放され愛と平和に満たされて豊かになる。とりあえず普通に生きていれば毎日一つや二つは「間違い」に遭遇するものだ。そのたびに自分のマインドにおいてそれを正し、癒し、ゆるして手放すという作業を続ける、これがこの世における私たちの役割・使命だと言ってよい。

そして、間違いを正すことのできる「正しいマインド」は私たちに与えられているのであって、ちょっと忘れられることはあっても失われることはありえない。私たちがどんなに間違いを犯そうとも、それを正す助けになるものは常に私たちの中にあって私たちに使われるのを待っている。つまり私たちは無力ではないのだ。それに気づいて使うようになれば私たちはあらゆる現象に別の光を当てて見られるようになる。今までは苦痛をもたらす原因になっていたようなものが自然に愛や平和をもたらすものに見えるようになったりするのである。これが「歪んだ知覚認識機能を正す」ということである。

さて、罪と思われているものは実際には単なる「誤認識」に過ぎない。あ、間違えちゃった、というレベルのことを「懲罰に値し万死に値するもの、ゆるされざるもの」だと思い込んでしまったわけである。

でも、どうしてもゆるせないことがある!という方はよく考えてみてほしい。それが自分のことであれ自分以外のことであれ、その「ゆるせない」という思いを維持することによってあなたは何を正当化したいのか?私はただ自分が正しいことを証明したいんだ!私は正しいから正しいんだ!と思うかもしれない。しかし、そうなるとあなたは「善と悪と戦いがある世界」を正当化したいと思っていることになり、つまりは「間違いを正当化したい」と思っていることになってしまう。その思い込み=信念はあらゆるところに波及してブーメランのようにあなたを傷つける。あなたは至る所で「間違いが正当化される」経験をすることになる、要するに「不当な目にあう」ようになるだろう。いくら自分が正しいと思っていても、怒りや攻撃などを正当化すればあなたは怒りや攻撃を望んでいることになるのだ。人は誰でも「望ましい、好ましい」と思えるものを正当化するはずではないか。ああだから、こうだからできない、といって自分を正当化している人は「できないこと」を正当化している。できないという状態を望んでいる、つまり本当は「やりたくない」のである。いくら「やりたいと思っているつもり」だとしても、だ!

とにかく、平和で幸せになりたかったらゆるしなさい!というわけなのだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 199

第25章 その3

私たちは誰でもその目的とするところに沿って知覚認識をしている。言い換えればあなたにとっての世界はあなたが望むとおりのものになっている、ということだ。そういう意味では私たちは今も今までもこれからも常に「自己実現」してしまっているのである。問題は、私たちのほとんどが自分の目的や願望に気付いていないということだ。

さて、「コース」によれば罪とはもう動かしがたく固定されたものなのだそうで、いったん罪を犯してしまったらもう何をしてもその痕跡が消えることはない。いったん傷つけばその傷跡は消えない。傷つくとは神の御心にはないもの、それに反するものである。しかし、私たちは神に逆らうと思うことはできても実際に逆らうことはできないのだった。神に逆らうとは「存在しなくなる」ということに他ならないからである。私たちは存在しないことはできない。身体が死のうが何だろうが存在しなくなることはできない。ゆえに、罪はありえない、そういうことだった。

罪とは、実は間違いに過ぎないとわかるのがまず第一段階だとすれば、その間違いを正してゆるすのが第二段階である。聖霊は間違いを見つけるやいなや即座に癒し正してしまうので、聖霊の目には癒され正された姿しか映らない。

冒頭に書いた「目的」ということを考えてみてほしい。あなたは呪われたいのか救われたいのか?苦痛がほしいのか幸せと平和がほしいのか?もしも救いや幸せを求めるなら、それらを目的として設定し断固たる決意を持って手放さないようにしなくてはならない。何かについて嘆き悲しみ苦痛を味わい、何かについて怒りを覚えるならあなたはこの目的を手放してしまったのだ。そういうことは日々起きるものだが、「コース」学習者である私たちはそれに気づけるよう常にマインドを見張り、その都度即座に正していかなくてはならない。世界は固定された現実などではなく、このようにしてその都度あなた自身が選び取っていくものなのである。

ひとつであるようなマインドには他者がいないので攻撃はありえず、従って傷つくこともありえない。そこには喜びだけがあり、マインドはその喜びを更に求めるのでますます一つになろうとする。

人はみな自分にとって喜びであろうと思われることを望むものである。そしてたいていのひとが喜びを直接求めることができないと思っているので、その喜びをもたらしてくれると思われるようなものをまず求める。これは前にも書いた「形を求める」ということと同じである。そこにトンチンカンな勘違いがひそんでいるのではないか?とはあまり考えないらしい。

喜びを求めているつもりなのに苦しんだり傷ついたり怒ったりしているならば、あなたは苦しみや怒りを喜びと混同しているのだ。えーっ、まさか!と思うだろうが、これは考えてみれば拍子抜けするくらい当たり前のことなのである。少なくとも「どこかで間違えたのだ」ということくらいはわかるはずだ。

この世のあらゆる事象それじたいには別に意味がない。私たちがそれをいちいち判断し意味づけをしているに過ぎないのである。同じことがある人には喜びになり別の人には苦痛となる。同じ人であってもある状況においては喜びであるものが別の状況では苦痛となる。要するに、この世のあらゆる事象はそれくらい「どうにでもなる」ものなのだ。どうにでもなるようなものなんだったら、わざわざ苦痛の種にすることもないのではないか。どうせなら喜びの種にしてしまったほうが楽しいのではないか。

苦しいなあ、辛いなあと思いながら無理やり良い面を見つけて楽しもうとしてもダメなのである。これは前回も書いたことなのだが、実際に苦しんでいる人が「これは喜びなのよ、愛なのよ」などと思ってもダメなのだ。本当に心から喜びを感じるのでなければそれは誤魔化しであり抑圧に過ぎない。本当に喜びをもたらすものとして知覚認識できるところまでやらないとダメなのだ。

とにかく、「愛と平和」を揺るぎない目的にしておけば、この世のあらゆることが「喜びをもたらすもの」として知覚認識される、これが聖霊による知覚認識なのである。そこには別に「これこれこうだから楽しいのだ、喜びなのだ」などという理由も要らない。何が起ころうがそんなことに関係なくただ愛と平和であり続けていたって良いわけだ。無理やり何かしら理由を見つけようとするから難しくなることも少なくない。むしろ「何があっても関係なく幸せ」というほうがより容易いように感じられる。この世の常識に惑わされてはならないのだ。こんなときに幸せだなんて不謹慎だ、人でなしだ!そんなふうに思ってしまうかもしれない。しかし、いつものことだが「コース」の常識はこの世の非常識なのだ。

このようにして、ともすればあらゆることが苦痛の種になってしまうような世の人々にとって私たちは安らぎと喜びをもたらす光源になる。世を照らす光である。神の愛に応えるため、世の人々の助けになるためだけではなく、単純にまず自分自身のためになる。「あらゆる人々に平和をもたらす者は、この世の何ものにも破壊されない神の国に住むことになる」のである。一点の曇りもなく無垢で、いつでも平和で何ものをも恐れずにいられるのである。これ以上の幸せがあるだろうか?しかし、これこそが私たちの本来の状態なのである。時々は道を踏み外してしまうことがあっても、私たちはいつでもここに帰ってくることができるのだ。

あなたさえその気になれば、あなたはあらゆるものに神を、天国を見ることができる。時間も場所も何も関係なく、それがどんな形をとってあらわれているように見えても、常にいまここに見ることができる。更に、私たちはこの天国をいつでも自分とともに持ち歩くのだから、この世のあらゆるところに天国をもたらすことができるようになる。わざわざ何かをしようと思わなくても、あなたの周囲にいる人々は自然に癒されゆるされてしまうだろう。

さて、罪なき状態とはどういうものか?「コース」によれば、「攻撃したい・されたいという願望が完全に消え失せ、自分も含めたあらゆる人を神とひとつである神のひとり子だと見ること」だそうである。そこにはもはや「異物としての他者」がないのだから、攻撃も恐怖もなく、罪悪感もありえない。何度も繰り返されていることだが、罪と攻撃とは「罪悪感による懲罰の恐怖」を媒介にして常にワンセットになっている。どちらか一方だけがある、というのは不可能であり、つねに片方がもう一方を強化し正当化するようになっている。どちらか一方に陥っている人にとっては必ずもう一方も「現実」なのである。正義によって攻撃しているのだ!と思うなら、攻撃の対象である相手は罪深いことになる。しかし、相手に罪を見るからには投影の原理によってまず自分の中に罪を見ているはずである、というか自分の中の罪を見たくないから相手に押し付けているのだ。

これも以前の繰り返しになるが、あらゆる攻撃はその本質からして神に対する攻撃であり、ひいては神と一つであるところの「本来の自己」に対する自己攻撃である。誰かに無視されて傷ついたとか足を踏まれてムカついたというレベルのことであっても、あなたは神をそして本来の自分を攻撃してしまったのだ。神や本来の自分を敵に回してしまったのだ。それは自覚のないままに恐怖となり罪悪感となるのが必定だ。そして、このときあなたは「神のひとり子ではない、本当の自分ではない何か別のモノ」になっている。

このあたりは前にも書かれていたことばかりである。目の前の或いは心の中の誰かをどう見るか、どう見えるか、どういう存在だと感じるか、それは全て自分のマインドの投影であり、私たちはそのように自分自身のことを見ているのだ。自分の中のキリストが相手の中のキリストを見る、あるいは自分と相手とがキリストを通して出会うのが本当なのである。与えるものを受け取る、どこまでもこの原理が作用する。

誰かを罪あるものだと見るならあなたもまた同じように罪あるものなのだ。逆もまた然り、である。一方で誰かを汚れなき神のひとり子だと見るならばあなたもまた同じように神のひとり子なのだ。逆もまた然り。解放するものは解放される。そのとき相手はあなたを解放する救い主になる。もっと言えば、あなたはその誰かに「救いを解放を与える」という役割を果たさせ、それによって得られる喜びをもたらしてあげていることになる。逆に、あなたが曇った眼で相手を見ている限り、どちらも聖なる役割を果たせないことになってしまうのだ。

誰かが「ずるい人」に見えれば、あなたはその人をあなたにとって「ずるい人」という役割を持つ者にしてしまうことになる。理由はどうあれ、誰かのことで苦しんでいるならあなたはその人を「自分を苦しめる者」にしてしまう、そういう役割を負わせてしまうことになる。それによって、あなた自身もまた救いや解放という聖なる役割を果たせないことになる。

相手が自分にとってどんな人であってほしいか?それはあなたの選択次第であり、あなたは自分が選択したとおりに知覚認識している。どんな人、というのを「優しい人、素敵な人」などというエゴレベルでとらえてもある程度はうまくいくのだが、これは「コース」の教えからは外れるし、この方法ではどうしても限界が生じる。自分が考えるやり方で優しくしてほしい、などという期待や願望が入りこんでしまうからである。エゴは失望しかもたらさないことを思い出していただきたい。

まず、自分の目的・・愛と平和、救いと解放・・を明確にしてそれを保つことが前提条件である。エゴレベルでとらえた相手の言動をいちいち解釈し直して「こう言ったのはきっとこういう意味なんだわ、だから良い人なんだわ」みたいにならないように。極端な例だが十字架上のキリストを思い出せばわかる。キリストは自分を磔刑にした人々を「バカだ、悪人だ」などとは見ていなかったはずだ。彼らの言動にはどう頑張ってみても「キリストにとって良い人」に見えるような解釈の余地などなかったにもかかわらず、である。

ともに聖なる役割を果たし、解放の喜びに浸るのだからそこに勝ち負けなどあろうはずもない。相手を神のひとり子と見ればその人はあなたを天国に導く者になり、批判的な目で見ればその人はあなたを地獄への道連れにするだろう。

しかし、おそらく次のような疑問が出てくるだろう。「私は相手を神のひとり子だと見たはずなのに、相手は何も変わらなかった。それはどうして?」つまり、ともに解放されたはずなのに相手は依然としてエゴまみれに見える。そういうことが非常に多いと思う。

再び、しかし!よく考えてみてください。相手が変わっていない、エゴまみれだと「見て」いるのはあなたなんですよ。相手がそのような姿に映っているのはあなたのマインドという鏡なんですよ。更に、この世には「時間」というものが一応あって私たちは多かれ少なかれ時間に支配されている。時間の存在を信じている。ゆえに、本来なら時間も空間も関係なく瞬時に起きるようなことでも「時間がかかる、手間ひまがかかる」ようになってしまうのはある程度仕方ないのである。

私たちの役割とは言うなれば「神の御心をこの世において実現する」ことなのだが、もしもあなたにおいて苦しみや憎しみが現実になっているのなら、あなたにとって神の御心とは苦しみや憎しみを与えるものだということになってしまう。「これは神の御心だわ、試練だわ」と思う人も実際に少なくないのである。神は試練など与えない。神には試練という概念さえないだろう。試練もまた私たちが作り出したものだ。試練を与え苦しめる神は私たちを愛しているのか?愛しているからこそ苦しめるのか?そう考えることができるのは私たちが愛や喜びと苦しみ・憎しみを混同してしまっているからではないのか?

第257回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 196・197

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 196

第24章 その5

この世の生存競争は全て「個体保持」のためのものである。種の保存のために自然淘汰が行われる、という考え方もそれと全く同じものだ。

ひとりひとりが身体という要塞に閉じ込められた別個の存在であり、それぞれが自分の中に自分だけの世界を持っていて、他者=異物の侵入を許さず、愛や光を締め出してしまっている。個体を保持しようとすればどうしてもそうなるのであって、常に攻撃の危険にさらされているので警戒を怠ることができず、ゆえに自分からの攻撃は正当化され、完全な平和は得られず、そういうことを繰り返した挙句に最後は必ず死ぬ運命なのだ。うんと頑張ろうが何もしなかろうが、結局は「生まれて死ぬ」ことに変わりない。個別=身体を現実だと思っていればそうならざるを得ない。いや、魂は不死なのだと考えたところでそれが「個別の魂」であれば、個別の身体を持った同じような生を幾度となく繰り返すだけではないか。

もうそういうことは止めにして別のゴールを目指してみませんか?と「コース」は言っているのである。より平和で安全で愛に満ち、しかもより少ない努力で得られるものだ。なぜならそれが本来の自然な姿だからであり、神の限りない力に助けられるからである。しかし、たいていの人が「そっちのほうがずっと難しい、大変だ」と思っている。これもまた「個体保持」という幻想が根強いためなのだ。個体を捨てるなんて、そんな!これはとんでもない「犠牲」ではないか、と思ってしまうのだ。しかし、私たちが「自分だ」と思い込んでいるこの個体は、実は自分ではない。それどころか本当は実在さえしない。実在さえしないものを守ろうとするのはそれこそ大変だし、虚しい努力に決まっている!

いつも言うようだが、個体を捨てるからといって別に「死ね」などと言われているわけではないのだ。個体としてではなく「神においてひとつのもの」として生きてみませんか、と言われているだけである。犠牲や喪失の恐怖が強いとどうしてもその方向にひきずられた解釈しかできなくなる。

しかし、少しでも神に或いはキリストに委ねようと思ってみれば、私たちは今までどれほどの重荷を背負って生きてきたかを知ることになるだろう。スピリチュアルふうに「宇宙に任せよう」というのでも構わない。やってみたことのある人はわかるだろうが、下手に個体を守ろうとしないほうが結局ずっと「守られた」状態になり、現実生活のあれこれについても余計な苦労をせずスムーズにできてしまうのだ。個体を守ろうというのは要するに閉じた状態であり、何でもオープンでいたほうがうまくいくのは当たり前のことだ。

それにしてもこの「個体・個別」を現実だと信じ込みそれを守ろうとすることが私たちにどれほどの影響を与え重荷を強いていることか!個としての私たちは神から造られたものではなく、私たち自身が勝手に作り出した(と思い込んだ)ものである。神と同じ「創造」の資質とパワーを与えられた私たちは、それを誤用してしまったのだ。神の創造とは似て非なるもの、そこに愛はなく分離からくる恐怖と罪悪感だけが残る、そういうものを作り出してしまい、なおかつそれを守ろうと必死になってきた。この身体であれ、個としての自分であれ、自分以外の他者であれ全ては私たちのマインドが作り出した(と思い込んだ)ものなのである。実体がなく幻なので、死ぬ思いで守っていないと破滅してしまう。いや、必死で守ったところで結局最後は死んでしまうのだ。

本来の私たち・・神によって造られたままのスピリットとしての私たち・・は、永遠に変わることなく存在し続けるものである。創造されたものは全て、生死などという現象にかかわらず過去も未来もなく常に今ここに在り続けるのだ。自分においてそのことがわかれば、それはあらゆる人についてもあてはまると気づくはずなのである。相手に聖性が見えればそれは自分の中にもある、というのと同じことだ。反対に、相手を個別のものだと見ればそれは自分自身についてもまたそのように考えていることになる。やはり投影=鏡なのだ。私とあの人は違うわよ!と思うなら、そう考えるまさにそのことが「個別性」を現実だと信じている証左になってしまう。

私たちが「自分の価値」を考えるとき、どうしても「他の誰とも違うこのワタシの価値」というふうになってしまう。しかし、そうしている限り自分の本当の価値は絶対にわからないのだ。私たちの本当の価値はこの「個別」である何かに閉じ込められるようなものではないからだ。いわゆる「本当の自分探し」がなかなかうまく行かないのも、ちょっとうまく行ったように思えてもすぐにまた袋小路にはまってしまうのも、「個別であるところの自分」を探そうとしているからだ。そんなものは「ない!」のである。

さて、私たちは身体を守りたいのか?まあたいていの人は病気より健康を求めているだろうが、この世において健康という概念は「不健康」とワンセットになっている。健康というものしか存在しなかったら、誰がわざわざ健康になりたいなどと思うだろうか?私たちには「病気・不健康」という状態が「現実」としてあり、そうなりたくないために健康を求めているのではないか?健康だけではなく、より若く美しく強く見えたいなどというものもある。しかし、それらは結局何のためなのか?この世において「このワタシ」がより多くの満足と利益を得るためではないのか?しかし、それをすればするほど「個別性」を強化することになり、その結果ますます罪悪感や恐怖が強まってしまうことは以前にも述べた。

そもそも身体がマインドの一部であるのなら、そして身体は実在しないのなら、守ることじたい不可能ではないか。私たちにできるのはマインドを守ることだけではないか。

じゃあ、私たちはマインドを守ることができるのか?答えはイエスでありノーである。マインドを守るのは「このワタシ」つまり神からバラバラになったところのワタシではないのである。このワタシにマインドを守ることなどできないのだ。マインドを守れるのは神と一つであるところのスピリットたる私だ、と言うことはできる。しかし、より正確にはマインドは神にあるいは聖霊によって常に守られているのである。私たちは間違いに陥らないようにマインドを見張ることはできる・・これは、ある意味で「守っている」とも言えるだろう。そもそも、マインドそのものが傷んだり歪められたりすることはありえないのだ。今まで散々「私たちのマインドは幾層にも分裂してしまった」と書かれてきたし、私もそう書いてきた。しかし、本当は!そんなことはありえない、不可能なのである。ただそれが現実のごとくに思われ信じられているだけなのだ。学習途上の私たちは、とりあえずこれ以上間違いに陥り幻想を現実だと思わないようにマインドを見張っておく、それによってマインドを「守る」ようにしよう、と考えておけばよいと思う。

いかなるバカげた考えや間違いも私たちのマインドを傷つけたり歪めたりすることはできないのだ。何故ならマインドは神によって造られたもの、神の御心の一部である完璧なものだからである。にもかかわらず私たちが有史以来こういう事態になっている(ように見える)のは、取りも直さず私たちが「夢の世界」にどっぷり浸かっているからに他ならない。

何度繰り返しても繰り返し足りないことなのだが、私たちの(認識する)世界はマインドが映し出すものであり、そのマインドは自らにとって真実であるとするものを映し出すのだった。言い換えればマインドはその目的とするところに応じて世界を映し出す。私たちの目的は救いであり解放であり平和である。これを見失ってはならない。ここから動いてはならないのだ。この世で起きている(ように見える)あれこれ、その一つ一つについて「いったいこれは何のため?」と自問してみてほしい。あなたが出した答えはあなたの世界観を或いは自分が何者であるかという自己規定を表しているのだ。ひとりの人間(!!)として考えれば「とんでもないこと」にしか思えない大惨事であろうが、スピリットから見れば「何も起きていないに等しい無意味なこと」だったりする。これは通常あまり大きな声では言えないことだが、本当にそうなのだから仕方がない。どんなことが起きている(ように見える)のであろうと、マインドの平和は揺るぎない。何故なら私たちはそれを目的にしているからだ。どんなことに遭遇してもマインドが平和である、これが救いであり解放でなくて何だろう?

個人としての私たちはこの大いなる目的を実現させるための手段として機能している、と言っても良い。変な言い方になって恐縮だが、たとえば身体を超越するためにはその超越されるべき身体が必要なのであり、世界を超克するためにはとりあえず超克されるべき世界が眼前にあることが前提になる。

本来の状態即ち神においては「あらゆるものが一つである」ことを思い出してほしい。そこでは手段と目的は一つなのであり、両者の間に区別はない。これは考えてもわからないことだが、経験することはできると「コース」は言っている。私たちにその経験をさせてくれるのが聖霊なのである。聖霊に導かれて私たちはある日あるところである状況下においてそういうことを経験する。もちろん、本来は時間も場所も「ない」のだが、とりあえず今の私たちにはそれが「現実」になっているのだし、聖霊は私たちの幻想を「学びのためのツール」として有効利用してくれるので、私たちそれぞれがその都度理解可能な範囲において私たちを導くようになっている。だから、たとえば「何か偶然の・あるいはやむを得ない理由によってある場所に出向いて全てが変わってしまうような経験をした」「あるとき偶然にある人と話をして大きな気づきを得た」などということがあるわけだ。

しかし、そもそもそう思い判断するところの「知覚認識」じたいが既に「手段」に過ぎないのである。日々見たり聞いたり感じたりするというこれらが「手段」だとはなかなか理解しづらく受け入れがたいかもしれないが、とにかくそうなのだ。自分が何を見聞きした(と思う)かを見れば自分のマインドのありようがわかる、自分が何を真実・現実だと考えているのか、何を「望んで」いるのかがわかる。これだけでも十分に手段ではないか。たとえばあなたが幸せを望んでいる「つもり」なのに、いまあなたが何かで苦痛を感じているならあなたは実は苦しみを望んでいたのだとわかるではないか。そんなことは絶対ない!と思いたいかもしれないが、ここは是非認めていただきたい。幸せを、平和を求めていたはずなのに「間違ってしまった」のだと認めればよいだけなのだ。間違いは、それが間違いだと認めないかぎり正すこともできない。

常軌のことを逆から見れば、知覚認識とは或いはそれが宿るところの「身体」とは、自分の願望を現実化するための手段だとも言える。エゴで生きていればどうしたって苦痛は免れないので、身体はその苦痛(という願望)を体現するための手段になってしまう。

しかし、身体によってもたらされるものは全て身体にとっての現実でしかないのだ。なのに私たちは、見え聞こえ触れられるから実在する!と思ってしまう。それどころか自分の実在さえこの知覚認識機能によって確認されるものだと思ってしまっている。

この身体を「自分」だと考えること、他でもない「このワタシ」があると考えること、これを「コース」は「偽物の神の子」だと言っている。つまり本来の神ではなく、神と分離したマインドが作り出した被造物(もどき)だと言っているのだ。この「神の子」は創造主である「このワタシのマインド」の目的に沿って動くようになっている。本来の神の創造のパロディみたいなものである。

かくのごとく、この世には二種類の「神の子」ができてしまった。もちろん本当の神の子は「ひとつ」なのだが、それは忘れ去られている。そしてこの異なった神の子どうしは決して出会うことがない。ひとつが現れればもう一つは消えるのである。あるいは、一方は外側に他方は内側にあると言っても良い。

この二つの違いはどこにあるか?それぞれの「目的」が違うのである。ある人がエゴなのかそれともスピリットとして生きているのかを分けるのはその見かけや行為ではないのだ。私は特別なのよ!迫害されて苦しんで死ねば天国に行けるのよ!と思って死んだ殉教者は、その行為は一見立派なようでも結局エゴである。

個人であること、特別であることを求めれば良くも悪くも知覚認識はそのような現実を映し出す。しかし!知覚認識機能も学びのためのツールなのだから、目的さえちゃんとしていればそれに適った働きをして、愛や平和や癒しを現実化することになるのだ。知覚認識機能を正す、とはそういうことである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 197

第25章 その1

自分で気づいていようがいまいがキリストは私たちと共にある、というか私たちの中にある。が、キリストは身体に宿っているのではない。ならば、キリストは私たちの身体の中にいるのではない。

今までの内容を見れば言うまでもないことのようだが、それでもつい私たちはキリストを思うとき自分の胸に手を当ててみたりする。まるで自分の心臓=ハートの部分にキリストが宿っているかのように、あるいは自分の身体の奥深くにキリストが宿っているかのようにだ。これはもうある程度仕方のないことなのかもしれないが、私の感じるところによればどちらかというと「キリストの中に自分がある」と思ってみたほうがわかりやすくなるようだ。基本的には内も外もないのだからどちらでも構わないのだが、身体の中にあれこれが閉じ込められているというイメージは持たないほうが良いような気がする。

キリストは命である。死すべきものの中に命が閉じ込められるようなことはありえないのだ。もちろん、キリストと一つであるところの本来の私たちもまた死すべき身体に閉じ込められてなどいない。

キリストとともにある者はあらゆるところにキリストを、そしてその聖性を認めることができる。いまの私たちにとって「別々の個人である」ことが自明であるのと全く同じように、あらゆるところにキリストがあるのが自明のこととなる。そのときもはや身体は意味をなさない。

自分を或いは他人を「別々の存在」即ち身体だと信じている人々は、要するに自分ではそうと知らずにキリストとともにあり動いていることになる。こういう場合、本人はどこにもキリストを見ることができないし、またキリストに成り代わって奇跡をもたらしたりして周囲にキリストの存在を知らしめることもできない。

前にも述べられていたように、身体は癒しを必要としないし癒されることもできない。癒されるべきは「身体を癒したい、身体は癒される」と思っているマインドだけなのだ!そういう間違いに陥ったマインドこそキリストによって癒されるのである。

しかし、今の私たちは自分を身体だと思っており身体が見えているわけなので、キリストによる癒しはあたかも身体に作用しているかのように見えるのだ。あたかもあなたがあなたとは別の人間である彼(女)の身体を癒しているように見えるのだ。身体はその道具として使われる、それ以外の意味はない。

本当はマインドが自らを癒しているだけなのだが、とりあえず身体を持った人間として生きているこの世においては、ある人が別の誰かを癒しているように見える。別々の人間である(ように見える)ことはこういうふうに有効利用される。そしてこのように身体を用いることこそが私たちの使命なのである。

私たちに課せられた使命はそれほど大変なものではないのだ。なぜならそれをやるのは「このワタシ」ではなくてキリストだからである。私たちはその邪魔をしなければよいのだ。これも前に書いたことだが、自分が何かをする!のではなくてキリストに自分の身体を道具として提供すればよいのであり、そうしようとしているうちに段々私たちは自分の身体がただの道具だとわかるようになってくる。

言うまでもなくキリストはマインドであり、それと一つであるところの私たちもまたマインドなのだ。それを考えればキリストが私たちの身体を通して働くのはそれほどとんでもないことでも難しいことでもないと思える。このワタシ、は何もしなくてよい、というか余計なことをしてはならないわけだ。何だ、楽じゃーん、とはならずに案外難しく感じるのは、これがエゴを捨てるのと全く同じことだからだろう。

癒しとは、キリストでもあるところの私とあなたがキリストにおいて出会うこと、聖性においてつながることである。すべてが一つであるとはこういうことでもあるのだ。

ここでもまた知覚認識機能が重要な役割を果たすことになる。あなたが見たり聞いたり、つまり知覚経験することのなかにあなた自身が現れるのだ。キリストが出てくればあなたはキリストとともにありキリストと一つなのだということだし、誰かを「他者」だと思ってしまえばあなた自身もまた「神と分離したバラバラの個人」だということになる。投影という作用を思い出していただきたい。

あなたが誰かに或いは何かに聖性を見るならば、その時あなた自身も聖なる存在=キリストになっている。あなたの知覚認識経験がそれを示してくれている。前回に述べたように、知覚認識とは自分がどうありたいかを表しているものである。自覚はなくても、あなたが判断し選択した結果なのであり、常にあなたの目的に沿ったものになる。すなわち「神においてひとつ」なのか「バラバラの個人」なのか。愛と平和を求めているのか特別さを求めているのか。知覚認識の結果はその目的と必ず一致する、というかまあ投影なのだから一致して当たり前なのだ。

私たちは本当の命である神(の御心)の一部であり、そこから生じる愛や平和は私たちの身体を通して全方位的に放射されている。あなたのマインドが誰かのマインドを癒すことができるのは、それが身体によって遮られていないからでありまた本当は別々のマインドではなくて一つのものだからなのだ。

私たちはあまりにも「別々、バラバラ」という考えに慣れ親しんでいるために天国=神の国さえ自分とは違う何かだと思い込んでいる。当面はそれでも構わない。何故なら私たちと神の国=真理とを結びつける手段を学ぶのがこの「コース」だからであり、学ぶにつれてあらゆるものが「ひとつである」とわかるようになっているからである。どんなに神を忘れ神から離れてしまったと思い込んでいても、真理を忘れていない部分=キリストが住まう部分はマインドの中にちゃんと残されている。特別でありたい・個でありたいという間違った目的が正されれば私たちのマインドは元の通り神の御心と同じものになり、同じものを目ざすようになる。

自分の意志が神の御心と同一のものだ、なんてことはそれこそ考えてもわからないのだが前回にも書いたとおり経験することはできるのであり、聖霊に従えばそのような経験を得ることができる。いつ、どこで誰と何を・・・などという「動き」がエゴによるものでなく聖霊の導きによってなされれば自然にそうなる。これも前回書いたように、本当は時間も場所もかかわる相手も関係ないのだが、聖霊はあくまで私たちそれぞれに理解可能なやり方で私たちを導くようになっている。たとえば過去生などというものも本当は幻に過ぎないのだが、それを信じている人にとってはそこから入るのがもっともわかりやすいかもしれないのだ。そういうわけで幻想を駆逐して真理をもたらし「ひとつであること」を学び経験する方法や状況はまさに「人の数だけある」というふうになる。しかし、どれも結局は「同じものが別々の異なったものになることはありえない。一つであるものがバラバラになることもありえない」という事実に行きつくようになっている。

さて、この世において通常の身体による知覚機能では絶対普遍の真理を認識することは不可能だ。身体で知覚認識できるのは全て変化するもの、移りゆくもの、不確実なものだけである。そして私たちは必ず、一人残らず恐ろしいものを見聞きする。そんな経験はありません、なんて人はひとりもいないはずだ。その一方で時には美しく素敵なものも見聞きする。当然、自分にとって好ましいものだけを知覚経験できたらいいなと思う。しかし、これらはみな「変化し移りゆくもの」という点では同じなのである。だからこそ、過去に経験した美しく素晴らしいものが失われ戻ってこないことを嘆いて過去の苦しみに囚われ続け、あるいは過去の経験に鑑みて「こういうものが手に入れば幸せなのだ」と考えてはいろいろな願望を抱く。それらが実現したとしてもやはり「変化し移りゆく」ことには変わりがないのだから、またも失って或いはもはやそこに喜びが見いだせなくなって失望し嘆くようになる。

「変化し移りゆく」というこの世のあれこれを求めたところが既に間違っているのだ。そうしている限り私たちに望みはない。つまり、そもそも望みがないところに希望を抱いたことじたいが間違っているのである。パン屋に行って「指輪がほしい」といくら騒いでも懇願しても脅しても絶対に手に入らないのと同じ道理である。

厳密に言えば、私たちがいま見聞きしていることもマインドの判断が投影された「結果」なので、ある意味では既に「過去」なのだ。それがいくら素晴らしく思えても、それを永久にとどめておこうとした瞬間に美しさは失われる。

あなたにとって良いものも悪いものもひっくるめて過去を捨てなさい。そこに価値をおくのをやめなさい。今生の過去だろうが過去生だろうが同じことだ。過去は要らない。なぜなら、苦痛をもたらすものはまさにそのことによって幻想なのであり、本当に美しく素晴らしいものなら失われることなどありえず常に今ここで経験できるはずであって何も過去にしがみつく必要はないからだ。過去を手放せ、というと「苦痛は手放したいけど良い思い出は手放したくない、そういうものもなくなっちゃうんですか?」と抵抗する人がいるのだが、とにかくやってみればどんなことだかわかる。

絶対に不可能なところに望みをかけてはやっぱり失敗し、でも今度こそはと思って懲りずにやってまた失望する。私たちはこういう生き方をしてきたのである。この世のあれこれを現実だと思って、それが自分に幸せや喜びを与えてくれると思って求めてきたのだ。しかしそれらはみな「変化し移りゆく不確実なもの」に過ぎず、せいぜいが束の間の幸せと喜びをもたらすだけであり、失えば苦痛はより一層大きなものになってしまう。

私たちは形と内容を混同してきたのだと「コース」は言っている。これは私も以前スピリチュアルコラムの「シアワセになりたい」というシリーズに書いたことだ。たとえば平和や幸せというのは徹頭徹尾マインドの状態なのだから自分がそう望みさえすれば「いまここで」すぐに手に入るものである。というか、常に「いまここ」にしかないものである。ところが多くの人々が「これがあれば幸せになれる」と思い込んだあれこれ、たとえばお金や地位や名声や美貌や素敵なパートナーなどなどを、それらがまるで「幸せそのもの」だと思って求めてしまうのだ。形と内容、あるいは手段と目的と言ってもよいのだが、とにかく絵を入れずに額縁だけを飾って喜んでいても仕方ないではないか、ということだ。

神によって造られたもの、真実であるようなものに額縁は必要ない。形は必要ない、というか問題にならないのである。かくて、私たちはどこでもどんな時でも今ここで「幸せと平和」を得られるわけである。こうでなければ幸せとは言えないわ!と思うのは自由だがそれは間違った思い込みであり、不自由をもたらす。

が、今のところ私たちにはまだ何かしらの「額縁」=「形」が必要なのである。でないと内容を認識できないからだ。それが聖霊の働きなのだ。以前に述べられていたように、聖霊は私たちが理解できる姿になってあらわれ私たちを導き、気づきや癒しをもたらす。行ってみれば「内容を伴った形」なのである。その内容をちゃんと見ることができればもはや形=額縁は必要なくなる。今まであなたが必死で求めてきた形=額縁など何の意味もなかったとわかるようになるだろう。


第256回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 194・195

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 194

第24章 その4

身体についてのおさらいである。身体それじたいは「何でもない」、マインドが投影されたものであり、徹頭徹尾マインドの指示通りに動くのであった。目的を持つのはマインドの機能であり、身体はその目的に従って働く。マインドじたいは本来「神の御心」と同じものに決まっているのだが、分離したマインドはいろいろな目的を持つことができるので身体もそれに沿って変化する。たとえばマインドが「人生は思い通りにならない」と思っていれば、身体はそれを反映し現実化すべく働くようになる。簡単に言えば、救いや癒しを目的にしているマインドにとって身体はその救いや癒しを或いは奇跡を体現する場になるが、個であることにこだわるマインドにとって身体は無力さや苦痛を体現する場になる。このように、身体はマインドの目的を現実化する手段であり道具だとも言えるのである。

さて、これもしつこく繰り返されていることなのだが、私たちは自分以外の何かによって傷つけられることはない。怪我や病気でさえもそれ自体が私たちを傷つけているのではない。自分を傷つけるのは自分以外にないのだ。更に言えば、「傷ついた」と思うことはできるが「実際に」傷つくことはできない。本来の私たちは攻撃したりされたり傷つけたり傷つけられたりすることのないものなのだ。にもかかわらず「傷つく」「病む」などということが現実としか感じられないのは、やっぱり自分を「神とは別のもの」あるいは「人間」だと思っているからだ。前にも書いた通り、特別さとは個性であり身体性である。神において一つ、即ち救いや癒しとは逆方向のものである。ゆえに、特別さにこだわればそれだけ傷つきやすくなってしまうのだ。

そして、自分が個別のものであると思い込んでいるマインドにとっては「他の人々はともかく自分だけが傷ついている」という事態も可能なのである。しかしマインドは本来「私の」「あなたの」などというものではなく、一つなのだった。ゆえに、個別という幻想を抜け出したマインドには癒しや奇跡が可能となり、それは「私だけ」「あなただけ」でなくあらゆるものに対して作用する。個別という幻想を保ちながら奇跡や癒しをもたらすことはできないのだ。というより、個別という幻想を捨て去ったその時に奇跡や癒しがもたらされるのだと考えたほうが良いかもしれない。そのとき私たちはあらゆる幻想即ちあらゆる苦しみから解放されているからだ。

要するにマインドがどちらを向いているか、という問題なのである。全ては一つ、か「分離」か。開いているか閉じているか。エゴにとって「開く」のは脅威だが、閉じれば閉じるほどますます苦痛が増すだけなのだ。逆に、全てを神に明け渡せば全宇宙はあなたのものである。

どうしたら救いを得られるのか、などと考えずにただ「私は目の前の(心の中の)この人を完全に無垢な存在だと思いたいかどうか」だけをチェックしてみよう。嫌だ!と思いつつ救いを得ることは不可能なのである。そのとき私たちは本当の現実ではなく自分が作り出した夢の中にいる。夢から覚めたくないと思いながら覚醒を求める、なんてバカなことがあるだろうか?完全な平和という状態にないとき、何らかの悩みや苦しみが少しでもあるとき、私たちは自分自身も含めて「神のひとり子」を罪ある存在にしてしまっているのだ。攻撃や怒りや批判だけではない。誰かを「かわいそうだわ」と思ったり自己憐憫に浸ったりするのもまた神のひとり子を否定したことになるのだ。(かわいそうだから癒してあげたい、なんていうのは大間違いも甚だしいのである!)

目の前の誰かであれ、テレビに映った誰かであれ、「私は正しいのよ、優れているのよ!」という自己正当化の道具に用いてはならないのだ。そうしている限りあなたの「個別性」は安全に保たれるが、救いも癒しも遠のいてしまう。ここで救われるのはエゴだけだ。エゴを救っても何にもならないではないか。

さて、願望のパワーというのはかなりとんでもないものである。こうなりたいわあ、とアタマで考えるあれこれ、ではない。ここで言われているのは「あなたは何を現実だと信じているのか」というレベルのことである。認めたくない人もいるかもしれないが、何かを現実だと信じる、現実だと感じられるのはそれを「望んでいる」からなのだ。平たく言えば「自業自得」である。こんなこと望んだ覚えはないわ!と思うのは、表面的な現象にとらわれて骨組みが見えなくなっているからである。このあたりについては「コース」でも、その前の「スピリチュアルコラム」でも繰り返し書いているし、「コース」もここでは詳細を省いている。何かがあなたの身の上に「起こる」というようなことはないのだ!自分の中にあるものだけが外側の出来事として経験される。これは、夜見る夢のことを考えればわかりやすいと思う。夢のなかで私たちはいろいろな目にあうがそれらは「本当に」起きているわけではなく、私たちのマインドの奥底にあるあれこれの願望が現象として夢の中で表出されたものに過ぎない。夢の中ではそれらが「現実」のように感じられるが、本当の現実ではない。それぞれの現象はつながりを欠いていて、全体としても秩序を欠いている。

とにかく、信念は願望であり、投影=現実化をもたらす。一方同じ信念でも神の御心に一致するような「意志」であれば本当の現実と同じものなのだから、わざわざ現実「化」される必要もない、それはただ「拡大する」という形で現実に経験される。同じような作用だが本質において異なるので、「コース」は投影と拡大という表現を用いてその違いをハッキリさせているのだ。

夢は現実ではない。ゆえに、「神において一つ」のマインドは夢など見ない。個別のマインドだけが夢を見るのだし、夢の中に生きるのだ。個別であるところのマインドが見る夢には必ず自らを責める部分が付きまとう。個別である、というそのことが既に「神から離れてしまった」罪と地続きだからである。

個別でいるままで生きていこうとするのは、絶対的に頼りになるものは何もなくたった一人で危険な世界を、信頼できる道案内もなしで渡っていくことである。それを何生も繰り返すのだ。個別である以上、いくら幸せや喜びを極めようとしたって結局それは「神のひとり子の死」にしかならないのだし、そのうえ個別=身体であるなら死は絶対確実である。個別であろうとするなら「存在の終わり」としての死を免れることはできない。

本来は神のひとり子である私たちの中にはキリストがあり、私たち自身がキリストなのでもある。そのキリストはただ静かにそこに在る。もしも私たちが自分の身体を、つまり目や耳や手や足を全てキリストに委ねれば、キリストがそれらを愛と平和をもたらす道具として用いてくれるのだ。私たちはキリストを通して知覚認識を行い、身体を用いるようになる。既にゆるしゆるされた存在であるキリストには罪など見えない。

身体は「ない」けど「ある」ように見えるし、正しい目的のために用いることもできる。どんな幻想も聖霊によって有効利用できるのを思い出していただきたい。とりあえず身体を持ってしまった私たちはそのようにするしかないのである。即ち、身体の全てをキリストに委ねることだ。キリストは聖霊でもあるので、ここはもちろん聖霊に委ねると考えても良いし、神の道具だと考えても良い(のだが、神は私たちが勝手に作った幻想であるような身体など見えないし知らないはずなのだ)。とにかく、「この自分」つまり個人であり身体であるようなこの自分によって用いられる限り、身体はおそらく苦痛をもたらすものにしかならない。

キリストのヴィジョン、浄化された知覚機能ならあらゆるものが完全でありあらゆるものに神を見ることができる。いまの私たちが未完成のように思えても、完全なものを見聞きすることによって自らもまた完全なのだと知られるようになる。私たちは自分に等しいものだけを知覚認識する、外界に見聞きするようにできているからだ。

キリストは、ああしろこうしろと私たちに指示するのではない。ただ非常に静かにそこにいる。完全なる平和と静謐!全てはそこにあり、そこから生じる。私たちはただそのように「在れ」ば、身体は聖なる目的に従って動くようになっているのだ。

キリストはあらゆるものと一つであり、あらゆるものがその一部である。キリストの限りない愛はそのすべてを包み照らしている。キリストに委ねるならば、私たちが差し伸べる手にも愛が、聖性が宿り、あらゆるものを祝福するのである。

個別さに閉じこもって愛を締め出さないで、自分が、そしてあらゆる人が「神においてひとつであるような完全な存在」であることを考えてみなさい。もしそれが事実であるなら、私たちはわざわざ何を求め、個別などという制限の中に自分を閉じ込めたりするのだろう?要するにこれなのだ。もともとこれ以上ないほどの完璧さを備え、あらゆるものを与えられて満ち足りていたはずなのに、ちょっとしたはずみで「そうでないもの」になってみたらどうかしら?などと考えてしまった。そこに間違いのもとがある。私たちはその時点に自らを貼りつけ、凍り付いてしまったのである。

何であれ自分の中に対立が生じるためには、イエスとノーが混在しているはずだ。そして、自分と他者の対立つまり自分の外側にあるように見える対立も、結局は自分の中の投影なのだった。完全な確信を抱いていれば対立はありえない。何らかの疑いを抱くときに対立が起き、平和が損なわれるのである。あらゆる疑いは根本的には自分自身についてのものだ。それもまた外部に投影されるから、自分以外の何かについて不安になったり疑念を抱いたりしているように感じるだけなのだ。

キリストは全てにおいて完璧な確信を抱いているからこそ、何ものにも動じずにすっかり平和で静謐な状態でいられるのである。私たちのあらゆる疑いを聖霊に、キリストに委ねればそれらは浄化され解放されて、代わりに私たちは確信を得られるであろう。そのキリストは私たちの中にあり、私たちとともにあって私たちを導いてくれる存在だ。キリストに導かれて私たちは自らの完全性に気付くことができるのである。

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 195

第24章 その4

あらゆる人を聖霊だと見る、これは言い換えればキリストのヴィジョンによってあらゆる人を見るということである。相手の中に聖性が見えるならそれは自分もまた聖なる存在だということを意味する。禅の修行などを見てもわかるように、覚醒した人にしか相手の覚醒は認識できないのである。凡人が覚醒した人を見ても「別に・・平凡な感じ」「ちょっと変なんじゃないの?」とかせいぜいが「何だかすごーい」で終わりになってしまう。それと同じで、相手の聖性が見えるなら自分もまた聖性を得ているのだ。通常のやり方だと、まず自分が修行でもして聖性を獲得しよう、覚醒しよう!というふうになるのだが、「コース」は逆にまず相手の聖性を見なさい!という方法を用いている。それをするのに特別な修行など実は不要だからだ。自分を守るのを止めて、ただ「そう見よう」と心から決めれば誰でも今ここでできることなのである。こちらのほうがはるかにシンプルで手っ取り早くて間違いもない。

そういう文脈の中で「あらゆる人があなたの救い主であり、癒し手である」と言える。相手はキリストであり、そのように知覚認識しているあなたはキリストのヴィジョンによってみていることになるからだ。そうしているとき、相手はあなたの持っていた犠牲や恐怖という感覚を解き放ち癒すような存在となる。ともに「神につくられた神のひとり子」であることがわかる。

逆に言えば、自分をあるいは誰かを「不完全」だと見てしまえばあなたは神のひとり子ではなくなってしまう。そこに神はいなくなってしまう。神において一つならば「不完全」などという事態はありえないからだ。そして、定義により神が不完全であることはあり得ない!従って、「不完全」だと見るのは間違いであり、神と一つであるあらゆるものが完全なのだということになる。繰り返すが、存在するものは存在するのであって、存在しないことはできない。存在から切り離される、あるいは存在しないで存在するなどということは不可能なのだ。全宇宙が神のものならば、それはあなたのものでもある。というより、全宇宙があなたであり私なのだ。この世が始まる前から存在は存在し、この世が終わっても変わらずに存在する。その時々で変わるのは人心だけであって、神の御心は決して変わらない、そして本来の私たちは個別の人間などではなく神の御心の一部であるのだからやはり永遠に変わらない。

相手を聖霊だと見る、相手に聖性を見ることに対してどうしても抵抗がある人は、要するに相手を個別の身体だと見ているのである。あるいは、「どうしてこんな人が聖霊なの?私はそうじゃないの?」みたいに見当違いなことを考えてしまう場合もある。だから〜、相手を聖霊だと見られないあなたは聖霊じゃないんです、そして逆もまた真なのです。

相手を聖霊だと見るときあなたは既に身体ではない、ゆえにこの世のものではなくなっている。言い方を変えれば、この世という幻想から解放され、そのことによってこの世を癒しているのである。

おかしな話だが、癒すべきもの・ゆるすべきものがあるうちは癒しやゆるしが聖なる目的になる。言うまでもなくこの世界は幻想だ。にもかかわらず現実だと思われているこの世に何か目的があるとすれば、それは癒され解放されることでしかない。そして、この世を癒そうと思ったらそれを作り出したところの私たち(のマインド)を癒すしかないのである。幻想を現実だと思い込んだうえで救われようとするからますますそこに縛り付けられ苦しむことになるのだ。この世の常識・・物理法則も含むあれこれの決まりごと、時間や姿かたちや現象、などに惑わされず、それら全てから解放されることが癒しなのである。これらを現実だと思い込むのは、自分自身を「神のひとり子」だと認めていないから・・つまり自分自身についての大きな思い違いがあるからだ。そこから自分を、まずは相手を解放して自由になろう。いや、より正確に言うならば「誰かを見ているその自分(のマインド)」を癒しゆるして解放するのだ。何故なら、相手を聖霊だとは見られず他者だと見てしまうマインドこそが、他者というものを『作り出して』いるからだ。正しいマインドには他者など存在しないのである。

ここは重要である。「コース」のこのあたりの記述は「あなたの兄弟は救い主であり癒し手である、あなたにとっての秘蹟であり祝福である」というような内容の羅列になっているので、「全く理解できない、受け入れられない」か「何となくそうなのかと思って読み飛ばす」ことになってしまいかねないと思う。が、落ち着いて考えてみてほしい。あらゆる「他者」は自分の鏡であり、更にはあらゆる人が本当は「ひとつ」なのである!

まあ、「相手を聖霊だと見ろ」と言われても「自分とは別の他者」を聖霊だと見るのだったら、先にも述べたようにたいていの人が抵抗を感じる。しかし、そもそも「自分とは別の他者」なんて本当は「ない」のだ。他者なんて、分裂したマインドが自分の間違った考え=罪深さや罪悪感を外界に投影したことによって「あるように見える」だけのものなのだ。

以前から述べられているように、あらゆる知覚認識は暫定的なものである。しかし、全てのものを無垢な存在だとする「判断」「解釈」だけが神の御心を反映する唯一の認識、つまり聖霊による曇りなき知覚認識なのだ。

相手を個別の存在=他者だと見てしまうマインドに真理は知られず救いも得られない。相手に聖性が見えるときのみ、私たちはともに身体を超越し「ひとつのもの」に立ち返っているのだ。個別を捨てるのが恐ろしいと感じるのは、まさに神に対する恐怖に他ならない。恐怖と憎しみと攻撃とは地続きである。個別を捨てられない私たちは神を恐れ、神を敵に回してしまう。このほうがよっぽど恐ろしいではないか?

瞬間ごとに私たちは「聖霊かエゴか」「真実か幻想か」といった二者択一をしなくてはならないのだった。ここでは「相手に聖性を見るか、相手を個別の他者だと見るか」というふうになっている。いくら何でもこの段階で常に相手を聖霊だと見ることは難しいだろう。しかし、意識して努力することはできるのだし、またそうしなくてはならない。真理はともかく、とりあえず平和で幸せになりたい、というのであっても十分なモチベーションになるだろう。誰か・何かのことで心乱されるのは、相手をそして自分を「個別の存在・身体」だと見ているからに他ならないのだ。

今一度考えてみてほしい。あなたはいったいどうなりたいのか?本当に幸せで平和になるためにはあれもこれも「手放さなくてはならない」が、手放すのは抵抗がある、多くの人がそういうジレンマに陥ってしまう。しかし、なぜ「思い」を手放すのに抵抗や恐怖を感じるのか?とりあえずやってみることくらいできるのではないか?「コース」は別に全財産を放棄しろとか家族を捨てろとか丸刈りにしろなどと言っているわけではないのだ。ただ、今ここで「個としての自分を守るあれこれの考え」を捨てろ、と言っているだけである。それくらいやろうと思えば誰だってできるのではないか?

相手の間違いが見えるのは、自分が正しいからなのだろうか?少なくともそのことで相手を批判したり一緒に苦しんだりするのだったら、自分もまた間違っていることになる。たとえば誰かが病気で苦しんでいるのなら、それは彼(女)が自分を「個別の身体」だと思い込む間違いを犯しているからなのだが、そこまで見えたとして、そのように「見えてしまっている」自分のマインドをまずゆるし癒して解放することが重要なのである。どんな間違いを犯そうがそこに首まで浸かっていようが、神のひとり子であることには変わりない。聖性に満ちていることには変わりない。本質は常に変わらないのだ。相手を聖霊だと見る、とはそういうことでもある。そうすればその時私たちはともに解放される。というか、そもそも解放される必要などなかった、何故なら初めからこうだったのだから!とわかるようになる。事実は常に変わらない。問題は私たちがそれにいつ気づくのか、ということだけである。

相手を聖霊と見ない、というのは何も攻撃や批判だけではない。まあかわいそう、と思うのも或いは「相手を助けてあげられない自分を責める」のも全く同じように「神のひとり子を殺してしまう」見方なのである。そこには常に過去が絡んでいることに留意していただきたい。誰かが苦しんでいるのは「過去の間違い(思い込み)の結果」なのだが、その人が苦しんでいるように見えるとすればあなたは彼(女)の過去を一緒にひきずってしまっていることになる。言うまでもなく過去は実在しないものなのに、その幻想を現実だと思い込む間違いに同意してしまっていることになる。私たちの役割であるゆるしや癒しが機能しなくなっている状態だと言える。あらゆる癒しは、個別性からの解放であると同時に過去からの解放でもあるのだ。

苦しんでいる人こそが私たちにとっての救い主なのだ。なぜならその人に対する見方を変える・・知覚認識を浄化することで両方が同時に癒され救われるからである。簡単に言えば、苦しんでいる人・・より正確に言えば「相手が苦しんでいると見えるとき」・・・は、癒され救われるチャンスを与えてくれるものなのだ。それをチャンスにするか、ますます間違いを強化するかはその時々の私たちの選択次第である。

たとえ、あなた自身がとても苦しんでいて他の人たちが自分よりずっと幸せそうに見えるときでさえ、「コース」のこの方法は有効だ。そういうときもただ相手を聖霊だと見て感謝と祝福を捧げてみればよい。そうすればあなたもまた癒されるようになっている。何しろ、相手を聖霊だと見た時点であなたは「個別のもの」ではなくなっている。苦しみとは「個別性」と不可分なのであり、全てであるひとつになってしまえば解放されないわけがないからだ。

私たちは神の一部なのだから、神には全く関係ないところのこの世の法則に縛られることはないはずなのである。縛られているように見えるならそれは身体だけのことであり、自分を(そして誰かを)身体=個別の存在だと見なければ私たちはこの世の法則を超越することができる。それが「奇跡」と言われるものなのだ。

第255回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 192・193

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 192

第24章 その2

このあたりの「コース」の記述はかなりくどい。一言で済んでしまうことをあれこれ説明しすぎて却って誤解を招くような語り方になっているような気もする。特別さを求め、それに価値を置くのは「違い」を基盤にしているという時点でもうアウトに決まっているのだ。真理を、つまり神の御心を否定し攻撃していることになるからである。

前回、相手が自分と同じ穴のムジナだと認めれば怒りも攻撃もなくなるはずだと書いた。そこからもう一歩考えを発展させれば、同じ過ちをしてしまった私たちはあがないや救いという同じ目的に向かう仲間だとも言える。更に、あらゆる兄弟姉妹は私たちの救い主なのだということも私たちは学んできた。

特別になりたい、という目的はシェアできないのである。同じ目的に向かっていてもそれを達成できるのは一人だけ、一部の人たちだけだからだ。他の人たちよりも秀でていたい、という目的が全ての人によって達成されることはありえない。そして、シェアされないものは実在しないのである。

特別さに価値をおいているとき、そこに愛はない。与えたものを受け取る、これを裏から見れば「与えずにいればそれだけ失う」となる。愛を与えず出し惜しんでいれば受け取ることもできないのである。

それぞれが違う人間である、という「現実」の中でより幸せになろうと思ったら常に何らかの点で自分が他の人々より優れていなくてはならないことになる。自分とは縁もゆかりもないどこか遠くの共同体の価値観ではなく、自分が属している共同体の価値観に照らして優れているものにならなければ幸せではない、エゴはそのように考える。この世における価値とは真実のものではないので、時代や文化的背景によっていくらでも変わるのだ。100年前ならすごい人だったのにね、なんて言われても嬉しくないだろう。それどころかひとりの人生においてさえその時々で価値観は変化しうるのだ。そのうえで、誰かと自分とを比べて自分のほうが優れていると思って安心したところで、それが単なる自分の思い込みではないという保証があるだろうか?あなたの目にはそのように映っているだけかもしれないではないか。

要するに、そのような人々は幻想の中に生きているのである、幻想を現実だと思い込んで生きているのであり、言い換えれば真理から身を守り真理を攻撃しているのである。そして真理とは神の御心に他ならない。

さて、既にお気づきの方もいらっしゃると思うが、今まで「コース」は「特別であること」をエゴ的な観点から見て「他より優れていること、価値があること」と規定してきた。しかし、特別さには否定的な側面もある。特別=自分だけ他の人たちと違う=「他の人たちがみんな持っているものを自分だけが持っていない」という(ように見える)場合もあるからだ。そういうとき私たちは「みんなと同じようになりたい、人並みになりたい」などと考える。もちろんこれは「全てが一つ」ということではない。全てがひとつ、とは身体を超えた事態であり、「みんなと同じになりたい」とは身体的なものに違いないからだ。その根底にはやはり個別性という「現実」がある。そして、当然のことながら「違い」があり更には「比較」がある。他の人たちと比べて自分はあれが足りない、だからそれを手に入れて人並みになりたいと考えるわけである。そして、今更ながら要するにこの「比較」が問題なのだ。

違いというものが全くなければ比較も不可能である。翻って個々の身体が存在する(と思い込まれている)この世においては、もう何もかもが比較の対象になる。スピリチュアルな成長の度合いさえ比較されてしまうのだ。自分に欠けていると思うものを他の人は持っている(ように見える)なら私たちは惨めになり何とかしてそれを得よう、埋め合わせようとするのだし、逆に自分にあるものを他の人が持っていなければ束の間優越感に浸れる。その時、その人は私たち(のエゴ)にとって救い主になるわけだが、いつ立場が逆転するかわからない。つまりその人は私たちの特別さ=優越性を脅かす潜在的な敵でもあるのだ。本来の意味において「あらゆる人が救い主である」こととは根本から全く違っている。私たちは誰かをエゴにとっての救い主にしようとして失敗するのは、それが根底では常に仮想敵でもあるからだ。そこには完全な平和などありえない。つまり、特別さを求めれば不可避的に平和を失う羽目になるのである。これは、「神から離れてみんなバラバラ」だと思い込んでいる限り恐怖や罪悪感から免れないのと相似形になっている。

そもそも、自分より劣っているとみなした相手に自分を救う力があるだろうか?自分と相手との関係性を限定しておいて、限定の対極概念である解放が可能だろうか?

繰り返しになるが、本当にシンプルなことなのだ。自分をあるいは誰かを「神のひとり子」でないようにしてしまえば救いはありえない。あの人やこの人じゃなくてカミサマが救って下さるのよ!と思うかもしれないが、何と!神は救ったりなんかしないのだ。何故なら神の目から見れば救われるべきものなど何もないからである。とにかく、みんなバラバラの個人だ、という考え方は神の御心に反している。ゆえに、本来神の御心と一つのものである私たちの意志にも反しているのである。

どういう方向性にせよ「特別さ」を現実のものだと認めるのは取りも直さず「個体性」=身体性=差異=分離を現実だと認めるのと同じことだ。身体とは、「神から離れてバラバラになった」という私たちの思い込みが現実化されたものだった。現実化された思い込みは単なる「勘違い」ではなく「罪」になる。これはわかりますね。たとえばあなたが夢の中で誰かを殺してしまったとする。実際には殺していないので「何だ、夢だったか」と気づけば済む話であり、当然罪にはならない。しかし、その夢が現実化されてしまえばあなたは殺人犯である。

そういうわけで、特別さは「罪」と不可分の関係にある。全く自覚はないだろうが、特別さを感じたり求めたりすればあなたは罪を犯していることになるのだ、いやもちろん実際には何もしていないのだがマインドの奥底では「罪深さ」を感じているはずなのだ。どんなに魅力的なものに映ろうとも、特別さを求めれば罪深さが増すことになる。当然、救いとは逆方向である。身体性あるいは個体性を信じ特別さを現実のものだと思っている限り聖霊のメッセージは絶対に聞こえない。それぞれが別の次元に属しているからである。特別さを求める人々、あるいは個体性を信じる人々にとってはヴィジョン=キリストのように他者を見ることなんて危険だ!愛なんか危険だ!だって「違い」がなくなっちゃうんだから。ものすごく乱暴な言い方だが、たとえば恋愛感情に浸りながら救いやヴィジョンや癒しを求めても絶対に得られない、ということなのだ。ヴィジョンには性別さえないのである。神と一つであるという本来の状態を思い出せば、スピリットとして神と同じように創造してきた・しつつあるあらゆるものが見えるようになるのである。本来の自分に立ち返ればあらゆる幻想は消え失せる、というかそんなものはもともと「なかった」のだとわかる。あなたは身体じゃない、個性なんかない、特別なものじゃない。これを認めるのは屈辱的なことだろうか?勇気が要ることだろうか?しかし、さっさと認めちゃったほうが楽なのである。

あらゆる人があなたにとっての救い主なのに、あなたは彼らを「自分とは違う個人」だという思い込みに閉じ込めてしまった。しかし、それさえも幻想なのである。つまり、「自分とは違う個人」だという思い込むことはできても、実際に神のひとり子を何か別のものに変えてしまうことはできないのだ。あなたがどう思い込もうが、誰かを憎もうが攻撃しようが、あらゆる人が依然として神のひとり子であり、あなたを救い出す力を持っている。あなたが自分の思い込みを捨てればその力が解き放たれるのである。そして、あなたも相手も解放されるのだ。

自分と誰かが別々の個人だという思い込み、自分と神とが別々の存在だという思い込み、「他者」という概念を捨てなさい!「コース」は「ゆるしなさい」と言っているが、これは「もういいよ、要らないよ、ありがとう、さよなら」といって解き放つようなイメージである。更に「神をゆるしなさい」というふうにも書いてあるが、これは自分の中の神を解き放ちなさいという感じだと思う。私たちは神を自分勝手なイメージに閉じ込めてきたからである。

それぞれが別の個人、もっと露骨に言ってしまえば自分たちを「人間だ」と考える以上誰もが潜在的な敵になりうるのだし、そういう意味では完全に信用できる人など誰一人いるわけもない。つまり完全な平和はありえない。しかし、聖なる瞬間において私たちは個々の人間であることを超えてスピリットになっている。そこにこそ本当の平和と安全があるのだ。逆に言えば、あらゆる人を自分の一部だと見ることによって、あるいは聖霊だと見ることによって私たちは「人間存在」であるという制限から救われるのである。

ところで、通常の考え方だと神こそもっとも「特別な」存在だということになっていないだろうか?下々の私たちとは違って全知全能の大いなる特別な存在だ!と思うのも、神の前では万人が平等だが神じしんは雲の上のやんごとない存在だ!と思うのもまた間違いなのであった。神は特別なんかじゃない。神には「特別」なんてありえない。だって「ひとつ」なのだから、比べるべき他者がありえないのだから特別も何もないではないか!神においてあらゆるものが一つなのだ。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 193

第24章 その3

本当に今更で恐縮なのだが、与えることが大切だ・与えなさいと言われて「さあ、与えよう、与えなくては!」と思ってもうまくいかないことが多い。これはそういうものじゃないのである。そうではなくて、ただ相手を聖霊だとみる、そして一瞬でも全てを投げ出して聖なる瞬間に身をおいてみる、そうすれば私たちはスピリットとしてイヤでも自然に「与える」ようになってしまうのだ。具体的に何をどうするのかはその都度適切な形が聖霊によって示されるので、私たちの側であれこれ考える必要はない。与えよう!と張り切るよりも「自分を守るのをやめよう」「もう全部ゆるして平和な気持ちになろう」「感謝しよう」とするほうがずっとうまくいく。まあ、ありていに言えばこれがエゴを放下することなのである。

私もあの人も「神のひとり子」なので、既にあらゆるものを与えられてしまっている。にもかかわらずその本性として更に与え、与えたものを受け取り、そうしてますます豊かになっていく。これが真の意味でのシェアであり創造なのである。ちょっとだけあげてもいいけど、などということはありえないのだ。何故なら愛や真理はやはりその本質として分割できないものだからである。

この世の常識では、自分が相手に何かを与えればそれだけ自分からは失われ相手の分は増えるように思える。形のないものでさえ、自分が与える一方なら「損した」気分になる。しかし、実際はちがうのだ。本来「完璧」な存在である私たちは、与えることによってその完璧さが保たれるようになっている。というか、与えることも含めて完璧なのだと言っても良い。与えた分が失われ、その挙句に完璧さが損なわれるなどということはないのである。神は自らを惜しみなく与えることによって私たちを創造したが、その分神が何かを失って不完全になったなどということはありえない。私たちもまた同じなのである。

この世において、愛は取引や駆け引きの道具に成り果ててしまっている。ま、それは正確に言えば愛なんかじゃないのだが、とりあえず「愛」だと思われているものは自分を特別な存在、価値ある存在にしてくれる何かなのである。これはもはや愛どころではなく、愛を裏切るものだと言える。私たちは愛を求め愛し合っているつもりで、日々愛を即ち神を裏切り続けているのである。愛し合っているつもりで罪を押し付け合っているのであり、神のひとり子を殺し続けているのである。特別でありたければ、つまり幻想を守りたければ「全てが一つ」であるようなものなんか危険でしかないではないか。愛や真理なんか恐ろしいに決まっているではないか。

神は私たちを創造したが、人体を作ったのではない!しかし、自分を人間=人体だと思いつつ自分は神によって造られたと考えるなら、神は人体を作ったことになる。完全無欠にして永遠不変の神が、不自由極まりなく儚い「身体」という牢獄みたいなものに私たちを閉じ込めたりするだろうか?私たちがちっぽけな自我を閉じ込めているこの「身体」は、神とは何の接点も持てないのだ。ここにとどまっている限り本当の平和もなく、孤独は免れず、私たちを苦しめるあれこれの幻想から救われることもできなくなってしまう。中にはちょっと楽しい幻想もあるだろうが、幻想である以上はいずれも長続きしないものばかりなので、結局私たちは喪失の恐怖と悲しみに囚われることになる。

私たちがこんな牢獄から出ていくための鍵は、何と兄弟姉妹が持っているのである。つまりあらゆる人が聖霊であり救い主なのだ。私たちにその準備ができればいつでも鍵を受け取ることができる。幸せになろう、救われようとあらゆる努力をしてきたのにダメだったのならそれは努力の方向性を間違えていたのだ。エゴ的な基盤で救いを求めたから不可避的に失敗したのだ。そのことに気付いて「降参」すれば鍵を受け取る準備ができる。「特別でありたい、愛されて自分が価値ある存在だと思いたい」などという思いを一切捨てて相手に向き合い、相手を聖霊だと見るわけだ。

ゆるしはあらゆる幻想からの解放である。もしも私たちが全く無垢な存在であれば、それぞれ別の個人であるという感覚は出てこない。ゆるしが起こるときには全ての差異も区別も消え失せるのだ。逆に言えば、手放せない幻想即ちゆるすことができない幻想は、まさにそのゆるされないという点において「罪」とされてしまう。幻想を手放すことを「コース」は「ゆるす・ゆるされる」と言い表している。

抵抗を覚える人も少なくないだろうが、どんな形であれ「特別さ」「他との違い」にこだわっているとき私たちは罪を犯してしまっている。というか、単なる「間違い・思い違い」を罪にしてしまっている。そういうことにならざるを得ないのだ。

「個であること」あるいは「特別さ」を現実のものだと信じるのはもちろん神の御心に反している。しかし、私たちがいくらそう信じ込んだところで神はびくともしないのであって、影響を受けるのは他ならぬ私たち自身なのである。神を敵に回し、神と一つであるところの本来の自己をも敵に回してしまうから、それによって自分自身に刃を向けてしまうからである。もともと与えられた力を幸せになるためではなく自分自身を痛めつけるために用いるようになってしまうからである。何とまあ、私たちは自分を守っているつもりで実は痛めつけているだけなのだ。

自分を苦しみから救い出し、幸せにしてくれるように思えるものはいろいろあるだろう。しかし、それを得さえすればあなたは本当に完全な幸せを得られるのだろうか?絶対に揺るぐことなく、永遠に変わることないレベルの幸せが得られるのだろうか?そうでないのならあなたが求めているあれこれは全部「偽物」であり蜃気楼のような幻なのだ。それどころか、これらは却ってあなたをこの世界に・・悲惨さや苦しみが絶えることのないこの世界にますます縛り付けてしまうようなものなのだ。

本来の私たちは傷ついたりしない。神が傷つかないのと同様で、攻撃したりされたりすることじたいが不可能なのである。傷ついているように見えるのは私たちの身体、そして「他の誰でもない私自身の」心、だけである。これらの「個」は幻想=実際には存在しないものだった。傷つけるという行為もその対象も、傷ついたという認識も全て何もかも「本当の現実」ではないのだ。

ちょっと試してみてほしい。あなたが抱いているいろいろな感情、考えは「自分とは違う他者」の存在や、自分が「個人・個性・人体」であることを基盤にしたものではないだろうか?魂でさえ「私の、この魂」と思ってしまえばもう「個性・特別」であり、スピリチュアルではなくフィジカルなレベルになってしまうのだ!このワークを試してみれば、日頃どれほど「間違い」まみれになっているかよくわかると思う。

確固たる基盤を持たないものは必然的に不安定である。砂の上にいくら立派な家を建てても安全ではないのだし安心できるわけもない。そして確固たる基盤とは「真理」以外にありえない。本当に確実で安心なのは、いかなる差異も存在せず絶対普遍で永遠に変わらないものだけだ。そうでないところにいれば何をしたって「絶対に安全」は不可能だ。

本来の私たちは絶対安全なところにいたのである。それを何やら好きこのんで「神から離れてバラバラの個」になった(と思い込んだ)ために、つまり特別さ=違いなどというもので神と自分を分け隔ててしまったために平和も安全も失うことになったのだ。

永遠普遍であるところの神は私たちに対してわざわざ何かを求めることなどしない。そんな必要がないからである。しかし、神はその本質上「全てはひとつであり絶対普遍であり永遠に変わらない」ことを、神の御心として保ちシェアし続けている。ならば、私たちがそれを受けとるのもまた神の御心である。受け取るためには私たちの意志が神の御心と同じものになっていなくてはならない、そしてそのためには一瞬でも幻想を手放しゆるしていなくてはならない、そういうことになるのである。「御心が天におけるごとく地にもなされますように」とは、私たちが神に対して言うものではなく、私たちが求められていることなのだ。

神も聖霊も「特別なもの」なんか与えてくれない。そんなもの「ない」からである。さきほども書いたように、宇宙の源泉たる偉大な力を「分離=個=差異」という自分の思い込みによって封じ込めてしまっている。それを解放しなさい、ゆるしなさい!

それにはまず目の前の誰かをゆるすこと、私たち自身の幻想から解放してやること・・・即ち、相手を無垢で完璧な存在だ、聖霊だと見ることが必要になる。それは「神の御心が為される」のと同じ状態なので、その神の御心のままに私たちはすっかり守られて完全な平和の中に安らぐことができるようになるのだ。自由とはそういうことである・・・私たちはもともと無限の自由を与えられていたのに自分で勝手に不自由な状態を作り出してしまった。しかし、その不自由な状態は「現実」のように見えて実は思い込みから来る幻想に過ぎない。幻想から解放されれば自由になるに決まっているではないか。

個別な存在として生きる、そんなことは実際不可能なのだ。それが可能に見えるのは夢の中だけである。私たちは深い眠りの中で夢を現実だと思い込んでしまっている。生まれるのも死ぬのも夢の中の出来事に過ぎないのだ。本当の私たちは生まれも死にもせず、ただ永遠不変に存在し続ける。私たちは自分で作り出した夢の中に自らを閉じ込めてしまっている。「この世」という夢は身体や時空間をはじめとする数々の制限に縛られており、その制限の中で私たちは何とか救われよう、幸せになろうとして特別さを求めてしまう。「コース」の表現によれば「エゴ流の救済計画」に騙されるわけだ。詐欺にひっかかるようなものである。

「他者」を完全に信頼することはできない。真の信頼は相手を「他者」ではなく「自分と同じ神のひとり子」だと見ることによってのみ可能になる。「他者」が存在する世界、すなわち別々の個人からなる世界においては自分以外のあらゆる人が仮想敵であるのだし、自分自身に対してさえ完全には信頼をおくことができない。いい人だわ〜信用できるわ、と思うのはたまたまその人があなたの望むことをしてくれる(ように見える)からに過ぎない。もしかすると腹の底ではあなたを憎んでいて騙そうとしているのかもしれないではないか。そんなことを考え出したらキリがない、それこそ一瞬たりとも安心できなくなってしまう。誰だって自分が可愛いに決まっている。生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、そういう場合には自分を守るのが普通である。極端に言えば、エゴ流の救済計画とは「自分さえ救われればよい」ものなのだ。でなければどうして「特別でありたい」などと望んだりするだろう!

このように、エゴ流の救済計画は常に私たちを「罪深さ」に近づけるのである。

第254回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 190・191

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 190

第23章 その4

幻想(或いは間違い)は、どんな形を取ろうとも幻想でしかない。これは前回に見たとおりである。ならば、全く同じ道理によって攻撃もまたいかなる形をとっていようが、それを攻撃だと認識していなかろうが、やっぱり攻撃に違いないのである。誰かがあなたを痛めつけてやろうと思って何かをしてきても、ただしく知覚認識するならそれは攻撃とは映らない。これなら何の問題もない。ゆえに、ここで言われているのはそういうことではなさそうだ。

たとえば、「あなたのために」「彼(女)のために」「みんなのために」「国のために」良かれと思って、あるいはやむを得ずやっているつもりのことが、自分はそう思っていないだけで実は攻撃であることが多いという事態を指しているのである。また、落ち込んだり不安に駆られたりするのは自分に対する攻撃である。これは聞き捨てならないではないか。私は攻撃しているつもりはありません!なんて言い訳はできないのである。つもり=自覚があろうがなかろうが、前にも書いたように装飾を取り払って骨組みだけにしてみれば、あらら何と単なる攻撃だった!そういうことはよくあるのだ。

与えたものを受け取るという原理により、他者に向けられた攻撃も結局のところ自分に向けられている。つまり、私たちは自覚なしに自分を攻撃していることになる。

言うまでもなく私たちにとって攻撃は罪であり(以前述べられていた通り、あらゆる攻撃は神に対する攻撃と等しい)、自覚はなくても攻撃するたびに罪悪感が強化されていく。それが思わぬところで顔を出し、懲罰の恐怖となって私たちを苦しめているのだ。

攻撃もそうだが、幻想を現実のものだと思い込むことは神を否定することに等しく、ひいては神のひとり子(である自分たち)を否定する、つまり抹殺することに等しい。不平や不満や不安、怒りや攻撃や批判、そんなものは日常的な光景だが、何と私たちはそうして毎日のように神のひとり子を抹殺し続けているのである!これが罪悪感を喚起しないわけがない。自分や相手をありのままの姿=完璧な神のひとり子として見ないのもまた攻撃の一つなのだから、それも罪悪感及び懲罰の恐怖をもたらしてしまう。私たちがいつも何かで悩み苦しんでいるのは、実はそういうところに原因があったりするのである。

さて、真理とは「そうであるか、ないか」だけであり、「部分的に真理」などということはありえない。これも以前に見たことである。救いもまた同様に「部分的に救われる」なんてことはありえない。何であれ、部分的に何とかできるというのもまたこの世の常識に過ぎないのである。救いとはこの世からの解放なのだから、この世の常識にしがみついている限り不可能なのは当然のことなのだ。

神であれ愛であれ、真理であるものには一切の妥協や例外が不可能なのだ。あの人を攻撃してこの人を愛する、なんてこともまたありえない。これくらいの間違いならやっても構わないだろう、なんてことは絶対にありえない。厳しいようだがどうしてもそうなるのだから仕方がない。妥協は混乱や混同をもたらすので、攻撃と愛の区別もつかなくなってしまう。攻撃によって救いが得られるという間違いに陥る危険が出てきてしまうのだ。

「コース」の教えには一切の妥協も例外もないから易しいのだとここに書かれているが、普通は「だからこそ難しいのだ、厳しいのだ」と思ってしまうだろう。しかし、文法でも何でも例外がたくさんあるものほど覚えにくくて難しいではないか。そういう意味において「コース」の教えは、実践するのは難しくても構造は極めてシンプルだと言える。

妥協を認めている限り「コース」学習は困難だし、救いは不可能なのだ。これはわりに実感しやすいことだと思う。理性に従って学んでいれば妥協など無理だとハッキリわかってしまうからであり、実践面では聖霊に委ねること一つとっても、とりあえず一瞬は完全に委ねないと何も変わらないからである。

既にお察しの通り、ゆるしや平和もまた妥協がありえないものである。部分的にゆるして部分的に攻撃したのでは、まったくゆるしていないのと同じことだ。もちろん、学習途上の私たちには、まさか1日24時間まったく攻撃が生じないなどという状態は望めない。しかし、ゆるそうと思ったその瞬間、平和でいようと決めたその瞬間にはそれ以外のあらゆるものを一旦は完全に捨てなくてはならないのである。

攻撃によって平和を守ることができる、これこそ幻想なのである。こういうことはこの世では別に珍しくもない。他国に攻め込まれたら「平和を守るために」反撃あるいは迎撃するしかないからだ。この手の攻撃は「平和を守るため」という大義名分によって正当化されてしまう。これと同じことが私たちの日常の人間関係でもしょっちゅう起こっているという事実をきちんと見てほしい。誰かがあなたを怒らせたり傷つけたりする(ように見える)ことをした、だから「ひどいじゃないのっ」といって反撃する。よくも私の平和を乱したな!あるいは、傷つけられるまえに傷つけてやろうとすることさえある。平和とはそんなものではないのだ。目の前でどんな事象が、光景が繰り広げられていようともそんなことによってはびくともしないものなのだ。

汝の敵を愛せよ、という聖句があるが、誰だって敵を敵だと思ったままで愛することなどできるわけがない。相手を敵だと思ったままで親しくできるわけもない。が、この世では相手を敵だと思ったうえで表面的には親しくする、なんてことが普通にまかり通っている。友人やパートナーどうしでさえもそういうことがある。憎たらしい、謝らせたい!という気持ちを隠してニコニコするなんてよくある話ではないか。これらもまた妥協の1パターンである。ゆるす、とは我慢することでもなく感情をコントロールすることでもない、形にとらわれると間違えてしまう。前にも書いたことだがくれぐれも注意してほしい。

平和とは争いが未来永劫完全になくなったと思える状態であって、休戦の謂ではないのだ。自分を身体だと思ってこの世という現実を信じている限り、本来の自己を忘れ神から離れたバラバラの個人だと思っている限り、私たちは戦場から離れていないことになる。救いとは戦場から離れることなのだ。というより、戦場など実はなかったと気づくことなのだ。変な話、これは実際の「戦場」にいたとしてもその気になれば到達できる状態である。外側にある(ように見える)環境とは一切関係なく得られるものなのだ。何故なら平和は身体ではなくマインドのものだからである。

戦場にいるまま、束の間の平和(に似た状態)を味わうことはできる。しかし、その間あなたは完全に安心できない。いつまた恐ろしい敵が襲ってくるかわからない、そういう不安を抱えたままであれば外側は静かに見えても内側=マインドの平和は得られない。病気が治ってホッとしたのもつかの間、またいつ再発するかと考えて不安にさいなまれるような感じである。敵は今のところおとなしいけれど、ずっとそのままでいてくれるかどうかわからない、そういう感じである。この世の平和とはそんなものでしかない。つまり、そんなものを求めても仕方がないのである。幻想の中にいるうちは本当の平和など訪れるわけがない。幻想を抜けたところにのみ、それはある。もっと言えば、身体という幻想を抜けたところにあるのだ。自分を身体だと考えてそれを使うのか(あるいはそれに使われるのか)、身体ではないとわかったうえでそれを活用するのか。その場合、身体は私たちの邪魔をしない。なぜなら身体は「ない」からである。

真の安全は神にのみ存在する。要するに、神から派生し神の一部である「神のひとり子」であれば、そのままですっかり安全でいられるわけである。一切の敵が、それどころか他者がいないのだから、自己防衛など端から必要ない。

攻撃したい=神のひとり子を抹殺したいという願望と闘う必要はない。闘うこと自体がまた一つの攻撃になってしまうからである。その代り、それがどんな形をとっていようとも、どんな事象としてあらわれようとも攻撃は攻撃なのだとしっかり認める、これが私たちのすべきことなのである。そして、私たちが真に恐れているのはそれら形や事象ではなく「神のひとり子を抹殺すること」なのだとしっかり肝に銘じておくことだ。たとえば、自然災害を恐れているとする。自然災害とは「形・事象」である。あなたは自然災害を恐れているように見えて、実は「抹殺」を恐れているのである。身体の死を恐れているのなら、それは自分を身体だと思っているからだ。身体が破壊されれば、神のひとり子も破壊されると思い込んでいるからだ。

それどころか、種類も大きさも関係なくあらゆる幻想は愛や真理に対する攻撃なのだ。ひとつの幻想を現実だと思い込めば、あなたは愛や真理を攻撃したことになってしまう。自分を身体だと思っているうちは、愛と攻撃を混同してしまう。基本中の基本だが、神は身体ではないのだ!ゆえに、神の一部である私たち「神のひとり子」もまた身体であろうはずがない。神は真理であり愛であり、それらを無限に与え広げるという「創造」によって私たちを存在せしめたのだから、私たちにもまた同じ資質と力がそっくりそのまま備わっているはずだ。身体である誰かが、宇宙をまるごと手中におさめることができるだろうか?自らを全て与え、なおかつ何も失わないでいることが可能だろうか?

身体は創造しない。神と一つであるスピリットだけがその本質として創造する。まだ学習途上にあり、完全なゆるしを実践できていない私たちには創造が十分にわかっていないので奇跡も癒しも際限なくもたらすことができないのだが、ほんの一瞬であっても聖霊に全てを委ねれば後は聖霊がやってくれる。そこにおいて私たちの本来の力が十二分に発揮されるのだ。

あらゆる形の攻撃・抹殺は私たちの本来の意志ではない。何故ならそれは神の御心ではないからだ。戦場=幻想の中にとどまらないようにすることが、いまや私たちの目的になったのである。

闘いの真っただ中にいる人にとって、敵は本当に・現実に存在する。でなければ本気で闘ったりするはずがない。どんな形であれ攻撃が湧き起こってきたら、自分が戦場=幻想の中に入ってしまったのだと認識しなくてはならない。理性の目で、つまり戦場から離れてそれを見てみれば「なあんだ、こんなことをしていたのか」とわかるのだ。目を逸らし、見て見ぬふりをしてはならない。目を開いてしっかり見ればそのバカバカしさ、そして身体の虚構性がよくわかるのだ。身体は「戦う」かもしれないが、身体は「ない」のだ。少なくとも私たちは身体ではないのだ。だとしたら、たとえ身体がバラバラになったとしてもそれがいったい何だろう?もともと「ない」ものが壊れてなくなったところでそれがいったい何だろう?

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 191

第23章 その5

恐怖や攻撃はあらゆる形をとってあらわれるので、私たちはそれが恐怖や攻撃だとわからないこともある。それを見抜くためには、今ここで自分のマインドに一点の曇りもないかどうかをチェックすればよい。まあかわいそうに、と思ったり「これくらいしてもいいわよね」と考えたりするのもまたエゴなのだ。そして、こういうとき私たちは自分を身体と同一視していることになる。何故ならエゴを守ろうとしているから、エゴの目的は分離状態の維持であり、身体は分離の象徴だからだ。

これまで繰り返し言われているように、恐怖・不安・批判などなどエゴの誘惑に負けそうになったらすかさず聖霊に委ねればよいのだった。その時私たちは聖霊の目によって、あるいは理性によって目の前の現象や自分のマインドの中を見ることができる。「コース」は「上から見る」と表現しているが、まあ俯瞰するようなものである。身体レベルでなく理性レベルで見る、とかもっと小難しく言えば「形而下ではなく形而上で見る」とも言える。よく「アタマで考えず身体の声を聴け」なんて言われるのと正反対に聞こえるが、その場合の「アタマ」とは分裂したマインド=エゴのことなのでお間違えの無いように。とにかく、そこからなら幻想の幻想性がよくわかる。その地点にいてこそ平和を得ることもできるのだ。

神と一つになっている状態だけが真の愛と平和をもたらす。そこには他者がいないので愛と平和しかありえないのだ。しかもこれらは昔も今も将来もずっと変わることなく私たちとともにある、というか私たちと一つである。何ものによっても決して脅かされることのない幸せである。そんなものが「この世」で得られるだろうか?それを得たければこの世を現実だと考えてはならないのである。

無垢なものこそもっとも強い、と以前学んだのだが、本当に強いものはわざわざ戦ったりしない。闘わなくてもほしいものが得られるから、というより既に得てしまっていて失いようがないと知っているからだ。既に無限を知ってしまった者が今さら身体的な、つまりいずれはまた失ったり変化したりするようなあれこれを求めて四苦八苦するだろうか?本来神とひとつであり、あらゆるものを得てしまっている私たちが、それを手放すような愚行を働くだろうか?自分が神のひとり子であることに気付かないうちは、愚行が愚行だと気づくこともできずに幻想と戦い幻想に救いを求めてしまうのだ。

第24章 その1

「コース」学習の動機づけは「マインドの平和」を得ることだった。覚えていらっしゃるだろうか。「真理?そんな難しそうなもの別に要らないわ」と思う人でも、常に平安な気持ちでいられる方法は知りたいと考えるのではないだろうか。マインドが真に平和である時私たちは神を思い出し神と一つになっている。お祈りしたのにカミサマが来てくれなかった、というのはおかしいのだ。来るも来ないも、わざわざ頼まなくたって神は常にそこに在る。私たちのほうで神を迎える準備ができているかどうかだけが問題なのだ。というより、ある意味で私たち自身が神でもあるのだ。神と一つになる、とは「自分と別の何か」と一体になるという意味ではないのである。

「コース」学習では、私たちの今までの価値観をすべて疑ってみることが要求される。つまりこの世のあらゆる常識をいったん棚上げにするのである。これはやろうと思えば誰でも必ずできることなのだ。しかし、誰でも認めたくない部分はあるだろう。自分がそんなことを考えていたなんて認めたくない!これが現実でなく思い込みだったなんて認めたくない!もちろんこれはエゴの抵抗だが、ものごとを心情的にとらえてしまう傾向のある人には特に強くあらわれるもののようだ。心情も棚上げしないと「コース」学習はできないのである。

間違いは、それが間違いだと気づかない限り正すこともできない。間違った思い込みを抱いたままだと、それを正当化するために次々と間違った判断・解釈を重ねてしまうことになる。それが投影され知覚認識されるので、間違った思い込みは「現実」としてますます確からしいものになる。何であれ、初めに持っていた「考え」がそのまま現実化されるのである。平和もまた然り、全ては神において一つであるという「考え」の結果としてもたらされるものである。

さて、愛とはその本質上どんどん広がっていくものである。愛が元々そういう性質を持っているのだ。邪魔さえしなければ愛は勝手に広がっていく。しかし、ちょっとでも愛と対立する考え・思い込みを抱いてしまったら愛は阻まれる。愛しているから心配だ、愛しているから頭にくる、と思ったらそこにはもう愛はない。あなたは愛でなく「愛という幻想」「愛の代用品」を求めてしまったのだ。その結果として「愛ではないもの」を経験することになる。

私たちはたいていマインドの中に相反し矛盾する思い込みをいくつも持っているのだが、矛盾する複数の思い込みがいっぺんに結果となってあらわれることはない。矛盾する結果というのはありえないからだ。行こう、留まろうという考えを持っていても結果は行くか留まるかどちらかしかないのだし、どちらの結果になっても不満や迷いは残る。

こういう場合、それぞれの思い込みの内容はどうでもよいのである。なぜならそれらはどうせ「間違い」に決まっているからであり、間違いは現実ではなく従って意味もないからだ。重要なのは相反し矛盾する思い込みを持っている(持つことが「可能である」)という事態なのである。特に、本人が自覚していない・・つまり隠れている思い込みは厄介である。気づかなければ正しようがないからだ。いわゆる潜在意識や無意識下の思い込みというヤツもこれに当てはまる。しかし、「コース」が画期的なのはそういうものをいちいち洗い出して何とかしようなどというしちめんどくさいやり方を一切とらないことだ。間違いは間違いとして十羽一絡げでよいのである。ただ、それが生み出したところの「結果」だけを見ればよい。すなわち、あなたは心の底から平和を感じているか?もしそうでなかったらあなたは間違った思い込み、愛ではない思い込みを抱いていたとわかる。内容はどうでもいい。そこからもたらされた現象としての結果もどうでもいい。結果だけを取り出して「こんなのイヤだ、何とかしよう」などとあれこれやっても意味がないからである。そういうことは放っておいてまず「間違っていた」と認め、それを聖霊に委ねて平和な気持ちになってしまえばよいのである。

ここでまた「特別さ」についての考察が出てくる。特別でありたい、とは「もっともっと分離したい」と同じことである、つまり「神のひとり子」を否定することである。これは以前にも見てきた。

特別であることは何らかの特権を意味する。あの人より自分は優れている、わかっているのだから批判しても当たり前だ、あんな人は大したことないのに良い目にあっていて許せない。相手の特別さに対して羨望や敵意を抱くのも、自分がそれと同じかそれ以上に特別なものになりたいと思っているからに違いない。そして、攻撃という考えも行為も自分の中では「正当で当たり前のこと」だということにされる。

しかし、ちょっと考えてみてほしい。あなたが「特別」という立場を享受しているとき、あなたは「自分とは違う人々」によって支えられていることになる。そういう人々がいなければ「特別」にはなれないからだ。そして、あなたは「自分を特別でなくしてしまう(かもしれない)もの」を憎み攻撃する。基本的に「攻撃」の対象は自分と違うものでなければならない。「あいつはバカだ」と思うときのあなたはバカではない、少なくともあいつよりは利口だと思っているはずである。実際には「自分にあるものだけが相手の中に見える」のだから、相手をバカだと思うあなた自身が同じ穴のムジナなのだが、人は通常これを認めない。認めたくないのである。なあんだ同じじゃないの、と認めてしまえばああスッキリ、敵意も怒りも何も消えてしまうのだが普通はこれを「敗北」と感じる、つまり「自分が特別なわけじゃない」と認めるのは敗北とされているのである。

具体的事象にとらわれず骨組みだけをみてみよう。上記の内容をまとめると、特別でありたい私たちは自分と違うものを必要としつつ自分と違うものを憎み攻撃していることになる。

しかし、攻撃と恐怖は表裏一体なのだった。恐怖がなければ攻撃もあり得ない。特別でありたい人々は、特別でなくなることに恐怖を抱いているからこそ攻撃するのである。そういう人々にとって他者とは自分が特別なものだと思わせてくれるうちだけ「友達」なのであって、潜在的には常に敵となる。攻撃はいろいろな形をとってあらわれる。たとえば、自分を特別なものだと思わせるためにものすごく良いことをしてあげる、というのもそういう意味では攻撃の一種になる。一体化するためではなく分離するためにしていることだからである。

このように、特別でありたいという願望はエゴそのものであり分離を基盤にしているわけだから当然「身体性=個別性」が重視される、というより不可欠となる。私たちは自分を或いは誰かを「神のひとり子」だと捉えられなくなってしまう。つまり本来の自己を忘れ見誤って幻想の中にどっぷり浸かってしまうのだ。自分の優越感を満足させることによって自分の価値を確認した気持ちになる、自分の価値を確認したいから優越感を味わいたいと思う、これは誰にでもあることだ。が、そのとき私たちは神のひとり子を殺しているのも同然なのである。

第253回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 188・189

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 188

第23章 その2

浄化された知覚認識はあらゆるものに神を見る。言い換えれば、全ては神においてひとつであり、あなたの周囲のあらゆるものがあなたとひとつであり、あなたの一部なのである。なのに「あれは嫌だ、これは困る、ひどい、つらい、苦しい」なんて思うのは、所詮エゴが神に抵抗を試みている絵図に過ぎないのだ。家族や会社や国家の構成員であればそれら組織に逆らうこともできるし、嫌なら出ていくこともできる。しかし、存在の一部が存在全体に逆らうことはできない。逆らっていると思い込むことはできるがそれは自己欺瞞である。実際に逆らうことなど不可能なのに「可能だ」と思い込んでいる、これは間違いだし狂気でもある。

そういうとき、私たちは神も本来の自己も忘れてしまっている。本来の自己ではいたくない、バラバラでいたいという願望を抱いており自分は身体=個人なのだと思い込んでいる。そう思い込んでいる限り、敵対や対立や恐怖は免れないという構造は既にしつこく繰り返されてきた。私は魂よ、と言いながら恐怖や不安や罪悪感に襲われているなら、やっぱりあなたは身体性=個体性を免れていないのだ。

私たちは神に創造されたとおりのものである。これは確固たる真実であり、いかなる幻想にも脅かされるものではない。忘れられてしまうことはあってもなくなることはない。そして前回も書いたが、真実と幻想は対立することも戦うこともできない。ああでもない、こうでもない、と迷い悩むのは幻想の中にどっぷり浸かっている証左であって、ああもこうも両方とも幻想に決まっているのだ。真の解決というのはその事実を見抜くことでしかありえない。わかりやすく言えば、ああだこうだと考えているその次元から抜け出すような感じである。

自分の中の葛藤などというものもあろうが、たいてい私たちは自分以外の何かを相手に攻撃したりされたりしているものである。しかし、「自分以外の何か」=他者とは結局「自分のマインドの投影」つまり「自分の中の幻想を投影したもの」に過ぎないのだった。とすれば、あらゆる対立は「攻撃しているところの幻想の自分」と「そのが作り出した幻想」との間に起きている(ように見える)ものだとわかる。何が何に何しているのかさっぱりわからない光景である。クダラン、と喝破すればそれでおしまいなのだ。こんなもので世界を満たすのはもうやめようではないか。やめよう、と決めればやめられるのだ。

私は正しい、彼(女)は間違っている!そう考えて戦ってあなたが勝てばあたかもあなたの正しさが証明されたかのように思える。しかし、「私は正しい」などと考えて戦えてしまうあなた自身こそが間違っているのだ!これはせいぜいが、一つの歪んだ知覚認識と別のやっぱり歪んだ知覚認識を比較して、よりもっともらしく見えるほうが「勝った」という立場を得ているのに過ぎないのである。政治だろうが何だろうが全部同じことだ。どちらか一方が真実だということはありえない。真実は何ものとも対立しえないものだからである。

真実が明らかになれば幻想は自動的に消えざるを得ない。長年そちらを信じ込んできた私たち(のマインド)は少々動揺するかもしれない。えーっ、ほんとにこれでいいの?とびっくりしたりすることもある。しかし、ここまできたらもう時間の問題なのだ。

実際の争いごとはもちろんのこと、何であれ頭にくるもの、不安や恐怖を煽るものなどがマインドに生じただけでも私たちは神と分離した状態、聖霊を締め出した状態にある。これらは全て私たちの平和を脅かす「敵」なのだが、敵などというものが可能なのは「自分とは違う他者」がいるからであり、そう考えること自体が幻想であり間違いなのだということを今一度じっくり噛みしめてみてほしい。

それにしても、みなが幻想にまみれながらそれを現実だと思い込んでいる世界とは、ちょっと冷静に考えてみればとんでもないものではないか。「コース」に言われるまでもなく、幻想の世界には本当の意味での秩序などありえない。なぜなら狂っているものは破壊に至るまで際限なくメチャクチャになれるからである。幸せになりたいと思っているつもりで不幸にまっしぐら、なんて珍しくもないことなのだ。しかし、狂人にも狂人なりの論理?みたいなものがあるのと同様、この混沌とした世界にもそれなりの法則がある。もちろん、理性の光に照らしてみれば「何の意味もない、理解不能なもの」にしか映らない。これらは「実際には存在もしない幻想の世界を現実らしく保つため」のものなのだ。従って、そこには「この世の常識」と思われているものも含まれている。

まずメチャクチャ法則その1.「真実とは人によって違うものだ」つまり「人の数だけ真実がある」、実際にそう言われていますよね。しかし、人によって或いは時と場合によって違ったりしないようなものをこそ「真実」「真理」と呼ぶはずなのだから、こんな言い草は寝言以下である。この戯言はまさに「みんなバラバラ」という事態をそのまま表している。実際、この世界では一人ひとりがそれぞれの考え、というか思い込みを持って生きているのであり、更に、この考えはあの考えより優れているとか、あの考えはケシカランなどというふうに考えには序列がある。これは人によって「価値観」が違うためなのだが、この価値観の違いというのも「あって当たりまえ」になっている。個人により、民族や文化や時代により違うようなものが真実であるわけもないのだが、それぞれが自分の価値観を「正しい」と思い込んでしまっている。だからこそ他者との対立が後を絶たないのだ。

違い・程度は「幻想」なのだが、あれはこれより難しい、克服しにくい。そういう考えが「当たり前」になっている。その「当たり前」をいとも簡単に崩してしまうのが「奇跡」なのだ。私たちには「真実」と「幻想或いは間違い」のどちらかしかないことを思い出してほしい。どういう形をとっていようとも幻想は幻想であり、真実ではない。真実ではないのだから存在しない。どれも全く同じように正され癒される。しかし、これはこの世の法則ではない、だからこそ「奇跡」と呼ばれる羽目になっているのだ。

メチャクチャ法則その2.あらゆるものが罪深く、攻撃と死に値する。いわゆる生老病死のことだと考えていただいても差し支えなかろうと思う。生まれた以上いろいろ大変な目に遭ってその挙句にいつかは死ぬ、人生は苦しくてあたりまえ、これもまあ常識になっている。病や怪我も攻撃のうちなのである。生まれて病んだり怪我したりして、いやたとえ無病息災であっても老いて死ぬ、これは本当に常識中の常識だと思われているが、やっぱり「コース」にとっては非常識なのだった。なぜなら私たちは身体ではないからだ。スピリットである本来の私たちは生まれも老いも死にもしない永遠不変の存在であるからだ。

「コース」の教えはキリスト教の枠組みに沿っているので日本人の私たちには馴染みにくい部分もあるかもしれないが、とにかく「身体を持って生まれた」(と思い込んでいる)こと自体が「神から離れてバラバラの個人になった」という間違いのあらわれなのである。これは修正可能な間違いなのだが、私たちは間違いではなく罪だと思い込んでしまっているので正すこともできず、ただ否応もなく罰を受けるしかない、つまり病んだり怪我したり老いたりして死ぬ運命にある、とこれまた思い込んでいる。何とまあ、人間として生まれてしまったこと自体が間違いの結果なのだった!

この法則を適用してしまうと「神と人間とは別もの」ゆえに「神と私とは別もの」という思い込みが現実化されることになる。私たちにとって神が他者なのであれば神は私たちの敵になりうる、そういうことにもなる。従って私たちは神を恐れたり憎んだりする。

そこで、メチャクチャ法則その3。神の御心はゆるしでもあがないでもなく、私たちに報復つまり懲罰を与えることである。第一法則により私たちは互いに敵対関係になりうるのであり、更に第二法則により神と人とは敵対関係になりうることがわかる。神が敵対関係に在るのだったら神に赦しやあがないを請うている私たちは一体何をしていることになるのだろうか?私たちの悲惨な運命は神の御心だと思いながら神に救いを請う、これは自分よりもはるかに強い敵に対して絶えず恐怖を抱きつつ「ひどいことをなさらないでくださいませ」とお願いしているのと同じである。人間世界の利害関係や敵対関係を神との関係に投影してしまっているのだ。

メチャクチャ法則その4。与えればそれだけ失う。何かを得るためには奪い取らなくてはならない。自分の利益は誰かの損失になる。形あるものに関してはその通りのように思えてしまうだろうが、私たちは形のないものについてもこの法則を適用してしまっている。恋愛などで自分の思いのほうが強いと感じただけで敗北感を覚えたりするのが良い例だ。誰だって価値のあるものは自分だけで持っていて他人には渡したくないと思うはずである。ならば、他の人々があなたのほしがるような貴重なものをこっそり隠し持っていても不思議はない。あなたはそれを奪って自分のモノにしたいと考える。あれは私にこそふさわしい!あの人たちだけが良い目に遭って不公平だ!そう考えて相手を攻撃し、それを正当化するのである。それが真に価値があるものかどうかもろくに検証せず、気違いじみた思い込みにとらわれて暴走してしまうのだ。

この法則に従えば、自分が救われるために相手が苦しむのは当然起こりうることになり、自覚はなくても罪悪感が強化されてしまうようになる。文字通りの強奪・略奪だけではない。罪悪感を誤魔化すために、自分は悪くない、少なくとも悪気はないのだと思い込めるような穏便なやり方で「奪う」場合もある。

その逆に、自分が大切にしていたものを今までは味方だと思っていた誰かに「奪われる」こともある。常にその危険がある世界に生きていれば「人を見たら泥棒と思え」と考えても不思議ではない。生き延びるためには殺さなくてはならないのだ。他者を完全に信頼することはできない。信頼できるのは相手が自分(のエゴ)にとって良いことをしてくれると思えている間だけである。

ところで、私たちはいったい「何」を、相手から奪ってまで自分のものにしたいのだろうか?金品・領土・愛情・権力などいろいろな形があるだろうが、それらを自分のものにすることによって結局「何を」得たかったのだろうか?


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 189

第23章 その3

自分にとって必要なものが自分にはない。あったとしても満足できるほど十分ではない。しかし他者はそれを持っている。自分はそれが必要なのだから相手から奪ってでも得る権利がある、正当性がある。戦争や略奪などに限らず、これは私たちの日常生活でも絶えず見ることができる光景なのだ。それこそ自分を正当化せず、自分のエゴを守ろうとせずにしっかりマインドを見据えてみてほしい。一見は正当で高尚に思えても装飾を取り払って骨組みだけにしてみれば、上記のような浅ましい構図があらわになる。だいたい「不公平だ」と思うときにはこういう罠にはまっていることが多い。権利意識というのは往々にして浅ましいものである。これは慣れないとかなり苦痛を覚えると思うが、結局は「間違い」なのだから即座に聖霊に委ねて浄化してしまえばよいのである。

さて、何であれ所有するとは身体的な行為である。形のないもの、たとえば権力や名声、安全などでさえも身体=個人としての誰かに属するものである。ゆえに、もしあなたがそれらを奪いたければ究極的には相手の「身体」を破壊するしかないわけだ。そして、そもそもそれらを持っている人々だって誰かから奪った結果それらを得たのである。それは自覚はなくても罪だとされる。私たちは自らの罪を身体という鎧で覆い隠しているのである。

変な話、「死んでお詫びします」「死んで潔白を証明」「これ以上耐えられないから死ぬ」などというのも上記の考え方のヴァリエーションである。誰かから「奪われる」まえに自分=身体を「犠牲に」してしまおう、というものだからだ。

そして、当然ながら自己防衛としての攻撃というものもある。これもまた普通は正当化されてしまっている。

そして、メチャクチャ法則その5。これが最後の法則、すなわち「私たちを救ってくれる愛の代わりになるものがある」。財産・地位・権力・美貌などのほかにいわゆる「特別な関係」におけるような愛(もどき)もこれに含まれる。言い換えれば、何らかの幻想が自分を救ってくれると思い込むことである。

しかし、これもまた先の4つの法則を免れない。すなわち愛さえも「奪い取る」ことによってしか得られない、与えられないことになってしまうのだ。以前に出てきた「特別な人との特別な関係」を思い出してほしい。私たちは自分が救われるために、自らの罪悪感を投影できる相手を求めるのだった。自分が救われれば相手はますます罪深くなる、そういう道理になっているのである。そして相手が隠し持ち、出し惜しんでいる「愛」のようなものをより多く与えてもらおうとする。自分が与えるよりも多く与えてもらわないと「損」になり「敗北」になる。これでは救われない、そう考えるのだ。

これら5つの「メチャクチャ法則」に従って救いや幸せを求めても無理なのである。あなたは自分が望むものを得るかもしれない、しかしどこまで行っても完全な満足は得られないだろう。これらの法則はどれもこの世では「当たり前・常識」とされているものであり、そう考えるのが正気である証拠だとされている。そうですよね。たとえば私は生まれてもいないし死にもしないと言う人がいれば「おかしい、狂ってる」と思われますよね。

しかし、やっぱり逆なのだ。これらの法則は本当の幸せも天国も不可能であるこの地上において「天国の代用品」を得ようとするためのものなのである。つまり、これらに従っている限り天国はありえないということになる。「コース」の常識に鑑みれば、こんな法則こそ完全に狂気の沙汰であり何の意味もないのである。

わかっていて狂気にしがみつく人はいない。それが「正しい」と思い込むからこそ人は狂気にしがみつき、そこから出てこないのである。そこにおいては、本来は正しく真実であるはずのものが「狂っている」と認識されることになる。これが「さかさまの思考システム」にどっぷり浸かった私たち人間の姿なのだ。

この世ではあらゆるものが逆転している。恐怖や憎しみは愛と混同され、殉教でもすれば(ただの殺人なのに)祝福され、笑みを浮かべて相手を手玉に取れば内容的には攻撃であっても親切だと思われる。私たち自身、それらの区別がつかなくなっているのではないか。だからますます人間不信に陥り、分離を深めてしまうのでないか。エゴと一体化していればそうならざるを得ないのである。

これらメチャクチャ法則がさも正しく現実らしく思えるのは私たちがそれを信じ切っているからに過ぎないのだが、同時にこれらは「自分たちは身体であり、身体は現実の存在である」という思い込みに裏打ちされているのだ。もうお気づきだろうが、これらの法則は「程度の違いというものがある」という思い込みと同様に、身体がなければ、あるいは自分が身体だと思っていなければ全く意味をなさないのである。自分たちが人間=人体=身体だ、という思い込みが根本にある。言い換えれば「神から離れてバラバラの存在になった」という思い違いである。結局いつでも全てはここに行きつくのだ。

「コース」がいう「命」とは、身体の生命のことではない。これがわからないと「コース」のテキストはちんぷんかんぷんになってしまう。本来の「いのち」とは「存在」の謂であり、これは神と共にある。「コース」は「本当の命は天国にしかなく、それ以外のところにあるように見えている命は全て幻想である」と言っている。これも私たちから見れば思いっきり非常識である。なぜなら通常私たちは天国とは死んでからいくところ、つまり生命でなくなってから行くところだと思っているからだ。

とにかく、これらのメチャクチャ法則は本当の現実の中では全く意味をなさず、人影が跋扈する夢の中でのみ通用するものである。

私たちは「形」「現象」に惑わされ欺かれていてその「内容」は見ていない、と「コース」は言っている。しかし、あらゆる現象はその装飾を取り払って骨組みだけにしてしまえば正体が明らかになるものだ、と私は敢えて言い換えてみたい。悪しき独裁者を倒す、愚鈍な為政者を罵倒しまくる、「不当に」侵攻してくる外敵を追い払う、それらは「国を良くするため、みんなの幸福のため」という大義名分によって正当化されているが、骨組みだけを見れば単なる攻撃に過ぎないではないか。平和をもたらそうとして戦争推進派を非難しまくったり、二人の関係をスピリチュアルな素晴らしいものにするために・相手の成長のために、という美名のもとに相手を批判しまくるということもある。どんなに素晴らしく愛ある行為に見えるものでもその骨組み・構造を取り出して見れば情けないくらい見事に「分離を基盤とした判断・解釈」であり「攻撃」になっているのがわかる。これは理性を働かせればイヤというほどよく見えてしまうものなのだ。間違っている、とわかるから正して浄化することができるのだ。

幻想はいろいろな形・現象としてあらわれるが内容は全て同じ、即ち「そんなもの実は存在しない」「無意味である」ということに過ぎない。これは良いもの、あれは悪いもの、そんなふうに判断するとたいてい間違える。この「良し悪し」は「エゴにとって」どうなのか、という基準によるものであり、しかもある現象が知覚認識される段階で既に間違っている可能性が非常に高いからである。エゴにとって自分に利益をもたらすものがその瞬間は自分に対する攻撃に、自分から何かを奪うものに見えてしまうことさえ珍しくないのだ。せめてここだけでも自覚していれば、あらゆる現象を「判断保留」にできるだろう。いきなり正しい知覚認識は無理でも、間違った知覚認識にどっぷり陥らないでいることくらいはできるだろう。

幻想は、いかにも恐ろしい現象としてあらわれなかったとしても、たとえそれがどんなに魅力的に思えたとしても、どこかに恐怖を喚起するものを含んでいる。つまり現象=形が問題ではないのだ。自然災害・災難・病気などという「現象」そのものが恐ろしいのではない。その奥には私たちのもっとも根源的な恐怖があり、それは私たちが「神と離れてバラバラ」という幻想を作り出したところで不可避的に発生したものである。つまり幻想と恐怖とはワンセットなのだ。そこを自覚しないから、自然災害や災難や病気などを免れさえすれば安泰だと思い込んであれこれの策を弄したりするのだが、そんなことをいくら続けたって恐怖が一掃されることはありえない。元から絶たないとダメなのであり、真実の愛がない限り恐怖は消えてくれないのである。

しつこくおさらいなのだが、私たちがうっかり「神から離れてバラバラになってみる」という思い違いをしたことがそもそもの始まりなのだった。この思い違いは現実化され、私たちは「神に逆らった」という罪を犯したことになった。ここに全ての根っこがある。ものすごく乱暴に言い換えれば、全知全能の神の一部だったのに無力な人間になっちゃった(と思い込んだ)ことが不幸の始まりなのだ。そして、この思い込みが続いている間はメチャクチャ法則が至極まともなものに思えてしまう。そういう世界では何もかもがこれらの法則を裏打ちする証拠に見えるのだ。げんに毎日誰かが生まれたり死んだりしているではないか!しかし、「コース」に言われるまでもなく人間の生死とは現象以外の何ものでもない、これは普通に考えてもわかることである。そして現象は本質ではない、考えなくてもわかることである。このあたりに結構「この世の常識」の裂け目があるような感じがする。

これくらいなら小さな間違いだから大丈夫、なんてことはないのだそうだ。種類や形や現象にかかわらず、間違えばそれだけ天国から遠ざかり、地獄に転げ落ちてしまうことになる。一つの間違いを正当化しようとすればその上にまた間違いを重ねなくてはならなくなるからだ。一見別々の間違いでも実体は「間違い」に過ぎない。だからこそ、程度の違いにかかわらずどんな間違いでも同じように浄化され癒されるのである。

間違いながら救われたり癒されたりするのは不可能だ。間違いは、そのおおもとの考えから正さなくてはならないのである。

自分がいま天国に向かっているのか地獄に落ちつつあるのか、どうやったらわかるのか?「コース」によれば、マインドが完璧に平和かどうかを見ればわかるそうである。しかし、エゴまみれで正当化に暴走している真っ最中の人はそれすらわからないことが多いような気もする。要は、常に厳しくマインドをチェックする習慣をつけることが肝要なのだと思う。

第252回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 186・187

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 186

第22章 その5

防御を必要とするものは全て幻想であるならば、何にせよ防御しようとしているときの私たちは本来の自己ではなくなっている。つまりエゴであり身体になっているのである。そもそも防御したいと思うからにはそこに敵=攻撃してくるもの、の存在があるはずで、ここだけ取ってみても「全てが一つ」の状態が崩れていることが見て取れる。何かを防御したくなっている時、私たちは間違っている=幻想の世界に生きているのだと自覚するよう努めていただきたい。例外なし、保留なしにである。

防御したいというのはゆるしたくないのと同じことである。何も考えず黙ってゆるしてみましょう。できない、のではなく「したくない」だけなのです。それも自覚しましょう。やってみればわかります!

自由について。あなたは身体の自由がほしいのか、それともマインドの自由がほしいのか?これまで学んだことからわかるように、マインドが自由になれば身体も自動的に自由になる。その逆はありえない。だいいち、マインドであれ身体であれ、自分が自由であると認識するのはマインドに決まっている。マインドが不自由だったらたとえ身体が自由であっても「不自由な状態」にしか感じられないのだ。

ここで「コース」はまた別の説明の仕方をしている。私たちはマインドの自由か身体の自由か、どちらか一方しか求めることができない。一方が目的になれば他方はそのための手段になる。手段は目的のためにあるので、目的が達成されれば手段も不要になる。

ところで、もはや言うまでもないことだが身体は「ない」、要するに幻想である。しかも身体は時間や空間など物理法則に支配されているという点において初めから限界を与えられている、つまり不自由である。この2つの観点からみて、身体の自由などというものは本来ありえない。あるとすれば、身体の幻想性と虚構性に気付いたとき即ちマインドが自由になった時だけだ。

それはともかく、身体の自由を得るためにマインドを使おうとすればマインドは幻想に奉仕することになる。上述したことと合わせて考えれば、こんなことをしている限り自由など永遠に得られないのは確実だ。

自由でいられるのはマインドだけであり、そのマインドは神と一つであるという本来の状態において即ち幻想から解放された状態において最も自由になる。自由なマインドに使われることによって身体もまた自由になるのである。なぜなら身体はマインドが投影されたものだからだ。

マインドが神と一つである状態になるためにはゆるし・癒し・解放が必要でありそれこそが聖霊の目的なのだった。聖霊の目的が達成されればマインド(つまり私たち自身)は自由になる。キリスト教には「神のしもべ」という言い方があるのだが、これは隷属的な状態どころか最高の自律的自由をもたらすものなのだ。私たちも聖霊の目的に奉仕すれば自由を得ることができる。なぜならそういうときの私たちは身体ではなく、神と一つであるところの「無限の存在」になっているからだ。あらゆる制限から自由になっているからだ。そして、身体はもはや「罪悪感を投影する罪深いもの」ではなくなっている。身体が神の道具として用いられるならこれは当然のことである。神がどうして罪深いものを自分の道具として使ったりできるだろう!

誰かをゆるすとは、身体から解放してやることでもある。罪あるところに身体があり、身体があるところに罪はある、それらの発祥からしてそうなっているからである。これについては以前見てきたとおりだ。

この世において私たちが誰かとかかわるときには直接であれ間接であれ身体を通してかかわるのである。テレビのニュースで誰かを見たり誰かの話を聴いたりするのも身体の知覚器官によってなのだし、そこで「ムカッ」と来たらゆるせばよいのだが、とにかくゆるすためにはゆるすべき素材が必要なのであって、その素材に出会うのはどうしたって身体の知覚器官を通してなのだ。あなたが成長して「ムカッと」来なくなっても相手の間違いはやっぱり見えるのだが、それに対してあなたはもはや何も感情的反応をしなくなる、ただ「ゆるす」だけになる。どちらにしても「ゆるす」素材には出会い続けることになる。そういう意味合いにおいてゆるしや癒しには身体が用いられるわけなのである。聖なる関係はスピリット=マインドどうしのものだが、そもそも身体として出会っていなければこの世ではいかなる関係も不可能ではないか。

聖なる関係において、あるいは理性が正しく働いている時には間違いがどんな形をとっていようとそれら個々の事象には惑わされない。そのような状態にあるあなたは既に「あがない」を受け入れているはずなので、それをそのまま「ゆるし」に用いればよいだけになる。こういうふうに言葉で表すと難しいプロセスのように感じられるかもしれないが、とにかく常に批判的にならず「感謝の念でマインドを満たして平和な気持ちでいる」ようにすれば結果は自然についてくる。そこで改めて私たちは「あ、こういうことか」とわかるのである。「さあ、私は今まさに光をもたらしつつあるのだ!」なんて意識するのはエゴである可能性が高いのだ。

普通にやっていればちゃんとできてしまう、そういうふうになっているのである。神あるいは聖霊の目的のために奉仕する道具と化した私たちは、神や聖霊の愛するものを全て愛するようになってしまうのである。たとえ数分後にはエゴが戻ってきてしまうとしても、聖性が回復される瞬間はちゃんと訪れているのだ。過去のあれこれは一瞬にして消え失せ、時間とともに変わりゆくようなものには興味がなくなる。ゆるしが完璧であれば、当然のことながら本当にどんな幻想にも惑わされなくなるのだ。ゆるしが完璧であるとはそういうことだ。なぜなら私たちの意志が神の御心と完全に一致してしまうからである。いくら何でもこれは見過ごせないでしょう、無理でしょうと思われるようなものまでキレイに消え失せ浄化されてしまう。そして、癒しも奇跡もそういうところにもたらされるのである。

よく「自分が変われば相手も変わる」と言われるが、これは文字通りなのである。そもそも、あなたにとっての相手とはあなた自身の知覚認識の結果に過ぎないのだから、あなたの知覚認識が変わればあなたの目に映る相手の姿も変わるに決まっている。そういう意味合いにおいて、あなたがゆるせばゆるすほど相手はあなたにとって好ましく愛すべきものに映る。あなたが自分自身の価値を認めていれば、相手の目に映ったあなたもまた価値ある存在だと見えるようになる。ここを読み違えないでいただきたい。あなたがゆるせば相手があなたに泣いて感謝して「あなたは素晴らしい人です」と言ってくれる、などという意味ではないのだ。

あらゆる関係に平和をもたらすのが私たちの役割である。私は敢えて「あらゆるところ」だと言ってしまいたいのだが、「コース」はいわゆる癒しや奇跡がいつどこで誰と一緒の時にもたらされるかはあなたの決めることではない、聖霊に任せておきなさいと言っている。実はどちらも同じようなことを言っているのであって、要するに「この人にこそ癒しを与えたいのよ」とあなた個人が決めるのは間違っている。それはエゴに他ならない、特別な相手や特別な関係を求めてしまっていることに他ならないからだ。私たちは常に目の前の人をゆるしていればよい。それがどのように作用し広がっていくか、それをするのは聖霊なのである。純粋理性でもある聖霊が決めることに間違いがあろうはずはない。時間も場所も関係なく、私たち個人の考えなど遠く及ばないようなやり方で聖霊は癒しをもたらすのである。一片の不安も抱かず聖霊を完全に信じる、マインドをオープンにするとはそういうことなのだ。それがマインドの闇を駆逐し光をもたらすことでもあるのだ。

世界がより良くなるかどうかは私たちの学び次第である。といったら「まさか、私にはそんな大それた力はないわ」と思うだろうか?これもまた一つの思い込みなのだ。前にも出てきたが、こういう思い込みは謙遜という美徳でも何でもなくてただ神を冒涜するものに等しい。そもそも世界は自分自身のマインドの中にしかない、それを思い出してほしい。そういうものである世界をより良くする第一歩が目の前の人との聖なる関係なのである。いかなる分離も恐怖もなく、ただひたすら愛と平和が拡大していく聖なる関係は、神と私たちとの関係を反映するものであり、またその相似形でもある。そこでは何もかもが完全に「ひとつ」であり、バラバラの個などというものはなくなる。自分ひとりのマインドの中でこっそりあれこれ思うことができなくなったら淋しいだろうか?恐ろしいだろうか?そんな心配はまったく必要ない、やってみればわかるのです!だから、一切の例外なし・保留なしでやってみてください。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 187

第23章 その1

無垢なものがもっとも強い、これは以前出てきたことなので覚えていらっしゃる方もいるだろう。無垢なものには罪がない、罪悪感がない、だからそれを外界に投影する必要がなく、従って「敵」という概念がなく恐怖も生じない。そもそも罪とは神と分離してバラバラになった(と思い込んだ)ところから生じたのであり、神と分離すればその偉大な力も失ってしまったことになる。だから罪あるものは弱いのだ。その上、周囲は「自分とは別物」の仮想敵ばかり、攻撃するかされるかの世界である。というわけで分離を信じる罪深いものは弱く、つねに攻撃にさらされる羽目になる。ここでいう「攻撃」」とは、暴力をふるったりケンカを売ったりすることや暴言を吐かれてひどい目にあったりするようなことに限らず、心の中でひそかに相手を非難するようなもの、あるいはやはり心の中で「きっと嫌われているんだわ」などと考えて落ち込むようなことも含まれる。

しかし、外界にあらゆるものが自分のマインドの投影ならば、あなたが何を攻撃しようがどこから攻撃されようがそれらは全て「自分の一部」である。あなたは常に自分自身に戦いを挑んでいることになる。心の中で自分を激しく責めさいなむような「自己攻撃」なるものもあるのだが、これこそ「攻める自分」「攻められる自分」に自分自身が分離している証左である。いずれにせよ戦うのはエゴに決まっているから、そしてエゴは絶対にあなたを幸せにしないのだから、あなたの戦いには勝ち目がないのだ。一瞬「勝った」と思えてもすぐに次の戦いが始まってしまう。人生も世界もこの繰り返しなのである。

個々の自分がどんなに強大な存在だと思えても、(仮想)敵がいなくなることはない。そして「敵」という概念がある以上、あなたは弱い存在なのである。変な話だが、この世の全てを征服したように見えても「神」だの「運命」だの、そういうものは自分の思い通りにならない「敵」として残ってしまうのだ。

分離、罪、弱さ、敵・・こういったものは神の御心ではない。ゆえに、それらを現実だと思うなら私たちは神を敵に回してしまっていることになる。更に、本来私たちは神と一つなのだから、神を敵に回した私たちは自分自身をも敵にしてしまっていることになる。攻撃とは良いものでも悪いものでもなく、本来は「ありえないもの、不可能なもの」なのだ。なのにそれを現実だと思い込むなら私たちは幻想を現実だと思い込んだことになり、要するに神の御心に逆らったことになる。

罪なきもの、無垢なものは愛しか知らないので攻撃されることがない。たとえ相手に攻撃の意図があっても、無垢なるものはそれを攻撃と感じないのである。いかなる恐怖も抱かず、愛に守られ完全に安心して歩むことができる。あらゆる知覚経験がマインドの投影ならば、無垢なものは愛と平和しか経験しないで済む、ということになる。それどころか、出会う相手の中にある罪や攻撃性や有害さまで浄化してしまうのである。つまり「奇跡的な癒し」がもたらされるわけだ。

「コース」学習を頑張って実践し、聖なる瞬間などを経験できるようになっても私たちはすぐにちょっとしたことで落ち込んでしまったりする。しかしそれらは「見かけ上の苦しみ」に過ぎないことを忘れないでほしい。苦しみをもたらすように見えるものは全て幻想なのだ、というか私たちがそのように判断・解釈しなければ済む話なのだ。そんな目にあったらすぐに「自分の知覚認識が間違っている」のだと思って正すようにしてほしい。何をどのように正せばよいのかわからなくても構わないので、とにかく無条件にただ感謝の念でマインドを満たしてみるのだ。これが一番手っ取り早くて間違いない。私たちはあまりにも罪悪感に惹きつけられているので、マインドがすぐにそちらの方向に傾いてしまうのである。これはクセというか長年の習慣なので日々意識して正していくようにしたい。自分を神と別の何か、弱くて小さい何かだと考えないことが大切だ。もちろん「オレは神だ!すごいんだ!」なんて意味ではない。むしろ「私はエゴなんかじゃないのだ」という強い自覚が必要なのだ。神のひとり子にふさわしくないことはしない、考えない、もしそんな考えが出てきてもすぐにゆるして手放す、「コース」のいう「卑小なものになってはならない」とはそういうことなのである。

目の前のあるいは心の中の誰かについても「あの時ああだったから」みたいに過去を介在させて判断したり、「苦しんでいるんだ」などというふうに相手の幻想=間違いを現実にして見てはならないのである。そして、あなた自身が間違いの中にいる限り相手に光をもたらすこともできないのである。スピリットが勝手にやってくれちゃった、ということもあるにはあるのだが、これだとあなたが救いや解放に気付くことができず、またそれらを積極的にもたらすこともできないのだ。全ては一つであること、あなたの周囲のものは全てあなたの一部であること、そしてあなたの目に映るものは全てあなたのマインドが投影したものであること、これを常に心に留めておいていただきたい。

そもそも分離しなければ他者もなく、他者がいなければ対立も敵対もあり得ず、そして分離という考えを保持するのはエゴなのだから、あらゆる対立はエゴによるものである。ところがエゴの本当の敵は神と一つである本来の私たち即ち神なので、あらゆる攻撃はエゴが神に対して戦いを挑んでいることだとわかる。つまり、攻撃したりされたりして(と思って)いるときの私たち、エゴに支配されている私たちは神に戦いを挑んでいるわけである。勝ち目がなくて当たり前だ!だいたい、神に勝ったらどうなるのか?神の死(なんてものがあるわけもないのだが・・・ニーチェが殺したのは偶像の神、「コース」がいうのは存在の神である)は、そこから生じたところの自分自身の死でもある。そして、神と本来の自己とは一つなのだから、神に戦いを挑むのは本来の自分を攻撃することに他ならないのである。勝ち目がないどころか自らの破滅に向かっているようなものではないか。

にもかかわらず私たちが大なり小なりいろいろな形で日々攻撃を繰り返しているのは、「エゴに従っていれば勝てる、幸せになれる」と思い込んでいるからである。まあ、それ以前に「敵になりうる他者というものが存在する」という思い込みがあるわけだが・・・。

とにかく、ちゃんと考えてみれば対立も攻撃も、一見「正当」に思える批判も単なる「自己破壊」という狂気の沙汰に過ぎないとわかる。そこには常に恐怖があり、愛は見えなくなる.

愛や真理を忘れるから攻撃があるとも言えるし、攻撃は愛や真理を忘れさせる手段であるとも言える。この両者は決して共存できないのだった。 私たちは常に聖霊かエゴのどちらかを選ばなくてはならないのである。

エゴあるいは身体を「自分だ」と思い込んでいる人は、自分を守るためにエゴを選んでしまう。ま、これも逆に言えば、攻撃したりされたりしている人は自分をエゴあるいは身体だと思い込んでいる、ということになる。言うまでもなくこれは幻想である。そして多くの人がこういう幻想を現実だと思い込んでいる。ある幻想が「共有」されている、と言うこともできるが、幻想とはどこまでいっても分離の産物すなわち「個人」のものなのだ。共同幻想とか集合無意識などというものも確かにあるが、これも「他のグループとは分離したところの」分裂したマインドの集まりの中でのみ通用するという点においてやはり「普遍」ではなく「個」のものだと言える。どこまでいってもエゴは「ひとつになる」ことなどありえないのだ。というより、ひとつになってしまったらエゴは消滅せざるを得ないのだ。そして、幻想とは実在しないもの、つまり「ない」のだから、ないものがいくらたくさん集まったところで「ひとつに」なんかならないのだ。この世界では、多くの人々の憎悪や恐怖のエネルギーが集まってとんでもない事態が起きる、みたいなこともありそうなのだが、これはやっぱり全てその人々のマインドの投影なのであって、「現実」には何も起こっていない。全ては夢の中のことでした、というふうになってしまうのである。

ところで、先ほど「エゴが神に戦いを挑んでいる」と書いたが、これは正確には「挑んでいる」だけであって実際にこの両者が戦うことはできない。同じように、真実と幻想が或いは愛と恐怖が「戦う」ことはできない。なぜなら、まず神や真実にとっては「対立・戦い」などありえない、存在しないものだからである。次に、エゴと神・幻想と真実などは絶対に共存できないもの、つまり相まみえることができないものどうしだからである。一方があるときに他方は消える、そんな両者が戦うことなどできるわけがないのだ。私たちのマインドではしょっちゅう愛と恐怖がせめぎあっているように思えてしまうが、これは単にエゴが真実に抵抗しているだけなのである。

とすれば、この世界において対立し戦うものは必ず幻想どうしだと決まっていることになる。両方が同じ土俵・次元にない限り対立も戦いも不可能だからである。個人であれ国家であれ対立する場合にはそれぞれの立場や考えが対立しているわけだが、その両方の立場・考えがそれぞれ幻想なのだ。というより先に個人だの国家だの、そんなものが既に幻想なのであった。別々の考えや立場を持てる、という「考え」じたいが幻想なのであった。あらゆるものが実は自分と一つであり自分自身の一部なのだ。この世のあらゆる対立や争いは一皮むけばそんなものなのである。

もう一皮むいてみよう。対立し争っているときには自分も相手も「現実だ」と思い込んでいるに違いないのだが、幻想を現実だと思い込んだ時点で私たちは既に神や真実に敵対してしまっている。私たちの平和を乱すあれこれ、他者であれ怪我や病気であれ自然災害であれ、そんなものは本当は「ない」のだが、それらをただ無視すればよいというわけでもなくて、私たちはやっぱりあらゆるものの中に聖霊を見るようにしなくてはならないのだ。何でもいいからとりあえず感謝してみれば、敵対し平和を乱しているように思えたあれこれも浄化されて平和の使者のごとくに変容する。浄化された知覚認識機能によるならば、あなたはあらゆるものに神を見るからである。どうしたってそうならざるを得ないのだ。具体的にどう、と説明することはできない。これはやはり「そうなってみなければわからない」経験だからである。

第251回 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 184・185

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 184

第22章 その3

生きていればいろいろ「うれしいなあ、楽しいなあ」と感じることもあるが、それが永遠不変の「真の喜び」なのかどうか、理性には判断できる。というより、ああこれも面倒臭い言い方になってしまうが、真の喜びを感じているときには理性が正しく働いているのである。「コース」は、どこを切り取っても同じことしか言っていないのだが、真理とはそういうものなのだから仕方がない。くどいのは承知の上だが、だからといって端折り過ぎると初学者向けの「ガイド」にはならなくなってしまうのです。どうぞご了承ください。

幻想を現実だと信じてしまうと必然的に罪悪感と恐怖と死がつきまとうことになる。それらはさまざまな形を取ってあらわれるので、エゴ(に支配された)の目には「全然関係ない別のもの」に映るのだが、理性の目には「どれも同じ」にしか映らない。どんな姿をしていようが、どういう現象としてあらわれていようがそんなことは関係なく明らかに見えてしまうのだ。間違いを間違いだと認めて正す、というのもまた理性の機能である。これは「聖霊に委ねることによって」可能になるのだった。ま〜要するにエゴを手放せば、あるいは「自分を捨てれば」理性は正しく働くことになっているのです。

以前から繰り返されているように、真実と幻想(=間違い)とはその発祥からして、もうどこからどこまで徹頭徹尾「相いれない」ものである。ひとつのものが「ちょっとだけ真実」などというのはありえない。常に0か100しかない。適当なところで手を打ちましょう、なんてことも絶対にできない。ちょっと前に出てきた「4つの質問」を思い出していただきたい。本当に目覚めたかったら「真実以外は一切望みません」という覚悟が必要なのである。中途半端な解決はありえない。中途半端であるというそのことが既に「間違い」だ。真理に至る道を学ぶ方法は「コース」以外にもいくらでもあるが、少なくとも「コース」学習については「いいとこ取り」が一切できないようになっている。

たったひとつでも間違った思い込みを持っていればあなたは全的に幻想の中にいるのと同じことになる。厳しすぎると思うかもしれないが、本当のことなのだから仕方がない。が、安心していただきたい、一瞬でも完全に間違いを捨てられればそれは「聖なる瞬間」となり、そのまま「本当の世界」になる。まあ、すぐ逆戻りしてしまったりするのだが・・・。

エゴに支配された私たち「人間」は、「純粋無垢」という概念を持ってはいるものの、生まれたばかりの赤ん坊以外に純粋無垢な人なんか誰もいない、あらゆる人に多少なりとも罪があると考えて生きているものである。私は完全な人間じゃないけど、別に私に限ったことじゃないわ、完全な人なんて誰もいないのよ。そう思うことで安心し罪悪感から逃れたつもりになれる。これは別に珍しい考え方でもないのだろうが、「コース」から見れば大間違いである。なぜなら「罪がある」ことが大前提になっているからだ。おまけに「罪はあるけど罪悪感は持たないでいい」なんて、普通に考えてもかなり無理があるんじゃないの?「あなたはそれを罪だ、悪いことだと考えているけれど、別に罪じゃないんだから罪悪感なんか必要ないんだよ」というならまだわかる。でもその場合だって「もっと悪い人はたくさんいるんだから」「本当の罪ってのはそういうんじゃなくてね」とか言ったりすればやっぱりアウトなのよね。つまり、ここでは罪そのものが否定されていないことになるからだ。

理性は正しく因果関係を見ることができるので、どんなことについてもそのおおもとの原因を見て判断する。罪があって罪悪感がない、なんてありえないじゃないの。じゃあどうするの?と考える。「コース」の枠組みに沿ってこれを考えると次のようになる。すなわち、罪悪感からの解放が聖霊の目的であり、聖霊にはあらゆることが可能であり、聖霊が私たちの中にあるならば、罪悪感から解放される手段が私たちには予め確実に与えられていることになる。聖なる瞬間や聖なる関係などがその「手段」に当たる。これらを日々用いていくうちに私たちは段々解放されていき、幻想ではなく真実のほうをより信じるようになる。言いかえれば「今までの自分」を捨てるようになるのだ。自分を捨てれば真実が見える、じゃあどうやって自分を捨てるの?そう思ってあれこれのワークに励む人も多いだろうが、「コース」に従えばこんなのは日常生活の中でいくらでもできるのだ。批判や攻撃をやめて感謝の気持ちでマインドを満たす、くらいのことでも十分である。なぜならそれをしているときあなたは「今までの自分を捨てて」いるからだ。そういうことなのだ。

これとまったく同じ道理で、真実=本当のことを信じているときの私たちも「今までの自分」を、すなわち個としての自分・エゴとしての自分を捨てているのである。でないと真実を信じることなど不可能だからだ。「この真実は私だけのものだ、なぜなら私が見出したからだ」なんてことは絶対に不可能だ!というか、そう考えるのはエゴなんである。そういう意味合いにおいて「コース」は「真実を信じようとたった一人で決断することはできない」と言っているのである。それを信じる時点で、信じようと決めた時点で既にあなたは「ひとり」というバラバラの個人ではなくなっているからだ。さあ、みんなで一緒に信じましょうということではない。

ここで「コース」も、ついに「コース」の教えは全て信じるか全く信じないかのどちらかしかない、と言い出した。そりゃあそうだわ、だってどこを読んでも同じことしか書いてないんだから!おまけにこの教えは真実なんだから、つまり丸ごと信じるのでなかったら全く信じないのと同じことになるんだから!わからないところがあるのは仕方がない。でも「わからないから否定する」のではなく、わからなくても「とりあえずそういうことにして」前に進まなくてはダメなのだ。

ちょっとだけ真実、というのが不可能ならば「一部だけ天国」もまた不可能だ。時間というトリックがあるからわかりにくいのだが、ほんの一瞬でも天国にいるならそのときは全的に天国なのである。そこには地獄など影も形もなくなっている。とはいうものの「コース」だって「あなたたちは天国にかなり近づいた」なんて言い方をするからややこしくなる。天国と地獄の間、みたいなところがあるように聞こえてしまうかもしれないのに・・。言うまでもなかろうが、これは単に日々の生活の中で(この世の時間で表せば、の話だが)地獄にいる時間=エゴである時間が次第に減ってきていますよ、くらいのことである。

大きな気づきがどのように、あるいはどのような形を取ってもたらされるか、それは私たちの知ったことではない、というより私たちの理解を超えている。しかし「いつ」もたらされるか、については完全に「自分次第」なのである。ここがまた逆説的なのだ。なぜなら「気づきたい、目覚めたい、奇跡をもたらしたい」と思っているのはたいてい「エゴ」だったりするのであって、それらは「エゴ」が消えたときにのみもたらされるものだからだ。従って、そんなことを忘れている時、思いがけない時にもたらされる。エゴたるこの自分のままで「今まさに私は気づきつつある、目覚めつつある」なんて認識しながら目覚めるなどという芸当はできるわけもないのである。しかし、エゴを捨てるとき私たちは自覚がなくてもそのように決めているわけで、そういう意味で「いつそうなるか」は自分次第だと言われるのだ。少なくとも自分以外の何かによって強制的にもたらされることは絶対に!ありえない、これだけは確かなことである。

今までの私たちの世界・宇宙・人生及びあらゆる経験が全て投影だったということをよく考えてみてほしい。幻想を現実化させるマインドの力がどれだけ強力なものなのか、しっかり考えてみてほしい。自分が作り出した幻想によって自分が支配され奴隷のごとくになっている、自分の抱いた「考え」がまるで自分とは関係ない「外界」のように見えている、ありえないようなバカげたことに思われるが私たちは実際そのようにして生きてきたのだ。本当にとんでもないことなのである。ちょっとでも気づけば衝撃のあまり爆笑するか腰を抜かすしかないくらいのことなのである。何よりもまず、これは「あなた自身」のことなんですよ!

だから、投影されたあれこれから目をそらさず、それらをしっかり見て癒すのです。すなわち、正しい知覚認識に置き換えるのです。神の御心以外のものはどこにも存在しないし、したこともない、存在できない。あなたが恐れているあれこれは全てあなたのマインドの中にしかない。神の御心以外のものが、すなわち「あなた」というマインド以外のものが「在る」と信じている間だけ、それが現実のように見えるのだ。あなたは神さえも自分の幻想の中で作り変えてしまった。ひどい世界だ、運命だと言いながら神に救いを求めるとはいったいどういうことなのか?目の前の誰かを非難しながら神に救われたいと願うのはどういうことなのか?あなたは神を敵にしながら同時に救い主にすることはできないのだ。あらゆる人が神(の御心)であり聖霊であるならば、救い主はあらゆるところにいることになる。聖なる関係とは単にあなたと誰かの間にあるようなものではない。聖なる関係にあっては私もあなたもなくなってしまうからだ。また、聖なる関係そのものが一つの意志を持っていると「コース」は書いているが、私たちの本来の意志は神の御心と同じものであり、あなたの意志も私の意志も別々ではなく一つのものなのだから、要するに聖なる関係には「神の御心」そのものが宿っていると考えてよいと思う。だからこそ、聖なる関係は奇跡や癒しをもたらすことができるのである。


碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 185

第22章 その4

エゴに支配されたマインド、つまり理性が正しく働いていないマインドではいくら「ものすごく真剣に考えた」つもりでも、何もしてないのと同じなのである。これでは何もしないで寝てたほうがまだマシかもしれない。「考える」ための前提もやり方もまるで間違っているからだ。つまり、自分が間違っていることにさえ気づかない状態なのである。

理性が働けばまず自分の間違いがハッキリわかる。いちいち考えたりしなくても「見える」がごとくにわかってしまうので、その場でただちに正すことができる。この「見える」というのは一種のヴィジョンであって、別に肉眼で見えたりするわけではない。ヴィジョンは感覚だが身体の知覚器官による五感ではなく、いわゆる霊感などというのとも少し違う。日本語にすると「直観」がもっとも近いのではないかと思う。直観(直感ではない)は、理性なしには得られないものだからだ。そういう意味において、理性の働きはハッキリ目に見えるものだとも言える。

とにかく、理性には「明らかにする、わかりやすくする」という機能がある。理性そのものは別に救いではないのだが、救いをもたらすための大いなる助けになるものである。なぜならこれによって私たちは自らの間違いを見つけたり認めたり正したりすることができるからである。エゴにとっては「どうしようもない、救いのないもの」=罪、としか映らないものが理性ならば「単なる間違い」なのだから「修正できる」とわかる、そのように映るのだ。

罪・恐怖・怒り・攻撃・不安などといった間違い(あるいは幻想)は、この世において実にさまざまな形を取ってあらわれる。形というより事象といったほうがよりわかりやすいかもしれない。私たちは身体の知覚器官に、つまり目に映り耳に聞こえる事象を自覚はなくても「歪んだマインドで」判断して捉えてしまっているのである。一見まったく違うように見える事象も、理性の目から見れば「まったく同じ」だとわかる。どんな形を取ってあらわれていようが細部にとらわれずその構造だけを見れば「何だ、同じじゃないの」と、もう認めたくなくても嫌でもわかってしまうのだ。だからこそ、自分が知覚経験するあれこれが自分のマインドの投影だということもまたわかるのだ。一方で、エゴは間違いを間違いだと認めたくないので細部にこだわって正体あるいは構造を見ない。見たくないのである。ここで「コース」はかなり衝撃的なことを言っている。すなわち、視覚=身体の目は「見ないための」ものであるのだそうだ。なぜならそれは事象という「形」しか見えないからである。それをちょっとめくってみれば明らかにわかるような構造というか正体は見えないようになっている。身体という幻想の一部である視覚器官は幻想しか見えないようになっている、とまあ考えてみれば当然のことではある。目に見え耳に聞こえるものは、その時点で既に歪んだマインドによる投影になってしまっている。それを現実だと信じる私たちは身体に縛られているので、身体性=個人性を過剰に重視するようになる。

神から離れてバラバラになり、本当の現実を見ないふりして幻想の世界を作り出した私たちはそれをさも現実らしくするために身体も作り出した。ならば身体の知覚器官は当然その「現実化された幻想」を維持するためのもの、つまり「現実を見ないようにするためのもの」に他ならない。だって、そもそも自分が投影したものしか知覚認識できないんだもの!

すごく乱暴な喩えだが、いくら姿かたちを変えて別人のようになったからといって「神のひとり子」であるという本質的現実は変わらない。身体の目に見えるのは姿かたちだが、ヴィジョンは本質を見る。本質の前には姿かたちなど「ないも同然」なのである。ある人がどんなにおかしな言動をしていたって、その向こうに在る本質=神のひとり子であること、は常に変わらない。昨日と今日では言うことが違う人もいるが、そういうことをしている「身体」としての彼(女)は「ない」つまり幻想なのであって、私たちはそんなものを本気で相手にして振り回されてはならないのである。そうしていては相手の聖性が見えなくなってしまい、その結果自分自身の聖性をもまた遠ざける羽目になってしまうからであり、相手もあなたも救われなくなってしまうからだ。

相手を身体として見ない、つまり自分とは違う個人として見ないこと。そうすれば攻撃も罪も不可能になる。そして、自分の中にある(と思い込んでいる)罪を相手に投影しないこと。悪いのは相手だ、というふうにしておけば自分は罪から免れ救われたように思えるのだが、相手に自分の罪を押し付けたことをマインドのどこかではわかっているのでますます罪悪感が強化され、それをまた相手に投影する悪循環になってしまう。投影すべき相手がいなくなると困るので、ますますその人に惹きつけられ執着することになる。特別な関係、邪悪な関係とはそういうものだったことを思い出してほしい。

理性を持って相手にかかわるとは「アタマで」かかわる、という意味ではなく聖霊によって導かれるということだ。そこではお互いが正しく相手を知覚認識できる、つまり自分の間違いを正して相手を見ることができるため、お互いが一つのものとして癒される。

さて、「コース」テキストも3分の2を過ぎた。ともかくもここまで進んでこられたというのはすごいことだ。最初の頃がもっとも大変だからである。こうなるともう後戻りはできない。後戻りするほうが一見楽なようでいて実際にはより苦しいものになるからだ。進むべき方向は既に示されている。さっさと行くかグズグズするかの違いしかない。

これは絶対に無理、と思えた強固なブロックも結局は幻想なのだから、その幻想性にさえ気づけば紙一枚はがす程度のものだとわかる。例外はないのだ。

聖なる瞬間、聖なる関係によって本来の愛や平和を経験した者は「キリストの使者」になると「コース」は言っている。苦しみ悲しんでいる人々に癒しと奇跡をもたらすことになるわけだが、これも大げさに考える必要はない。毎日の生活の中で出会う全ての人を聖霊と見て、その都度聖なる関係を築いていればキリストのゆるしも救いも自然にもたらされるはずだからだ。次第にあなたの存在そのものが光になり、あなたの行くところ全てに光がもたらされ人々を照らすようになるだろう。まさに「世を照らす光」である。聖性という恩寵を神から与えられていることに気づけば、ぞんざいに扱わないよう大事にするはずだ。そうなって初めて私たちは自覚を持ってそれを相手に与えることができる、つまりゆるすことができる。誰かとの間に立ちはだかっているように見えるブロックも、紙一枚はがすように取り去ることができる。奇跡を必要としているところにそれをもたらすこともできる。そうして苦痛に喘ぐ人々に救いをもたらすことができるのだ。

そんな大変なこと!自分ひとり救うのだって大変なのに!と思うかもしれないが、聖性に目覚めるとは「全てが一つである」、ゆえに「あらゆるものに恩寵が与えられている」と知ることでもある。自他の区別がないとわかれば、自分にするのも他人にするのも同じくらいたやすいことになるではないか。言葉で伝えようなどと考えるからうまくいかないのだ。

さて、今更ながら幻想とはどうやって克服されるのだろうか?力によって無理やり、ではない。逆らったり闘ったりすることによってでもない。これらは幻想が「実在する」ことを前提にしているという点において間違っている。「ない」ものを相手に逆らったり闘ったりすることなどどうやってできるだろうか。それ以前に、闘う・逆らうという概念自体が既に幻想なのだ。

エゴたる自分を守るのは幻想或いは闇を守ることに他ならない。エゴ=幻想は真実ではない、間違いだからこそ常に「正当化」して防御する必要がある。やたらに自分を正当化する人は、実はどこかで自分が間違っているのだとわかっている。わかっていて認めたくないから正当化するのだ。これは日常わりとよく見かける光景である。しかし、間違いを認めたくなくて正当化するなど、これを延長すればそのまま狂気になるのは自明である。狂気に逃げ込むことによって闇を守り通そうとする人も少なからず存在する。それで何かいいことでもあるのか、と思ってしまうが、それが見えないからこそ狂気なのだ。

あるいはこういうふうに言うこともできる。自分を防御しようとするのは自分が弱いと思っているから、恐怖を抱いているからに違いない。なぜあなたは自分が弱いと思い、恐怖を抱くのだろう?それは自分のことを身体=個人だと思っているからだ。神から離れた小さくて「か弱きもの」、罪深いものだと思っているからだ。そして、これは「間違い」なのだった!あらゆる力の源泉であり全知全能の神と一つなのだったら、何を恐れることがあるだろう。どうして自分を弱いと思うことができるだろう。あらゆるものが「ひとつ」なのだったら、どこに敵がいるというのだろう。

そもそも幻想を守っている私たちは結局何を恐れているのだろう?幻想の反対は真実であり、真実とは神であり愛である。つまり私たちは神や愛を恐れ、それらに対して自分の身を守っていることになる!しかも、実際には私たちは神や愛と一つなのだ。ならば私たちは本来の自分に逆らい闘っていることになる。これが狂気でなくて何だろう。

愛と恐怖は同じくらい強力に思えることもあるが、恐怖など実際には「ない」のだから本来この両者は比べることさえできない。目覚めていないマインドの中においてのみ、それらは同等の力を持つように見えるのである。

身体は物質=固体のように見える。「コース」によればこれは事実でも何でもなく、単に長いことそのように信じ込まれてきた「思い込み」に過ぎない。ところが、本来の私たちにはいかなる幻想も粉砕するような偉大な力が備わっており、それに目覚めたときには身体の虚構性や幻想性にも気づくことになるのだ。

   
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